【男の娘とりかえばや物語・各々の出発】(2)

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さて、男子として元服し“涼道”の名前をもらって、宮仕えして中納言・中将にまで出世してしまった橘君(実は橘姫)に対して、その身代わりに女子として裳着をすることになってしまい“花子”の名前をもらい、不本意ながら“姫”を演じている桜姫(実は桜君)は、毎日女房たちと箏や和琴を引いたり、人形遊び・貝覆いなどをして遊んだりするものの、橘姫が忙しくて話す時間も取れず、裳着の後3年ほど、悶々とした日々を送っていました。
 
橘姫のほうは男として暮らしてはいても生理が来るようになり、胸も膨らんで肉体的には女性として発達して行っているのに対して、桜君は鬚(ひげ)や男性的体毛が生えてくることもなく、喉仏も発達しなければ声変わりも来ず、実はまだ精通も来ていませんでした。
 
男っぽい身体に変わっていかないのは、姫の代理をするのには好都合なのですが、16歳(満年齢で言うと14-15歳)にもなって声変わりが来ないことについてお付きの女房の伊勢や式部も不思議に思っていました。
 
「もしかして桜様は男性的な機能が弱いのかも」
「ああ。ボクも自分が男として不完全なのは認識しているつもり」
「それなら、もうしばらくは去勢しなくてもいいかも」
「あはは。やはり去勢する?」
「20歳になるまでにはしましょう」
「分かった」
 
まあこういう生活してたら、女の人と結婚することもないだろうし、タマタマくらい取っちゃってもいいかもね、などと最近は桜君も思うようになってきました。でもタマタマだけで済むのかな?ちんちんも取れって言われたりして?と思うと、少し不安になります。もっとも桜君のおちんちんはいつも膠で固定されていて、自分で触る機会もないので、実はほとんど付いてないも同然です。尿筒などでおしっこはできないので、おしっこする時は虎子という壺を使用しています。
 
もっとも、おちんちんの無いはずの橘姫はふつうに尿筒を使っているようなので「どうすれば、ちんちんも無いのに尿筒が使えるんだ?」と疑問に思っていました。
 

ところで、天皇の位を退いて、今は朱雀院にお住まいになっている、先の帝が花子(実は桜君)のことを心配していました。
 
兄の涼道(実は橘姫)には、自分の娘である女東宮(雪子)の後ろ盾になってもらい、よくしてもらっていて感謝しているので、なおさらその妹の花子のことが気になるのです。
 
16歳ならもう結婚適齢期のはずで、しかも美貌で舞にも箏にも長けた姫君というのに、婿取りをするような気配もなく、男からの手紙は全て女房たちがシャットアウトしていると言います。それなら入内して今上の妻(関白の娘なら皇后になれる可能性が高い)になるのか?と思うと、そういう訳でもないようで、実際今上から何度も誘いがあったのをお断りしていると聞きます。
 
それでどうするつもりか?と直接父親(関白・重治)に訊いてみたこともあるのですが
 
「あの子はとても外には出せないので、いづれ尼にでもするつもりです」
 
などと言っています。朱雀院はそんな美貌の姫君なのにもったいないと考え、その年
 
「入内しないというのであれば、東宮(女一宮)の遊び相手になってもらえないだろうか」
 
と持ちかけました。
 

左大臣はまた難題が出てきたと悩み、花子の母・春姫に相談したのですが、度胸の据わった秋姫(橘姫の母)に対して、春姫のほうは優柔不断です。
 
「そんなこと、どうしたらいいのでしょう。私も悩んでしまう」
などと言って、全然相談相手になりません。
 
しかし妹(涼道)が性別のことがバレないまま何とかなっていてしかも女性と結婚して夜の営みまでちゃんとやっているらしいと聞き、それなら、兄(花子)も何とかなるかも知れないと思い、彼女(彼?)を東宮の傍に仕えさせる話を受けることにしたのです。
 
「何かの間違いで、あの子、帝の妻になってしまうかも知れないし」
と考えてしまいますが、どうしたら男の身で妻になれるのかは、思考停止気味です。
 

話を聞いて桜君はぶっ飛びました。
 
「無茶ですよ〜。バレるに決まってます。私、おっぱいも無いし」
「しかし胸があって、魔羅は無いはずの桔梗は男としてふつうにやっているし、右大臣の四の君と結婚して、ちゃんと夫をしているし」
 
「あれどうやってるんですかね?本人に訊いても笑って答えないし」
と桜君は疑問を提示しますが
「俺も分からん」
と父も言います。
 
「ひょっとしてあの子、ちんちんがあるとか?」
「うーん。。。あっても不思議ではない気がする。お前はちんちんまだあるんだっけ?」
「ありますよぉ」
「いっそ取ってしまうか?」
 
「それはまだ勘弁して下さい。分かりました。何とか頑張って女を演じます」
 
ということで、桜君はうやむやの内に、東宮の話し相手というお仕事を引き受けてしまったのです。
 

その年の11月10日、“桜姫”は尚侍(ないしのかみ*1)という職を与えられ、女房40人・女童8人を連れて宮中にあがりました。むろんお気に入りの伊勢と式部も一緒です。しかしただの話し相手として上がるには仰々しすぎる人数で、多くの人は、尚侍という名目で宮中にあげ、いづれ帝の女御にするのであろうと考えたようです。
 
(こういう侍女たちの費用はむろん左大臣の私費であり、多人数の侍女を付けるのは財力を誇示するデモンストレーションの意味もある)
 
もっとも、もう少し身分の低い家の娘なら、そういう手法を使うこともあるのですが、関白の娘なら最初から女御ということでいいはずなので、そのあたりは多くの人が首をひねりました(*2).
 

(*1)「尚侍」は「ないしのかみ」と読んで内侍司の長官のことである。
 
内侍司のトップが尚侍(ないしのかみ)、次官が典侍(ないしのすけ)、第3官が掌侍(ないしのじょう)となる。基本的に所属部署の“前”に尚・典・掌という序列名を付けることになっている。後宮十二司の各々のトップは次のようになる。
 
内侍司→尚侍(ないしのかみ) 三種の神器のひとつである鏡を管理し、式礼を行うとともに、天皇の秘書役を務める。
蔵司→尚蔵(くらのかみ)   天皇の衣服や宝物の管理
書司→尚書(ふみのかみ)   文書や文具また楽器の管理
薬司→尚薬(くすりのかみ)  医薬品の管理
兵司→尚兵(つわもののかみ) 兵器の管理
闡司→尚闡(みかどのつかさのかみ) 門や金庫の鍵の管理
殿司→尚殿(とのもりのかみ) 燃料と輿(こし)の管理
掃司→尚掃(かにもりのかみ) 掃除
水司→尚水(もいとりのかみ) 水と氷の管理。粥作り
膳司→尚膳(かしわでのかみ) 食膳の用意
酒司→尚酒(さけのかみ)   醸造
縫司→尚縫(ぬいどののかみ) 衣服の裁縫。女官の出欠管理
 
なお、宦官を使用した唐と異なり、日本ではこれらの役職は全て女性が任じられた。
 
(三種の神器の)鏡が置かれた賢所のある温明殿(うんめいでん)は内侍所とも呼ばれた。律令制では天皇のお言葉は内侍司が男性の書記官に口頭で伝えて記録された。平安時代になるとこれらの十二司は衰退し、やがて内侍司にほとんどが吸収されてしまった。
 

(*2)有力者の娘でもそういう手法を採ることが無い訳ではない。
 
藤原道長の娘で有名な彰子(しょうし)の妹・威子(いし)は初め尚侍として宮中にあがり、更に御匣殿(みくしげどの)を経て、やっと女御になっている。
 
とりかへばや物語は彼女より後の時代に書かれた物語である。
 
なお、天皇の妻の名称は次のように変遷してきている。
 
●律令に定められたもの
 
皇后1名、妃2名、夫人3名、嬪4名。
 
●妃と夫人が消滅し、嬪は別名の“女御”の名前で呼ばれるようになる。女御の定数は無視され、大量の女御がいるケースも出るようになった。
 
●嵯峨天皇(809-823)の時代に、本来は天皇の着換えを手伝う女官だった更衣が下級女御の名称として使用されるようになった。
 
この皇后(=中宮)・女御・更衣というのが、天皇の妻の基本的なランキングである時代がわりと長く続いた。「女御更衣あまた侍ひ給ひける中に」(源氏物語)
 
・更に御息所(みやすどころ)・御匣殿(みくしげどの)なども更衣に次ぐ地位として認定された。源氏物語には六条御息所(秋好の母)が出てくる。
 
・本来は内侍司(ないしのつかさ)の長官の意味だった尚侍(ないしのかみ)が更衣に準じるものとして扱われるようになり、本当の内侍司のトップは典侍(ないしのすけ)が務めることになった。
 
・更にその典侍(ないしのすけ)まで、身分の低い家出身の女性を妻にする場合の肩書きとすることが行われるようになった。大正天皇の生母は柳原愛子典侍である。
 

さて、東宮雪子は梨壺(昭陽舎)に住んでおられるのですが、尚侍の私室はに置くことになりました(梨壺の西に麗景殿があり、その北に宣耀殿がある)。
 

 
(帝の居場所は最初は承香殿の南側にある紫宸殿(南殿ともいう)だったが、後にその西側(藤壺の南側)にある清涼殿に移り、やがて後宮の中心にある常寧殿となった。紫宸殿の庭に“左近桜・右近橘”がある)
 
(清涼殿におられる帝の所に、いちばん遠い桐壺に住む更衣が向かう場合、途中多数の殿舎を通過する。これが源氏物語の初期の状態である)
 
●後宮七殿五舎
 
弘徽殿(こきでん)
承香殿(じょうきょうでん)
麗景殿(れいけいでん)
登香殿(とうかでん)
貞観殿(じょうがんでん)
宣燿殿(せんようでん)
常寧殿(じょうねいでん)
 
飛香舎(ひぎょうしゃ)藤壺
凝華舎(ぎょうかしゃ)梅壺
昭陽舎(しょうようしゃ)梨壺
淑景舎(しげいしゃ)桐壺
襲芳舎(しほうしゃ)雷鳴壺
 

宮中にあがった翌日、花子は梨壺に居られる東宮の所に挨拶に行きます。唐衣と裳で正装し、両手を突き頭も床につけた状態で
 
「関白藤原家の重治が女(むすめ)、花子にございます。この度、尚侍(ないしのかみ)の職に任じられました。東宮殿下におかせられましては、ご機嫌麗しゅう存じあげます」
などと緊張して花子が言うと
 
「ああ、もっとくだけて、くだけて。そんな堅苦しい言葉使われたら肩こっちゃう」
と雪子東宮は笑顔で言っています。服も袿の重ね着だけで、その上に小袿も裳も着けていない、ラフな格好です。
 
「そなたの兄上には日々お世話になっているが、実にそっくりな兄妹だね」
「はい。私たちの母たちも取り違えるほど、似ているんですよね」
「取り違えるって、男と女を取り違えることはあるまい」
「あ、そうですよね!」
 
「もっともそなたの兄上はあまりにも美しいので、女房衣装を着せたくなるほどだが」
「ああ、小さい頃、私の服を着せて遊んでました」
「まじ!?」
 
「女の服なんて嫌だぁ、って嫌がるんですよ」
「あはは。そりゃ嫌がるだろう」
「代わりに私が兄上の服を着ちゃったりして」
「おお、私も小さい頃、結構男の服を着せられてたぞ。お前が男だったらよかったのにと、随分院(朱雀院・雪子の父)から言われたものよ」
「ああ。男と女を取り替えるのだけは、難しいでしょうね」
「うん。なかなか難しいと思う」
 
と言って、雪子と花子は初日から脱線気味の会話をしていました。
 

花子が箏、和琴などを弾き、また今様(当時の歌謡曲!)も良くするというので早速お聞かせしますと
 
「美しい。兄上の笛や琵琶と合わせたいな」
と東宮はおっしゃいます。
 
「兄がまだ出仕していない頃は、よくふたりで各々の対(たい)にいるまま音だけで合わせていました」
「それは素敵だ。今度一緒に演奏してみてくれ」
「はい」
 
東宮というのは、かなり多忙なお仕事です。帝の名代で色々な人と会って話をしなければなりませんし、帝より行啓(*3)の機会も多いです。梨壺は基本的にはお住まいであり、昼間は清涼殿に設けられた“上の御局(うえのみつぼね*4)”で執務なさっていることが多いようでした。
 

花子は最初は雪子の執務が終わった後、夕方以降に梨壺に呼ばれて、一緒に夕食(ゆうげ)を食べたり、更には一緒に御帳の中に入って夜伽(よとぎ)をしたりしていました。むろん夜伽といっても、女同士ですから、性的な行為をする訳ではありません(この件は後述)。純粋に添い寝して東宮が眠ってしまうまでおしゃべりの相手をするだけです。流行の小説を借りてきて花子が朗読し、雪子がそれに聞き入っている内に眠ってしまうということもよくありました。
 
また雪子の時間が取れる時は、貝覆いなどのゲームをしたり、一緒に絵を描いたり、あるいは和歌の読み比べをしたり、時には箏の合奏をしたりしていました。また雪子は、花子が苦手と言っていた漢字を、優しい字から順に少しずつ教えていってくれました。
 
雪子の信頼が篤くなると、夕方梨壺に呼ばれるだけではなく、昼間に“上の御局”にも呼ばれて、執務の間の空き時間に麦湯(*5)を入れて飲みながらおしゃべりしたり、場合によっては雪子と重臣や地方から来た国司などとの会談の記録を取ったりするなど、秘書代わりのような仕事をする場合もありました(そもそも内侍司というのは秘書役である)。
 
更に行啓の時に同行して、助手のようなことをする場合もあり、頭の回転が速く、一応ひらがなでなら美しい文字で筆記ができる花子は、雪子にとっても貴重な片腕となっていくのです。
 

(*3)似たような言葉がいくつかあるので整理する。まだ使う対象から。
 
行幸 天皇
行啓 皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃
 
天皇皇后両陛下が一緒にお出かけになる場合は「行幸啓」と言う。
 
目的地が複数ある場合は、巡幸・巡啓と言われる。
 
また「御幸(みゆき)」という言葉があるが、これは天皇・上皇・法皇・女院(**1)に対して使う。それ以外の皇族の外出は単に「お成り」と言う。
 
雪子は皇太子なので「行啓」あるいは「巡啓」と言われる。
 

(*4)上の御局(うえのみつぼね)は女御や更衣の別室を天皇の居場所の近くに設けたもので、平安の内裏では弘徽殿と藤壺の“上の御局”が清涼殿にあったことが分かっているが、他にも臨時に設置される場合はあった。源氏物語では源氏の生母・桐壺更衣は清涼殿の隣の後涼殿に上局を賜っている。
 
雪子は女御ではなく東宮だが、女御以上に天皇の近くに執務室が必要であったと思われ、そのため設置されていたのだろう。当然その場所は帝の居場所のすぐ近くだったものと思われる。↓はその予想を元に描いた図である。
 

 
村上天皇中宮の安子は藤壺に住まいを持っていたが、天皇が宣耀殿女御の芳子に熱心だというので藤壺上御局と夜御殿の間に開いていた(開けた?)穴から土器(かわらけ)の破片を芳子に投げつけて、さすがに帝から叱られた。
 
花山天皇をさっさと退位させて自分の孫である懐仁親王(一条天皇)を帝位に付けたい藤原兼家は、深夜に天皇を唆し、人目に付かないように藤壺上御局の妻戸から外に導いて出家させてしまった(寛和の変)。
 
平安時代初期〜中期頃の建築では、桁行(縦方向)はいくらでも長くできたが、梁間(横方向)は柱3本の2間(1間は10尺=3m)と決まっていた(例外的に柱4本の3間で作られた建築物は存在する)。そのため↑の図で「母屋」は実は夜御殿や弘徽殿・藤壺の上局がある列のみで、東宮上局や石灰壇(暖房)があるのは東廂(ひがしのひさし)、朝餉間・台盤所などがあるのは西廂(にしのひさし)である。弘廂はその東廂から更に屋根を張り出した孫廂になっている。弘廂の外側には壁が無く、吹放しになっている。
 
なお、清涼殿は寝殿造りの一種なので、固定された部屋は塗籠めの夜御殿のみであり、他はパーティションや建具によって“室礼(しつらえ)”された空間であって、必要があれば間仕切りを変更することができた。
 
従来、藤壺上御局と弘徽殿上御局の間に萩戸という部屋があったとされてきたが、建築史家の島田武彦は萩戸は北廂の東側の戸の意味で部屋の名前ではないとする。この図はその説に従った。実際問題として最もランクが高いはずの弘徽殿女御の部屋が、夜御殿と直接行き来できないのは変だと私は思っていた。
 
なお“荒海”“昆明池”“年中行事”は障子の名前。年中行事障子にはその名の通り年中行事の予定が書き込まれており、要するに殿上人たちへの掲示板の役割を果たしていた。行事が変更になったり臨時のものがある時は、随時書き加えられた。
 
帝は昼間は昼御座(ひのおまし)に、夜間は夜御殿(よんのおとど)におられる。御帳台(みちょうだい)が正規の座る場所で大床子(だいしょうじ)は食事や理髪の時に座る場所である。ただし仕事の時は東廂上にある御座まで出て行き、弘廂(孫廂)に来た官僚と話をしていた。
 
夜御殿はふつうの寝殿造りの塗籠と同じ仕様のもので、そこの東側に置かれた棚に剣璽(天叢雲剣・八尺瓊勾玉)が置かれている(禁秘抄)。当然の結果として、帝は東側を枕にしてお休みになることになる。これは帝の寝室に剣璽が置かれているというより正確には帝が剣璽の番人をしているのである!
 
夜御殿は剣璽を置く部屋であることから24時間灯りが灯されていた。油を補充する係の者は北東の燈台から始めて反時計回りに作業し、南東の燈台で終える。つまり剣璽が置かれている東側の棚の前を通過しないようにする。夜御殿の東西の妻戸は北側に作られており、それも剣璽を直接外の部屋からは見えないようにするためである。夜御殿はまさに剣璽のための部屋である。
 

(*5)麦茶のことを昔は(昭和30年代までは!)「麦湯」と言った。「麦茶」という言葉は常陸屋本舗が1963年に発売した『江戸麦茶パック』というティーパック製品以降に普及した新語といわれる。
 
なお普通の「茶」は805年に伝教大師・最澄が中国から茶の種を持ち帰り比叡山山麓の坂本に植えたのが始まりとされるが、平安時代は寺院などで供される特殊な飲み物という位置づけであった。一般に普及して行くのは鎌倉時代以降である。
 
なお麦湯はその名の通り、炒った麦に湯を注いでいれるものであり、熱い飲み物であった!(平安時代に冷蔵庫は存在しない)。
 

さて、花子の性別は実は花子が宮中にあがって一週間もしない内に雪子にバレてしまいました!
 
だいたい雪子は、父の朱雀院が心配していたように軽はずみな性格です。花子が夜伽を務めていた時、ふざけて花子に襲いかかりました。
 
「ちょっと!おやめください」
「減るもんじゃないし、よいではないか、よいではないか、お嬢ちゃん、ボクと遊ぼうぜ」
「あ〜れ〜」
 
そもそも花子は腕力が無いので、雪子に簡単に組み敷かれてしまいました。そして身ぐるみ剥がされてしまいます。
 
「・・・・・」
 
さすがに雪子が花子の胸を見て沈黙しました。
 
「なんであんたそんなに胸が無い訳?」
「御免なさい、御免なさい。私実は男なんです」
「うっそー!?じゃちんちんあるの?」
「えーっと・・・」
 
それで湯文字まで脱がされて全裸にされてしまいます。
 
「ちんちん無いじゃん」
「隠しているんです」
「ん?」
 
それで雪子は花子のお股に手で触って調べます。
 
「すごーい。これ接着してるんだ!」
「膠(にかわ)で留めてるんです」
「あんた、これおしっこはどうやってするの?」
「普通の女の人のようにします」
「だよね!これなら尿筒は使えない」
 
と雪子も言います。そして腕を組んで考えて言いました。
 
「ってことは、あんたたち兄と妹じゃなくて、兄と弟だったの?」
「いや、それが・・・涼道の方が実は女なんです」
「うっそー!?じゃ、あんたたち入れ替わってるんだ?」
 
「涼道はとっても男らしい性格で、私は女みたいな性格なので」
 
「へー!それ面白いかも」
と言ってから雪子は少し考えていたようですが、言いました。
 
「だったらあんたは普通に女の子でいいね」
「いいんですか〜?」
 
「この一週間、あんたと一緒に過ごしていて、私あんたが女であることを一時(ひととき)も疑ったことないもん。それだけ完璧に女であるなら、お股の形が少しくらい違っていても、女の一種ということで問題無いよ」
 
「そうですか?」
 
「だから花子ちゃんは女の子、涼道君は男の子で問題無し。だから花子ちゃんは私の遊び相手として仕えて、涼道君は中納言としてお仕事をしていればよい」
 
「ありがとうございます」
 
「これ私と花子ちゃんだけの秘密にしようね。だから涼道君にも内緒」
「はい、それでいいです」
 

そういう訳でバレてしまったものの、雪子は「秘密」と言った通り、誰にもふたりの性別のことは言わなかったので、花子は結局ふつう通り、女性として雪子のそばに仕えることになったのです。
 
雪子としても秘密を守ってあげることで、とても忠実な部下を得られたようなもので、これは雪子にとっても美味しい取引となりました。
 

雪子は結構花子“で”遊んでいました。
 
「花子ちゃんのお化粧って素っ気ないよね。私がもっと可愛くお化粧してあげる」
などといって、高価な化粧品を使ってきれいにお化粧してあげたりします。
 
お股の偽装については、腹心の伊勢と式部を呼び、風呂の蒸気に当てて外してみせ、それを再度膠で貼り付ける実演をしてみせました。
 
ちなみに伊勢と式部は「ああ。バレちゃいましたか。普通バレますよね」と言っていました。
 
「涼道はなんでバレないんだろう?」
と花子が言うと
 
「だって萌子さん、ぼんやりさんですもん」
とふたりとも言っていました。
 
膠で貼り付けて、まるで女のような股間に偽装する所は
「面白い。私にもやらせろ」
 
と雪子が言うので、再度風呂に連れて行って蒸気に当てて外し、伊勢たちが手伝って、雪子が自分の手で偽装してみていましたが、雪子は
 
「楽しい!これ毎回私にさせて」
などと言っていました。
 
「しかしちんちんもタマタマもあったんだなあ」
「ごめんなさい」
 
「でもちんちんはまだいいとして、タマタマが付いてるとその内男っぽくなってしまって、女を装えなくなるよ。あまり男っぽくならない内に睾丸は取っちゃった方がいいね。そういうのできる渡来人知ってるから紹介してあげるよ」
などと雪子は言っています。
 
やはり取ることになるのか〜?と花子も、雪子からまで言われて諦めの境地に達しつつありました。
 

そういうことで花子の性別がバレてしまった後は、花子は雪子の“安全な遊び道具”と化してしまいました。服の中に手を入れて平らな胸をわざわざ触って面白がっています。夜伽の時など雪子から
 
「ねぇねぇ、あれに触らせてよ」
などと言われることもあります。
 
「勘弁して下さい」
「気持ち良くしてあげるよ」
「そんなことして何かあったらまずいです」
 
と言うものの、実は花子はその“気持ち良くする”というのが分かっていません。彼はいまだに自慰の経験が無いし、具体的にどういうことをすれば妊娠するのかもよく分かっていません。ちんちんから出る物質で妊娠するらしいということは聞いているものの、実はちんちんから、おしっこ以外の物質が出た経験がありません。小さい頃からずっと睾丸を体内に入れていたため、睾丸が休止状態のままなのです。当然第2次性徴も来ておらず、鬚(ひげ)なども無ければ、身体付きは性別未分化の状態で、まるで少女のような体型をしています。
 
「もし悪戯してて妊娠しちゃったら、花子ちゃんが妊娠したことにすればいいしね」
「へ!?」
 
しかしさすがにこれは花子が何とか貞操!?を守り抜き、花子が妊娠??することはありませんでした。
 

花子と涼道の合奏は、わりと早い時期に実現しました。当日は雪子の居所である梨壺に、梅壺女御、麗景殿女御、弘徽殿女御という、帝の3人の妻も招待します(*6). 各々の女御用の御帳も用意するので、お互いの顔を見ることはありませんが、それでもライバルの3人が同じ場所に揃うのは、雪子という女東宮あってのことです。各々のお付きの女房たちも凄い人数でした。
 
その中で涼道の龍笛と花子の箏の合奏で今様の曲を5曲演奏したのですが、
 
「ふたりとも上手い!」
「音がきれいに共鳴している」
「なんて素敵な合奏なのだろう」
とみんな褒め称えていました。
 
「でも中納言と尚侍って、ほんとにお顔が似ていますね」
と弘徽殿女御が言います。
 
「いっそ中納言も女の服を着せて姉妹ということにしたいくらいですね」
と雪子が言うと、花子は可笑しそうに笑っていますが、涼道は困ったような顔をしています。
 
「ああ!中納言の女装は見てみたいと思ってた」
と梅壺女御まで言います。彼女は右大臣の二の君で、尚侍が宮中に入ったことに(そのうち帝の妻になるのではないかと)いちばん警戒している人なのですが、取り敢えずこの合奏には良い印象を持ったようです。
 
「これきっと中納言が女の服を着たら、ふたりは双子の姉妹みたいになるでしょうね」
と麗景殿女御も言いました。
 
「中納言、一度女の服を着てみるか?」
と主上までおっしゃいますが
 
「勘弁してください」
と涼道は恥ずかしそうに言いました。
 
なお、この催しは後宮で行ったので出席している男性はごく少数です(*7).主上と涼道以外では、弘徽殿女御の弟の近衛少将・弘房、麗景殿女御の兄の左京大夫・良通くらいでした。右大臣・左大臣は遠慮しました(左大臣はむしろ居たたまれない気分だった)。宰相中将などは花子の顔をしっかり見る機会なので行きたかったのですが、生憎打合せがあり、行くことができませんでした。
 
しかしこの場に居なかった人たちも、音だけ聴いて「美しいな」思ったのでした。
 

ある日、花子が雪子の梨壺の部屋に行くと
 
「花子ちゃんにおっぱいを作ってあげたよ」
と言います。
 
意味が分からず「え?」というと「これこれ」と言って雪子は楽しそうに帯のようなものを見せました。
 
それは4尺(120cm)ほどの長さ、4寸(12cm)ほどの幅の布ですが、その途中に2箇所、丸い丘のような膨らみがあるのです。布を扇形に切ったものを4枚縫い合わせて丸みを出したようです。頂上部分は丸い布になっていて、つまり5枚の布で半球状の丘を作っています。
 
「もしかして女御子(ひめみこ)様のお手製ですか?」
「そうそう。私が裁縫したよ」
と雪子は楽しそうに言っています。
 
「凄い」
 
花子は雪子が裁縫もうまいことを知っています。雪子はしばしば小物などを自分で縫って作っています。
 
「この膨らみを触ってごらん」
とおっしゃるので触ってみると、適度の弾力があります。
 
「柔らかい」
「おっぱいみたいに柔らかいでしょ?ほら私の胸と触りくらべてごらんよ」
 
と言って雪子は花子の手を取って自分の胸に触らせます。
 
(日々の雪子によるセクハラ?のおかげで花子も雪子の胸に触るくらいは平気になっている)
 
「確かに感触が近いかも」
「これ、中に毛氈(もうせん:フェルト*8)を詰めてあるんだよ」
「それ貴重なものなのでは?」
「うん。でも私の大事な花子ちゃんに、おっぱいが無いなんてバレたら大変だからね(遊び道具が無くなるし)、洗い替えもまた作るから着けてごらんよ」
 
それでいったん服を脱いで、その“おっぱい”を装着し、再度服を着ます。
 
「ほら触った感じが、ちゃんとおっぱいあるみたい」
「すごーい」
 
それでこれ以降、花子はこの“偽おっぱい”で胸を偽装するようになったのです。
 
「ちなみにマジでおっぱいが大きくなるという秘薬もあるんだけど」
「なんか怖いから遠慮します」
 

花子はここ数年、不本意に女の格好をさせられて、女として自分は生きていかなければならないのだろうかと思って悶々としており、また涼道が忙しいことから話し相手も得られず、鬱屈した気分になることが多かったのですが、宮中にあがってからは、雪子がとっても楽しい人なので(朱雀院が心配した訳がよく分かった)、毎日が楽しくて、随分と気分が変わりました。
 
女を演じることが苦痛でなくなり、女東宮の遊び相手として、また時には秘書として、のびのびとした生活を送っています。また女東宮の後見人である涼道と会う機会もできて、3年前の涼道出仕前に戻ったような気分でした。
 
そういう訳で、涼道が出仕する前後に比べると、花子は随分明るい顔をしていることが多くなったのです。一方の涼道の方は四の君を欺して、かりそめの夫婦生活をしているのが、いつバレて破綻するかとヒヤヒヤでもあり、また女の自分がこのような男としての生活をずっとしていてよいのかという疑問もいつも頭の中にあり、次第に悩みが深く、そして顔色もすぐれないことが多くなっていきました。周囲の人はそれを忙しすぎるので過労だろうと思っていたようです。
 

(*6)“梅壺女御”は原作では“後の月”の宮中行事で帝の所に向かう所を中納言が見とれるシーン1ヶ所にしか出て来ず、古来その正体が謎である。主な説は
 
(1)右大臣の二の君
(2)右大臣の一の君(朱雀院の女御)
 
というもので、特に(1)説を採る人は多い。川端康成などがそうである。それは梅壺女御は帝の寵愛を最も深く受けていたと思われること、そして尚侍が中宮になった後に、自分はもう愛されなくなってしまったからと言って右大臣の二の君が里帰り(離婚!)してしまうシーンがあるからである。
 
それでこの作品でもその説を採用することにした。氷室冴子は右大臣の二の君は弘徽殿女御ではないかとしている。
 
なお麗景殿女御は、むしろその妹が後に重要人物になってくる。
 

(*7)平安時代の後宮というのは、江戸時代の大奥などとは違い、別に男子禁制ではない。皇族や公卿などは比較的自由に出入りし、また後宮に仕えている女性の近い親族なども目的を明確にすれば立ち入ることができた。
 
平安時代の後宮は性善説で運用されていたのである。
 
それでもやはり男性が無闇にうろうろしてよい場所ではないし、またそこに住む女性たちは部屋の鍵をしっかり掛けて、変な男が勝手に入ってこないようにしていた。
 
時の権力者になると結構勝手に歩き回ることもできたようで、藤原道長は(娘の彰子の所に来たついでに?)、紫式部の私室に勝手に侵入し、書きかけの『源氏物語』の原稿を持ち出してしまい、紫式部が(持ち去られた部分を思い出しながら再度執筆するのに)苦労することになる。
 
(昔はコピー機というものが無い)
 

(*8)フェルトは羊の上毛(ケンプ)などに水分を含ませた上で圧縮し、繊維同士が絡み合うようにして(縮絨と言う)シート状にした“不織布”である。日本語では毛氈(もうせん)と言う。モンゴルでは古くから制作されており、正倉院には奈良時代の物と思われる毛氈が納められている。
 
日本では羊は何度か輸入されたことがあるものの国内飼育が定着したのは大正年間以降である。日本は明治時代、毛織物の輸出国だったのだが、その材料の羊毛はほとんど輸入に頼っていた。従って雪子の時代の毛氈は(多分モンゴル産の)中国からの渡来品で、宝物(ほうもつ)に近いものであったと考えられる。皇太子でもなければそんなものを趣味?の工作品に使うことはできなかったであろう。
 
平安時代の国産の毛製品としては、兎褐(とかち)というものもあった。これはウサギの毛を混紡して作られた織物であり、北陸地方の特産品だったらしい。毛氈に比べれば安いが、それでも高級品だったと思われる。
 
羊の毛は太い上毛(ケンプ)と柔らかい下毛(ウール)に分かれる。野生種の羊には実はウールがあまり無く、ほとんどの毛がケンプである。このケンプがフェルトの材料として使われた。
 
後にウールの需要が高まるにつれ、ケンプが少なくウールの多い羊が品種改良により作られ、14世紀頃にスペインで“メリノ種”が誕生した。当時スペインはこの羊の国外輸出を禁止していたが、18世紀に戦乱に乗じて国外に流出。世界的に飼育されるようになった。
 

ところで宰相中将ですが、花子が尚侍となった今もまだ彼女のことを諦めていません。帝のお手がついたりする前に自分のものにしてしまえばいいと思っています。
 
幸いにも左大臣宅にいた頃よりは近寄りやすいですし、お仕事で顔を見る機会もあります。それでその美貌が予想以上だったので、更に恋心を燃やしています。
 
「しかしマジで尚侍は中納言にそっくりだ」
と彼もふたりがあまりにも似ているので驚きました。
 
「これなら中納言をうっかり女と思って抱きたくなってしまう訳も分かる」
などと勝手に納得しています。
 
それで尚侍の居所である宣燿殿の付近をうろうろしていたりするのですが(彼は帝の従弟なので後宮をうろうろしていても咎められない−どこかの女官に懸想をしているのだろうと思われている)、実際には尚侍は東宮の助手として多忙なようで、なかなか話す機会を作ることはできませんでした。
 
何度か思い切って私室まで訪ねて行ったこともあるのですが、伊勢などの女房にうまく追い返されてしまっていました。
 

その年の11月中旬、新嘗祭(にいなめさい)の行事がありました。
 
現代でいえば勤労感謝の日ですが、旧暦の11月は今の12月くらいに当たり、これは実は(以下の祭の内容を見れば分かるように)冬至祭の性格もあったのです。なお、天皇が代替わりした時に新しい天皇が最初にする新嘗祭を特に「大嘗祭(だいじょうさい)」と言い、特に大がかりに行われてきました。
 
新嘗祭は11月の2度目の卯の日(言い換えれば13-24日の間の卯の日)に行われるのですが、関連行事はその2日前から行われます。そして新嘗祭で重要な役割を果たすのが「五節舞(ごせちのまい)」です。
 
4人の舞姫(大嘗祭の時だけ5人)が大歌所の“大哥”が歌う古歌、“小哥”が歌う今様(流行歌)に合わせて舞を舞います。
 
舞姫は公卿の娘が2名、受領・殿上人の娘が2名選ばれます(女御や稀に皇太子が舞う場合もある。史上唯一の女性皇太子・阿倍内親王は743年の新嘗祭で舞っている)。これは大変な名誉で、選ばれた娘は何ヶ月も前から練習に励みました。現代の五節舞では、補欠1名を加えた状態で練習して、何かあった時のために備えているそうなので、昔もそうであったかも知れません。
 
古くは舞を舞った女性の中の1人を天皇が指名して妻にしたとも言われますが、平安時代には既にそのような制度は無くなっていました。また後の時代になると、良家の娘で毎年舞姫を4人確保するのが困難になり、指名された公卿や殿上人の家の配下の下級貴族の娘が代行することも一般化していったようです。しかし代理の娘に舞わせる場合も、各々の家ではふんだんに予算を使って豪華な演出をしていたようです。
 
『日出処天子』では厩戸皇子が女装して舞姫に加わり崇峻天皇の御前で舞っていますが、たぶん皇子が女装して舞うなどという制度は無かったのではないかと・・・(作中でも皇子が加わることはあるが男舞だと記述されています)
 
そして今回、実は右大臣家からは4人の娘の中で唯一未婚の三の君(充子)、左大臣家からは尚侍(花子)が舞姫として出たのです。
 
尚侍は現在東宮の助手としてとても多忙なのですかが、この五節舞は、出てもらうかもと言われて過去に練習したことがあったので、問題無く舞うことができました。実はその時、四の君(萌子)も一緒に練習したのですが、彼女は結婚してしまったので、舞姫になることはできません。それで舞の上手さでは四の君に一歩劣るものの、三の君の出番となりました。
 

行事は本番2日前の丑日の夜“帳台試(ちょうだいのこころみ)”から始まります。
 
常寧殿に場所が設けられ、天皇とごく少数の側近だけが見守る中、舞姫たちが舞を披露します。この場には関係者以外、一切立ち寄れませんし、警備の者もごく少数だけが戸外に侍します。
 
花子は火取(ひとり:香炉)を持つ童女・若雀(実は伊勢の妹)、茵(しとね)を持つ童女・翼君、几帳3本を持つ下仕(しもつかえ)の女性3名、理髪係の女房・小右近、と6人の伴を連れて入場します。そして茵を敷き几帳を立ててその中に座して待ちます。
 
4人の舞姫が揃ったところで、主上が近習6人を連れておいでになります。
 
やがて4人の舞姫が帝の御前(おんまえ)に出て、楽人が楽器を奏で、大哥が古歌を歌う中、4人は舞い始めました。4人の立ち位置は、花子が左前、三の君が右前、その後ろに殿上人の家の娘2名が並んで舞います。
 

今年は公卿の家の娘の枠2名に左大臣家・右大臣家の娘が本当に出たので、それに合わせて殿上人の家の娘も代理ではなく、本当にその家の娘が出ており、豪華な顔ぶれの舞になりました。ふたりとも花子が松尾大社の秘祭で舞った時に一緒になったことのある子で、練習の時は少しおしゃべりしたりもしたのですが、むろん今日はお互いに言葉も交わしませんし、お互いの顔を見たりすることもありません。
 
神前の儀式の“公式練習”ですから、無表情で舞を奉納しました。
 
舞は20分ほど続き、小哥が歌う今様の歌が終わったところで4人は几帳の中に戻ります。それで主上が退出しますので、舞姫たちも几帳・茵を片付けて退出しました。
 

翌日の寅日には御前試(おんまえのこころみ)といって、今度は清涼殿にて昨夜と同様の練習の披露が行われます。昨夜は天皇と近臣6名のみにお目に掛けたのですが、この日は清涼殿ですので、結構な人数が見守る中になります。
 
左大臣・右大臣のほか、涼道も来ています。
 
人数は多いものの2度目であることから、花子たちは昨夜よりは緊張せずに舞うことができました。他の3人も昨夜の方が緊張したと言っていました。
 
左大臣はこの日、居たたまれない気持ちではあったのですが、立場上出席しない訳にはいかず、息子(実は娘)の涼道にも励まされて?この場に来ています。そして娘(実は息子)の晴れ姿を見ることになりました。
 
『こいつますます女らしくなってきている気がするが、本当にちんちん付いてんだっけ?もしかして密かに取ってしまったとか?』
などと考えながらも、美しい舞を見て少し感動していました。
 

この日の夕方には、綾綺殿(りょうきでん)で鎮魂祭(みたましづめのまつり)が行われます。
 
綾綺殿の東側には賢所(かしこどころ)を含む温明殿(うんめいでん)があり、賢所には八咫鏡が祭られています。天皇の三種の神器の内、剣と玉は天皇の傍に、鏡は賢所にと分離して置かれているのです。
 
この神事に花子は本来の尚侍として奉仕しました。
 
尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)と少数の巫女、少数の楽人だけで、この神事は遂行されます(帝は出席しない)。
 
楽人により鎮魂歌が奏上され、尚侍の花子が祝詞を奏上します。特別な衣装を着けた猿女君の血筋を引く巫女が宇気槽(うきふね)とよばれる箱の上に乗り、典侍は用意された玉緒を手に持ちます。
 
花子が「ひ」と声に出すと、猿女巫女は桙(ほこ)で槽の底を突き、典侍は玉の緒を1回結びます。花子が「ふ」と声を出すと、また猿女巫女は桙で槽の底を突き、典侍は玉の緒を1回結びます。これを「ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・たり」と10まで繰り返します。
 
御玉緒糸結びの儀および宇気槽の儀です。
 
猿女巫女の仕草は、天岩戸(あまのいわと)の前で天宇受売神(あめのうずめのかみ)が舞った時の仕草を真似したものと言われています。猿女の君の一族は天宇受売神の子孫とされています(むしろ猿女君の祖先神が天宇受売神)。
 
この後、魂振(たまふり)の儀を行います。典侍と掌侍が両側に幌を広げ、尚侍の花子は天皇の衣服を入れた箱の蓋を開け、神前に向けて「ひ」「ふ」
と声を出しながら箱を左右に10回振ります。
 
これは帝が着る服に神聖な震動を与えることで、太陽の力がいちばん弱くなる冬至にあたって、天皇のパワーを奮い立たせる意味があります。
 
なお、宇気槽儀・魂振儀で回数が10回なのは“十種神宝(とくさのかんだから)”の数であるとも言われています。まさに「ふるへ、ゆらゆらとふるへ」をしている訳です。
 

なおこの日は神事に先立って、潔斎に水垢離などしましたが、水垢離する時は特にお互いの身体をじろじろ見たりはしないので、胸側を典侍・掌侍に見えないようにして水を浴び、身体を拭いてしまったので、他の2人は花子の胸が無いのは気付かなかったようです。そもそも女ではないことを疑いでもしない限りそんなことには注意が行かないものです。
 
花子は身体付きが全く男らしくない(正確には性別未分化)なので、身体の線を見ても性別に疑惑は感じません。
 

そして卯の日、新嘗祭当日。
 
この日の午後にはまず昨日と同じ内裏の綾綺殿で花子たち内侍司の女官たちによる祭儀が行われます(当然その前に潔斎の水垢離をする!)。その後、花子たちは中和院(中院ともいう。後述*9)に移動して、そこの神嘉殿でもまた同様の祭儀を行います。
 
実は新嘗祭の神事は内裏(だいり)ではなく、中和院の神嘉殿で行われます。そのため天皇や重臣たちも、花子たちが祭儀を行った後、皆、中和院に移動してくるのですが、その出発前に五節舞に参加している女童たちが清涼殿と帝の前に出る「童女御覧(わらわごらん)」という行事があります(これには舞姫たちは参加しない)。
 
その後、移動になります。
 
この日はみんな小忌衣(おみごろも:別名・摺衣すりごろも)という服を着ています。それでも重臣はかなり立派な摺衣を着ています。中納言(涼道)と宰相中将が並ぶような感じになりましたが、ふたりともひときわセンスのよい衣を着ているので周囲の注目の的でした。
 
これを見て宮中の女性たちが騒ぎ、歓声まであげたりするのですが、柔らかい雰囲気ではあるものの女性から声を掛けられても無言で歩いて行く中納言はある意味冷たい男のようにも見えます。一方宰相中将はいちいち見知った女性と言葉を交わしながら歩いて行くのでなかなか先に進みません。ふたりはとても対照的でありました。
 
しかし宰相中将はそのマメさで評価されますし、中納言の方はそのストイックさで評価されるので、それでよいのでしょう。
 
しかしそんな中にじっと自分を見ている視線があることに、涼道は気付きませんでした。
 

新嘗祭の神事は、夕方・酉の刻と、深夜・子の刻に2度繰り返されます。これは帝と東宮が主体となる神事で、重臣たちは部屋の外に並んで待機しているだけです。
 
もう少しでその夕方の神事が始まるという時、中納言の随身(*10)が1人遅れてやってきました。
 
「殿様申し訳ありません。遅くなりまして」
「よいよい。何かあったのか?」
「いえ、遅れてしまったのは個人的な理由で面目ないのですが、急いでこちらに参ろうとしておりましたら、麗景殿の細殿の一の口の所で女性に呼び止められまして、殿様への手紙を預かってしまいまして」
と言って
「預かってはまずかったでしょうか?」
などと言っている。
 
普通の男性なら女性からの手紙は全てOKだろうが、この殿は女性をあまり近づけていないようなので、受け取ったのはいけなかったろうかと少し後悔しているようです。
 
「いや、受け取るのは別に構わないよ」
と涼道は優しくその随身に言うとそのいかにも風雅な感じの手紙を開けてみました。するととても美しい字で歌が書かれています。
 
《逢ふことは、なべて難きの摺衣、かりそめに見るぞ静心なき》
 
かなり熱いラブレターです。
 
麗景殿は妹(実は兄)の花子が住んでいる宣耀殿と、東宮がお住まいの昭陽舎(梨壺)の間にあります。それで東宮の後ろ盾にもなっている涼道としては、よく通る場所なので、それで自分のことを見ていたのだろうか?と思いますが、実際問題として誰なのか分かりません。
 
「お返事はどうしましょうか?」
「今は新嘗祭の前だから後で考えてみるよ」
「分かりました」
 

(*9)中和院と書いて「ちゅうかいん」と読む。略して中院(ちゅういん)。内裏の西隣にある殿舎群である。内裏と中和院を合わせて囲む垣の南側にあるのが建礼門である。
 
中院の西は「宴(えん)の松原」と言って空き地が広がっていた。ここは内裏を“式年遷宮”するための代替地としてリザーブされていたとされるが実際に平安京内裏の遷宮は1度も実施されなかった(予算の問題か?)。
 
そして、内裏・中院および、朝堂院・豊楽院・太政官などを含む多数の役人が勤める領域を大内裏(だいだいり)といって、その南側にある門が朱雀門である。
 
大内裏は今で言えば霞ヶ関の官庁群のようなものである。平安京(これは現代でいえば東京都千代田区くらいに相当する)の中央北部に位置しており、平安京の南端である羅城門との間が道幅82m・長さ3.7kmを誇る朱雀大路(すざくおおじ)である。

 
つまり、平安京の中に大内裏があり、大内裏の中に内裏や中院があり、内裏の中に清涼殿・紫宸殿・温明殿や後宮七殿五舎などがあるという入れ子構造になっていたのである。
 

(*10)随身(ずいしん)というのは、高級官僚に朝廷から付けている護衛。現代でいえばSPである。つまり涼道の家人(雇い人**1)ではないのだが、実際にはガードしている官僚との個人的な結びつきは強く、代々その家の人の随身になる場合や重要なブレーンに近い存在になる場合もあって、給料をその家からではなく朝廷からもらっているということを除けば、家人あるいは家来に近い存在であった。
 
(**1)「家人(けにん)」は個人的にその人に雇われて仕えている人のこと。「家来(けらい)」といえば、代々その家に仕えている家の人のこと。つまり家人の中でも、労働契約が家と家の関係になっているものを言う。もっとも両者はしばしば混同して使用されるし、家人として仕えていた者の近親者がまたその人あるいはその子供に仕えることもよくあることである。
 
 
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【男の娘とりかえばや物語・各々の出発】(2)