【女たちの復活の日】(上)

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この物語は元々「クロスロード・復活編」として書いていたものなのですが、女の子シリーズの展開に必要不可欠な要素が入り込みすぎたので、その一環として公開することにしました。ただ元々が別の観点から書くつもりだったこともあり、時間的に「戦後処理」と前後する部分がありますし、視点があちこち移動しています。
 
年表-2020
 
2012.07.18 青葉と千里が性転換手術を受ける
2012.09.09 千里と桃香が密かに結婚式を挙げる
2013.07.06 貴司が阿倍子と結婚する(2012.07.08婚約)
2015.06.28 貴司の第1子京平生まれる(母阿倍子)
2016.05 政子の思い人・松山貴昭が露子と結婚
2016.07 和実と淳の第1子・希望美(のぞみ)生れる
2017.05.10 桃香の娘・早月誕生
2017.05.13 松山貴昭と露子の長女・紗緒里誕生
2017.09 千里と信次が婚約
2018.01 貴司が阿倍子と離婚し美映と結婚する。
2018.03.17 千里と信次が結婚
2018.03 上島雷太が不公正な土地取引で摘発される。翌年3月まで活動停止
2018.05.14 信次が名古屋支店に転勤になる。千里も翌日移動。
2018.07.04 信次死亡
2018.07 政子が妊娠を公表(あやめ)
2018.08.23 貴司の第2子緩菜(母美映)生まれる
2019.01.04 千里と信次の娘・由美誕生
2019.02.03 政子の第1子・あやめ誕生
2019.03.11 和実と淳の第2子・明香里(あかり)生れる
2019.03.31 上島雷太の謹慎解除
2019.04 冬子が絶不調に陥る
2019.04.29 千里が巫女の力を取り戻す。
2019.06.27 町添が社長に昇格
2019.06下旬 冬子が政子・あやめと一緒に宮古島を訪れる
2019.06.29 信次一周忌法要
2019.07.03 皆既日食
2019.09.08 貴昭と露子の次女・安貴穂誕生
2019.10 政子が大林亮平と交際開始
2020.01 政子が自宅敷地内に離れを建てる
2020.04 政子が大林亮平と別れる
2020.07.04 信次三回忌
2020.07.24-8.09 東京五輪
2020.10.18 政子が第2子大輝(父は大林亮平)を出産。

 
クロスロードの《初期メンツ》で最年長なのが淳とあきらであった。ふたりとも1981年の生まれである。そして最後に性転換手術を受けたのも、このふたりであった。
 
あきらは奥さんの小夜子との間に、2011,2013,2015,2017ときれいに2年おきに4人の娘を作った。特に性別コントロールもしていないのに4人とも女の子だったというのは驚異的だが
 
「やはり私が男としては性的に弱いからだよ」
などと、あきらは言っていた。
 
一般に女性が充分感じる状態まで行ってから射精すると男の子が生まれやすいと言う。
 
そしてあきらは4人目の娘の育児が一段落した2018年暮れに性転換手術を受けた。むろん小夜子との婚姻維持優先で、戸籍上の性別は変更しない。
 
また、あきらが性転換しても、ふたりの夫婦生活はほとんど変化は無いなどと小夜子は言っていた。2011年の時点で「おちんちんの型取り」もしていたので3Dプリンタで作った《まだかなり元気な頃のおちんちん》を使ってふたりはかなり遊んでいたらしい。ジャンケンで負けた方が入れられる側、なんて遊びもずいぶんしていたという。
 
2013年の子作りまでは実際のセックスで受精させたものの、2015,2017の子作りは、もう《本物のおちんちん》は使用不能になっていたので人工授精したものである。あきらのおちんちんは2016年頃までは、勃起はしないものの射精は可能だった。最後の子供が生まれた2017年頃は射精もできなくなっていたので、ここで結果的に打ち止めとなり
 
「役に立たない、おちんちんは取っちゃおう」
と小夜子から唆されて、あきらは性転換手術に踏み切るのである。
 

「その希望美(のぞみ)ちゃんができた経緯がよく分からないんだけど?」
と和実は冬子から訊かれた。
 
「和実から卵子が採取できたって、和実って本当は半陰陽だったの?」
とあきらからも尋ねられる。
 
「私の場合、ハイティング陰陽だと思うんだよね」
と希望美におっぱいをあげながら和実は答えた。
 
「何それ?」
「私って性転換前に何度かMRI撮られた時、2つの病院で1回ずつだけ卵巣と子宮・膣が写っているのよね」
 
「写る時と写らない時があるわけ?」
「つまり、たまに出現する?」
 
「私の性転換手術をした松井先生はそう思い込んでいたみたい。でも私の卵巣や子宮というのは、あるタイミングで出現するのではなくて常にハイティング代数的に存在しているんだと思うんだ」
 
「意味が分からないんですけどー」
 
「ある命題Aがあった時、Aであるか、Aでないか、どちらかが必ず成り立つという論理学の基本的な定理があってこれを排中律という。つまりAであるというのとも違うし、Aでないというのとも違うという曖昧な状態は無いということ」
「ごめん、もう挫折」
 
「排中律は19世紀までは素朴に信じられていたのだけど、集合論の研究が進んだ20世紀初頭には、どうも排中律は怪しいぞということになってきた」
「できるだけ分かりやすく説明して欲しいんだけど」
 
「人間はそれまで神様みたいな論理を考えていたんだよ。物事は真であるか、偽であるか、全てどちらかであるって。でも実際には世の中本当か嘘かさっぱり分からないものが多いじゃん」
「確かにそれはそうだ」
 
「神様なら全て真か偽か分かるかも知れない。でももっと人間的な論理を考えようよといって提唱されたのを直観論理という。具体的には人間には有限の時間しかないから有限の操作で可能なことだけを考えることにした。無限の操作を経ないとできないものまで考える従来の論理学を古典論理という」
「へー。じゃ現代はその直観論理で理論が組み立てられているわけ?」
 
「ううん。直観論理で考えた場合、近代解析学や近代物理学のほとんどの結果が否定されてしまう」
「うーん・・・・」
 
「それで古典論理を代数化したものがブール代数、直観論理を代数化したものがハイティング代数なんだよ」
 
「ブール代数は聞いたことあるな」
「直観論理はそれまでの考え方とあまりに違っていたので、支持する人がほとんどいなかった。でもハイティング代数で表されるということが分かってから支持者が増えたんだよ」
「ほほぉ」
 
「そしてハイティング代数の面白いことは、ハイティング代数上ではちゃんと排中律が成り立つことなんだよね」
「へ?」
 
「私が女であるか、女でないか。古典論理的には、そのどちらかしかないはず。でも直観論理的には、女であるというわけでもなく、女でないというわけでもないという、曖昧な状態が許容される」
「うん。そちらの方がむしろ納得いく気がするよ」
 
「だけどハイティング代数上では、『女である』も『女でない』も成り立たない状態が許容されるにもかかわらず、『女であるか、女でないか』という命題はちゃんと真になるんだよ」
 
「ごめん。結局分からなかった」
 

具体的に和実の卵子採取はこのようにして行われたらしい。
 
ごく稀に和実の卵巣がMRIの写真に写ることがある。その場所は毎回同じ場所である。そこで和実の人工的に作られた膣(この膣は稀にMRIに写っていた本物の膣と完全に同じ場所に設置されている)から卵子採取用の針を刺し、卵巣のあるはずの場所で採取を行う。これはほとんどの場合、空振りになる。ところが根気よく、何度も何度もやっていると、ごく稀に卵子の採取ができることがあったのである。和実は部分麻酔を掛けられたまま、この作業を医師と一緒に朝から晩まで12時間ほど連続でやった。医師は2人で交代しながらやったが、和実は、もういっそ殺してくれと思いたくなるほど辛かったらしい。
 
しかしそれだけ苦労した甲斐があり12時間で4個の卵子の採取に成功したのである。
 
そこまで辛ければ全身麻酔にすれば良さそうだが、1度全身麻酔で5時間ほど頑張ったものの空振りだった。それで卵巣の出現は和実の意識がある時に限られるのではないかと仮説を立て部分麻酔で再挑戦したら2時間経ったところで1個取れた。それで4個取れる所まで頑張ったら12時間掛かってしまったのである。
 
むろんこの作業をする前には通常の女性の卵子採取と同様、事前に排卵抑制剤で排卵しないようにして、しっかり卵胞を育てている。これもけっこう身体のバランスが崩れる感じで辛かったらしい。
 
「不妊治療やってる女性の辛さを垣間見る思いだったよ」
と和実は言っていた。
 
こうして採取できた「奇跡の卵子」に淳の精子を受精させ、代理母さんの子宮に入れた。4つの受精卵の内1つだけが育ち、そうして2016年7月に生まれたのが希望美である。
 
希望美は法的には出産した代理母さんの子供として届けられたが特別養子縁組で、1年後の2017年夏、淳・和実夫妻の実子として入籍された。
 

この入籍が無事完了したのを機に、ふたりは仙台に移住し、喫茶店『クレール』
を開いて一緒に経営を始めた。チーフメイドになったのは現在は宮古市でホテルを経営している、和実の先輩・悠子の《姪》と自称(?)するマキコであった。和実は『店長』と呼ばれ、淳は『社長』と呼ばれている。むろん、マキコも和実も淳も、見た目には女性に見える。特に20歳のマキコにはデートに誘う客も多かったが、マキコは彼らをうまくあしらっていた。
 
そして店の経営が安定しているのを見て、淳は2018年9月12日、あきらに3ヶ月先行して、とうとう性転換手術を受けた。
 
ところが10月中旬、手術後の療養をしていた淳に和実はちょっと戸惑うような顔で言った。
 
「私、できちゃったみたい」
「は?」
 
「お医者さんに行ってみたら、妊娠6週目くらいだと言われた。だから淳が性転換手術を受ける直前にしたセックスで受精しちゃったみたい。あの日はコンちゃん付けずにしちゃったじゃん」
と和実は言う。
 
「和実、妊娠できるの〜〜!?」
 

淳と和実の第1子、希望美がふたりの戸籍に入籍された直前の2017年5月10日、桃香はシングルマザーになった。桃香がレスビアンであることを知る多くの友人が桃香の妊娠・出産に驚いたのだが、桃香は父親の名前を決して明かさなかったし、生まれた子供・早月の戸籍上の父親欄は空白であった。
 
父親が誰かを知っていたのは、桃香・千里・青葉・朋子、そして桃香と千里の親友の朱音・友紀、それに和実・冬子だけであった。
 
そして、その頃、千里は取引先の男性・川島信次から求愛されるようになった。当時千里は(実は自分の子供である)早月が生まれたばかりだったし、その母である桃香とは実質夫婦に近い生活を持っていた上に、実は、既に別の女性と結婚生活を送っている「元夫」である細川貴司のこともまだ忘れられずにいた。
 
それで気が進まなかったものの、信次は熱心に口説くし、どうせ信次のお母さんが認めてくれないよなどと言っていたら、そのお母さんが元々の千里の知り合いであったことから、ふたりの仲が認められてしまう。
 
産後体力を回復させてきた桃香も、女性と結婚したいと言ったら怒るが男性との結婚は構わんなどと言うので、千里としては貴司への思いを断ち切るつもりになり、信次の愛を受け入れることにして結婚に踏み切ることにした。
 
その時、和実たちの希望美のことが頭にあったので、千里は彼女たちと同様に代理母さんに出産してもらい、その子供を特別養子縁組で信次と千里の子供にするという案を信次と母に提案した。
 
この場合、卵子は桃香が提供してくれる約束になっていた。桃香が子供を産むための精子を千里が提供する代わりに、千里が子供が欲しくなった時に卵子を桃香が提供するというのが、千里と桃香の古い約束であった。
 
そして信次と千里は婚約し、2018年3月に結婚することになった。
 

2018年1月2日(火)。
 
この日はKARIONのデビュー10周年であった。それを記念するアルバム『1024』
を発売するとともに、KARION 1024ツアーという全国ツアーをこの日の札幌公演を皮切りに全国20ヶ所のホールで行った。
 
ここで『1024』というのは、10周年・20ヶ所ツアー・4人のKARIONであり、2の10乗ということで10周年であり、またこのアルバムの楽曲の小節数合計がちょうど1024になるようにできているのである(テンポ100の場合1拍0.6sなので四拍子なら1小節は2.4秒。1024小節は40.96分になる。実際にはテンポは90〜110と曲により異なる。但しKARIONの曲には120を越えるような速いテンポの曲はめったに無い)
 
KARIONのライブ動員はさすがにここ数年少しずつ減ってきてはいたのだが、この年のツアーは10周年ということで、しばらくライブに足を運んでいなかった人も来てくれて、全公演ソールドアウトであった。
 
次のツアーは夏か秋くらいに実施する予定であることを予告したのだが、これが延期になってしまうとは、この時点では誰も思っていなかった。
 

2018年1月下旬。結婚を目前に千里は仕事(信次の会社のシステムを作り込む仕事)の区切りがやっとついて3日間の休暇をもらっていた。中旬に納品したシステムは幸運にもノートラブルで動いてくれていて、千里はホッとしていた。しかし何かあったら即対応する必要がある。
 
とりあえず初日はひたすら寝た。夕方目が覚めて何か食べようと思ったら最近ずっと仕事づくめだったので食料の備蓄が切れていた。それで桃香に電話してみたら、ちょうど富山から出て来た青葉に、当然早月も連れてやってきた。それで来る途中買ってきたコンビニのおやつと宅配ピザを食べながら、夜遅くまで三人でおしゃべりをして過ごした。
 
2日目の早朝。客先に詰めている部下から電話が入る。電話で説明すると難しいが行けば簡単に解決できる問題なので、千里は愛用のミラで客先に駆け付けた。
 
するとサブリーダーの子が来ていて
「対処しておきましたよ」
と言う。
 
「この程度は私がやっちゃいますから、村山さんは休んでてください」
というので、遠慮無く休ませてもらうことにして帰途に就く。ところが帰る途中、千里の携帯に着信があった。着メロがショパンの『別れの歌』だ。千里は無視してミラを運転していた。
 
しかし電話は何度も何度も掛かってくる。
 

根負けして千里は車を脇に停め、電話を取った。
 
「はい」
とぶっきらぼうに返事する。
 
「千里、申し訳ないんだけど頼みがある」
と電話の向こうで貴司は言った。
 
「私、阿倍子さんに悪いから貴司とは会えないし、話せない。年賀状だけは特別にしてあげてるけどさ」
 
「その阿倍子のために頼む」
「どういうこと?」
 
「実は阿倍子と離婚することになった」
「えーー!?」
 
「それで彼女、実家に戻るんだけど、引越の手伝いをしてもらえないかと思って」
「なんで、そんなこと私がしないといけないの? 私が3月に結婚する予定というのはこないだもメールしたし、阿倍子さんだって私の顔は見たくないでしょ?」
と千里は本当に怒って言う。
 
「でも阿倍子、友だちとかが全然居ないし、お父さんも亡くなっているし、男の兄弟もなくて、お母さんは手伝いにくるみたいだけど、お母さん、病気がちで実際問題として戦力にならないと思うんだ。京平の面倒も見てないといけないし」
 
「だからといって私が行ったら、阿倍子さん不愉快だと思うよ」
「それは承知だけど、他に頼れそうな人がいないんだよ。それに男の僕が手伝うより、女の千里が手伝う方がまだいいと思ってさ」
 
千里は少し考えたが
「分かった。行くよ」
と答えて電話を切った。
 

ミラを羽田空港の駐車場に駐め、伊丹への切符を買う。そして機内ではひたすら寝ていた。モノレールで千里中央に行き、貴司のマンションに入った。
 
千里が中に入っていった時、貴司はいなくて、泣いている京平を困ったようにあやしている阿倍子の姿があった。
 
「何しに来たの?」
と阿倍子が敵対的な口調で言う。
 
「貴司に頼まれたんだよ。阿倍子さんの引越を手伝ってあげてって」
「要らないよ。帰ってよ」
「私だって来たくなかったよ。だけど貴司が自分が手伝うより良いと思うからっていうからさ」
「あんた、まだ貴司の愛人やってるの?」
「もう半年以上電話も掛けてなかったよ。私、3月に別の人と結婚するんだよ。だからよけい来たくなかったけどさ。でも男手とかもないからって。私、一応元スポーツマンだから」
 
「結婚するの?」
と阿倍子は言って、それで少し軟化した雰囲気があった。
 
「手伝ってもいい?」
「うん。。。。お願い。実はひとりではどうにもならなくて困ってた」
と阿倍子は言った。
 

貴司の家の中にあるものは、実はかなり把握している。元々千里はこのマンションに大学生の頃から何度も来たし何度も泊まっている。貴司が阿倍子と結婚した後でも何度か訪問している。
 
それで千里には、阿倍子の個人的な荷物と、貴司の荷物との区別がほぼ付いた。洋服や食器、本やバッグ、電化製品や様々な小物を千里はテキパキと区分けして段ボールに詰めていく。
 
「なんでそんなに区別がつくの?」
と阿倍子は呆れている。
 
「私が自分で買ったものは分かるし、緋那さんの趣味のものも分かるし。まあお化粧品は阿倍子さんのだろうし」
「そうだね。貴司はお化粧しないから」
 
「でもこっそり阿倍子さんの口紅とかいじってなかった?」
「ああ。そのくらいは気にしない」
 
そんなことを言っていたら、京平が
「ママ、おなかすいたー」
と言う。
 
千里は自分の荷物の中から、シュークリームを出す。
 
「京平ちゃん、これ私が自分で食べようと思ってて買ってたのだけど、よかったら食べる?」
と言うと
 
「たべる!」
と言って京平はそれに飛びつくと、美味しそうにシュークリームを食べていた。
 
「ちさとおばちゃん、ありがとー」
「どういたしまして」
と千里は笑顔で京平を見たが、阿倍子は複雑な顔をしていた。
 

千里の頑張りで荷物は3時間ほどでまとまってしまった。
 
「助かった。私ひとりでは今日中に終わらないかもと思ってた」
「引越屋さん、何時に来るの?」
「夕方4時。移動距離は大したことないから、すぐ実家に戻れるんだよね」
 
「だけどどうして離婚なんて」
「貴司が別の人と結婚したいというから」
「はぁ!?」
 
千里は半ば呆れた。
 
「それでいいの?阿倍子さん。だって、私や緋那さんに勝って貴司を獲得したのに。そんな相手、向こうが別れるべきでしょ?」
「もう戦う気力を無くしてしまった」
 
「・・・・」
「貴司、結婚して以来、もう何度目の浮気か分からない」
 
「だけど妻の方が強いよ」
「彼女のお腹の中にもう貴司の子供がいるんだって」
「その程度で負けるような阿倍子さんじゃないと思ったのに」
 
「千里さんや緋那さんと戦ってた時は何だか自分でも信じられないくらい頑張れたんだけど、私もう疲れてしまったのかも」
 
阿倍子の携帯が鳴る。
 
「あ、お母さん? うん。ちょっとお友だちが来て、手伝ってくれたから何とかなった。それより足大丈夫? うんうん。じゃ待ってるね」
 
「お母さんが来るなら私は長居無用だね。じゃ帰るね」
と千里は言った。
 
「うん。。。。あ、千里さん」
「はい?」
「ありがとう」
 
「お互い様だよ。京平も男の子なんだから、お母ちゃん助けて頑張れよ」
「うん、ぼくがんばる」
「よしよし」
と言って千里は京平の頭をなでなでしてから、マンションを後にした。
 

3月17日、千里は千葉市内のホテルで信次と結婚式を挙げた。富山から出てきた青葉が披露宴の司会をしてくれた。
 
3月下旬、日本の歌謡界に激震が走った。売れっ子作曲家の上島雷太が不公正な土地取引で摘発された。実際には上島が知人に名義貸しをしていた取引だったのだが、道義的な責任を問われたし、税務署から重加算税で数億円が課された。
 
社会的な責任を問われて上島が関わっていた様々なイベントやテレビ番組などの仕事が軒並みキャンセルされ、それに伴う損害賠償まで要求された。上島は音楽活動に関しても無期限の自粛をする羽目になった。
 

4月、千里は◇◇テレビに呼び出されて出て行った。見知った顔の作曲家やシンガーソングライターが大量に居る。旧知の、唐本冬子(ケイ)、山下恵里(Elise)、夏風ロビン(桜島法子)、などの顔もある。テレビ局での会議ではなく、作曲家協会の会合じゃないかって気もした。
 
響原部長が難しい顔をして会議の趣旨を述べた。
 
上島雷太が今回の事件で音楽活動を自粛することになったため、彼が楽曲を提供していた多数の歌手・ユニットが困っているという状況が説明される。それでここに集まったみんなで、何とか分担して上島が書いていた曲の代替をしてもらえないかという話だった。
 
上島雷太が昨年書いた曲は全部で950曲にのぼるらしい。ただその中で200曲くらいは代替のメドがついており、この機会に引退させるアーティストもあるので、500曲ほどをここにいるメンツで分担できないかという話であった。集まったメンバーは50人ほどで、単純頭割りすると1人10曲だが、作曲家の多くは、そもそも年間に10-20曲程度しか書いていない。実際問題として多くの作曲家はせいぜい3-4曲しか分担できないのではないかと千里は思った。
 

「私最近調子悪いんですよ。全然いい曲ができなくて。私パスさせてもらえませんよね?」
と千里は隣に座っている新島鈴世(雨宮三森の後輩)に言ったが新島さんは千里に言った。
 
「でも醍醐さんは、埋め曲みたいなのなら、いつでも書けるでしょ?」
「はい。それは単に頭で書けばいいから」
 
「今はそういう埋め曲が求められているんだよ。醍醐さんは貴重な戦力」
「だったら私、30曲くらい頑張ります」
「よしよし」
 
実際、このあと忙しい中を縫って千里は7月までに18曲もの《埋め曲》を書き、大いに《雨宮派》の主力の一員としての働きをしたのであった。
 

4月に千里と信次は予定通り体外受精をおこなった。桃香から提供してもらった卵子に信次の精子を受精させ、代理母さんの子宮に入れてもらった。着床は成功し、胎児は順調に育って行った。
 
千里も信次と婚約して以来、桃香とはセックスもキスもしないようにしていたし、貴司とも連絡を取っていなかった。桃香は男との結婚は認めるが自分ともセックスしてくれると思ってたのにと言ったが「ごめーん。労働奉仕とかはするから」と言って育児の手伝いや家事をこなしていた。
 
5月、信次は名古屋支店に転勤になり、千里は勤めていた会社を退職して信次に付いていくことにした。
 

その引越の作業で慌ただしくしていた時、千里は今度は雨宮三森から呼び出しを受けた。行ってみると、ローズクォーツのタカ(星居隆明)が居る。タカとは昔
「Rose Quarts Plays Sex Change」などというとんでもないアルバムを作った時以来の関わりがある。
 
「最近タカさん、女装しないの?」
「あれはもう勘弁してよぉ」
と言ってタカは照れている。一時期タカは女装キャラでかなり売れていたのである。
 
「女房は女装なんて40歳までが花だから、今のうちにもっとすれば?とか煽るんですけどねー」
「でも女装、楽しいでしょ?」
「醍醐さんまで煽らないでくださいよぉ。あれやってた頃はけっこう自分が怖かったから」
 
「最近は女装、ほんとにしてないの?」
「あ、えっと・・・・」
 
とタカは何だか焦っている。
 

「まあタカちゃんを睡眠中に病院に拉致していって強制性転換させるというプロジェクトはちょっと置いておいて、今日は少し悪い相談をしようよ」
と雨宮は言った。
 
「その強制性転換って何ですか!?」
とタカ。
 
「まあ、先生はそういうのお好きですね」
と千里。
 
「実は上島の作曲代替で、ケイが200曲くらい書きますと言って頑張っているんだよ」
 
「それは凄い。200曲はメドがついてると響原さんが言ってたのはケイのことだったんですか! でも書けるんですか?」
 
「いや実際問題として先日集まった50人で代替できそうな作品数は今の所300曲程度にすぎない。もっとも雨宮派の千里・ゆま・咲子・七星・新島・毛利で100曲書くんだけどね」
 
近藤七星(スターキッズ)さんや幣原咲子(レッドブロッサム)さんまで勝手に雨宮派に数えられているようだ。
 
「そんなものでしょうね。上島さんの作曲数が凄まじかったから、とても代替しきれませんよ」
と千里は言う。
 
「昨年上島が書いた曲は950曲。これを機会にもう引退させようという話になっているアーティストの分を除いても今年800曲程度を書かなければならない。となると、ケイには本当は500曲書いてもらいたいくらい」
 
「それは無茶ですよ」
と千里は言ったが
 
「いや、ケイなら書ける」
と雨宮は言う。
 
「確かに書けるかも知れないけど、後が怖い」
「うん。後は怖いけど、今はケイに頼らざるを得ない。ところがここで問題が起きててさ」
「はい?」
 
「それだけ大量に書いていたら、どうしても似たような曲ができがちじゃん」
「それは避けられないでしょうね」
 
「しかしそうなっては、いけないというので、ローズクォーツのマキとUTPの須藤社長、それに元FM番組のナビゲーター島原コズエさんの3人でチェックしてるんだよ」
 
「よけいなことを」
と千里は言う。
 
「だろ?」
と雨宮。
「それで実はケイがせっかく書いた曲の8−9割がこの3人のチェックで過去の作品に似ているとして没にされているんだよ」
とタカ。
 
「今のままではケイは普段書いている年間100曲どころか、年間20-30曲程度しか書き上げられないと思う」
と雨宮。
 
「音の組合せは限られているんだから、似たような曲ができるのは仕方無いし、似た曲はアレンジの雰囲気を変えることでけっこう違った感じにできるんです。そのあたりは下川さんの工房のアレンジャーにやらせればいいですよ」
と千里。
 
「全く同意。それでこのままじゃまずいと思ってさ」
と雨宮は言う。
 
「取り敢えず、島原君は丸め込んだ」
「ああ。彼女は話の分かる人でしょう」
 
「彼女には他人の作品と激似している作品だけをチェックしてもらっている。但し上島、蔵田君、東郷誠一先生、ゆきみすず先生、萌枝茜音ちゃん、Elise、など幾人かは自分の過去の作品と結果的に似てしまっても構わないと言っているので、その人たちのと似てても気にしないことにする。ローズクォーツの残り2人とボーカルの透明姉妹にもよけいなこと言うなと言っておいた。特にサトはその件で協力できることがあったらすると言ってくれた」
 
「サトさんはマキアベリズムの分かる人です」
 
「でもマキと須藤さんはどうにもならん」
「空気読めない人たちですから。それにあの人たちは口が軽いから、うかつなことは言えないです」
 
「ふたりは記憶に頼って似た曲を探している面もあるが、過去の曲のデータベースもチェックしている」
「どうやってチェックしてるんです?」
 
「過去にケイが作曲した楽曲を全部ABC譜に変換してデータベースとしてUTPのサーバーに入れてあるんだよ。それで移調と短調/長調の転換まで考慮した上で、そこと6音中5音が同じパターンが2ヶ所以上あったら類似曲とみなしてる」
 
「そりゃほとんどの新曲が没になるでしょ。だいたいケイの曲にはしばしば《ケイ・パターン》とファンの間で呼ばれているモチーフが使われています。ミソ・ドシラソというパターンが基本で、曲により微妙に変形されますけどこれはケイの署名みたいなものなんですよ。5音でチェックするなら間違いなくこれが引っかかります」
 
「詳しいね」
「私、ゴーストライターの達人ですから」
 
「さすがさすが」
 
「あと、もしマリのパートをチェックしたら、ほぼ全滅ですよ。マリは音域があまり広くないから、マリのパートって実はいくつかのパターンでほぼ全部カバーされてるんです。だから曲はいろいろあってもマリのパートって、実はどの曲でも似通っているんですよ」
 
「それはマリちゃんの歌唱力では仕方無いだろうな。そこでこのデータベースチェックを事実上無効化しちゃおうという魂胆な訳だよ」
と雨宮。
 
「どうやって?」
と千里。
 
「ウィルスを仕込む」
「ああ」
 
「で、そのウィルスを千里、作ってくれない?」
「違法ですよ」
「ケイを壊さないために絶対必要なんだよ」
「確かに今の状況ではケイは2ヶ月で壊れますね」
 
「須藤君とマキ君がやっているのは本当は正しいことだ。でも今ケイが壊れたら日本のポップス界が倒産するよ。だから頼む。こんな裏工作が許されるのは、このメンツだけだと思わない?」
 
「上島さんの盟友でありローズ+リリーの裏の仕掛け人である雨宮先生、ローズクォーツの中心であるタカさん、そしてケイの親友である私。他の人がやったら犯罪でしょうね」
 
「町添さんは『聞かなかったことにする』と言った」
「まあ、町添さんはそれ以上言えないでしょう」
 
「他のノードには伝染せず、UTPのサーバー内部だけで活動して、その楽曲データベースの表面上の件数は変えず実質中身を破壊して欲しい。それも登録されてから2週間以上たったデータの9割程度を破壊して検索に引っかからないようにする。マリのパートが問題ならマリのパートは全破壊する。作れる?」
 
「そのデータベースの構造さえ分かれば30分で作れます」
と千里は答える。
 
「じゃ作ってくれない?それを仕込むのもタカ子ちゃんにやってもらう」
「分かりました。できたらそのデータベースのコピーが取れますか?」
 
「持って来たよ」
と言ってタカがメモリーカードを渡す。
 
この雨宮・タカ・千里の裏工作のおかげで、ケイの楽曲はこれ以降没にされる確率が大幅に減り、翌年春までの1年間で700曲という驚異的な作品数が生まれることになる。
 
実際には正式にケイが書いた作品は約300曲で、残りの約400曲は「没」にされた作品を密かにタカが回収し、音楽大学の学生を大量動員して「化粧直し」したものであった。
 
結果的にはケイがこの驚異的な数の作品を書いたことで、本来はこの機会に引退などと言われていたアーティストの多くが、生き延びることができたのである。
 
その中にはそうやってもらった曲が偶然ヒットして、引退予定から一転して第一線に復活を遂げた歌手も数人いる。
 

千里はこのウィルス作成を置き土産にして名古屋に転勤した信次のあとを追って自分も名古屋に移動した。千葉に居た頃は千里の仕事が忙しく、あまり奥さんらしいこともしてあげられなかったが、名古屋では専業主婦になったので、2ヶ月遅れの新婚生活という雰囲気になった。1DKの狭いアパート暮らしであったが、この時期が千里にとって最も幸せな時期だった。
 
毎日「行ってきます」と言って出かけていく信次をキスで送り出し、日中は家事と買物をし、代理母さんが毎日送ってくれる《今日の胎児ちゃん》というレポートを見て来年生まれる予定の子に思いを馳せ、夕方「ただいま」と言って帰ってくる信次をキスで迎え、一緒に御飯を食べる。
 
その充実した生活の中で千里は日中、自分の分担した分の「埋め曲」をひたすら書いていた。
 
夜の生活も千里は信次との営みに充分満足していた。千里の人工的なヴァギナは性的に興奮するとけっこう濡れるので(当時千里はなぜそんなに濡れるのか理由を知らなかった)、特にゼリーなどを使うこともなく、ふたりは毎日のようにセックスをしていた。
 
信次は忙しいようで、土日も会社に行って仕事をしていた(と当時千里は思い込んでいた)ので、名古屋での1ヶ月半にわたる生活の間、一緒にどこかにお出かけしたこともなかったが、千里は本当に幸せだった。
 

その幸せは7月4日、1本の電話で突然終わってしまった。
 
「はい。川島です」
「あ、奥さんですか。私信次君の上司の高橋と申します」
「はい」
「あの、たいへんお気の毒なのですが」
「え?」
「信次君が事故に遭いまして」
「え!?」
「それで・・・・亡くなりました」
千里は受話器を落として、その場に崩れてしまった。
 

それから2−3ヶ月のことについて千里はほとんど記憶が飛んでいる。何をしていたのか。どうやって過ごしていたのか、分からない。桃香は「無理して思い出す必要は無い」と言っていた。四十九日は喪主として気丈に務めていたと朱音は言っていたが、その記憶さえも残っていない。
 
何とか記憶が残っているのは10月に百箇日法要をした後である。泣いてばかりではいけない。自分には来年生まれてくる子供(信次の忘れ形見)がいるんだから、と自分を励まし、千里は気持ちを切り替えるため、それまでずっと信次の母の家に居候していたのを、桃香のアパートに転がり込み、前勤めていた会社に復職させてもらい、仕事に没頭した。
 
一緒に暮らしている桃香のおしゃべりと、自分を遺伝子上の親と知っているのか知らないのか、じゃれついてくる早月が千里にとって心の安らぎだった。
 

ちょうどその頃、千里は、和実が《妊娠》したという話を聞いた。
 
「和実が妊娠ってどういうこと? 和実、まさか半陰陽か何かで子宮を持ってたの?」
と千里は桃香に尋ねたが
 
「ブール代数がどうのとか、ハイランダーがどうとか、難しい話をされて、さっぱり分からんかった」
と、千里の代理母さんの見舞いがてら仙台まで行って和実の話を聞いてきた桃香は言った。
 
「ブール代数で妊娠するわけ?」
「そうらしい」
「意味が分からない!! それともしかしてハイランダーではなくてハイティング代数ってことない?」
「あ、そんな名前だったかも知れん」
「だったら少し状態が想像つく」
 
「ふーん。でも物理的には和実は腹膜妊娠しているらしい」
「それ、物凄く危険なのでは?」
 
「医者からは絶対安静と言われているし、子供がどこまで育つかも保証できないと言われている。子供は高確率で先天性の奇形を持つとも言われている。そもそも和実自身の生命に危険があるからというので医者は中絶を勧めたが和実は自分の命に代えても産むと言っているし、淳も全ての場合の結果を受け入れると言っている。一応8ヶ月目になったところで帝王切開しようという話」
 
「私が和実だったとしても何かの間違いで妊娠したら、そう言うよ。でもまあ人工的に作った膣は赤ちゃんの頭が通るほどまで伸びないから帝王切開する以外に赤ちゃんを出す方法は無いよね」
と千里。
 
「出すのはいいが、どうやって仕込んだのかが謎だ。和実のお姉さんがずっと付いていて、身の回りの世話をしてくれている。取り敢えず外出禁止。5ヶ月を過ぎたら入院させる。病院内でも部屋から出るの禁止の予定。おしっこは導尿する。実はその病院の引退している先代院長さんが20年前に1度だけ腹膜妊娠で満期まで育って生児を得た経験があるらしいんだよ」
と桃香。
 
「それは心強い」
「先代院長さんもあれは奇跡だったと言っているらしい。母子ともに無事で、生まれた子供には全く先天性異常の類いはなくて、その後ふつうに育って今は東大生らしい」
「凄い!」
「凄いよな。でも腹膜妊娠では、突然の大出血で手の打ちようもないまま母親死亡という例も多いらしい」
 
「和実なら大丈夫という気がする。実際問題として本当は和実は腹膜で妊娠しているんではなくて、ハイティング代数的に存在している子宮で妊娠しているんだよ。でも胎児の存在の真理値はTRUEなんだ。ここで子宮の真理値は何でもいいから胎児がTRUEであることが重要なんだよ」
 
「本人もそんな感じのこと言ってたが、それが私にはさっぱり分からん」
「喫茶店の方はどうなってんの?」
「淳もまだ性転換手術したばかりで、店に出る体力が無いんだよな。それで喫茶店の方はチーフさんが何とか切り盛りしてくれているようだ。他に和実の親友の梓ちゃんが応援で社長代行と称して店に詰めていてくれるらしい」
 
「ああ、梓ちゃんは和実よりしっかりしているから大丈夫でしょ」
「自分でもメイドの衣装着ているらしい」
「楽しそうだね」
 

「青葉、どうしてる?」
と千里は心配そうに言った。
 
「彪志君との件だろ?」
「別れたって本当なの?」
 
「本人はそう言ってる」
「てっきり青葉は彪志君と結婚すると思ってたのに」
「自分は元男の子だから結婚する資格は無いなんて言っている」
「そんな話は10年前にクリアしていたはず」
 
「彪志君に縁談があったみたいなんだよな。彪志君は自分は青葉以外との結婚は考えられないといって断った」
「うん」
 
「ところがその話を聞いた青葉が、せっかく縁談があるなら、その人と結婚したら?と言ったらしい」
 
「なんで〜?」
 
「そこから喧嘩になってしまったようで。青葉は自信喪失してるんだよ。信次君を助けきれなかったということで」
「うーん・・・・」
 
「それにな。霊感ゼロの私が言うのも何だが、青葉はここ1年ほど、明らかにパワーが落ちている」
と桃香は悩むように言った。
 
「へ? そうなの? 私気付かなかった」
 

「先生、本当に申し訳ありません。今全然書けなくて」
と千里は雨宮に謝って言った。
 
それは10月下旬のことだった。雨宮はわざわざ千里のアパートを訪ね、早月と遊んであげながら千里と話した(桃香はパートに出ていた)。
 
「いや、ああいうことがあったら仕方無いよ。今は無理せずにとにかく日々の生活を頑張りなさい。楽曲の方は誰かに適当に回すから」
と雨宮は優しく言った。こんな優しいことを言う雨宮も何だか怖い!
 
「はい」
 
実際にはこの時期、醍醐春海・鴨乃清見の曲は青葉と鮎川ゆま、宝珠七星、それに水野麻里愛が分担で書いてくれていたのである。(麻里愛は実は元々醍醐春海の一部だったのだが、この時期は主としてクラシック作品ばかり書いていた。しかし盟友の非常時とあって久々にポップスを書いてくれた)
 
「編曲だけやってくれる?」
「ええ。それくらいならやれると思います」
 
それで千里は10月から編曲作業で音楽活動に復帰することになった。
 

「ところで上島さんの楽曲の代替の方はどうですか?」
と千里は何気なく雨宮に訊いた。
 
「ケイが驚異的なペースで頑張ってるよ」
「へー!」
「正直、後が怖い」
「うーん。でも済みません。そんな時に私、戦力にならなくて」
「いや、千里は7月までに18曲も書いてくれたから、充分だよ」
「私そんなに書きました?」
 
「正式に納品してくれた作品が12曲。途中まで作られていた作品をあんたのパソコンのディスクから回収して、ゴールデンシックスのカノンに補作させたのが6曲」
 
「わぁ、花野子に手伝ってもらったのか。あれ?パソコンってもしかして」
 
「例の爆発事故で破壊されたパソコンの内蔵ディスクの中から専門の技術者にデータを吸い上げさせて復活させた」
「きゃー。あれ、復活できたんですね?」
 
「その話は8月にもしたのだが・・・」
「済みません。全く記憶に無いです」
「まあ、仕方無いね」
 

「でもケイはそんなに凄いペースで代替曲を書いていて、自分の分は書けているんですか?」
 
「それが実はさすがに書けてないのさ」
「あぁぁ」
 
「まだローズ+リリーの方はいいんだ。元々マリ&ケイの曲は常に大量にストックがあったから、今年のアルバムはストック曲でほぼまかなった。本人としては不本意だったみたいだけど、アルバムを出さないのは商業的に許されないからさ」
 
「さすがにもうミリオンは出ないでしょうけど、一応出す度に20-30万枚は売れてますからね。日本のファンって律儀ですよ」
「全く全く」
 
「でも今年は、マリちゃんの妊娠、ケイの婚約というので沸いてるからあのアルバム、多分ミリオン行く」
 
「・・・・マリが妊娠したんですか?」
「あんた知らなかったの? あんなに大騒ぎしてたのに」
「知りませんでした! 父親は誰ですか?」
「公表してない。多分知っているのはケイと後は父親本人くらいだと思う」
 
「もしかして元カレの松山君とか?」
「その説は出ていたが、彼とはここ数年一切逢ってないと言っている」
「まさか上島さんじゃないですよね?」
「マスコミはその可能性を騒いでたけど、マリちゃんも上島もそれを否定している」
「じゃ、誰なんです?」
「分からん。ケイも口が硬いし」
 
「そうだ。ケイが婚約って誰とですか?」
「ケイの婚約者は木原君に決まってる」
「あのふたり、まだ婚約してなかったんでしたっけ?」
 
「その内婚約しようという約束をしていたらしい」
「それって婚約じゃないんですか?」
「私もよく分からん。まあそれで出した『お嫁さんにしてね』というシングルの方も売れに売れてる。今のままだと200万枚くらい行きそう」
 
「・・・どこかで聞いたような曲名なんですけど」
「千里が去年の春に《ケイ風に》書いた曲だよね。詩はマリちゃんだけど」
「ぶっ」
 
考えてみたら自分はあの曲を書いた直後に信次と出会ったんだ。
 
「まあ印税はいつものように作曲印税は全部あんたに払う」
「他の作曲家さんと同様、折半でもいいんですけどねー」
「自分が作曲したわけでもないのに印税は受け取れないとケイは言うんだよね」
 
「真面目ですね。でも、それはいいですけど。ケイの結婚式はいつですか?」
「当面結婚はしないらしい。婚約しただけ」
「それなら今までと状況変わらないような」
「ね?」
 
「となると、『お嫁さんにしてね』というタイトルだけど、実際お嫁さんになるのは誰なんです? マリが出産までに相手と入籍するんですか?」
「マリはそれを否定している。シングルマザーになるつもりのようだ」
「うーん」
 
「まあ、お嫁さんになったのは結局、千里、本当の作曲者であるあんた自身だね」
「うむむ。でも久々のダブルミリオンですか?」
 

「アルバムまで入れると『雪月花』以来。シングルでは『神様お願い』以来のダブルミリオンになる。でもケイって、ほどほどに売れる曲は書くけど、爆発的に売れる曲は書けないのかも知れない。『神様お願い』は実はマリ作曲だしさ」
と雨宮は言う。
 
「ケイは量産型だから仕方無いです。彼女の良心が水沢歌月なんですよ」
 
(ケイ自身が書いてダブルミリオンになるのは翌2019年2月にあやめが生まれた時に書いた『天使の歌声』が最初である。但しケイはその直後の4月から絶不調に陥る)
 
「だろうね。でもそれで春以降、水沢歌月は1曲も書いていない」
 
「じゃKARIONの方の楽曲はどうなってるんですか?」
「8月に出したシングルは歌月の過去の曲のストックに、櫛+黒木、広田+花畑の新作をカップリングした。年末に出す予定のシングルも同じ方式で行く」
 
「すみません。こんな時に醍醐春海が稼働できなくて」
「苦しいことは重なるもんなのさ」
 
「アルバムは?」
「1024が成功したからね。次は企画物で行こうということで12組のソングライトペアから1曲ずつもらって構成する『1212』というのを考えた」
 
「うまいですね。歌月の負担が小さくて済む。それも歌月の過去のストックですか?」
「歌月の『東西帰航』を使う。うまい具合に全日空がキャンペーンに採用決定したので、話題性は充分」
 
「それって・・・・」
「あんたが昨年春に歌月風に書いた作品だね。歌詞も葵照子が和泉風に書いた詩」
「いいんですか〜!?」
 
「千里、あんたゴーストライターのプロだろ?」
「さすがにそう堂々と使われると良心が痛む」
「悔しかったら、早く復活しなよ」
「あと半年待ってください」
「うん。半年は待つから4月からはちゃんと稼働できるようにしなさい」
「分かりました。4月までにはちゃんと気持ちを整理します」
 
「よし。実はさ」
「はい」
「ケイの負荷が凄まじいから、ちょっと嫌な予感がするんだよ。4月から9月までの間にケイが書いた曲は400曲近い」
 
「有り得ない。寝る暇も無いのでは?」
「だからKARIONの夏のツアーをキャンセルしたんだよ。ハイレベルな演奏が要求されるKARIONのツアーができる精神状態ではなかったんだ」
 
「うーん。思わぬ所に波及しましたね。ローズ+リリーのツアーは?」
「やった。10周年ツアーをさすがにキャンセルできない。でも上手い具合にマリちゃんが妊娠したから、マリちゃんに負担を掛けないようにというので、全国20ヶ所のホールツアーの予定を最終的に6箇所のドームツアーに変更したし、演奏もふたりとも椅子に座って歌うスタイルにした」
 
「結果的にケイも楽なんだ?」
「そういうこと」
 
「でもその状態だと小風ちゃんと美空は暇なのでは?」
「暇してる。ドラマとかに出ない?という話はあったけど、和泉が断った」
「和泉ちゃんが断ったんだ!」
 
「ユニットの分裂を招きかねないから。そういう活動は。単発の旅のレポート番組みたいなのには出してる。小風は会話のセンスがいいし、美空は美食家だから、使えるんだよね」
 
「なるほどー」
 
「取り敢えずふたりには日常的には楽譜の整理作業をやらせてる。あと日々歌のレッスン」
「まるで練習生ですね」
「歌月=蘭子が復活するまでは仕方無いよ」
「大変だ」
「あんたの復活も待ってるから」
「済みませーん」
 

2018年11月15日。その日は彪志の25歳の誕生日だった。この日、青葉が大学から帰ってくると彪志とお母さんが来ていた。
 
「えっと、何の御用でしょうか?」
と青葉は半ば困惑したように言った。
 
「今日は俺の誕生日だからさ。青葉にお祝いしてもらいたいと思って押しかけてきた」
と彪志は言う。
 
そして青葉の母(朋子)は
「彪志さんのバースデイケーキ買っといたよ」
と言ってケーキの箱を開ける。
 
「ワインも買っといたから」
と言って朋子が取り出したのは、ボルドー産の赤ワインである。
 
青葉は立ったまま涙を浮かべた。
「ごめんね。彪志、こないだは酷いこと言っちゃって」
 
「青葉が俺を嫌いになるわけないと信じているから」
と彪志は言うと、青葉を抱きしめてキスをした。青葉はされるがままにされていた。
 
「私も青葉ちゃんに謝らないといけないよ」
と彪志のお母さんが言う。
 
「青葉ちゃんがいるのに彪志に縁談なんか持って来ちゃって。こんなことはもうしないから」
 
「いえ、お母さんとしては当然の心配だと思います。私赤ちゃん産めないし」
と青葉。
 
「そんなことは気にしないよ。私は青葉ちゃんが彪志のお嫁さんになってくれる日を心待ちにしてるよ」
「はい」
と言って青葉は涙ぐんだ。
 
「久々に泣き上戸の青葉を見たな」
と彪志は言った。
 
 
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