【春虎】(3)

前頁次頁目次

1  2  3 
 
明恵と真珠は桜坂さんと会った後、11時頃まで撮影を続けてから、道の駅でCX-5を持って来ている初海と合流した。
 
「お疲れー」
「私たち寝るからよろしくー」
「ほんとにお疲れ」
 
それで後部座席に乗った2人はシートベルトを掛けたまま寝て、初海が運転席に座り金沢まで戻った。
 

放送局に顔を出すと、千里さんが来ていた。幸花・千里と5人で真珠と明恵が撮影してきたビデオを見る。千里がビデオを見ながら、何ヶ所かで頷くようにしていた。
 
「でもそうか。桜坂さんはS市に行ったのか」
「色々あったみたいですね」
「まあ色々無ければ退職しないだろうね」
 
「でもこの事件、ほんとに私たちだけでは限界があります。何とかして青葉さん、連れて来ましょうよ」
 
「しかし拉致してくる訳にもいかないしなあ」
と幸花は言う。
 
ところが千里は言った。
 
「よし拉致してこよう」
 
「え〜〜〜!?」
 
「青葉の作業は今の進行状況だと、3月29日に終わる。余裕を見て30日。これが拉致のタイミングだな。多分遅くなると、ケイに『ミュージシャン・アルバム』の取材だと言われて拉致される」
 
「どっちみち拉致されるのか」
 
「だからケイを出し抜いて先に青葉を拉致しよう」
と千里は言っている。
 

「千里さん、なんか楽しそうに見えます」
「まあ、私とケイと丸山アイはお互いにゲーム感覚で騙し合いをしてるから」
 
「結局仲がいいんですね」
 
「青葉もアクアも真面目すぎて、こういうお遊びができない」
と千里さんが言っている。
 
「そのあたりがいちばん振り回されてる気がします!」
と真珠。
 
「その遊びって、いきなりライフルで狙撃したりするんでしょ?」
と明恵が言う。
 
明恵は千里が飛んできた弾丸を平然と文鎮で叩き落としたのを見たことがある。
 
「PSG-1 (ペーエスゲー・アインス)(*10)の弾丸くらい防御できなきゃ、この世界では生きていけないよ」
 
「どういう世界で生きてるんですか!?」
と初海が言った。
 

(*10) H&K PSG-1は ヘックラー・ウント・コッホ有限会社(Heckler & Koch GmbH) のセミオートマチック狙撃銃。同社は製品の厳しい販売制限をしており、NATO加盟国及びそれに準じる国(スイス・日本・オーストラリア・ニュージーランド)以外では、充分高い民主主義体制にある国にしか輸出しない。最近香港への出荷が停止された。
 

奥村春貴は富山県の教員採用試験を受けて秋には合格通知はもらっていた。しかしコネなどは無いので、ちゃんと任用してもらえるか、かなり不安を抱えていた。しかし2月下旬に電話があり
 
「氷見市のH南高校に任用が決まりました。よろしいですか?」
ということであった。
 
「はい。行きます。よろしくお願いします」
と言って承諾し、すぐに引越準備を始めることにした。
 
春貴は現在金沢市内のアパートに住んでいる。金沢では大学院の卒業式(3/22)には出なければならないが、すぐにも氷見市に行き、アパート探しをすることにした。
 
母にも連絡したが「近くに決まって良かった」と言っていた。
 
高校受験に失敗して、越県して石川県の私立高校の二次募集に滑り込んで以来、9年ぶりの富山県復帰になる。
 

「え?退部するの?」
と世梨奈は春貴に言った。
 
「氷見市なんでしょ?津幡までそう遠くないのに」
 
「うん。来れないことはないとは思うけどさ。教師って無茶苦茶忙しそうたから、そちらに全力投球するつもりでいようと思って。だから来年度の選手登録はしなくていいから」
「分かった。じゃ選手登録はしないけど、たまに息抜きに泳ぎにくるといいよ」
「うん、そうするかも」
 
そういう訳で、春貴は〒〒スイミングクラブの選手登録は解除したのである。彼女は所属クラブが無くなるので、再登録するまでは日本水連主催の大会には出られない。
 
なお、邦生は本人が「辞める」とは一度も言ってないので、選手登録は継続中である。ちなみに春貴は女子として登録されていたが、邦生は男子として登録されている。どっちみち会費(ライト会員年3.6万円)は春貴の分も邦生の分も青葉が払っている!(青葉本人は忘れている)
 

「睾丸を除去して欲しいんですが」
と青年は言った。
 
松井医師はこの青年にちょっと興味を持った。この病院に去勢手術を依頼に来るクライアントのほとんどがMTF/FTMである。そういう雰囲気があるし、睾丸を取りたいという人の多くは女性的で女装している人も半数くらいある。この青年は普通に男性に見える。あるいはFTMで卵巣を取って欲しいのかとも思ったが、青年は確かに「睾丸」を取って欲しいと言った。
 
「睾丸を取りたいというのは、どういう理由でしょうか。例えば将来的に女性になりたいので、身体が男性化すするのを止(と)めたいとか」
 
「女にはなりたくないです。睾丸があるのがもう我慢できないんです」
「睾丸を取ると、子供を作れなくなりますよ。また高確率でペニスは勃起しなくなります」
「子供なんて別に要りませんし、ペニスは別に立たなくてもいいです。むしろペニスも取って欲しいくらいです」
「ペニスを取ると、立っておしっこできなくなりますし、女性とのセックスもできなくなりますよ。むろんペニスを使ったマスターベーションもできなくなります」
「そんなのしたくないです。セックスとか想像するだけで嫌です。そもそも、むらむらと来るのが不快なんですよ」
 

松井医師はすぐにも青年を手術室に運び込み、ペニスと睾丸を取ってあげたかったが、看護師長(お目付役!)が睨むので、精神科の鞠村先生に回して、精神病などによる錯乱で一時的に男性器を切除したい気持ちになっているのではないことを確認した。精神科では性器不快症候群という診断名?が付き、倫理委員会の承認も下りて、正規の医療として手術は行われることになった。
 
「ただの去勢手術じゃん。おまけでペニスも切るだけなのに」
などと松井は文句を言っていたが!
 
手術方法としては、睾丸を摘出するとともに、陰茎を恥骨結合の所から完全に除去する。ペニスに沿った尿道延長部分が無くなるので、尿道口は女性と同じ位置に開口することになる、それで尿道保護のため(?)陰嚢を折りたたんで大陰唇風にする。本人は陰唇も要らないと言っていたが、そのままだと炎症を起こしやすいという松井医師の説明(趣味)で、陰唇風のものを作ることに同意した。結果的に青年の股間は、一見女性と見まがう形になる。女になりたい訳ではないので、クリトリスやヴァギナは設置しない。
 
手術は3月18日に行われ、24日で導尿は終了。25日にはトイレ(むろん彼は男子トイレを使用する)に行って新しい尿道口からの排尿を体験したが
 
「ちんちんが無いって素晴らしい!とってもいいです」
と感激していた。
 
松井は人を幸せにするのはいいことだと思った。
 

退院の時、青年は松井医師に尋ねた。
 
「ぼくって、この後、女子用ショーツとか穿いた方がいいんですかね?」
 
「別にどっちでもいいんじゃない?君が女の子でありたいと思うなら女子用のショーツを穿けばいいし、自分はペニスなどなくても男だと思うのなら、男子用のトランクスとかボクサーとか穿けばいいし」
 
「あ、男物穿いてもいいですかね?」
 
「性別なんてペニスの有無とは関係無いよ。自分の意識の問題だもん。自分が男だと思っていれば、君は間違い無く男なんだよ。だから堂々と、男のパンツを穿くといいよ(個人的には女の子パンティを穿かせたい!)」
 
「そうですよね!ほく、堂々とトランクス穿くことにします」
「うん」
 
松井は笑顔で彼の退院を見送った。
 

その日、邦生は
「家の中だし、別にいいじゃん」
などと、うまく乗せられてスカートを穿いていたのだが、その格好で御飯を作っていた所を後ろから襲撃!され、結局スカート同士でセックスした。
 
「これ何か興奮する」
「ぼくも!まるでビアンになったみたいで楽しい」
 
キッチンでスカートのまま1回戦した後、部屋に入って今度はお互い服を全部脱いで2回戦をして、そのまま眠った(結局ごはんは作りかけで放置)。
 
邦生が目を覚ますと、真珠は凄く気持ちいいことをしてくれていた。セックスもいいけど、やはりこれが最高と思ってされていたら、やがて逝ってしまう。邦生は再度眠ってしまった。
 
再度目を覚ますと、真珠は自分のそばで裸のまま眠っていた。それが物凄く可愛いので邦生はキスをした。
「あそこ舐めたまま洗ってないのに」
「平気だよ」
「くーにん、自分のちんちんと間接キスしたね」
「あはは」
 

真珠が邦生の胸をもみもみしているので
「何してるの?」
と言うと
 
「こうやってマッサージしてたら、くーにんのおっぱい大きくならないかなあ」
などと言っている。
 
「胸大きくなったりしたら困る」
「大きくしたくないの?」
「したくない!俺男だし」
 
「でもみんな、くーにんのこと、ほぼ女の子と思ってるよね」
「それ困ってるんだけどねー」
「そろそろ諦めてスカート通勤すればいいのに」
「やだ」
 
「でも、くーにん男物の服自体無いよね」
「そうだな。誰かさんが男物の下着とか、処分してるみたいだし」
 
「くーにんは可愛いから、女の子下着着けたほうがいいんだよ」
「言っとくけど、俺、女になるつもりはないからな」
「もちろん、分かってるよ、マイハニー」
と言って、キスしながらあそこを揉む!
 
「でもそもそも俺が女下着とか着けてて、まこ気にしないの?」
「ぼくはくーにんと、ペアランジェリーが出来て嬉しい」
「まあいいけどね」
 
「それに性別なんて意識の問題だもん。くーにんが自分は男だと思っていれば、それで、くーにんは男の子だし。女物下着つけてようが、スカート穿いてようが、お化粧してようが、立派な男の子だと思うよ」
 
「そうかもね」
「だからスカート穿いて、お化粧して通勤してもいいよ」
「やだ」
 
あれ?そういえば俺の紳士用スーツ、家に一度持って帰ってきたような気がするけど、その後、どこにやったっけ?と考えてみたものの、邦生は分からなかった。
 

「だけど、まこって、いい意味で普通の女の子だよな」
「なにその普通って」
「いや、MTFの子って、概して物凄く女らしいことが多い」
「思う。MTFさんって、普通の女以上に女らしいんだよ」
「青葉なんかも最近は普通になってきたけど、中学の時に転校してきたばかりの頃は、物凄く女らしかったよ」
「へー」
「明恵ちゃんとかが、そういう意味で女らしい」
「そうそう。あきちゃんって、女らしくて、ぼく負けそうと思う」
「だから明恵ちゃんと、まこって立場が近いみたいなのに傾向がかなり違う」
 
「あきちゃんは自分の女性傾向を高校に入る頃までは隠してたみたいだからね。ミステリーハンティング同好会に入って、自分と似た立場の人とたくさん会って、カミングアウトしてきた。ぼくは最初から女の子だったから」
 
「まこは、子供の頃からスカート穿いてたって、お父さん言ってたね」
 
2人は双方相手の親に挨拶もしてきて、将来2人が結婚することも承認してもらっている。邦生の両親は、真珠が元男の子と聞いても「うちの息子も女になっちゃうかも知れないし」などと言っていた。真珠の両親は邦生のことを最初女性と思い「まあレスビアン婚もいいんじゃない?」と言ってから、邦生が男と聞き「FTMさんですか?」などと尋ねて来た。
 

「ぼくは物心ついた頃から、男の服を着た記憶が無い。お兄ちゃんのお下がりの服を渡されても着るの拒否して、女の子の服を着てたらしい」
「徹底してるね」
 
「幼稚園も女子制服で通って、小学校の時もスカート穿いてること多かったし、女子トイレ・女子更衣室使ってたし、身体測定も女子と一緒に受けてたし、中学も高校も女子制服で通学したし」
 
「凄いじゃん」
 
「あきちゃんは、ぼくのこと最初、男の子になりたい女の子と思ってたって」
「MTFとFTMって結果的に形態が近いからなあ」
 
真珠の“骨格”が明らかに女の子であること、身長も150cmくらいと小柄。そして真珠には喉仏っぽいものも無いし、体毛も薄いことから、邦生は、真珠が恐らく小学生の頃から女性ホルモンを飲んでいたのだろうと想像している。でもそういう“舞台裏”のことは敢えて訊かない。多分男性能力を喪失していたから、女子更衣室の使用なども認められたのだろう。実際彼女は射精の経験が無いと言っていた。最初はオナ禁してたのかなとも思っていたが、むしろ睾丸未発達だった可能性が高い。
 
「部活は女子ソフト部に入って女子と一緒に練習してたけど、公式戦には出ない。練習試合にはたくさん出たけどね」
 
「練習試合だとこちらも向こうもそういう選手に出て欲しいと思うよ」
「でもぼく、女子とほとんど筋力が変わらないから『なーんだ』と言われた」
 
「あはは。でも楽しかったでしょ?」
 

「うん。楽しかった。でも全然女らしくないと言われる。あきちゃんは髪伸ばしてるけど、ぼくはショートカットだし。そもそもぼくって、ぼく少女だし。高校時代に女の先生に指導されて、あらたまった場所では“私”と言えるようになったけどね」
 
「ぼく少女も可愛いと思うよ。だいたい男か女かなんて、厳然と区別できるものじゃない、性別曖昧な人は多いよ。性別は二分法ではなく程度で言うべきもの。男25%女75%とか」
「ぼく自分では男30女70くらいかなと思う」
「もう少し女が強い気がする。多分女85くらい」
 
「そうかな。くーにんは男40女60くらいでしょ?」
「自分では男90くらいのつもりだけど」
 
「いや、半々に近いと思うよ。そろそろくーにんも『本当はぼく女の子になりたい。ちんちん取ってもいい?』とかカムアウトしよう」
 
「なりたくない!ちんちんも取りたくない!」
 
「じゃ取り敢えず去勢手術か豊胸手術受けない?」
「どちらも嫌だ」
「だったら造膣手術するとか」
「ちんちんは取りたくないって」
「ちんちん温存したままヴァギナ作る方法もあるらしいよ」
「ヤオイ穴かい!?」
 
陰茎は根部まで辿っても、陰茎海綿体が恥骨下部、尿道も膀胱の所までしか無い。女性の外陰部を見てみれば分かるように、女性の膣は当然膀胱・尿道よりずっと後ろにある。だから陰茎を傷つけずに膣を設置することは原理的には可能なはず??
 
↓股間超略図

 

熊谷で若杉千代のトリビュートアルバム用の編曲作業をしていた青葉は、3月29日に最後の曲の編曲を仕上げ、東京の花ちゃん(川内峰花=山下ルンバ)に送信した。30日の午前10時頃に「これで行きます。ありがとうございました」という返信があり、今回の一連の青葉の作業は終了した。それでお昼には助手の南田容子・立花紀子と簡単な打ち上げをしてプロジェクトを解散することにした。
 
11時頃、ケイから電話がある。
「青葉、日本選手権まではこちらに居るよね?」
「それは分かりません(警戒している)」
「ミュージシャン・アルバムの取材をしたいんだよ。こちらもラピスラズリの日程を調整するから、3日くらい時間取れない?」
「そのあたりは何ともいえません(とっても警戒している)」
「午後そちらに行くよ。まだ居るよね?」
「さあ、どうでしょうか」
「まあ取り敢えず行くよ」
 
ということで電話を終えた。青葉はこのままだと次から次へと用事を頼まれて練習時間が全然取れなくなる危険があるぞと思った。
 
どこか逃げる?
 
でもどこに逃げよう。高岡に戻っても幸花にあれこれ頼まれそうだしなあと悩んだ。コロナが無ければ海外逃亡したいくらいだ。
 
なお、青葉は桜坂プロデューサーが退職し、神谷内が「いしかわ・いこかな」の全体を見ることになり、幸花が霊界探訪の責任者になったことは、神谷内さんからの直接のメールで聞いている。
 

青葉たちはお昼を食べたら解散するつもりだったのだが、ケイが来るというので、一応それを待つことにした(本音としてはどこかに逃亡したい)。
 
13時頃、3人でおやつを食べていたら、突然コテージのドアが開いた(コテージは自動ロックなので閉めれば鍵が掛かる。だから通常開けることはできない)。
 
そしてショッカーの怪人の格好(つまり全身タイツに顔までマスク)をした女性(胸があるので女性と判断した。でも男の娘かも?)が4人、乱入してきた。南田容子が「キャッ」と声を掛ける。立花紀子は呆れて見ている。
 
「ショッカーだ。お前を拉致して改造人間にする」
とリーダー?っぽい人物が青葉に言う。4人の内のひとりはテレビカメラを持って撮影している。
 
「ちー姉、何の冗談?」
と青葉が脱力したように言う。
 
「チーター女とイルカ女のどちらになりたい?」
「その2択なの〜〜?」
「お勧めはイルカ女だ。水泳で世界記録更新できるぞ」
「イルカだと人間の大会の出場資格が無い気がするし、泳法違反になっちゃう!」
「あるいはアシカ男にしてもいいぞ。ペニスがデカくていいよ」
「男にするのは勘弁して〜!!ちんちん要らない!」
 
「取り敢えず拉致する」
と言って、ショッカーの戦闘員たちは青葉にわざわざ猿ぐつわと目隠しをし、コテージの外に連れ出してしまった。カメラで撮影していた人物も後を追う。
 
立花紀子は青葉がいつも持っているバッグをそのカメラを持った人物に渡した。
「これ大宮先生のバッグです」
「ありがとう」
と言って、カメラ係は言ってから出て行った。
 
(コテージ内を監視しているAIはテレビカメラが一緒だったことで、犯罪ではなくドラマか何かの撮影と判断した)
 

「何なの〜〜〜!?」
と南田容子。
 
「仮面ライダーごっこでは?」
と、立花紀子は呆れたように言った。
 
「この後、どうする?」
「ケイ会長が来るのを取り敢えず待とう」
「そだねー」
 
30分ほどして、ケイがコテージに来た。ケイはちゃんとドアベルを鳴らし、南田容子がカメラで確認してドアを開けた。
 
中に居るのが南田容子と立花紀子だけなので
「青葉はプールに行った?」
と訊く。
 
「ショッカーに扮した醍醐春海先生に拉致されて行きました」
と立花紀子が答える。
 
「先を越されたか!」
とケイは天を仰いだ。
 

さて、青葉を拉致した一行は、表に駐めてあったカートに乗ると、堂々と道を走って行く。白雪城のそばを通るので、並んでいる人がみんなこちらを見る。
 
「私たち顔を隠してるから大丈夫よね」
「青葉さんだけが見えてる」
「なんか恥ずかしー」
 
カートは白雪駅で停まる。そのまま郷愁ライナーに乗って!郷愁飛行場に向かった。郷愁ライナーにも乗客が居たが、みんな知らんぷりしている。何と言ってもテレビカメラが他の4人を撮しているのが説得力がある。みんな映画かドラマの撮影なのだろうと思っているようだ。
 
そのまま飛行場前で降り、Honda-Jetblackに乗りこんだ。空港の職員も普通に案内してくれた!やはりテレビカメラの効果は絶大である。
 
タラップを登る所は危ないので目隠しを外す。青葉が千里に脳間通信で
『抵抗しないから、猿ぐつわも外してよ』
と言うので、猿ぐつわも外す。
 
「この色の機体は初めて見た」
「私が個人で買った機体。特別塗装」
「へー!」
 
「青葉ちゃん、お疲れー」
 
と笑顔で言っているパイロットは、エリッサ・ヴェルニエさんだ。“琴沢幸穂”のとりまとめ役をしている天野貴子さん(事実上の千里姉の秘書)の友人らしい。スペイン人だが、日本の永住権を持っており、コロナが流行り始めた2020年春以降は日本国外には出ていないと聞いた。千里姉としても使いやすいパイロットなのだろう。
 
飛行機が離陸してから、全員覆面を脱ぐ。
 
青葉は前向きの席で、その前が真珠。青葉の横が初美でその前が明恵である。千里は離陸の時は補助席に居たが上空に達すると、サロンに来て床に座った。
 
「青葉さん、済みません。どうしてもこれ以上は青葉さんが居ないと制作が進まない状況なので」
と全員を代表して真珠が謝る。実はこの中で唯一の〒〒テレビスタッフ(AD)である。
 
「だから私が青葉を拉致しようと言った」
と千里。
「全くもう」
と青葉。
 
「事件が解決したら、すぐ熊谷でも浦和でも八王子でも、どこでも好きな所に連れてってあげるから」
 
「八王子って何があるんだっけ?」
「アクアの家の地下に、五輪の時に使った臨時プールを移設してる。25mだけど」
「そんな所に移設したんだ!」
「アクアの家が八王子にあること自体、ほとんど知る人間がいないし、アクアは絶対秘密を守ってくれるから、干渉されずに練習できるよ」
「それいいかも知れない」
 
「君たちも、このことは誰にも言わないでね」
 
と千里が言うと、明恵・真珠・初海が「はい」と返事した。
 

「で、どういう事件なの?例の白いセダンの話?」
と青葉は脱力したように尋ねた。
 
「そちらはあまり進展無いんですよ。それより急浮上した案件があって」
 
と言って、真珠は“白い虎の怪”事件の概要を説明した。時々明恵が補足する。青葉は途中から目を瞑り、腕を組んで考え込んでいた。
 
「猛獣が出るという点では巨大熊事件と少し似てるね」
「ええ。でも今度のは見た人が全員“虎がいたような気がしたけど、気のせいかも”と言っているんですよ。現実的存在感が無いんですよね」
「普通の取材チームなら“気のせい”で片づけてしまうだろうね。そして飲みすぎに注意とか、夜中にひとりで出歩くのはやめようとか」
 
「でも霊界探訪は違う」
 
「これ放っておけばその内出なくなる気がする」
「だからその前にドイルさんのパワーで処理を」
 
「ちー姉は現場を見た?」
「見てない。青葉に先に見てもらったほうがいいと思って」
 
つまり千里姉が先に行って“うっかり”解決してしまったら、番組にならないから、青葉がそこに行くまでは千里姉も行かないようにしていたということだろうなと青葉は思った。遠慮しなくてもいいのに!
 
「明恵ちゃんは現場を見たんでしょ?何か感じなかった?」
「気のせいだとは思うんですけど」
「いや何でもいいから言ってみて」
「何か鉱物系の臭いを感じた気がしました」
「なるほどねー」
 

Honda-Jetblackは (3/30 Wed) 15時頃に能登空港に着陸した。
 
そこから千里のMazda CX-5 に5人で乗ってS市に向かう。例によって運転するのは初海である!明恵は青葉・千里のバックアップとして必要だし、真珠は取材の責任者なので、結果的に初海がドライバー役にならざるを得ない。
 
「初海ちゃんは就活の進行状況は?」
「公務員狙ってるんですけどね。私コネとか無いから、どうなることか」
「初海ちゃん、1年生の時から公務員特別授業を受けてたもんね」
「凄いよね。私とかとてもそんな余力無かった」
などと真珠は言っているが、真珠は遊ぶのに忙しくて余分な授業に出られなかったのではと青葉は思った。2年生以降はコロナで自粛したようだが、1年生の時は、赤い公園のツアー全会場制覇したとか言ってたし(津野米咲が亡くなった時はしばらく喪章を付けていた)。
 

真珠と明恵は「変な予断を与えることになるかも知れないけど」とは断った上で、飛行機の中、そして車の中で、様々な類話かと思えるものを語った。
 
・一休さんと屏風の虎
・傾城反魂香(絵に描いた虎が現実化し、それを絵筆で消す)
・安部公房の「魔法のチョーク」
・「陰陽師」の「梔子(くちなし)の女」
・ゴーレムを崩す方法
 
「無関係の話も多いと思いますが」
「いや充分参考になるよ」
と青葉は言った。
 
やがてS市に到着し、ホテルに入る。
 
そのホテルの部屋で、これまでの取材ビデオ(全部で6時間くらいある)をこの夜に3時間、一晩寝て、翌日(3/31 thu) の午前中に残り3時間ほど見てもらった。奈良や京都に取材に行って来たものも含まれている。
 
「この朝護孫子寺、私も一度行ってみたいなあ」
「いい所でしたよ」
 

青葉は
「少し寝る」
と言って寝てしまう。明恵・真珠・千里も少し寝ることにする。初海が起きて待機している(青葉が逃げないよう見張り!)。
 
青葉は『きっと、ちー姉の眷属も見張ってるだろうな』と思い、逃げるのは諦めて自分を眠りに導いた。
 
でも、ちー姉の眷属って多分20-30人居そうだけど、3人あるいは6人の、ちー姉にどう対応してるんだろう?1人5〜6人ずつ??それとも全員が全眷属をランダムに使っている!??(*11)
 

(*11) 基本的には、美鳳さんが付けてくれた十二天将は千里本体?である1〜3番に付いている。播磨工務店は元々千里4の眷属であるが、2番も支援する。ハルコンズは最初3番が管理していたが、コシネルズが1番の担当だったのが一時的に能力を失い3番が見るようになったので、ハルコンズは2番に託した。このようなグループに所属しない数人の眷属があるが、各々の事情は書き出すと100行くらいを要する。
 
天野貴子(きーちゃん)千里の最終守護神だが、彼女は4〜6番を知らない。実は彼女は4番の眷属なのだが、きーちゃん自身、そのことに気付いてない。
 
花星は基本的に5番の眷属だが、元々彼女を拾ったのは4番。
 
湖鈴(コリン)は4番の眷属である。
 
和城理紗は千里1の眷属だが、葉月に付けていて、葉月が過労死しないように注意している!
 
(カブちゃんや豆腐ちゃんに代理をさせる:カブちゃんは葉月の代役を務めるため声変わり防止で睾丸を(ついでにペニスまで)取り外されたが、結局まだ返してもらってない!時々「ちんちん欲しいよぉ」と泣いている)
 
祐川紡貴(月夜)とエリッサ・ヴェルニエ(工藤映玲南・絵姫)は、きーちゃんの友人なのでサポートに加わるが誰かの眷属ではない。
 
キタキツネたち(小町と小糸の子孫たち:つまり2家系ある)は元々は“千里Y”の眷属であったが、現在その管理は千里6が引き継いでいる。
 
竜崎由結は龍虎の眷属である。
 

19時頃青葉は目を覚ます。青葉が起きると千里姉も起きる。続いて明恵も起きるが真珠は眠っているので、とりあえず寝せておく。千里が“暖かい”お弁当を配る。今更この程度では驚かないからね!明恵は恐らく千里が眷属に買って来させたのだろうと推察しているようだが、初海は「あれ?」という顔をしていた。
 
「そろそろ出掛けようか」
と20時頃、青葉は言った。
 
それで真珠を起こす。千里姉が“暖かい”ハンバーガーを渡すので食べていた。それで初海はお留守番(寝ている)をして、明恵・真珠・千里・青葉の4人で出掛けた。
 

コロナが(一時的に?)落ち着いているので、商店街も人が多い。多くはどこかのスナックで飲んで帰る客、あるいはこれから更に飲む客か。
 
青葉・千里・明恵の3人が歩いている所を真珠が撮影している。
 
バッタリと遙佳およびお父さん?に遭遇する。
 
「取材ですか?」
と遙佳が声を掛ける。
「うん。君も来る?」
と真珠が言う。
「行きたーい」
と言って父親を見る。
 
「テレビ局の方ですか?」
とお父さんが訊く。
「はい、そうです。帰りは御自宅まで送り届けますよ」
と言って、真珠が
《〒〒テレビ アシスタント・ディレクター 伊勢真珠》
の名刺を渡した。
 
「じゃ10時までなら」
「やった」
「ではお預かりします」
 

「お店を手伝ってたの?」
と真珠が訊く。
 
「はい。パートさんが休んで手が足りないからと言われて。時給500円で」
「最低賃金以下だ」
「ですよねー。レストランは“妹”のほうが興味あるみたいで、土日はよくお手伝いしてるんですけど、この時間帯に中学生は使えないからと言われて」
 
「まあ中学生以下はそもそも仕事をさせてはいけないのだけどね」
 

「何すんだ?放せ」
という大きな声がする。
 
見ると50歳くらいの男性が暴れていて、警官2人に取り押さえられている。
 
「ああ、大虎だ」
 
見て居る内に、男はパトカーに乗せられて運ばれて行った。
 
「警察も毎晩虎狩りたいへんだなあ」
と遙佳。
 
「あれ?『インドの虎狩り』とかいう曲無かったですか?」
と明恵が訊く。
 
「なんか聞いたことのある曲名だね。ブラームスか誰かだっけ?」
などと青葉が言っている。
 
「違うよ。それは『セロ弾きのゴーシュ』の中で出て来た架空の曲名だよ」
と千里。
 
「え〜〜〜!?」
「そうか。あの曲か」
 
明恵が真珠に気付く。
「もしかして今の撮してた?」
「当然。このまま放送に流すね」
「うっそー!?」
 
「金沢ドイルさんが楽しい人だというのが分かる」
などと真珠は言っている。
 

「ただ、本来は架空の曲名だったんだけど、この話に刺激されて、何人もの作曲家が実際に『インドの虎狩り』という曲を書いている」
と千里は楽しそうに言う。
 
「じゃ何曲もあるんですか」
と遙佳が尋ねる。
 
「そう。多分10曲くらいはあると思う。全部まとめたアルバムでも作って欲しいね」
「へー」
「ここで大宮万葉さんも1曲書いてみよう」
「やだ」
 
「でも何で酔っ払いのことを虎というんですかね」
と明恵は訊いた。
 
「まあ立てなくなって四つ足で歩くし、手を付けられないし」
「猛獣ということですか」
 
「姿勢が定まらなくて首を振るようにする様子が張り子の虎に似ているという説もある」
「確かに張り子の虎かも知れない。偉そうにしてるけど大したことない」
 
「他に、お酒のこと“ささ”とも言うでしょ。虎が居るのは竹林だよ」
と千里は言った。
 
「結局ダジャレか」
と青葉。
 
「そうそう。世の中の25%はダジャレで出来ている」
「そうかも」

千里による“虎”の語源説明まで撮影してから更に歩いて行く。
 
それで青葉・千里が先を行き、明恵と遙佳がそれに続く様子を真珠が撮影する。
 
青葉がある交差点で立ち止まった。
 
「ここに居たね」
「うん。30分くらい前かな」
 
と青葉と千里が会話している。むろん、その会話も真珠は撮影している。明恵や遙佳には分からないようだ。恐らく気配が凄く小さいのだろう。
 
「どっちから来てどっちに行ったと思う?」
「こっちから、あっちへかな」
と青葉が指さす。
 
「どっちに行く?」
「もちろん来た方角」
 
ということで、青葉と千里はある方角へ進む。
 
交差点に来る度に青葉は少し考えるものの、だいたい2〜3秒見回すとひとつの方角に進んでいく。千里もその方角が分かるようで、2人はほぼ同時に歩き出す。明恵と遙佳がそれに付いていき、真珠がそんな4人の様子を撮影する。
 
遙佳が虎に遭遇した交差点にも来た。ここは虎さんの散歩道なのかも知れない。青葉と千里が進んだ方向は、あの時、明恵が見ていた方向だと真珠は思った。きっとあの時点では明恵も確信が持てなかったのだろう。
 
5人の行程は10分ほど続いた(そもそもあまり広い街ではない)。
 

青葉と千里はある店の前で停まった。
 
「ここだね」
「うん。ここだ」
と2人は言っている。
 
「ここは・・・・・」
と明恵が驚いたような顔をしている。撮影している真珠も驚いている。
 
「知ってるお店?」
「『いしかわ・いこかな』のプロデューサーを退任して退職した桜坂さんのお店です。亡くなったお父さんが経営していたもので、改装して4月中にリニューアルオープンするとかで、今改装工事中なんですよ」
 
「へー!」
 
「ねえ、明恵ちゃん、ここのお店の名前は分かる?看板の所にブルーシート掛けてあって、見えないんだけど」
「すみません。私も聞いてません」
と明恵は言った。
 
「明日、出直してこようか。こんな時間に連絡するのも気の毒だし」
と千里が言う。
「そだね」
と青葉も言った。
 
それでこの日はここで打ち切ろうかと言っていたのである。
 

「あ」
と最初に小さな声を挙げたのは遙佳であった。明恵も何かを見て驚いている。
 
青葉と千里が厳しい目をしている。千里は身構えている。
 
真珠は何も見えないので困っている!
 
「まこ、カメラ貸して」
と言って、明恵がカメラを“それ”に向ける。
 
“白い虎”は、ゆっくりとこの店の駐車場を歩いて行く。明恵はカメラを向けているがライトは点けない。街灯の明かりと星明かりだけで撮している(この日は旧暦2/29で月も出ていない)。明恵はライトを点けてしまうと、虎の姿はライトに負けて消えてしまうと思い、敢えてノーライトで撮影を続けた。
 
虎は一瞬こちらに目を向け、ニコッと笑いかけた気がした。向こうに敵意が無いと判断して、千里は警戒態勢を解いた(結果的に虎は命拾いした)。
 
そして虎は小走りに店の方へ進むとジャンプして、ブルーシートが掛けられたお店の看板の中に飛び込んだ。それで明恵が持つカメラも最後はそのブルーシートの掛かった看板を撮すことになった。
 
「本物が見られたのは良かった」
と青葉。
 
「これで虎の居場所が間違い無くここだと分かった」
と千里。
 
「何か可愛い虎でしたね。女の子かなあ」
と明恵。
 
「あの子、私に向かって微笑んだ気がした」
と遙佳。
 
「何も見えなかったぁ!」
と真珠。
 
果たしてビデオに映ったかどうかは微妙だなと青葉は思った。
 
これが21時半頃であった。真珠はタクシーを呼び止め、遙佳と2人で乗って彼女の家まで送り届けた。玄関の所まで出て来たお母さんに挨拶して、遙佳を引き渡し、真珠はそのタクシーでホテルに戻った。
 
ほどなく、青葉たちもホテルに戻って来た。
 

翌日(4/1 Fri)、朝食を食べた後で、朝9時、真珠は桜坂さんに電話して、気になることがあるので、再度お店を取材させてくれないかと頼んだ。桜坂さんは快諾し、9時半にお店の前で待ち合わせた。
 
青葉たちは、車が必要になるかもということで、近距離ではあるがCX-5に乗って現場に入った。桜坂さんは9:25頃にやってきた。
 
「これは金沢ドイルさん!ご無沙汰してます」
「こちらこそご無沙汰してます」
 
青葉は言った。
「桜坂さん、このお店の名前は何ですか?」
「“海鮮割烹・琥珀”です」
 
※この物語はフィクションであり、実在の商店や団体とは無関係です。
 

青葉と千里が頷いているが、明恵と真珠は分からない。
 
「桜坂さん、恐れ入りますが、そのお店の看板の所に掛けてあるブルーシートを外して頂きませんでしょうか?」
「いいですよ」
 
それで桜坂さんは、従業員の井原さんを呼び出して、2人で長梯子を使って上に登り、ブルーシートを外してくれた。真珠はこれを“撮影しなかった”。ただ、自分の目で見ていたが、井原さんが妙に影が薄い気がした。
 
看板があらわになる。
 
“琥珀”の文字の各左側が脱落していた。

 
“琥珀”の王偏が脱落しているため“虎白”に見えるのである。
 
「桜坂さん、お願いがあるのですが」
と青葉は言った。
 
「はい」
 
「うちで修理の費用も出しますので、この看板を早急に直して頂けないでしょうか」
「費用もそちらで出すって、何か大事なことなんですか?」
 
「桜坂さんに見て頂きたいビデオがあります」
と言って、真珠が背中にしょっているリュックからパソコンを取り出す。
 
「日なたではよく見えない。どこか日影になる所ないかな」
「でしたらお店の中で」
 
それでお店に中に全員入る。灯りも消してもらう。真珠がパソコンを操作する。
 
「私には見えなかったんですが、ビデオには映っていたんですよ」
と真珠は言って、昨夜明恵が撮影したビデオを再生する。
 
ここで再生しているビデオはオリジナルではなく、昨夜撮影したものから、コントラストを上げたものである。元の状態では暗闇が映っているだけだった。コントラストを上げることで、ざらついた感じにはなったものの“白い物体”が真珠にも見えるようになった。
 
ここのお店が映っている。カメラが切り替わって道路側を映す。そこに何か白いものが微かに見える。それがこちらに移動してくる。カメラの方を見て一瞬立ち止まる。その後、急に動いて飛び上がり、白い物体はお店のブルーシートが掛けられた看板に飛び込んで消えた。
 
「確かに虎でした」
と青くなっている桜坂さんが言う。
 
真珠や初海には、ただの白い物体にしか見えないのだが、青葉・千里には明確に虎に見えるらしい。明恵や、今朝ホテルまでわざわざやってきた遙佳(現在はホテルで待機中)にも“虎っぽく”見えるらしい。桜坂さんも虎に見えたようである。どうも見え方には個人差があるようだ。
 

青葉は言った。
 
「昨夜偶然遭遇して、後を追ったら、このお店の看板に飛び込んで消えました。それでこの看板に何があると思ったのですが、拝見させて頂いて分かりました。お店の名前“琥珀”から王偏が脱落して“虎白”になってしまっていたんですね。それで白い虎が出ていた。だから、この看板を直せば、虎は出なくなります」
 
「なんてこった・・・」
 
明恵は、これは『陰陽師』の『口無しの女』と同じパターンだなと思った。
 
「このお店は・・・50年くらいですか」
「40年です」
「それだけの時を経れば、ただの物質だったものも、魂を持つことがあるんですよ」
「どうしよう・・・」
 
「桜坂さん、神谷内とも話したのですが、うちは報道縛組ではないので、決してこちらのお店に責任があるかのような形にはしません(昨夜の内に真珠と幸花との電話でこの方針を決定。幸花が神谷内の承認も取ってくれた)。ですから問題解決のために、ご協力をお願いできませんか」
と青葉は言った。
 
(この場の番組制作責任者は真珠だが、青葉は番組の冠にもなっているし、またここにいる中では最年長に“見える”のでこの役目を果たすことにした)
 
「分かった。協力する」
と桜坂さんは唇を噛みしめながら言う。やはりマスコミ人としての責任感を感じているのだろう。普通の店主さんなら、知らぬ存ぜぬと言い張るかも知れない。
 

「この看板の王偏の所が脱落したのはいつですか?」
 
「12月31日の地震の時に落ちたんですよ」
「それで1月頃から白い虎が目撃されるようになったんですね」
 
「でもあの虎、悪いことはしてなかったみたいね」
 
「鬼が人を襲おうとした所で、虎がその鬼を倒してくれたのも目撃されてますし、夜中にひとりで歩いていた女の子をガードしてくれたりしてるんですよ。変な男が女の子に接近しようとしたのを威嚇してくれたり」
 
「本人は、夜中には、弱い妖怪とか小鬼とかが出没するから、そういうのを食べていたんだと思います。見た瞬間、人間とかは食べてないと思いました」
 
「私も同感」
 
真珠は幸花に電話した。
 
一方千里はホテルで待機している遙佳に電話して何か頼んでいる様子だった。
 

初海が洋菓子屋さんでケーキを買ってきた。また明恵が缶コーヒーを買ってきて、みんなでお店の中で食べた。真珠は「気晴らしに」と言って、2月に信貴山・鞍馬寺・貴船神社に行って来た時の映像をみんなに見せた。桜坂さんや井原さんも「ここ凄いね」と言って見ていた。
 
幸花は実は朝からこちらに向かっており、11時頃、到着した。神谷内さんも一緒である。事態が重大なので一緒に来たのだろう。
 
神谷内さんが来ると、桜坂さんは
「みんなに迷惑を掛けて、何とお詫びしたらいいか」
と言って、少し思い詰めたような表情で謝っていた。
 
神谷内さんは
「この件は、決してこちらのお店に責任があるかのような形にはしないから」
と青葉も言ったことを再確認した。
 
「ドイルさん、物語の結末を少し変えさせてもらっていい?」
「いいですよ。『北陸霊界探訪』は報道番組ではなくバラエティですから」
と青葉は笑顔で答える。
 
「ここに来る途中考えていたんだけど、傾城反魂香の方式で行こうよ」
「つまり絵筆で描き消してしまうんですね。それが誰も傷つけずに済む気がします」
と青葉は言う。青葉も収拾の仕方について考えていたのだろう。
 
「絵筆より、練り消しのほうが説得力あるかも」
と幸花。
 
「ではそれで」
 

「桜坂さんは、この看板すぐ直せます?」
と神谷内が訊く。
 
「脱落した部分は、落ちた時に割れてくずくずになってしまったんですよ。なにしろ40年前に作ったものだから、業者に作り直しを頼むつもりだったけど、それだと時間が掛かるから自分で直しますよ」
 
「プラダンか何かで成形します?」
「浮き出てる文字を全部取り外して、ペンキで描こうと思います」
 
「その方がいいかもね。伊勢ちゃん、桜坂さんと一緒にムサシに行って、塗料とハケとマスキングテープとビニール手袋を買ってきてくれない?」
 
と言って、神谷内さんは真珠に1万円札を2枚渡した。
 
「行ってきます、桜坂さん、行きましょう」
「うん」
 
それで真珠は桜坂さんをCX-5に乗せてホームセンターに向かった。
 
真珠に頼んだのは、やはりこういう時に最も頼りになるからだろう。基本的に桜坂さんからは絶対に目を離してはいけない。それが確実に出来るのはここに居る人間では真珠と幸花だけである(明恵や千里はとっても危ない)。幸花は番組の責任者だから現場を離れられない。
 

桜坂さんが材料を買いに行っている間に、神谷内さんは従業員の井原さんと協力して、残っている「虎白」の部分も、留めているネジを外して、全体を取り外してしまった。文字部分はかなりボロボロで、指で簡単に穴が空く状態であった。そもそもネジからして腐食していたし、ネジ穴も広がっていた。残りの部分の崩落も時間の問題だった。
 
「何かの樹脂だったようですね」
「プラスチックは日に当たっていると結構劣化しますからね〜」
 
やがて真珠たちが戻って来る。
 
「1万円もしませんでした」
と言って、真珠がお釣りを渡す。
 

そして桜坂さんは梯子に登って“琥珀”という文字のレリーフが取り付けてあった場所に塗料をハケで塗って、平面的な文字として“琥珀”という看板を復活させた。
 
「これで大丈夫ですね」
と青葉は笑顔で言った。
 
「この取り外したレリーフはどうする?」
「ああ、捨てておこうか」
と桜坂さんが言ったが
 
「私がもらっていいですか?」
と千里が言うので、神谷内さんは千里に渡した。
 
『何かする気だな』と青葉は思った。
 

「じゃ、うまく編集して、この看板のせいではなかったことにするから。昨日のビデオもお店が映る部分は流さないから」
「恩に着ます」
 
神谷内は桜坂さんに奧さんを呼び出してもらい、簡単に事情を話した上で、「御主人から絶対に目を離さないようにして欲しい」と言った。奧さんも了承した。神谷内は
「お店のリニューアルオープンの前祝いに。これで何か甘いものでも買って食べて下さい」
と言って、祝儀袋を奧さんに渡した。
 
「すみません」
 
それでこの日は全員ホテルに引き上げたのである。遙佳はいなかったが、千里が「秘密のミッションを頼んだ」と言っていた。
 
神谷内さんと幸花もこの夜はホテルに泊まった。だから、ホテルの部屋はこのように取られた。
 
・青葉と千里
・明恵と真珠
・初海と幸花(シングルからツインに変更)
・神谷内
 

3月29日から4月2日まで、真珠が取材に出ていたので、邦生は、夜にはLINEで話はするものの、やはり寂しいなと思った。
 
瑞穂が3月31日までは居たが、勝手に人の衣裳ケースを見ては
「美事に女物しか無いのね」
などと言っていた。
 
瑞穂は御飯を作ってくれたり、洗濯をしてくれたりする子ではないので、真珠が出ている間は、邦生が御飯を作り、洗濯物なども瑞穂の部屋に脱いだまま放置されている服を「これ洗っていいの?」などと言って回収し、洗濯機に放り込んでいた。普通の兄妹なら、兄が妹の部屋に勝手に入って服に触ったりすることはあり得ないが、邦生はさんざん女子の友人を泊めて、彼女たちの服を回収しては洗濯していたので、その感覚の延長である。瑞穂も邦生が勝手に入ってくるのは気にしないようである。
 
「まあ私たち姉妹だしね」
などと瑞穂は思っていた。
 
3月30-31日は、“邦生を含む女子5人で”新人研修の会場に行き、本店から来た5人と一緒に、ビデオ研修の設営をしたり、新人が宿泊する部屋のネット環境を整えたりする作業に参加した。
 
「吉田さん、妹さんが今年新人で入るんでしょ?どこの支店に行くの?」
「小立野支店だそうです」
「ああ、姉妹同じ支店ではないのね?」
「姉妹だから分けるんだと思いますよ」
 
(↑自分で“姉妹”と言っている)
 
「ああ、そうだよね」
 
4月1日朝には、瑞穂は邦生が作った朝御飯を食べ、
「お姉ちゃん、行ってきまーす」
と言って、真珠のスペーシアに乗り、入社式・新人研修の会場に出掛けて行った。
 

(4/1) 夜、青葉や真珠たちは“浄化場面の再現ビデオ”を撮影しに出る。
 
またまた初海はお留守番で、青葉と千里、明恵と真珠、遙佳!、それに幸花と神谷内の7人で出掛けた。
 
青葉・千里・明恵・遙佳の4人が夜の町を歩いているシーンを真珠と幸花が同時に2方向から撮影する。幸花以外は昨夜と同じパターンである。神谷内はそれを見守っている。
 
「虎の気配がある」
と青葉が言い、千里も頷く。その気配を追って歩いて行くと、遙佳が虎と遭遇した交差点にも来る。
 
「あ、私が虎さんと会った交差点だ」
と遙佳(なかなか名演技)。
 
更に歩いて行くが、ここから先は実際の虎ルートとは全然違うルートを進む。やがて、一行は農道に入り、竹林の中に来た。虎と竹林というのは、よく似合う。
 
(日本では虎は出ないが、竹林にはイノシシがよく出るので注意)
 
「見付けた」
と青葉が言う。
 
指さす先には何も無いのだが、あとでCGで虎を描き加える。
 
青葉は漫画に出てくるような“骨付き肉”の絵を描いたキャンバスをバッグの中から取り出した。そして“虎のいる方角に向かって
 
「おいで。美味しいお肉だよ」
と声を掛けた。”
 
虎が起き上がってこちらに来る。青葉がキャンバスを道に立てる。すると虎は歩いて、そのキャンバスの中に入った(というシーンをCGで描き加える予定)。
 
青葉は急いでキャンバスの右下に梵字の阿字、左下に梵字の吽字を書き入れた。そして数珠を持ち、印を結んで
 
「ナウマク・サマンダ・ボダナン・ヴァイシュラマナダヤ・スヴァーハー」
と何かの(?)真言を唱えた。
 
これで虎は勝手に出て来られなくなる(という設定!)
 
青葉がキャンバスをカメラに見せる。そこには美しい白虎がお肉を食べている絵があり、キャンバスの右下・左下には、青葉の描いた封印があった。
 
「封印完了です」
と青葉は言った。
 
「ちゃんとお肉を食べられたみたい」
「良かった」
と明恵と遙佳が言った。
 

この方法が採られたのは、初海が
 
「虎さんを消しちゃうなんて可哀想」
と言ったので、真珠が代替策として
 
「元々絵から抜け出してきたものなら、絵の中に戻そう」
と言って、こういうストーリーを考えたのである。
 
虎の絵を描いたのは遙佳である。4月1日の昼前から夕方まで掛けて描きあげた力作である。千里はこういう展開になることを予測して、遙佳に絵の制作を依頼していた。青葉が最初に見せたキャンバスはこの絵が完成した後で、同じ位置にお肉を描いたもの。そちらはその場で青葉が封印の印を描いたが、虎の絵が描かれた方のキャンバスは、最初から青葉が梵字を描いておいた。また、虎が入っている方のお肉は囓られており、虎の無い方のお肉は無傷である。だから、両者を続けて見ると、虎が絵の中に入ってお肉に囓り付いたかのようである。
 
また後にビデオに描き加えられた虎のCGはこの遙佳が描いた虎の絵を参考に、似た雰囲気で描き加えている。
 

この“虎の絵”はあらためて青葉から遙佳に託された。
 
「ごはんたくさん食べられるように、うちのレストランに飾っておこう」
と彼女はカメラの前で言っていた。
 
「餌の絵を描いてあげてね」
と青葉が言ったところで撮影完了である。
 

ホテルに戻って1泊した後、4月2日の午前中、ホテルの会議室を借りて総括の編集会議と、最後のまとめの撮影も行った。これにはまたホテルまでやってきた遙佳も出席した。今回は遙佳大活躍であった。虎の絵は本当に遙佳の父(渡辺館長の娘の夫)がシェフをしているレストランに飾られることになった。実際問題として、放送局が持っていても仕方ない。
 
撮影が終わった所で、千里が遙佳に声を掛けた。
 
「そうだ。遙佳ちゃん、これあげるね」
と言って千里は彼女にペンダントを渡した。
 
チェーンはプラチナっぽく見えたが持ってみると軽いのでびっくりした(千里所有の工場で生産しているプラスチーナという、“一見プラチナに見えるプラスチック”)。
 
「琥珀のペンダント?」
「琥珀ちゃん、あるいはアンバーちゃんと呼んであげてね」
「もしかして、これ、あの白い虎ですか〜?」
「いい子だよ」
と千里は言っていた。
 
「塾とかで遅くなった時のボディガードとかには役立つよ」
「あはは」
 
また白い虎の噂が立ったりして!?
 
千里は、看板から取り外した“虎白”の文字の残骸、また肉の絵と青葉の書いた梵字だけが入ったキャンバスも遙佳に渡した。
 
「こちらのキャンバスにも同じ絵を描いちゃお」
「それもいいかもね。依代は複数あったほうが安心」
 
「虎が2匹出て来たりして」
「結婚して増えたりして」
 

青葉は虎といえば天津子の“ペット”のチビだよなあと思った。
 
あの虎は今一教育がなってないけど!
 
でもあの虎、どうも過去に千里姉と何かあったっぽい。千里姉を極端に恐れている。
 
私も一度ペシャンコに潰してやったけど!
 

千里がほっともっとのお弁当を配ったので、みんなそれを食べる。
 
(この場所から100km以内に、ほっともっとの店舗は無い!)
 
そして解散した(4/2 13:00).
 
Mazda3は初海が運転して、幸花と神谷内を金沢まで運んだ。
 
一方、CX-5は千里が運転して、青葉を助手席、明恵と真珠を後部座席に乗せ、能登空港に向かった。そして空港で千里と青葉が降りる。
 

「でも私、実は今回何もしてない気がする」
と、飛行機に乗り込み、離陸を待ちながら青葉は言った。
 
「まあブランド料だよね。看板の件は、青葉が指摘したから、桜坂さんは納得した。真珠ちゃんとかでは納得しない」
と千里は言う。
 
「最後もわりと誤魔化したし」
「あれも金沢ドイルだから視聴者は納得する」
「まあこの番組はバラエティだからね〜」
と青葉も投げ槍に言った。
 

Honda-Jetblackで千里たち(?)が熊谷に向かって飛び立ったのを見送り、明恵と真珠はCX-5を交替で運転して金沢に戻った。
 
「飛行機離陸する時、あっちゃん何か首傾げてたけど、何かあった?」
「うーん・・・きっと気のせい」
 
今回、青葉は3月30日に拉致されてきて、4月2日に関東方面に戻った。足掛け4日間の北陸滞在であった。そして今回も青葉は高岡の新居には1度も寄らなかった!
前頁次頁目次

1  2  3 
【春虎】(3)