【△・武者修行】(2)

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2017年5月2日(火).
 
この日、千里2は明日の和彦の一周忌のため、高知に移動することになっていた。朋子と青葉が朝から新幹線で東京に出てきたので、千里2はアテンザでふたりを東京駅まで迎えに行った。
 
あきる野市の桃香が入院している病院まで連れて行き、1時間ほど話す。その後、羽田に移動して、千葉から出てきた洋彦夫妻と合流した。今回は彪志は仕事の当番がぶつかっており行けないので、この5人で高知に飛ぶことになる。
 
羽田14:00-15:20高知の便に乗り、高知空港のトヨレンでプリウスを借りる。それで前半の高速道路部分は青葉、その先の一般道路部分を千里が運転して18時前に土佐清水市に入った。
 
まずは和彦の家に行って遺影に手を合わせる。その後、確保してもらっている旅館に入った。夕食に行くと、他の親族たちと一緒になる。しかしみんな疲れているので20時すぎには部屋に引き上げた。
 
洋彦夫妻も朋子も
「疲れたから寝る」
と言って、お風呂にも入らずに寝てしまう。
 
千里も
「私も寝るね〜」
と言って寝てしまったので、結局青葉も寝たようである。
 

21:50.
 
千里2は音も立てずに起き上がると、そっと部屋から出る。青葉が千里の動きに気付いたのは認識したものの、まさか付いてはくるまいと踏んで、そのまま外に出る。そして《きーちゃん》に頼んで、フィラデルバーグに転送してもらった。
 
千里はそれから3時間、スワローズ(PSF Philadelburgh Swallows (Feminine))の練習に参加した。このチームの名前にFeminineが付いているのは、元々は男子チームと女子チームがあったからであるが、男子チームは数年前に廃部になっている。
 
「男子選手は、他のチームに移動するか性転換して女子選手としてプレイするかして下さいと言ったら全員他チームへの移籍を選択した」
とその頃から居たらしいキアラが言っていたが、どこまで冗談なのかよく分からない気もする。
 
「ひとり悩んでた子もいたけど」
 
悩むのか!?
 
残っている女子選手は千里も含めて8人である。その他に入院中のジュディという選手がいる。外国人は千里ともうひとりブラジル人のニコリという子。残りの6人の内、白人が3人(民族までは千里には分からない)、黒人が2人、アジア系アメリカ人(尋ねたら中国系だが中国語は話せないらしい)が1人であった。リーダーは最年長のリンダという白人の子で31歳らしい。
 
黒人のキアラという子とティファニーという子、白人のエマという子の3人が割と強い感じであった。特にティファニーは1on1で千里に3割くらい勝った。彼女は今年WNBAを目指したもののロースターに残れなかったらしい。
 
「ヴィクトリア、なぜ君はWNBAに行かなかった?君なら取ってくれるチームあると思う」
と千里に全く勝てないエマが言ったが
 
「それは無理無理。あそこはレベルが違うよ」
と言って笑っておいた。
 
「まあベンチウォーマーにはなれるかも知れないけどね」
と千里が付け加えると
「WNBAってそんなに凄いのか」
とエマは絶句していた。
 

11:40 EDT(=0:40 JST)で練習は終わり、整理運動・床掃除などをして11:59までに全員体育館から退去した。エンドの時刻をきっちり守るのが、やはりアメリカ流だよなあ、と千里2は思った。PSFの練習が終わった後は、普段は深川の体育館に転送してもらって自主練習をしている(日本時間では深夜の2:00-5:00に相当する)のだが、今日はハードスケジュールなので、《きーちゃん》のアメリカでのお友達に確保してもらっている市内のアパートに戻ってシャワーを浴びた上で睡眠を取る。今日は京平とのデートもお休みである。
 
《きーちゃん》は過去にアメリカに長期間出張していた富士通の社員の眷属として、アメリカでかなり長く暮らしていた時期があり、その時に多数のお友達ができている。
 
千里2は日本時間の6時(アメリカEDT 17時)頃、土佐清水の旅館に転送してもらい、温泉に入った。
 
この温泉で舞耶と遭遇し、しばし義肢のことなどで会話をした。ジャネに貸与している義足はこの1年間に2度も改良を加えたらしい。ジャネがかなり酷使してくれたので、色々問題点が洗い出せたと言って感謝していた。
 
部屋に戻ると、青葉がこちらをじっと見ていた。ああ、きっと私はダラスに行ってきたと思っているんだろうな、と千里2は思った。
 
現在千里1が参加している日本女子代表候補の一行は5月7日までダラスに滞在し、当地のWNBAチーム、Dallas Wings に練習相手になってもらっている。向こうの練習時間は現地時刻の9-18hくらいで、日本時間の23-8hくらいに相当する。
 
そのスケジュールを青葉がチェックしていない訳が無い。しかしさすがの千里2でも、日本の昼間こちらで色々行事をこなしながら、日本の夜間にアメリカで1日みっちりと代表合宿をやれるほどタフではない。
 
千里2がWBCBLに参加することにしたのは、練習相手としてちょうどよいレベルの選手が期待できるのと、セミプロなので練習が短時間で済むからである。千里2は他の千里との行動重複を避けるため普段使っている練習場が日中使えない。今、川崎のレッドインパルスの体育館や深川の体育館に昼間行ったら「え?代表で海外遠征中なのでは?」と言われてしまう。
 
それでアメリカでPSFのメンバーと3時間練習した後、真夜中の深川体育館で3時間ひとりで自主練習をするというパターンにしたのである。なお深川体育館の深夜使用に関しては、運営会社側の承認も取っている。ここはコンサートができるほど音の制御がされているので、深夜使っていても音は外には一切漏れず周囲に迷惑も掛けない(近くにはマンションやホテルもある)。
 

翌5月3日は午前中に和彦の偲ぶ会(無宗教)、そして午後からは咲子の誕生祝いが行われた。
 
青葉と朋子はこの日も泊まって明日帰るということだったが、千里は仕事があるのでということでこの日帰らせてもらうことにした。
 
仕事の都合で明日の朝までに帰らなければいけないという、満彦・紗希のカップルの車に同乗させてもらい、岡山に出ることにした。
 
「紗希ちゃん、私と交代で運転しません?私が運転している間はふたりで寝ていていいし」
と千里が提案すると、紗希は
「OKOK。じゃ先に千里ちゃん寝てて」
と言うので、遠慮無く寝せてもらった。
 

土佐清水を18時に出て、千里が寝ている内に南国SAまで来ていた。ここで運転交代して、千里が運転して満彦と紗希は後部座席に行き、こちらのことは全く気にせずセックスを始める。
 
むろん紗希が男役で満彦が女役である。
 
「こら。もっと鳴け。鳴かないと“また”女性ホルモン打つぞ」
「勘弁して〜。まだ男は辞めたくない」
 
なんて声が聞こえてくる。
 
女性ホルモンなんて用意しているのか!?打つぞというのは注射液??などと思っていたら、更にヤバい言葉が聞こえてきた。
 
「おっぱいだいぶ大きくなってきたね」
「ブラジャーが要るんじゃない?」
「ブラジャー着けてるとカッターシャツ姿にはなれないよ。この夏どうする?」
「いっそ会社にスカート穿いて行こうか」
 
それって・・・既にもう男辞めてないか?
 
これまで既にかなり、罰として?(むしろご褒美だったりして)女性ホルモンを打たれているのでは??2人はこの6月に結婚式を挙げる予定らしいが、ウェディングドレス同士の結婚式になっちゃったり!?
 
満彦は紗希に言葉責めされて興奮し、かなり女声に近い声で返事をしている。そういう声の出し方もたぶん随分練習させているのだろう。
 
なお、南国SAから高瀬PAまでの80kmほどを千里2自身が運転し、その後は千里に擬態した《つーちゃん》が運転している。それで岡山駅で運転交代して“千里”は降りて新幹線に乗り継いだものの、車を降りた時に満彦が完全女装してお化粧もしており、胸の開きの大きな服なので乳房が実際確認できるような状態であった(つまりほぼ女性化している)のを、千里2に報告しておくべきかどうか、《つーちゃん》は少し悩んだ。
 

《つーちゃん》はこの後、最終新幹線で大阪まで移動して村山千里名義でホテルに泊まる。
 
千里2自身は高瀬PAからフィラデルバーグに転送してもらい、この日もスワローズの練習(日本時間で22:00-25:00)に参加。終わった後は市内のアパートで寝た後、日本時間の朝に大阪の貴司のマンションに転送してもらい、京平と戯れる。その後、タクシーに乗り、《つーちゃん》が泊まっているホテルに移動し、彼女を吸収してから新幹線で東京に帰った。
 
(つまり貴司とは会っていない)
 

5月6-7日、WBCBLのレギュラーシーズンが始まり、スワローズ(PSF)はヴィクトリア(千里)の活躍で2連勝と、快調な滑り出しを見せた。
 
この2日間の試合は現地時刻16:00からであった。日本時刻では朝5-7時に相当し、この日は京平とのデートはお休みさせてもらった。なお桃香の病院を訪れるのはだいたい日本時間13-15時なので、これはアメリカ時間では夜中0-2時にあたり、全然問題がない。
 
※京平が3人の千里とデートする時間
千里1 AM2時頃 CDTでは昼の12時だが、アメリカ遠征中はデートお休み。
千里2 AM5時頃 EDTでは16時。千里2は平日はその時間帯、日本に居る。
千里3 PM2時頃 CESTでは朝の7時。千里3は朝食時でまだ練習開始前。
 
京平も全く重労働である。
 
※阿倍子の睡眠時間
 AM1:00-10:00 PM 2:00-4:00 つまり起きているのは10:00-14:00と16:00-1:00  彼女は体力が無いので1日の約半分は寝ている。京平はそれをいいことに 千里を引き込んでいる!
 
※4/30-5/13の3人の千里の生活時間帯
 

※上記はテキサス。シアトルでは2時間ずれる。
 

一方、千里1が参加している日本女子代表候補の一行は5月7日にダラスから同じテキサス州内のサンアントニオに移動した(直線距離400km。飛行機で1時間、東京から大阪までくらいの距離)。ここでもまたWNBAのチーム San Antonio Stars に練習相手になってもらう。そして5月9日(火)にはサンアントニオからシアトルへと移動する。これが実は大移動である。
 
アメリカの地図を眺めただけでは感覚がつかみにくいのだが、移動距離は3000km, 日本で言うと沖縄の西端・与那国島から北海道の北端・稚内までくらいの距離がある。飛行機で4時間半である。実際には千里1たちは下記の便で移動した。
 
SAT 5/9 18:59 (AS603 737-900WL)- 21:33 SEA
 
サンアントニオの時間帯はCDT(UTC-5)で、シアトルはPDT(UTC-7)。2時間の時差があるので、到着時刻が出発時刻の2時間半後に見えるが、実際には4時間半掛かる。日本時間に直すと、5/10 8:59 - 13:33 に相当する。
 
そして千里1が飛行機に乗っている間に、事は動いたのである。
 

桃香は(日本時間)5月9日のお昼過ぎ頃から、陣痛が始まった。
 
この知らせは、桃香に付いていた《きーちゃん》が、まず千里2に伝えた。
 
桃香に付いておく係は元々は女性眷属が交代で務めていたのだが、千里1の海外遠征で、病み上がりの千里に特に《びゃくちゃん》と《いんちゃん》は付けておきたかったこと、(増殖前の)千里が桃香に何かあったら天野貴子さんに連絡してと言ってアドレスを渡していたことから、《きーちゃん》が日本に残った方がいいだろうと《とうちゃん》が決めたのである。
 
それで《きーちゃん》が桃香のお世話係として日本に残り、また《せいちゃん》は運転免許取得でやはり日本に残って、他の9人が千里1に付いてアメリカに一緒に行っていたのだが、それはとても工作しやすい状況を意味した。
 
千里2は元々毎日午後1〜3時くらいに桃香の所を訪問していたので、すぐ桃香の病院に入り、桃香を励ました。
 
「今の内に少し寝ておいた方がいいと思う」
「寝るって、痛いんだけど」
「実際に産む時はもっと痛くなるから」
「千里代わってくんない?」
「私は1度出産しているからね。今度は桃香の番だよ」
「やはり千里、出産しているのか?」
 
しかし実際桃香は眠ってしまった。桃香も神経が太いし合理主義者なので、今寝ておく必要があると理性で判断したら、その通り実行するのである。
 

桃香が眠ったのを見て《きーちゃん》は千里2と話し合った上で、まず千里3に伝えた。日本の14時はフランスの朝7時である。
 
『いよいよ来たか。でも今日は1日練習があるから、練習が終わった後、そちらに転送してもらえない?』
『こちらは初産だし、1〜2日掛かると思うんです。ですから、いよいよという時に転送しますよ』
『そっかー。それがいいかな』
 
更に千里1にも連絡する。日本の14時はサンアントニオでは夜中の0時である。千里1はちょうど寝た所だったが、報せを聞き、様子を見に行くと言った。しかし《きーちゃん》はやはり、まだまだ時間が掛かるから、いよいよの時に転送すると言って、了承してもらった。
 
一方千里2は朋子にも連絡した。朋子はすぐそちらに向かうと言った。
 

朋子と青葉は18:28東京着の新幹線で来るということであった。渋滞するのを見込んで17時前に《きーちゃん》に留守番を頼み、ふたりを迎えに行く。千里2は最近オーリスで桃香の病院まで往復していたので、そのままオーリスで東京駅に向かった。
 
「この車は初めて見た」
と青葉が言う。
 
「例によって借り物〜」
と千里。
 
「あんたいろんな車を借りてくるんだね」
と朋子が言っていた。
 
あきる野市まで走るが夕方でもあり、なかなか時間が掛かる。
 
「あの子はなんでこんな不便な病院に掛かった訳?自分のアパートからも遠いでしょ?」
と朋子が文句を言う。
 
「人工授精を長野の水浦産婦人科という所でして、ここがそこと提携関係にあるからなんですよ」
「へー!」
「まあ東京駅から来ると不便ですけど、ここの先生は大きな病院の産科部長をしてもいいくらいの名医です」
 
「わぁ、そんな名医なら安心ね」
と朋子は名医と聞いて、一転して笑顔で言った。
 

大間産婦人科に到着したのは20時半である。
 
千里は《きーちゃん》から報告を受け、桃香は引き続き寝ていることを確認する。青葉と朋子をエレベータに乗せて病室に案内する。《きーちゃん》自身は青葉たちが来る前に階段で下のフロアに降りた。
 
「寝てるのね」
「結構痛いみたいですけど、まだ痛みも序の口未満だからというのでできるだけ体力を蓄えるのに寝ていた方がいいと先生がおっしゃったら、寝てしまいました」
 
「うん。寝られるなら寝ていた方がいい」
と朋子。
 
患者の実母が来たというので、赤木という名札を付けたベテランっぽい助産師さんが朋子にも状況を説明してくれた。それですぐに動く状況ではないということで、今夜はホテルで待機することにしてもらう。
 
千里は青葉と朋子を車に乗せて駅近くのホテルに入る。チェックインして荷物を置いた後で、3人で一緒に近くのレストランに行った。
 
千里は青葉と朋子を先に席に座っていてと言うと、携帯を取り出し、スワローズのアトキンスコーチに電話した。こちらの21:30は向こうの8:30である。向こうの練習は9:00から始まる。
 
「ヴィクトリアです。大変申し訳ありません。親友に子供が産まれそうで、付いていたので今日の練習はお休みさせて頂けませんか?」
「ああ、いいよ。じゃ元気な赤ちゃんが生まれるといいね」
「ありがとうございます」
 
それで青葉たちの座っている席に行く。オーダーをした後で青葉から尋ねられた。
 
「ちー姉、バスケの練習の方はいいの?」
「うん。今日はお休みさせて下さいと連絡したよ」
と千里は答える。
「ああ、それを今電話していたのね」
と朋子は言った。
 

晩御飯を食べた後は、2人をホテルに置き、千里は病院に戻った。
 
桃香は午前4時くらいに目を覚ました。傍の補助ベッドで寝ていた千里2も起きる。
 
「痛い」
と桃香は言っている。陣痛の間隔が短く、そして痛みも強くなってきたようだ。取り敢えずナースコールする。
 
「呼吸法思い出して」
と千里が言う。
 
「あっそうか」
 
桃香が「ヒー」「フー」と低い声を出しながら腹式呼吸をする。千里はお腹をさすってあげた。
 
若い助産師さんがやってきたが、ふたりの様子を見て
「うん、そんな感じで頑張りましょう」
と声を掛けて出て行った。
 

やがて朝になる。
 
6時頃、千里3から《きーちゃん》に直信がある。
 
『そちらどう?』
『まだあと4−5時間掛かる感じです』
『だったら私今から少し寝るけど、いよいよの時は起こして』
『はい、そうします』
 
それで千里3は取り敢えず寝ることにした。
 
こちらの朝6時はフランスでは夜23時である。
 
朝御飯も来るが、さすがに食べるのは無理なようだ。千里も何も食べずに、ひたすらお腹をさすっている。
 
「千里それ疲れない?」
「桃香よりは楽」
「それはそうかも。こんなに辛いものとは思わなかった」
 
「まだまだ痛みは序ノ口だよ」
「やはりそうか」
「これから序二段になって、三段目、幕下と進んで」
「何の話をしている?」
「幕内、小結、関脇、大関、そして横綱になる」
 
「済まん、もう少し楽しい話をしてくれ」
 
「序の口で女の子パンティを穿く」
「はぁ?」
「序二段でブラジャーをつける」
「へ?」
「三段目でスカートを穿いて」
「ほほお」
「幕下でお化粧して女装外出」
「ふむふむ」
「幕内で脱毛して」
「なるほど」
「小結で女性ホルモンを飲んでおっぱいを膨らます」
「おぉ」
「関脇で去勢して男の子は卒業」
「そこで卒業か」
「大関で性転換手術したら立派な女の子」
「横綱は?」
「卵巣と子宮を移植して子供も産めるようになる」
 
「もしかして千里ってその状態?」
「まさか。卵巣や子宮を移植しても拒絶反応が起きて定着しないと思うなあ」
 

最初の頃は千里と与太話をしていて結構気が紛れていたのだが、次第にとてもそんな余裕が無くなってきたようである。それでも千里2は右手で桃香の手をにぎり、左手でお腹をさすりつつ、色々話してできるだけ桃香の気が紛れるようにしてあげていた。
 
7:30すぎ、朋子と青葉が来る。朋子が桃香のもう片方の手を取ってあげ、青葉が千里に代わって、お腹をさすってあげる。と同時に青葉はヒーリングもしてあげているようであった。それで朋子が「千里ちゃん、少し休んで朝御飯でも食べておいでよ」というので、千里2も少し休むことにする。それで
 
「じゃちょっと食事してくる」
と言って、部屋を出て行った。
 

サンアントニオで合宿中の千里1はこの日は早めに練習を切り上げ、次の合宿地であるシアトルに移動することになる。サンアントニオ空港に移動して早めの夕食を取った。飛行機が18:59(=8:59JST)に離陸するので、千里1は空港の出発ロビーから桃香のスマホに電話してみた。桃香はたぶん取れないだろうが、誰かそばにいる人が取るだろう。
 
「あら?千里ちゃん」
という声は朋子である。
 
「桃香さんの様子はどうですか?」
「特に変わりは無いよ。私と青葉が付いているから、そちらは少しゆっくりしてきて」
「分かりました。しばらく通信途絶しますが、何かあったらメール下さい」
「あ、うん」
 

しかし朝食に出た千里(千里2)は20分ほどで戻って来たので、朋子が
 
「あら、もう少し休んでいれば良かったのに」
と言った。千里2は明らかに疲労の顔を見せていた。明け方からずっと桃香を励ましつつ、お腹をさすっていたので、やはりかなり疲れている。それで千里もベッドのそばで少し休ませてもらっていた。
 
10時頃、破水が起きる。それで分娩室に行きましょう、ということになる。それでみんなで行こうとした所で桃香の携帯が鳴った。
 
千里(千里2)が「私が出る。みんな行ってて」というので、千里を置いて青葉や朋子は病室から出て行った。
 
それを見送って千里2がスマホの画面を見ると千里3からである。こちらの10時は向こうの午前3時だが、気になって起きたのであろう。
 
《きーちゃん》が取った。
 
「千里さん、いよいよ分娩が始まります。こちらに来ますか?」
「ほんと?行く」
「でしたら準備があるので30分待ってもらえます?」
「分かった」
 
それで千里2はいったん部屋から出ると、そのまま分娩室に行った。朋子に「誰からだった?」と訊かれたので「お友達からです」と答えた。
 
初産でもあり、けっこう時間が掛かっているものの、お産は少しずつ進行していく。30分ほど経ったところで千里2は
 
「ごめん。ちょっと疲れた。すぐ戻る」
と言って、分娩室の外に出た。
 
そして千里2は、桃香が入院していた部屋の隣の部屋に入った。ここは空き室になっている。
 

千里2がその部屋に入ったのを確認して、《きーちゃん》はフランス・マルセイユにいる千里3に声を掛けると、桃香の病室に転送した。
 
「すみません。人目の無い所で転送しないといけないので」
「ああいいよ」
 
それで千里3は
「その服はまずい」
と言われて、用意していた別の服(実は千里2が着ているのと同じ服である。この日のために2着同じ物を用意していた)に着替えた上で、《きーちゃん》に教えられて分娩室の中に入った。
 
この時間帯、もうひとつの分娩室でも別のお産が進行していて、そちらが逆子で難産になりつつあったこともあり、看護師さんや助産師さん、更には医師まで双方の分娩室に結構出入りしている。
 
用意していた“助産師の服”を着け、顔もマスクで覆った千里2は、助産師や医師の出入りのタイミングを見計らって桃香のいる分娩室に入った。
 

お産はかなり進行している。青葉と朋子が桃香の手を握って励ましていたが、やがて千里3が朋子と交代し、青葉と千里3が手を握る形になった。
 
出産を直接介助する場所、桃香の左側のお股付近には若い助産師さんが居るが、経験が浅いようで心細そうな顔をしている。そこで千里は傍に寄ると「任せて」と言って、その位置に自分が入った。
 
「はい、いきんで」
と桃香に声を掛ける。
 
そろそろ11時になる。千里2は分娩室の隅で不可視の状態で待機している《つーちゃん》に時報と同時に彼女に預けている自分の携帯のストップウォッチを押してくれるよう頼んだ。
 
赤ちゃんは少しずつ産道を進んでいる。
 
そしてとうとう赤ちゃんの頭が出てくる。千里2は「いきむのはやめて。短い呼吸に切り替えて」と桃香に声を掛ける(この段階でいきむと、赤ちゃんが一気に飛び出して膣口が激しく裂けるため)と、手を使って補助し、赤ちゃんの身体をできるだけ抵抗が少ないように姿勢制御しながら、外に出してあげた。
 
実はここで千里2の中に《きーちゃん》が入って、助けてあげていたのである。《きーちゃん》は過去1000年ほどの間に数百回お産に立ち会っている。産婆さんが間に合わずに彼女が取り上げた子も数十人居る。もっとも今回は約60年ぶりの出産介助であった。千里の女性眷属の内、若い《すーちゃん》以外の5人は全員出産介助の経験もあるし、自分が出産した経験もある。
 
(鳥族のすーちゃんはひょっとして卵で産むのだろうか?と千里は訊いてみたことはあるが『ひ・み・つ』と言っていた。天女族のきーちゃんは胎生である)
 

千里2は赤ちゃんの身体が全部出てきた所で、シートの上に置き、お股を確認した。
 
お股には何も付いていない。
 
「女の子ですね」
 
ともうひとりの若い助産師さんが声を出した。その若い助産師さんが赤ちゃんの身体をガーゼで拭いている間に、千里2は赤ちゃんの外形に奇形などの異常が無いかを確認する。この作業は一緒に居る医師もしているはずである。
 
《高園》とネームの入ったネームプレートを赤ちゃんの足に装着する。その上で医師が臍帯を結索して切断する。
 
その次の瞬間くらいに、それまでヒフッヒフッという感じで呼吸をしようとしていた赤ちゃんがとうとう「おぎゃー」という声を出した。部屋の中にホッとした空気が流れる。
 
その産声が聞こえた瞬間、分娩室の隅にいた《つーちゃん》が預かっていた千里の携帯のストップウォッチを停めた。つまりこの子の出生時刻を計時していたのは実は《つーちゃん》であった。
 
千里2は赤ちゃんを抱いて支えたまま桃香に抱かせる。桃香は形だけ抱きしめる。とてもしっかり抱くだけの体力はない。そのあと千里2は赤ちゃんを千里3に渡した。
 
千里3が嬉しそうな顔で赤ちゃんを抱いて撫でている。赤ちゃんはその後、千里3から、祖母である朋子に直接渡される。それを見て千里2は若い助産師さんに「ちょっと向こう見てくるからお願い」と声を掛けて分娩室の外に出た。そして外で待機していた朱音に
 
「女の子でしたよ」
と告げた。
 
千里2はそのままさっきの空き病室に入り、助産師の服を脱いで、元の服を着た。この助産師の服は、この病院でいちばん背の高い助産師さん:赤木さん:の服から予め作っておいたクローンである。この服は《つーちゃん》が持ち出して処分する。
 

やがて《きーちゃん》からの直信に促されて、千里3が分娩室から外に出てきて、桃香の病室に移動する。そして元の服装に着換えた上でフランスに再転送された。
 
それを見て千里2はまた分娩室の方に戻った。
 
つまり、分娩室にいる人には、千里がいったん外に出るもすぐ戻って来たように見える。
 

なお分娩室では、赤ちゃんは千里3が朋子に渡した後、朋子が青葉に抱かせていた。
 
千里3は、赤ちゃんは桃香の次に自分が最初に抱いたと認識している。
 
しかし実は赤ちゃんを最初に抱いたのは千里2で、その後、桃香→千里3→朋子→青葉だったのである。
 

その後、桃香は出産直後に分娩室の中で眠ってしまうという大胆なことをしたものの15分ほどで起きて
 
「あそこが痛い」
と言う。
 
「まあ痛いだろうけど、本番は終わったから、あとは傷が治るのを待つだけだね」
と朋子は言っていた。
 
「実際問題としてかなりの安産だったけどね」
と朋子が付け加えると
 
「あれで〜〜!?」
と桃香は言っていた。
 

16時頃、病院の外を焼き芋屋さんの「いーしやーきいーもー」という声が聞こえて通り過ぎていった。
 
それを聞いた朋子は唐突に言った。
 
「そういえばお昼食べてなかったね」
 
すると千里2が言う。
 
「私が付いているから、お母ちゃんと青葉はごはん食べてくるといいよ」
 
「そうだね。じゃそうしようか」
と朋子も言い、2人は出て行った。
 
それを見送るようにして千里は《つーちゃん》に桃香を見ておいてもらい、いったん部屋の外に出て、1階のロビーで休憩した。
 

千里1はシアトル・タコマ国際空港に現地時刻の21:33に到着した。1週間ほど滞在したテキサス州の時刻に時計を合わせたままの子が多く、その子たちの時計では23:33であり、みんなかなり眠そうであった。
 
しかし「晩御飯は?」などと言い出す食欲旺盛の子もいる。結局、寝たい人はそのまま部屋で寝て、御飯食べる人は一緒に食べに行こうということになる。
 
千里1は空を飛んでいる最中に『産まれた』という報せを《きーちゃん》からもらい、更に着陸直後、生まれたての赤ちゃんの写真が桃香のスマホから千里1のiPhoneに送られて来ていた。それで早く1人になって日本に飛んでいきたい気分だったのだが、高梁王子が
 
「最後の合宿地でもいいゲームができるように前祝いしましょう」
といってかなり強引に千里と玲央美を誘ってレストランに行ったので結局付いていくことになる。
 
それでやっと1人になれたのは23時(日本時間の15時)すぎであった。それで《きーちゃん》に連絡すると『転送できるタイミングを少し待って下さい』というので、しばらく待機していた。
 
結局0時(日本の16時)をすぎて少しした頃
『今なら大丈夫です』
というので、日本に転送してもらった。
 

病院の廊下である。
 
見ると透明なガラスの向こう側が新生児室だ。
「あそこに寝ているのが桃香の赤ちゃんですよ」
と実体化して《天野貴子》の状態になっている《きーちゃん》が言った。
 
「わあ」
「だっこしたいよね?」
「うん」
 
それで《きーちゃん》がちょうど近くを通った赤木助産師に声を掛けた。(赤木助産師は《きーちゃん》を千里の親友・天野さんと認識している)
 
「ああ、赤ちゃんのパパでしたよね」
と助産師さんが言い、千里1だけ中に入れてくれた。
 
手で抱っこすると凄く幸せな気分になった。京平に続く2人目の子供である。自分は京平の母親になったが、この桃香の子供については父親になっている。父親という所が少し引っかかるものの、自分の遺伝子を受け継ぐ子の誕生に千里1は感激していた。
 
5分くらい抱っこしてから新生児室を出た。
 
「桃香は?」
「病室で寝ているけど、どうする?」
「ちょっと顔だけ見て行こうかな」
「うん」
 

それで《きーちゃん》の案内で千里1は桃香の病室に入った。すると千里1が入って行った途端、桃香が目を覚ました。
 
「桃香、頑張ったね」
と千里1が言う。
 
「ありがとう。千里こそ朝4時頃から赤ちゃん出てくる11時すぎまでずっと手を握ったりお腹さすったりしてくれてありがとう」
と桃香が言う。
 
千里1が首をひねるが、《きーちゃん》が唇に指を立てて「しーっ」というポーズをする。それで千里1は桃香の記憶が混乱しているのだろうと思い、話を合わせることにした。
 
「赤ちゃん今どんな感じかな」
と桃香が言うので
「今新生児室でだっこしてきたけど、すやすや眠っていたよ」
「そうか。私も寝せてもらおう」
「それがいいよ。産気づいてからほぼ1日頑張ったもんね」
「うん。なかなか大変だったよ。千里も前産んだ時大変だった?」
「ああ、結構苦労したよ。青葉に助けてもらった」
「今回も青葉がなんかヒーリングしてくれているって感じで助かったよ」
 
「まあ青葉が自分で産む時は、誰も助けてあげられないけどね」
「その時は私と千里で手を握ってあげよう」
「うん。それがいいね」
 

千里1と桃香が話している間《きーちゃん》は廊下に居たのだが、この機会に《小春》との交信を試みた。
 
『謎の男の娘さん、いますか?』
『あなたは・・・貴人さん?』
『去年の春のツアーの時に共同作戦しましたね』
『ええ。あれは結構面白かったですね』
『でも良かった。千里があなたと交信できないといって心配していました』
『ごく近くで鍵を共有している人としか交信できないのかも。千里に呼びかけても気付いてくれない』
『落雷のショックかな』
『私自身、もう余命幾ばくもないのです。実際もう足腰も立たないし。それで力が衰えているから遠くまでは交信できないのかも』
 
その話はこの正月に聞いていた。小春は本来は千里が12歳の時に死亡する予定だったらしい。それがある事情のために、生きながらえていたのである。
 
『私は昨年の作業の都合で千里から鍵を預かっていたんですよ。それが生きているみたい。千里に鍵を返します。それで多分交信できるようになりますよ』
『助かる!』
 

千里と桃香は30分くらい話していたが、千里があくびが出てしまう。
 
「ごめんごめん」
「いや。千里も疲れたろう。少し寝るといいかも」
「それもいいかな。じゃ桃香もまた寝るといいよ」
「うん。私もまた眠くなってきた。少し寝るよ」
「じゃおやすみ」
「おやすみ」
 
それで千里が部屋の外に出てきた所で《きーちゃん》は千里の手を握った。
『あっ』
 
『小春さんの鍵を渡しました』
『小春?』
『良かった。千里!交信できた』
 
「じゃ転送します」
と《きーちゃん》は言って、千里1をシアトルに転送した。
 

それが終わると、ロビーで待機していた千里2が病室の所まで戻って来た。
 
「桃香さん寝ちゃった」
「うん。お疲れ様でした。きーちゃんも寝てて。ずっと起きてたでしょ?」
「うん。じゃ少し寝るから何かあったら、つーちゃんに」
「OKOK」
 
それで千里2は《きーちゃん》を自分の中に吸収して《気の海》の中で眠らせた。そして病室に入って、眠っている桃香のそばの椅子に座った。
 

それで青葉たちが食事から戻るのを待っていたのだが、千里2自身もいつの間にかうとうととしていたようである。戻って来た青葉に起こされる。
 
「ちー姉も私たちと同じホテルに泊まる?」
「あぁ、それがいいかも。ここからアパートまで運転して戻っていて居眠り運転でもしたら怖いし」
「それは絶対危ないよ」
と朋子が言う。
 
「じゃホテル取ったら部屋番号メールするね」
「うん」
 

それで千里は病院を出ると、オーリスは駐車場に置いたまま、コンビニで飲み物を買ってホテルまで行き、部屋を1つ取って寝た。これが17:30くらいである。
 
21:30(=8:30EDT)、つーちゃんが起こしてくれる。それで千里は顔を洗い、練習着に着換えて、きーちゃんに転送してもらってフィラデルバーグに行った。3時間スワローズのメンバーと汗を流してから、市内でひとりでお昼を食べ、その後、深川に転送してもらってまた2時間(日本時間2:00-4:00)練習した。普段は3時間ほど練習するのだが、疲れていて眠りながらシュートするような感じになったのでそこで切り上げた。更にはその後の京平とのデートも《きーちゃん》に今日はお休みと伝えておいてと言っておき、ホテルの部屋に転送してもらって熟睡した。
 
PSF(日本時間) 千里2病院滞在
_9日(火)22-25h 13-24 (練習を休ませてもらう)
10日(水)22-25h _0-18 (↑から引き続き滞在. ホテルで仮眠した後PSF)
11日(木)22-25h 10-18 (通常)
12日(金)22-25h _9-14 (病院の後青葉と一緒に冬子の所に)
13日(土)試合↓ _9_13 (通常) (帰国した千里1が20-21時訪問)
14日(日)_5-_7h 10-16 (この後青葉と一緒にベビー用品を買いに)
15日(月)22-25h **-** (千里1が付き添い桃香退院。青葉たちは帰る)
 

起きたら(5/11)9時すぎだった。顔を洗って朝食を取ろうと1階ラウンジに降りて行ったら、青葉と朋子も朝食を食べている所だった。
 
「さすがに疲れた」
などと言って、同じテーブルに座る。青葉が
 
「ちー姉、今日のバスケ練習は?」
と訊いてくる。
 
千里は微笑むと
「今日はさすがに辛かったから1時間早めに切り上げさせてもらった」
と答える。
 
「練習してたんだ!」
「まあそれがお仕事だからね」
 

3人で一緒にタクシーに乗って病院に行く。
 
桃香は起きていて、赤ちゃんも既に同室になっていた。桃香はこの赤ちゃんの名前を《早月》(さつき)にしたいと言い、千里2も同意した。
 
この日は朋子・青葉・千里2はずっと桃香に付いていた。桃香のお乳に関しては最初若い佐藤という助産師さんがマッサージしてくれたのだが、全然出る気配が無い。それで千里が
 
「それじゃダメだよ。貸して」
と言って、交代してしっかりと《お乳の元栓》付近を強力にマッサージする。桃香が「痛たたたたた!」とかなり悲鳴をあげたが、それで少しお乳が出た。
 
「わぁ初乳だ」
と青葉。
 
「凄いですね。すみません。経産婦の方ですか?」
「うん。まだ1人しか産んでないけどね」
「さすがですね! すみません。まだ助産師になりたてなもので」
「でも助産師になるには介助もおっぱいマッサージもたくさんしているはずなのに」
「すみませーん。ベテランの人に頼ってばかりで」
「でもその内、ちゃんとできるようになるわよ」
と朋子が励ましていた。
 
出た初乳は早速早月に飲ませてあげた。
 

12時になったので、朋子・青葉・千里2はお昼ごはんを食べに外に出た。
 
3人が出かけてすぐ、まだ桃香が病院のお昼ごはんを食べている最中に桃香のスマホに千里から電話が入る。実はフランスに居る千里3である。向こうは朝5時で起きた所であった。
 
「はい」
「桃香、体調はどう?」
「あ、えっと・・・まだあそこは痛いけど、だいぶ体力は回復してきた感じ」
と答えつつ、なんで今更そんなこと訊くのだと桃香は思っている。
 
「赤ちゃんはもう同室になったんだっけ?」
「・・・・今朝から同室になってるけど」
「お乳出た?」
「出たから、初乳を飲ませたよ」
「すごーい。桃香優秀だね。名前は決めた?」
「あ、えっと早月(さつき)にしようかと」
「どんな字?」
「早い月で、さつき」
「ああ、女の子だとそういう画数の少ない名前いいかもね」
「まあ私は男でも女でも、その名前にするつもりだったんだけど」
「了解了解。その名前でいいと思うよ。まだしばらく戻れないけど、何かあったら報せてね」
「あ、うん。ゆっくりしてきて」
 
それで電話を切ったが、桃香は「やはり千里はおかしい!」と思った。ちなみに《しばらく戻れない》というのは、千里3は7月くらいまで戻れないという意味で言ったのだが、桃香はお昼ごはんに時間が掛かるという意味にとっている。
 

それで桃香がお昼を食べて、自分でトレイを下げてきて、その後、ひよこクラブを読んでいたら、また千里から電話が入る。実は今度はアメリカのシアトルに居る千里1で、向こうは夜8時。夕食の後、会議があって、それが終わって自分の部屋に戻った所であった。
 
「はい」
「桃香、体調はどう?」
「あ、えっと・・・だいぶ体力は回復してきた感じかな」
 
と答えつつ、こちらはいいけど、千里こそかなり重症だぞ、と桃香は思った。
 
「痛くない?」
「痛いけど、何とか我慢してる」
「痛み止めとかもらった?」
「医者は処方すると言ったけど、お乳に混ざると嫌だから要らないと言った」
「お乳はもう出た?」
「出たよ」
「すごーい。桃香、優秀だね」
「そうかな」
 
「赤ちゃんはもう同室になったんだっけ?」
「・・・・今朝から同室になってるけど」
「そっかそっか。名前は決めた?」
「あ、えっと早月(さつき)にしようかと」
「どんな字?」
「早い月で、さつき」
「ああ、5月生まれだもんね。それでいいんじゃない?」
「いや、千里、何か名前の案あった?」
 
桃香は千里と3回も名前の話をして、実は千里は別の名前を考えていたのではという気がしたので訊いてみた。
 
「ううん。桃香が産んだんだもん。桃香が決めていいよ」
 
そういう訳で、早月という名前に関して桃香は千里に3回!了承を得たのである。
 

翌5月12日。
 
この日は朝からお医者さんが出生証明書を書いてくれたので、青葉が留守番をして、朋子と千里(千里2)で、出生届を出し、その足で出産育児一時金の申請に行った。あきる野市秋川→世田谷区世田谷→千代田区神田という結構な大移動なので、時間も掛かったようである。使用した車は9日に千里2が病院に来る時に使ったまま病院の駐車場に駐めっぱなしになっていたオーリスである。
 
12時になり桃香は病院のお昼ごはんを食べるが、青葉は朋子たちが戻ってから、お昼を食べに出ようと思っていた。やがて桃香が食べ終わり、自分で食器を返しに行く。桃香は「ついでに飲み物買ってくるね」と言って部屋を出た。
 
その桃香が出ている間に、テーブルに置いてある桃香のスマホに着信があった。見ると千里なので、青葉は自分が取ってもいいだろうと思い、電話に出た。
 
「お疲れ様、ちー姉。今、桃姉は飲み物買いに行ってるんだよ」
「ああ、青葉か。桃香と早月、問題は無い?」
「うん。どちらも特に問題は無いよ」
「それなら良かった。こちらは今終わった所。あとは帰るだけだから」
「お疲れ様。大変だったよね。気をつけて帰って来てね」
「うん。ありがとう。青葉もあまり無理しないようにね」
「うん」
「それじゃまた」
 
それで電話を切った。
 
桃香はどうもロビーで雑誌でも見ていたようで20分くらいしてからやっと部屋に戻ってきた。
 
「20分くらい前にちー姉から、今から帰るって電話あったよ」
「ああ。今日は結構な距離の移動だから大変だよね」
 

なお、この時電話を掛けてきたのは、出生届などの手続きに行っていた千里2ではなく、アメリカで合宿をしていた千里1である。
 
日本の5/12 12:30は、シアトルでは5/11 20:30 で向こうでは合宿の全ての日程が終わった所であった。それが千里が言った「終わった所」である。明日はもう帰国の途に就く。千里1たちは次の便に乗る。
 
SEA 5/12 13:20(=12/13 5:20 JST) NH177(B787-9) - 5/13 15:40 NRT
 
実際には(シアトルの)5/12 午前中はお土産を買ったりの時間になるが、その時間帯は日本は深夜なので、千里1はその前、寝る前に電話を掛けてきたのであった。
 
千里1が言った「あとは帰るだけ」は、あとは太平洋を横断する飛行機に乗って日本に帰るだけということなのだが、青葉は手続きが終わったので病院に戻るだけという意味に取った。
 
そういう訳で今回の電話では、意図が全然伝わっていないことに、青葉も千里1も全く気付かなかった。
 

朋子と千里(千里2)が戻って来たのは、もう13時すぎである。それで朋子が青葉にお昼食べておいでよと言うと、青葉は冬子から呼ばれているので、このまま今日は病院には戻らず都心に出ると言った。すると千里も仕事があるので帰ると言い、だったら青葉を恵比寿の冬子のマンションまで送って行くと言って、ふたりで一緒に病院を出た(オーリス使用)。
 
近くのモスバーガーでお昼を食べた後、恵比寿に向かうが、青葉が冬子に連絡したら、千里も居るのなら一緒に来て欲しいと言われた。
 
それで出て行った所、冬子がローズ+リリーのアルバムのタイトルが製作会議で否決されてしまい、新たなタイトルを指定され、しかもレコード会社から厳しいスケジュールを指定されてしまったことを訊く。
 
それで冬子は青葉と千里に、忙しい時に申し訳無いが2人で2曲ずつローズ+リリーに曲を提供お願いできないだろうかと言った。
 
これに対して千里2は自分は3曲提供し、その内の2曲を“まるでケイが書いたように書く”と言った。そして千里は、青葉と七星さんを前に、『ケイ風楽曲の書き方』の講義をした。
 
ケイは苦笑していたが、それを聞いて、青葉も七星さんも、それやってみると言った。
 
それで千里が2曲、青葉と七星が「ケイが書いたみたいな曲」を書くと、ケイ自身が本当に自分で3曲書いた場合、全部で7曲の《ケイ名義》の楽曲が揃い、今年のアルバムの体裁を整えることができるのである。
 

千里2は《きーちゃん》に頼み、冬子から頼まれたとして、千里1と千里3にローズ+リリーのアルバムに入れる品質の楽曲作成依頼をした。そして調子の悪そうな千里1には普通の醍醐春海名義での作成を頼み、先日AYAにかなり良い曲を提供して、比較的調子の良さそうな千里3には、ケイ風の作品の作成依頼をした。千里3は《きーちゃん》との電話で、ローズ+リリーの状況を聞き、
 
「それは可哀相に。うん。頑張って書くよ」
と答える。
「こないだ会った時、ケイから1曲頼まれていたけど、まだ考えてなかったんだよね。でもそういう事情なら、ちゃんとケイっぽく書くから」
と千里3は言っている・
 
「いつものように、メロディーとギターコードだけ書いてもらったら、あとはこちらで肉付けしますから」
「いや、それでたいちゃんに負担掛けていたから今回は私がスコアまで作るよ」
「分かりました。よろしくお願いします。でも時間が無さそうだったら言ってください」
「Bien Sur!」(OK)
 
《きーちゃん》は千里3が他の眷属と通信できなくなっている理由として、千里が眷属を使いすぎていると出羽の方で注意されたためと言い訳していたので、千里3は普段眷属にさせていたスコア作成作業を自分ですると言ってきたのである。
 

千里3が《きーちゃん》からローズ+リリーのアルバムに入れるケイ名義の曲を書いてもらえないかと頼まれたのは、日本時間の5/13 Sat 1:00頃で、フランス時間では5/12 Fri 18:00 になり、MBF(Marseille Basket Feminin) の練習が終わったタイミングで《きーちゃん》が連絡したものである。
 
千里3は翌日5/13は練習が休みだったので、ずっとマルセイユの町を歩き回って構想を練っていた。
 
マルセイユは特にこの時期、寒暖の差が激しい。千里3は朝はかなりの厚着をして出てきたものの、昼間は脱いで夏のような服装にした。そして夕方になるとまた重ね着する。
 
夕食を取ろうと近くのレストランに入り、ぼーっとしながら外の景色を見ていたら、チームメイトのエヴリーヌが入って来た。
 
「デート?」
「ううん。外の景色見ていただけ」
「じゃ一緒に食べようか?」
などと言って、一緒におしゃべりしながら食事をしていた時、彼女がふとこんなことを言った。
 
「日本にも5年くらい前に一度行ったことあるけど、秋で紅葉がきれいだった」
「日本って、滅び行くものを美化する文化があるからね。散る桜とかね」
「ああ、それも美しいと聞いた」
「日本って微妙な緯度帯にあるから、多くの地域でわりと四季がはっきりしている」
「フランスにも四季はあるけど、フランスの場合、1日の中に四季があるよね」
 
彼女がそんなことばを発した時、千里3はハッとした。
 
「ねえねえ、今のこの時間帯の景色を写真に収めたい。エヴリーヌ、私のスマートフォンで、外の景色を撮影してくれない?」
「いいけど、なんで自分で撮影しないの?」
「私、カメラ音痴で、未だかつてまともな写真を撮影できたことがない」
「難儀だね〜(C'est difficile!)」
などと言いながら、彼女は千里のAquos phoneで外の景色を数枚撮影してくれた。
 
これが日本時間5/14 3:58(=5/13 20:53 CEST)のタイムスタンプで撮影された写真である。
 
「ありがとう!それとちょっと詩を書いていい?」
「どうぞどうぞ。へー。シサトは詩を書く趣味があるのか」
「ちょっとね。どこかに投稿するかも」
「おお。頑張ってね」
 
 
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【△・武者修行】(2)