【男の娘とりかえばや物語・尚侍復帰】(1)

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(これまでの話)
 
権中納言兼近衛大将の息子(桜君)と娘(橘姫)は、男女逆にしたいような性格だった。妹の橘姫は活発で体力もあっていつも部屋を飛び出し元気に遊んでいるが、兄の桜君はおとなしい性格でいつも部屋にて女房たちとだけ遊んでいた。
 
大将はふたりの男女を「とりかへばや」(取り替えたい)と悩んでいた。
 
橘姫と桜君は、お互いの顔がそっくりであるのをいいことに6歳頃からしばしば入れ替わるようになった。橘姫は桜君の振りをして弓の大会に出たり、貴族の男児の集まりに行ったりし、桜君は橘姫の振りをして、舞のお稽古をしたりしていた。橘姫は漢籍や笛などの男性的教養を身につけていき、桜君は橘姫の代理をして結果的に女性的教養を身につけていく。
 
大将は、幼い頃は男勝りだった“橘姫”がおしとやかになり、幼い頃はおとなしい性格だった“桜君”が元気になって弓や馬術に漢籍仏典も身につけてきたので、ふたりを男女入れ替えたいなどと思っていたのは杞憂であったと安心していた。
 
しかしふたりの入れ替わりは父にバレてしまう。
 
大将はショックで一気に10歳くらい年を取ってしまった。
 

大将の“息子”が優秀であると聞き、帝はぜひとも出仕させるように言う。それで結局、大将は、橘姫に男子として元服させ“涼道”の名前を与え、結果的に桜君には裳着をさせて女子として成人させ“花子”の名前を与えた。涼道は男子として元服させてもらい大喜びだが、花子は妹の身代わりで女子として成人するハメになり、憂鬱な気分だった。
 
「いくらボクだって裳(スカート)を穿くなんて・・・」
 
帝が譲位なさって、新天皇のもと、権中納言・大将は左大臣に、涼道は権中納言に任じられた(物語中では後に出てくる別の“権中納言”と区別するため、単に“中納言”と呼ばれる)
 
更に涼道は右大臣家の四の君・萌子と結婚してしまう。
 
一方で花子は尚侍(ないしのかみ)の役職を与えられ、実際には女皇太子・雪子の遊び相手として宮中に仕えることになった。もっとも花子の性別はあっという間に雪子にはバレてしまうことになるが、雪子は花子の女装を面白がって、散々セクハラすることになる。
 

帝の従弟に当たる仲昌王(物語の前半では宰相中将と呼ばれる)はプレイボーイとして名高かったが、これまで愛人にした女の中に、正式の妻にできるような女が居なかったので、そういう女を得られないものかと思っていた。それで彼がアタックしていたのが、左大臣家の“娘”花子と、右大臣家の四女・萌子だった。しかし萌子は涼道と結婚し、彼は失恋してしまう。しかしそれでも彼女への思いは忘れられずにいた。
 
涼道と花子が17歳の年、宰相中将は右大臣家に(萌子の夫である)涼道を訪ねていったが涼道は不在だった。それで帰ろうとしたのだが、美しい箏の調べに誘われて館の中に入って行き萌子を見てしまう。思いが抑えられなくなった彼はそのまま萌子をレイプしてしまった。
 
結局、萌子は彼の子供(小夜)を産んでしまうが、表向きには(夫である)涼道の子供ということになっており、右大臣などは大喜びであった。左大臣も表向きは喜ぶ様子を装っているものの、女同士で子供ができる訳が無いので、間男されたのは間違い無いとして憂鬱な気分だった。
 
そして翌年8月、宰相中将は、左大臣家に涼道を訪ねてきた時、偶然にも彼が実は女であることに気付き、そのままレイプしてしまった。彼は“今までに会ったことのないタイプの女”である涼道に夢中になり、涼道が生理で休んでいる家にまで訪ねてきて口説く始末であった。そして9月、宰相中将は再び萌子をレイプする。
 
そして涼道と萌子はどちらも妊娠してしまった(夫婦揃って妊娠!)
 

涼道と花子が19歳になった年の初め、帝は中納言・涼道を右大将に任じ、また宰相中将・仲昌王を権中納言に任じた。
 
お腹が大きくなってきた涼道はやむを得ず、宮中から姿を消し、仲昌王を頼り、女姿に変えて、彼の宇治の館に籠もって男児(萩の君)を産み落とす。
 
ところでこの時期、東宮も妊娠してしまっていた。父親はもちろん花子である!女皇太子の妊娠出産など、絶対に許されるものではないので、その対処の問題もあったのだが、花子は、失踪している兄(実は妹)涼道を探し出せるのは自分だけだと考え、東宮の承認の元、里下がりして、兄の失踪に心を痛めて伏せっていることにして男装して涼道を探しに行った。
 
男装の花子は最初に涼道が頻繁に訪れていた吉野宮(天皇の兄)の所に行ってみたのだが、涼道が7月頃に吉野宮に手紙を書くと約束していたことを知り、その手紙を待つことにした。
 
出産した涼道は体調も回復してきた8月1日、吉野宮に手紙を書く。それで花子も妹の無事を知り安堵する。花子は涼道と連絡を取り合い、涼道は花子と一緒に宇治の館を出ることにした。産んだ男児はやむを得ないので乳母の備前に託したまま放置である!
 

吉野宮に取り敢えず入った涼道は花子、そして吉野宮とも話し合い、ふたりは入れ替わって復帰することにした。
 
つまり、花子が男装して新・右大将として復帰し、涼道が女装して新・尚侍として復帰するのである。もっとも花子には漢字も書けなければ難しい文書も起こせないので、そういう仕事は実際は涼道がする。一方、女の教養が必要なものは実際には花子がする。つまり“二人二役”で乗り切ろうという作戦である。
 
そして2人は雪子の妊娠についても吉野宮にも相談の上、雪子と容貌が似ている吉野宮の一の君・海子女王を身代わりにして雪子を里に下げることにした。
 
雪子の妊娠は絶対に誰にも知られてはならないので、雪子の父(朱雀院)の所に下げる訳にもいかない。それで涼道と花子が雪子を連れて行ったのは、嵯峨野にある左大臣の別邸で、涼道と花子の2人も9月にはここに入って、復帰の準備と雪子の出産に備えたのであった。
 

11月。花子は男装して“右大将”として宮中に復帰した。彼は突然の失踪と長期の不在を帝に詫びて辞表を提出したものの帝は却下。これまで同様、右大将・中納言として仕えてくれるよう言った。
 
“右大将”は右大臣宅にも堂々と“帰宅”し、萌子とちゃんと“夫の役目”を果たしておいた。右大臣も右大将の帰宅にホッとしていた。
 
一方、突然“右大将”が子供を置いたまま行方不明になり困惑していた権中納言は、右大将出現の話に驚愕する。てっきり涼道が再び男装して宮中に戻ったものと思い、子供を連れて宮中まで行き、直接は会えなかったものの、若君を掲げて右大将に見せる。右大将は一瞬顔色を変えたものの平然としていて権中納言を黙殺した。それで権中納言はもう自分のことは思い切ってしまったのかと失意に沈むのであった。
 
↑以上ここまでの主な展開。

TimeLine(↓日付の年部分は兄妹の年齢:数え年)
 
01.春 桜の君(後の花子)生まれる
01.秋 橘の姫(後の涼道)生まれる
06.この頃から入れ替わりを始める
09.04 賀茂の祭。桜は橘の服を着て秋姫とお出かけ。さすがにバレる。
09.06.07 祗園祭りで橘は上半身裸で先走りを務める。
09.08.14 桜が四の君と松尾神社の秘祭に出る
10.春 橘が父と一緒に東山に出かけ、入れ替わりがバレる
10.04 賀茂の祭
10.08 桜、松尾神社の秘祭で要を舞い、これで卒業
12.04 賀茂の祭りで橘は射手を務める
12.08 桜、再度松尾神社の秘祭に出て要を舞う
13.01 橘が御冠着、桜が裳着
16 朱雀帝が譲位。橘は権中納言に任命される
16.08.01 涼道が萌子と結婚する
16.09.15 梅壺女御が帝のところに行くのを涼道が見る
16.11.10 花子が尚侍に就任して宣耀殿に入る。
16.11第2卯日 新嘗祭 三の君・尚侍が五節の舞 麗景殿女御の妹から涼道への手紙
16.12 三の君が源利仲大将と結婚
17.春 宰相中将、萌子と過ち
17.02-03.10 東宮の九州行啓。花子も随行 東宮と花子の最初の交わり
17.04 萌子妊娠発覚
17.09 涼道が吉野の宮に会いに行く
17.11 萌子が小夜を出産
18.06 物忌みの日に花子の所に宰相中将が忍び込む。筑紫の君解雇。
18.08.07 東宮が能登に行く
18.08.09 涼道の性別が宰相中将にバレ、そのままレイプされる
18.08.25 花子たち能登に到着
18.09.02 花子たち能登を出発
18.09.13 涼道、最終月経 六条辺りの家に籠もる
18.09.20 花子たち京に戻る
18.09.24 涼道と宰相中将のセックス
18.09.27 推定排卵日
18.10.12 涼道生理予定日(来ない)9/27受精 10/12 2月 11/10 3月 12/9 4月 1/7 5月 2/6 6月 3/4 7月 4/3 8月 5/1 9月 5/29 10月 6/28予定日
18.10.13 萌子受精 昼間宰相中将にレイプ・夜に中納言とセックス/尚侍の代理をしていた涼道を雪子がレイプ
18.10.27 萌子生理予定日(来ない)10/13受精 10/27 2月 11/25 3月 12/24 4月 1/22 5月 2/21 6月 3/19 7月 4/18 8月 5/16 9月 6/15 10月 7/13予定日
18.10.30 萌子の妊娠発覚
19.03.01 桜の宴。その後、中納言は右大将、宰相中将は権中納言に任じられる。
19.03.10 雪子が花子をレイプ(雪子の推定排卵日)
19.03.20 麗景殿の女と文を交わす
19.03.24 雪子の生理予定日(来ない)3/10受精 3/24 2月 4/23 3月 5/21 4月 6/20 5月 7/18 6月 8/17 7月 9/15 8月 10/14 9月 11/12 10月 12/11予定日
19.04 右大将失踪。
19,06 花子が涼道を探しに行く。吉野の宮で手がかりを掴みそこに滞在
19.07.01 涼道が男児(萩の君)を出産
19.08.01 涼道が吉野宮にお手紙
19.08.04 秋の夜の対面
19.08.07 萌子が男児を出産(須須)
19.08中旬 涼道と花子、嵯峨野の別邸に移動。海子を身代りにして東宮を連れ出す
19.09 二条堀川に邸宅の造営を始める
19.11 新右大将が左大臣宅に帰宅。宮中に出て帝に陳謝。右大臣宅にも帰宅。
19.12.11 雪子出産
20.01中旬 雪子が宮中に密かに復帰。新尚侍が公務復帰。
20.02 帝と新尚侍が結ばれる
20.03.12 二条殿が完成。海子を迎え入れる。
20.03-06 雪子と右大将が土佐に行く
20.06-07 右大将能登へ
20.08-09 右大将九州へ
20.10-11 右大将関東へ
 

花久(花子)が“新右大将”として復帰した翌月12月の11日。
 
嵯峨野の左大臣別宅で雪子が男の子(大若君)を産み落としました。安産であったので、ずっと付いていた涼道もホッとしました。
 
出産の時に付いていたのは、涼道、涼道の乳母子・小竹、雪子の信頼も篤い尚侍の侍女・式部、ほか数名の絶対に信頼のおける侍女です。そして雪子の素性を知っていたのは、涼道・小竹・式部の3人のみで、他の侍女たちは、
 
「右大将が愛しておられる女性が密かに出産なさる」
という式部の説明を信じています。
 
生まれた若君は右大将によく似ていたので、侍女たちも何も不審に思いませんでした。若君は乳母に任命された女性が抱き、右大将の侍女である小竹が付き添って左大臣宅に運ばれました。
 
そして「右大将が密かに通っていた女性の産んだ子」として公開されたのです。
 
今出産したということは、春に“仕込んだ”子供ということになるので、右大将の失踪直前頃のことなのだろうと多くの人は思いましたが、萌子や右大臣はやや不愉快に思いました。しかし母親を明かせないというのは多分身分の低い女が産んだ子だろうから、気にすることはないと思い直しました。
 

(お断り)
 
原作では“新尚侍”は11月に宮中に復帰し、東宮は12月に宮中で出産したことになっているが、宮中で侍女たちにも知られないように出産するというのはいくらなんでも無理がありすぎる。そこでこの翻案では東宮は身代わりを置いて里下がりをして密かに出産したことにした。そのため新尚侍の復帰も年明けにすることにした。原作では新右大将の復帰ももっと早いのだが、それでは“準備期間”が短すぎてさすがに涼道の字を真似ることは困難である。それなら新尚侍が宮中に居ない(実は本物の東宮のそばに付いている)中で、新右大将がひとりで公務をするのは難しい。それで新右大将の復帰も原作より遅らせて11月ということにしている。
 
また新右大将は職務執行のために頻繁に新尚侍と連絡を取る必要があるので、新尚侍は片道2日かかる吉野ではなく、内裏から遠くない、嵯峨野の別宅に籠もっていることにし、結局、雪子もそこで出産させるという展開にした。
 

年が明けて、涼道(涼子)と花子(花久)は20歳になります。
 
お正月なので宮中では様々な行事が行われますが、管弦の催しなども行われます。
 
「右大将殿の笛が久しぶりに聴きたい」
という声が多数掛かります。
 
「病み上がりですので、あまりまともに吹けません」
と言って右大将は辞退しようとしたものの、帝からまで
 
「それでもよいので」
と言われます。
 
帝からまで言われては断れないので、右大将は愛用の笛を取りだしました。
 
そして右大将が笛を吹きますと、まるで龍が舞っているかのような美しさです。
 
「これは素晴らしい」
と、帝をはじめ多くの公卿・殿上人や女御・女官たちがその調べに聴き惚れていました。
 
実を言うとここで笛を吹いたのは男装の涼道です。彼は実は失踪してから8ヶ月ぶりに出て来ているのですが、表向きには右大将は既に11月から復帰していたことになっています。涼道は久しぶりの宮中だったので、やや居心地は悪かったものの、男の格好でいるのは、やはり自分に合っているなあとあらためて思いましたし、大勢の前で笛を吹くのは快感だと思っていました。
 

ところで、権中納言ですが、11月に右大将が復帰したのを受けて自分も宮中に参上し、帝に何ヶ月も休んでしまったことをお詫びしました。帝は萌子を巡る噂も耳にはしていたものの、心が広いお方なので彼を許し、今後も今までの仕事を続けて欲しいとおっしゃいました。
 
彼は、今右大将として仕事をしている人が、かつて女姿で自分の子供を産んだ人と思い込んでいますので、宮中で相変わらず右大将を追い回していました。しかし右大将は冷たく、口さえ聞こうとしません。右大臣の四の君を巡るふたりの確執は多くの人の知る所となってしまっていましたので、それでよそよそしくなったのだろうと周囲の人々は思っています。
 
権中納言は現時点では“右大将”に夢中なので、萌子への文なども書きません。一方で、右大将は萌子の所にマメに帰ってきますので、さすがに権中納言はバツが悪くて接触してこないのだろうと萌子の侍女たちも思っています。萌子自身も今は右大将に愛されているので、権中納言に手紙を書いたりすることはありません。
 

12月に密かに出産した東宮・雪子は安産だったこともあって出産後の肥立ちもよく、1月下旬、宮中に戻すことにしました。深夜、人々が寝静まっている時に、右大将(花久)が粗末な身なりをさせた雪子を宮中に密かに連れ込み、代わりにこれまで数ヶ月間東宮の代理をしてくれていた海子を連れ出しました。雪子を密かに連れ出した時と同じやり方です。
 
そして、雪子が復帰した翌日、今度は“尚侍”が「体調が回復した」と称して、尚侍の職に復帰したのです。
 
雪子はしばらく梨壺の自室で病気で伏せっているということになっていたのですが、そちらも「かなり体調が回復した」と称して起きだしたことにし、雪子にしても、尚侍にしても、長期間、病に伏せっていて公務を滞らせたことを帝に詫びました。
 
帝は皇太子のことも心配でしたし、尚侍のことも気に掛けていたので、両者が相次いで復帰したことで、本当に安心なさいました。
 
またこれまで雪子が実は不在で、身代わりで誤魔化していることがバレないように苦労していた雪子の側近・敷島もホッとしたのでした(特に雪子の父・朱雀院からの問い合わせへの応答はかなり苦労していた)。
 

そしてこれ以降、太政官での日常的な仕事は“新右大将”の花久がするものの、秘書役の名目で漢字も読める!若雀に付いていてもらい、難しい文書の読解に協力してもらうのとともに、涼道に判断させた方が良さそうだと思うものは若雀にお使いに行って来てもらい妹に処理させることにしました。また企画書や地方官への返事などは、直接涼道が書くようにしました。
 
この後、若雀は花久と涼道がお互いの仕事をカバーするためのお使いとして重要な働きをすることになります。若雀は実は花久の字・涼道の字を上手に真似することができたので、かなり代筆も頼まれました。
 
楽の宴の類い、和歌や漢詩を詠む宴などでは、お正月の時と同様、ふたりは衣装交換し、涼道が右大将、花久が尚侍を演じて、“右大将”が笛を吹き、“尚侍”が箏を演奏しました。
 
「なんか結局、ボク、右大将の仕事と尚侍の仕事と2つ兼任でやってる気がする」
と涼道は文句を言っていましたが。
 

雪子と尚侍の復帰に帝はホッとしたのですが、ホッとしたところで、従来からの思いが募ってきます。
 
兄の右大将を呼んで言います。
 
「もう回りくどい言い方はせずに単刀直入に言う。そなたの妹を私にくれ」
 
右大将としても、尚侍に再び権中納言の魔の手が迫ったりする前にさっさと帝と結婚させてしまいたい思っていたので答えます。
 
「あの子は極端な恥ずかしがり屋でしたので、どこにも出さずに育ててきました。しかし今年は20歳になり少しは大人になりましたから、恋のことも分かるようになったと思います。左大臣に相談します」
 
しかし帝はそういう話でこれまで散々はぐらかされているので簡単には引きません。
 
「左大臣にも何度か言ったが、なかなか良い返事がもらえない。宣耀殿にそなたが手引きしてはくれまいか?」
 
これに対して、妹をきちんとした形でお輿入れさせたいと考えている右大将は
「そういうなしくずし的な結婚にはあまり納得できません。左大臣に相談して必ず返事をしますので」
と言ってこの日は頑張りました。
 

右大将(花久)はすぐに左大臣宅に下がって父に相談してみました。
 
父は言いました。
 
「お前の気持ちは分かる。だけど尚侍として奉職して既に3年以上経っている。世間の人は、とっくに帝の御手が付いていると思っているよ。それを生娘みたい仰々しく入内(じゅだい)の儀式をするのもどうかと思う。だから、普通に文を交わさせて、それで結ばれるという形で良いのではないか?尚侍のままで帝の妻になっても、その後で女御や中宮になる道はあるよ」
 
「そうですかねぇ」
 
花久としては、やや不満ではあったものの、誰にも知られてはいけないが妹は既に子供を1人産んだ身でもあるし、父もそう言うのであればそれでも良いかと考えました。
 
そこで帝に尚侍への文を書いてもらうことにしたのです。
 

「何さ、これは?」
と帝の文を見た尚侍(涼道)は不快そうです。
 
「だから帝にお返事を書いてよ」
「それボクが書いていいわけ?“右大将”の字で」
「あっそうか」
「ボクには女の字は書けないもんね。だからこれはポイ」
と言って、本当に帝の文をゴミ箱に捨ててしまいます。
 
帝の文を捨ててしまうなんてのは、きっと小野小町以来のことでしょう。
 
「だったら、私が“尚侍”の字でお返事しちゃおう」
「ちょっとぉ」
 
「だって尚侍の字を書けるのは私だもんね〜」
 
そう言って、花久は勝手に帝へのお返事を書いてしまったのです。
 
「これで帝に渡すからね」
「嫌だ」
 
「橘ちゃんも、そろそろ年貢の納め時だと思うけどね」
 
それで“尚侍”は不満そうでしたが、“右大将”が勝手に帝への返信を書いて帝のところに持っていったのです。
 

帝は長年思いを寄せていた尚侍からお返事をもらえたので感動しています。
 
「女性らしい、優しい字だなあ」
などとも言って、歌が書かれた紙に口付けまでしています(花久は自分に口づけされたような気になってギョッとした)。
 
「すぐ返事を書くから、また届けて」
「分かりました」
 
それで帝と“尚侍”の文の応答は半月ほど続いたのです。むろん帝の手紙は全部本人にも見せて、右大将は本人の見ている前で帝への手紙を代筆しています。
 
それでとうとう帝が宣耀殿にお渡りになるという段取りになってしまいます。
 
「えーん。ボク、どうしても帝と契らないといけないの?」
「それは大臣家に生まれた女の子の宿命だよ。帝はどこかの遊び人とは違ってしっかりした人だから、もう思い切って契りなさい」
 
「分かった」
と涼道も渋々その夜の逢瀬に同意したのでした。
 

帝は中将の内侍という腹心の侍女をお供に、その夜、宣耀殿に潜んでいかれました。
 
涼道は仲昌王に無理矢理セックスされた記憶なども思い出し、嫌だなあと思いつつ、心を静めるために、琴の琴(きんのこと)を爪弾いていました。
 
帝は宣耀殿まで来ると、世にも美しい楽器の音がするので、しばらく聴き惚れていました。しかし1曲終わったところで我に返り、尚侍の侍女・式部がカンヌキを開けておいてくれた戸から中に入ります。
 
涼道は人が入ってきた気配に琴の琴を弾く手を停め、そちらを見ました。
 
「尊和である。先日からの文はありがとう。ぜひ今宵はそなたとひとつになりたい」
「私のようなもので良ければ」
 
それで帝は尚侍の御帳の中に入り、あらためて彼女を見ました。
 
「あらためて見ると、何て美しい。でもそなた、兄上殿に瓜二つだな」
「実は私が右大将なのですよ」
 
帝は一瞬考えてしまった。
 
「そなたが右大将なのか尚侍なのか、ちょっと確かめさせて欲しい」
「間違いなく右大将ですけど」
「そうか?」
 
と言って帝は涼道に優しく口づけをしました。涼道は帝の口づけがとても優しいものだったので、一瞬赤くなってしまいます。
 
「ああ、何て可愛い!やはりそなたは尚侍に違い無い」
「私は右大将なのに」
 

帝は
「触っていい?」
と言って、尚侍の胸に触ります。
 
「ほら、胸があるではないか。男に胸がある訳無い。そなたはやはり右大将ではなく尚侍だ」
 
「右大将が胸に浄巾(じょうきん:現代のぞうきん)でも詰めているだけかも知れませんよ」
「浄巾なのか!?脱がせて確かめてもいいか?」
「浄巾なのに」
 
それで帝は小袿(こうちき)を脱がせ、更にその下に重ね着している袿(うちき)を1枚1枚剥いでいきます。1枚剥ぐたびに胸に触っては
 
「やはりこれは胸の膨らみだと思うけどなあ」
などと言っています。
 
そしてとうとう単衣(ひとえ)を脱がせます。
 
「下着も女物をつけているではないか。やはりそなたは女だ」
「右大将は女物の下着を着けるのが好きなんですよ」
 
「そうだったのか?では確かめてみよう。これも脱がせていい?」
などと言って帝は涼道の下着を脱がせ、とうとう肌着も脱がせてしまいました。
 
涼道は腰に巻いている布だけになってしまい、上半身は裸です。
 
「ほら、ちゃんと胸があった。やはりそなたは女だ」
「暹羅(シャム)渡来の秘薬を飲んで、胸を大きくしたんですよ」
「そんなものがあるのか?右大将は女にでもなりたいのか?」
「小さい頃は女みたいにしてましたからね」
 
「でもそなたは尚侍だと思う。腰に巻いている布も外していいか?」
「ちんちんが付いてるのに」
「もし付いてたら、そのちんちんを揉んでやるよ」
「帝が男の人とそんなことしていいんですか?」
「そなたは尚侍だから、帝の秘密は守るはず」
 
そう言って、帝は最後に残った湯文字を外してしまいました。
 
「ほうら。ちんちんが無い。そなたは女だ」
「右大将は、ちんちんを切ってしまったんですよ」
「そうなのか?それはまた大胆なことを。でも切っただけなのか、元々女なのかは、入れてみれば分かる」
「入れる所なんて無いのに」
「試してみていい?」
 
それで帝は実(さね)を優しくいじって、充分濡らしてから、自分のものを涼道に入れてきたのです。
 
涼道は実をいじられている間「気持ちいい!」と思っていましたし、帝が入れてきたのも深い快感が得られましたし、全然痛くありませんでした。涼道はこれまでで最高の気持ち良さを感じていました。
 
これまで涼道は、仲昌王との数回の交わりにしても、雪子に何度もやられた時にしても、強引に服をを引き剥がされ、嫌だと言っているのを無理に入れられていました。ところが帝は優しく涼道の許可を得ながら?脱がせていきましたし、最後も許可を取って?入れて来ました。
 
そして入れた後も「痛くない?」などと尋ねながら、行為をしたのです。
 
男女の交わりにも、こんな優しいやり方があったのか、と涼道は新しい発見をした思いでした。
 
それで涼道は感動して、帝を自分の心に受け入れたのです。
 

帝は朝まで滞在なさいます。
 
帝は後朝(きぬぎぬ)の文までその場でお書きになりましたが、涼道は
「お返事は後で」
と言って微笑みました。
 
それで帝は(時間が掛かったので)つい眠ってしまっていた中将の内侍を起こして、清涼殿にお戻りになったのでした。
 
お戻りになって、一時もしないうちに、尚侍のお返事の手紙は尚侍の腹心・式部により届けられました。帝は
 
「ほんとにこの人の字は女性的で優しい。男性的で立派な兄の右大将の字とは対照的だなあ」
などと感動し、また文を書くのでした。
 

このようにして、帝のお渡りは3晩続き、花久が用意させていた餅を帝が頂き、これで尚侍は帝の妻ということになったのです。
 
これ以降、尚侍(涼道)は、帝の妻なので昼間でも傍にお召しになることもありましたし、様々な行事でも他の3人の女御に準じて扱われるようになりました。
 
左大臣は喜び、尚侍の調度や侍女の服なども新調して立派なものに換えてあげました。またこれを機会に、尚侍の侍女と右大将の侍女を一部入れ替え、涼道に小さい頃から付き従っていて、兄妹の入れ替わりについても知っていた者(少輔命婦・加賀の君・小竹など)を(新)尚侍に付けてやりました。
 
しかし新参の妻は当然先輩の妻たちに無茶苦茶嫉妬されることになります。そこで尚侍(涼道)に代わって、兄の右大将(花久)は、弘徽殿女御、梅壺女御、麗景殿女御の各々に豪華な贈りものをし、
 
「新参者ですが、よろしくお願いします」
と挨拶をしました。
 
花久が麗景殿女御のところに挨拶に行った時、女御は御簾の中におられるのですが、そばに控えている多数の女性の中に、妙にこちらに視線をやる女性がいて、花久は何だろう?と思ったものの、営業スマイルで彼女に会釈をしておきました。彼女はぽーっと頬を赤らめていたので、好かれちゃったかな?と思いました。
 
花久は知らなかったものの、これは女御の妹・楠子でした。
 
梅壺女御(萌子の姉)の所では
「妹君にも大変お世話になっておりまして」
と挨拶しましたが、女御は権中納言にまつわる一連の騒動も聞いているので
「いや、こちらこそ妹の不始末で心配を掛けた」
と向こうが謝っておられました。
 

3月、右大将と尚侍が共同で建設していた二条堀川の殿が完成しました。それで、吉野の姉君・海子女王を迎えることにします。
 
3月10日、右大将(花久)自身が立派な行列を仕立てて、吉野宮に参ります。そして吉野宮にあらためて挨拶しました。
 
この時点で姉君が都に移ることは決めていたのですが、妹君についてはどうするかまだ決めていませんでした。妹君も姉と一緒に行くか、父の元に残るかかなり迷ったのですが、やはり若いだけあり都での暮らしに関心があったので姉と一緒に都に行くことにしました。
 
それで右大将は、宮がひとりになってしまうので、不自由の無いように、多数の従者を仕えさせようとしたのですが、宮は辞退しました。
 
「娘たちの行く末だけが心配でした。後は、右大将殿に任せてよいようなので、私は、隠棲するのにふさわしい、もっと山の中の庵に移ることにします。後は2〜3人の腹心とだけで静かに暮らすつもりです」
とおっしゃいます。
 
右大将はまだまだ宮には習いたいことがあるのにと言いましたし、そんな山中に移ったら、娘達も気軽に会いに行けないというので娘たちも泣きますが、
「ずっと本来の出家を保留していただけだから」
とおっしゃいます。
 
それで右大将も、この吉野のお館に、連絡役として2〜3人の従者を置き、時々宮の庵を訪れて不便しているものが無いかなど尋ねさせましょうということにします。それで元々宮に仕えさせるつもりであった者の中で特に信頼できる男、何かの時のために武術に秀でた男などを、この宮に残すことにしました。
 

吉野の姫君たちを移す行列は牛車が13台もあり、これに多数の女童、仕丁などを引き連れていました。一行は奈良の都で一泊し、3月12日に都に辿り着き、姫君たちとそれに仕える女房たちを、建物の北の対に入れました。
 
ここは二町を築地で囲い、その中に更に築地を造った中に、中央の寝殿を囲んで3つの対が建てられています。中央の寝殿が右大将の居場所ですが、表向きには侍女などの部屋という建前で、実は尚侍の里下がりの時のための部屋も存在します。
 
北の対が吉野の姫君たちのための建物、東側の洞院通りに面した側の対に右大臣の四の君を迎える予定ですし、西側の堀川通りに面した側の対は、表向きには尚侍の里下がりの時のためと言っておいて、実は東宮をここにお迎えするためのものです。実際この西の対の設計は雪子の好みに合わせて作られているのです。
 
結局、3人の妻を3つの対に1人ずつ置こうという魂胆なのでした。
 

さて、昨年は元々国全体の統制が弛んでいたのを雪子東宮の力で何とか引き締めていたのが、肝心の雪子が“ご病気”で寝込んでおり、今後のホープと思われていた右大将・権中納言の2人が出仕せず、特に右大将は行方不明。更に右大将の失踪でショックを受けた左大臣が床に伏し、ということで昨年春以降、朝廷自体が機能麻痺状態に近くなっていました。
 
大納言・藤原宏長、左近大将・源利仲が必死で引き締めていたものの、2人だけでは手が回らないのが実情でした。
 
病気から回復して(実は出産を終えて)公務に復帰した雪子東宮は再引き締めに尽力することになります。雪子は行啓を企画しました。
 
雪子が向かうことにしたのは、昨年、援軍を求められたものの朝廷の兵の数が足りず“雪子”が指示して、清和源氏の手の者を代理で差し向けた土佐です。
 
病み上がりで大丈夫か?と帝は心配したのですが、雪子は言いました。
「右大将をお借りします。彼を連れて行けば右大将の健康に懸念を持っていた人たちも右大将への信頼を回復し、一石二鳥です」
「右大将こそ大丈夫なのか!?」
 
帝は心配でなりません。
 
「大丈夫ですよ、お務め果たして来ます」
と雪子は答えました。
 

それで3月下旬、東宮は右大将および近衛兵300名を連れて土佐へ向けて出発したのでした。(おかげで右大将は吉野姉君とはまだ“何もしない”まま、都を出ることになります)
 
本当は右近大将が率いるのなら1000名くらい連れて行きたい所ですが、九州、能登、関東と増援が続いていて、今兵力がやや足りなくなっており、これ以上兵を都の外に出しては都が手薄になってしまうのです。今回の300名を連れ出す際にも、万が一のことがないよう、吉野宮からのつながりで、奈良の仏教勢力に関わる兵を100名ほど都に入れることにしました。奈良勢力はあまり使いたくないのですが、背に腹は代えられない状況です。彼らには吉野宮から文を書いて頂き、吉野宮の婿である右大将に協力するという誓約を得ています。
 
「しかし、お前と一緒の行啓も3度目だな」
と雪子が言うので
「それ、他の人が聞いたら変に思います。私の遠征は初めてなのに」
「ああ、そうだな、性転換してからは初めてだな」
「だから、そういうことを人が聞くかも知れないような声でおっしゃらないで下さい」
 
「女になったお前の“元弟”の方はどうだ?」
「帝が毎日のようにお呼びになっていて、他の女御(にょうご)方が物凄く嫉妬しておられます」
「あはは。仕方ないな。元男であった女なんてのは初めての体験だろうから、今までの姫たちには無い魅力を感じるのだろう」
 
「でも姫御子様、本当にお身体は大丈夫ですか?」
「うん。快調快調」
 

3年前の九州行きも2年前の能登行きも陸路だったのですが、今回はほぼ全行程が船の旅になりました。京の南西、山崎の付近から船に乗り、淀川を下って大阪湾に出ます。和泉国の西岸沿いに南下し、加太の岬(淡嶋神社の付近)から友が島経由で淡路島南部に行きます。そして鳴門海峡(大渦からはずっと南方)を通り、阿波鳴門付近に到着。更に沿岸沿いに船を進めて土佐高知まで行きます。
 
行程は40日程度と思われました。
 
淀川を降りるまでは平穏な旅でしたが、さすがに海に出ると結構揺れます。東宮の侍女にしても、右大将の侍女(諸事情で右大将には女性の従者が必要)にしても、体力のあるものが付き従っているため、女性陣は結構平気だったのですが、連れている兵の中には船の揺れで酔ってしまうものが相次ぎ、中伴少将が「お前らたるんでる」と叱っていました。しかし辛いものは辛いので、右大将はあまり叱らないでやってと声を掛けてあげました。
 
この辺りが右大将の優しさですが、東宮は「やはり元女だから優しい」などと笑って言っていました。
 
住吉の近くを通り過ぎます。
 
「土佐日記ではこの辺りで海が酷く荒れて、鏡を龍神に献じたのでしたね」
と花久が言うと
「念のため嵐になったら放り込む鏡は持って来てるぞ」
と東宮は言います。
 
「遣唐使の頃は、嵐になったら、海に放り込む人間を乗せていたらしいですね」
と中伴少将。
 
「持衰(じさい)という奴だな。まあ無茶な時代だ」
「ほんの100年くらい前まではそんなことをしていたんですよね」
「今もやってたりして」
「え〜〜〜!?」
 
魏志倭人伝にはこのような記述がある。
 
その行、来たり。海を渡り中國に詣る。恒に使者の一人は頭を梳ず。蟻蚤を去らず。衣服は垢汚。肉を食せず。婦人を近づけず。喪人の如し。これを名づけて持衰と為す。
 
古来、虫などが付くのを放置しているというのは、西洋の古典文学(**)などにも描写されているが、修行者などに見られる行為である。あまりの不衛生のため皮膚病ができると“神に近づいている”といって喜んだという。持衰はそういう意味で“聖者”であり、嵐になった場合は、その聖者を海王に奉ることで、海王の心を鎮めようとする行為だったとも言われる。
 
(**)昔フランス語で読んだ本(「タイス」だった気がするが、別の作品との勘違いかも)にもそのような記述があったが、今手元にその本が無いので確認できない。
 

「しかし遙か昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)殿が航海しておられて海が荒れた時に、奥さんの弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら海に身を投じられましたね」
「うん。本来は貴人が自ら進んで生け贄になったのだと思うよ」
 
「万一海が荒れて鏡を奉っても鎮まらなかったら、ボクの右大将ちゃんに海に入ってもらおうかな」
などと雪子は言っている。
 
「私が海に入るんですかぁ!?」
と花久は情けない顔をする。
 
「だってこの行程の主はボクで、右大将ちゃんはボクの奥さんだから」
などと雪子が言うので
 
「右大将殿が東宮殿下の奥様なのですか!?」
と中伴少将が驚いて言う。
 
「去年、右大将ちゃんはボクの子供を産んでくれたんだよ」
「ちょっと、そういうのはやめて下さい!」
 
「右大将殿が御子を産んだんですか!?」
「ボクが男だったら、日嗣御子(ひつぎのみこ)にできる所だが、ボクの子供には皇位継承権は無いから残念」
「だから、そういうのを人前で言わないでください」
「少将は、他人の秘密をたやすくばらすような人ではないよ」
などと雪子は言っている。
 
「私はよく分からなくなりました」
「右大将の失踪の原因がボクの子供を産むためだったなんて知れたら帝から大目玉をくらうから内緒にね」
 
雪子は無茶を言っていますが、これは実は翌年に雪子がしようとしていることに関する“地ならし”だったのです。むろん少将は無闇に言いふらす人ではありませんが、何人かに話しておけば自然と噂は広まっていくことが想像されました。
 

雪子たちの船は幸いにも嵐には遭わず、右大将も海に身を投じる羽目にもならず、5月上旬、無事土佐に到着しました。
 
土佐国司はこれまで何度か緊急帰京して朝廷幹部とも話し合っており、右大将も雪子の秘書役の尚侍として会ったことがありますが、今回は男の右大将として会うことになりました。
 
向こうは東宮が本当に土佐までやってきたことに恐縮していましたし、昨年“雪子”の依頼で、帝の兵の代理として土佐に来ていた源光仲も東宮自身、そして彼に土佐行きを依頼した左大臣の息子である右大将まで来たことに驚きました。
 
雪子と右大将は、土佐国府の役人・兵士たち、そして源氏の武士たちの労をねぎらいました。
 
「みんな海賊取り締まりで日々ご苦労である。よくやってくれていると聞いている。これからも頼むぞ」
と雪子が言いますと、国司も役人や兵士たちも、源氏たちも恐れ入ります。また、美人の東宮が御簾も使わずに直接、お顔を曝して呼びかけておられるので、そのお顔を見て、感激している者も多数おりました。ここでも九州や能登同様、雪子の“ファン”が大量発生していました。
 

これで、今回の行啓の目的はほぼ達成されました。この後、国司の言うことをきちんと聞かず勝手に行動するので困っていた源氏たちが、ちゃんと協力してくれるようになり、海賊対策もうまく行くようになるのです。
 
ただ国司も源氏もあらためて予算の増額、大型船の建造などを雪子や右大将にお願いしました。源氏の武士たちの予算は左大臣のポケットマネーなので、これについては右大将が至急増額させることを約束しました。
 
大型船の建造についても、工匠たちの手が空き次第こちらに回すことを東宮は約束しました。
 
雪子・右大将と、土佐国司・源光仲の話し合いは7日ほど掛かり、土佐国司側からは現状の報告がなされ。細かな対策などや朝廷や左大臣家からの支援について、たくさんの話し合いをしました。土佐側としては色々不満はあったものの、何と言っても朝廷No.2の雪子が女の身でありながらここまで来たこと、更には左大臣家の跡取りで数年の内には大臣に出世するであろう右大将もここに来ているということから、話し合いは前向きで建設的な方向に進みました。
 
そして5月下旬、一行は都に戻ることになります。帰りも船旅で40日ほど掛かることが見込まれました。
 

さて、右大将(花久)が東宮と一緒に土佐まで行っている間、尚侍(涼道)は月の者が来ている時以外、毎晩のように帝に召されるようになり、帝の夜御殿に向かっていました。結果的に、他の女御が召される日は極端に少なくなり、他の女御方から強い嫉妬を受けることになります。
 
たくさん召されるので、文を毎日のように頂くのですが、涼道の男らしい字では返事が書けません。頼みの兄上は土佐に行っている、というので結局この時期は元々花久(花子)の幼い頃からの侍女(初期は女童)であったものの今回の土佐行きには同行していない若雀に代筆してもらっていました。
 
帝は代筆とも気付かず「尚侍は優しい字を書く」などと感動していました。
 
夜の生活自体は、帝はとても優しい交わりをするので、とても気持ち良くお務めすることができていました。
 

権中納言は相変わらず(元)右大将が残した若君(萩の君)だけを頼りに、暮らしていました。父・式部卿宮の所では、あれこれ詮索されますし、宇治はあまりに遠すぎるので、都の中に取り敢えず小さな館を確保し、そこに若君と乳母の備前を住まわせ、身の回りの世話をするための侍女を10人ほど置き、宮中の仕事が終わるとそこに帰宅していました。
 
筑紫の君についてはここには来させず、別の場所にまた小さな家を用意してそちらに住まわせており、時々気が向いた時にそちらに通っておられました。筑紫の君はあまり色々と“知りすぎて”いるので、備前とは会わせたくなかったというのもあります。
 
彼は右大将が、また男姿に戻ってしまったものと思い込んでいます。宮中などで彼の影を追っているものの、彼と話す機会を作ることはできません。その内彼が土佐に出張に行ったので公務をしている時もボーっとしていて、同僚から心配されたりしていました。
 
結局ずっと右大将のことばかり考えているので、萌子への攻勢も含めて、女性を口説くということが、めったに無くなってしまいました。性的な欲求が溜まれば筑紫の君の家に行きますが、それ以外では女性との関係が全く途絶えてしまい、かつてのプレイボーイの姿はもうそこにはありませんでした。
 
それで人々は、萌子の事件で散々非難されたのに懲りて、権中納言はもう女遊びはやめたのではないか。あるいは実は深く言い交わした女性があるのでは?そしてそういう女性がいるから他の女には手を出さないのでは?などという噂も立つようになっていたのです。
 

萩の君の乳母・備前は「命でも捨てます」とまで言ってお世話していた女君に完璧に裏切られた気分だったのですが、少し落ち着いた頃から、彼女の実家に金品が届けられるようになりました。その送り主は匿名ではあったのですが、ただ桜模様の絵が署名代わりに記されていたことから、備前は、桜−吉野という連想をし、これは宇治の館から居なくなった女君が、やはり想像していた通り、吉野の姫君で、若君を自分が育てていることの見返りに支援してくれているのだろうと解釈しました。
 
年明けて3月には吉野の姫君が失踪から戻った右大将の所からお輿入れなさるということで、二条堀川に新しく造営された立派なお館に迎えられたという話も聞きます。備前は、おそらく宇治の館から居なくなった女君およびその方にそっくりであった男君は、吉野の姫君の兄妹か何かなのではと想像していました。密かな出産だったのは、(その姫君の)母親があまり身分の高くない人だったのかもなどと考えていました。
 

6月下旬、雪子東宮と右大将らの一行は土佐から京に戻りました。それで土佐の方はかなり落ち着いたようだという話が全国に広がり、やや不安定な要素が出そうになっていた、九州・北陸・関東なども情勢は落ち着きを見せるようになります。
 
雪子東宮という存在が今、この国には大きなものとして、捉えられるようになったのです。合わせて、昨年は病気で伏せっていた雪子、また実際には病気で療養していたために宮中を不在にしていたようだという噂もあった右大将の健康問題についても、どうやら、おふたりとも回復したご様子だと人々は噂しました。
 
この後、右大将は雪子東宮の名代として、再び九州、北陸、更には初めてとなる関東にも相次いで行かされることになります。九州・北陸は、表向きには右大将は初めての出張だったのですが、実際には1度は尚侍として出向いており、懐かしい気持ちになりました。しかし結果的にこの年、右大将はひたすら全国に出向き、多くの地方行政官と意見交換をしました。
 
元々は政治についてはよく分かっていなかった花久ですが、尚侍時代に随分雪子の助手を務めた上に、再度土佐に同行したりしてかなり分かってきたのでこの年の各地への出張では、しっかりした交渉を各々の地方官とすることができました。この年の出張は東宮の名代として動いていたのではあるのですが、それも実は雪子の“来年以降”を見据えた計画だったのです。
 

ひたすら全国を飛び回っていた花久ですが、都に帰ってくると、妹・尚侍の様子を伺い、まだ右大臣宅に住んでいる妻の萌子、また二条堀川の館に住む海子・浜子の姉妹の様子を伺ったりしていました。この時期は萌子が右大臣宅にいるので、せっかく二条堀川の館はあるものの、宮中での仕事が終わると右大臣宅に戻り、萌子と寝ることが多くありました。
 
この時期の花久は萌子と普通に男女の交わりをしており、萌子は長期出張が続いて寂しい思いはするものの、帰京すると自分を第一に考えてくれているようなので満足でした。右大臣も右大将が、帝の姪の姫君たちを立派な館に迎えたことで心中穏やかではなかったものの、右大将が娘をよく愛してくれているようなので、安心していました。
 
花久は萌子に、いづれ機会を見て二条堀川の東の対に移ってくれないかと誘いますが、帝の姪の姫君などという方たちの近くでは自分は大事にしてもらえないかもという気もして渋っていました。
 

ところで今年夏に土佐から戻った後、花久はヒゲを蓄えるようにしました。実は花久は20歳にもなるのにまだ声変わりが来ていません。男性的な発達が遅いのだろうと思われていたのですが、実はそれはいつも睾丸を体内に押し込んでいるせいだというのには、本人も周囲も気付いていません。
 
ただ雪子は男性貴族は威厳も大切だからというので、ヒゲを蓄えることを勧めたのです。おかげで花久は「女の服を着せてみたい」と言われることが少なくなりました。
 
でも実は・・・このヒゲは付けひげだったのです!ですから、実は涼道が男装して右大将を装う時も、その場合は涼道が付けひげをしていました。
 

右大将がヒゲを蓄えているのを見て最も仰天したのが権中納言です。彼は右大将に
「涼ちゃん、ヒゲが生えてきたの?」
と声を掛けてきました。
 
人が聞いてるかも知れないところで“涼ちゃん”はやめろ〜!と思います。実はこの声を掛けられたのは、本当に涼道のほうです。
 
「ああ、このヒゲ?」
と言って、涼道はヒゲを取り外してみせます。
 
「付けひげかぁ!」
「より男らしく見えるように付けてみた」
「そんな無理しなくても女の服を着てればいいのに」
 
涼道はそれ毎日着てるんだけどねとは思ったものの、何も答えず、ただ微笑んで権中納言に手を振ると向こうに行ってしまいました。
 

涼道は最近は毎日のように帝に呼ばれて夜御殿(よるのおとど)で帝の相手を務めていますが、涼道はさすがにそういう生活に飽きて来て、もっと男らしいことがしたいという元々の性格が出て来ます。
 
それで生理で夜のお務めを休むような日に、花久と入れ替わり、男装してヒゲも付けて右大将としてのお仕事をしていました。生理については、雪子に教えられてひじょうに吸収性の良い特殊な布を付けて、普通に動き回る程度では、平気なようにしていました。
 
帝も自分の最愛の妻が男装してその兄の振りをし、流鏑馬に出て全矢命中させて優勝したり、剣術でも多数の相手に勝って師範から免許皆伝を認められたりしているとは、思いも寄らないことでしょう。
 
そして、涼道が右大将を務める間は、花久がまたまた女の服を着て、帝の妻の振りをしていなければならないので大変でした。
 
「こんな時に帝がいらして、求められたら、ボクどうしよう?」
などと悩んだりしているのでした。
 

そんな1年が過ぎて12月の下旬。右大臣の四の君・萌子が3度目の妊娠をしました。最初の子供は後に実は権中納言の子供であったことが分かり、現在、小夜は右大臣家の中でやや難しい立場に置かれています。2人目の須須は萌子にも生まれるまでどちらの子供が分からなかったのですが、顔かたちが右大将に似ていることから、右大将の子・左大臣と右大臣の共通の孫として大事にされています。
 
そして今度の子供は、もう萌子と権中納言の関係が完全に途切れており、右大将は正妻?の海子女王より余程こちらを大事にしてくれている状態で、間違い無く右大将の子供と思われました。それで左大臣も右大臣も大喜びでした。
 
萌子妊娠の報は権中納言の耳にも入りましたが、女である右大将との間に子供ができる訳が無いから、誰か別の男を引き入れたのだろうかなどと思っていました。彼は須須も自分の子供だと思い込んでいます。
 

年末年始の行事が多くあります。管弦の演奏機会も多いので、頻繁に右大将と尚侍は入れ替わってお務めをしていましたが、たまに混乱して、右大将の姿のまま後宮をうろついていて
「右大将様、宣耀殿にお越しですか?」
と言われて慌てたり、尚侍の姿のまま太政官に行き、
「中納言様は今ご不在ですよ」
と言われたり、どうかした時は、ふたりとも尚侍の姿になっていて、それを目にした、左大将が
「どうも疲れているようだ。帰って寝よう」
などと言ってお帰りになってしまうなどということもありました。
 
直接2人並んでいるのを見なくても、
「あれ、さっきも**で右大将様を見た気がするのに」
などと言われたりするニアミスは割りとありました。
 

ある日は涼道が右大将の姿になって矢比べに行っていた時、花久が代わりに尚侍の姿で宣耀殿で箏を弾いていたら、突然帝がおいでになって慌てます。
 
「桔梗ちゃん、箏を弾いてるのは珍しい。元々上手いのに最近はあまり弾いてなかったね」
などと言っています(帝は涼道と結婚したので彼女の本名も教えてもらった)。
 
妹は男がよく演奏する笛や琵琶は得意だけど、女がよく弾く箏や和琴はあまり得意じゃないもんね〜などと思いますが、それにしてもヤバい。このまま押し倒されて、やられちゃったらどうしよう?などと焦っています。
 
それで帝とおしゃべりしていると、周囲の侍女が席を外します。あーん、みんな行かないで〜と思いますが、そんなことも言えません。帝は花久の傍に寄り、身体を触ります。きゃー!と内心悲鳴をあげています。
 
「今日の桔梗ちゃんは妙に女らしいね。こんな日に契ると子供ができるかも知れないなあ」
などと帝。
 
うっそー!?ボク、帝の子供を産むことになっちゃったらどうしよう?と焦る花久。胸にも触られます。
「桔梗ちゃんの胸って可愛くて好きだなあ」
などと言われます。
 
確かにあの子のおっぱいはそんなに大きい方ではない気がするなあ。でもだから男装で出歩けるんだろうな、などと考えます。ちなみに、花久が装着している雪子様お手製の偽乳は、ちょうど涼道の胸と同じくらいのサイズに感じられるように作られています。
 

そしてとうとう帝は
「まだ日が高いけど、いいよね?」
などと言いながら、服を脱がせ始めます。
 
やばいよー。バレたら大変なことになるよー。
 
と思っていた時、
「失礼します」
という声が表からしたのです。
 
「弘房か?」
と帝がやや不快な顔をして返事をします。弘徽殿女御の弟、弘房中将のようです。
 
「お休みの所、大変申し訳ございません。院(今上の兄)様からの使者が参られておりましてお手紙のお返事が欲しいそうなのですが」
 
「分かった。すぐ行く」
と帝は返事し、尚侍には
「途中で中断してごめんね。またあとで続きをするね」
と小声で言って部屋を出られたのでした。
 
「助かったぁ」
と花久は思いました。
 
幸いにも涼道が2刻(現代の約30分)もしないうちに帰ってきたので
 
「小袿を脱がされる所までされたから、涼ちゃんは、小袿を脱いで帝を待っててね」
などと言い
「へ?」
と涼道が驚いていました。
 

年が明けて涼道と花久は21歳になります。
 
年始行事が落ち着くと通常の業務がたくさん出て来ます。花久は仕事があまりにも多いので、いつも秘書役にしている若雀に、面倒そうな書類は清涼殿の東宮上御局にいる涼道の所に持って行ってもらい、涼道に処理してもらいました。そういう訳で涼道は昼間は東宮の補助を務めたり“右大将・中納言の一部”として様々な案件の処置をし、夜は“天皇の妻”として、夜御殿(よるのおとど**)に行って帝と夜を共にするということになっていました。
 
(**)夜御殿(よるのおとど)は天皇の執務場所である昼御座(ひるのおまし)の後方にある塗籠の部屋で、主たる目的としては、剣璽(三種の神器の内、天叢雲剣と八尺瓊勾玉)を保管する場所である。天皇は夜間はここで寝て、剣璽の番人!をすることになる。平安時代末期の院制・幼帝の時代には、幼帝が乳母のところで寝ているため夜御殿に誰もいないという状況になり、剣璽を保管してる箱がネズミにかじられるというゆゆしき事態が起きたこともある。
 

こういう生活をしていて、何か1人で3-4人分仕事をしている気がするぞと涼道は思ったのですが、東宮は
 
「お前はそういう忙しいのが好きなのだろう?」
と笑っていました。
 
確かに涼道も自分は日がな一日のんびりと化粧したり小説など読んだり女房たちとおしゃべりなどして過ごし、夜は帝のお呼びが掛かるのを待つ、などといった生活は無理だよなと思っていました。何もすることのない日々が続いた宇治の館での生活はもう思い出したくもない気分です。
 
しかしさすがの涼道も、そういう忙しい生活をいったん中断しなければならない事態が起きるのです。
 
 
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【男の娘とりかえばや物語・尚侍復帰】(1)