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■男の娘とりかえばや物語・尚侍復帰(3)

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このようにして、帝のお渡りは3晩続き、花久が用意させていた餅を帝が頂き、これで尚侍は帝の妻ということになったのです。
 
これ以降、尚侍(涼道)は、帝の妻なので昼間でも傍にお召しになることもありましたし、様々な行事でも他の3人の女御に準じて扱われるようになりました。
 
左大臣は喜び、尚侍の調度や侍女の服なども新調して立派なものに換えてあげました。またこれを機会に、尚侍の侍女と右大将の侍女を一部入れ替え、涼道に小さい頃から付き従っていて、兄妹の入れ替わりについても知っていた者(少輔命婦・加賀の君・小竹など)を(新)尚侍に付けてやりました。
 
しかし新参の妻は当然先輩の妻たちに無茶苦茶嫉妬されることになります。そこで尚侍(涼道)に代わって、兄の右大将(花久)は、弘徽殿女御、梅壺女御、麗景殿女御の各々に豪華な贈りものをし、
 
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「新参者ですが、よろしくお願いします」
と挨拶をしました。
 
花久が麗景殿女御のところに挨拶に行った時、女御は御簾の中におられるのですが、そばに控えている多数の女性の中に、妙にこちらに視線をやる女性がいて、花久は何だろう?と思ったものの、営業スマイルで彼女に会釈をしておきました。彼女はぽーっと頬を赤らめていたので、好かれちゃったかな?と思いました。
 
花久は知らなかったものの、これは女御の妹・楠子でした。
 
梅壺女御(萌子の姉)の所では
「妹君にも大変お世話になっておりまして」
と挨拶しましたが、女御は権中納言にまつわる一連の騒動も聞いているので
「いや、こちらこそ妹の不始末で心配を掛けた」
と向こうが謝っておられました。
 
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3月、右大将と尚侍が共同で建設していた二条堀川の殿が完成しました。それで、吉野の姉君・海子女王を迎えることにします。
 
3月10日、右大将(花久)自身が立派な行列を仕立てて、吉野宮に参ります。そして吉野宮にあらためて挨拶しました。
 
この時点で姉君が都に移ることは決めていたのですが、妹君についてはどうするかまだ決めていませんでした。妹君も姉と一緒に行くか、父の元に残るかかなり迷ったのですが、やはり若いだけあり都での暮らしに関心があったので姉と一緒に都に行くことにしました。
 
それで右大将は、宮がひとりになってしまうので、不自由の無いように、多数の従者を仕えさせようとしたのですが、宮は辞退しました。
 
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「娘たちの行く末だけが心配でした。後は、右大将殿に任せてよいようなので、私は、隠棲するのにふさわしい、もっと山の中の庵に移ることにします。後は2〜3人の腹心とだけで静かに暮らすつもりです」
とおっしゃいます。
 
右大将はまだまだ宮には習いたいことがあるのにと言いましたし、そんな山中に移ったら、娘達も気軽に会いに行けないというので娘たちも泣きますが、
「ずっと本来の出家を保留していただけだから」
とおっしゃいます。
 
それで右大将も、この吉野のお館に、連絡役として2〜3人の従者を置き、時々宮の庵を訪れて不便しているものが無いかなど尋ねさせましょうということにします。それで元々宮に仕えさせるつもりであった者の中で特に信頼できる男、何かの時のために武術に秀でた男などを、この宮に残すことにしました。
 
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吉野の姫君たちを移す行列は牛車が13台もあり、これに多数の女童、仕丁などを引き連れていました。一行は奈良の都で一泊し、3月12日に都に辿り着き、姫君たちとそれに仕える女房たちを、建物の北の対に入れました。
 
ここは二町を築地で囲い、その中に更に築地を造った中に、中央の寝殿を囲んで3つの対が建てられています。中央の寝殿が右大将の居場所ですが、表向きには侍女などの部屋という建前で、実は尚侍の里下がりの時のための部屋も存在します。
 
北の対が吉野の姫君たちのための建物、東側の洞院通りに面した側の対に右大臣の四の君を迎える予定ですし、西側の堀川通りに面した側の対は、表向きには尚侍の里下がりの時のためと言っておいて、実は東宮をここにお迎えするためのものです。実際この西の対の設計は雪子の好みに合わせて作られているのです。
 
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結局、3人の妻を3つの対に1人ずつ置こうという魂胆なのでした。
 

さて、昨年は元々国全体の統制が弛んでいたのを雪子東宮の力で何とか引き締めていたのが、肝心の雪子が“ご病気”で寝込んでおり、今後のホープと思われていた右大将・権中納言の2人が出仕せず、特に右大将は行方不明。更に右大将の失踪でショックを受けた左大臣が床に伏し、ということで昨年春以降、朝廷自体が機能麻痺状態に近くなっていました。
 
大納言・藤原宏長、左近大将・源利仲が必死で引き締めていたものの、2人だけでは手が回らないのが実情でした。
 
病気から回復して(実は出産を終えて)公務に復帰した雪子東宮は再引き締めに尽力することになります。雪子は行啓を企画しました。
 
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雪子が向かうことにしたのは、昨年、援軍を求められたものの朝廷の兵の数が足りず“雪子”が指示して、清和源氏の手の者を代理で差し向けた土佐です。
 
病み上がりで大丈夫か?と帝は心配したのですが、雪子は言いました。
「右大将をお借りします。彼を連れて行けば右大将の健康に懸念を持っていた人たちも右大将への信頼を回復し、一石二鳥です」
「右大将こそ大丈夫なのか!?」
 
帝は心配でなりません。
 
「大丈夫ですよ、お務め果たして来ます」
と雪子は答えました。
 

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それで3月下旬、東宮は右大将および近衛兵300名を連れて土佐へ向けて出発したのでした。(おかげで右大将は吉野姉君とはまだ“何もしない”まま、都を出ることになります)
 
本当は右近大将が率いるのなら1000名くらい連れて行きたい所ですが、九州、能登、関東と増援が続いていて、今兵力がやや足りなくなっており、これ以上兵を都の外に出しては都が手薄になってしまうのです。今回の300名を連れ出す際にも、万が一のことがないよう、吉野宮からのつながりで、奈良の仏教勢力に関わる兵を100名ほど都に入れることにしました。奈良勢力はあまり使いたくないのですが、背に腹は代えられない状況です。彼らには吉野宮から文を書いて頂き、吉野宮の婿である右大将に協力するという誓約を得ています。
 
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「しかし、お前と一緒の行啓も3度目だな」
と雪子が言うので
「それ、他の人が聞いたら変に思います。私の遠征は初めてなのに」
「ああ、そうだな、性転換してからは初めてだな」
「だから、そういうことを人が聞くかも知れないような声でおっしゃらないで下さい」
 
「女になったお前の“元弟”の方はどうだ?」
「帝が毎日のようにお呼びになっていて、他の女御(にょうご)方が物凄く嫉妬しておられます」
「あはは。仕方ないな。元男であった女なんてのは初めての体験だろうから、今までの姫たちには無い魅力を感じるのだろう」
 
「でも姫御子様、本当にお身体は大丈夫ですか?」
「うん。快調快調」
 

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3年前の九州行きも2年前の能登行きも陸路だったのですが、今回はほぼ全行程が船の旅になりました。京の南西、山崎の付近から船に乗り、淀川を下って大阪湾に出ます。和泉国の西岸沿いに南下し、加太の岬(淡嶋神社の付近)から友が島経由で淡路島南部に行きます。そして鳴門海峡(大渦からはずっと南方)を通り、阿波鳴門付近に到着。更に沿岸沿いに船を進めて土佐高知まで行きます。
 
行程は40日程度と思われました。
 
淀川を降りるまでは平穏な旅でしたが、さすがに海に出ると結構揺れます。東宮の侍女にしても、右大将の侍女(諸事情で右大将には女性の従者が必要)にしても、体力のあるものが付き従っているため、女性陣は結構平気だったのですが、連れている兵の中には船の揺れで酔ってしまうものが相次ぎ、中伴少将が「お前らたるんでる」と叱っていました。しかし辛いものは辛いので、右大将はあまり叱らないでやってと声を掛けてあげました。
 
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この辺りが右大将の優しさですが、東宮は「やはり元女だから優しい」などと笑って言っていました。
 
住吉の近くを通り過ぎます。
 
「土佐日記ではこの辺りで海が酷く荒れて、鏡を龍神に献じたのでしたね」
と花久が言うと
「念のため嵐になったら放り込む鏡は持って来てるぞ」
と東宮は言います。
 
「遣唐使の頃は、嵐になったら、海に放り込む人間を乗せていたらしいですね」
と中伴少将。
 
「持衰(じさい)という奴だな。まあ無茶な時代だ」
「ほんの100年くらい前まではそんなことをしていたんですよね」
「今もやってたりして」
「え〜〜〜!?」
 
魏志倭人伝にはこのような記述がある。
 
その行、来たり。海を渡り中國に詣る。恒に使者の一人は頭を梳ず。蟻蚤を去らず。衣服は垢汚。肉を食せず。婦人を近づけず。喪人の如し。これを名づけて持衰と為す。
 
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古来、虫などが付くのを放置しているというのは、西洋の古典文学(**)などにも描写されているが、修行者などに見られる行為である。あまりの不衛生のため皮膚病ができると“神に近づいている”といって喜んだという。持衰はそういう意味で“聖者”であり、嵐になった場合は、その聖者を海王に奉ることで、海王の心を鎮めようとする行為だったとも言われる。
 
(**)昔フランス語で読んだ本(「タイス」だった気がするが、別の作品との勘違いかも)にもそのような記述があったが、今手元にその本が無いので確認できない。
 

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「しかし遙か昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)殿が航海しておられて海が荒れた時に、奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら海に身を投じられましたね」
「うん。本来は貴人が自ら進んで生け贄になったのだと思うよ」
 
「万一海が荒れて鏡を奉っても鎮まらなかったら、ボクの右大将ちゃんに海に入ってもらおうかな」
などと雪子は言っている。
 
「私が海に入るんですかぁ!?」
と花久は情けない顔をする。
 
「だってこの行程の主はボクで、右大将ちゃんはボクの奥さんだから」
などと雪子が言うので
 
「右大将殿が東宮殿下の奥様なのですか!?」
と中伴少将が驚いて言う。
 
「去年、右大将ちゃんはボクの子供を産んでくれたんだよ」
「ちょっと、そういうのはやめて下さい!」
 
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「右大将殿が御子を産んだんですか!?」
「ボクが男だったら、日嗣御子(ひつぎのみこ)にできる所だが、ボクの子供には皇位継承権は無いから残念」
「だから、そういうのを人前で言わないでください」
「少将は、他人の秘密をたやすくばらすような人ではないよ」
などと雪子は言っている。
 
「私はよく分からなくなりました」
「右大将の失踪の原因がボクの子供を産むためだったなんて知れたら帝から大目玉をくらうから内緒にね」
 
雪子は無茶を言っていますが、これは実は翌年に雪子がしようとしていることに関する“地ならし”だったのです。むろん少将は無闇に言いふらす人ではありませんが、何人かに話しておけば自然と噂は広まっていくことが想像されました。
 
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雪子たちの船は幸いにも嵐には遭わず、右大将も海に身を投じる羽目にもならず、5月上旬、無事土佐に到着しました。
 
土佐国司はこれまで何度か緊急帰京して朝廷幹部とも話し合っており、右大将も雪子の秘書役の尚侍として会ったことがありますが、今回は男の右大将として会うことになりました。
 
向こうは東宮が本当に土佐までやってきたことに恐縮していましたし、昨年“雪子”の依頼で、帝の兵の代理として土佐に来ていた源光仲も東宮自身、そして彼に土佐行きを依頼した左大臣の息子である右大将まで来たことに驚きました。
 
雪子と右大将は、土佐国府の役人・兵士たち、そして源氏の武士たちの労をねぎらいました。
 
「みんな海賊取り締まりで日々ご苦労である。よくやってくれていると聞いている。これからも頼むぞ」
と雪子が言いますと、国司も役人や兵士たちも、源氏たちも恐れ入ります。また、美人の東宮が御簾も使わずに直接、お顔を曝して呼びかけておられるので、そのお顔を見て、感激している者も多数おりました。ここでも九州や能登同様、雪子の“ファン”が大量発生していました。
 
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これで、今回の行啓の目的はほぼ達成されました。この後、国司の言うことをきちんと聞かず勝手に行動するので困っていた源氏たちが、ちゃんと協力してくれるようになり、海賊対策もうまく行くようになるのです。
 
ただ国司も源氏もあらためて予算の増額、大型船の建造などを雪子や右大将にお願いしました。源氏の武士たちの予算は左大臣のポケットマネーなので、これについては右大将が至急増額させることを約束しました。
 
大型船の建造についても、工匠たちの手が空き次第こちらに回すことを東宮は約束しました。
 
雪子・右大将と、土佐国司・源光仲の話し合いは7日ほど掛かり、土佐国司側からは現状の報告がなされ。細かな対策などや朝廷や左大臣家からの支援について、たくさんの話し合いをしました。土佐側としては色々不満はあったものの、何と言っても朝廷No.2の雪子が女の身でありながらここまで来たこと、更には左大臣家の跡取りで数年の内には大臣に出世するであろう右大将もここに来ているということから、話し合いは前向きで建設的な方向に進みました。
 
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そして5月下旬、一行は都に戻ることになります。帰りも船旅で40日ほど掛かることが見込まれました。
 

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