【男の娘とりかえばや物語・取り替へたり】(1)

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21歳の4月、涼子の妊娠が判明しました。
 
これまで帝には女御が3人いたのに、誰との間にも子供がありませんでした。それで帝も左大臣も右大臣も大喜びです。そしてぜひ男の子であって欲しいと祈るのでした。
 
「取り敢えず仕事の負荷を減らそう。私の秘書役は“あまり”しなくていいから、上御局に“居る”だけでよい」
と東宮は涼子に言いました。
 
「私はとても自分の所に来る仕事をひとりではこなせないのですが」
と花久は言います。
 
「これまで同様、こちらに持って来させなさい。敷島にやらせる」
「私がやるんですか〜?」
「そなたの妹(中納言の君)と分担してもよいぞ。ふたりとも漢字は得意だろう」
「では単純な案件は。判断に迷うようなものは姫御子様に相談します」
「うん。どんどん片付けてやる」
 
東宮のバックアップで何とか仕事の方はこなしていけそうな感じでした。
 

妊娠で、さすがに涼子は夜のお務めをする機会は減ることになります。結果的には涼子が帝の妻となる前に最も帝と夜を共にすることの多かった、梅壺女御(萌子の姉)が夜御殿(よるのおとど)に呼ばれる機会が増えます。
 
梅壺女御としては尚侍(ないしのかみ)の妊娠で、自分の父(右大臣)まで喜んでいるのが極めて不愉快で、こちらもしっかり帝の子を産んでやろうと、熱心に帝にサービスをするのでした。
 
過剰サービスにさすがの帝も音を上げて、弘徽殿女御を召す夜もあります。しかしこちらも対抗心から超過剰サービスです。
 
「やめろー!朕が壊れる!**が折れる!」
と悲鳴が聞こえてきて、中将の内侍がギョッとします。
 
それで、もう自分は帝の子を産むことはないだろうと諦めている麗景殿女御を呼ぶと普通の接し方なので、ホッと“箸”休めになるという状況でした。
 
「無理に“しなくても”いいですよね?そばで添い寝させて頂きます」
「すまん。今日は“箸”を使う自信が無い。昨夜のがまだ痛い」
 
元々優しい性格の麗景殿女御は、尚侍にも優しく、あれこれ親切にしてくれました。また梅壺女御や弘徽殿女御からの嫌がらせの盾になってくれたりもして、涼子は彼女に大いに感謝することになります。
 

ところで涼道と花久の名前なのですが、元々ふたりが宮中にあがった時には涼道・花子を名乗っていたので、ふたりが入れ替わって復帰した時は、花子が涼道を名乗り、涼道が花子を名乗るという面倒なことをしています。しかしこれは本人たち自身も混乱するので、“花子を名乗っている涼道”は、帝と結婚した時点で“兄の名前から1字取り”花子を涼子と改名しますと発表しました。
 
しかし実際には“右大将・中納言・藤原涼道”というのは、花久・涼子が分担して演じているので、これ以降“涼道”はいわば、花久と涼子の共同ペンネームのようなものとなっていくのです。
 
もっとも事情を知っている雪子などは、ふつうにふたりを「涼ちゃん・花ちゃん」と元の名前の愛称で呼んでいました。結局「花ちゃん」という呼び名は、雪子と涼子の他には海子などだけが使うものとなります。
 

権中納言は、四の君・萌子が妊娠したという話を聞いた時は、誰か新たな恋人ができて、その男を招き入れているのだろうと思ったのですが、かつて愛した人だけに彼女を妊娠させたのは誰なのか気になりました。
 
それで色々噂を聞いてみるものの、萌子の所に忍んでくる男というのが、どうにも分かりません。それどころか最近、萌子は右大将とうまく行っているという話ばかりが聞こえてきます。
 
不審に思った権中納言は、萌子の乳母子・左衛門に手紙を書きました。
 
「色々そなたに話を聞きたい。こちらが女車に乗って伺うか、あるいはどこかに出て来てもらったらそこで会いたいのだが」
 
それで左衛門は四の君に権中納言に呼ばれていることを言った上で、決して手引きなどはしないと誓った上で、月の者の宿下がりの名目で右大臣宅を出ます。そして、権中納言の家(萩の君をお育てしている所)に伺ったのです。
 

「ずっと四の君とも会っていない。つもる話もあるし、一度手引きしてくれない?」
と権中納言は言ってみましたが
 
「それはかたくお断りします」
と左衛門はきっぱり言います。
 
「現在、四の君は右大将様とうまく行っています。昔は右大将様は、まるで女同士で夜を明かすかのように、ただおしゃべりだけして夜を明かしておられましたので、気の毒な気がしていたこともあり、権中納言様の手引きも致しました。しかしそのことで四の君は親からも世間からも非難され、とても辛い目にあいました」
 
あからさまに権中納言を非難しています。。
 
「でも右大将様は失踪からお戻りになってからは、普通に姫様を愛して下さっています。吉野の姉君を正妻に迎えられたのは悔しいですが、吉野姉君はまだ妊娠しておられませんが、四の君には須須様もおられますし、現在妊娠なさっていて、今回も右大将様の子供を産めるというので喜んでおられます」
 
と言います。
 
「須須はボクの子供だよね?」
「いいえ。顔かたちが右大将様に似ておられますし、間違い無く右大将様のお子です」
 
そんな馬鹿な?と権中納言は思います。
 
権中納言は混乱しました。なぜ女同士で子供ができるのだ??
 

権中納言は、右大将が毎晩ちゃんと四の君を抱いているという話、そして間違いなく四の君は右大将の種で妊娠したし、先に生まれた須須も右大将によく似ているという話を聞いて、混乱します。それで左衛門に色々尋ねるりですが、さっぱり分かりません。
 
夜も更けていくので、長く引き留めてはいけないと考え、左衛門には
「ありがとう。でも今夜は帰りなさい」
と言って帰します。左衛門も少しきつく言い過ぎたかなと思い、打ちひしがれている様子の権中納言を見て気の毒に思ったものの、そのまま帰って四の君に報告しました。
 
権中納言は右大将と一度話し合ってみる必要があると考えました。しかし権中納言は、かなり忙しそうで、大量の書類を処理していますし、地方官やあちこちの部署の者などとも会い、交渉事で飛び回っています。後ろ盾になっている東宮のところにもよく行っていますし、妊娠中の尚侍にもよく伺候しているようです。
 
それで忙しくしているのを、相変わらず権中納言は右大将にくっついて回っているのですが(本当にこいつは何の仕事をしているんだ?)、2人きりになることが全くありません。右大将本人は、権中納言がくっついてまわっていること自体は、許容していて、特に面倒にも思っていないようです。
 

今年の右大将は本当に忙しいようで、いつも射手を務めている賀茂の祭りの流鏑馬の射手も今年は辞退したようです。
 
4月23日、花久は涼子(涼道)から“メンテ”しておいてと言われ、麗景殿女御の妹・楠子に会いに行きました。
 
会ってみて、彼女が春に麗景殿女御に挨拶に行った時、こちらを見詰めていた女性であることに気付き、だからこちらを見ていたのかと納得しました。
 
「なかなか会いに来られなくてごめんね」
などと花久が言うと
 
「右大将様が失踪なさっていた時期もずっとお慕い申し上げておりました」
などと楠子が言うので、
 
おいおい、涼道の奴、一体いつからこの女を放置していたんだ?と呆れます。まあ確かにあいつは元々女に興味があるわけではないみたいで、萌子の所にはよく帰っていたけど、海子には結局全然手を付けてないみたいだしなあと思います。
 
(本当は“女同士”の交わりをして充分海子を満足させてあげている。だから海子は涼子にバージンを捧げた)
 
実は花久自身も男性的な発達が遅れていて、結局いまだに声変わりの兆候も無いし、ヒゲも生えておらず、おかげで、東宮からの「そろそろ睾丸を抜こうか」という話も「また今度」と逃げている状態です。それで実は花久もあまり女性には興味が無いものの、ちんちんの無い涼子の代わりに“メンテ”をしているのが現状です。
 
「ずっと連絡しなくてごめんね」
などと謝った上で、涼子ならこんなこと言うかな?などと思うようなことを言ったりしている内に。盛り上がってしまい、女の部屋に入ってキスします。この時、女が戸惑っているので、やはり2年くらい放置していたせいかなと思い、優しく抱きしめた上で、優しく“して”あげました。すると、彼女の反応から、どうも涼子はこれまでこの女性に“何もしていなかった”ことを察し、何やってたんだ?と思います。と同時に自分が代わりに“しちゃって”良かったのかな?と少し後悔もしました。しかし花久は
 
「これまで君があまりにも可憐だったので手を出せなかったけど、今日はとても気持ちが盛り上がってしまい、君をボクのものにしないではいられなかった」
などと言うと、彼女は感動しているようです。
 

朝になるので彼女の部屋を出ますが、彼女が戸を開けてくれても名残惜しそうに後朝(きぬぎぬ)の歌などやりとりしてから、退出しました。
 
そして実は右大将が女の部屋から出てくる所を見ている者がいました。
 
いつも右大将にくっついて回っている権中納言です!
 
彼はこの時の右大将の姿が“男”にしか見えなかったので驚愕します。
 
そもそも女と寝てきたようですし。
 
思いあまって、右大将が帰ろうとする所に、権中納言は声を掛けました。右大将もまさかこんな所まで付いてきていたとは思わなかったので、さすがに驚きます。権中納言は、宇治の館から君が突然姿を消して以来・・・と、ここ1年ほど言えなかった恨み言をたくさん言いました。
 
右大将は、権中納言からきついことを言われても怒らずにじっと聞いていました。むしろこいつも結構真面目に女を愛しているんだなと見直しました。
 
「あなたとは、一度ゆっくり話したいと思います。でも僕たちも幼い頃と違って各々の立場もあるし、責任とかもあって、安易なことは出来ないですね」
 
と右大将は答えました。
 
権中納言は彼と話していて、たしかにこいつは男だと再度確信しました。では女の右大将はどこに行ってしまったのだろうと疑問を感じます。
 
「もう明るくなってしまったなあ」
と右大将は言って、尚侍のいる宣耀殿に向かいました。
 

右大将と、宇治の館以来、久しぶりに言葉を交わしたものの、権中納言はどうにも納得がいきません。おそらく男の右大将と女の右大将は何らかの血縁のある人ではないかと考えます。
 
最初は女右大将の兄弟なのではと思ったものの(実は正解!)、男の兄弟がいたのであれば、女右大将がわざわざ男の振りをして宮中に仕えたり、女と結婚したりする必要はありません(まさにその通り!)。
 
なお、権中納言は左大臣の子供が2人とも女の子だったので、姉が男装して右大将として宮仕えしていると思い込んでいます。
 
では今見た男の右大将は誰なのだ?と思うのですが、ひょっとすると、本来はあまり世に出せない、身分の卑しい女に産ませた兄弟か、あるいは従兄弟か何かかも知れないと考えました。
 
何としても、もう一度ゆっくり彼と話したい(そして話した上で女右大将の行方を聞きたい、そして聞いて口説きたい!)と思い、彼は5月のある日、右大将を二条堀川の館に訪ねていきました。
 
ところが、右大将は右大臣邸に行っているようです(実は萌子がいるので、花久はここに帰るより右大将邸に帰ることのほうが多い)。
 
こちらにはあまり人もいないようだったので帰ろうかと思いました。ところが、そこに“琴の琴(きんのこと)”の音が聞こえてきました。
 
ここでこれが琴の琴の音であることに気付くのが、さすが音楽に詳しい権中納言です。日本ではめったに弾く人のいなくなった楽器(宮中では実はたまに涼子が弾いている)なので、音を聴いても楽器が判別できない人が大半です。
 
権中納言が耳をすまして聴いていますと、箏や琵琶に似た音も聞こえます。どうも何人かで合奏しているようですが、中でも琴(きん)の音色がこの世のものとは思えないほど素晴らしい。
 
それで権中納言は邸内に忍び入って、こっそりと覗き見をしました。
 
(純粋に音楽に興味を持っただけであり、女を覗こうという気持ちは無い)
 

中で声がします。
 
「こんな所、誰も覗き見したりしませんよ」
と言って、御簾が巻き上げられます。
 
箏(そう)を弾く人は巻き上げたすだれのそばにいます。今そっとすべるように端に出てきました。ほっそりと髪の具合や頭の格好、姿など、若い侍女風です。琴(きん)と琵琶を弾く人は長押の上に座っています。隅々まで照らす月の光に、こちらに向かって座っているのでよく見えます。
 
琴(きん)の人:実は姉の海子:は少し奥に座っています。その琴を向こうに押しやり、月をじっと見て居る様がたいそう気品があり優雅です。尚侍と雰囲気が似ている感じもします。もうひとりの女(妹の浜子)は、台に乗せた琵琶に寄りかかって、たいそうふっくらと愛嬌があり、子供めいたふうで愛らしい。権中納言はその琵琶が中国琵琶であることを見抜きました。
 
権中納言は、この中国琵琶の人が好みだなあ、などと思いました(一目惚れ)。
 
しかし、もうひとりの、今ではほとんど弾く人のなくなった琴(きん)を弾きこなしている人も感激だ、などと思います。
 

やがて月も沈んでしまったので(つまりかなり長時間眺めていた)、合奏も終了し、琴の琴の人(姉君)も琵琶の人(妹君)も侍女たちとおしゃべりしています。その琵琶の人の姿が本当に愛らしく心がときめいてしまいます。
 
権中納言は宇治に女右大将を連れて行くまでは多数の女と付き合っていたものの、その後は女との関わりは、筑紫の君だけになっていました。それで、このような気持ちになったのは久しぶりでした。
 

ちなみに、館で合奏していた女たちの方ですが、庭に男性が忍び込んでいたのには当然気付いていましたので、その日は戸締まりをしっかりし、男の番人なども立たせてから寝ています。
 
「でもどこの男でしょうね」
とひとりの女房が言いますと
 
「あれは式部卿宮のご子息で、現在の役職は権中納言様ですよ」
と言った女房がいました。
 
「式部卿宮のご子息ということは、帝の従弟君ですか?」
「そうそう。だから、殿様(右大将)の妹君が子供をなしていなかったら、あの方が次の天皇になられていたかも知れない」
 
「そんな立派な方が庭に忍び込むんですか?」
「男は、女を得るためには、そのくらいするんですよ。特にあの方は女性関係の噂が絶えなかったですからね」
 
「“絶えなかった”というと最近は?」
「一昨年、どこかの高貴な姫君を盗み出して、その方に子供まで産ませたものの姫君は実家に取り返されてしまったらしいですよ」
 
事情を知っている海子・浜子の姉妹は、世間ではそういう噂をしているのかと呆れました。しかし2人とも権中納言の顔を見たのは初めてです。妹が何だかボーっとしているようなので
「やめておきなさい。適当に遊ばれて捨てられるよ」
と姉は浜子に注意しました。
 
「男の人が浮気するのは普通だもん。帝の従弟って立派な方じゃない?そんな方と契れば、将来ひょっとして、自分が産んだ子が帝になる可能性もあるでしょ?」
と浜子は言っています。
 
「まあ可能性が無いことはないね」
と姉は呆れ気味に答えます。
 
「私たちからの親族関係はどうなるんだっけ?」
 
浜子としても、あまりにも血筋が近すぎると微妙になります。姉は少し考えましたが、やがて言います。
 
「私たちは権中納言様の従姪になると思うよ」
「お姉ちゃんは従甥だったりして」
 
「ここはいいわあ。男装してても叱られないし。私と尚侍様はある意味戦友」
「ああ。ふたりって、夫婦というよりは戦友だよね」
「話が合うのよね〜。早く里下がりしてこられないかなあ。たくさんお話ししたいのに」
「話が合うだけじゃなくて“貝”も合うんでしょ?」
「きゃー!」
「こらこら。未婚の娘が言うことじゃありませんよ」
 
実は海子は“涼子の妻”なので、花久の妻ではありません。それで花久も彼女を抱いたりはしません。萌子や楠子を抱いたのは、あくまで不審に思われないための、涼子の代理てす。もっとも涼子は、女同士で交わる方法を東宮様から伝授されたらしく、海子とは実はその方式で性の交わりしているらしく、萌子と寝て悦ばせていたのも8割くらい涼子の方だったりします(そういう日は花久が妹の代理で女装して尚侍をしている−そして妊娠中で帝の夜のお供をしていないのをいいことに東宮に弄ばれる!)。
 
花久自身はあまり恋愛に興味は無かったりします(多分睾丸の機能が弱いせい)。実は唯一の例外が東宮です。花久も東宮には憧れる気持ちがありました。
 
また海子には元々男性的な傾向があり、漢文や古典、法律や地理などの知識も豊富ですし、馬術・弓矢などもこなします。それが東宮の代理をした時に役立ちました。この二条堀川の家では、父親の目が無いのをいいことに、半分くらい男装しています。男装しやすいように髪も短めにしている(この館に来た時にけっこう切った)ので、涼子が「いいなあ。ボクは髪を切れない」と羨ましそうに言ったりします。
 
(涼子と海子の会話はそばで聞いていると男同士の会話に聞こえる)
 

さて、権中納言は、元々の性格がマメですし、女性関係のコネが多いので(その多いコネを使っても女右大将の行方は掴めない)、それを駆使して、二条堀川の館に居て、琵琶を弾いていた女性が誰なのか調べました。
 
それで彼は琴の琴(きんのこと)を弾いていたのが、右大将の正妻の、吉野の姉君で、琵琶を弾いていたのは、その妹君であることが分かります。
 
権中納言は何とかその妹君とツテが作れないかと、二条堀川の館に勤めている侍女などとのコネを確保しようとするのですが、どうにもガードが堅いようで、文などを託すこともできずにいました(海子が妹への権中納言からの手紙を絶対に取り次がないように指令している)。
 

6月14日、右大将は、二条堀川の家に、多数の上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじょうびと)を招いて、豪華な宴を開きました。この館の本殿南庭には、泉なども作り、池に面して釣殿などもある風雅な建物です。
 
この宴に右大将は、権中納言も招待しました。
 
わざわざ、母(春姫)の甥である、蔵人兵衛佐という人に使者に立ってもらい招待状を渡しました。権中納言は、女右大将の行方にヒントが得られるかもと思い、招待を受け、立派な服装をして出かけました。
 
楽人を招いて合奏させ、お酒もふるまい、料理もたくさん並べます。
 
宴もたけなわになってきた所で、右大将の笛が聴きたいという声が出て来ます。
「今日は楽(がく)に巧みな人たちを招いていますし」
 
とは言うのですが、それでもぜひというので、右大将は
 
「でしたら権中納言も琵琶で参加してください」
と言い、結局、右大将の笛、権中納言の琵琶、左衛門督の箏(そう)、宰相中将の笙(しょう**)、弁の少将の篳篥(ひちりき)で合奏することになります。
 
この合奏には、居並ぶ多数の公卿・殿上人たちが聴き惚れていました。
 
(**)“しょう”と読む楽器は2種類ある。“笙”(しょう)は多数の管が縦に立っている楽器で、発音機構はバグパイプに似ていて音も似ている。その姿からしばしば鳳凰にたとえられ“鳳笙”(ほうしょっう)という美称もある、楽器の女王と呼ぶ人もある(多分男王は龍笛)。
 
もうひとつ“簫”(しょう)というのは、パンフルートのような楽器である。後に、そのパンフルートを構成する単管を独立させたような縦笛も同じく簫と呼ばれるようになった。この単管の簫が生まれたのはだいたい11世紀頃以降と思われる。つまり、とりかへばや物語の時代にはまだ無い。パンフルート型の簫(排簫はいしょう/パイシャオ)と区別して洞簫(どうしょう/トンシャオ)とも言う。表穴5個と裏穴1個という構造で後の明笛(みんてき)に似ているが、明笛が横吹であるのに対して、簫は縦吹きである。
 
子守唄で「でんでん太鼓にしょうの笛」と歌うのは、こちらの簫(洞簫)である。さすがに笙のような楽器を子供のお土産に買うことは無い。
 
なお他にお祭りではおなじみの鉦も「しょう」だが、こちらはむろん打楽器である。これも雅楽でも使用されるほか、お寺でもよく使われる。一部の宗派では木製の鉦を使う所もあり、木鉦と呼ばれる。
 

この豪華な顔ぶれで合奏した後、権中納言は
「女性も混ぜて演奏したいですね」
 
と言います。右大将も
「それもいいですね」
と言って、吉野の姫君姉妹のために御帳台を2つ用意し、そこに姉妹に入ってもらいました。
 
姉君の琴の琴(きんのこと)、妹君の琵琶(中国琵琶)、それに右大将の笛、権中納言の琵琶(日本琵琶)、左衛門督の箏、宰相中将の笙、弁の少将の篳篥、という合奏に、蔵人兵衛佐は扇を鳴らして歌を歌うという豪華な演奏となります。
 
こんな即興の組合せで合奏するのは初めてですが、みんな楽にたけているので、自然に役割分担も定まり、調和した合奏(セッション)になりました。
 
琴の琴にしても、中国琵琶(**)にしても、聴く機会の少ない楽器で、みんな珍しい音の入った演奏に歓声まであがっていました。
 
(**)当時の中国琵琶は形としては現代の日本琵琶と似た形をしており、清代の琵琶や現在の中国琵琶とは結構形や構造に演奏法も違う。日本琵琶と似た形ではあるものの、日本琵琶は抱えて弾くのに対して、中国琵琶は床や台に置いて弾くのが違っている。なお日本で“唐琵琶”と呼ばれているものは、この唐代頃に本当に使用されていた琵琶とは全く違い、実は清代に発達した新しい形式の琵琶である(バチではなく義甲(ピック)で弾く)。なお現代の中国琵琶はギターの考え方が導入されて色々構造が変わっているし、指で弾く楽器である。
 

杯(さかずき)も坏(つき:食器)もどんどん空きになったものが重ねられ、出席者もあるいは眠ってしまい、あるいは酔い潰れて、動いている人数は少なくなっていきます。眠ってしまった人たちには、女房たちが布を掛けてあげていました。
 
権中納言は完璧に酔っていて、もう酔い潰れる寸前なのですが、右大将に絡むように話しかけます。
 
「わざわざ俺をここに呼んだんだから、何かくれ」
と言います。何かというのは、もちろん女右大将のことです。
 
「ありし日の宇治の橋姫を、お前、どこかに隠してないか?」
などと言って、歌を詠みます。
 
昔見し、宇治の橋姫それならで恨み解くべき方はあらじと
 
あの宇治に住んでいた橋姫(女右大将)をくれたら、お前への恨みも解いてやる。(“解く”は“帯を解く”に掛けていて、セックスさせろというあからさまな歌)
 
橋姫は衣片敷き待ちわびて身を宇治川に投げてしものを
 
橋姫は衣を敷いて待っていたのに待ち人が来ないので身を宇治川に投じてしまいましたよ。
(宇治にいた人はあなたがなかなか来てくれないから、もう宇治川に身投げして死んでしまったのです:あんたが(萌子の心配ばかりして)放置してたからでしょと権中納言を責めている。そしてあの人はもう死んでしまったのだから諦めて下さいと言っている。古今集「狭筵(さむしろ)に衣片敷き今宵もや、我を待つらむ宇治の橋姫」をベースにしている)
 

権中納言は酔ったふりをして(でも実際既にかなり酔っている)
 
「今夜はもう帰れそうにない。姫君たちの御簾の前で夜を過ごしましょう」
 
などと言いますが、
「それは重みの無い話ですね。こちらへいらしてください」
と自ら権中納言を案内して、立派な調度のある部屋に連れて行くと
 
「ゆっくりお休みになってください」
と言って、右大将自身は部屋を出て行きます。
「廊下に誰か待機していますから、用事があったら申しつけてください」
と言い残しました。
 

それで権中納言も、さすがにかなり酔ったし、取り敢えず寝ようかなと思います。しかし夜中に目が醒めてしまいます(多分飲み過ぎ)。
 
どこかで笛の音がします。その笛は右大将の吹くもののように思えました。
 
権中納言は、もし1人で吹いているのなら、あらためて彼女(彼?)と話がしたいと思いました。それで権中納言は、笛の音に誘われるように部屋を出て歩いて行きます。結局建物を出て庭に出てしまいました。
 
そして権中納言が見たのは、池に張り出した釣殿の所にいる、小袿姿の女性が笛を美しく吹いている様でした。
 
(女性で笛を吹ける人は珍しい:涼子や東宮は吹くが例外的なもの)
 

「涼ちゃん!?」
と驚いたように声を掛けると、笛を吹いていた女性が振り返ります。
 
それはまさしく2年前に宇治の館から居なくなった、愛しき人の姿でした。
 
権中納言はボロボロ涙が出ました。
 
「涼ちゃん、会いたかったよぉ」
と彼は言いました。
 
しかし笛を吹いていた女性は権中納言に微笑むと、さっと建物の中に入って行きます。権中納言はその後を追います。女性は回廊のような所を随分歩いて行っていたのですが、いくつか建物を過ぎた所の曲がり角でひょいと曲がります。
 
権中納言は続けて曲がりましたが、女性の姿はありませんでした。
 
「どこ行ったんだろう?」
と思います。権中納言は、キョロキョロ見ていたのですが、近くに部屋があることに気付きます。
 
「涼ちゃんここ?」
と言って勝手に中に入るのですが、そこには涼道とは別の女性が居て、こちらを見て、驚いたような顔をしています。
 

「吉野の妹君?」
「権中納言さま?」
 
権中納言は、思わぬ所で思い人の女性と遭遇したので、速攻で、女性にマメな性格が出ます。
 
「妹君様、あなたのお顔を5月にたまたま見る機会があって、それ以来、恋い焦がれておりました」
 
「まあ、権中納言さま。私もあなた様のことを耳にして、興味を持っておりました」
 
どうも相思相愛だったようです。
 
権中納言は早速、歌を詠みます。すると彼女も返歌します。権中納言は結構きわどい歌を書くのですが、女もそういうのは嫌いではないようで、お互いにやりとりするうちに楽しくなってきました。
 
「していい?」
「してください」
 
ということで、権中納言は彼女と床をひとつにしたのでした。
 

朝になると、朝食が運ばれてきます。
 
右大将に挨拶に行くべきかと思ったのですが、まだすねているので、行かずにその日は丸一日、妹君・浜子とおしゃべりをしていました。女性を喜ばせる話題はたくさんあるので、浜子はたくさん笑い転げていました。そして明るい光の中で間近に彼女を見て、ほんとに可愛い子だなあと、権中納言も思うのでした。
 
結局権中納言はこの妹君の部屋に3晩滞在してしまいました。琵琶の合奏などもして楽しく過ごします。そして3回目の晩が明けた朝の朝食には、餅が3つ添えられていたので、権中納言はその餅を3つ丸呑みしました。
 
その日の夕方になって、右大将から使いの女房が来ます。権中納言もよく知っている、加賀の君です。
 
「主人より伝言です。『こちらから参上して酔いの不始末などもお詫びしないといけないかもしれませんが、いっそこちらにおいでなさいまぜんか』とのことです」
 
「分かった。行こう」
 

それで権中納言は、服装を整えて、加賀の君と一緒に、右大将のいる所に向かいました。
 
夏なので右大将はくつろいだ格好をしています。3年前の夏の出来事が頭に蘇ります。権中納言は右大将をよく観察しますが、今日の右大将は男なのか女なのか判断ができませんでした。
 
「私はあなたに見捨てられたかと思っていました。幼い子供(萩の君)のこともお尋ねにならないので、どうしたものかと思っていました。でも気に掛けてくださっていたことは喜んでおります。行方の分からない人(女右大将)の形見の子供も私がずっとお世話していますが、男の身なので常に付いているという訳にもいきません。あなたの近くに置いておくことができたら安心なのですが」
 
子供にかこつけて、女右大将と一緒に暮らしたいと言っています。
 
「その子(萩の君)のことについては、申し上げようもありません。ところで、吉野の二の君のことなのですが」
 
「あの娘は俺にくれ」
 
「お互い気に入ったみたいですね。いや、あの子があなたに興味があると言うので、姉君も私もやめとけと言ったのですが、本人が乗り気なので、認めることにしました」
 
「じゃもらっていいんだな?」
 
「私は気が進まないんですけどねー。本人が契りたいと言っているし。でも、いやくしも女王様ですから、それなりの館は用意してくださいね」
 
(吉野の宮は親王宣下されていないので親王ではなく王になる。従ってその娘も内親王ではなく女王になる)
 
「分かった。それは何とかする。それまではここに通ってきてもいいか?」
「女房や下働きの者たちに、手紙も本人も通してよいと言っておきますよ」
「頼む」
 
「そうだ。笛を聴かせてくれない?」
「いいよ。ちょっと待って。笛を取ってくる」
と言って、右大将は席を立ちましたが、権中納言の傍を通った時、落葉(お香の一種)の香りがしました。
 
その香りを嗅いでハッとします。
 
この香りは、女右大将が好んで焚いていたものだったのです。
 
やがて
「失礼しました」
と言って右大将が戻ってきます。そして龍笛を吹くと、それはとても美しいものでした。
 
しかし権中納言は、笛を吹いている右大将を見ていて何か違和感を感じます。
 
「こいつは・・・男だ!」
 
それで権中納言は、今笛を吹いている右大将が男であれば、さっきまで自分と話していた右大将こそ、宇治の館から消えた女右大将その人だったのではないかと思い至ったのです。
 

実際には、ここで笛を吹いてみせたのは、実は花久の再従兄弟に当たり、花久・涼道と容貌が似ている源和茂(能登国司の次男)です。3日前の合奏で笛を吹いたのも彼です。
 
ここ1年ほど、宮中の管弦の宴の類いでは、笛や琵琶は男装の涼子が演奏していたのですが(代わりに花久が尚侍の振りをして五衣唐衣裳を着、帝の近くに侍っていたりした)、涼子の妊娠が発覚した時点で、右大将の代役が必要になると考えた涼子と花久は能登から彼を呼び寄せていました。
 
彼はまだ14歳ではありますが、花久が男性的に未成熟なので、充分代役が務まります。彼を代役に使うため、花久は同じ模様の服を3着一緒に注文していました。花久・涼子・和茂で1枚ずつ着るのです。
 
ちなみに基本的には右大将の代役なのですが、時には尚侍の代役をさせられ、女の服を着せられて恥ずかしそうにしていました、彼は声変わりは既にしているものの、元々ハイトーンの声を持っているので、何とか女の振りをしても破綻せずにやっていました。
 
ここまでの会話はもちろん花久が権中納言と話していたのですが、花久は笛がそんなにうまくないので、和茂に交替したのでした。
 

権中納言と浜子のことに関しては、浜子がとても乗り気であったので、当初反対していた花久・涼子・海子も根負けしたこと、そして現在権中納言が育てている萩の君には、誰かしっかりした母親が欲しいというのもありました。萩の君の件に関して浜子は、自分が母親になってよいし、何なら現在右大臣家で冷遇されているという小夜も自分の所に置いていいと言うので、認めることにしたという背景もありました。浜子としては少々品行に問題があっても“帝の従弟”というブランド?がとても魅力的であったようです。
 

権中納言は浜子を迎えるため、三条京極に土地を求め、立派な邸宅の建設を始めました。それまでの間、彼は二条堀川の右大将の館に通ってきては、浜子と会っていました。
 
彼がしばしば右大将邸に来ていることから、世間の人たちは、どうも権中納言は右大将と和解したようだと噂をしていました。権中納言としても、浜子がとても可愛いので、宇治の館から右大将に逃げられてしまって以来泣き暮らしていた頃に比べれば、随分心を慰められるのでした。
 

浜子が萩の君の母親代わりになってもいいと言ったことで、萩の君は備前に伴われて頻繁に二条邸を訪れることになりました。
 
備前としては、権中納言が吉野の姫君と結婚するという話を聞き、それは宇治の館から居なくなった女君で、権中納言殿は、その人をやっと探し当てたのではと思ったのですが、会ってみると別人なので戸惑います。
 
「あのお、姫様には妹様とかお兄様とかは?」
「乳母殿。その件に関しては、あまり人に知られてはいけない事情があるのですよ。あなたには充分な報酬を私からも払いますから、あまり追及しないで頂けませんか?それとその件を権中納言には決して話さないで欲しいのです」
と浜子は備前に言いました。
 
それで備前は、やはり自分の実家に金品を届けてくれているのは、あの女君で、おそらく、この方の姉妹(庶妹??)なのだろうと考えます。そして
 
「はい、もちろんです。決して誰にも話しません」
と浜子に誓ったのでした。
 

6月の宴から半月ほど経った7月1日、尚侍は出産のため二条堀川の右大将の館に里下がりしてきました。本殿内の、元々尚侍のために設計されていた部屋に入れます。表向きに尚侍のために用意していたことにしていた西の対ではなく本殿に入ったことに首をひねった人もありましたが、妊娠中では何かと不便なこともあるだろうから、兄の右大将が充分な支援をするためと説明しています。
 
そして尚侍が二条堀川の館に入ったのを見て、これまでここに入るのを渋っていた萌子も8月1日に右大臣宅から、こちらに移動してきました。萌子としても、親の家では、これまでの“不始末”で何かと苦言をされることが多いのに対して、右大将は自分にずっと優しくしてくれるので、こちらの方が居心地が良さそうであったこと、また二条堀川に、吉野の姫君たちだけがいる状態ならそこに行くのに抵抗があったものの、尚侍も居るなら、自分も居やすいという気持ちもありました。
 
萌子は当然右大将との子供である須須を連れてきますが、権中納言の子供である小夜に関しては、悩みました。一時は右大臣宅に置いてくることも考えたのですが、結局小夜も連れて行くことにしました。それは小夜が現在右大臣宅で辛い立場に置かれていて可哀想だと思っていたこと、右大将本人が「あの子もこちらに置いていいよ」と言っていたこと、更に吉野の妹君が権中納言と結婚してしまい、その妹君が小夜の世話をしたいと言っていたので、それに頼ることにしました。
 
結果的に小夜は、萌子と浜子という2人の母親がいるかのような状態で育てられることになります。ここ1年ほど、冷たい視線に曝され、泣いていることの多かった小夜が、ここては大事にされ、笑っていることが多くなったのは良いことでした。結局、小夜(4)と萩の君(2)は姉弟のような感じで、また萩の君と須須はまるで双子の兄弟のような感じで育つことになるのです。実際少し大きくなると、萩の君と須須は一緒に悪いことをしたりして一緒に叱られたりしていました。
 
また尚侍は、萩の君が二条堀川の館に(一時的にですが)居るというのが、とても心慰められることとなりました。実質捨ててしまった我が子の姿を見て涼子は、母子の名乗りこそあげられないものの、さすがに涙が出ました。
 

9月1日、萌子は男の子を出産しました。右大将にとって須須に続く2人目の男の子であり、佐佐と名付けられました。菊の季節に生まれたことから菊の君とも呼ばれることになります(これに対して須須は芒の君とも呼ばれる)。
 
萌子としては最初の出産(小夜)はみんなに祝福されつつも後ろめたい出産でしたし、2度目の出産(須須)は夫は失踪中で父親から勘当されて乳母の家での出産になり、精神的に最悪の状態で自分も死ぬかもという状況でした。しかし今度は夫(右大将)から本当に愛され、父親の右大臣も心から喜んでくれる、幸せな出産となりました。精神的に安定していたこともあり、出産自体も安産となりました。
 

尚侍(涼子)が里下がりしている時期、右大将(花久)は、自分では判断のつかないことがあると、若雀を二条邸の涼子の所に行かせて判断してもらっていました。また地方官などからの手紙や、企画書などの類いも涼子に書いてもらっていました。涼子がほんとにしっかりした文書を書くので、花久としても、やはりこういうのは妹にはかなわないなあと思っていました。
 
この時期の宮中での管弦の催しなどは、和茂が右大将の振りをして演奏していました。歌比べのような行事では、予め涼子に歌を書いてもらっていました。
 
和歌を作ること自体は、花久も充分優秀な類いなのですが、涼子の“字”が欲しいのです。
 
涼子が二条邸にいると、海子はしばしば涼子の部屋に行き、夜を共にしていました。涼子自身は妊娠していますが、海子は妊娠していないので、充分セックスをすることができます!
 
「ボク、涼ちゃんの子供なら産んでもいいなあ」
「赤ちゃん欲しいなら花ちゃんと寝る?」
 
「うーん。花ちゃんのことも嫌いではないけど、そこまでしたくもない。ボクは基本的には涼ちゃんの妻だし。だいたい、あの子まだちんちんあるんだっけ?」
 
「“時々”あるみたいだよ。あまり機能は高くないけど。あの子は尿筒(しとづつ)使えないから、普通の女の子と同様に虎子(おおつぼ)使うし。たからあの子の傍には必ず侍女が2名以上付いてないといけない」
 
「尿筒が使えないって、やはりあの子、もうちんちん無いのでは?声変わりもしないし」
 
などと言っている海子も涼道も尿筒の愛用者です!
 
「ボクも自信無い。結局萌子とはボクたちと同じ方式で“交わって”いるみたいだよ」
 
「この二条邸で梨壺(東宮の居所)と同様に毎朝パンを焼いているのって意味深だよね」
「とっても必要なんだよね〜」
「食べると美味しいけどね」
 

12月20日、尚侍(涼子)は二条邸で子供を産みました。
 
本人としては2度目の出産なのですが、最初の出産のことは絶対に明かせないので、これは最初の出産という建前です。
 
(最初の出産を知っているのは、兄の花久と、海子・浜子姉妹のみ。腹心の侍女たちでさえ知らないが、その中で勘の良い式部だけは察していた。むろん彼女は誰にも言わない)。
 
そして生まれた子供は男の子でした。
 
帝にとって待望の世継ぎの誕生です。左大臣・右大臣はもちろん、帝の喜びようは、言い尽くせないほど大きなものでした。あまりにも周囲が喜んでいるので、涼子や花久がかえって冷静になってしまいました。。
 
この男児に帝は即親王宣下(せんげ)を行い、自ら宏和という名前を与えました。
 
朱雀院、雪子東宮、式部卿宮、隠棲している吉野宮からまでお祝いの品とお手紙が届きます。上達部・殿上人などからも山ほどお祝いの品が届き、その置き場所に悩むほどでした(雪子に許可をもらって西の対にかなり置かせてもらった)。
 
祝宴も盛大で、三日夜には左大臣主宰、五日夜は東宮大夫主宰、七日夜は帝が主宰して内裏で、九日夜は右大将主宰と競い合ってお祝いの宴がなされました。その度に右大将は笛を吹くことになりますが、実際に吹いたのは涼道のふりをした和茂です!
 
全ての貴族・国民が祝福ムードの中で面白くないのは、梅壺女御・弘徽殿女御くらいでした!
 
元々尚侍と仲が良かった麗景殿女御はわざわざ腹心の女房を遣わしてお祝いを言い、たくさんのお祝いの品もくれました。麗景殿女御の兄・左京太夫などにしても、ほぼ次の帝は確定だろうと思われるこの男児との強いつながりを作っておきたい所で、彼は妹とはまた別にお祝いの品を贈ってきました。
 

年が明け、涼子と花久は22歳になりました。涼子が年末に生んだ男児・宏和親王は生後わずか10日ほどで2歳になります。
 
内大臣が年齢と健康を理由に退任したことから、その後任に右大将が任じられました。わずか22歳での大臣就任は極めて異例です。この時代より後になりますが、かの藤原道長でさえ大臣になったのは30歳の時です(彼は大納言からいきなり右大臣になっており内大臣を経ていない)。
 
また権中納言は大納言に昇進させられました。大納言は本来定員2名ですが、最も多い時期は10名居たこともあり、定員は有名無実です。もっとも彼はこれまでも中納言の仕事をあまりしていたようには見えないので大納言もきっと名前だけです。
 

1月23日、麗景殿女御の妹・楠子が女の子を出産しました。朝日と名付けられます、父親は右大将であることを右大将(内大臣)自身が公にしました。
 
楠子はこの出産のため、10月に実家に里下がりしていました。また花久は楠子の実家に頻繁に出向き、父や兄とたくさん交款しています。麗景殿女御の一家が涼子の出産を盛大にお祝いしてくれたのは、その背景もありました。
 
右大将としては、小夜が大納言(昨年までの権中納言)の子供であったことが明らかになっていたので、これが実は最初の女の子です。それで右大将は楠子に二条邸に移ってこないかと誘ったのですが、楠子の姉・麗景殿女御が
「自分はきっと帝の子供を産むこともないだろうし、せめてこの子を手元で育てたい」
と言ったことから、宮中で育てられることになります。
 

2月11日、東宮雪子が皇太子の地位を辞退することを表明しました。
 
雪子としては、元々自分は帝に男児が生まれるまでの暫定的な皇太子であると公言していましたので、予定通りの行動です。
 
帝は雪子に“准上皇”(**)の地位を与えたいと言ったのですが、雪子はそれも辞退して、ただの内親王の地位に戻ることになりました。
 

(**) 史実では、日本の皇太子で、廃太子もされず、その地位を生前に辞退したのは、後一条天皇の皇太子であった敦明親王(994-1051)のみである。
 
敦明親王は三条天皇の第1皇子で、三条天皇は彼を皇太子とする条件で後一条天皇に譲位した(1016.1.29)。しかし後一条天皇は14歳も年下であり、実際に自分が天皇になれる見込みは少ないと考えたことと、藤原道長の圧力もあり皇太子の地位を辞退(1017.8.9)。准太上天皇の称号を贈られた。
 
なお、原作では東宮は女院になったとされているのだが、この時代にはまだ女院という制度が存在しない。
 
女院というのはそもそも皇后の地位にあった人が夫の天皇が退位した後に出家して任じられるものであった。その最初は991年に女院になった藤原詮子で円融天皇の女御である。彼女は本当は皇后にはなっていないのだが、子供(一条天皇)が帝位に就いたことから皇太后の地位を贈られた。そして円融上皇の崩御後、出家して女院宣下された。
 
後に女院は皇后を経ていない、出家した内親王に贈られるケースも出てくるが、その最初は1157年のワ子内親王であり、とりかへばや物語の時代(930頃)より遙かに後のことである。
 

雪子の東宮辞退に伴い、尚侍(涼子)が産んだ宏和親王が生後50日にして、新たな皇太子に指名されました。
 
そしてその生母である尚侍は女御に任じられました(宣耀殿女御と呼ばれる)。帝の4人目の女御です。
 
麗景殿女御は彼女を祝福しましたが、弘徽殿女御・梅壺女御は極めて不愉快でした!!彼女たちの不満を少しでもやわらげるため、内大臣は3人の女御の所にあらためて挨拶に行き、豪華な贈りものをしています。
 
東宮を辞退した雪子内親王は、自分が政治からも引退することを明示するため宮中からも下がることにしましたが、その下がる先として選んだのが、内大臣の二条邸・西の対であったことは、人々に大きな驚きを与えました。
 
「元々私は、内大臣殿に後ろ盾になってもらっていた。だからその邸に行くのはごく自然である」
などと雪子は言ったのですが、人々は、要するに内大臣に嫁ぐということなのだろうと言いました。
 

結果的に、内大臣は、朱雀院の娘(雪子)・吉野宮の娘(海子)という、帝の姪を2人も妻にすることになり、しかも妹の宣耀殿女御が産んだ帝の子供が皇太子です。
 
ここに来て内大臣の影響力は絶大なものとなり、形式的には上位である父の左大臣、義父の右大臣を凌ぐものとなりました。人々はこれを「一二苦しき三」(**)と言いました。
 
ここ数年、大殿(左大臣の父で、花久たちの祖父)の引退で権力の空白が生まれて国全体が不安定になっていたのを雪子東宮が必死で引き締めていたのですが、その雪子の政治的引退は、へたすると日本の国全体を不安定にしかねないものでした。
 
しかし雪子東宮の事実上の副官として、右大将(内大臣)はあちこちの地方に赴いて地方官たちとたくさん話し合いを持っています。それで自分とのつながりがある内大臣のところに権力が集中することを、地方官たちは大いに歓迎したのでした。
 
(**)史実では、藤原師輔は生涯右大臣のままであったが、実際には上位の左大臣藤原実頼よりずっと大きな権力を持っていた。これを人々は「一苦しき二」と言った。
 

もっとも本当の内大臣・花久は実はあまり政務能力がありません。
 
実際に内大臣として様々な立案をしていたのは、実は涼子や雪子でした。企画書・建議書の類い、また地方官とのやりとりの文書は、ほとんど涼子が書いています。雪子も引退した身とはいえ、企画立案などにかなり関わっていました。また会議などには、しばしば涼子が男装して、内大臣として出席したりしていました。
 
「元々の性格はどうにもなりませんよね」
などと式部は笑っていました。
 
「性格もだけど、知識とかでもボクはあの子に全くかなわないよ」
と花久は言います。
 
「いや、涼道は、法体系や慣習だけでなく、本朝の歴史にも、唐土(もろこし)の歴史にも詳しい。あの子に言われて『あ、そうか。そういう先例もあった』と思うことが多いよ」
と雪子も言います。
 
世間的には、二条邸で、内大臣は3人の妻(海子・萌子・雪子)を置いているように見えますが、実際には花久の本当の妻は雪子だけです(ひょっとすると雪子が夫で花久が妻かも!?)。萌子と海子は実際は涼子の妻なのですが、海子は涼子のみとセックスし、萌子は両方とセックスしています。萌子は自分の夫が2人いることに気付いていません。花久と涼子をちゃんと見分けているのは小夜くらいで、小夜は涼子には懐いていますが、花久にはどうも懐かないようです。小夜の“父”への反応が日によって違うのを萌子は不思議に思っていました。
 
涼子が花久に代わって政治的な文書を書くのに代わり“宣耀殿女御直筆の和歌”などを書いていたのは花久です。涼子の字は男らしく立派なので、それを女御様の玉筆として出すのは問題がありすぎます!
 
涼子が男装して内大臣のふりをしている間は、花久が女装して宣耀殿女御の振りをしているのですが、流石に帝も結婚当初のほどは昼間こちらにお渡りになることはないので(基本的には夜に清涼殿に呼ばれる)、脱がされそうになって焦る!ような事態はその後は起きませんでした。
 

4月になって、帝は宣耀殿女御を中宮(皇后)に立てました。
 
皇太子を産んだのですから、これは当然の処遇と多くの人が思いました。
 
例外は2人だけ!です。
 
そしてその1人である梅壺女御は
「私は里に帰らせて頂きます」
と言って右大臣家に帰ってしまいました。
 
つまり離婚です!
 
梅壺女御は、4人の女御の中で最初に入内したのですが、ついに男児どころか女児も得られず、宣耀殿女御が中宮になったことで「帝の愛情が無くなった」と言い、退出してしまったのでした。
 
涼子は自分が中納言として萌子と仮面夫婦をしていた時代、萌子の愛情が宰相中将(当時/現在の大納言)に行ってしまい辛い思いをしていた頃を思い出して、梅壺女御の気持ちが痛いほどに分かりました。涼子は花久と話し合い、“涼道”から義姉へということで、慰労の贈りものを贈っておきました。
 

二条邸に入った雪子は、生母非公開のまま左大臣宅で、内大臣の子供として育てられていた男の子(大若君)を自分の猶子にすると発表し、実際その子の乳母と一緒に二条邸・西の対に引き取りました。
 
ここで一時的に二条邸に、大若君、萩の君、小夜、須須、など次世代の主人公となる人たちが集結しました。
 
5月、大納言(元の権中納言)が三条京極に造営していた邸宅が完成しました。それで吉野の妹君・浜子は大納言の正妻としてそちらに移りました。
 
これに伴い、これまで事実上大納言の自宅として使用していた小さな邸は引き払うことにし、そこに住んでいた、萩の君と乳母もその三条邸に移ることになりました。萩の君はこれまでも頻繁に浜子と会い、浜子が母親代わりとして自分に優しくしてくれていたので、一緒に暮らせるようになり喜んでいました。
 
また二条邸に曖昧な形で住んでいた小夜とその乳母もこちらに移動することになりました。彼女も浜子に(実母の萌子以上に)大事にされていたので、安心して浜子に付いていきました。
 
大納言は、筑紫の君にも
「君も三条に来る?」
と訊いたものの
 
「女王様がおられるのに恐れ多いです」
と言って辞退しました。それでそちらの家は、かえって大納言にとって適当な避難所の役割も果たすことになります。
 
なお、筑紫の君は、昨年末に、涼子と似たような時期に男児を産んでいたのですが、その子も大納言にとって心の慰めになりました。
 
大納言は過去にも数人の女に子供(全員女児)を産ませているのですが、みんな各々の実家で母親のもとで暮らしている(むろん養育費は毎月渡している)ので、実際に気軽に顔を見て父親らしいことをしてあげられるのは三条邸に入った小夜および萩の君と、この筑紫の君が産んだ男児のみでした。
 

この後、中宮(涼子)は2年おきに、男の子2人、女の子1人を産みました。つまり親王3人・内親王1人を産んだことになります、一方、弘徽殿女御には子供は産まれませんでした。麗景殿女御はもう諦めている!ので、そちらにも子供は産まれません。でも麗景殿女御とは。帝も気軽におしゃべりなどして楽しむことができるので、わりとお呼びが掛かるようでした。帝の夜のお供は最終的に中宮と麗景殿女御が半々くらいお務めすることになります。
 
内大臣(花久)と萌子の間には、あと1人男の子が生まれましたし、雪子も萌子と同じくらいの時期に女の子を産みました。それで内大臣の子供は(ある事情により−事情を知るのは雪子と涼子のみ)打ち止めとなります。
 
結果的に内大臣の子供は、萌子が産んだ3人の男の子(須須・佐佐・津津)、雪子が産んだ女の子(慈雨)、楠子が産んだ女の子(朝日)、そして生母を明かしていないものの雪子が猶子にした男の子(晴良:大若君)の6人です。男性機能が極めて弱い花久にしては、よく作ったものです。
 
なお、内大臣はずっと声変わりはせず女のような声で話していましたが、それが彼のスタイルにもなっていました。
 

大納言(仲昌王)と浜子の間には女の子2人と男の子1人が生まれました。つまり女王2人と王1人ということになります。
 
姉の海子には子供が生まれませんでしたが、これは事情を知るものには当然のことです。
 
「ごめんねー。ボクは子種持ってないから」
「いいよいいよ。ボクもあまり母親とかする気無いし」
と海子とその夫である涼道は密かに言い合っていました。
 
そして涼子は出産もだいたい終わった30歳頃より後は、むしろ男装して内大臣として行動している時の方が多くなり、結果的に花久は女装して中宮を演じていることの方が多くなります。
 
結局ふたりは「とりかへ」られた状態で、橘は望み通り男として活躍し、内大臣として事実上この国の政治を執ることになります。そして群臣たちに尊敬される為政者となって、この国を安定せました。
 
そして桜は不本意ながら女姿で!中宮として帝に付き添い、その女らしさが多くの女性たちの憧れとされることになったのでした。彼も帝に抱きしめられたり口づけされたり、胸やお股に服の上から触られる程度は平気になりました。
 
めでたしめでたし!?
 

ずっと後、帝は中宮が産んだ一の宮・宏和親王に譲位なさり、中宮は国母となりました。そして、萌子が産んだ長女・小夜が女御として入内し、藤壺に入られました。二の宮・槇和親王には楠子が産んだ姫君・朝日が嫁ぎました。
 
雪子が猶子にした“大若君”は実際には猶子というより実子なのでは?母親は実際に雪子だったのではという噂がたち、その噂を背景に彼は涼道の後継者として注目されます。若くして権中納言に任じられましたし、大納言と浜子の間の次女を娶りました。
 
更に後、花久たちの父・左大臣は引退して出家し、萌子の父・右大臣は太政大臣となります。そして“涼道”が関白・左大臣となり、名実ともにこの国のリーダーになりました。
 
基本的に“藤原涼道”の“中の人”は、涼子と花久が共同で務めているのですが、実際には8割くらいが涼子です。(結果的に中宮の8割が花久)
 
大納言(仲昌王)は内大臣になり、涼道の後任の右大将を兼任しました。若君たちもそれぞれ昇進しました。
 
内大臣(仲昌王)は、宇治で生まれた“萩の君”が三位中将まで出世し、萌子が産んだ小夜が帝の女御となり、浜子が産んだ次女も権中納言の妻となって、栄華を極めた上で、最愛の妻・浜子と幸せな生活を送りますが、いまだに宇治の館から居なくなった女君のことも忘れられず、彼女はどうしているのだろうと思い悩んでいました。
 
(とりかへばや物語・完)
 
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【男の娘とりかえばや物語・取り替へたり】(1)