【女たちの親子関係】(下)

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「この車、気に入りました。買います」
と千里は言う。
 
「ありがとうございます。お支払いはローンか何かにしましょうか?」
「お値段幾らですか?」
「オプション次第です」
 
というので、店の中に入って打ち合わせする。
 
「カーナビ、ETC、クルコン、バックモニターは必須ですね」
と千里。
 
「はい、こういう大きな車では、特にバックモニターは付けておかれた方が良いですよ。後部座席用ディスプレイは?」
「別に必要ないです。車に乗っててテレビなんか見てたら酔いますよ」
 
「ルーフスポイラーとかは如何ですか?」
「この車、車高が高いので欲しいです。高速とか走る時にあると安心」
「アルミホイールはいかがですか?」
「うーん。それは別にいいです」
「リモコンエンジンスターターは?」
「そんなの車に乗ってからエンジン掛けるのでいいです」
「ガソリンがもったいないよねー」
「うんうん。乗ってすぐ冷房が効かなくても我慢我慢」
 
などということで、オプションパーツを取捨選択していった。
 
「以上ですと、お値段は348万円7200円になりますね」
と店長さん。
「頭金無しで残価設定型3年ローンに致しますと1ヶ月6万円ほどになりますが」
ということばに少し不安げな顔を桃香がしたが
 
「ああ、350万円なら現金で払います」
と千里は言った。桃香が「うっそー」という顔をしている。
 
「口座を教えて頂けますか?即振り込みますので」
「はい!」
 
と店長さんは言って、まずは購入用の書類を渡されるので記入する。桃香にも見てもらって内容確認の上で店長に渡す。保険はミラに掛けている保険を車種変更(当然金額も変更)して使用することにし、ミラは廃車にすることにした。
 
コーヒーやケーキなども出て来て、ディーラーの若いお姉さんが早月の相手をしてくれたりもして、京平も早月もご機嫌な中、細かい手続きが進行する。それで書類の確認が終わったところで店長が口座番号を教えてくれたので、千里はスマホを操作してその口座に現金を振り込む。
 
「振り込みました。確認してください」
と千里が言うのでパソコンで確認している。
 
「はい!ご入金頂きました」
「引き渡しはどのくらいになりますか?」
「一週間程度で。あのぉ」
「はい」
 
「キャッシュで頂いたので、サービスでアルミホイールに致しましょうか?」
「ああ。サービスでしたら歓迎です」
 

何やら色々と記念品をもらってお店を後にする。タクシーチケットまでもらってしまったので、大型のタクシーを呼んで、自宅まで戻った。取り敢えず由美におっぱいを飲ませ、早月と京平にジュースを飲ませる。
 
「よく350万も残高があったね」
と桃香が感心したように言う。
 
「やっぱりさ、いつまでも悲しんでいたら、落ち込むばかりじゃん。だから去年は一昨年仕事できなかった分も取り戻すほど頑張ってお仕事したから」
 
「やはり悲しかったんだな」
「悲しいにきまってる」
 
それで桃香が千里に長時間のキスすると、早月と京平がにやにやしてふたりを見ていた。
 
「千里、何やら楽譜をいつもいじってるよね。千里、楽譜の清書とかコピー譜の作成とかしてるんだっけ?」
 
「私作曲家だけど」
「なんだと〜〜〜!?」
 
しかしこの年、千里はもっと大きな買い物をすることになる。
 

7月4日(土)は信次の三回忌であった。
 
法要は一周忌の法要と同じくお寺でおこなった。青葉は入社したての新人アナウンサーということで休暇は取れなかったが、朋子は高岡から出て来てくれた。千里の両親と妹はまた出て来たし、旭川に住む千里の叔母・美輪子夫婦は今回子連れで出て来てくれた。千葉に出て来たついでに、明日ディズニーランドに行くらしい。
 
信次の兄の太一、信次と太一の父の弟にあたる人も奥さんと子供・孫を連れて来ている。太一の元妻の亜矢芽と息子の翔和も一周忌の時と同様出て来てくれたが、信次の友人では出席者は居なかった。波留も幸祐連れで、まるで千里の知人か何かのような顔をして出席させた。幸祐が信次の子であることを知るのは千里、桃香、康子、太一・亜矢芽の5人だけである。相続権の問題があるので亜矢芽にも幸祐のことは説明したのだが本当に驚いていた。
 
「それホントに男と女で良かったね」
「全く全く。同性だったら同名になってる所だった」
「万一の時は性転換させて」
「どちらを性転換させるかはじゃんけんかな」
 
亜矢芽が翔和に幸祐を見せて
「君のいとこだよ〜」
と言うと、翔和は不思議そうに見ていた。なお、幸祐に関しても死後認知訴訟をやって戸籍の父親欄は川島信次になっている。つまり信次の2人の子供はどちらも死後認知によって親子関係を認定されているのである。
 
なお、千里の友人の方は、朱音・友紀、蓮菜・鮎奈・花野子・梨乃、麻依子・橘花、浩子・夏美、小夜子・あきら、冬子・政子、といった面々が来てくれた。
 

お坊さんの読経がおこなわれ、その後、仕出しを食べながらお互いに近況報告や世間話などをした。普通は故人の想い出を語り合う所なのだが、困ったことに喪主の千里にしても兄の太一や母の康子にしても、信次との想い出がほとんど無いのである。康子は「七回忌は多分しないと思う。やるとしても仏壇にお花とか供えるだけ」と言った。つまり今回の三回忌で打ち上げにする。
 
実際問題として七回忌に出席可能なのは康子と太一・由美・幸祐の4人くらいだろうなと千里は思った。おそらく自分はもう出席できない。少なくとも喪主にはなれない。
 
亜矢芽と話したのは1周忌の時以来1年ぶりだったので
「その後どう?」
などとお互いの近況を訊いた。
 
「ああ。じゃ、亜矢芽さん、再婚したんですか?」
「うん。実は妊娠中なんだよ。翔和の妹か弟が来年お目見え予定」
「おめでとうございます!」
 
「千里さん、何だか子供を3人連れてる」
「うん。由美と早月には去年も会ってるかな?こちらはそのふたりのお兄ちゃんの京平」
「へー、もしかして、子連れ再婚?」
 
「いや何というかちょっと複雑で」
と千里がどう説明していいか悩んでいたら
 
「今日の出席者、そもそも複雑という気がしないかい?」
と桃香が言った。
 
「あ、それは感じた」
「信次さんの純粋な遺族って、うちの由美と幸祐ちゃんにお母さんだけかも」
と千里は言う。
 
「私も三百箇日が来たところで信次の妻を辞めてしまったし」
 
「あ、籍を抜いたんだっけ?」と亜矢芽。
「抜いてない。でも霊的に切れてしまった」と千里。
 
「なんか良く分からないけど、信次さんとの関わりを切らないと仕事に復帰できなかったらしい」
と桃香が言うと
「あ、それは何となく分かる」
と亜矢芽は言った。
 
「でも千里さんも太一さんと信次さんの関係、知ってたんでしょ?」
と亜矢芽が言う。
 
「信次と結婚していた当時は気付いていなかった。でも今は分かるよ」
と千里。
 
「ん?」
と桃香が訊く。
 
「太一さんと信次は全く血が繋がってないんだ」
と千里。
「へ?」
「信次は康子さんと亡くなったお父さんとの間の子供だけど、太一さんはそのお父さんが別の愛人に生ませた子。でも実は他の男性のタネ」
「なに!?」と桃香。
 
「あれ?前の奥さんの子じゃないんだ?」
と亜矢芽。
「前の奥さんは戸籍上は太一さんと信次を産んだことになってるけど、本当はどちらの母親でもない」
と千里。
「なんか複雑だな」
 
「なんか川島家は複雑すぎるよ。結婚式の時は親族水増しして義理の親族のそのまた義理の親族みたいなのまで呼んだみたいだけど、本当の親戚は今日も来てくれていた叔父さんくらいみたいだね」
と亜矢芽は難しい顔をして言った。
 

法要が終わった後、康子・太一・亜矢芽&翔和、千里・桃香&京平・早月・由美、といった、本当に内輪だけで、康子の家に行った。波留も誘ったのだが、法事に出られただけで充分。遠慮する、と言って先に帰った。
 
「千里さん、チャイルドシート3つも取り付けてるんだ!」
と太一がびっくりしていた。
 
「あと1人までは増えても大丈夫かな」と千里。
「それ以上増えたらマイクロバスが必要だ」と桃香。
「これ以上増えたら、私たちはもう保母さんだね」と千里。
 
仏檀にお参りしてから、お茶を飲んでしばし、のんびりと会話をした。
 
「へー、お母さん、運転免許取ったんですか?」
と亜矢芽がびっくりしたように言った。
 
「先月取ったばかり。五十の手習いで頑張ったよ」
と言って、康子はグリーンの帯の入った運転免許証を見せる。
 
「まだ若葉マークだけど、車何買おうかと悩んでいるんだよね。キューブもいいなあ、ブーンもいいなあ、ミラージュもいいなあと」
「コンパクトカー狙いですか」
 
「軽も試乗してみたけど、150で走ろうとするとエンジンが変な音立てて」
「お母さん、日本の道路に150出してよい道は無いはずです」
 

「でも引っ越してから買おうかなと思って。あれ違う県に移動する時は手続きが面倒みたいだから」
「お母さん、引っ越すんですか?」
 
「実はこの家の場所に新しい道路通すらしくて、結果的には立ち退かないといけないんですよ」
と康子は言った。
 
「そういうのは、やっかいですね」
と亜矢芽。
 
「すみません。だったら、私がこの家に置きっぱなしにしてる和服、引き上げますから」
と千里。
 
「あの新居なら入るだろうね!」
「今までの1Kでは収納不能だったから、ついこちらに置かせてもらっていたんですけどね」
 
「でもお母さん、どこに引っ越すんですか?」
と桃香が訊く。
 
「今考えているのは、桶川なんだけどね」
「へー!」
「実は私が生まれた土地なんだよ。もう生まれた家とかは残ってなくて今はスーパーが建ってるけどね」
 
「桶川ならうちと近くだな」
と桃香。
 
「私のうちとも近くですね」
と亜矢芽。彼女は今熊谷市に住んでいる。
 
「ってか、由美の住んでる浦和と翔和の住んでる熊谷のちょうど真ん中に住もうという魂胆なのでは?」
と太一が指摘する。
 
「うふふ。亜矢芽さんの旦那さんが優しい人で良かったわ」
と康子は言う。
 
波留と幸祐の住んでいる久喜にも近いなと千里は思った。桶川から久喜までは圏央道ですぐだ。免許を取ったのも、幸祐に会いに行くのが目的ではないかという気がした。3人の孫の中で、実際問題として康子がいちばん気兼ねなく会いに行けるのは幸祐のようである。しかし、桶川からは、翔和のいる熊谷と由美のいる浦和へは高崎線で20分、幸祐のいる久喜へも圏央道で20分で行ける。孫たちに会いに行くための場所として最高のロケーションである。
 
「家も買うんですか?」
「うん。マンション買おうかと思ってる。ここを立ち退くのにもらう補償金で」
「一戸建てはやはり年取るとメンテが辛いですよね」
「そうなんだよねー。若い人が一緒に住んでくれてたら何とかなるんだけど」
 
「すみませーん」と千里。
「ごめーん」と太一。
 
しかし信次との想い出がまた1つ消えてしまうんだなと千里は思った。
 

康子の家を出てから、千里の両親や叔母たちと合流する。千葉市内の中華料理店に入った。
 
「千里、いつの間にか子供が1人増えてる」
と美輪子にも指摘される。
 
「これは京平。うちの長男。奈緒美ちゃん(美輪子の三女)と同い年だよ」
「ほほお」
「京平、ご挨拶なさい。こちらは京平のおじいちゃんとおばあちゃん、玲羅叔母ちゃん、美輪子大叔母ちゃん、賢二大叔父ちゃん、従叔母(いとこおば)の由紀恵ちゃん・絵令奈ちゃん・奈緒美ちゃん」
と千里が言うと、京平はしっかりした口調で言う。
 
「はじめまして、きょうへいです。おじいちゃん、おばあちゃん、れいらおばちゃん、みわこおおおばちゃん、けんじおおおじちゃん、ゆきえちゃん、えれなちゃん、なおみちゃん、よろしくおねがいします」
 
と千里が言った名前を全部言えたので
「凄い!名前覚えてる」
と玲羅が感心している。
 
「覚えさせたの?」
と美輪子が千里に訊いたが
 
「ううん。今私が言っただけだよ」
と千里は答える。
 
「この子は一発で人の名前を覚えるんだよ」
「凄い!」
 
「そういえば千里も一発で人の名前と顔を覚えるよね」
と美輪子が指摘する。
 
「うん。だから、やはりこの子、私の息子なんだよ」
と千里は微笑んで言った。
 

7月の中旬、貴司が千里たちの新居にやってきた。息子の京平に会うためである。京平は父と会うのは3ヶ月ぶりだったので、凄く嬉しそうにしてじゃれついていた。
 
お茶とお菓子を頂いた後で「ふたりだけで遊園地にでも行ってくるといいよ」と言って送り出した。その後で、桃香に指摘される。
 
「これで千里は合法的に自分の彼氏をうちに入れられるわけだ」
「別に彼氏じゃないよー。もう別れてから久しいし、それに貴司は結婚しているし」
 
「千里、貴司君が関東に移ってきたなんて私は聞いてなかったぞ」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「で、貴司君、今どこに住んでるの?」
「あ、えっと、どこだったかなぁ・・・」
「どこ?」
と訊く桃香の顔が怖い!
 
「川口市とか言ってたかなぁ」
「ここの近くだね」
「そうだっけ?」
「こら、白状しろ。貴司君ちの近くに住みたいから、浦和にマンション借りたろ?」
「そんなことは天に誓ってありません」
「全然信用できん!」
 

「桃香〜。そろそろ京平たちが戻ってくるから」
「じゃ、あと1プレイ」
「了解」
 
その日、千里と桃香は濃厚なプレイを6時間ほど続けていた。千里は信次と婚約して以来、桃香とのセックスをずっと拒否していたので、ふたりがこういう睦みごとをしたのは、実に3年ぶりであった。
 
「毎日私を満足させてくれるなら、多少の浮気は目こぼししてやるぞ」
と桃香。
「だから浮気じゃないってのに」
と千里。
「その嘘つく根性が許せん。2本入れるぞ」
「2本はやめてー! 私のは天然物と違って1本しか入らない仕様なんだから無理したら壊れて使えなくなっちゃう」
「うーん。使えなくなるのは困るな」
「でしょ? いちばん困るのは桃香のはず」
「仕方無い。指3本で我慢してやる」
「えーん」
 

6時の時報を聞いた所でさすがにやばいよということで終了し、シャワーを浴びて服を着る。早月と由美には、適宜、御飯やおやつをあげていたのだが、早月は「おかあちゃんたち、なにしてたの?」と不思議そうな顔で聞いていた。
 
「ちょっと運動してただけだよ」
「へー。つかれなかった?」
「さすがに疲れたかも」
「でも、おかあちゃん、おちんちんあるんだね?」
「ああ、ときどきね」
「へー。わたしも、おにいちゃんみたいに、おちんちんあるといいなとおもうことあるよ」
「ほしくなったらつければいいんだよ」
「ふーん」
 
千里は教育に良くない会話だなと思って聞いていた。
 
なお早月は、桃香を「おかあちゃん(さん)」、千里を「ちーかあさん」と呼び、京平は千里を「おかあさん」、桃香を「おとうさん」と呼ぶ(「ももかあさん」とも呼ぶ)。由美はまだ充分しゃべれないので、千里を「まー」、桃香を「もー」と呼んでいる。
 
京平と早月の会話はしばしば聞いていてそばに居るおとなのほうが頭が混乱する。
 

貴司から遅くなってごめん。今から帰るというメールが来るが、こちらから迎えに行くよと言って、早月・由美を連れて出かけ、マクドナルドで落ち合う。京平はたっぷり遊べて満足していたし、大好きなマクドナルドに入れてご機嫌。早月も由美もマクドナルドは大好きなので、こどもたちにとっては至福の時間となった。貴司は、あんまり千里たちと一緒に居ると色々面倒なことになるとまずいので、ということで、京平を千里に託すと、すぐ帰って行った。
 
「おにいちゃん、きょうはどこいってたの?」
「ゆうえんちにいってたんだよ」
「へー。それたのしいところ?」
「さつきも、ほいくしょくらいになったらいけるよ」
「ふーん」
「でも、ぼく、ずっとほいくしょ、やすんでる」
 
「京平、今度、幼稚園の面接に行ってみようか?」
「わあ、ようちえん?それもたのしそう」
 
京平の保育所・幼稚園問題については、こちらの生活に慣れてからにしようということで阿倍子とも話していた。内々に浦和区内の私立幼稚園に接触して、法的な親子関係は無いものの親権者との友情にもとづき実質的な保護者になっているという事情を説明した上で就園できるかと尋ねた所、今定員に余裕があるので一度連れてきてみてくださいとは言われていたが、阿倍子の結婚式・信次の三周忌など、イベントが続いていたこともあり、タイミングを見計らっていたのである。
 
なお、京平は阿倍子が貴司と離婚した時に、阿倍子を戸籍筆頭者とする戸籍を新たに作り、そこに入籍されて篠田の苗字を称している。今回阿倍子の結婚により、篠田の戸籍に京平だけが取り残された形になっており、住民票の上でも京平だけの住民票になっていた。それを京平の親権者である阿倍子の権限で、千里たちの住む浦和に住民票だけ移動させている(戸籍は神戸のまま)。
 
ちなみに早月は、高園桃香を戸籍筆頭者とする戸籍に入っていて高園の苗字。また由美は、最初「川島由美」単独の戸籍が作られた後、川島信次・千里の婚姻により作られた戸籍に、信次の死亡・除籍後、養女として組み入れられて川島の苗字である。
 
つまりこの家は法的には3家族(高園桃香+早月/川島千里+由美/篠田京平)が同居していることになっているのである。
 
「今度引っ越しする時は、転出届・転入届を3つ書かんといかん。面倒だ」
などと桃香は言っていた。都内のアパートから浦和に引っ越してきた時も、転出届・転入届を2つ書いている。
 
ちなみに桃香の戸籍は皇居!千里の戸籍は千葉市内の、康子の実家の住所に置かれていたが、その後現住所に移した。
 

7月20日(月)。幼稚園は土曜日の18日から夏休みに入っているのだが、この日、千里と桃香は京平を幼稚園に連れて行き、面接を受けた。
 
保育所を経験していて集団生活には慣れていること、面接での受け答えもしっかりしていることから、特に問題はないということになり、夏休み明けの9月から就園することになった。
 
「夏休みの間も園庭を開放していますので、良かったら顔を出して他の子と慣れて下さい」
などと言われる。
 
京平が大阪で生まれ神戸で育って、関西弁を主として使うことを桃香は少し心配したのだが、園長先生は
 
「いろんな地域から来て、いろんな方言を話す子がいるから大丈夫ですよ。日本語が少しあやふやな外国人の子もいますし。子供たちって言葉だけじゃなくて視線とか雰囲気とかで結構意志を伝え合うんですよ」
と言って、あまり心配する必要無いだろうと言った。
 
なお、幼稚園には京平の保護者は川島千里で届け、桃香は千里と同居している姉ということにしておいた。
 

お盆前に京平の幼稚園の制服を作りに行った。
 
採寸してもらおうとしたのだが、いきなり「年長さんですか?」と訊かれる。
「いえ、年中です」と答える。
 
京平は神戸の保育所ではサイズ100のスモックを着ていたのだが、今の身体なら120ですねと言われた。
 
「この子のお父さん、バスケットの選手で身長188cmあるんですよ」
というと
「だったら、きっともっと大きくなりますよ。お母様も身長高いですものね」
と売場の係の人は千里を見て言う。
 
「ええ。私もバスケットの選手だったので」
「じゃ、きっとこの子は2040年頃の日本代表ですね」
と係の人。
「なんか周囲から期待されて困っちゃうんですけどね」
と千里は言っておいた。貴司の前の会社での監督、船越さんなどが京平を見て
「この子はバスケやるような顔をしている」などと言っていた。
 
そういう訳で130サイズの制服を購入することにした。
 
「あれ?したはズボンとスカートがあるの?」
と京平が訊く。
「うん。男の子はズボン、女の子はスカートだよ」
と係の人。
 
「ぼくどちら?」
と京平が千里に訊くので
「京平は男の子だけど、女の子のスカートを穿きたければそちらを穿いてもいいんだよ」
と千里は答えた。
 
すると京平は
「スカートもかわいいけどなあ」
などと言って悩んでいる。
 
「でもせいふくはズボンにしとこうかなあ。スカートはいてあそんでるとよくめくれるんだもん」
「そうだね」
「じゃズボンでおねがいします」
と京平が言うので
「はい、じゃズボンにしようね」
と係のお姉さんも笑顔で言って、そちらを渡してくれた。
 
でも帰りの車の中で京平は
「スカートもかわいかったけどなあ」
などと、まだ悩んでいた。
 

東京オリンピックの取材で青葉が東京に出て来た。宿賃は要らないよ、などと言って、浦和の新しいマンションに泊めた。
 
早月と由美は、青葉と何度も会っているので、結構じゃれついていたが、京平がもじもじしているので
「京平君、こんにちはー。7月の法事の時にも会ったね」
と声を掛ける。
 
「あおばおばちゃん、こんにちは」
と京平も挨拶したが、少し怖がっている感じ?
 
「だいじょうぶだよ。取って食ったりはしないから。京平君、稲荷寿司とか大好きでしょ?」
 
「うん。ぼくだいすき!」
 
「京平が来てから週に1回は稲荷寿司作ってるよな」
と桃香が言うと、千里は優しく微笑んでいた。
 

「でもこのマンション凄いね」
と青葉は言った。
 
「何が凄いの?」
と桃香が訊くと
「絶妙な風水バランスの場所に建っている」
という。
 
「ほほぉ、さすが千里が選んだだけのことはある」
「地震とかで危険な断層からも離れているし」
 
「そういうの私、全然分からないなあ」
と千里が言うと
「ちー姉、素人を装うのは今更やめようよ」
などと青葉は言った。
 
千里も笑っている。
 

「でもまあ、千葉の川島家は風水ひどかったね」
と千里は言う。
 
「あ、そうなの?」
と桃香。
 
「桶川の新しいマンションは風水良好だよ」
「千里、お母さんのマンション選びに付き合ってたね」
「うん。お母さんの運気、きっと上がる」
「ほほぉ」
 
「私も気付いたのは去年の夏頃なんだけどね。あそこは、川のカーブの内側、T字路の正面、周囲から1段低い土地、玄関の真正面に電波塔があった。あんなに悪い土地を見つけるのも難しい。霊道は通ってなかったけどね」
と千里は言ったが
 
「霊道は通ってたんだよ。私が最初にあの家に行った時に気付いて動かした」
と青葉が言う。
 
「あ、そうだったんだ!」
「当時は千里は霊感を失っていたから気付かなかったんだな」
 
「なんかお母さんも、言ってたんだよねぇ。あの家に居るとなんか落ち着かないから、それで厳蔵さんと結婚した後、それまで行ったこともなかったカルチャースクールとか行くようになったって、華道と着付けの免許まで取って。お陰で今はお花の先生で食べて行ってるんだけど」
 
「あの家は厳蔵さんが買ったの?」
「そうそう。1985年頃に600万円で買ったらしい」
「あんな市内なのに?」
「有り得ない!」
 
「今思えば前の奥さんが息子2人を虐待するようになったのも土地のせいだったかも知れない気もするんだよ。ああいう土地は人の神経をおかしくするんだよね。それに源蔵さん、ブラックマンデーの時、株で数億円失って、その後、会社もうまくいかなくなって倒産したというし」
 
「数億円の資産を持っていたのに、そんな異様に安い土地を買うのは問題がある」
「何でも安ければいいという人だったらしいよ」
 
「うっ」
と桃香がギクッとしたような声を挙げる。
 
「桃姉とちー姉が大学生・院生の頃暮らしてたアパートも酷かったね」
と青葉。
「でもあれは強制改良したから」
と千里。
 
「あそこ何かしてたの?」
と桃香。
「まあ何もしなきゃ人が住めない場所だったよ」
と千里。
「ああ、誰かが何かした跡あるなとは思ってたけど、やはりちー姉だったんだ?」
「ふふふ」
「ちー姉たちが出てから半年後にあそこ火事で全焼したからね」
 

青葉は取材で来ているので、千里たちのマンションに寄ってもすぐ出て行くし、夜中に帰って来たり早朝出て行ったり、大忙しであったが、そもそも桃香や千里も時間というものを気にしない生活をしているので、青葉としても気楽なようであった。千里が、青葉がいつ帰って来ても何か食べられるようにしておいたので青葉もインスタント食品などに頼らず、頑張って取材やレポートをしていたようである。
 
「ちー姉、ごめーん。私今月中に2曲書いて山下先生(スイート・ヴァニラズのElise)に送らないといけないんだけど、無茶苦茶忙しくて」
とある日青葉が言った。
 
「いいよ。私が大宮万葉っぽい感じで書いて送っておくから」
「ごめーん。よろしくー」
と言って青葉は千里に歌詞を書いた紙を2枚とメモリーカードを渡した。
 
「ああ、作詞は岡崎天音さんか」
「まあ、だいたい彼女の詩につけることが多い」
「あの人は信じがたい多作だからなあ」
 
などと会話をしていたら桃香から質問が入る。
 
「青葉が大宮万葉だというのは知っていたが、千里は何という名前で曲を書いているんだ?」
 
「私は実はゴーストライターが主なんだよ」
「ほほぉ」
「いろんな作曲家の名前でその人っぽく曲を付けるのが私の得意技」
「へー!」
 
「というか、ちー姉は、本人より、本人っぽい曲を書くよね」
「うふふ」
 
「ゴーストライターさんには、作曲料をもらうタイプの人が多いけどちー姉は基本的に印税方式でしか受けないしね」
 
「うん。だいたい名前をクレジットする人と印税山分けにする。それから無名な作曲家のゴーストはしない。年間400万円程度以上稼いでいる人からしか受けない。でないと、それが突然ヒットした時に、絶対揉めるし、その本人が自力でその後の楽曲品質を維持できないんだ。私は基本的に、ずっとその人のゴーストを続けるということもしないから。でないと、私がその名前の主体になっちゃうから」
 
「そのあたりもよく分からんな。自分の名前では書かないの?」
 
「自分の名前で書くのは、Taimo, 醍醐春海、鴨乃清見といったところかな」
「うっそー!?」
 

青葉はオリンピックの取材が終わり金沢に戻る前に、桃香−千里家の3人の子供を並べて言った。
 
「よくよく見ないと分からないけど、ほんとにこの3人、兄妹なんだね」
 
「分かる?」
と千里。
 
「桃姉のこどもが2人・ちー姉のこどもが2人」
「ふふふ」
「すごーく昔に、私、ふたりの子供の人数をそう予言した記憶があるけど、その通りになってる」
「まあ、青葉の予言能力も大したもんだよ」
と千里。
 
「すまん。その人数の数え方が分からんのだが」
と桃香が言うが
 
「気にしない方がいいよ」
と青葉は笑顔で言った。
 

東京オリンピックの興奮がまだ冷めやらぬ中、8月の下旬の土曜日、都内のクラブチームによるバスケットボールの大会が開催された。
 
この大会に、今年の春結成されたばかりの《オールドムーンズ》が参加していた。
 
メンバーはスターティングファイブがPG.松前乃々羽(釧路Z高校) SG.村山千里(旭川N高校) SF.中島橘花(旭川M高校) PF.溝口麻依子(旭川L女子高) C.佐藤玲央美(札幌P高校)ということで(以上旧姓)、2007-2008年頃の北海道で覇権を争った高校の主力選手が名前を連ねている。玲央美は日本代表が長かったので「あんたキャプテンやって」と《影のキャプテン》麻依子から言われて名目上の?キャプテンにもなっており、同じく日本代表の千里もいるので、注目されて、バスケット雑誌が取材に来ていたが、その記者は、このチームの得点源が、全然玲央美と千里だけではないのに驚く。
 
橘花は10代の頃のように、どんな体勢からでも貪欲にゴールを奪う。玲央美はリバウンドをほぼ全部取って自分でそのまま放り込むし、麻依子は遠くからでも近くからでもどんどん得点していく。そして千里は高確率でスリーを放り込む。そしてこの個性の強い選手を乃々羽がうまくコントロールして、チームに一体感を作っている。
 
この5人の間ではお互いに相手を全く見ないままパスが通るし、ロングパスを千里は直前まで振り向かずにキャッチできる。全員1on1に強くマッチアップで、ほぼ負けない。
 
現役から長く遠ざかっていた選手やママさん選手も多いのだが、往年のパワーとセンスは「ふつうのアマチュア選手」では勝負にならない感じであった。そもそも168cmの千里が小さく見えてしまうほど長身の選手が揃っていて、相手チームとの体格差も大きい。
 
1回戦は前年東京都BEST8になったチームだったのに、全く歯が立たず、120対21というとんでもない点差でオールドムーンズが圧勝した。ベンチ全員に出場機会を与えるために前半と後半で選手を入れ替えたのだが、実際問題として前半が68対15、後半が52対6ということで、控え組も充分な強さだった。
 
2回戦では相手が「ふつうのチーム」だったので、控え組を出して、軽く流してプレイさせたが、それでも80対20という点数であった。
 
翌日曜日に行われた3回戦・4回戦・5回戦も圧勝して、取り敢えず翌週の準々決勝に駒を進めた。
 

8月26日(水)大阪に住む阿倍子が京平に会いにやってきた。結婚式以来2ヶ月ぶりの再会である。この日は会うなりふたりとも泣いていた。
 
「ごめんねー。なかなか会いに来られなくて」
「ぼくだいじょうぶだよ。にんじんもたべられるようになったし」
「おお、偉い!」
「9がつになったらようちえんにいくし」
「うん、頑張ってね」
 
それで先日買った幼稚園の制服を持って来て、早速その場で着てみせると、阿倍子がまた涙を浮かべていた。ふたりを並ばせて、桃香が写真を撮ってあげた。
 
取り敢えずお茶を入れて、阿倍子が買って来たシュークリームを頂く。
 
「ぼくこのシュークリームだいすき」
と京平はご機嫌だし、早月も
「おいしい!」
と喜んでいる。由美はクリームと格闘しているが楽しそうである。
 
「でも阿倍子さん、ちょっと顔色が悪い。大丈夫ですか?」
と千里が言ったのに対して、阿倍子は驚くべき発言をする。
 
「実は、つわりが酷かったもので。それでなかなか来られなかったんですよ。なんとか落ち着いてきたのですが」
 
これに対して桃香は
「おお、おめでたですか! もしかしてハネムーンベビー?」
などと明るく答えたが、千里は悩んでしまった。
 
「阿倍子さん、まさか自然妊娠?」
「そうなんですよ。自分でもびっくりした」
「自然妊娠できたの!?」
 
「お医者さんに以前にやった不妊治療の話とかもしたんだけど、恐らくは一度妊娠したことで、それまでちゃんと機能していなかった生殖系統が働き始めたのではないかと。ただ次の妊娠があるかどうかは何とも言えないし、前回帝王切開してるから今回も帝王切開は必須だし、既に子供が3人いるのであれば、医者の立場からは、正直これ以上は妊娠しない方がいいと思う、とは言われたけどね」
 
「わあ。でもだったら、京平が生まれたおかげで、阿倍子さん、次の子を妊娠できたんだ!」
「ええ」
 
すると京平が
「ママ、あかちゃんができるの?」
と訊く。
 
「うん。京平の妹か弟ができるよ。それも京平のお陰だよ」
と阿倍子は笑顔で答える。
 
「わあ」
と京平は少し感動している。
 
「でかしたぞ、京平」
と半分も事情を理解していない桃香も京平を褒めると
「えへへ」
と言って本人は照れているが、やや悩む顔をする。
 
「それ、ぼくのいもうとかおとうと? けんたのいもうとかおとうとじゃなくて?」
「賢太の妹か弟でもあり、京平の妹か弟でもあるね」
「だったら、さつきやゆみのいもうとかおとうとにもなるの?」
「早月ちゃんや由美ちゃんとは関係無いかな」
 
「なんかむずかしくてわからない!」
と京平は音を上げたが、大人でも1度聞いただけでは理解できない話だよなと千里は思った。
 

8月最後の土日。都のバスケットボール・クラブ大会の準々決勝以上が行われた。
 
準々決勝の相手は、大学生主体のチームで結構強かった。やっていて千里は自分が千葉のクラブチーム《ローキューツ》に入った頃のことを思い起こしていた。強い所相手なので、こちらもかなり本気モードになる。
 
前半は40対32と、かなり競っていたのだが、後半の本気モード全開で突き放し、最終的には83対50と結構な点差を付けて勝った。
 
準決勝の相手は昨年の準優勝チームで、関東大会でもBEST4まで行ったなかなかの強豪であった。前の試合の疲れが残っていたものの、千里・橘花・麻依子といった、トレーニングを欠かしていないメンバーが底力を見せ、94対86で勝利した。この試合は本気マジ全開であった。
 
「この相手に全力でやらないといけないというのは、みんな練習不足」
などとキャプテンの玲央美が言うが
 
「そう言うなら、キャプテン40点くらい取ってくださいよ」
とパックアップ・ポイントガードで自らも12点取った雪子が文句を言った。この試合、玲央美は4点しか取っていない。
 
「やはり上に立つものは、自分のことを棚に上げて言わないと」
などと玲央美は言っていた。
 

翌日(三位決定戦に続いて)行われた決勝戦。相手は実質実業団レベルという感じの無茶苦茶強いチームであった。こうなると、やはり練習不足で、20歳頃の体力はさすがに無いオールドムーンズは分が悪い。
 
かなり頑張ったものの、最終的には64対58という僅差で敗れた。このロースコアが激戦を物語っていて、相手チームも全力使い果たした感じだった。試合終了の笛が鳴った後、力尽きて床に寝てしまう選手が何人もいた。
 
「ぜひ今度練習試合をしましょうよ」
と言って、お互いの連絡先を交換して別れた。
 
この東京都大会3位までが関東大会に行けるので、これで千里たちは11月に行われる関東大会に進出することも決まった。
 
「やはり関東大会までに個人個人でもっと体力をつけることが課題だな」
と《影のキャプテン》麻依子からも意見が出る。
 
「千里は主婦やって子供も産んでるのに、無茶苦茶体力ある。どういうトレーニングしてたの?」
とまだ独身で高校の体育の先生をしている橘花が訊く。橘花の場合は日々の授業や部活の指導が自分自身のトレーニングにもなっている。
 
「ああ。私のトレーニングは主として冬にやるんだよ」
「へー」
「真冬の出羽三山を雪の中毎日20-30km歩く」
 
「・・・・・」
「修験者か!?」
「ああ。高校時代もそんなこと言ってたね」
「あれ冗談じゃなかったんだ?」
「こないだ山駆け1000日を達成したから」
「凄い!」
 
「出羽三山にお参りするとバスケが強くなるという噂が広まったのは私が練習しているのを目撃した人から噂が広まったんだと思う。しばしば山駆けしている最中ずっとボールをドリブルしてるから。月山神社の裏にあるバスケットのゴールも実は私が使いたかったから設置してもらったんだよ」
 
「そうだったのか!」
「ここ数年、出羽三山にお参りに行くバスケット関係者多いもんね」
 
「ちなみにホラ貝も吹けるよ」
「ほほぉ!」
 

9月1日(火)朝。京平は真新しい幼稚園の制服に身を包み、桃香に手を引かれて元気に出かけて行った。それを早月と一緒に見送って千里は微笑んだ。
 
思えば自分の性別について本格的に悩んでいた中学生の頃、子供は得られないものと諦めていた。でも今こうやって3人の子供といっしょに暮らしている自分が夢のようだと思う。いや、ほんとにこれは夢で、目が覚めたら孤独な生活をしている自分がいるのではないかとさえ思えてしまう。
 
青葉、美鳳、瞬嶽、信次、京平、そして桃香。その誰との出会いが無かったとしても、今の自分は有り得ない。
 
まあ貴司もだけどね。
 
と千里は心の中で付け加えた。
 

そんなことを考えていたら、その日の夕方、高岡から朋子が突然出て来た。
 
「何か用事でした?」
「ううん。孫たちの顔が見たくなっただけ」
などと言って、取り敢えず寄って来た早月の頭を撫でている姿は、本当に普通のおばあちゃんという感じである。
 
「桃香が高校生、そして大学1−2年の頃は、この子には孫はできないんだろうな、って思ってたから、こうやって3人も孫の顔を見れるとなんかもう信じられない気分だね」
などと朋子が言うので
 
「私も今朝京平が幼稚園に行くの見送って、同じこと考えました!」
と千里は言った。
 
おばあちゃんサービスで京平は幼稚園の制服を着てみせるので、早月も並ばせ、由美は朋子自身が抱いて、桃香が記念撮影をした。こういう時、カメラを扱うのは千里ではなく、桃香でなければならないのはこの家のお約束である。
 
「でもこの子たちの親子関係が私は何だかよく分からないよ」
と朋子は言う。
 
「法的な親子関係、遺伝子的な親子関係に分けて考える必要はありますけど、結論からいえば、全員、桃香さんか私かどちらかの子供です」
と千里は言った。
 
「その辺がさっぱり分からない」と朋子。
「いや、実は私もよく分からん」と桃香。
 
「由美が生まれた時に、私たち一度言いましたよね。『育てる人が親だ』って。3人とも私たちが育てますから、私たちが親です」
と千里は明解に言う。
 
「京平と私の間にも親子関係があるんだっけ?」
と桃香が訊くと、千里は微笑んで
「桃香は京平のお父さん」
と千里。
 
「そうなんだよなぁ」と桃香。
「何それ?」と朋子。
「京平は桃香のことをお父さんと呼ぶからね」と千里。
「うん。ぼくのお父さん」と京平は嬉しそうに言う。
 
「まあ、あんた小さい頃、おちんちん欲しいと言ってたからね」
と朋子は桃香に言う。
 
「ああ。おちんちんはあると結構便利なんだ」
と桃香は言った。
 

9月下旬。
 
貴司の所属していたチームが突然その月限りで廃部になってしまった。その日突然業務部長が練習場に来て全員を集め、今日限りで解散というのを宣言したらしい。選手全員呆然としていたという。
 
貴司としては前の大阪のチームが廃部になってこちらに移ってきたのに移籍後また半年での廃部で、取り敢えず行き先が見当たらない。
 
「オリンピックが終わって、どこもスポーツ関係の予算を減らしているんだよ。スポンサーの付きも悪いんだよね。そうなると、僕みたいに年齢の高い選手は苦しい。僕はNBAの経験も無いし日本代表には何度かなったけど、国際大会の実績もほとんど残してないし」
と貴司は電話口で言っていた。
 
「取り敢えずどうすんの?」
「今入っている会社の一般社員になることは可能らしい。僕は選手契約じゃなくて社員契約だから」
 
実業団の選手には、選手としてチームと契約しているプロ選手(登録I種)と、社員としてその会社に所属している社員選手(登録II種)が混じっている。貴司は大阪の会社に入って以来、社員選手としてやってきたし、今の会社にも社員として所属している。チーム解散でプロ選手は全員契約解除になるが、社員選手は社員としての籍が一応残る。
 
「じゃふつうの会社員になるんだ?」
「頑張ってみようかと思ってる。給料は今より少し安くなるけど」
「まあバスケ選手を60歳までは続けられないからね」
「うん。それは最初から考えていたことではある。だから、TOEICも毎年受けていたし、簿記2級とか、危険物取扱者とか、大型二種免許とか、情報処理技術者とか中小企業診断士とかの資格も取っているし」
「そのあたりは勉強嫌いな貴司にしては偉いと思ってた」
「ははは」
 

11月4日(水)。
 
京平を幼稚園にやった後、桃香とふたりで早月や由美と遊びながら、部屋の掃除とかをのんびりやっていたら、突然の訪問者があった。
 
緩菜(2歳2月)を連れた美映であった。
 
取り敢えずお茶を出して、先日朱音からお土産にもらった山口のウイロウを出す。由美や緩菜には喉につまらせないよう薄くスライスして与えたが、2人とも食べてみて変な顔をしていた。早月は「このようかん、あまくない」などと言っている。
 
「ね、5000万円で買ってくれない?」
と美映は言った。
 
「5000万円って一体何ですか?」
「貴司」
「は!?」
 
「私、バスケット選手の貴司に憧れて結婚したんだよねぇ。でも貴司バスケ辞めちゃったじゃん。そしたら、私冷めちゃってさ」
と美映。
 
「貴司さん本人を好きじゃなかったの?」
と千里は尋ねた。
 
「あくまでバスケしている貴司が好きだったんだよ」
「でも貴司さん、社員選手だったから、今までも営業したり、事務作業したり、してましたよね?」
「それはあくまでバスケの練習の合間にやってるイメージだったんだよね。実際問題として、これまでは1日の内仕事が5時間・練習が7時間って感じだったし。貴司この1ヶ月、一度もバッシュ履いてない」
 
「今は新米社員だからそちらに集中しているんだと思う。きっと仕事に慣れたら趣味でバスケ再開するよ」
 
「趣味でバスケやってるおじさんには興味無いなあ。あくまで現役バリバリのバスケ選手が好きだったから」
 
「美映さんの愛情ってそんなものだったの?」
千里はちょっと怒って彼女に言った。
 
「まあそんなものかもね。だいたいあいつインポだしさ」
と美映は言う。
 
千里は思わず桃香と目を合わせた。
「それって、いつから?」
「最初から。全然立たなかったよ。だから貴司とは実は一度もセックスしてないんだよ」
「ちょって待て」
「セックスせずに、なぜ子供ができる?」
 
「結合はできなかったけど、貴司のペニスを立たないまま私の割れ目ちゃんの中でコロコロしてたんだよ。そしたら緩菜ができちゃってさぁ。入れる前に付けるつもりだったから、コンちゃん付けてなかったんだよねぇ」
 
「ねえ、緩菜ちゃん、ほんとに貴司さんの子供なの?」
と桃香が訊いた。
「だと思うけどなあ」
「DNA鑑定した?」
 
「してない。別にいいじゃん。貴司は認知してくれたんだし。でも、だから相談なのよ。私、貴司と別れて大阪に帰るからさ。実際この半年の関東での生活も、凄いストレスだったのよ。食べ物は何だか味の辛いのばっかりだし、近所の女性と世間話とかしてても、考え方とかから違って話が合わないしさ。私の感覚じゃ物は安く買えたことを自慢したい。でも東京の人は高い物を買ったのを自慢するんだよなあ」
 
確かに関東と関西の気質の違いはあるだろう。しかしこの人の場合、それ以前の問題があるような気もした。私この人ともお友だちになれそうな気がしていたけど見込み違いだったのかなあと千里は考えていた。
 
「だから貴司を5000万円で買い取って欲しいのよ。貴司の口座残高調べたら残金70万円。株の口座も屑株しか残ってないし。あれじゃ離婚の慰謝料も取れないしさ。でも千里さん、あんた有名な作曲家なんでしょ?あんたがいつか大阪のマンションに来た時に書いてた曲、あとで遠上笑美子が歌ってたもん。5000万円くらい出せるよね?」
 
そう言って、美映は、署名捺印済の離婚届、貴司の署名・捺印があり妻の欄が空白の婚姻届けを千里の前に出した。
 
桃香が「ちょっとあんたね」と言ったが、千里はそれを制した。
 
「分かった。買い取る。5000万円出すよ。その代わり、二度と同種のお金の請求はしないし、貴司とも関わらないという念書を書いて」
と千里は言った。
 
「うん。書くよ」
 
「千里、5000万あるの〜?」
と桃香。
「うーん。ぎりぎりくらいかな」
と千里。
 
それで千里は音楽関係でお世話になっている顧問弁護士を呼んだ。弁護士は
「夫の買い取り」は《公序良俗違反》で無効な取引(民法90条)とみなされる可能性があるので、美映が貴司の家で使用していた家財道具を含む「夫婦の共有財産」の美映が権利を持つ部分(半分)を買い取るという名目ではどうか?と提案した。一般人ではその程度の家財道具で5000万円はありえないが、写真集が発売されたこともある元日本代表のスポーツ選手の家の家財道具が5000万円というのは有り得なくもない金額である。
 
「ああ、その程度あげるよ。私の服とかも自由に使って。私も身一つで大阪に戻って、取り敢えず親の家に転がり込むつもりだったし」
 
と美映がいうので、そういう名目にすることにして、売買契約書を作成した。
 
「あ、ところで緩菜はどうする?」
と美映は訊いた。
 
千里は目をパチクリさせる。
 
「緩菜ちゃんは美映さんと一緒に大阪に戻るんでしょ?」
 
「どうしようかなあと思ってさ。私、この2年間の育児で疲れちゃったのよね。この子、よく泣くしさ。つい叩いてしまって。それに再婚考える時に子供がいると面倒だしさぁ」
 
千里はかなり怒りを抑えきれない気分になり何か言おうとしたが、今度は桃香が制した。
 
「だったら、緩菜ちゃんも私たちが育てようか?」と桃香。
「あ、そうしてくれると助かるかも」と美映。
 
桃香が弁護士さんに訊いた。
 
「この場合、離婚届の親権者の欄で、親権者を貴司さんにしておけばいいですよね?」
「ええ、そうすれば問題ありません」
 
それで、美映は離婚届の「夫が親権を行う子」の欄に細川緩菜と記入した。
 
そして川口市役所の窓口に行き、離婚届を提出する。弁護士がいたこともあり窓口の人はそのまま受け取ってくれた。それを見て千里はその場で美映の口座に5000万円振り込んだ。
 
「すごーい。桁を数えちゃった!」
と自分のスマホを見て、はしゃいでいる美映を見て、千里も思わず微笑んでしまった。
 
その後、弁護士さんと別れ、みんなで東京駅まで行き、明るく手を振って新幹線に乗り込む美映を見送った。
 
「おかあちゃん、どこいくの?」
と緩菜が訊く。
 
「うん。お仕事なんだよ。大変なお仕事で何日もかかるんだって。だからお母ちゃんが帰ってくるまで《お姉ちゃん》たちと遊ぼうね」
と桃香が言ったが
 
「うん、いいよ。《おばちゃん》」
と緩菜は答えた。千里が苦笑していた。
 

京平を幼稚園に迎えに行った後、取り敢えず緩菜ちゃんの着替えとかを取ってこなければと言って、川口市の貴司のマンションまで行くことにする。この時初めて、セレナに4個のチャイルドシートをセットした。
 
夏までは京平・早月・由美3人ともチャイルドシートを使用していたのだが、身体の大きな京平はこの秋からジュニアシートに変更した。それでちょうどチャイルドシートが1個余っていたので、それに緩菜を乗せた。
 
2列目に京平・早月、3列目に緩菜・由美と乗せ、助手席に桃香が乗り、千里はセレナを運転して貴司のマンションに行く。美映から預かった鍵で部屋を開け、タンスの中から緩菜の着替えを出す。
 
「千里、今迷わず、緩菜の服が入っているタンスを開けた気がしたが?」
と桃香。
「気のせい、気のせい」
と千里。
「千里、その前に駐車場のドアを難なく開けたよな?千里って機械に弱いのに」
「気のせい、気のせい」
 
「でも美映さん、ブランドものが好きだったみたいね」
と桃香が言う。
 
実際女の子向けのブランドの洋服がかなりある。下着もサンリオとかディズニーだ。大手スーパーや衣料品店の自主ブランドの類は入っていない。
 
「これ生活費、かなり掛かっていたのでは?」
と桃香。
「それでお金かかりすぎて、阿倍子さんへの仕送りが困難になっていたんだったりして」
と千里。
 
服をあり合わせの段ボールに詰めていたら、貴司が帰宅した。
 

「お帰り。今日は残業無かったの?」
と千里は笑顔で貴司に言う。
 
「水曜日は残業は無いよ。ってか、千里、何してんの?」
と戸惑ったように言う。
 
「ああ、貴司さん、大変だったね。でも緩菜ちゃん、私たちがちゃんと面倒見るから安心してね」
と桃香が言う。
 
「美映に、まさか、何かあったの?」
と貴司が言うので、千里と桃香は顔を見合わせる。
 
「貴司、美映さんと離婚したんだよね?」
と千里が訊くと
「はぁ〜〜〜!?」
と言って絶句する。
 

取り敢えずLDKのソファに座って話をすることにする。子供たちは何だか鬼ごっこをしている。緩菜もすっかり由美たちと仲良くなっている。
 
「ちょっと話を整理してみようか?」
と桃香が言う。
 
「千里の所に今日美映さんが来て、貴司さんを5000万円で買い取ってくれと言ったんだよね。それで千里は同意して、5000万円と交換に、貴司さんと美映さんの離婚届、妻の欄が空欄で貴司さんの署名捺印だけがされた婚姻届を受け取った」
 
「嘘!?僕って売られちゃったの?」
「金銭トレードだな」
 
「この話、貴司は全然知らなかった訳?」
「そんなの聞いてない。美映はどこ?」
「もう大阪に帰ったけど」
「えーーー!?」
 
「で緩菜ちゃんは私たちで育てることにしたし」
「なぜ、そういう話を僕が知らない!?」
「それは私たちが聞きたいことだ」
 
「離婚届って・・・提出したの?」
「提出済み」
「僕と千里の婚姻届は?」
「私の分の記入はしたけど、桃香との協議が必要だから提出については保留」
と千里。
「個人的には破棄したいが、私には5000万円は出せんから協議だな」
と桃香。
 

それで貴司は美映に電話をしたが、かなり激しいやりとりをしていた。やがて向こうが勝手に切ってしまったようで、貴司は疲れたように携帯をテーブルに置く。
 
「何て勝手な女なんだ。結婚する時も結婚してくれなかったらマスコミにたれこむし1億円の慰謝料と月額100万円の養育費を要求するとか言われて・・・・それで突然こんな形で離婚して」
 
「貴司が馬鹿なだけだと思うけど。結婚しているのに他の女とホテルなんかに行くのが悪い」
と千里は言う。
 
あの時期、千里としては信次との結婚を決めて長年の貴司への思いも断ち切ることができていた。それで、それまで貴司に寄ってくる女をことごとく排除していた(結果的に貴司と阿倍子の結婚を維持していた)のも、しなくなった。そのタイミングで美映は貴司に急接近したのだ。
 
「ほんとに僕は馬鹿だ。阿倍子にも本当に申し訳ないことをした」
 
「でもこれで貴司さんも美映さんと離婚する気になったのでは?」
と桃香。
 
「うん、いいよ、もう離婚で」
と貴司は疲れたように言う。
 

「おかあちゃん、おなかすいたー」
と京平も早月も言うので、千里があり合わせの材料でカレーを作ったら、子供たちは
「おいしい、おいしい」
と言ってたべてくれた。牛乳を加えて超甘口にしているので、由美や緩菜も美味しそうに食べている。貴司も疲れたような感じながら何杯もお代わりしている。
 
「これおかあちゃんのカレーよりおいしい。また食べたいな」
と緩菜がいう。
 
「カレーくらいいつでも作ってあげるよ」
と千里も微笑んで緩菜に言った。
 

「だけど緩菜ちゃん、今日1日で早月や由美と随分仲良くなった。やはり女の子同士はすぐ仲良くなるんだね」
と桃香が言う。
 
「本当の兄妹であるはずの京平の方が緩菜にはちょっと遠慮がちだったね。やはり男の子と女の子だと少し壁があるのかな」
と千里も言う。
 
「だけど、美映さんが美人だから、緩菜ちゃんも美人に育ちそうな感じ」
と桃香が言った所で
 
「ちょっと待って」
と貴司が言う。
 
「千里も桃香さんも勘違いしてる」
「ん?」
 
「緩菜は男の子なんだけど」
と貴司。
 
「何ですと〜〜〜〜!?」
 
「だって、男の子だったら、どうしてロングウェーブの髪で、スカート穿いてるのよ?」
と千里。
 
「下着も全部女の子のだったけど」
と桃香。
 
「いや、美映の趣味で」
と言って貴司は頭を掻いている。
 
「でも千里も僕と初めてあった時はロングの髪で、女の子の和服着てたし」
と貴司が言うと
「なるほどー。こういうのが貴司さんの理想なのか」
と桃香は勝手に納得している。
 
「あれ?かんなちゃん、おとこのこだったの? でもスカートくらいぼくだってはくし、いいよね?」
と京平。
 
「あれ、かんなちゃん、おとこのこなの?でも、おちんちん、とっちゃえば、おんなのこになれるんだってよ」
と早月。
 
千里は頭が痛くなってきた。
 
 
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