【女たちの羽衣伝説】(1)

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2017年6月、択捉(えとろふ)島。某村の居酒屋。
 
40歳くらいのロシア人女性を口説く60前後?のアジア系の男の姿があった。男はかなり女の扱いになれている感じで、女もけっこう楽しそうに笑顔で応じていたものの、最後はうまく逃げられてしまった。
 
「残念だったね、ハガロマ」
と古株の常連が男に言った。
 
彼はХагоромоを名乗っている。日本語的に読めばハゴロモなのだが、ロシア語的に読むとアクセントの無いоは軽い「ア」に近い音になるためハガローマくらいの感じの発音になるのである。
 
「まあいいさ。またいい子を探すよ」
と言って居酒屋を出たものの、伸びをして独り言のように言う。
 
「男やるのも飽きたなあ。そろそろまた女になろうかな」
 
それで彼は択捉島の最高峰ストカップ山(1634m)を登り始めた。
 
ベテランの登山家でも数日かかるのだが、彼はこれを驚異的な体力でわずか1日で登頂してしまう。見た目は60男なのだが、体力だけは20代並みのものを持っている。
 
やがて頂上に立ち、彼は両手をいっぱいに広げて西の風を受けた。
 
目を瞑って自分の身体の中を走るチャクラの回転に意識を集中する。そしてこれを下から順に逆回転に変えていく。やがてその回転が完全に女性型になると、今度はそこで生まれた「女性の気」を身体の隅々まで浸透させていく。
 
あと少しで完全に性転換が完了すると思ったとき、突然羽衣の足下に何かがぶつかった。
 
「わっ」
と小さな声を挙げ集中が乱れる。
 
「あっーーーー!」
と羽衣は更に大きな声を挙げてしまった。
 
今一瞬気が乱れてしまったことで、性転換の最後のステップが完了しなかったのである。
 
じっと自分の股間を見つめる。
 
「えーん。これじゃ温泉とかに入れないじゃん。足にぶつかったのは何よ?」
と脳が性転換済みなので女言葉で文句を言う。
 
見ると小さなリスである。エゾリスだろうか?
 
「おまえ、私の晩御飯にはなりそうにないなあ」
と言って羽衣はそのリスを拾い上げると、背中を撫でてやった。
 

「あれ〜、師匠がまた女になってる」
と海藤天津子は自分のマンションを訪問してきた羽衣を見て、驚いたような声をあげた。
 
「うん。ちょっと男は飽きた」
「師匠って元々は女ですよね?」
「なぜそう思う?」
「だって染色体がXXだもん。男の身体になっている時もXXですよ」
 
「ふーん。じゃ川上青葉の染色体は?」
「あのオカマ野郎はXYです」
 
「まだあんたあの子のこと『オカマ野郎』と言うんだ?」
「まあ色々あいつにも恩義があるから、排除はしませんけどオカマはオカマですよ。私が総理大臣になったら日本中のオカマを収容所送りにします。まああいつだけは勘弁してやってもいいや」
 
「相変わらず過激だね〜。じゃあの子の姉ちゃんの村山千里の染色体は?」
 
「千里さんはXXですよ。あの人、自分は元男だなんてよく主張してますけど私にはそれって嘘だと分かります。だってあの人、透視するとちゃんと子宮も卵巣もあるのが分かるし、2年前に間違いなく出産したから。出産できる以上天然女性ですよ」
 
「ふーん」
と羽衣は面白そうな顔をして天津子を見た。
 

「ところでさ、天津子ちゃんちょっとお金恵んでくれない?」
「いいですよ。でも何なさるんですか?」
 
「ドイツまで行ってこようかと思ってさ」
「もしかしてミュンツァー師に会うんですか?」
 
「うん。コウちゃん(瞬嶽のこと:俗名長谷川光太郎)が死んで以来、なかなか遊べる人がいなくてさぁ」
 
天津子は顔をしかめた。師匠はしばしば瞬嶽の所に式神をやっては瞬嶽を殺させようとしていた。しかしいつも返り討ちに遭っていた。それは羽衣と瞬嶽の「危険な遊び」にも見えた。羽衣は戻って来た式神にやられて瀕死の重傷を負ったこともある。瞬嶽もうまいもので、わざと自分の所に来た弱い式神を超強化してから送り返したりしていたのである。
 
「危険なお遊びをなさるのでしたらお金は出せません」
「ケチ」
 
羽衣はふだん貨幣経済とほとんど無縁の生活を送っているので、お金は日常生活を営むのに最低限必要な程度しか所持していない。大きな旅行などする場合は天津子や桃源、天機などの高弟から恵んでもらっている。
 
「師匠にはまだ死なれては困りますから」
「実は桃源からも断られた」
「弟子のメーリングリストに師匠に航空券代貸すなと流しておきます」
 
「もう!でも命のやりとりをするのが楽しいのよ」
「もっと穏やかな遊びをしてください」
「何か楽しいのある?」
「スマホでたくさんゲームできますよ」
「スマホかぁ。あれダメ」
「使ってみられました?」
 
「天機から一度iPhone借りたんだけどさぁ。私が持った瞬間爆発するんだもん」
「ああ」
 
「静電体質の人間にはスマホは使えないよ」
「困ったものですね〜。師匠の静電容量は新幹線を東京から名古屋まで動かせるくらいあるだろうからなあ」
「そこまではさすがに自信無い」
 

そろそろ貴司が帰ってくる時間かなと思い、もうすぐ2歳になる京平の会話の相手をしながら晩御飯を作っていた阿倍子は、玄関の開く音がするので
 
「たかちゃん、お帰り〜」
と言ったのだが、貴司と一緒に入って来た人物を見て不愉快な気分になる。
 
「千里さん、どういうつもり?」
と阿倍子は詰問するように千里に文句を言ったが、千里は
 
「浮気男を逮捕したから、ここまで連行してきた」
と言う。
「え〜〜?」
 
「女子大生とデートしようとしていた所を捕まえて、逃げないようにそのままここに連れてきた。じゃ阿倍子さんに引き渡すから、あとはよろしく〜」
 
と言って千里は帰ろうとする。貴司は情け無さそうな顔をしている。
 
ところがそこに京平が
「あ、ちさとおばちゃん、こんにちはー」
と声を掛ける。
 
「京平、ちゃんといい子してるか?」
と千里も笑顔で京平に言う。
 
「いいこしてるよ。きょうはもらさずにトイレいけたよ」
「お、偉いなあ」
「だってあんまりもらしてたら、ちんちんとっちゃうぞとママがいうし」
「ああ、ちんちんなんて無くてもいいんだよ。京平のパパだってあんまり悪いことしてたら、私がパパのちんちん切っちゃうからねと言ってるから」
 
「千里、そういう話は教育に悪いからやめてよ」
と貴司が言う。
「貴司が浮気しなければいい」
「その件については私も千里さんに賛成だな」
とかなり怒っている風の阿倍子まで言う。
 
「パパ、ちんちんきられちゃうの?」
「悪いことしなければ大丈夫だよ」
「わるいことって、おしっこもらしたり?」
「パパもおむつつけた方がいいかもね」
「じゃぼくのおむつパパにあげようかな」
「それもいいかもね」
 
などと言ってから、千里は
「あ、そうだ。さっき買ったチョコレート、よかったら京平食べる?」
と言って、千里はチョコレートのファミリーパックを取り出す。
 
「わーい、たべるたべる」
と言って京平は千里からチョコを受け取ってしまう。
 
阿倍子が不愉快そうな顔をしていたが、子供からおやつを取り上げる訳にもいかない。それで
 
「千里さんありがとう」
と御礼を言う。
 
「でも晩御飯前みたいだから、おやつは御飯の後ね」
と千里。
「うん、そうする」
と京平。
 
「じぉね〜。京平はトイレがんばれよ」
「うん。がんばる」
「貴司は、ちんちんチョン切られないように浮気我慢しろよ」
「反省してる」
「阿倍子さん、お邪魔してごめんね。じゃ」
 
と言って千里は帰っていった。
 

(2017年)5月10日。桃香は子供を出産した。女の子で、5月に産まれたこともあり早月と名前を付けた。
 
桃香は早月の出産前に戸籍を分籍しておいたので、この子は桃香単独の戸籍に入籍される。早月の母親欄はむろん桃香だが父親欄は空白であった。実はこの子は千里が去勢前に冷凍保存していた精子を桃香の子宮に投入して人工授精で産まれた子供であり、父親は千里なのだが、そのことは桃香と千里、朋子と青葉、他には彪志やクロスロードの中核メンバーくらいしか知らないことである。
 
千里は、戸籍には記載されないものの、自分を父親とする子供が生まれたことに複雑な感情を持っていた。私、結局「男に生まれた」という事実からは逃げられないんだなとあらためて思った。
 
桃香に助産婦さんがお乳が出るようにおっぱいマッサージをしていたが、千里はそれを見ていて
「そんなんじゃ出ない。ちょっとどいて」
と言い、千里が代わっておっぱいマッサージをしてあげた。
 
「痛たたたた!」
と桃香は悲鳴をあげたものの、それで桃香のおっぱいは最初から勢いよく出て早月は母親のおっぱいをたくさん飲むことができた。
 
「妹さんでしたっけ? マッサージお上手ですね」
と若い助産婦さんは驚いていた。
 
「一応経産婦なので」
「ああ、赤ちゃんがおられるのですか?」
「もうすぐ2歳になりますよ。私自身もまだおっぱい出るし」
「へー」
 
などと会話を交わしたのだが、桃香は当然あとから2人になった時に
突っ込んでくる。
 
「千里、やはり一度子供を産んだのか?」
「内緒」
「それ誰の子供なの?」
「内緒」
「その子、私には見せてくれない?」
「その内ね」
「やはり千里って男の娘だったってのは嘘だよな?」
「私のちんちん何度も触ったじゃん」
「いや、あれはたぶんフェイクだ」
 
実際千里はまだけっこうおっぱいが出るので桃香にも言われて随分早月に授乳した。結果的に早月はほとんどミルクを飲まずに、桃香と千里の2人の母乳だけで育った。
 

その春、テレビでは「話題の魔術師」レフ・クロガーの来日が報道されていた。アメリカで行ったマジックショーの動員が昨年1年間で30万人を突破。向こうのテレビでも何度も特別番組を組んでスタジオで華麗なマジックを披露していた。その彼が1ヶ月間にわたり、日本全国10ヶ所で公演をするのである。
 
彼のマジックは専門家の間でも「どうやっているのか全く想像が付かない」と言われ、実は手品ではなく魔法なのでは?という噂まで立っていた。実は人間ではなく宇宙人か、未来人か、ひょっとしたら悪魔なのではと言い出す人もあるほどであった。
 
「ちー姉、レフ・クロガーをどう思う?」
とその日青葉は千里に訊いた。
 
「どうって?」
「あれ本当に手品だと思う?」
「さあ、私は手品のことよく分からないから」
「じゃレフ・クロガーのオーラはどう見る?」
 
千里は少し考えてから答えた。
 
「人間のオーラには見えない」
「だよね。私もそうだと思うんだよ」
と青葉は厳しい顔で言った。
 
「あの人の周辺でさ、随分行方不明者が出ているみたいなんだよね」
「何それ?」
「噂では、あの人の秘密を知ろうとして消されたのではと」
「消すって、1,2,3,消えました!って?」
「うん。この世から消えちゃう」
「怖い手品だなあ」
「だからそれが本当に手品なのか」
 
「青葉さ」
「うん?」
「以前にも何度か言ったけど、火中の栗を拾ってると、その内大怪我するよ」
と千里は厳しい顔で言った。
 
「うん。肝に銘じる」
と青葉も答えた。
 

山川春玄は数日前に消息不明になった19歳の女性の霊的な探索を頼まれ、彼女の波動の残る所を探している内に、大きなイベントホールに辿り着いた。
 
何かのイベントが行われているようだ。何をしているんだろう?と思いながら、彼女の波動を追って裏手に回る。そして裏口から中に潜入できないかなと思った時、背の高い外人男性が若い21-22歳の日本人女性を伴って外に出てくるのを見る。反射的に山川はその後を追った。
 
ふたりは人気(ひとけ)の無い公園に来た。外人男性が女性を抱きしめる。ありゃ、単なるデートだったかと思い山川はその場を離れようとしたのだが、その瞬間、外人男性が山川の方を見た。
 
「Who?」
と男性が言った瞬間、そばに居た女性が
「きゃー!」
と悲鳴をあげた。
 
それで山川は女性が催眠術か何かにかかっていたのが、自分の存在をきっかけにそれが破れてしまったことを認識する。
 
女性が逃げ出す。外人男性はその背中を一瞥したものの、どうも山川を先に何とかしなければと思ったようである。こちらに来る。山川は柔道の構えをして対峙した。
 

「山川春玄さんが怪我したんですか?」
 
青葉は知人の霊能者・村元桜花からの電話でそれを聞き驚いた。
 
「彼は数日前に行方不明になった若い女性の行方を追っていた。実はさ、ここしばらく20歳前後の女性が突然行方不明になる事件が連続して起きているのよ。そしてその探索をしていた霊能者がもう彼で3人目」
 
「やられたんですか?」
「横浜の***さんは亡くなった」
「わぁ」
「京都の***さんは怪我はしていないんだけど、何か強いショックを受けたみたいで、心ここにあらずの状態なのよ。日常生活もひとりでできない状態」
「うーん・・・」
「そして春玄さんは意識不明の重体。医者の話では何とか命はとりとめそうだけど、後遺症とかが出るかもしれないと、春玄さんの妹さんから」
「何かとんでもないことが起きてますね」
 
「だと思う。もし青葉も行方不明者の捜索とか頼まれたら、できたら断って。もし受ける場合も絶対にひとりでは行動しない方がいい。ボディガードか何か雇わないと無理だよ」
 
「分かりました。情報ありがとうございます」
 

その日青葉は彪志とデートするために北陸新幹線に乗っていた。
 
いつもは愛車のアクアで東京まで往復するのだが、今朝からずっとパワーが奪われるような感覚が続いていて、長距離の運転をする自信が無かったのである。
 
でも誰が私のパワー使っているのかなあと考える。青葉が「鍵」を預けていて自分のパワーを自由に使える人物というのは、実質的な師である菊枝さん、お互いにライバルと意識している天津子、そして青葉が霊的な指導をしている真穂くらいである。真穂がこんなに大量に使うとは思えないので菊枝さんか天津子のどちらかだとは思うものの、どちらからも事前連絡などは無かった。
 
何かよほど緊急に本人のパワーが不足する事態があったのだろうか。
 
青葉のパワーが過度に消費されると、青葉がパワーを借りている千里姉までパワーを消費することになる。実際千里姉からは「何かあったの?」と電話がかかってきている。
 
千里−天津子−青葉−菊枝、というのは実は直接的または間接的にパワーを融通しあえる関係にあるのである。
 
そして青葉は11:50、東京駅の新幹線ホームに到着し、新幹線改札口の所で待っていてくれた彪志と合流して、とりあえず山手線に乗り換えようと通路を歩いていた。
 

菊枝は焦っていた。
 
まさかこんな強い相手とは思わなかった。青葉からパワーを借りることができなかったら死んでいたかも知れないと思いつつ、救急隊員に運ばれて救急車に乗せられた。
 
「意識レベルは明瞭」
「40歳くらいの男性です」
などと救急隊員が言っている。
 
ちょっとぉ!私まだ29歳だし、私そもそも女なんだけど!?
 
菊枝は文句を言いたい気分だったが、それを抗議する気力は無かった。そしてその時、意識の端で、青葉の気配が物凄い速度で近づいて来たのに気づいた。これは・・・新幹線だ。
 
青葉、今ここに着たら、あんたまでやられちゃうよ!!
 

その日千里(千里A)は日本代表の合宿中だったのだが、やむを得ない用事で一時外出し、そのあと道に迷って!東京駅まできてしまった。総武線のホームで降りてエスカレーターで上にあがっていく内に、何か異様な気配を感じる。
 
何これ?
 
千里はこれはやばいと考え、総武線ホームに戻って、いったん別の駅に待避しようと思った。
 
ところがその時、青葉の気配がずっと上方に出現したのを察知した。このくらいの距離だと、これは新幹線ホームだ。
 
千里はここは青葉を何としても守らなければと決意し、そのままエスカレーターで地上を目指した。
 

羽衣は興奮していた。
 
なんて素敵なの! これはかなりの上物だ。まあコウちゃんには比ぶべくもないけど、相当の使い手じゃん。
 
羽衣とその外人の距離は300mはある。これ以上近づいたらお互いに激突同然になる。羽衣はワクワクする思いで、その外人と対峙していた。
 
心配そうに傍で見守る天津子に
「危ないから手を出さないでよね」
と言って、じっと敵を見つめる。
 
その時、羽衣は近くでホームから男性が転落するのを見た。危ない!と思い、一瞬そちらに気をとられた。
 
そして「あっ」と思った時は、既に向こうから強烈な念の塊が飛んで来た。
 
羽衣は全力でその念弾から自分の身を守るしか無かった。羽衣が必死で作った霊的防御壁に、敵から放たれた念弾がぶつかる。それは凄まじい衝撃音となって、この音をその時1km四方くらいの人が聞いた。
 
敵は驚いている。
 
まさかこれを防がれるとは思っていなかったのだろう。
 
しかし羽衣も今防御したので全力を使い果たしてしまっていた。
 
敵は第2弾を放とうと集中を開始している。
 
そしてちょうどそこに、下からのエスカレーターに乗って千里がこのホームに登ってきた。
 
「あ、千里さん」
と天津子が言ったのを聞いて羽衣もそれに気づく。
 
「天津子ちゃんちょっと貸して」
と言って羽衣は愛弟子を自分の傍に引き寄せると、天津子と千里の間のコネクションを利用して千里からエネルギーを思いっきり引き出した。
 
そして得られたエネルギーをそのまま敵にぶつけた。
 

次の瞬間、敵が一瞬にして蒸発してしまったのを天津子は見た。
 
ひぇー。師匠ったら何つーパワー!!
 
と思ったのだが、その時、エスカレーターから登ってきた千里がフラっとして気を失い倒れるのも見た。
 
「千里さん!」
と叫んで天津子は千里のそばに駆け寄る。
 
え!?
 
そこに横たわっているのは、どう見ても《死体》である。
 
千里さん!嘘!?死んじゃった?
 
天津子が焦っていた時、ちょうどそこに青葉と彪志が寄ってきた。
 
「ちー姉? 天津子ちゃん!?」
「青葉! どうしよう。千里さん死んじゃった」
 
青葉はじっと千里を見ると、いきなり右足を持ち、数回振るように動かした。
 
千里が目をぱちりと開け、むっくりと起き上がる。
 
天津子は「きゃっ」と言って腰を抜かした。
 
しかしそんな天津子が目に入ったのか入ってなかったのか、千里は少し離れたところでホームの端に人が集まっている所に駆け寄る。
 
千里はホームの下に男性が落ちて倒れ、骨折でもしたのか起き上がれずにいるのと、ここに電車が物凄い速度で迫っているのをほぼ同時に認識した。
 
「どいて」
と言って人混みを掻き分けると、千里は線路に飛び降りる。そして倒れていた男性を抱え上げると、隣の線路に一緒に待避した。
 
その直後、急ブレーキを掛けた電車がそれでも凄い速度で入って来て、千里たちの横をかなり行きすぎてから停止した。
 

東京駅で凄まじい衝撃音があったことについては、何か爆発物でもあったのではということで警察が捜査したものの、何かが爆発したような跡は見当たらなかった。爆発音のあった場所から300mほど離れた付近で激しい発光現象があったことが当時ホームに居た人たちの証言で分かったものの、この発光現象についても何だったのかは不明であった。
 
レフ・クロガーはその日を境に消息を絶ってしまった。どこかの国の諜報機関が拉致したのではとか、逆に本人がどこかの国に自主的に亡命したのではといった噂が立ったし、警察やインターポールも捜索をしたものの彼の行方はつかめなかった。ただ、彼の部屋からここしばらく行方不明になっていた複数の女性の所持品が見つかり、彼がその失踪事件に関わっていたことが推察された。
 
そして実はクロガーに関しては女性大量誘拐殺人の疑いでFBIが捜査中であったことを複数の報道機関がすっぱ抜いた。
 
クロガーの一座の団員が日本の警察とFBIに事情聴取された結果、彼が行方不明になった女性たちとデートしていたことが判明した。しかし行方不明になった女性の所在は分からないままであった。
 
ただひとり、クロガー一座の公演に数回出演したエキストラの女性がクロガーに誘われて一緒に外に出たが、襲われそうになったので逃げたということを証言した。彼女は自分をかばってくれた男性があったので助かったと言い、調査の結果、それが重傷を負って静岡県内の病院に入院中の霊能者・山川春玄であることが判明した。
 

千里が線路に飛び降りて助けた男性は川島信次と名乗った。線路で動けずにいたので千里は骨折でもしたのかと思ったのだが、実際には軽いねんざをしただけであった。あの時はもう気が動転して動けなかったということで、千里に深く感謝していた。
 
「でも村山さん、凄く太い腕ですね。スポーツか何かしてるんですか?」
と信次は訊く。
 
「ええ。趣味程度ですけど、バスケットしているんですよ」
「僕、女性の腕フェチなんですよ」
「へー!」
「こういう太い腕が大好きなんですよ」
 
「変わった趣味をしていますね」
と千里も微笑んで言った。
 

千里は信次を助けた後、連絡先を教えて欲しいという彼の要請に応じて携帯の番号を交換した上で「用事があるので」と言って立ち去ったものの、この騒動のおかげで合宿の集合時間に遅刻してしまった。更に千里は試合で精彩を欠き、代表落ちを通告される。
 
宿舎の荷物を青葉に手伝ってもらってまとめ、退出する。一緒にアパートに戻るものの、青葉は千里の「雰囲気」が変化していることに気づいた。
 
「ちー姉、私の後ろに居る雪娘が見えるよね?」
「雪娘?何かお菓子の名前?」
「・・・・ゆう姫は見えるよね?」
「何のこと?」
 
千里はとぼけているのではなく、どうも本当に見えないようだと青葉は認識する。
 
青葉はハッと思い、自分の心の中から秘密兵器の《鏡》を取り出す。そしてそれで千里の下腹部をサーチしてみた。
 
子宮と卵巣がある!?
 
じゃ、ちー姉って男の娘だってのは嘘で、実は天然女性だったのだろうか??そんなことを考えた時《ゆう姫》が青葉に言った。
 
『この子、巫女の力を失っている』
『え〜〜!?』
『青葉、おまえには今、千里の子宮や卵巣が見えるだろ?』
『はい』
『偽装したままの状態で霊的なパワーが消えてしまったから、それで固定されてしまっただけだよ。この子宮や卵巣はMRIにも写るだろうけど、実在はしない』
 
『じゃこれが偽装なんですか?』
『千里が男の娘だってことは知っている癖に』
『でも細川さんにしても、天津子ちゃんにしても、ちー姉が天然女性だと言うから、私も自信が揺らいでいたんですよー』
 
『まあこの子のパワーが凄まじかったから』
『どうも天津子ちゃんに聞くと、天津子ちゃんのお師匠さんが緊急事態でちー姉のパワーを借りたみたいなんですよ。それを取り過ぎたんで一時仮死状態になってしまったみたいで。ちー姉のパワーはどのくらいで回復しますか?』
 
青葉のその問いに対して《ゆう姫》は答えた。
 
『青葉、ショックかも知れないが良くお聞き。この力の喪失は不可逆だよ。もうこの子は霊的な力を行使することは今後無いだろう。この子は仮死状態じゃなくて本当に死んでいた。青葉が蘇生させられたのだけでも奇跡』
 
青葉はその言葉を聞いて青ざめてしまった。
 

千里の守護に関して、後ろの子たちの意見が割れた。
 
千里が倒れた時、その余波で?千里と後ろの子たちのコネクションが外れてしまった。それで彼らは今千里と会話ができない状態にあった。
 
『千里は一度死んだ。俺たちは千里が死ぬまで千里の守護をしろと命じられていた。出羽に帰るべきだと思う』
と《こうちゃん》は主張する。
 
『おまえそれでいいの? だっておまえがいちばん千里になついていたじゃないか』
と《りくちゃん》は言い、千里は生き返ったのだから、自分達の守護はそのまま継続すべきであると主張した。
 
いつも冷静な『たいちゃん』がかえって千里の元に残るべきだと主張するのに対して、いつも千里の面倒を見ていた『いんちゃん』は自分達は命令を守るべきだとして出羽への帰参を主張するなど、意見の出方はふだんの千里との関わりの深さとは無関係に出ている感じであった。
 
『結論が出ません。騰蛇さん決めてください』
と、議長役と化していた《きーちゃん》がリーダーの《とうちゃん》に言う。
 
『おまえら、千里のこと嫌い?』
と《とうちゃん》が全員に尋ねる。
 
『好きです』
とみんな異口同音に言う。
 
『私もたくさんの宿主に付いたけど、こんな面白い宿主は初めて』
などと《びゃくちゃん》が言う。
 
『確かに面白いな』
と帰参を主張していた《こうちゃん》も言う。
 
『千里のパワーは実際問題として俺や六合の力を越えていた。俺が逆に千里に助けられたこともあった』
と《こうちゃん》。
 
『だったら3年待たないか?』
と《とうちゃん》は提案した。
 
『3年の内に千里が自分自身で俺たちや出羽のことを思い出して、美鳳さんのもとに行ったら、たぶん美鳳さんは俺たちを千里の守護として再任すると思う。まあ解任されたらその時だけどな。もし3年以内に千里が出羽に辿り着けなかったら、その時は俺たちは千里から離れて自主的に美鳳さんの所に帰参する。何百年も生きて来た俺たちにとって3年くらい、ほんのちょっとの間だしさ』
 
『まあ3年くらい適当なメスをナンパしてる内に時間が経つな』
などと《げんちゃん》が言っている。
 
『じゃ取り敢えず3年間は千里の守護継続』
ということで、12名の眷属たちは合意した。
 

青葉と彪志は千里を送り届けた後、夕食を4人で一緒に取ってから彪志のアパートにタクシーで戻って行った。
 
翌日。
 
千里は桃香に朝御飯を作って食べさせ、早月にもおっぱいをあげてから一度用賀の自分のアパートに戻る。そして自分は仕事に出かけようと思い、あれ?と思った。
 
私、どこに行けばいいんだっけ?
 
考えてみる。
 
私、二子玉川のJソフトに勤めているSEだよね?だから会社に行くよね?でも私ってバスケット選手だよね? 日本代表からは落とされたけど、レッドインパルスの練習に行かないといけないし、練習に行く前に、雨宮先生から頼まれている作曲もしなくちゃ。だから、午前中カラオケ屋さんかホテルにでも行って部屋を借りて作曲作業をしてその後、お昼くらいからレッドインパルスの練習場所に行けばいいんじゃないかな?
 
あれ〜!?でもそしたら会社の方はどうすればいいんだろう???
 
千里は毎日川崎に行き、レッドインパルスの練習をしていた記憶が明確にあった。しかし二子玉川に行ってJソフトでお仕事をしている記憶もまた明確だった。
 
私が2人いるんだったりして!?
 

そんなことを悩んでいた時、玄関のピンポンが鳴るので出ると、天津子ともうひとり56-57歳くらいの女性である。
 
「天津子ちゃん、おはよう」
「千里さん、ちょっといい?こちらは私の師匠の羽衣」
「初めまして。汚い所ですが、どうぞ」
 
と言って千里はふたりを部屋に上げる。
 
この時、天津子はこれまで何度かここに来ていたので平気だったが、羽衣は玄関の両脇の柱に貼ってある、阿字・吽字の梵字にギクッとした。
 
何?ここ? ここ人の住まいじゃなくて神様の住まいだよぉ! そう考えた瞬間、羽衣には千里の「正体」が分かってしまった。
 
千里はふたりに座布団を勧め、とりあえずお茶を出した。冷凍していたクッキー生地をオーブンに入れて加熱スイッチを押す。
 
「羽衣さんってお名前は聞いていたのですが。なんか凄い方だと伺っていましたが、本当に凄い方みたいですね」
と千里は笑顔で言った。
 
天津子は千里を見ながら言った。
 
「千里さん、師匠の凄さが分かる?」
 
「だって何といえばいいのかなあ。醸し出している雰囲気みたいなのが尋常じゃないですよ。そうだ。昔青葉がお世話になったものの、もう4年前に亡くなった瞬嶽さん。あの方と同じくらい凄いです」
と千里は笑顔で言う。
 
「千里さん、ちゃんとオーラが見えてるんだ?」
と天津子が言うが
 
「いや、見えてない」
と羽衣は厳しい顔で言った。
 
「オーラの見える人には私や瞬嶽のオーラは見えない。今千里さんは普通の霊感人間程度の状態になっている」
 
「やっぱり昨日の副作用でしょうか」
と天津子が心配そうに言う。
 
「昨日?何かありましたっけ?」
と千里。
 
「千里さん。私は謝らなければならない。昨日凄まじい敵と対決をして。その時、私は不覚にも自分のパワーをうまく使いこなせなくて、千里さんのパワーをお借りしたのです。でもその時、千里さんからパワーを引き出しすぎてしまって、あなたいったん死んだんですよ」
 
「私死んだんですか?じゃ、私幽霊?」
 
「ちょうどそこに来た青葉ちゃんが、まだあの世にあなたの魂が旅立つ前にあなたを蘇生させたので、あなたはまだ生きています」
 
「わあ、私、青葉のおかげで助かったんですか?」
 
「ええ。でも死んでしまった時にあなたの色々なものを壊してしまったみたいで。私、ちょっとあなたのお師匠さんに叱られちゃって」
 
「私の師匠??誰かな?」
 
「ああ。やはりそれも忘れてしまっているのね。それで私、頑張ってあなたの《羽衣》を治すから、2年待ってくれない?」
 
「2年?」
 
「もしかしたらもう少し早く直せるかも。でも私があなたの《羽衣》を治し終わった時、たぶんあなたは自分のお師匠さんの名前を思い出せると思う」
 

千里は話が見えなかったが、その時オーブンが加熱終了の音を鳴らす。それで千里は焼きたてのクッキーを皿に並べて持って来た。
 
「美味しい」
と天津子が声を出す。
 
「千里さん、旭川に居た頃より上手になってる」
「あの頃も楽しかったね。天津子ちゃんが最初まるで男の子みたいだったのがどんどん女らしくなっていったし」
 
「あの頃、私、千里さんが男の娘だなんて言うから、すっかり欺されましたよ」
「私、男の娘だけど」
「またそんな嘘を言って。だいたい千里さん2年前に京平君を自分で産んだじゃないですか」
 
と天津子が言ったが、突然京平の名前を出されて千里は涙が出てきた。
 
「あれ自分でもよく分からなかったの。京平って結局、私が産んだの?」
 
「そうですよ。でもあれは上手にあなたのお師匠さんが調整して、そのことをほとんどの人が気付かないようにしてたの」
と羽衣は優しく言う。
 
「実際、京平君にお乳をあげてたでしょ?」
と羽衣。
 
「いっぱい搾乳した。その搾乳したお乳がいつの間にか消えてるの。ひょっとしたらこれ京平が飲んでくれているのかなとは思ってた」
と千里。
 
「うん。京平君が飲んでたんだよ」
「そうだったのか」
と言ってから千里は寂しそうな顔になる。
 
「羽衣さん、私、いつか京平と暮らせるでしょうか?」
と千里が涙顔で尋ねると
「まあなるようになるよ」
と羽衣は言う。
 
そして羽衣は、千里に小さなストラップを渡した。
 
「千里さんこのストラップを持っていて下さい。これがあなたを今から2年間導きます。このストラップの言う通りしていたら、あなたはうまくやっていけるはずです」
 
「言う通り?」
と千里がそれを受け取りながら、首をかしげて尋ねると
 
「俺、ヤマゴ。よろしくな」
とストラップがしゃべるので、わっと思う。
 
「その子のしゃべる声は千里さん以外には聞こえないから」
と羽衣は言った。
 

「そうだ。千里さん、今千里さんはパワーをあまり貯められないみたいだけど、昨日の御礼に私のパワーを少しだけ分けてあげるね」
と天津子は言うと、千里の手を握ってしばらく目を瞑っていた。
 
「なんか私、今、凄く元気になった気がする」
と千里は言った。
 
そしてそれから千里はハッとするように言う。
 
「あのぉ、羽衣さん」
「はい?」
「私、てっきり羽衣さんのこと、女性と思っていたのですが、男性だったんですね?」
 
「へ?」
「だって、おちんちん付いてますよね?」
 
「ああ、これか?」
と羽衣は困ったような顔をして言った。
 
「でもあんたさっきまではこれ見えなかった?」
「ええ。今天津子ちゃんに何かエネルギーみたいなの頂いたおかげで見えるようになった気がします」
 
「実は***の法を使って、性転換して女になろうとしていて、途中で集中を乱してしまって、性転換を完了させられなかったんだよ。それでこういう中途半端なことになってしまって」
と羽衣。
 
「あ、女性になりかけですか?」
「そうそう。1年しないと***の法は再度は起動できないし。誰か他の人にやってもらう手はあるけど、***の法なんて、持ってそうな人を知らないんだよね」
 
(**の法の使い手として虚空がいることは当然羽衣も認識しているが、ライバルなので、意地でも虚空には頼りたくない)
 
「他の人にならできるんですか?」
「うん」
 
「羽衣さん、私の服の中に手を入れて左の10番目の肋骨に触ってください」
「ん?」
と言って羽衣はそこに触って来たが
「あ!」
と言う。
 
「ここに瞬嶽師匠がコピーした***の法が入っているので、これを利用できませんか?元々は戦前に活躍した凄い霊能者さんが持っていたものらしいんです。瞬嶽師匠はそれを単純コピーしたらしくて」
 
「ああ。それは誰か見当が付く。じゃ借りる」
 
と言って羽衣は千里の《データベース》を使用して***の法を再実行した。秘法は約15分で完了した。
 
「うまく行った気がする」
と言って羽衣は自分のお股を触っている。
 
「やった!ちんちん無くなった!嬉しい!!」
「良かったですね」
と千里。
「師匠、ついでにまた若くなってる」
と天津子が言う。
 
確かに羽衣はさっきまで56-57歳くらいかなという外見だったのに、今は50歳前後くらいに見えるのである。
 
「うん、この法って性別も変わるし、年齢も若くなるんだよ。実を言うと若返りの方が主で、性別変更がおまけ」
 
「師匠、おいくつでしたっけ?」
「私も忘れたぁ。まあコウちゃん(瞬嶽)よりはずっと若いよ」
「100歳は越えてますよね?」
 
「内緒。いや、ここしばらくは女の外見なのに変なものが付いてるから、男とも女ともセックスできなくて困ってたんだよ」
と羽衣は喜んで言っているが、天津子は渋い顔をしている。
 
「羽衣さんはそっちの方がお好きなんですね」
「そりゃそうだよ。セックスがパワーの源。肉食うのもいい。コウちゃんは霞ばかり食べてたから早死にしたんだと思うなあ。やはりタンパク質が身体を作るんだよ」
 
早死にしたと言っても瞬嶽は1886年生・2013年没で享年128である。
 
「お肉はいいけど、男女関係が乱れているのが師匠の唯一の欠点だと思うなあ」
などと天津子は言っている。
 
「天津子ちゃんもこれ覚える?天津子ちゃんこれを修める条件を満たしてる。時々性別変えるのっていいよ。男湯にも女湯にも入れるって楽しいから」
 
「別にいいです」
「自分で性転換しなくても、誰か性転換させたい人がいたらその人にも使える。ただし1度使うと次は1年後まで使えない」
 
「まあ確かにコロコロ性別を変えてたら世の中混乱しますね」
「そうだね」
「個人的にはレイプするような男を片っ端から女に変えてしまいたい気はするな」
「ああ、それはいいことだ。じゃ教えてあげるよ。あるいは千里ちゃんから直接コピーする手もある」
「一応師匠から習うことにします」
「OKOK」
 

羽衣たちと千里は1時間ほど話したが、帰り際羽衣は言った。
 
「じゃ幸せになってね、千里さん。昨日はあなたがいなかったら私も死んでいたし、他にももっとたくさんの犠牲が出るところだった。あなたは日本をいや世界を救ったのよ」
 
「私、そんな大したことしたのでしょうか?」
「うん。その上、私をちゃんと女にしてくれたから。もう感謝しても、し尽くせないよ」
 
「私は自分ができることをしていくだけです」
 
「あ、そうそう。色々してもらって悪いけど、私たちがこのドアを閉めてから5秒後に今日私たちと会った記憶は消滅するから」
 
「へ?」
「グッドラック!」
と言ってから羽衣はドアを閉めた。
 
千里は首をかしげながらその場に立っていたが、5秒後、自分がなぜここに立っているかが分からなくなっていた。
 

「千里、キーボードとパソコンとバスケットの道具を持って出かけなよ。そして適当なカラオケ屋さんに入って、頼まれていた楽譜を書きなよ」
と《ヤマゴ》が言った。
 
「会社には行かなくていいの?」
「そっちは何とかなるから。千里はたまーに会社に出るだけでいいんだよ」
「ふーん。ま、いっか。でもなんであんたしゃべるんだっけ?」
 
「千里は色々なものと会話できるはず」
「へー」
「まあ、ゆるゆると少しずつ思い出せる時がきたら思い出すよ」
 
千里はこのストラップ自体をどこで入手したのだろうと疑問を感じたものの、取り敢えず作曲用のお道具と、バスケット用のお道具を用意し、戸締まりしてアパートを出ると近所の駐車場に駐めているミラに乗り込んだ。
 

千里は結局その日はお昼までカラオケ屋さんで作曲の仕事をし、午後からレッドインパルスの練習に行こうかと思ったのだが、キャプテンから電話が掛かってきて、体調が悪いみたいだから、少し休養して7月13日の朝からチームに合流するよう言われた。しかし身体を動かさないのは気持ち悪いので、都内の体育館に行き軽く汗を流した後、スタバに行って、音楽の作業を継続した。
 
夕方帰宅したが、私、会社に出なくていいのかなあとも思う。《ヤマゴ》は「そちらは何とかなる」と言っていたので、自分もそう考えることにした。
 
でも私ってプログラムなんて書けないのに、どうしてソフトウェア会社なんかに勤めているんだろう?とそれも不思議に思った。
 
そういう音楽中心で軽く運動を入れる生活を1週間ほど続けたある日、カラオケ屋さんで楽曲の編曲作業をしていたら、《ヤマゴ》が
 
「移動するよ」
と言った。
 
「どこに?」
「見れば分かるから、これから1時間くらいJソフトのお仕事して」
と言う。
 
「私、何すればいいの?」
「システムの提案」
「へ?そんなの私分からないよ」
「分かる範囲で話せばいいんだよ」
「ふーん」
 

そんなことを言っていたら、唐突に自分がどこかのオフィスビルのような所にいるのを認識する。自分の身体を見ると、なんだか女性用のビジネススーツのようなものを着ている。
 
あれ〜? 私なんでこんな格好でこんな所に居るの?
 
と思ったものの
「村山君、どうかした?」
と隣に居る人物が話しかける。あっと・・・・この人は確かJソフトの社長の山口龍晴さんだ。こないだまで専務だったが、6月から社長に就任した。前の社長は会長に退いている。
 
「あ、はい。何か忘れ物してなかったかなと思って」
「うーん。まあ忘れていた時は忘れていた時だな」
 
そう言って社長がノックをして事務所の中に入る。
 
「お世話になります。Jソフトウェアと申します。支店長様はいらっしゃいますか?」
と山口社長が言う。
 
すると
「はい。伺っております。こちらでしばらくお待ち下さい」
と言われて、応接室に通されお茶が出るが、2人ともまだ手をつけない。2〜3分で男性が2人入って来た。
 
「お世話になります。支店長の毛利と申します。こちらは今回の担当となります川島です」
と言って、ふたりが名刺を出すので、山口社長と千里も立ち上がって名刺を出す。それで挨拶しようとして、千里は
 
「あっ」
という声を出した。川島信次も同様に
「あっ」
という声を出していた。
 
「何何?どうしたの?」
「もしかして知り合い?」
 
「いや、先日ちょっと東京駅で出会って」
と千里。
「電話番号だけ交換したのですが」
と信次。
 
「え?まさか恋人同士?」
と毛利支店長さんから言われて、信次は「いやその・・・」と焦ったような顔をし、千里もいきなり「恋人?」などと聞かれて、頬を赤らめてしまった。
 
そしてこの瞬間、千里が僅かに残っていた霊感のほとんどを喪失したことを千里は全く意識していなかった。
 

千里は毎日適当な体育館で2時間程度の練習をしていたのだが、明らかに自分のバスケ能力が落ちているのを感じた。そこで7月13日にチームの練習場に行った時、2軍に落として欲しいと申し入れた。しかし今年は既に選手登録の期限が終わっていて移動ができないというので、66,村山十里という名義をつくり、それを二軍選手名として登録することにした。それで以降千里は川崎の1軍練習場ではなく、横浜の2軍練習場に行って練習をすることにした。
 
千里はこのあと翌年の春に名古屋に引っ越すまで、だいたい午前中は横浜でバスケ練習、午後からは音楽制作、という生活を続け、時々突然Jソフトの社内や、信次の会社に移動するということを体験していた。唐突に自分の居場所が変わることについて、千里は最初は不思議に思ったものの、その内あまり気にしなくなった。
 
Jソフトの仕事に関してはどうも自分は打ち合わせにだけ出ればいいようだと分かったので、用意されている資料を見ながら主として信次と2人で打ち合わせすることが多かったが、信次があからさまに自分に好意を示し、何度もデートに誘うので、千里はその扱いに困っていた。
 
取引先の担当者をムゲにはできないものの、自分は桃香と実質結婚している状態だし、まだ貴司のことも思い続けていた。貴司とは6月15日にどこか(市川だったのだが現時点では忘れている)でデートしたのが最後で、その後は会っていない。
 

ところで千里(千里A)が実際には音楽活動とバスケの練習の日々を送っている間、Jソフトの方には《きーちゃん》:千里Bと《せいちゃん》:千里Cが代わりに出社してシステム設計やプログラミングの仕事をしていた。信次との打ち合わせにしても、全体的な話やシステム導入計画などの話は千里Aがしていたものの、細かい仕様については千里Bや千里Cがしていた。
 
つまり信次は実は千里A・千里B・千里Cの3人と接していて、その微妙な性格の差にドキドキし、それがまた信次の恋心を刺激していた。
 
特に千里Cは実際には《せいちゃん》の女装なので、元々「男らしい女」や性別曖昧な子が好きな信次はこの千里Cにかなり魅せられていったのである。信次がいちばん興味を引かなかったのは純粋女性である千里Bである(信次は実は純女恐怖症なので、多紀音にはそもそも全く関心を持てなかった)。しかしこれらの「落差」は恋の「押したり引いたり」の状況を作り出していた。
 
『信次君って青龍のことがいちばん好きみたいだね』
と《きーちゃん》も言う。
『あんたが信次君と結婚してあげたら? 千里はやはり貴司君忘れきれないみたいだし』
 
『俺は男と結婚する趣味はねー』
『性転換したら?』
『せいてんかん〜〜!?』
『ちょっと手術してちんちん取っちゃえばいいじゃん』
『やだ。絶対やだ』
『別にちんちんなんて無くてもいいのに』
 

そして9月。信次は千里との打ち合わせが終わった後、少し話したいと言って千里を近くの喫茶店に誘った。千里はその「話」とは「恋人になって欲しい」ということだろうと想像が付いたので気が進まなかったものの、仕事の関係上断る訳にもいかないので喫茶店に付いていった。
 
そしてその場で信次は千里にプロポーズした。
 
千里は「恋人になって欲しい」ではなく、一足飛びに「結婚して欲しい」と言われたことに戸惑った。その場ではビジネスが絡むので自分ひとりでは決められないので上司と相談して回答すると答えた。
 

千里から事情を聞いた山口社長は大いに困った。それで千里に申し訳無いが、君が元男性であったことを先方にカムアウトして欲しいと言った。千里もそんなことをするのは嫌だったが、自分の性別について告知しないまま結婚することは許されないので、社長と一緒にその話をしに行った。
 
するとこちらが社長を伴って出て行ったので、向こうも信次だけでなく支店長も同席することになってしまった。
 
こんな場所で自分の性別のことを言わないといけないのかと千里はもう、逃げだしたい気分だったものの、仕方ないので
 
「私は生まれた時は男性だったのを5年前に性転換手術を受けて女性に生まれ変わりました。ちなみに戸籍は既に女性に訂正しています」
とその事実を告知した。
 
すると信次はさすがに驚いたようで、しばらく考えさせてくれと答えた。
 

千里は当然信次はプロポーズは取り消すと言ってくると思っていたのだが、信次は翌日連絡してきて自分の回答を言いたいと言った。それでまた山口社長・千里、信次と毛利支店長の4人での話し合いがもたれた。
 
ここで信次は千里が元男性であったとしてもやはり結婚したいと言った。千里はそんなのそちらの親御さんが認めるわけありませんよと言ったのだが、彼は親は説得すると言った。
 
そこまで言われると千里も断る理由が思いつかず、千里は彼のプロポーズを受け入れてしまった。
 
ただこの時点ではまだ千里は、彼はああ言っているけど、たぶん実際には親の説得は無理だろうと思っていた。
 
ただ彼とのデートはしていた。4回目のデートではとうとうホテルに行ってしまった。
 
千里は「桃香ごめん、貴司ごめん」と心の中で言いながら、ベッドに入って目を瞑った。
 
彼がベッドに入ってくる。直接入れようとするので
「悪いけどコンちゃん付けてくれない?」
と要求した。
 
「あ、ごめんごめん。妊娠はしないだろうからいいかなと思ったんだけど、やはり付けた方がスムーズに入るのかな?」
などと言って付けてくれた。
 
「結婚したら生でもいいよ」
と千里は取り敢えず言っておく。
 
それで信次とセックスしてしまったのだが、千里にとっては実に5年ぶりの男性とのセックスになった(と本人は思っている)。千里は貴司が阿倍子と婚約して以来、彼とデートはするものの、セックスは断固拒否していたのである(でも何度か許したことを今は忘れている)。
 
えーん。私の方が浮気しちゃったよ。
 
と思いながらも、久しぶりのセックス自体は心地良く感じた。桃香とのセックスでは味わえない感覚がある。私ってやはりレスビアンではなくヘテロなんだろうな、と千里は再認識した。
 
信次は「僕腕フェチなんだよね」と言って、随分千里の腕を触っていた。
 
「こういうたくましい腕に参っちゃうんだよ」
などと言っていた。
「それ最初から言ってたね」
と言って千里は微笑んで信次が千里の腕をなでなでするのを見ていた。
 
信次は千里の乳首も吸ってくれたが、そこから液体が出てくるので驚く。
 
「千里ちゃん、おっぱいが出るの?」
「あ、それ私ずっと女性ホルモン飲んでるから、その副作用でお乳も出ちゃうことがあるみたい」
「へー。これもっと吸ってもいい?」
「いいけど、美味しくないでしょ?」
「いや、千里ちゃんのおっぱいなら美味しいよ」
 
と言って信次はたくさん千里のおっぱいを吸っていた。
 
男の人って赤ちゃんになりたい願望があるのかなあと千里はその様子を眺めていた。そういえば貴司も時々私と抱き合いながら赤ちゃんことばになってるしなと、と千里は信次に抱かれながらも貴司のことも考えていた。
 
あ、これがジュディ・オングの歌にあった
「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」
ってやつかな??
 
でも私けっこう信次のこと好きになってきたかも!?
 
えへへ。私の初恋の人・(青沼)晋治と同じ名前の読みだしね〜。
 

信次の母親の承諾は偶然のいたずらで取れてしまった。
 
信次の母・康子が何と千里がたまに出ていた茶道教室の生徒さんで、しばしば彼女は千里にうちの嫁になってくれない?と言っていたのである。康子は千里が元男性であったというのにショックを受けていたものの、元々千里のことを気に入っていたので、ふたりの結婚を認めてくれたのである。
 
千里は絶対、親の承認がとれるわけないと思っていたので、承認されてしまったことに衝撃を覚えた。
 
えーん。これ結婚せざるを得ないじゃん。どうしよう!?
 
それで千里は桃香のアパートに戻ると桃香に土下座して謝った。
 
「何〜〜〜?結婚するだとぉ?」
と桃香は当然のことながら激怒する。
 
しかし取り敢えず「一戦交えた」上で、桃香は条件を出した。
 
「私と交換した指輪は持っていて欲しい」
「うん。それはずっと持っているよ」
「私ともずっとセックスを続けること」
「ごめーん。それは勘弁して。不倫になる」
「千里、細川さんとも不倫してるくせに」
「う、う、・・・・」
「じゃキスだけでもいい」
「分かった。それで妥協する」
 
「早月におっぱいはあげること」
「うん。ちゃんとおっぱいあげるよ。私の娘だもん」
 
「1年したら離婚して私の所に戻って来ること」
「そんな無茶な!」
 
結局その件は1年後に再度話し合うということで桃香は妥協してくれた。
 

千里が桃香・貴司以外の新たな男性と結婚するという話を聞いて、青葉は当惑するような顔をしていたものの、桃香の母・朋子は喜んでいた。
 
「良かったね。お嫁さんにしてくれる人が出たんだね」
 
それで千里も貴司に職場気付けで、手書きの手紙を送り、自分も結婚することにしたので、今後はもうデートはしないようにしようと言った。千里は貴司との愛の証であった古い金色のストラップも手紙に同封して送り返したのだが、貴司は「結婚おめでとう」と言い、デートを控えることは同意するとも言った上で、このストラップだけはそのまま持っていて欲しいと言って送り返してきた。千里はその件については妥協することにし、再度机の引き出しにしまった。実はこのストラップは偶然にも桃香ともお揃いなのである。
 
また貴司のお母さんにも電話で連絡した。お母さんは
 
「貴司の曖昧な態度で悩ませて申し訳なかった。幸せになってね」
と言ってくれた。
 
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【女たちの羽衣伝説】(1)