【女たちの戦後処理】(中)

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千里はもう行くべき場所が分かっていた。6人の《乙女》と会った。残りは2人だという認識をしていたが、その2人の名前をその時点では思い出せなかった。車は仙台方面に戻り、山形自動車道をひたすら走って、湯殿山に到達する。夕方「今日はこれが最後の参拝です」という声の中、奥の院に入ってそこの御神体に登った時、恵姫さんが居た。
 
「こんにちは、恵姫さん」
「こんにちは、千里ちゃん。私と一緒に月山に登らない?」
「そうなるのか」
 
《きーちゃん》に『私の車、月山8合目に回送しといてよ』と言う。
『了解』と言って、《きーちゃん》は千里から車のキーを受け取り、千里の代りにバスに乗って大鳥居の方に降りて行った。
 
日はもう暮れかかっているが、恵姫さんと一緒に、湯殿山と月山を結ぶ道を登って行く。この道は登るより降りるほうがずっと楽なので(まあ普通山道はそうである)、現代では月山八合目のレストハウスの所まで車で行き、そこから月山に登った後、湯殿山に降りてくる人が多いのだが、今日はそれを逆向きに登ることになるようである。江戸時代の松尾芭蕉などはこのルートで月山に登っており途中の道でかなり苦労したことを記している。
 
4月下旬の月山は雪の中である。恵姫さんはそこをかなりのハイペースで登って行く。しかも少し登ると日は落ちてしまい、どんどん周囲は暗くなっていく。が、千里は自分でも不思議なくらいパワーが出て、しっかり彼女に付いていくことができた。ここまでにもらった珠の作用なのだろうか。結局ちょうど深夜0時頃に、月山頂上まで到達することができた。
 

雪の中・まだ月も出ていない闇夜の月山神社でお参りする。
 
「ここに来たことあるよね?」
「名前が思い出せない、この子たちの御主人と一緒に何百回も参拝しました」
「でもこの向きは初めてでしょ?」
「ええ。いつも月山から湯殿山に降りて行ってたんです」
「ふふ。その記憶が戻って来たんだね」
 
「私、もしかしてそのことも忘れてた?」
「だと思うよ」
 
「恵姫さん、やはり巫女って恋をすると力を失うんですか?」
「そうだよ」
 
「私・・・本気で結婚してって言われて、凄く嬉しかったから・・・」
「あんた、実際、結婚なんてことは諦めてたでしょ?最初から」
「事実婚はできる自信あったけど、法的な結婚はできないと思ってた」
 
「千里みたいな子って、どうして男の子の身体に生まれちゃったんだろうね?」
「神様にも分からないんだったら、私には分かりません」
「だけど千里は恵まれているよ」
「だと思います」
 
「10代の頃、自分の意に反してどんどん身体が男になっていってしまったら、死にたくなってもおかしくない」
「実際たくさん自殺してると思います。でも、最近はそれで中学生でも女性ホルモンを処方してくれるケース結構増えましたね。でも、それって親に理解してもらえた、ごく一部の子だけです」
「多くの子は親に理解してもらえるどころか、殴られたりするし」
「私、殺されそうになったし」
 
「ふふふ。取り敢えず20年くらい修行したら、本当に赤ちゃんが産める身体にしてあげてもいいけど」
「48歳じゃ、さすがに子供産めません!」
 
「ふーん。その話も忘れているんだ」
「え!?」
「まあ徐々に思い出すといいよ」
 
恵姫さんは千里に紫色のアメジストの珠をくれた。これで珠は7つそろった。
 
「この後、どこに行けばいいか分かるよね?」
「分かります」
 

千里はそこから約2時間掛けて、月山8合目まで降りて行った。やっと東の空に細い月が昇ってきた。そこで車に乗ろうと思ったのだが・・・
 
雪の中である。
 
《きーちゃん》が
『除雪されてないからビジターセンターまでしか来られなかった』
と言うので
『了解。ありがとう。お疲れ様』
 
と言って、歩いて雪の中をビジターセンターへ降りて行く。15kmほどの行程なので、地面を歩くのであれば3−4時間で歩けるが、雪の中ではそうはいかない。やがて日が昇り、それがもう西に傾き始めた頃、千里はようやくビジターセンターにたどりつく。
 
普通の人なら、そもそも速攻で遭難するようなルートなのだが、千里は(その記憶はまだ曖昧だったが)この道をこれまで数百回歩いており、それで迷子にならずに歩くことができるのである。
 
ビジターセンターに駐めてあったアテンザ・ワゴンに乗り込み羽黒山有料道路を登って羽黒山の駐車場に駐め、三神合祭殿でお参りする。ここで日没になった。千里は夕闇迫る中、何かに導かれるようにして山の中に入っていく。そしてまた雪で覆われた山の中を何時間も歩き回った。滝があった。千里は服を脱ぐと、裸になって滝壺に入り、両手を組んで滝に打たれる。
 
暖かい! ちょっと硫黄の臭いもする。きっと温泉か何かがあって、その水が滝になっているのだろう。この時期はまだ凍結したままの滝も多い。
 
暖かい滝の水が身体に染みこんでいくような感覚がある。そして千里の身体の中に溜まったいろいろなものを洗い流してしまう。心が透明になる。ああ、この感覚、なんだか久しぶりな気がする。
 
千里は時間を忘れて滝に打たれていた。
 

やがて目の前に懐かしい人の姿を見る。
 
「ご無沙汰しておりました、美鳳さん」
 
と千里は滝から離れて挨拶した。星明かりに自分の女の肉体が光るような感覚があったのを千里は感じた。股間にはむろん変なものは付いておらず、左右の肉が合わさって作る筋がある。初めてここに来た頃はこの筋が偽物だったよなというのをふと思った。
 
「ご無沙汰、千里。あんた、ちゃんと巫女に戻ったよ」
 
美鳳に再会したのは29日0:00ジャスト。この日は信次が亡くなってから三百箇日の日であった。
 

美鳳さんが身体を拭く布を貸してくれたので、それで身体を拭く。美鳳さんから渡された新しい下着と巫女服を着る。それで一緒に神様が祀られている洞窟に行き、一緒に祝詞を唱えた。
 
「ここは何番目の洞窟か分かる?」
「28番目です」
「青葉はまだ18個までしかクリアしてないよ。全部で幾つあるかは分かる?」
「2310個」
「やはりあんた凄いよ。青葉はまだ108個までしか見えてない」
 
「青葉が修行した結果を私は全部受け取れるから、その競争は意味無いです」
「あはは、その仕掛けまで知ってるんだ?」
「だから私の力の7−8割は青葉が日々修行しているおかげなんです」
 
「7割までは無い。でもだから、あんたたちは良い姉妹なんだよ」
「私は青葉の蓄電池の管理者なんですよ」
「自ら発電している部分も大きいけどね。でも性転換手術を受けた時にもそれで回復したよね」
 
「あれは同じ日に手術を受けるという困ったことになったけど、菊枝さんが仲介してくれたんですよね。彪志君が起動エンジンになり、菊枝さんがポンプになって、私の蓄電池からエネルギーを吸い上げる。それで青葉は自分をヒーリングすることができたし、それである程度パワーを回復させた所で私自身まで回復させてくれた」
「あんたはヒーリングできないからね」
「あれは青葉が持つ独特の才能だと思います」
 
美鳳は頷いている。
 

「美鳳さん、たぶんこの子たちは絶対口を割らないだろうから、美鳳さん、良かったら教えてください」
「うん?」
 
「信次の死は避けられなかったのでしょうか? 私がもし巫女の力を持っていたら、助けることはできなかったでしょうか?」
 
「信次君はどっちみちあの日が寿命だったんだよ。事故に遭わなくても、あの日、午後に発作を起こして亡くなっていたんだ。事故は彼の死をわずかに5時間ほど早めただけ。癌がもう末期状態だったことは聞いてるでしょ?」
 
「遺体を検視した医師の検分書で見ました。私も康子さんもびっくりしたんですよ。なぜ春に手術を受けた時に気付かなかったんだろうと言って康子さんは医療過誤じゃないかって裁判起こそうかとも言ってましたが、私が止めました。裁判起こしても信次は帰って来ないから」
 
「あの癌は体質によっては無茶苦茶進行が速いのさ。特に糖尿とか高血圧を抱えている人は、発病してから1〜2ヶ月で亡くなる場合もある」
 
「そんなことを友人で医師の蓮菜も言ってました。ただ、彼、そんなに血糖値は高くなかったと思うんですよね」
 
「いや。充分高かったよ。まあそれ以外にも先天的なものも色々あったみたいだよ」
 
「・・・。そういえば私に呪いを掛けた女の子がいたみたいですが」
「今になるとそれが見えるね?」
「はい。あの時は私には呪いとか何とか全然見えませんでした」
「あの子は結局尼さんになったよ」
「そうですか・・・」
「お遍路を歩いた後、頭を丸めて、あるお寺で修行を始めた」
「重たいものを背負ってしまいましたね」
 
「もっとも、どっちみち、千里には呪いは利かなかったんだけどね。千里はそんな素人がにわか覚えの呪文で呪い殺せるほどヤワじゃない。たとえ巫女の力を失っていてもね。だから信次さんが事故で死んだのも実は呪いとは関係無いんだよ。ただの偶然だよ」
 
「そうなんですか・・・」
 
千里は美鳳が本当のことを言っているのかどうか判断に迷った。でもそう思っておいた方が、自分自身の心は軽くなる。だから美鳳はそう言ってくれているのかも知れないと、千里は思った。やはり死人貧乏だ。私は由美のためにも頑張らなければならない。
 
「まあ、アパートがガス爆発で破壊されたのは、呪いの効果だけどね」
「ああ・・・」
「素人の呪いなんて、そんなものさ。呪いのパワーというのは、本人がある程度修行してないと効力を発揮しない。特に強い呪いほどそうだよ。ペティナイフなら子供でも扱えるけど、牛刀を扱うには腕力がいるだろ? 自転車なら誰でも乗れるけど、F35ジェット戦闘機は厳しい訓練を受けたパイロットにしか操作できない。あの子は何の訓練もしていないのに、いきなりF35を操縦しようとしたんだよ。どうなるか、結論は見えてるだろ?」
 
「よく死にませんでしたね」
「信次さんが彼女がかぶるはずだった呪い返し、そしてお母さんの癌まで持って、あの世に行っちゃったからね。自分の寿命を5時間短縮する代わりに」
「じゃ、やはり信次がお母さんを救ったんですね」
「そうだよ」
 
「お母さんに教えてあげよう」
 

「でも、どうしていったん力を失った私にまた巫女の力を与えてくれたんですか?」
 
「千里には使命があるからさ」
「・・・・・」
 
「取り敢えず、4人の子供をちゃんと育てること」
「その4人というのが良く分からないんですけど。今私が育てている2人と、もう1人はひょっとして京平かなとは思っているんですけど。本人とお母さんになってあげる約束をしたから」
 
「その内分かるさ」
 
「・・・・・。でも他にも私の使命はあるみたい」
「それもその時が来たら分かるよ。そのためにも、また修行ちゃんとやろう」
 
「私、きついの嫌いなんだけどなぁ」
「あんたは昔からそうだったね」
 
美鳳は透明なダイヤの珠をくれた。千里の持つネックレスにこれで8つの珠が揃った。
 
赤い珊瑚、オレンジ色のシトリン、黄色い琥珀、緑色のエメラルド、水色のアクアマリン、青いサファイア、紫色のアメジスト、そして透明なダイヤ。
 
「この左手に付けてる勾玉はこのままでいいんですか?」
「うん。それはそこでいい」
 
「でも私、この珠の由来を知らないんです」
「ああ。まだそこまでは思い出せてないか。松浦佐用姫さんのお土産だね。千里がインターハイで唐津に行った時に頂いたんだよ。だから唐津で再活性化することができた。そして、それをずっと持っていたから、千里は眷属を見つけ、私たちを見つけることができたんだよ」
 
千里は唐津の方に向い深く頭を下げた。
 

千里は29日いっぱいを美鳳さんと過ごして、山駆けしたり滝行したり祝詞を唱えたりした。そういうことをすることで、今まで忘れていた様々な記憶を思い出すことができた。
 
「私に**があるのは瞬嶽さんの仕業ですか?」
と美鳳に訊いてみた。千里はそのこともきれいさっぱり忘れていた。
 
「ああ、それは白山大神の悪戯」
 
悪戯なのか!?
 
「それから、瞬嶽さんから**権現の秘法とか**明王の秘法とか、直伝を受けてるんですけど、あれどうしましょ?」
「千里自身が山に籠もって千日回峰を5回くらいやれば使えるようになる」
「それって30年くらいかかりません?」
「かかる」
「パス」
「堂入りとか楽しいよ」
「死にますよ」
「千里なら大丈夫と思うけどなぁ。まあ死んだ時は死んだ時だし」
「嫌です」
 
「あるいは誰かそれを受けられる人に授けちゃうかだね」
 
「私って要するに記録媒体なんですよね?」
「千里は便利な体質なんだよ。ああいう秘法は、言葉や絵で伝えられるもんじゃないけど、あんたみたいな霊媒体質の子には生データを焼き付けられるからね」
 
「誰かそういう資格のある人います?」
「いないね。但し使える人でなくても、千里同様の体質の人には伝えられる」
「そちらを期待しよう」
 
「千里は既にその才能がある人を1人知ってるけどね。但しその子困ったことに男なんだよね。女でないと記録媒体として利用できないんだよなあ」
「性転換でもしてもらおうかな」
「ふふふ」
 
「もしかして私も女になったから記録媒体になれたんですか?」
「そうだけど」
「なんか上手に仕込まれてるなあ」
「私みたいなのも、千里みたいなのも、上の方々の手駒なんだよ」
 
「確かに。私って神様や霊能者の便利屋さんみたいなものかな」
「そうそう。だから千里の復活をいちばん待ち望んでいたのは菊枝さん。あの人本来は青葉だけが使える千里の蓄電池をしばしば無断使用してたから」
「なるほどねぇ!」
 

翌30日の朝、千里は美鳳と一緒に羽黒山の駐車場まで戻ると、よくよく御礼を言って別れた。
 
それで、車を始動しようとするのだが、エンジンが掛からない。
 
「ん?」
『あ、その車、バッテリーもガソリンも空っぽだよ』
と《きーちゃん》が言う。
 
「えーー!?」
『だけど、湯殿山からビジターセンターまでの道ではちゃんと動いたんだよ。不思議なこともあるもんだと思った』
 
『そういえば、私、東京出てからここまで1度も給油しなかった』
『まあ、そこで普通の人間は変だと気付く』
『だって、給油ランプ点かなかったし。私、電気とか機械とかさっぱり分からないんだよねー。でも、なぜ動いてたの?」
 
『取り敢えず油とバッテリー買って来た方がいいかも』
『買っても私、バッテリーの交換とか自信ないよぉ。だいたいどこに買いに行くのさ?』
『鶴岡まで行けば、ホームセンターか何か無い?』
『鶴岡まではどうやって行く?』
『うーん。バスで行くとか』
『それしか無いかなあ。でも車の燃料タンク持ってバスに乗せてくれないよ』
 

そんなことを《きーちゃん》や《こうちゃん》たちとやりとりしていた時、千里の車のそばに、ランドクルーザーが停まる。千里はそのランクルに見覚えがあった。思わず口に手を当てて、その車から降りてくる人物を見る。
 
「あっ」
「えっと、ごぶさたー」
「うん。ご無沙汰」
 
それは千里のかつての恋人(正確には夫)、貴司であった。
 
「ターちゃん、どうしたの?」
と言って赤ん坊を抱っこした女性が降りてくる。千里は微笑んだ。
 
「こんにちは、私、中学時代の細川さんの後輩で、川島と申します」
と千里は貴司の奥さん・美映(みばえ)に挨拶した。
 
「え?」
と言ったまま、美映は千里を睨む。まあ、女の勘で分かるよね?ただの後輩ではないことが。
 
「細川君、実はバッテリーあげちゃって。しかもガス欠なの。もし良かったらエンジン起動の電気、分けてくれない?ブースターケーブルは持ってる」
と千里は言う。
 
「ああ、いいよ。でも今、ガス欠って言った?」
「うん、それも問題で」
 
「だったら油も少し分けてあげようかって、しまった、そちらガソリンだっけ?」
「ううん。ディーゼル」
「それはちょうどいい。僕のランクルもディーゼルだよ。ちょっと待って」
 
貴司は美映と千里に車から少し離れているように言うと、ランクルの給油口と千里のアテンザの給油口が近くになるように駐め直す。それで荷室から油の吸い上げ用ポンプを持って来て、吸油口を自分のランクル側に、ネジを回すようにして差し込み、反対側の先を千里のアテンザ側に入れる。そしてポンプを押して油を移動させた。
 
「そんな道具があるんだ!」
「手製」
「すごーい! 細川君って昔から、そういうの得意だったね」
と千里は本気で感心して言うが、美映の視線は冷たい。
 
「油の携行缶に給油するために作ったんだよ。ガソリンスタンドで携行缶に自分で給油するのは違法だろ?でもスタッフにやってもらったら、スタッフ対応の料金になるから高いじゃん。だからセルフでは車に給油して、あとで自分で携行缶にこれで移すんだよ。マリンジェットなんかやる人もだいたいこの方式」
 
「ねじ込むようにして差し込んだね?」
「そう。普通に差し込むだけでは途中で停まる。差し込み方の要領があるんだよ」
「へー」
 
貴司はこのくらい入れれば多分鶴岡か寒河江くらいまでは持つよ、という所まで油を移してくれた。その後、ブースターケーブルをつなぎやすい位置に車を移してからボンネットを開ける。まずプラス同士をつないだ後、ランクルのマイナスとアテンザのエンジン金属部分を繋ぐ。
 
「あ、それプラスとマイナスのどちらをエンジンブロックに繋ぐのか覚えてなかった」
と千里。
「危ないなあ。それ間違うと最悪爆発するよ」
「こわーい!」
 
ランクルのエンジンを掛けて回転数を少し上げる。それでアテンザのセルを回す。
 
「わっ、始動した!」
「良かったね。これ、完全に上がってたみたいね」
「うん」
「だったら、ここで30分くらいアイドリングしてから出発するといいよ。いきなり車を出したら、また落ちるから」
「そうする!」
 
「そのままホームセンターにでも走って行って、新しいバッテリー買って交換するといい」
「私、バッテリー交換できない」
「じゃ、オートバックスかイエローハットにでも駆け込もう」
「そうした方が良さそう」
「カーナビは付いてる?」
「うん、付いてる。それで辿り着けると思う」
「じゃ、もし何か困ったら電話してよ。僕たちも今日は鶴岡泊まりだから」
「うん。できるだけ自分で何とかするけど、どうにもならなかったらお願い」
「了解了解」
 
「でも細川君、ほんとにありがとう」
「お互い様だよ」
 
それで千里は奥さんの方を見て言う。
「美映さんも、足止めさせてしまって申し訳ありませんでした。緩菜ちゃんもごめんねー」
と言って、赤ん坊の頭を撫でたら、緩菜はきゃっきゃっとご機嫌である。
 
「この子、凄い人見知りするのに・・・・」
と美映。
「それに、あなた、私の名前もこの子の名前も知ってるんだ?」
「はい」
と言って千里が微笑むが、貴司は
 
「おいおい、川島。僕の家の家庭争議を引き起こさないでよね」
と言う。
 
「うん、大丈夫だよ。私も既婚者だし」
と千里も言って微笑んだ。
 
千里が既婚者と言ったので、美映は何だか凄くホッとした様子であった。貴司ははその千里の結婚相手が亡くなったことも、むろん知っているがこの場ではそのことは口にしない。言ってしまうと、美映が暴走しかねない。
 

「じゃ、また」
「うん、また」
 
と言って別れたが、美映はたぶん「アデュー」と言いたい気分だろうと千里は思った。
 
『俺、貴司君、好きだなあ。千里、横取りしないの?協力するぜ』
などと《こうちゃん》が言う。
 
『私も信次の三回忌までは控えるよ』
『その後は、開戦?』
と《こうちゃん》はワクワクするように言う。千里はニコッとした。
 
『先走って勝手なことするなよ』
と《とうちゃん》が釘を刺した。
 

千里が東京に戻ると、桃香が悲鳴をあげる。
 
「どこ行ってたんだよぉ? ひとりで大変だったぞ」
「ごめん、ごめん、由美おいで〜」
と言って由美にお乳をあげると、強い力で千里の乳を吸う。早月とも遊んであげる。
 
「それから、ひかわさんって人から何度も電話あったけど」
「うん。ちょっと仕事を頼まれたんだよ。任せといて、バリバリ仕事するから」
「お、なんか元気だ」
 
千里のスマホのバッテリーはそもそも唐津に行く途中で切れてしまっていたのだが千里は充電せずに放置していた。
 
「私、もう未亡人じゃないから」
「ん?」
「私は今は早月と由美の母親」
「私も母親だぞ」
「だから、2人とも母親」
 
桃香は千里の変化に少し戸惑っているようである。確かに今回の旅に出る前と帰ってからでは自分は全然違うだろう。
 
「な。千里、今夜セックスしない?」
「ごめーん。私、三回忌までは控える」
「うん。分かった」
と桃香も無理はしない感じだ。
 
「桃香、セックスしたくなったら、マヤちゃんとこに泊まってきてもいいよ。早月は私が見てるから」
「ちょっと、ちょっと」
と桃香が焦っている。
 
「今日はキスだけね」
と言って、千里は桃香の唇にキスをした。
 
千里の側から桃香にキスしたのは多分一昨年の7月頃以来だ。
 

5月の連休明け、千里が作曲した5曲分のMIDI及び自分で仮歌を入れた音源を持って★★レコードに出て行くと、それを聴いた氷川係長も、加藤次長も
 
「これ、どれもヒットしそう」
と言った。
 
「各々の曲を誰に歌わせるかは、そちらにお任せします」
「うん。ちょっと営業政策を考えて判断する。また更に頼んでいい?」
「いいですよ。今なら1週間に2曲のペースで行けます」
「行けるのはいいけど、後で『もう書けなくなった』なんて言わないでよね」
 
「大丈夫ですよ。その時は七星さんが頑張ってくれますよ」
と千里が言うと、近くでアイドル歌手・松元蘭(後のFlower Gardensリーダー)と打ち合わせをしていた七星さんが咳き込んでいた。
 

千里は翌日、安物のトレーナーとスカートを着て、早月・由美をアテンザの後部座席に2つ並べてセットしたチャイルドシート・ベビーシートに乗せ、新東名・東名・名神を走り、最後は阪神高速を通って神戸市まで来た。
 
スーパーの中庭駐車場に駐める。早月と由美にたっぷりとおっぱいをあげてから、タンデムのストローラーを組み立て、前後して座らせる。そしてまるで買物でもしに行くかのような顔でスーパーの建物の中に入っていった。自販機コーナーで★★レコードの氷川係長と落ち合う。
 
「普段の感じで、子連れで来てくださいと言うので、本当にバーゲンの服着て子連れで来ましたよ」
 
「ええ、とっても素敵です。私も結婚したらそんな感じで出歩こうかな」
などと言う氷川さんはカルダンのビジネススーツを着ている!
 
氷川さんは千里たちを連れていったん外に出て裏側に回り、エレベータで4階に上がる。ここは1〜3階が店舗(本店)で4階が本部、5〜8階は駐車場になっている。
 
「こんにちは、★★レコード制作部の氷川と申します」
と言って名刺を出す。向こうは常務・営業部長の名刺を出すが千里を見て戸惑っているようである。
 
「こちらは作曲家の醍醐春海さんです。醍醐春海というより、むしろ鴨乃清見の名前の方が有名かな」
と氷川さんは言う。千里は一応《作曲家・醍醐春海》の名刺を出した。
 
「鴨乃清見! 大西典香の『Blue Island』とか津島瑤子の『See Again』を書いた作曲家さんですか?」
 
「そうです。そして彼女はご覧のように子育て中の主婦ですので、こちらさんのようなスーパーのための曲を書くには、いちばんふさわしいかと思ったんですよ。それで、子連れで普段通りの格好で来て下さいと頼んだんです」
 
「でも、さすがにこの格好で子供連れて打ち合わせに出るのはちょっと恥ずかしいです」
と千里は言った。
 
実際にお店で買い物してもらった方がいいということになり、千里は早月と由美を連れて1階の食品売場に降り、今晩の晩御飯材料とおやつ、という感じの買物をすることにした。
 
ほんとに普段の買物感覚にしようということで、氷川さんと営業部長さんは遠くで見ている中で千里は買物かごを持ち、ベビーカーを押して売場を見て歩く。漠然と今夜は焼きそばにしようかなと思い、おつとめ品コーナーで半額シールの貼ってある焼きそば麺4人前、30%引シールの貼られたもやし、地産地消コーナーの30円の人参、50円のキャベツと190円の菌床シイタケ、それに見切品処分の豚こま、それと100円おやつコーナーで、桃香の好きな濡れおかきを買った。
 
それでレジに行こうとしてたら、向こうから見知った顔の女性が4歳くらいの男の子を連れてこちらに来るのを見る。
 
「こんにちは〜」
「こんにちは〜」
とお互い、笑顔で挨拶する。
 
「お互い、あの頃はわだかまりがあったけど、今は敗戦の将同士ということでお友だちでいいよね?」
と阿倍子は言う。
 
「うん。握手しようよ」
と千里が言うので、ふたりは握手した。
 
「京平君、元気?」
「うん、ぼくげんき」
「保育所、ちゃんと行ってる?」
「いってるよ。たのしいよ」
「よしよし」
と言って、千里は京平の頭を撫でる。
 
「京平はなぜか最初から千里さんになついてたよね。なんか私、それも悔しかったけど、今はもう許容できるよ」
「お互い、少しおとなになったかもね」
「千里さんも結婚したんだったね?」
と言って、千里が押してるベビーカーを見る。
 
「結婚したよ。子供はこの通り2人。今日は仕事で来たんだけどね。小さな子供がいると放置できないから、チャイルドシートに乗せて連れてきた」
 
「なるほど。でもいいなあ。私も、もう1人か2人欲しかったけど」
「再婚して産めばいい」
「そっか、その手があるか」
と言ってから阿倍子は何か考えている。
 
「まだ若いんだし、行ける行ける」
「ちょっと頑張ってみようかな」
 
「そうだ。京平君に、これあげるよ」
と言って、東京で買って来ていた羊羹の包みを紙袋ごと渡す。
 
「わーい、ぼく、ようかんすき〜」
 
「誰かのお土産に買ってたんじゃないの?」
と阿倍子が訊く。
「ううん、阿倍子さんと京平君に会いそうな気がしたから買っておいた」
 
「あんた、昔からそういうのあったよね! 用意が良すぎるんだ!」
「巫女だから」
と千里は微笑んで答えた。
 
しばらく話してから、ふと阿倍子が言う。
「だけど、貴司ったら、千里さんのこと、あの子は元男の子なんだよ、なんて言ってたけど、やはり嘘だったのね。自分の浮気を誤魔化すのに、そんな馬鹿なこと言ってたんだ。こうやって、赤ちゃんができてるんだもんね」
 
「そうね。男の子は赤ちゃん産めないかな」
と千里も微笑んで答える。
 
「でも信用してくれないかも知れないけど、私、阿倍子さんと貴司が婚約した後は1度も貴司とセックスしなかったよ」
 
阿倍子は微笑んで
「うん。それはきっとそうだろうと思ってた」
と言ってくれたが、その時彼女がとても微妙な表情をしたのが気になった。
 
阿倍子と結局10分くらい立ち話してから「また機会があったら」などと言って別れ、レジに行った。実際にはレジの所には営業部長さんが来て、お金は向こうで払ってくれた。
 

「済みません。古い知り合いに遭遇したもので、つい長話してしまいました」
「いえいえ、スーパーは主婦同士の交流の場でもあると、私は思っていますから」
「自販機の置いてある休憩コーナーのベンチもいいですね。主婦同士長話するのにもいいし、私みたいな子連れの主婦は助かります。子供連れて買物って実はすごく体力・精神力使うんですよ。飲み物あてがっていたら、その間は子供もおとなしいですから」
 
「そういう声は結構いただくんですよ」
 
「でも、ここお野菜が安かった」
 
「近隣の農家と契約して直接新鮮な野菜を仕入れているんです。毎日朝に収穫した野菜を店舗に並べています」
「偉いですね。主婦の側からは、新鮮な野菜が入手できるのは嬉しいです。野菜って、日数がたつととんどんビタミンとかも失われるから」
 
曲は1ヶ月程度以内に書いてもらえばということであった。この仕事は買取りで、千里と歌詞担当蓮菜の取り分はふたりで50万円である(100万円を★★レコードと山分け)。
 
「これ、お金払ってもらったし、そちらにお渡ししますね」
と千里は言ったが
 
「いえいえ、お持ち帰りください」
と言い、若い人に店舗から氷を取ってこさせて、渡してくれた。
 
「保冷箱を差し上げましょうか?」
「いつも車に積んでますから大丈夫です」
 

氷川さんと別れてから桃香に電話する。
 
「ちょっと高岡まで来てくれない?」
「はぁ!?」
「デート中申し訳ないけど」
「デートとかしてないよぉ」
と言いつつ桃香は慌てたような声である。
 
それで千里は、また由美と早月に充分におっぱいをあげて、早月にはパンも食べさせた上で、車を北陸道方面に向ける。ノンストップで4時間走って桃香の実家まで行く。高速を富山ICで降りてから富山駅で《かがやき》に飛び乗ってやってきた桃香をピックアップした。
 
「取り敢えず焼きそばをしよう」
などと言うので、ちょうど帰宅してきた青葉がホットプレートを出してきて、食卓でそれを囲む。
 
朋子がありあわせのタマネギとピーマンを切り、魚肉ハンバーグやウィンナー、なども一緒に焼く。早月はウィンナーをメインに狙っている。
 
「でも今日はどうしたの? びっくりした」
「うん。神戸でちょっとお仕事があったから、そのついでに寄ったんだよ」
 
「千里の感覚では、高岡は神戸のついでに寄れる場所なんだ?」
と桃香が言う。
 
「うん。東京から大阪に行くのに関越から北陸道経由で行ってたりしてたよ」
 

「でも、ちー姉、春休みに見た時と見違えた」
と青葉が言う。
 
「見失っていた鍵を再度見つけたんだよ」
と千里は言う。
 
「霊感を取り戻したね?」
 
「うん。ちょっと復帰することになった青山のお仕事(作曲のことだがこう言えば青葉には分かる)で必要だと思ったから。だから私はもう信次の妻ではなくなった。ただの早月と由美の母親だよ。実は信次にプロポーズされて以来、自分に霊感があったこと自体を忘れてしまっていたんだけどね」
 
「恋愛をするとそうなっちゃう巫女さんは多いみたい」
と青葉も言う。
「でもそれ力を取り戻せる人ってレアなんじゃないの?」
と朋子が訊く。
「うん、そういう人は聞いたことがない。恋愛して結婚してもずっと力を保ったままの人は時々いるんだけどね」
と青葉。
 
「ちー姉が少しでも霊感を持ったまま信次さんと結婚してたら、信次さんは助かったんだろうか?」
 
と青葉は自問したが
「寿命だったのか・・・」
 
と呟く。信次を助けられなかったことは青葉にも結構悔しい思いを残したのであろう。でも《姫様》の見解も、あの日が元々の寿命だったということか、と千里は考えた。
 
「あ、姫様にもお土産がありますよ」
と千里は唐突に言うと、御手洗団子(みたらしだんご)のパックを取り出し、掲げる。すると、団子のパックは消えた。
 
桃香が目をパチクリする。
 
「千里、今のって手品?」
「気にしない方がいいよ、唯物論者さんは」と千里。
「そうする。例外的なことがらは分析しようとすると多大な手間が掛かる」
と桃香。
 
朋子は笑っていた。青葉と一緒に暮らしていれば、この程度のことは日常茶飯事であろう。早月は《姫様》がどうも見えるようで、じゃれ付き、姫様も気をよくして、遊んであげている。私の遺伝子を持ってるから、この子、こういうの見えちゃうのかな、と千里は思った。
 
早月と由美は遺伝子的に同母異父姉妹なのだが、早月は霊感があり、由美には霊感が無いことが、今の千里には分かっていた。
 

由美が泣くので、千里は胸を出して授乳する。
 
何気ない風景なので、そのまま会話はふつうに続いていたのだが、ふと朋子が難しい顔をする。
 
「今、由美が千里のおっぱいに吸い付いてるけど、あんたお乳出るんだっけ?」
「出るけど」
と千里。
 
「なんで〜〜!?

「ああ、それは青葉のしわざ」
 
「えへへ」
 
「出るようにできるんだ?」
「停めることもできるよ」
 
「ひとりで2人に授乳するのは、なんか身体をむさぼり食われているようで割と辛かったから、千里もお乳が出るようになって、私は助かっている」
などと桃香は言う。
 
「でも、早月は私のおっぱいより桃香のおっぱいが好きで、由美は桃香のおっぱいより私のおっぱいが好きみたい」
 
「それぞれ味の好みがあるんだ!」
 
「私は肉をたくさん食べてるから味が濃いかも。千里はほとんど菜食に近いから薄味かも」
と桃香は言う。
 

千里は自分の父と和解できたことを朋子に報告した(電話では既に伝えていたがあらためて話した)。この問題ではこれまでもたくさん朋子に心配を掛けていたし、何度か仲介してあげようか?と言われたこともあった。
 
「それでうちの父、12年掛けて、高校・大学・大学院を修了したんですよ」
「それはおめでたい」
「ストレートに行けば9年で修了できるんですけどね」
「それは他人の1.33倍、勉強したということだな」
と桃香。
 
「そうだ、卒業といえば、ちー姉にも心配掛けた、例の沖縄の麻美さんがとうとうこの春、大学を卒業したんだよ」
と青葉。
 
「例の難病の子か」
と桃香。
 
「高校に入ってすぐに発病して、病院の中で7年過ごしたからね。高校は特例で卒業証書もらったんだけど、退院する1年くらい前からかなり勉強して退院してから予備校に行って、それで大学受けてこちらは4年間で卒業。作業療法士の資格を取ったから、この後、その方面で頑張ると言っているらしい」
 
「自分がさんざん病院にお世話になったから、その恩返しって感じかな」
「そうみたい」
 
「でもあの病気から回復して退院できたのは、麻美さんが現時点では世界で唯一の例らしい」
「物凄く運が良かったんだろうね」
 
と言ってから千里は信次のことを思い起こし胸が痛んだ。
 

「千里、あんた苗字はどうするの?」
と朋子が訊いた。
 
「そのまま」
「じゃ、川島のままにしておくんだ?」
「うん。どっちみち、あと1年半しか使わないし」
「1年半?1年半後にあんた結婚でもするの?」
 
「ん?私、今1年半しか使わないって言ったね」と千里。
「言った」と桃香。
「なんでだろ?」と千里。
 
青葉が苦笑する。
「ちー姉、昔から、そういうチャネラー的な発言があった」
 
「なんか自分で言ってて『へー』とか思うことがあるんだよ」
 
「ただ、婚約した頃からその手の発言が無くなってたんだよ。それからちー姉って、ものすごく用意周到なんだよね。何か必要になるものが全部予め分かってるの。でもそれも婚約した頃から、そういうのが無くなってた」
と青葉は言う。
 
「そこまで自分が変わってしまうほど、信次さんのことを好きになったということなんだろうね」
と朋子が言った。
 
千里は返事をせずに微笑んでいる。
 
「ちょっと妬くな」
と桃香。
 

「ところでまたアテンザ借りてきたんだな。信次君のムラーノでも良かったろうに」
と桃香が言ったので、千里は大告白をする。
 
「あのアテンザは私の車だよ」
「えーーー!?」
と桃香は驚く声を出すが、青葉は
「やはり」
と言う。
 
「以前使ってたインプレッサも、借り物って言ってたけど、本当はちー姉の車だよね?」
「そうそう。インプは6年間で20万km乗って、さすがにエンジンの調子とかがおかしくなってきたんで、アテンザに乗り換えたんだよ」
 
「20万kmって凄い」
「青葉のアクアも、かなりの距離乗ってるんじゃない?高岡と千葉をかなりの頻度で往復してるでしょ?」
「えへへ」
 
「じゃ、千里ってミラとインプなりアテンザを使い分けてたんだ?」
「うん。街乗りはミラ、インプやアテンザは遠乗り」
 
「アテンザがあるのなら、ムラーノはどうするの?」
「康子さんに返却しようと思う。信次と一緒にいる気持ちになれるからムラーノ使っていたんだけど、私は早月と由美のために巫女に戻る決心をしたから信次とはもうコネクションが切れてしまったんだよ。信次は私の守護にも入ってくれていたけど、追い出しちゃった形で。霊的に離婚したも同然。でも多分由美は守ってくれていると思う。そしてそうなると信次との想い出があるムラーノではなく、自分の車で走らないといけないんだよね」
 
青葉も朋子も頷いているが、桃香は
「そのあたりは良く分からんな」
と言っている。
 
「ちー姉、もしかして私、ちー姉の力量を読み誤っていたかも」
と青葉が言う。
 
「私はただの少しだけ霊感がある巫女だよ」
「いや、絶対嘘だ」
 
「まあ、千里は嘘つきだからなあ」
と桃香は言う。
「自分の性別のことではさんざん嘘ついてるし」
「ふふ」
「子供の人数でも嘘ついてるし」
「ふふ」
「中学1年から修士2年までずっと巫女してたことも黙ってたし」
「ふふ」
「霊感があるなんてのもきっと嘘だ」
 
「うん。私は桃香と同様、実は全然霊感が無い」
 
「それはとんでもない嘘!」
と青葉は言った。
 

「三十三箇所巡りをしようかと思うの」
と康子は言った。
 
「良いことだと思います」
と千里は返事をした。
 
「ただ、あれってよく分からなくて。四国のお遍路はルートが確立しているみたいだけど、板東三十三箇所って、本屋さんでガイドブック見てみたけど訳分からんと思った」
 
「四国のお遍路は、ほぼ順番通りに回ればいいんですが、板東三十三箇所は順番とは関係無く、行ける所にダイレクトに行ってくればいいみたいですね。車があれば10日で回れるみたいですよ。全部日帰りで」
 
「千里さん付き合ってくれる?」
「もちろんです」
「それを信次の車の最後のお務めにしようかと思う」
「はい」
 
信次のムラーノは6月末で車検が切れるのである。千里は春頃から車検をするか廃車にするか悩んでいた。
 

実際の巡礼は5月下旬の土日を避けて2週間で行った。桃香に早月と由美を見てもらっていて、千里と康子が2人で出かけた。
 
「千里さん、茶道教室で出会った頃みたいな感じに戻ってる」
 
「私、由美たちを育てないといけないから、お仕事再開することにしたんです。でもそのためには、自分の感覚を取り戻す必要があったから、信次さんの妻を辞めてしまいました。今はただの由美の母親です。それで独身時代の雰囲気に戻ったんだと思います」
 
「信次との出会いで千里さんの人生を変えてしまったのだろうか」
「人生が変わるほどのものを恋愛と言うんだと私は思います」
「そうかもね。。。。私もそうだったなあ。。。」
「お母さんも、娘に戻るといいです」
 
「そうね、それもいいかな。息子たちのことは忘れて、3人の孫に会うのを楽しみにして、趣味に生きようかしら」
「それでいいと思います」
 
3人の孫というのは、千里の子供の由美・早月と、太一の子供の翔和である。
 

巡礼はできるだけ各寺に近い駐車場に駐めるようにしたが、道が細かったりする場合は、遠くの駐車場に駐めてバスなどで移動した場合もある。各寺で千里たちは、鐘がある所では鐘を突いた後、ロウソクと線香に火を点けて供え、ふたりで一緒に般若心経を唱え、お寺の納経所に予め書いておいた心経を納めて御朱印を頂くということをしていった(そのため2人とも心経を33枚書いた)。心経を唱えるのは時間が掛かるので、他の参拝客の邪魔にならないよう、できるだけ端の方でしていた。
 
「千里さん、一周忌がすぎたら、桃香さんと結婚するの?」
「三回忌までは再婚のことは考えません」
「そう・・・・」
「それに桃香とは法的に結婚できないし」
「日本の法律って面倒ね」
「同性婚できる国もありますけどね。私、もしかしたら桃香以外の人と結婚するかも」
 
「誰か好きな人できた?」
「あ、いえ、今私、桃香以外の人と結婚するかもと言いましたね?」
「へ?」
「うーん。。。。私、誰と結婚するんだろ?」
「えーー!?」
 

車で回ってはいても、結構歩くのでなかなか疲れる。それでお茶などが飲めるところがあったら、しばしば入って休憩していた。なお、その日の巡礼が終わるまでは、なまぐさは口に入れないようにしていた。
 
「ね、千里さん。信次の三回忌が済んでから、千里さんが再婚する場合はね」
「はい」
「もし良かったら、由美の苗字はそのままにしてくれない?」
「いいですよ。川島由美のままにします」
「新しいお父さんと養子縁組しないと、相続権とかが無いけど」
「そんなお金持ちの玉の輿になるとは思いませんから、大丈夫です」
「そうね」
 
そういう訳で、1年後から千里と桃香が育てることになる4人の子供は全員苗字が違うということになるのである。
 

6月上旬、千里は桃香・由美・早月と一緒に、都内K市にある政子の実家を訪問した。冬子と政子は都心のマンションに居ることが多かったのだが、現在冬子が精神的にお仕事ができない状態に陥ってしまっているため、4月から2人は政子の実家で、のんびりした生活を送っているのである。この日は冬子の姉の萌依も来ていた。萌依はおおきなお腹を抱えていた。
 
「ひたすら政子やお母さんたちの御飯を作って、あやめにお乳をあげてという生活も悪くないかなという気がしてる」
などと冬子は言う。
 
「ああ、主婦の喜びを覚えちゃったね」
と萌依は言うが
 
「いや、冬子さんは前から政子の主婦してた」
と政子のお母さんは言う。
 
「私、料理できないもーん」
などと政子は言っている。
 
「千里もお乳出るようにしてもらったんでしょ? 赤ちゃんにお乳あげるのって凄く嬉しいと思わない?」
と冬子。
 
「うんうん。母親になれたんだ、というのが実感できるから」
と千里。
 

政子と冬子のファンの方から頂いたお菓子など開けて、のんびりとおしゃべりしていたら、そこに子供を3人(4歳・2歳・0歳)連れた若葉がやってくる。0歳を抱っこ紐で抱いて、両手で4歳と2歳の手を握って、という方式である。若葉の家から政子の家までは数kmなのでバスでやってきたらしい。
 
「若葉、育児係とかベビーシッターとか雇わないの?」
「うーん。家庭に他人を入れるの好きじゃないから」
 
「それはあるよねー」
と政子なども言っている。
 
若葉は和実と冬子の友人なので、クロスロードの集まりにもよく出ており、千里や桃香にもおなじみである。
 
「でも、なんかみんな赤ちゃん連れだね〜」
などと言って、おっぱいをあげながらおしゃべりは続く。
 
「私は小学校や中学校の頃に、たまにコスプレで男の子の格好とかしていた冬を見ているから、そうやって赤ちゃんにおっぱいあげてる冬を見ると、感無量だな」
などと若葉は言う。
 
「私、別に男の子のコスプレしてた訳じゃなくて、普通に男の子として通学してたんだけど」
「いや、冬は基本が女の子だから、男の子の格好してたのはコスプレ」
と若葉。
 
「ああ、冬は高校時代もよく学生服着て、男の子のコスプレしてたよ」
と政子。
 
「私、よくというか高校ではふつうに学生服を着てたけど」
と冬子は言うが
 
「だってこんな写真あるからね」
と言って、唐突に政子がみんなに見せる写真は、教室で女子制服を着て授業を受けている冬子の姿である。2007.12.18という日付が入っている。
 
「ああ、ちゃんと女子制服で授業受けてるんだ? 日付がデビュー前じゃん。冬って最初からこうだったんだ?」
と桃香。
 
「それ合成じゃないのー?」と冬子。
「いや、これが真実だ」と政子。
 
「実際、冬子は中学3年生頃以降は、女子制服を着て出かける時の方が多かったよ」
と萌依が証言する。
 
「千里も中学高校では女子制服で授業を受けてるよね?」
と桃香が訊くと
 
「桃香、私の写真、勝手に見たでしょ?」
と千里は言う。
 
「何のことだろう?」
「まあいいけどね」
 

「だけど、ここのところ赤ちゃんラッシュだよね〜」
 
「政子のあやめちゃんが2月生まれだよね」
「その子、父親は誰なの?有名な人?」
「内緒」
 
あやめの父親が誰かをこの時知っていたのは、この場に居るメンツでは冬子・千里の2人だけである。
 
「千里の由美ちゃんが1月生まれ」
「若葉の政葉(ゆきは)ちゃんが10月生まれ」
「和実の明香里ちゃんが3月生まれ」
「萌依さん、それ予定日はいつですか?」
「来月〜」
 
「明香里ちゃんの出生届って受け付けられたの?」
「通ったと言ってた。拒否された場合は、和実は自分は実は半陰陽だったと主張するつもりだったらしいけど」
「女の戸籍の人が出生届出せば、ふつう何も疑問を持たない」
「ちゃんと医師が書いた出生証明書があるんだから問題無いはず」
 
「でも実際、子供が産めたってことは、本当に和実って実は半陰陽なんじゃないの?」
「和実本人は半陰陽というより、ハイティング陰陽かもって言ってた」
「何それ?」
 
「ハイティング代数というのがあるんだって。ファジーに似てるけど、もっと厳密な概念らしい。自分の性別はハイティング代数で表現できるかも知れないと言ってた」
 
「意味分からん」
と多くの声が出るが
 
「ああ、その可能性はあるかも」
と千里は言う。
 
「どういう意味?」
「正確には完備ハイティング代数 cHa だよ。一般に論理というとブール代数が有名だけど cHa はそれを拡張したもの。物事って真か偽と割り切れるものではなく混じっていることが多い。そういう状態を表現するのにcHaは自然なんだ。混じっているにも関わらず、論理式上は常に《真であるか偽であるかどちらかである》という命題が成立するから。だから性別がcHaなら、男と女が混じっているにも関わらず《男か女かどちらかである》というのが常に成立している」
 
と千里は説明するが
 
「よく分からん」
とみんなの声。
 
 
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