【春暉】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-03-21
2014年5月24日、12年間にわたって工事が続けられていた北陸新幹線延伸部分(長野−金沢)のレールが全てつながり、8月5日から「かがやき」「はくたか」に使用予定のW7系の車両を実際に使用した走行試験が始まった。
JR西日本の師笠運転士はその日新型車両の運転席に座り、黒部宇奈月温泉駅から白山総合車両所までの区間を試験走行していた。同僚の運転士が白山から黒部まで運転してきていた。
新幹線自体の運転歴はもう10年になる。事前にシミュレーターで充分練習しているし、既に運用開始されているJR東日本の同型車両E7系にも同乗させてもらっているので個人的にはあまり心配はしていなかったものの、新型車両の初運転はやはり緊張する。
視線を遠くに投げ線路に異常がないかどうか見ながら、実際にはほぼ自動で運転されている新幹線のシステムの状態に気を配る。しかしこの新幹線はトンネルが多い。今回の延伸部分で一番長いのは長野−上越妙高間にある飯山トンネル22,251mだが、他にも朝日トンネル7570m, 新親不知トンネル7035m, 高丘トンネル6944m, 松ノ木トンネル6787m, 倶利伽羅トンネル6632m といった長いトンネルがある。
速い速度で狭いトンネルに突入したり出たりするとその度に空気抵抗が凄まじく、結構な衝撃がある。どうしても緊張は高まる。
だいたい遠くの方に視線をやっているのだが、その影はほんとに目の前にいきなり現れた。
「あっ」
という声を出すより速く身体が動いていた。
物凄い音を立てて新幹線が緊急停止する。
「どうしました?」
同乗しているメーカーの技師が急ブレーキで倒れたものの起き上がって尋ねる。
「人をはねました。間に合いませんでした」
と師笠運転士は青くなって答えた。
「え〜〜!?」
列車はトンネル内で停車してしまったのだが、乗車していた職員や技師で降りて懐中電灯で照らして車両を点検する。しかしどこにも異常は見付からない。しかし人をはねたとあっては放置できないので、近隣の駅からも応援の職員を呼び、大きな照明なども使ってあたりを探す。列車を取り敢えずトンネル外まで動かした上で、車両を点検し、あらためてトンネル内をかなり捜索した。
新幹線が思わぬところで停まっているので、twitterでも情報が広まったようで、撮影マニアが多数集まって写真を撮っていた。
捜索はつごう2時間ほど行われたものの、車両にも線路にも異常は見付からなかった。
「お前、寝ぼけていたんじゃないのか? 昨夜は何時に寝た?」
と上司から問われる。
「昨夜は10時に寝て、今朝は6時に起きました」
「酒は?」
「昨日は飲んでいません」
「取り敢えず車両基地に戻ってから事故報告書を書け」
「はい」
師笠は「これは絶対新型新幹線の運転クルーから外される」と思いながらも、上司の命令に素直に返事をした。
「松射、お前が車両基地まで運転しろ」
と白山から黒部まで往路を運転した同僚に上司が指示する。
「分かりました」
と言って彼が運転席に座る。
それで現場に出ていた全員が新幹線に乗り込み、W7系は動き始めた。
時を戻して7月中旬。
「そういう訳で、今年の合唱コンクールの自由曲を何にするか決めたいと思います」
と青葉たちの高校の合唱軽音部の部長・真琴さんは言った。
「やはり今年流行っている歌を歌いたいよね」
「例のディズニー映画の主題歌とかは?」
「ディズニーは権利関係が面倒くさいんだよね」
「そうそう。許可の取り方はあるらしいんだけど、高岡C高校でも許可取ろうとしたものの、難しすぎてギブアップしたと言ってた」
「C高校は何歌うの?」
「結局、しまうららの『初恋の丘』。女声四部に編曲されたスコアが販売されていたから、それを使ったらしい」
「ああ。既に四部合唱に編曲された譜面が存在してないと難しいよね」
「編曲自体が結構大変だし、自分で編曲する場合は、それを作曲者に提示して許可も取らないといけないし」
「でも『初恋の丘』は30年近く前の歌だから」
「やはり今年の歌がいい」
「でもそれ編曲できるの?」
「きっと青葉がやってくれる」
青葉は思わず咳き込んだ。
「青葉なら、きっと作曲者の許可もコネで取ってくれるよね?」
「私、そんなにコネ無いよぉ」
「そうだ。遠上笑美子ちゃんが歌ってる『魔法のマーマレード』は?」
「あれ、可愛い曲だよね」
「青葉、あれ編曲できる?」
「編曲はできると思うけど、あれ誰の作品だったっけ?」
「あ、確認してみる」
とひとりが言ってスマホでチェックしてる。
「葵照子作詞・醍醐春海作曲だって」
「知らないなあ」
「あ、その曲、元々はKARIONが歌ってて、それを遠上笑美子ちゃんがカバーしたんだよ、確か」
とひとりが言い出す。
「KARIONなら、青葉、水沢歌月さんと知り合いだよね?」
「うん、まあ」
「だったらコネがつながらない?」
「うーん。ちょっと連絡してみようかな」
青葉は冬子(ケイ=水沢歌月)と連絡を取ろうとしたのだが、忙しいようで、なかなか連絡が付かなかった。7月17日(木)になって、やっと向こうから電話が入った。
「ごめん、ごめん。引越しやってたもんだからメールとかの返事溜めちゃって」
と冬子は青葉に謝った。
「そうか。お引越しなさったんでしたね。おめでとうございます」
「段ボールがとにかくどかーんと積み上げてあるよ。開くのに1年以上かかる気がする」
「たいへんですね」
「それで何だったんだっけ?」
「実はうちの合唱部でのコンクールの自由曲なんですけど」
「あ、私の曲を使いたいの?」
「すみません。実はそうではなくて」
と青葉は冷や汗である。
「実は遠上笑美子ちゃんの『魔法のマーマレード』という曲を使いたいという話になったのですが、これって元々KARIONが昨年のアルバム『三角錐』の中で歌った曲でしたよね?」
青葉も一応そこまでは調べたのである。
「そうそう。でも私の曲じゃないよ」
「ええ。それでその作曲者の醍醐春海さんに、連絡を取って編曲のご許可を頂けないかと思って、でも連絡先が全然分からなかったので、冬子さん連絡先の分かる方をご存じないかと思いまして」
「なーんだ。そういうこと」
「済みません。お忙しいのに、雑用で連絡して」
「醍醐春海との連絡なら、私を通さなくても直接彼女と話せば良い」
「すみません。その連絡先を・・・」
「その連絡先は、青葉が携帯から無料通話で掛けられる所だよ」
「は?」
「青葉ならそのヒントで分かるはず。じゃねー」
と言って電話は切れてしまった。
無料通話で掛けられる相手!?
うっそー。
青葉は考えてみた。無料で掛けられる相手って・・・・。
110番や119番じゃないよね?
まさか。警察の業務に作曲というのは無かったはず。
家族割を使用して、母(朋子)と義理の姉である桃香へは無料で掛けられる。それ以外に3ヶ所、無料通話先を登録できるので、恋人の彪志、もうひとりの義理の姉である千里(桃香は後見人の娘なので法的にも義理の姉に準じるが、千里は法的には赤の他人である)、そして仕事上の連絡の都合で佐竹慶子を登録している。
つまり5人いる。
ひとりずつ考えて行く。
うちのお母ちゃんが作曲とかやるなんて聞いたことない。佐竹慶子さんは音痴だ。作曲などできるわけがない。彪志も人にはピアノの弾ける女の子はいいなあとか言ってピアノを練習させた癖に実はへ音記号の部分ではドレミも分からないのが確認済み。
残るのは桃香と千里。
桃香は洋楽キチガイだ。マドンナ、マイケル・ジャクソンに始まり、クイーン、ビートルズ、レッド・ツェッペリンやKISSから、最近のレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ストラトヴァリウス、またテイラー・スウィフト、アヴリル・ラヴィーンに至るまで、洋楽は古いものから新しいものまで手広く聴いている。歌もうまくてカラオケ屋さんに行くとパンチの利いたパワフルな歌唱をする。
桃香が作曲している所を想像してみた。
青葉は吹き出した。
絶対あり得ない!!!
となると、答えは千里だ。
そもそもちー姉って(下手だけど)ヴァイオリンを弾くし、(雨宮先生が言うには)ピアノもうまいと言うし、(聴いたことはないけど)龍笛が物凄く上手いらしいし、ちー姉ってカラオケ行っても「私はいい」とか言って歌わないから全然知らなかったけど、こないだローズクォーツの『性転換ノススメ』のPVで見たら実は歌が結構上手い。たぶん桃姉よりうまい。
そういうのを考えてみたら、作曲くらいしても全然不思議ではない。
ただ、そんな話、今まで一度も聞いたことが無かっただけだ。
青葉は千里に電話を掛けてみた。電話は呼び出し音が1回も鳴らないままつながった。
「はい」
という千里の声。
こちらが電話するのをちー姉、予測していたな、と思う。
「おはようございます、醍醐春海さん。ちょっとお願いがあるんですか」
と青葉は言う。
「おはようございます、大宮万葉さん。何かしら?」
と千里は極めて平静な声で答えた。
青葉は、この時自分が千里の前で物凄く小さい存在のように思えた。私ってひょっとしたら、ちー姉の掌の上で飛び回っている孫悟空なんじゃなかろうかなどという気さえした。
「うちの合唱部で大会に出るのに葵照子さん作詞・醍醐春海さん作曲の『魔法のマーマレード』を歌いたいんだけど、こちらで女声四部に編曲して使わせてもらえないかと思って」
「それはOKだけど、今からわざわざ編曲しなくても、こちらで女声四部合唱、4分30秒に編曲したピアノ伴奏譜付きスコアがあるから、そちらにメールするね」
「合唱のスコアがあるの〜〜!?」
「昨夜ファミレスの夜間勤務の合間に編曲しておいた。はい。今送信したよ。書面の編曲承諾書は明日にも書いて投函しておくね」
「ちー姉、予定調和が凄すぎるよ!」
「青葉には負けるよ。じゃ、またね〜」
そういう訳で青葉が自分のパソコンでメールチェックをすると、譜面のPDFとCubaseのプロジェクトデータが送られて来ていたので、青葉は首を振ってそれをプリントし、翌日学校に持っていった。
8月2日(土)朝9時。青葉は友人の美由紀・日香理と一緒に朝、氷見線で高岡駅に出た。この時期開催されていた高岡七夕祭りの手伝いを頼まれたので、そちらに向かうことにしていたのである。
3人がおしゃべりしながら駅を出たら、そこに女子高生の集団がいる。その中に中学時代の同級生・奈々美が居たので、それに気付いた青葉と美由紀が手を振ると、奈々美も手を振ってから、何か思いついたように、そばにいた上級生っぽい人に話をしている。するとその人が頷いて、奈々美はこちらに駆け寄ってきた。
そしていきなり美由紀に抱きつき
「おお、我が友よ」
などと言う。
「どうしたの?どうしたの?」
「あんたたち暇?」
「暇ならこんな朝から市街地に出てくる訳ない」
「それでさ、今から私たち、千葉に行くんだけど一緒に来てくれない?」
「千葉?」
「うちのバスケット部がインターハイに出るのよ」
「おお、それはおめでとう!」
「だから一緒に来て」
「何のために!?」
「だから応援しに行くのよ」
美由紀などもそうだが、奈々美もわりと途中をすっ飛ばして話をする癖があるので意味が分からないことがある。
「なぜ、私たちが行かなければならない?」
「私たちこれから七夕の準備なのに」
「お昼は美味しいお弁当が待ってる」
「そこを同じ高岡の女子高生のよしみで」
「私、性転換して男子高校生になろうかな・・・」
「性転換手術って痛いらしいよ」
向こうから上級生らしき人が来て、説明してくれた。
高岡C高校の女子バスケット部が千葉県八千代市で行われるインターハイに出場するので、学校で有志によるチアチームを結成して、応援しに行くことになっていた。ところが行く予定だった子が風邪を引いて動けないということで、ついさきほど連絡があったらしい。
「チケットは12人分買っているので、どうしようと思っていた所なんですよ。キャンセルは可能みたいだけど」
「行けなくなった子の数は?」
と日香理が訊く。
「3人なんです。いつもの年は20人くらい参加するのに今年は12人しかいなくて、そもそも寂しいなと思っていたんですが、更に3人減るのは辛いなとも思っていたんですよ」
と、リーダーの3年生・酒橋さんが言う。
「いつ出発するんですか?」
「9:37の《はくたか7号》に乗るのですが」
青葉は時計を見た。
「10分後じゃないですか!」
「さっきその3人と連絡が取れたところで、他の生徒を呼び出す時間がもう無いんですよ」
「チアの衣装は予備も含めて14着持って来ているんですけどね」
「チアやるんですか?」
「うん。でも難しいフォーメーションは無いから」
「隣の人見ながら似たような動作してればいいよ」
その時、唐突に美由紀が発言する。
「千葉って、東京より向こうだっけ?」
「そうだけど」
と青葉はツッコミたい気持ちを抑えながら答える。
「じゃ、行こうよ。ついでに東京でクリスピー・クリーム・ドーナツを買ってこよう」
と美由紀が言う。
クリスピー・クリーム・ドーナツはまだ北陸には店舗が無いのである。
「まあ行ってもいいか。私は志望校の東京外大を見学してこよう」
と日香理。
「結局、私も行くことになるのか」
と青葉は言った。
駅で友人の世梨奈に連絡して何とか3人頭数を揃えて、代わりに七夕の手伝いに行ってもらうことにし、青葉たちは奈々美たちと一緒に《はくたか7号》に乗り込んだ。
「私たち、運賃は払わなくていいんですか?」
「往復の旅費は生徒会持ちなのよ。宿泊費が個人負担なんだけど」
と酒橋さん。
「まあ、それはいいですよ」
と青葉が言うと、美由紀が唐突に青葉の手を握り
「お友達」
と言う。青葉は笑って
「美由紀と日香理の分は私が出すよ」
と言った。
「もっとも今日で負けたらそのまま帰ることになるけど」
と奈々美。
「日帰り!?」
「試合は何時ですか?」
「17時からなんです」
「相手は強い所?」
「うちと似たような力の所みたいなんですけどね」
「17時からの試合が終わってから高岡に帰られるんですか?」
「東京駅を20:12の《とき》(上越新幹線)に乗ると、越後湯沢でほくほく線の特急《はくたか》に乗り継いで23:38に高岡に帰着できるんです」
「会場から東京までは?」
「40-50分くらいみたいなんですよ」
「ぎりぎり間に合うわけか・・・」
「やはり今日は勝って欲しいな」
「だけど奈々美、中学時代はチアとかしてなかったのに」
と美由紀が言うが
「いや、私はバスケット部だから」
「あ、そうなんだ」
「インターハイの12人の選手枠に入れなかったんだよ」
「ああ、厳しいよね」
「今回のメンバーも半分はバスケ部員」
「奈々美ちゃんは県大会までは選手で、特に準決勝では決勝点を入れたんですけどね。県大会までは15人なのを本大会では12人に絞らないといけないので、顧問の先生もかなり悩んだみたいですよ」
と酒橋さんが言う。酒橋さんは元々チアリーダー部らしい。但しチア部は現在部員が3人しか居ないのだとか。
「奈々美、高校では卓球部じゃなかったんだ?」
「うん。うちの高校は卓球部無かったからバスケに入った」
「脈絡を感じんな」
「いや、奈々美ちゃんは才能あるって、顧問の先生言ってましたよ。1年生で入った時は、ドリブルもまともにできなかったのが、凄く成長したって」
と酒橋さん。
「でも奈々美って160cm無いし、バスケでは不利でしょ?」
「そうそう170cm代の選手に囲まれると、もう何もできない感じ。竹馬履いてやる訳にもいかんし」
「それは違反のような気がする」
「いやまともに走れん気がする」
「今回はインターハイ枠落選、悔しかったけど、ウィンターカップに向けてまた頑張るよ」
と奈々美。
「ウィンターカップって?」
と美由紀が質問する。
「インターハイとウィンターカップというのが、高校バスケットの2大大会なんですよ」
「へー」
一行は越後湯沢で上越新幹線に乗り換え、上野から地下鉄で茅場町に出て、そこから東西線・東葉高速線の直通列車で八千代中央駅まで行き、そこから10分ちょっと歩いて、八千代市市民体育館に入った。到着したのは14:50くらいであった。
体育館の外でC高校のメンバーがウォーミングアップをしていた。すると
「良い所に来た」
などと言われて、奈々美を含むバスケ部の子が数人練習に参加してパスの練習やマッチングの練習などをしていた。青葉たちはチアの衣装に着替えて軽く動きの練習をした。
17時から試合は始まったが、最初接戦が続いた。取っては取られでシーソーゲームが続く。青葉たちも応援に熱が入り、声をからして声援を続けた。
しかし第3ピリオドに相手チームが15番の背番号を付けた1年生を出してくると、その子がひとりであっという間に8連続得点(16点)して大きく点差を広げる活躍を見せる。その後は、その点差が縮まらないまま試合終了となった。
「ああ・・・」
「負けちゃった」
「残念」
「みんなどうする?」
「私帰る」
「私は泊まれるものなら泊まりたい」
結局チア12名の内、奈々美や青葉たちを含む8人が一泊して帰ることになり、残りの4人は今日バスケ部の子たちと一緒に帰るということになった。
それで青葉・美由紀・日香理・奈々美の4人は東京に出ようという話になった。八千代市周辺の宿泊施設はインターハイの選手でいっぱいだし、この付近に泊まっても特に用事は無い。それで駅まで戻ろうということになるのだが、美由紀が
「反対側の駅に行ってみようよ」
などというので、八千代中央駅ではなく、反対側の村上駅に行くことにした。市民体育館はこの2つの駅の中間くらいにあるのである。
それで4人で歩いて新川(印旛放水路)を越えて国道16号まで来た時のことであった。
「青葉!」
と言って手を振る影がある。
「ちー姉!」
と青葉が声を挙げる。
「あ、青葉のお姉さんだ」
と美由紀も声を挙げた。
「どちらまで行くの?」
と千里。
「東京に出てどこかホテルに泊まろうと思ってたんだけど」
と青葉。
「取り敢えず晩御飯でも食べない?」
と千里が言うと
「おごってくれるなら大歓迎です」
と美由紀が言った。
千里はインプレッサ・スポーツワゴンで来ていたので、4人を乗せて千葉市方面へ、そのまま国道16号を南下した。
「へー。バスケットの応援に来てたの? 青葉たちの高校、バスケ強かったんだっけ?」
「いや。うちは地区大会で1回戦で負けた。でも奈々美たちの高校がインターハイに出たんだよ。私たちはその応援に駆り出されて」
「奈々美ちゃんってどこだったっけ?」
「高岡C高校です」
「ああ。桃香の出た高校か。あそこは昔から強いね。うちもC高校とインターハイで対戦したよ」
「ちー姉の高校時代?」
「そうそう」
青葉は前々からどうももやもやとしていたものがあったので千里に尋ねてみた。
「ちー姉って、その時選手だったんだっけ?」
「そうだけど」
「女子だよね?」
と青葉。
「高岡C高校も強いのは女子だけでしょ?」
と千里。
「そうなんですよ。男子はまだ県大会に進出したことないんです」
と奈々美が言う。
その時、日香理だけが「あれ?」という顔をした。美由紀はその問題に気付いていないようである。
「お姉さんも、もしかしてバスケの応援ですか?」
と奈々美が尋ねる。
「そうそう。うちの高校が来てたから。会場は松陰高校体育館」
その最寄り駅が村上駅なのである。
「勝ちました?」
「うん。勝ったよ。奈々美ちゃんたちは?」
「途中まではいい勝負してたんですけどね。後半投入された相手の1年生が凄くて。負けちゃいました」
「それは残念だったね」
回転寿司屋さんがあるのを見て、美由紀が
「あ、あそこいいなあ」
などというので、そこの駐車場に駐めて中に入る。5人でテーブルに座ったが、コンベヤの隣には、美由紀と奈々美が陣取った。美由紀の隣が青葉、奈々美の隣が日香理で、千里は通路側の椅子に座る。
「欲しいの声掛けてね。どんどん取るから」
と美由紀が言っている。
「お姉さん、どのくらいまでなら食べていいですか?」
と日香理が訊くと
「お腹いっぱい食べて良いよ」
などと千里が言うので
「よし。食べまくろう!」
などと美由紀は言っている。
「奈々美ちゃん、バスケットやってるのなら、これ見せてあげる」
と言って千里はいつも持ち歩いているバッグの中から賞状のようなものを取り出して渡した。
「え?これすごーい」
「何何?」
「嘘。インターハイのスリーポイント女王?」
「こういうのもある」
と言って、メダルも渡す。
「わぁ、インターハイの銅メダル!」
「すごーい。キラキラ輝いてる」
「インターハイで3位になったんですか?」
「うん」
「それでお姉さん、スリーポイントが上手かったんですか?」
「まあ、それしか能が無いというかね。インターハイだと180cm越える外人選手とか出てくるから、私の身長では中では勝てないんだよ。だから遠距離射撃専門。それで頑張っていたら、こんな賞状もらっちゃったんだよ」
「いや。インターハイでスリーポイント女王になるってのは凄まじいです」
と奈々美が言う。
「奈々美ちゃんの身長でも、中では辛いでしょ」
「そうなんですよ! 県大会でも170cm代の選手がずらーっと並んでいるから。でも私ドリブル下手だから、ポイントガードにはなれないし」
「そういう子が生きる道がシューティングガードなんだよ」
「そうかも」
「奈々美ちゃんもスリーポイント頑張ってごらんよ。きっと伸びると思うよ」
「ほんとに頑張ってみようかな。私、フォワードとしてはどうしてもレギュラー取るのは難しいなと思っていたんですよ」
「でもどうして今日はこういう賞状を持ってきておられたんですか?」
「うん。顧問の先生から、奮起させるのに、私が取った賞状とかメダルとか見せてあげてと言われたからね」
「へー。それで」
「私もこんなの見たら、頑張ってみようかという気になります!」
と奈々美は言っていた。
しかし青葉は正直呆気にとられていた。
千里が高校時代にバスケットをしていたというのは聞いていた。そのバスケットで特待生になったので高校は授業料が要らなかったのだとも言っていた。そしてそのために頭を丸刈りにしていたという話だったのに!?
ちー姉って女子選手だった訳!?
でもスポーツの大会で性別の扱いはシビアだ。青葉は中学3年の時、当時卓球部だった奈々美に誘われて、卓球部の女子の大会に出た。その時、去勢から1年経っていることを医師の診断書で確認してもらって出場の許可が出た。バスケのほうの基準がどうなっているか分からないが、少なくとも去勢は済んでいないと女子の大会に出る許可が出るとは思えない。
ということは、ちー姉って当時既に去勢済みだった訳??
でもでも、ちー姉って去勢手術を受けたのは2011年の7月のはずで、その直前、4月から6月くらいに掛けて、精子の採取をしたはずなのに?
青葉は千里が「醍醐春海」としてこれまで多数の曲をKARIONとか同じ事務所の鈴木聖子などに提供していたことをつい最近知った。ちー姉って、奥が知れないという気がし始めていた。
メニューを見ていた奈々美が
「あ、ここティラミスがある」
と言い出す。
どうもお寿司を結構食べてデザートに進むようである。奈々美の前には既に皿がどう見ても20個くらい積み上げられている。
「パネルで注文すればいいんじゃない?」
と日香理が言うので、タッチパネルを使ってオーダーを入れる。
「あ、私はモンブランにしよう」
と美由紀が言うので、それもオーダーを入れる。
それでしばらくしたら
「お待たせしました」
と言って女性スタッフがティラミスとモンブランの皿を持ってテーブルまで来た。ここは別途注文を入れたものは、そのテーブルまでスタッフが持って来てくれる仕組みのようだ。
「わぁ、美味しそう!」
と美由紀と奈々美が言って受け取るが、千里がそのスタッフさんに手を振っている。
「おお、千里〜、久しぶり〜」
と彼女が言う。
「お友達ですか?」
と日香理が言う。
「うん。以前一緒のバスケットチームに居たのよ」
「高校時代の?」
「ううん。大学生の時」
「あれ?同じ大学だったんですか?」
「私も千里も大学のバスケ部には入ってなくて、クラブチームだったんだけどね」
それで千里が
「千葉ローキューツというクラブ・バスケットチームの元キャプテンで石矢浩子さん」
と紹介する。
「いや、名前だけのキャプテンで申し訳無い」
などと石矢さんは言っている。
「こちらはうちの妹の青葉、それから妹の友だちの奈々美ちゃん・美由紀ちゃん・日香理ちゃん」
と青葉たちも紹介する。
「わあ、北海道から出てきたの?」
「ううん。彼女たちは富山県。北海道とは別系統なのよね」
「へー。なんか複雑そうね」
などと言っていたが、他のテーブルで精算を求めるピンポーンという音が鳴ると
「はーい。参ります」
と言って、
「じゃ、また後で」
と千里に告げると、そちらに飛んで行った。
「ちー姉って、バスケは高校時代だけじゃなかったんだ?」
と青葉は尋ねる。
「私もねぇ、大学に入ったらバスケはしないつもりで。だから大学のバスケチームにも入らなかったのよ。でも何もしてないと身体がなまるじゃん。それで時間の空いた時に体育館でひとりで少し練習してたら、浩子ちゃんに会って、誘われて彼女たちのクラブに参加したのよ」
と千里は説明する。
「女子のチームだよね?」
「彼女、男に見える?」
「女性に見えたけど」
青葉はもっと千里を追及したい気分だったものの、みんなの居る前ではさすがにまずいかと考え、その日はそれ以上はその件は話題にしなかった。
その日は結局4人は千里と桃香のアパートになだれ込んで、全員ゴロ寝した。桃香が「可愛い子がたくさん」などと言うのを「高校生に手を出したら淫行で捕まるよ」と千里が釘を刺していた。
「青葉、彼氏の所に泊まらなくてもいいの?」
「自粛しておく」
「彼、さみしがってるよ」
「大丈夫だよ。こないだテンガ送っておいたし」
「おお!」
「あれちょっと興味ある。一度使ってみたい」
「あんた、どうやって使うのよ?」
「誰かちんちん貸して」
「ここに居る子は全員持ってないな」
「唯一持っていた子も取っちゃったし」
「だけど本当に持ってたのかなあ」
「なんで?」
「だって誰も、付いてるの見てないよね」
「ふむふむ」
「それで今はもう存在しない。付いていたことを誰も証明できない」
「なるほど。実は最初から無かったのを、あったことにしておいて、性転換手術して取っちゃったよと主張しているだけなのかも知れない」
「今更、それはもう分からないよね」
そんな奈々美たちの会話を聞いていて、それってちー姉にも言えるぞ、と青葉は心の隅で考えていた。
「俺家庭不和起こしたくないから、風俗は・・・」
と渋るのを、古株の先輩に押し切られた。
師笠はその個室に入り椅子に腰掛けると、ふっと息をつく。
あのトラブルの直後、ローカル線の運転区に転属を命じられた。今は日々、並走する国道の自動車にも追い抜かれていくような鈍行を運転している。昔なら『日勤』をやらされていた所だ。自分は経験無いものの、同期の奴がやらされてげっそりして帰ってきたのを見ている。
しかしこの運転区も居心地は悪くない。みんな出世の可能性がない分、のんびりしている感じで日々の勤務をしっかりこなしている。まあ多少規律がルーズな面はあるけどね!
そんなことを考えていたら、37-38歳かなと思う「お姉ちゃん」が入ってくる。さてここのサービス内容を聞かされてないけど、何をするんだろう。
「何かお好みのがあります?」
などと訊かれる。ちょっとハスキーな声だ。
「いえ。私、ここ初めてなのでさっぱり分からなくて」
と師笠は答える。
「じゃ初心者向けでセーラー服・コスプレコースとかどうですか?」
セーラー服のコスプレ?この「お姉ちゃん」がセーラー服を着るのか?ちょっとさすがに立つ自信がないぞとは思ったものの、まあそれでもいいかと思い
「じゃ、それでお願いします」
と言った。
「取り敢えず裸になりましょうね」
と言われ、服のボタンに彼女が手を掛けた。
20分後、師笠は目の前に立っているセーラー服の美少女をぼーっとして見つめていた。嘘。可愛いじゃん! 信じられない!!
目の前にあるのは大きな鏡である。そこにセーラー服の少女が映っているというのは、つまり、そういうことである。
師笠は担当の女性にまず裸にされてベッドに寝かされ、足の毛とヒゲを全部剃られた。それから女物のショーツを穿かされるが、そんなもの穿かされると立ってしまう。すると女性はアイスパックをあれに当てて強制的に鎮めてしまった!
「うちは射精行為は禁止なんです。ごめんなさいね」
と言っていた。
しかし射精できなかったことで、師笠の興奮はよけい高まった気がした。
ショーツの上にガードルを穿かせて立ちにくくする。ブラジャーを付けられ、中にシリコン製のパッドを入れられる。触った感触がまるで本物のおっぱいのようである。
それからフェミニンなキャミソールを着せられ、その上に白いブラウス、そしてセーラー服の上下を着て、リボンを結んでもらった。頭にはショートサイズのウィッグをかぶせられる。それから顔にメイクをされたが、女学生風ということでナチュラルメイクである。
「濃厚なメイクをすると学生らしくないので」
と担当の女性は言った。
そしてそこまでできたところで鏡の前に立たされたのであった。
師笠はずっとずっと心の奥に眠っていた何かが目覚めるような感覚を覚えていた。
「こんなに可愛くなるとは思わなかった」
と師笠は思わず感想を言った。
「あなた見た瞬間に、この人素質があるって思ったわよ」
と女性は言う。
「俺、女装とかしたこと無かったから」
「今、あなた女の子なんだから、《わたし》って言いましょうよ」
「えっと」
「ほら、頑張って」
「わたし、こういうの分からなくて」
と言ってから師笠はかっと真っ赤になった。
「可愛い! でもちゃんと《わたし》って言えたね」
「ハマっちゃったらどうしよう?」
「あなたハマりそう。私と似たタイプという気がするもん。私も最初は友だちに連れられて東京のエリザベス会館ってところに行ってね。最初は女の子の服を着る度に立っちゃったわ。そして20年後、こうなっちゃったのよ。今ではもう立つようなものは存在しないけどね」
へ?
「あのぉ・・・まさか、あなた・・・」
「え? 私、元は男だったのよ」
「うっそー!!!!」
「5年前に手術して戸籍も直したから、今はもう女だけどね」
「ひぇー」
と言ってから師笠はおそるおそるきいた。
「手術って?」
「性転換手術よ」
「それって、どうやるんですか?」
「それは男にはあって女に無いものを切り取って、女にはあって男にはないものを作るのよ」
「じゃ、もうちんちん無いんですか?」
「うん。代わりにちゃんとヴァギナ作ってもらったよ。うちは風俗じゃないから、そこを見せることはできないけどね」
えー?性転換手術って、ヴァギナ作っちゃうの?チンコ切るだけかと思ったよ。
「あのぉ、割れ目とかは?」
「もちろん、あるわよ。ヴァギナあるのに割れ目無かったら入れられないじゃん」
「割れ目ちゃんがあるなら、見た目女と同じじゃないですか」
「だから、そういうふうにするのが性転換手術だから」
「・・・じゃ、男とセックスできるんですか?」
「もちろん」
知らなかったぁ!!
「あなたもそのうち手術して女になりたくなったりしてね」
うっ・・・・。それって自分が怖い気がする。
ティータイムということで、彼女(彼?)に連れられてダイニングに行く。
見るからにゲッという感じのおばちゃんになってる同僚を見て、気分が悪くなりそうだったが、かろうじて我慢した。しかし彼が師笠を見て言った。
「師笠? お前すげー可愛くなるじゃん、ね、ね、俺の愛人にならない?」
愛人〜〜〜!?
「可愛い服買ってやるし、お手当もあげるからさ」
可愛い服!?お手当!??
師笠は目の前がクラクラとした。
「取り敢えず今晩、ちょっとこれから遊ばない? ね、外出してもいいですよね?」
「外出は4時間以内でお願いします」
と係の人が言う。
「ね、ちょっと外出して、食事でもしてからホテル行かない?」
ちょっと待ってくれ〜〜〜!!
2014年の8月は、ローズ+リリーは月末に大宮アリーナでローズ+リリー始まって以来の大人数のライブを1回だけする以外はおやすみで、新しいアルバムの制作に専念しているという話であったが、一方KARIONは全国アリーナツアーを敢行していた。
8月20日(水)。そのKARIONの金沢公演が行われたので、青葉は友人数人と一緒に関係者枠でチケットを確保してもらい、金沢スポーツセンターまで見に行った。市街地から見ると一応周辺部にはなるのだが、最近の金沢市はかつての中心地である武蔵・香林坊地区より、周辺部の方が活性化している。北陸は車社会なので、車でアクセスしやすい周辺部の方が人が集まりやすいというのもあるのだが(それで中心部でも大駐車場を持っている金沢駅周辺は再活性化している)、青葉たちは(建前上)車が使えないので、高岡−金沢間の高速バスで金沢駅まで行き、そこから主催者側が手配してくれているシャトルバスで会場入りした。
「来年3月に北陸新幹線が金沢まで開業するけど、高岡市民としてはメリットが少ないよね」
「大阪に出るのに、いちいち金沢で乗り換えないといけないしね」
北陸新幹線金沢開業でサンダーバード(大阪行き)・しらさぎ(名古屋行き)がこれまで富山まで運行される便もあったのが全て金沢発着になってしまうのである。一方東京方面に出る場合、速達タイプの《かがやき》は新高岡に停車しないので、いったん富山で乗り換える必要がある。
「青葉は東京や岩手に行くのにけっこう便利になるんじゃない?」
「そうだねぇ。富山で乗り換えるのが面倒なんだけど。それでも今までなら朝1番の《はくたか》に乗っても一ノ関に着くのが13時だったんたけど、新しいダイヤならたぶん10時くらいに着くんじゃないかと思う」
「かなり速くなるね」
「それなら前夜から夜行バスで行かなくても良いんじゃない?」
「うん。もしかしたらそうなるかも。料金は高いけどね」
「ああ、それはあるな」
開場前に玄関近くに居たら、ばったりとKARIONのバックバンド、トラベリング・ベルズのSHINさんが通りかかる。
「おっひさー。今日出演するんだっけ?」
などと訊かれる。
「こんにちは。今日は純粋に観客です」
「へー。あ、でも外は暑いよ。ちょっと来ない?」
などと言われて、付き添い含めて全員会場の裏口から中に入れてもらった。楽屋に行くと、トラベリング・ベルズのメンバーの他、千里を含むゴールデン・シックスの6人、櫛紀香、ピアニストの古城(美野里)さん、オルガニスト&ヴァイオリニストの川原(夢美)さん、フルーティストの秋乃(風花)さんなどがいる。
KARIONの4人は別室のようである。
「どなたかしら?」
と訊いた30代の女性が居る。
「土居さん、こちら作曲家の大宮万葉、別名リーフ、別名鈴蘭杏梨絵斗さん。槇原愛の曲を何曲か書いていますし、ローズクォーツのヒット曲『聖少女』はケイちゃんとこの子が共同で書いた曲なんですよ。こちら彼女の地元なんです」
とSHINが説明する。
「へー!『聖少女』なら、古くから活動してるんですね。金沢在住ですか?」
「いえ、高岡なんですけどね」
「あ、この近くの町?」
「ええ、そうです」
「大宮さん、こちらはKARIONの新しい担当の土居さん」
とSHINは彼女を紹介した。
青葉が『作曲家・大宮万葉』の名刺を出すと、向こうも慌てて『★★レコード制作部・シニアA&R・土居有華』という名刺を出した。ちなみにこの大宮万葉の名刺はマリが勝手に作って、6月に青葉が東京に行った時、どーんと100枚セットで渡されたものである。
他に、地元のイベンター、スピカ北陸の柳瀬さん、後援に名を連ねているJR西日本の金沢支店・北陸新幹線開業準備室の魚重さんという人と、青葉は名刺交換した。
「名刺交換とか、青葉なんか偉い先生みたい」
と美由紀が言うが、
「いや、青葉は充分偉い先生」
と日香理がコメントした。
「ちー姉、フルートはどんなの使ってるんだっけ?」
と青葉は尋ねる。
「私のはこれ。ヤマハのYFL-221 白銅製。カバードキー、オフセットでEメカ無し、という初心者用。青葉もフルート持って来たんでしょ? 見せてよ」
「うん、持ってこいと言われたから持って来た」
と言って青葉は昨年マリからもらったフルートを見せる。
「ヤマハのYFL-261。白銅製銀メッキ。リングキー、オフセットでEメカ無し」
「リングキーは指の押さえ方で微少な音程調整ができるからね。ポルタメント練習した?」
「ごめーん。そもそもフルート自体を練習してない」
と青葉。
「だけど龍笛が吹けるんだから、フルートは吹くの自体は問題ないでしょ?」
「それなんだけど、私考えてみたら、ちー姉が龍笛吹く所って見たことないんだよね。一度聴かせてくれない?」
と青葉が言ったが、千里は
「やだ」
と言う。
「なんで〜?」
「だって、青葉みたいな超名人の前で、私の龍笛なんて聴かせられないよ」
「ちー姉、私の龍笛って聴いたことないよね?」
「録音でなら、8年くらい前から聴いていた。毎年進化しているから凄いと思っている。とてもじゃないけど、私の手が届かない所に行っちゃってるもん」
「嘘。私の演奏の録音なんて無いはずなのに」
「ここに8年前からの録音がmp3で入っているよ」
と言って千里はUSBメモリーを見せる。
「うっそー!?」
「だけど青葉ちゃん、千里ちゃん、私は純粋に横笛吹きとして、ふたりの演奏を聴きたい」
と秋乃さんが言った。
彼女は冬子(ケイ)の高校時代の友人で音楽大学の管楽器科(フルート専攻)を出ている。
「じゃ、こうしたら?」
とゴールデンシックスのリノンが言った。彼女は千里と高校時代の同級生らしい。
「千里が露払いで吹いて、青葉ちゃんが真打ちで吹くというのは?」
「うーん。まあ、梨乃がそういうのなら」
と言って、千里は荷物の中から龍笛を取り出す。
「ちょっと見せて」
と言って青葉がその龍笛を見せてもらう。
「凄いね。煤竹(すすたけ)の龍笛だ」
「普通に40-50万円ほどで売っている品だよ。もっとも私はその代金を払ってないんだけどね」
と千里は言った。
千里が吹き始める。
その音が鳴り始めた瞬間、部屋の中に居た人たちの会話が停まった。みんなが千里を注目する。青葉も驚くような顔でその千里の演奏する姿を見た。しかし千里はそのみんなの視線をそのまま受け止めて緊張もせず、ごく普通の表情で笛を吹いている。
ドアが開いて、KARIONの4人が冬子を先頭に入って来た。
この音を耳にして、飛んできたのだろう。
演奏は7−8分続いた。幾人かが何かを確かめるかのように天井を見上げていた。途中で落雷があるが、その音に驚いた人の方が少なかった。
演奏が終わると、物凄い拍手である。千里は微笑んで礼をした。
「龍が来てた」
と青葉が言った。
「ほんとに来てたんだ? 何かの気配は感じたんだけど」
と和泉が言う。
「ちー姉、それ意識して吹いてたよね?」
と青葉が言うものの
「さあ、そういうの私、全然分からないから」
と千里は答える。
「でも、その龍笛いつから吹いているの?」
「中学に入った時に神社の巫女さんのバイト始めたから、それで習ったんだよ。だから、11年くらいかな」
「私より長いじゃん!」
と青葉が言う。
「でも私の演奏は青葉の足下にも及ばないよ」
「こんな凄い演奏をしてから、そんなプレッシャー掛けないでよ」
と青葉は言うと、自分の龍笛を取り出した。
「龍笛自体、私のは花梨製の安物だし」
などと青葉は言っている。
この花梨製の龍笛は曾祖母の唯一の形見の品である。自宅に置いておいたので、津波で失われたと思っていたのだが、実は母のボーイフレンドの遺体が、沖合に沈んでいた車ごと引き上げられて発見された時、その車内にあったのである。おそらくは母が持ち出してくれたものなのだろう。何ヶ月も海中に沈んでいたにしてはあまり痛んでおらず、和楽器の専門家にオーバーホールしてもらったら前よりも深みの増した音で鳴るようになった。
しかし青葉がその龍笛を吹き始めると、その場の空間が変質してしまったのを多くの人が感じた。ここにいる人の多くが音楽家である。音楽家独特の感覚で、この演奏の超絶な響きを感じ取っていた。
ただひとり、千里だけが優しい微笑みで青葉を見ていた。それはまるで母のような優しさだと青葉は思った。もっとも青葉は純粋な「母の優しさ」を知らない。青葉は実の母から愛を感じた経験を持っていない。
「わっ」
と声を挙げたのがJR西日本の魚重さんである。何か荷物に入れていたものが壊れたようで、パリンという音がした。
更にプツンという音もあった。TAKAOさんが持っていたエレキギターの弦が切れてしまったようで慌てている。更にガチャン!という激しい音がして、部屋の窓ガラスが2枚も割れてしまった。しかし誰も動けない。
やがて演奏が終了する。
しかし誰も拍手ができなかった。みなむしろ呆然としていた。
ずっと笑顔で見守っていた千里が拍手をすると、それでやっとみんな我を取り戻したように拍手をした。
「ごめーん。できるだけ控えめに吹いたんだけど、あれこれ物を壊しちゃった」
「ガラス代は私が弁償するからいいよ」
と冬子が言った。
「TAKAOさん、替えの弦ありますか?」
「持ってない」
「私が買って来ます。品番とか教えてください」
とKARIONのマネージャーの花恋が言うので、TAKAOさんが伝えて、花恋はイベンターの人に楽器店の場所を聞き、飛び出して行った。
「魚重さん、何か壊れたようですが」
「いや、実はこれなんですが」
と言って、魚重さんが見せてくれたのは、素焼きの皿である。
「何か祭礼に使うものですか?」
「私もよく分からないのですよ。今朝、高岡駅に新幹線反対派の方が見えられましてね。ちょうどそちらに行っていた私が対応したのですが、神様か何かなさっている方のようでしたが、この皿が新幹線を走らせれば大きな不幸が訪れると言っていると言って、渡されたのを、時間が無かったのでそのまま持って来たんですが。割れちゃったのはやばかったかな」
と彼は言ったが、青葉はその皿を見て
「問題ありませんよ。何か変なものを持っておられるなとは思っていました。でもこの皿は今はきれいになっています。何かが封じ込まれていたようですが、中にあったものはもう消えてしまっていますね」
と言う。
「封じられていたものが消えたということは逃げ出したんですか?」
「いえ。消滅しています」
と言って青葉は千里を見るが、千里は知らん顔だ。青葉はこれって多分ちー姉の仕業だなという気がした。この皿が割れたのは自分の龍笛の作用だ。しかしそこから飛び出してきたものが、次の瞬間、何かに「捕食」されたのを青葉は意識の端でとらえていた。ひょっとしてちー姉って、眷属遣い? でも眷属を連れている人は、その眷属をたとえ隠していても、青葉にはその波動が読み取れる。でもちー姉には全くその手の波動が見当たらない。青葉はまた千里に対する疑惑を大きくした。
「そうだ、千里ちゃん。青葉ちゃんの8年前からの龍笛演奏っての、私も聴きたい。そのUSBメモリー、コピーもらえない?」
と秋乃さんが言う。
「青葉の8年前からの龍笛?」
と冬子が驚いたように言う。
「私にもちょうだい」
と冬子。
「青葉が良ければ」
と千里。
「私はいいけど。というか、私にもちょうだいよ」
と青葉は笑いながら言った。
冬子がいつもUSBメモリーを何個も持ち歩いているので、千里は自分のパソコンを経由して、希望者分だけデータを冬子のUSBメモリーにコピーして配った。
青葉もそれを1個もらうが、(被害を出さないように)イヤホンでその中身を聴いて、青葉は絶句した。
「ちー姉、もしかして天津子ちゃんと知り合いなの?」
と青葉。
「天津子ちゃんとは、私、旭川での女子雅楽合奏団の同輩だけど」
と千里。
「知らなかった! それで、こんなの持ってたのか!」
「女性だけの雅楽合奏団ですか?」
と小風が訊く。
「そうそう。雅楽って男の世界でしょ。女が居たら穢れるみたいな言い方をする人もあるし。実際、昔は女性は人前で演奏するどころか、習うことも禁じられていたらしい。だから敢えて、女性神職や巫女さんだけで結成したのよ。私は大学進学で関東に出てきたから脱退したけど、向こうではまだ続いているみたい」
と千里は説明する。
「へ〜。女性だけのね〜」と青葉はまた思う。
別途聴いていた冬子が言う。
「ほんとに青葉の演奏は8年前から進化してるね。8年前の時点でも物凄いんだけど」
「まだその頃は、初心者だったんだけど」
「いや、その時点で既に名人の域を超越している」
「どうもね。私、青葉、ケイ。この3人は知り合ったのは2011年の震災の直後なんだけど、その数年前から、いろいろと複雑に絡み合っていたみたいなのよね」
と千里が言う。
「何だか、神様でさえ分からないような、大きな運命の歯車の中に組み込まれている気がするよ」
と冬子も言った。
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【春暉】(1)