【春風】(3)

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「そうだ! 青葉、ヴァイオリンも覚えない?」
と政子は唐突に言った。
 
「へ?」
「またその内、ゲリラライブとかやる時にさ、青葉もヴァイオリンが弾けたら楽器のやりくりが楽になる」と政子。
「じゃ、政子もフルート再度覚える?」と冬子。
「パス」
 
「でも、この子あげるよ」と政子。
 
と言って政子はヴァイオリンケースを持って来た。
 
「大学1年頃に主に弾いてたヴァイオリンなんだよね。でも私はこの子の能力限界を突破しちゃってるから、今後弾いてあげる機会があまり無さそうで。でも楽器は弾いてあげないと可哀想でしょ。ヴァイオリンやったことのない人なら、練習用に活用できると思うから」
 
「ちょっと失礼します」
と言って青葉はケースを開けるとヴァイオリンを取りだした。
 
「きれいなヴァイオリンですね。一瞬ハンドメイドかと思ったけど、このニスの塗り方が人間の手では無理。機械加工ですか?」
 
「そそ。良く分かるね。その楽器は人間業ではできないようなことを機械にやらせて作った、ある意味究極の量産品」
「これ高そうです」
「値段は気にしない」
 
冬子が調弦してくれたので、それを手に取ると肩と顎ではさみ、一緒に入っている弓を当ててみる。
 
いきなり変な音が出て「わっ」と声を上げる。
 
「弓の当て方はこんな感じ。そして弓はこの角度で動かす」
と冬子さんが手を取って教えてくれる。
 
それで弾いて見ると、なるほど一応きれいな音が出る。
 
「あんた要領を覚えるのが速い」
と七星さんが感心して言う。
 

「あ、ついでに私のフルートも持って行かない?」
と言って、冬子がフルートを出してくる。
 
「こないだ、青葉これきれいに吹けてたからね。元々は政子が中学時代に吹いてたフルートなんだけど、青葉になら、あげていいよね?」
と冬子が確認すると、政子は頷いている。
 
「このヴァイオリンとフルートを持って、震災後の東北にかなりたくさんゲリラライブに行ったからさ。私たちもローズ+リリーの活動を本格化させるから当面ああいうこともする余裕がなくなるし、誰か適当な人にこのセットあげられないかなと思ってたんだよね。青葉はある意味、被災者代表みたいなもんだし」
 
「そういう御趣旨なら頂きます」
「うん」
「ちなみにヴァイオリンの名前は『アルちゃん』、フルートは『ハナちゃん』という名前だから」
 
「へー」
 
「ちなみに『アルちゃん』の前に使ってて、他の子にあげた初代ヴァイオリンは『イーちゃん』なんだ」
「中国語のイー・アル・サン・スーですか!?」
「そそ」
 

翌日の午前中、結局冬子さんの家に泊まり込んだ七星さんに連れられ楽器店に行った。
 
「サックスはヤマハ、ヤナギサワ、セルマーというのが三大メーカーなんだよ」
「七星さんはどちらをお使いなんですか?」
 
「今メインに使っているのはヤナギサワ。セルマーを高く評価する人が多くて私も一時期使ってたんだけど、多分外れに当たったんだろうけどトラブルが多くて。私、ツアーミュージシャンとしての活動が多いから旅先でトラブると困るんだよね」
「ああ」
 
「それで国産のヤナギサワに乗り換えた。それに私指が小さいから、外人さんの身体に合わせて作られているセルマーより、国産品の方が結果的には相性も良かったみたい。青葉ちゃんも背が低いよね?」
「157cmです」
「じゃ、やはり多分、ヤマハかヤナギサワがいいよ」
 

「学校の備品はどこのメーカー?」
「えっと、なんとかウィーンズってのでした」
「ロッカウィーンズか!」
「あまり良くないですか?」
 
「うーん。値段の割には良いと思うよ」
「ああ、なるほどー」
「そこより安いメーカーのはさすがに使わない方がいい」
「なるほど!」
 
「ところでアルトサックスでいいんだっけ?」
「はい。くじ引きでアルトの担当になりました。アルト3人、テナー1人、バリトン1人という5人構成です(アルト:青葉・立花・星衣良、テナー:真琴、バリトン:敏子)。ちなみに私がバリトン持ってみたら、サックスが私を抱えてるみたいだと言われました」
 
「なるほどね」
と言って七星さんは笑っていた。
 

青葉はやっとマウスピースで音が出せるようになったというレベルなので七星さんに試奏してもらい、その音や雰囲気を見聞きして決めることにした。
 
ヤマハのYAS-875, YAS-875EX, それにヤナギサワのA-991, A-992 と吹いてもらう。
 
「ヤマハの音はファミレス、ヤナギサワの音は洋食屋さんって感じがします」
と青葉が言うと
「あんた、政子ちゃんみたいな表現するね」
などと言われた。食べ物にたとえて表現するのは確かに政子さんの得意技だ!
 
「でも確かにそうなんだよ。ヤマハは優等生。吹きやすいし初心者でも結構良い音が出る。ヤナギサワは個性がある。吹きこなすのに努力が必要だけど、可能性が深い。更に個体により当たり外れがある。今吹いた2つは比較的当たり」
 
「七星さん、今並んでいる楽器を見て『選び』ましたよね」
「ふふふ」
 
「ヤナギサワにしようかなあ」
「青葉ちゃん、器用そうだから、短期間でヤナギサワを吹きこなせるかもね」
 
「宝珠さん、9937も在庫がありますが」と店長さんらしき人が言う。
 
「ああ」
と言って、七星さんは青葉に
「音聴いてみる?」
と尋ねる。
 
「はい」と青葉。
 
「仕上げはどのタイプですか?」と七星さんが店長さんに訊く。
「ラッカー仕上げとピングゴールドです」
「じゃ、両方吹いてみようかな」
 
店長さんが奥から2個サックスを持ってくる。青葉はそれを見た時、ピンクの方のサックスを「可愛い!」と思ってしまった。しかし七星さんは言った。
 
「そのピンクゴールドはそれ1個だけですか?」
「あ、いえ。もうひとつありますが・・・・」
「そちらも見せて頂けます?」
「はい」
 
七星さんは2個のピンク色のサックスを見比べて、後から店長さんが持ってきてくれた方を選んだ。七星さんは、さっきヤナギサワのサックスは当たり外れがあると言っていた。たぶんこちらの方が「当たり」なのだろう。
 
七星さんが試奏する。
 
「私、このピンクのサックス、凄く好きになっちゃいました」
「ああ、そんな目をしてるなとは思った。これ買う?」
 
「あの・・・お値段はおいくらですか?」
「145万5300円です」
「きゃー!」
「3年ローンくらいにしましょうか?」と店長さん。
 
「ちなみにラッカーの方は 95万8650円です」
「いえ、やはりピンクゴールドの方買います。音が全然違ってたもん」
 
「そう。金メッキはとても良く音が響くんだよ。本来は私みたいにソロ吹く人向きなんだけどね。ラッカーの方がアンサンブル向き。でもそもそもほとんど素人で集まって鳴らすバンドなら、どちらでも問題無いと思う」
 
「ですね。じゃ、これください」と青葉。
「はい。お支払いは?」
「カードで」
 
明らかに高校生っぽい青葉がカードでなどと言ったので一瞬店長さんは「ん?」
という顔をしたが、常連の七星さんが付いているので、大丈夫だろうと判断したようであった。
 
「はい。VISA, MASTER, JCB, AMEX ならOKです」
「では、これでお願いします。1回払いで」
 
と言って青葉が出した黒いカードを見て、店長は目を丸くした。
 

「いや、私もそのカードは初めて見た。目の保養」
と帰り道、七星さんは言った。
 
「限度額が事実上無いのが助かるんですよね。フェラーリでも買えるよと言われたけど、そんなの買ったらさすがに決済できない。でもこのカード、リアルで使うことはあまり無いです。霊関係のお仕事してて、緊急に飛行機とか新幹線で移動なんてのはよくあるので、その時にオンライン決済するのに、よく使ってます。100万以上のを買ったのは初めて」
 
「なるほどねー」
 
「大金持ちのクライアントが、ある案件を解決した時に私に1000万円報酬をくれると言って、それはさすがにもらいすぎですと言って辞退したら、代わりにこれを作ってくれたんです。普通はカードって18歳以上でないと作れないみたいですけど、大金持ちは例外みたいで。あと年会費もその人が払ってくれています」
 
「まあ、どーんとお金があれば、かなりの問題が解決するよね」
「ええ。逆に本来解決するはずのものが、わずかなお金が無いために解決できないものも多いです」
 
「青葉ちゃんの性別変更なんかも、そうじゃない?」
「そうなんです! この世界、性転換手術受けたいのに、お金が無くて受けられずにいる人多いです。それで年齢と共にどんどん身体は男性化していくし」
「辛いだろうね」
「私が手術を受けられたのは『聖少女』の印税のおかげですけどね」
「ああ」
 
その日はその後、いったん七星さんの家に行って七星さんが自分のサックスを取って来てから、冬子さんの所の事務所が借りっぱなしにしているという新宿のスタジオに連れて行かれ、そこで少しサックスの吹き方を指導してもらった。七星さんの使用楽器も青葉が買ったのと同じタイプの色違い、金色のA-9937GPゴールドメッキ仕上げであった。
 
「わあ、同じ楽器でしたか」
「うん。でも私もピンクの方にすれば良かったなあ。この色可愛いよね」
などと七星さんは半ば羨ましそうに言っていた。
 
「でも私がこのサックス買えたのも、去年出した『Phantasia Ecostic』がヒットしたお陰だよ」と七星さん。
「ああ。20万枚ちょっと売れましたよね」
 
「うん、あと少しでプラチナに届く所で惜しい!と言われた。でもファン様々」
と七星さんは遠い所を見て言う。
 
「じゃ、またヒット曲出して、ピンクの方も買っちゃいましょう」と青葉。「うん・・・いいな、それ」と七星さん。
 
2時間ほど練習している内に、青葉自身も驚くほど、きれいな感じで音が出るようになる。
 
「あんた、本当に器用だね。冬ちゃんと似たタイプだわ。短時間でこんなに上達するって凄いよ」
 
「いえ。七星さんが丁寧に教えてくださったし、あと七星さんが吹いておられるのを見て、その真似をしたりしてただけなので」
 
「うん。それを真似して演奏できるのが冬ちゃんと似ている」
 

その後、冬子さんからお金もらっているからと言って一緒に日本料理店でお昼を食べたあと、午後は七星さんは用事があるので他に行くものの、スタジオでずっと練習していていいと言われたので、遠慮なくまた使わせてもらい、夕方冬子さんが迎えに来るまで、スタジオでひたすらサックスを吹いていた。
 
冬子はスタジオに来た時、法螺貝を持っていた。
 
「ね、ね、青葉、確か法螺貝吹けたよね?」
「ええ。吹けますけど」
「ちょっと教えてくれないかなあ。今作っているアルバムで、私法螺貝吹く必要があって」
 
「いいですよ」
「ちょっと吹いてみてもらえない? 私と青葉の間柄なら、同じ吹き口を咥えてもいいよね?」
「問題無いです」
 
と言って青葉は冬子の持って来た法螺貝を吹いてみせる。一応ウェットティッシュで拭いてから冬子に渡した。
 
「うーん。こんな感じかな」
と言って、鳴らそうとするが、スーと空気が漏れてプーという小さな音が出るだけだ。
 
「えっとですね。こんな感じの口にして咥えるんですよ」
と口の形だけ作ってみせる。
 
それを真似してやってみて、また青葉が模範演奏を見せてあげるというのを何度か繰り返すうちに、やっとプォーという大きな音が出た。
 
「出ましたね〜」
「いや助かった。中学の時に友人からもらったんだけどさ。どうやっても音がまともに出ないから諦めてたんだよ。でも今回吹く必要が出てきたから、久しぶりに練習してみようと思って」
 
結局スタジオで2時間ほど法螺貝の練習をしてからマンションに帰宅した。
 

翌日。青葉は冬子に連れられて、作曲家の田中鈴厨子さんのオフィスを訪問した。
 
田中さんの楽曲は、田中さんがメロディーラインとコードネーム、ピアノ譜まで書いた後、アシスタントさん数人で明らかな音の誤りなどを修正した上で提供する歌手やバンド向けのアレンジを施してMIDIにして渡している。
 
田中は「耳が聞こえない作曲家」である。元々は歌手だったのだが、病気で突然失聴して歌手稼業は諦めたものの、その後、作曲家として再起した。
 
しかし冬子の話では、その耳の聞こえない田中に、歌を歌わせようという、とんでもないプロジェクトが進行しているということであった。実際には本人が出した声のピッチを視覚化する装置を使い、音程を確認しながら歌ってもらうということなのだが、それにしても少しでも聴覚を改善できたら、本人も歌いやすさが随分変わるのではないかということで、青葉が呼ばれたのである。
 
青葉はこの人に10年早く会いたかったなと思った。10年前ならこの人の耳をちゃんと治すことができたかも知れない。もっとも10年前の私じゃ治せなかったろうけどね。
 
「どう?何か改善できない?」
「田中先生、ごく低い周波数の音は聞こえますよね?」
「うん。聞こえるというより感じるに近い」
 
「その範囲を少しだけ拡大できると思います」
「ほんとに?」
 
最初に冬子が持参してきたキーボードを使って現在「感じられる」音の範囲を測定した。
 
「E1からC2までですね」
「そうそう。以前に測ってもらった時もそんな感じだった」
「でもFとAが逆に聞こえてるみたい」
「うんうん。それも以前言われた。あとB♭も怪しいんだよ。体調によってはA♭か時には低いE♭に聞こえる時がある」
 
「ちょっと横になっていただけますか?」
「うん」
 
田中が休憩用の簡易ベッドに横になると、青葉はそのそばに座り、鏡を起動して、病変部分を仔細に観察した。右耳は厳しいが左耳はまだ何とかなりそうだ。青葉は取り敢えずそちらに集中して治療を施すことにした。
 
「左耳の方が症状が軽いので、そちらを集中してヒーリングします」
「あ、うん。確かに左耳の方がまだ少しは感覚がある」
 
青葉は治療すべきポイントとその順序を確認する。ここがこうなって、こうだから、ここをこうすればいいな。青葉は手順を頭の中で一度シミュレーションした上で、まずはその付近の神経を眠らせる。それから剣を起動して手術でもするかのように、問題のある部分を切り開き、また必要のある部分は縫い合わせたりするマイクロサージャリー的な「霊的手術」をしていった。神経を眠らせている上に、余分な所は切らないので、痛みはほとんど無いはずだ。膿が溜まっている部分は道が確保でき次第、ゆっくりと鼻の方に押し出してやった。
 
「ちょっとごめん」
と言って田中さんは鼻をかんでいる。
 
最後に鈴の作用を使って神経の興奮を鎮める。その上で今度はふつうに手かざしをするようにして、気の流れを調整した。
 
「何だろう。左耳の奥が凄く熱くなったかと思ったら、今はとてもスースーする感じ」
 
「はい。風通しが良くなったはずです」
「へー」
 
「可聴範囲を再度チェックしてみよう」
 
と言って冬子はキーボードを使って、再度低い音を出す。田中さんに感じられる音のところで手を上げ下げしてもらう。
 
「C1からF2までは分かるようですね」と冬子。
 
「さっきの倍くらいに広がってますね」
「それとF1とA1が逆にならずに正しく聞こえるようになってる」
 
耳の中でショートしていた所を分離絶縁したからね〜と青葉は心の中で思った。
 
「いや、ヒーリングしてもらってから何だか耳の聞こえ方が全然違う気がして」
と田中さん。
 
「青葉、取り敢えずこの後何ヶ月か、こちらに月に1度くらいでも出てこれない?」
と冬子は言ったが、田中さんが
 
「どちらにお住まいですか?」
と高校生の青葉に敬語で尋ねる。
 
「富山県の高岡市という所なんですが」
「私がそちらに行きますから、またヒーリングして頂けませんか? 患者が先生の所に通うのが当然だわ」
 
と笑顔で田中さんは言った。
 
「でも今日は最初だから結構画期的に改善されましたけど、この後ヒーリングしても、少しずつしか良くなっていきませんよ。あといったん改善されても時間経過でまた悪化する場合もあります」
と青葉は念のため言っておく。
 
「いや、少しでも良くなる可能性があるなら、どこにでも通いますよ。ここ15年何も進歩しなかったんだから。口話法はうまくなったけどね。月2回くらい通ってもいい?」
 
「ええ。いいですよ。予め日時をご連絡頂けたら調整します」
「ありがとう」
 
「先日亡くなった私の師匠がですね。本人実は生まれた時から目が見えなかったらしいのですが、仏教の主な経典をほぼ全部丸暗記してましたし、歩くのなんかも普通の人よりよほど速くて、山道を平気で回峰行とかしてたんですよ。目の前に木とかあったら気配で察して回避してしまう。人の識別もその人が持つ波動で感じ取ってしまう。活版印刷の文字は指でなぞると字が読めると言ってました。実は亡くなる直前に本人から言われるまで、弟子の誰も師匠が目が見えないなんて気付いてなくて」
 
「それは凄いね。スティービー・ワンダーみたいな人もいるしね」
 
「人間、身体のどこかが不調なのはほんとに大変ですけど、鍛えると、意外に身体の不自由の無い人より、凄い世界に行けるかもです」
 
「うーん。私も頑張ってみようかな」
 

「あと、私、長い間歌ってなかったから、昔より声域がすごく狭くなっちゃってる気がして。これも何とかしないと、香野美ちゃんに恥ずかしいわあ」
 
などと田中さんが言うので
 
「ちょっと喉の方もヒーリングしましょうか?」
と青葉は言った。
 
「あ、何か改善できる?」
「もう一度横になって下さい」
「うん」
 
「音程気にせずに適当に声を出してもらえますか。《あー》とかで」
「あーーーーーー」
 
確かに発声機構が錆び付いてる感じだ。音程が不安定に変化して行くのはよいとして、声質に濁りがある。でもこれは多分気の滞りなどを直すだけでも結構よくなる。青葉は田中さんが声を出している状態のまま、その付近を調整して行った。
 
「あれ? 何だか声の出る感覚が変わった」と田中さん。
「田中先生、声が若くなった感じです」と冬子。
「あ、やはり? なんだか声がスムーズに出る感じなのよ」
 
「気の流れを調整しただけです。悪い癖の付いていた所を少し修正しただけですから、良い癖を付け直さないと元の木阿弥になってしまいます。現役時代はなさってたと思いますが、首の運動とか、顔の筋肉の運動とかを毎日していれば、声はもっとしっかりなると思います」
と青葉は言う。
 
「うん。それも頑張ろう!」
と田中さんは明るい声で言った。
 

田中さんのオフィスを出てから、冬子と歩きながら話をする。
 
「私の声が維持できてるのも、青葉のヒーリング受けてるからというのがあるからなあ。青葉に会ってから私の声の特に高音域が凄く安定したもん。青葉に出会ってなかったら『天使に逢えたら』は歌えなかったよ」
と冬子は言う。
 
「いえ、私のヒーリング以上に日々の練習が凄いからですよ。私はその練習の後のクールダウンのお手伝いをしているようなものです」
と青葉。
 
そんな話をしながら、ふと青葉は呉羽の声のことに思い至った。あの子の声、何とかしてあげられないかな・・・・
 

マンションに帰ってから、また政子、冬子の順にヒーリングする。
 
「やはり、仙台公演に向けて、かなり練習なさってるんですね。政子さんも冬子さんも疲労が溜まっている感じ」
 
「いや、別件でとはいえ、今の時期に青葉に来てもらって助かった。オーケストラの作業と、仙台のリハーサルと、アルバム制作とが同時進行してるからね」
と冬子は言う。
「更に秘密のプロジェクトが2つ進んでるもんね」と政子。
 
そしてその日は珍しく、冬子はヒーリングされながら眠ってしまった。
 
ヒーリングが終わっても起きない。熟睡している。政子がツンツンツンとするが反応が無い。かなり深く眠っているようである。
 
「そっとしておきましょうよ。疲れてるんですよ」と青葉は言ったが
「私、お腹空いた。晩御飯をまだ食べてない。冬を起こさないと御飯ができない」
と政子。
 
「私が何か作りましょうか? 冷蔵庫や野菜籠の中のものは適当に使っていいですよね?」
と青葉は笑って言った。
 
「うん。いくらでも使って。私、ビーフストロガノフが食べたい」
「はい、作りますよ」
 
青葉は冷凍室から牛肉を1kg取り出して解凍を掛けると、野菜を切ってビーフストロガノフを作り始めた。ふつうビーフストロガノフは玉ねぎだけなのだが、この家のは、ジャガイモも入れる流儀である。その方が「食べ甲斐」があるという、政子の要望に添ったものだ。玉ねぎ3個、メークイン1kgを投入する。
 
材料を全部投入して30分タイマーを掛ける。それでテーブルの方に行ったら、政子は何か詩を書いていた。いつも詩作に使っている赤いボールペンではなく金色のボールペンを持っている。何だか何度も書き直している。こういう政子を見るのも青葉は初めてだった。これまで何度か見た政子の創作現場では政子はいつも一気に詩を書き上げていた。
 
やがてペンを置き「できた〜」と言う。タイトルに『遠すぎる一歩』と書かれている。
 
「冬がすぐそばに寝ているのに、私の声を聞いてくれないから、その気持ちを書いてみた」
と政子。
 
青葉は微笑んだ。この人たちの詩は結構文字の表面から想像されるシチュエーションと実際にその詩を書いた状況とが乖離している。その裏の状況は誰にも想像が付かない。
 
「さすがに冬を起こそう。この詩に曲を付けてもらわなくちゃ」
「もう少し寝せておきましょうよ〜。ほんとにお疲れみたいだから。ビーフストロガノフが出来たところで起こして、一緒に御飯にしましょうよ」
 
「うーん。でも私はこの詩にすぐ曲を付けて欲しい」
「あと20分くらいで御飯できますよ」
 
「そうだなあ。じゃ、青葉これに曲付けてよ」
「えー!?」
「じゃないと、冬を起こす」
 
このあたりは政子のわがままさだが、政子はこういうわがままであるがゆえに天才的な詩が書けるのだ。冬子もそういう政子のわがままをわざと野放しにしているフシがある。その分、冬子に掛かっている負荷は精神的にも肉体的にもまた経済的にもハンパではないハズだが。
 
「じゃ、私ができる範囲で」
 
と言って、青葉は棚に置いてあった電子キーボードを取るとスイッチを入れ、政子が書いた詩を見ながら、半ば探り弾き、半ば詩の流れから想起されるイマジネーションの塊をキーボードに注ぎ込むような気持ちでメロディーを弾いていった。
 
「あ、わりと私が思ってたイメージに近い」
と政子。
「そうですか?」
 
そのまま最後までいったん弾いてから、また最初に戻り、さきほど弾いたものを少し修正するような感じで和音付きで弾いていく。これを3回繰り返すと、青葉自身、何となくまとまってきたような気がした。政子も
 
「あ、かなり私が思ってたものに近くなったよ」
と言う。
 
「じゃ、取り敢えず書き留めてみます」
と言って、青葉は五線紙を借りると、それに音符とコードネームを記入して行った。コードネームの進行から逆に部分的に音を修正したりもする。
 
「冬にしても、雨宮先生とかにしても、聞いた曲をそのまま楽譜に書いちゃうけど、青葉もそれができるんだね」
などと政子が感心したように言う。
 
「ある程度、音楽やってる人ならできますよ」
「私は5年歌手やってるけど、できん」
 
「政子さんがその付近の感覚があまり発達してない分、冬子さんが発達してるんですよ。ふたりはセットだから」
「ああ、それは他の人にも言われたことあった」
 

やがて書き上げる。再度弾いてみる。政子が青葉のキーボード演奏に合わせて歌う。歌い終わってから「この辺が少しだけ違和感がある」と言われた所を少し修正した。それで再度歌う。
 
「おお、いい感じになった」
「でも私、素人ですから、後で冬子さんに修正してもらってください」
 
などと言っているうちにIHヒーターがピーピーと鳴る。その音で冬子が起きた。
 
「あれ、いい匂いがする」
「冬が起きないから、青葉に御飯作ってもらった」
「わあ、ごめんねー」
「ついでに冬が起きないから、私の詩に青葉に曲を付けてもらった」
「おお!」
 
ビーフストロガノフの出来た大鍋と、御飯ジャーを持って来て、皿に盛りつけグリーンピースを散らし、生クリームを掛ける。
 
「頂きまーす」と言って食べ始める。
 
「おお、うまい、うまい。冬が作ったのと同じ味だ」
「いつだったか来た時に御馳走になりましたから、そのレシピで」
 
「出来上がった料理を食べて、作り方が分かるもの?」と政子が訊く。「だいたい分かりますよ」と青葉は答える。
「そうなのか。私は分からん」と政子。
冬子が微笑んでいる。
 
「あ、そうそう。これ青葉に書いてもらった曲」
と言って政子が譜面を見せる。
 
「へー。可愛い感じで書いたね」
「現役女子高生が書いた曲というのが、結構価値があるかも知れん」
 
と政子が言った時、冬子はハッとしたように言う。
「ね、ね、これ、槇原愛に歌わせたらどうだろう?」
「ああ、いいかも知れないね。女子高生が書いた曲を女子高生に歌わせる」
と政子。
 
「私の書いた素人の曲でいいんですか?」と青葉。
「いや、これは結構しっかり出来てるよ」と冬子。
 
「じゃ、クレジットは《鈴蘭杏梨絵斗(すずらん・あんりえっと)》で」
と政子。
 
「えっと・・・」
 

結局、青葉は水曜日の午後の飛行機で富山に戻った。それでお土産の受け渡しも水曜の夕方に高岡駅で全員まとめて行なうことになった。
 
「なんか凄い荷物だね」
「うん。東京で乗せられちゃってサックス買っちゃった。あとヴァイオリンとフルートはもらっちゃった」
 
「わあ、それはたくさん練習しなくちゃ」
 
「でもその荷物の量、ひとりで持てる範囲を超えてない?」
「あはは。空港からこの駅まで持ってくるのも大変だったよ」
 
「自宅まで持って行くの手伝ってあげようか?」
と明日香と奈々美が言うので手伝ってもらった。
 

自宅に戻ると、母からも「荷物凄いね」と言われた。
 
「うん。楽器が凄い。これ向こうで、乗せられて買っちゃったアルトサックス、こちらは政子さんからもらったヴァイオリン。こちらは冬子さんからもらったフルート。更には某作曲家さんから頂いたCDの山」
 
「作曲家さんって、田中鈴厨子?」
とCDを見ていた明日香に指摘される。
 
「うん。でも他の人には言わないでね」
「OKOK」
 
「ローズ+リリーのこないだ出た『The time reborn』『100%ピュアガール』
と5月1日発売予定のローズクォーツの『魔法の靴』もあるよ」
「お、発売日の一週間前にというのが凄い」
 
「でも、取り敢えず、お土産のおやつ食べない?」
 
と言って、青葉はケーキの箱を出した。
 
「わあ、きれい!」
 
「資生堂パーラーのモンブランとタルトフレーズ。なんか巨大だよね」
「このモンブラン、本当に山だ!」
 
「いや、買ってから、私とお母ちゃんだけで食べきれるかなと心配になったんだけど、明日香と奈々美が来てくれて助かった」
 
「お、荷物の運び賃だね」
「うんうん」
 

お茶を入れてみんなでケーキを食べながら、CDも流す。田中鈴厨子さんからもらったCDを掛けていたら、母が「この曲、懐かしい〜」などと言っていた。
 
「女子高生生活1ヶ月、感想は? 青葉」
と奈々美が訊く。
 
「満喫してる。最初ちょっとだけ緊張あったけど、すぐ慣れた」
「まあ、女子中生生活を2年やってるからなあ」
「どうも日香理とかからの話(椿妃情報)聞くと、実際は中1の時もほとんど女子中生だったみたいだし」
「あはは」
 
「先生たちも呉羽のことについては日々話し合ったりしてるみたいだけど、結果的に青葉のことは忘れられているね」
「うん。何も考慮しないからと言われたけど、ほんとに女子生徒としてしか扱われてないから、こちらも気楽」
 
「呉羽さあ・・・」
と明日香が少し声を小さくする。
 
「もしかしてもう性転換してない?」
「うそ。いや、こないだお風呂で隠してるにしては上手だなとは思ったんだけど」
と奈々美。
 
「タマはもう無いってこないだ言ってたよ。でもそのことあまり人に知られたくないみたいだから、広めないようにしてあげて」
と青葉は言う。
 
「ああ。他人にというより、親に知られたくないんじゃない?」
「だと思う」
 
「今の話、私は聞かなかったことにするね」と青葉の母。
 
「じゃどこかで密かにタマだけ抜いたのかね〜」
「普通は18歳以上でないと手術してくれないんだろうけど、年齢誤魔化せばしてくれる所もあるかもね」
 
「でも呉羽は声が課題だね」
「うん。話し方が女の子だから、同じクラスの子にも特に疑問持たれてなくて、*田**子みたいな感じの低音女子と思われてるみたいだけど、もう少し純粋に女の子の声に聞こえる声を出せるようになるといいよね」
 
「練習はしてるみたいだけど、なかなかうまく出ないみたいね」
 
「あの子、結局お父さんにはカムアウトしたの?」
「それもまだみたい。でもバレる前に自分で言った方がいいよ、とは言ってる」
 
「うん。それは絶対そうだ」
 

奈々美が楽器弾いてみせてよ、というので青葉はまずサックスを取り出した。
 
「可愛い〜!」
「ピンクのサックスって初めて見た」
「お前、それ幾らしたの?」と母が訊く。
 
「ごめーん。145万」
「きゃー!」
「すごー!」
「まあ、自分で稼いでるんだから、いいけどね」と母。
「うん。でもこの後、しばらく漫画買う量減らす」と青葉。
 
「漫画を少々減らしても145万には遠く及ばない気が」
 
取り敢えず練習で吹いていた『ムーンライト・セレナーデ』を演奏する。
 
「おお、割と吹くね」
「間違っても、うまく誤魔化すね」
 
「初めてどのくらいだっけ?」
「17日にマウスピース買って、それをひたすら吹いてて、実際のサックス吹いたのは、実は月曜日が初めて」
「まだ一週間なのか!」
 
「よくそれでそこまで吹くね」
「うん。だからたくさん誤魔化した」
 

次にフルートを吹くが、これはきれいに吹けるので、拍手をもらった。
 
「青葉、フルートは前からやってたんだっけ?」
「実は龍笛を小さい頃から吹いてたんだよ。だから、その応用。フルートは初めて吹いたのがこの2月だよ」
「へー」
 
「指使いがとっても怪しかったのを、東京でプロの人に直してもらった。その人が、フルートとサックスの名手で、サックスもその人に見立ててもらった。ケイさんのお友だちなんだけどね。初心者向きの10万くらいの買っても1〜2年で楽器の能力をこちらの技術が越えてしまうだろうから、一生使えるようなの買った方がいい、というのもケイさんのアドバイスで」
 
「ああ、学校の備品のサックスは星衣良でも半年で楽器能力限界を突破しそうな気がした」
と明日香。
 
「明日香はあのサックス、楽々吹いてたけど、明日香なら既に楽器の能力限界超えてるでしょ?」
「うん。越えてる。吹いてて不満だった。私がサックス担当になってたら、やはりマイサックスが欲しくなってたと思う」
 
「あまり予算が無い中で、取り敢えず数を揃えたいというので、あのメーカーになったみたいね」
「なるほど」
 
明日香はトランペットの経験者なのでトランペット担当である。それもマイトランペットを持っての参加である。
 
「ヒロミはトランペット、なかなか音が出てなかったね」
「うん、でも経験があれば比較的早く出るようになるんじゃないかな」
「ホルン吹きの公子さんはトランペットでも、いきなりちゃんとドとソを吹き分けられてたね」
 
トランペットは「ド」と「ソ」は同じ指使いである。息の吹き方で吹き分ける必要がある。
 
「あの人、器用さもあるみたい」
「でもホルンとトランペットが多分、金管楽器では難しいのの双璧かも」
 
「ヒロミはさ、多分女性ホルモン優位になって、男の子時代の筋肉が落ちてるから、色々なところで自分が思うように身体が動かない面があると思う」
 
「ああ、なるほど、それもあるのか」
「確かにこないだ触った時、かなり身体が女の子っぽくなってきたと思ったよ」
 

最後にヴァイオリンを弾く。
 
「なるほど。ノコギリを卒業した程度か」
「うん。サックスを集中して練習してたから、ヴァイオリンはまだほとんど練習してないから」
 
「それいくらくらいのヴァイオリン?」
「もらったものだから分からないけど、多分100万くらい」
「ひぇー!」
と奈々美が声をあげるが
 
「いや、ヴァイオリンはそもそも高い」
と明日香が言う。
 
「普通の楽器は100万とか150万まで行くと、最高クラスだけど、ヴァイオリンの場合は、まず100万とか150万から始まって、上級者が使うのは億単位」
 
「そんなの誰が買えるの?」
「買えないから、財団とかがあって、優秀なヴァイオリニストに無償貸与してる」
 
「でもこれ100万くらいだろうとは思うし、量産品だけど、凄く精密な作りなんだよね。普通の300万円くらいのハンドメイトのヴァイオリン並みだと思う」
「ああ、量産品でも、たまにそういうのがあるんだよね」
 

「ところで東京に行ったんなら、彼氏ともデートしたんでしょ?」
「いや、今回は遠慮して欲しいと言った」
「なんで〜? 滅多に逢えないんだから、近くまで行った時くらい」
 
「私、今喪中だから」
「ああ、お師匠さんが亡くなったという件?」
「うん。亡くなったのが3月21日だから、5月8日の四十九日までは彼とも会わない」
 
「ゴールデンウィーク終わるまでダメなのか」
「じゃ、ゴールデンウィーク明けの11-12日の週末、千葉まで行ってくるとか?」
 
「えっと・・・・」
 
「少し早めの誕生日祝いにすればいいよね」
「だったら18-19日の週末の方がいいかな」
「いや、次会うのはたぶん夏休み」
 
「えー?だって可哀想じゃん、彼氏」
「きっとセックスしたくて、したくてたまらないでいるよ」
 
「うーん・・・」
 
母が笑っていた。
 

その日の夜、青葉はまた「例の夢」を見た。
 
今夜は誰の夢に入っちゃったのかな・・・・と思ってあたりを伺うと、呉羽だった。呉羽はAKB48の歌を歌っていた。どうも発声練習代わりに歌っているようである。
 
『あ、青葉』
『発声練習頑張ってるね』
『うん。でもなかなか女の子らしい声が出なくて』
 
『少し出やすくしてあげようか?』
『ほんとに?』
『ちょっとそこに寝て』
『うん』
 
呉羽がベッドに横になると、青葉は呉羽の喉のところに手を当てた。鏡で声帯の状態を確認する。
 
『ちょっと声を出してみて。そうだな。きらきら星を歌って』
 
呉羽が歌っている時の声帯の動きを観察する。なるほどね。
 
『ちょっと声を停めて』
『うん』
 
青葉は剣などの道具は使わずに、気の塊で声帯の端をこじ開けた。ここの部分が閉じていることで喉は『閉管楽器』になり、ここを開けたまま声を出す習慣のある女性よりオクターブ低い音が出るのである。女性はここが開いている時間が長いので事実上『開管楽器』になる。
 
『ちょっと今特殊な状態にしてる。このまま、きらきら星を歌ってみて』
『きらきら光る・・・あれ?』
『女の子の声だね』
『嘘みたい』
『この感覚を覚えておいて。これが女の子の声の出し方だから』
『うん』
『このままたくさん歌うといいよ。私も付き合ってあげようか』
 
と言って、その後、青葉は呉羽と夢の中でたくさんAKB48の歌を歌った。それは女の子がふたりで歌っているようにしか聞こえない歌声であった。青葉は途中で気の塊で強引に声帯を開けておくのをやめたが、それでも呉羽の声は女の子の声のままであった。自分で開けておく感覚をつかめたのだろう。
 
『ところでさ、青葉』
『ん?』
『私・・・去年の暮れに夢の中で青葉に性転換手術される夢を見て』
『ふーん。きっとヒロミが性転換されたかったんだよ』
『やはり願望の表れなのかなあ』
『だろうね』
 
『それでちょっと相談事があるんだけど・・・って夢の中で相談なんてできるんだろうか?』
『きっとヒロミの心の中で、自分のセルフとかあるいは老賢者とかと対話してるんだよ』
 
『あ、そうか。それでね・・・』
と言ってヒロミは恥ずかしそうな顔をして、話を始めた。
 

木曜日。青葉が東京で買ったサックスを持って練習に出ていくと
 
「わあ、マイサックス買ったんだ?」
と言われる。
 
「うん。東京に行った時に友人の知り合いのサックスプレイヤーさんに見立ててもらった」
「ピンク色のサックスって可愛い!」
 
「でもこれ、なんかすごーく高いサックスのような気がするんですけど」
「うん。高かった」
「やはり」
「もしかして学校のサックスの10倍くらいしない?」
「あはは。40倍だったりして」
「げっ」
「このサックス1本で学校のサックス40本買えるのか!」
 
「でもヴァイオリンとかだと、もっと高いのをみんな使ってるし」
「ああ。ヴァイオリンは上限がエンドレスだから怖いね」
と自分でもヴァイオリンを弾く美滝が言う。
 
「あ、そうそう。それでマウスピースの咥え方が間違ってたんだよ」
 
と言って青葉はサックスを吹く子を集めて、正しい咥え方を教える。
 
「おお!音の出方が違う!」
と言って、みんな感動していた。
 

その日は楽器の練習を1時間してから、合唱の練習をした。合唱は女声四部で構成する。
 
ソプラノ 青葉、美滝、敏子、星衣良、世梨奈、空帆
メゾ1  美津穂、須美、治美、朝美
メゾ2  公子、真琴、明日香、康江、郁代
アルト  日香理、立花、ヒロミ、都美子、真梨奈、美香
 
と分けていたのだが・・・
 
「あれ?ヒロミちゃん、高いトーンが出るようになってるね」
「なんか昨夜突然出るようになりました」
とヒロミはもう女の子の声にしか聞こえない声で答える。
 
「ちょっと待って。声域を再確認しよう」
 
と言って、ピアノに合わせて歌わせてみる。
「うーん。これはむしろメゾソプラノの音域だ」
「じゃ、ヒロミこっちおいで」と美津穂が言うので、ヒロミはアルトからメゾソプラノ1にコンバートされた。
 
声帯の状態を変えたのでヒロミの声は1オクターブ上がっている。元々がテノールだったのが1オクターブ上がれば、メゾソプラノ〜ソプラノになる。
 
この21人の他に、美滝が誘った4人がソプラノ2、メゾ1、アルト1ということだったので、ソプラノ8、メゾが6-5、アルト6 という構成になることになる。
 

コンクールで歌う自由曲は、初心者が多いので、あまり難しくない曲にしましょう、ということで易しい合唱曲、あるいはJ-POPのヒット曲などを中心に意見を出し合う。色々な案が出たあとで
 
「KARIONの『海を渡りて君の元へ』とかどうだろう?」
という意見が出た。
 
「あれ、格好いい曲だよね」
「あ、やりたい、やりたい」
「KARIONの曲ってハーモニーがきれいだから、合唱でも多分映えるよね」
 
「でもKARIONって三重唱じゃないの? 四部に変えるのは大変じゃない?」
「あの曲は四重唱なんですよ」
「へー」
「KARIONって三人しかいないのに、しばしば四重唱とか五重唱とかの曲まであるよね」
「うん。五重唱はさすがに少ないけど、四重唱は割と多い」
 
「やはり、あれじゃないの? KARIONは実は四人いるという噂が昔からあるよね」
「そそ。ずっとプロフ非公開になってる作曲者の水沢歌月が実は4人目のKARIONなんじゃないかという説もある」
 
「音源で四重唱している時にKARIONの3人以外に聞こえるボーカルが毎回同じなんだよね。デビューCDの中に入ってた『鏡の国』以来。声色使ってるから気付きにくいけど」
 
「バックバンドでピアノ弾いてるのが水沢歌月じゃないかという説もあるよね」
「バックバンドでヴァイオリン弾いてるのが、五重唱の歌唱者ではという説もある。5人目の声もやはり毎回同じなんだよね。『トライアングル』以来」
 
「ああ、KARIONの『泉月』の曲の編曲許可は難しいと思う
とひとりの子が言う。
 
「うちの中学で『星の海』をとりあげようとして、編曲の許可を取るのに、顧問の先生が水沢歌月さんへの接触を試みたんだけど、どうしても接触できなかったらしい。KARIONの事務所宛にも手紙を送ったんだけど、音沙汰無かったから、大量のファンレターの中に埋もれてしまったのかも知れないって」
 
「水沢歌月さんなら連絡取れるよ」と青葉が言う。
「えーーー!?」
 
「『海を渡りて君の元へ』を使う?」
「使えるなら」
 
「じゃ電話する」
と言って青葉は携帯で冬子に電話する。
 
「おはようございます、水沢歌月さん」
「おはよう、青葉」と冬子。
「今大丈夫ですか?(水沢歌月の話をしてもいいですか?)」
「うん。今はOK」
 
「うちの合唱部でコンクールの自由曲に『海を渡りて君の元へ』を取り上げたいという声が出てるんですが、あの曲、四重唱だから、女声四部にするのはそのまま移行できそうなんですけど、演奏時間が6分ほどあるから、4分30-40秒程度に短縮できないかと思って、編曲のご許可を頂けたらと思うのですが」
 
「あ。いいよ。規定は5分以内だったっけ?」
「はい。そうです。最初の音を出してから最後の音が消えるまでの時間が5分0秒以内。でもテンポが遅れることもあるから、4分30秒くらいの編曲にしておかないと怖いので」
 
「確かにそうだよね。んじゃピアノ伴奏女声四部4分30秒版を作ってあげるよ。中高生レベルのソプラノ,メゾ1,2, アルトに音域調整もして」
 
「えーー!? でも今、最高にビジーなのでは」
「さっき、ちょっと難しいこと考えてて、頭が爆発した所なんだ。気分転換にいいから、書いてあげる。そちらにPDFをメールすればいいよね?」
 
「はい。あの、今年は初心者が多いのであまり難しくなくして頂けると」
 
「了解〜。そそ、JASRACの支払いはそちらでよろしくね」
「はい!」
 

電話を切ってから説明する。
 
「ということで、御自身で4分半に編曲して送ってくださるそうです。それから同じ四重唱でも、KARION版は、ソプラノ1,2, メゾ,アルトで、こちらの女声四部はソプラノ, メゾ1,2, アルトだから、音域を少し調整してくださるそうです。私の所にメールしてくださるそうですから、明日にもプリントして持ってきます。JASRACの使用料は払っておいてね、ということなので、先生手続きをお願いします。確か2000円くらいだった気がします」
 
「うん、分かった」
 
「ね、水沢歌月って誰なの?」
「水沢歌月は水沢歌月ですよ。写楽が写楽であるのと同様です」
 
「やはり水沢歌月が4人目のKARIONなの?」
「そのあたりは守秘義務で」
と青葉は笑顔で答えた。
 

連休明け。校内で球技大会が開催された。
 
各クラスから、男子ソフトボール(9-10名), 男女バスケット(各5-6), 男女バレー(各6-7), 男女卓球(ダブルス), 女子バドミントン(個人戦)のどれかに全員参加ということになっていた。バスケットは5人チームと6人チーム混在である。バレーも6人チーム7人チーム混在となる。バレーで7人と言ってもリベロを置く訳ではなく、7人最初からコートに入っているアバウトな編成である。ソフトボールも10人チームは外野を4人にしていた。
 
青葉たちの社文科では男子12人、女子18人なので、男子はバスケットとバレーに6人ずつ、女子はバスケット2チーム(10人)、バレー1チーム(6人)と卓球2人という構成にした。青葉は美由紀・日香理・美来・凉乃と一緒にバスケットに参加。「1年S組B(1年社文科Bチーム)」として登録した。
 
いきなり1年R組B(1年理数科Bチーム)と対戦する。呉羽や空帆・絢子が入っているので、対戦前からハグ大会になったが、呉羽は美由紀や日香理にハグされて照れている。
 
素人チームなので、フォワードもガードも無い。みんな適当に攻めて適当に守る。守る側もマンツーマンだかゾーンだかよく分からない。適当に攻めてきた子の所に行って妨害する。
 
社文科の方は日香理が結構内側まで走り込んでレイアップでシュートを決めて点数を稼いでいくが、理数科の方は呉羽がスリーポイントを撃って対抗していた。ただ、呉羽のスリーポイントはしばしば飛距離が足りずに届かず、本人も少し首をひねっていた。
 
結局36対35の1点差で社文科が勝って2回戦に進出した。
 
お互いに握手して試合を終える。
 
「ヒロミ、なんか首をひねってたね」
と青葉は小声で話しかけた。
 
「あ、うん。このくらいでちょうど届くはずと思うのが届かなくて」
「女性ホルモン優位になって、筋肉が落ちてるからだよ」
「あ、そうか!」
 
「ヒロミの身体は今、男の子の身体から、女の子の身体に作り替えられて行っている最中だからね。あと半年もしたら、完全に女の子の身体になっちゃうよ」
「うん」
と言って、呉羽はまた恥ずかしそうに俯いた。
 
 
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【春風】(3)