【娘たちの地雷復】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2018-11-05
9月29日(日).
龍虎たちの学校では学習発表会が行われた。クラスによっては合唱をしたり、ダンスなどを披露するクラスもあるのだが、龍虎が過去に所属したクラスはいつも劇を上演していた。
龍虎は2年生の時は『十二支の始まり』で、うさぎ3(各動物が2〜3人ずつ居る)だった。3年生の時は『わらしべ長者』のミカンと反物を交換する商人、そして4年生の時は白雪姫の鏡役の予定だったのが、白雪姫役の子(麻由美)が急病で休み、誰かセリフが入っていて、白雪姫の衣裳(麻由美はかなり身体が小さい)が入る子、ということで当日急遽、白雪姫の役をすることになった。近年流行の《戦う白雪姫》だったので、ひよわな麻由美より、多分男の子の龍虎がやる方がいい感じになるよ、と言われ、実際龍虎はかなり格好良い白雪姫を演じて、みんなから褒められた。
そして昨年は『ピーターパン』をやるからあんた主役に立候補して、と先生から言われていたので立候補したら、演目が変更になっていて『サウンド・オブ・ミュージック』の主役マリアをする羽目になった(もっとも先生はウェンディーをやらせるつもりだった)。しかし歌唱力のある龍虎は堂々とした歌声で格好良くマリア役をやりとげた。
そして今年はマルシャーク(1887-1964)作の『十二月(じゅうに・つき)』(別名『森は生きている』)をやることになった。6年1組は現在34人(M21F13)で、キャストはこのようになった。
♀(6) アーニャ、エレーナ、母、わがままな女王、家庭教師、黒子
♂(8) 大臣A、大臣B、チェス優勝者、死刑囚、老兵士、マローズ爺さん、東の王子、西の王子
♂♀(12) 1月〜12月の神様
♂(6) 近衛兵
♀(2) 女王のソリを引く犬(犬の頭のかぶりものをつける)
♂♀ 舞踏会の客(神様・犬の役の人が兼任)
ここでキャストは男14,女8,男女不問12となっており、実際には男21,女13人いるので、神様役は差し引き男7女5ということになった。
しかし配役表を見た増田先生は「神様役はちょうど男女6人ずつになったのね」と言った。
ちなみに龍虎は4月の役である!
主な配役はこのようになっている。
アーニャ:麻由美、エレーナ:宏恵、母:麻耶
女王:佐苗、家庭教師:育江
大臣A:木下、大臣B:中井、チェス優勝者:立石、老兵士:内海、マローズ爺さん:藤島
東の王子:伊東、西の王子:西山
1月:金野、4月:龍虎、7月:彩佳、10月:真智
ちなみに東の王子と西の王子は、それぞれ名前に東・西が入っているからと言われて、伊東君と西山君に押しつけられた。
麻由美が主役のアーニャを演じるが、もし当日休んだりした時のためにセリフは家庭教師役の育江も覚えて、衣裳も各々用のサイズを用意し、万一の場合は代替できるようにすることにした。
そして当日。。。。。
「え〜〜〜!?麻由美ちゃんも育江も休み〜〜〜!?」
麻由美は熱を出して寝込んでいるらしい。どうもこの子の発熱は精神的なものなのでは?という気もした。美人なので男子たちから推薦されて主役になったのだが、そもそも内気な子で、あまり友だちもおらず、いつも自分の机で詩集を読んでいるような子である。
「育江ちゃんは?」
「昨日、窓から飛び降りたら足首捻挫したらしくて。本人は出てきたいと言ってたんだけど、その状態で動いたら治るものも治らないから、今日はお休みして安静にしておいた方が良い、とお母さんに言ったの」
と増田先生は言っている。
「なぜ窓から飛び降りる?」
「帰った時、誰も家に居なくて、あの子、合い鍵がどこに行ったか分からなくなって窓から家の中に入ったらしいの」
「窓に鍵が掛かってないというのは不用心だ」
「それで窓によじのぼったのはいいけど、部屋の中に飛び降りる時に、着地失敗したらしくて」
「あぁ・・・」
「物事は最後が肝心なのよね〜」
「それで誰かアーニャを代わってもらえない?」
と増田先生が言う。
「家庭教師もですね」
「うん。でもアーニャは圧倒的にセリフが多いから」
「誰が覚えてる?」
と言ってお互いに顔を見合わせる。
彩佳が言った。
「龍は全部覚えてるよね?」
「あ、うん」
と龍虎は答える。
「この子は全員のセリフを覚えちゃうんですよね。それでひとりで全員の役をして練習している」
「だったら、田代さん、アーニャができる?」
と増田先生。
「分かりました。やります」
と龍虎は言った。
やはりこうなるのか、と龍虎もあきらめ顔である。
それで育江がやるはずだった家庭教師は西の王子役だった西山君が女装!してやることにし、龍虎がやるはずだった4月は7月役の彩佳、7月役は近衛兵役の細井君、西の王子はやはり近衛兵役の佐竹君が代替して、近衛兵は4人にする。
全員急いで台本を読んでセリフを覚える。最初から全てのセリフを覚えている龍虎はいいとして、短時間でかなりのセリフを覚える必要がある西山君は大変である。
なお、衣裳は龍虎は麻由美と似たような体格なので彼女の衣裳が使える。家庭教師は、西山君はわりと細い体格なので、育江の衣裳が何とか入った。ついでにドレスを着て興奮していた(西山君も結構女装好き)。各月の神様の衣裳は普段着に1〜12の数字の入ったビブスを着けるだけなので問題無い。
ちなみに着換える時、教室の中央に移動式黒板が立ててあり、前半分で女子が、後ろ半分で男子が着換えている。西山君は家庭教師の衣裳を佐苗から渡され、後方の男子領域で着換えた。しかし龍虎は他の女子と一緒に前の方で着換えた!
お芝居は照明を落として暗いステージの上でスポットライトをあびたアーニャ(龍虎)と老兵士(内海)の演技で始まる。アーニャはつぎはぎの目立つサラファンを着ている。
「君はこんな森の中で何をしているの?」
「薪になりそうな木の枝とかを探しています」
「こんな雪の中で?君ひとりで暮らしているの?」
「お母さんとお姉さんがいるけど、こういう仕事は私がやることになっているの」
「それは大変だね」
と言ってから老兵士は思い出したように言う。
「大晦日の晩からお正月の朝に掛けては、この森の奥に季節を司る1月から12月までの12人の神様たちが集まってパーティーをするという伝説があるんだよ。どんな楽しいパーティーなんだろうね。僕も1度見てみたい気がするよ」
「へー。美味しいお料理とかあるといいなあ」
「僕は美味しいお酒があるといい」
その後、老兵士は木の枝を拾うのを少し手伝ってあげた。
ふたりが退場した後、ステージの明かりが付く。玉座に女王(佐苗)が座っている。家庭教師(西山)の授業を受けている。
「それでは3×5はいくらでしょう」
「8」
「それは足し算の答えです。3×5は15です」
と家庭教師が言うと、女王はたちまち不機嫌になる。
「今度から3×5は8にしなさい。逆らうとお前、死刑にするよ」
「そんなこと言われても・・・」
そこに大臣A(木下)が若い男性(立石)を連れてくる。
「この者は年末のチェスの全国大会で優勝したのです。どうか陛下の祝福を」
「ほほお。褒めてつかわすぞ。名前は何だ?」
「マリエンコと申します」
「そうか。スダールカ・マリエンコ、そなたに勲章と金貨を与えるぞ」
と女王が言ったのに対して、本人は
「ありがとうございます」
と言いながらも戸惑ったような顔をしている。
「どうかしたのか?」
と女王が言うと大臣Aが説明する。
「あ、いえ、今、陛下はこの者にスダールカ(英語のミスに相当する敬称 *1)とおっしゃいましたが、この者は男ですので、スダーリ(英語のミスター相当)の方がよいかと」
すると女王は不機嫌になる。
「私がスダールカと言ったのだから、スダールカで良い。お前は今日から女にする」
「え〜〜!?」
「だから今日以降女の服を着て、男と結婚するように」
「そんなあ」
「仕方ない。陛下がおっしゃるから、お前は今日から女になるように」
と大臣A。
それで真っ黒の黒子(くろこ)の衣裳を着けた桐絵がドレスを持ってくるので、マリエンコはその赤いドレスを着せられてしまった。
「僕、男と結婚しないといけないんですか?」
「女ならば可愛い服も着られるし、兵隊にも行かなくてもいいから、よいかも知れんぞ。ちゃんと男と結婚できるようになる手術も受けさせてやるから」
「手術〜〜〜!?」
それで大臣Aはドレスを着た立石君を連れて下がる。
ちなみに立石君は女顔で身体も小柄・華奢であり、また名前(柚季)が女子の名前にも見えるので、外見でも名前でもわりと女子に間違えられる。本人も結構女装が好きである。それで今回のシナリオで性別を間違えられる役には、彼しか居ない!というので、満場一致で彼がこの役に推薦された。
ちなみに立石君は『よく女の子と間違われる男の子』だが、龍虎の場合は『女の子にしか見えない』ので『男の子と間違われる?ことはまず無い』!
(*1)ロシア語でのMrに相当する敬称はスダーリ(Сударь)、Mrsに相当するのがスダーリニャ(сударыня)、Missに相当するのがスダールカ(Сударка)であるが、元々が「ご主人様」とか「奥様」といった意味なのでロシア革命以降、階級的であるとして使用されなくなり、現在ロシア語にこの手の敬称は存在しない(外国文学の翻訳の際にのみ使用される)。現在ロシア人に敬意を持って呼びかける場合は、名前+父称を使う。例えば、アンナ・ニコライナ・イヴァノヴァさんには、アンナ・ニコライナと呼びかけるのが丁寧な呼びかけである。
なおロシア人の苗字は男女で、イヴァノフ・イヴァノヴァ、チャイコフスキー・チャイコフスカヤのように形が変わるのだが、−エンコで終わる苗字は男女が同型になる例外的な苗字である。それでマリエンコさんは男性でも女性でもマリエンコさんである。
更に大臣Bが手首を縄でしばられた男を連れてきて言う。
「この男は主人から殺されそうになり、つい反撃して主人を殺してしまったのです。法律上は死刑にしなければなりませんが、長年主人から虐待されており、また他にも何人も酷いことをされていた使用人がいたのです。同情すべき所が多いのでお正月でもありますし、女王陛下の御慈悲で恩赦を与え、罪一等を減じて頂けませんでしょうか」
ところが女王は言う。
「おお。死刑か。私は死刑が見たい。その男を明日元日のお昼に処刑せよ。私も見学する」
「そこを何とかお慈悲を」
と大臣Bが言うが、
「文句があるなら、お前も死刑にするぞ」
と大臣Bに言うので、大臣Bはがっかりした様子で男を連れていく。
このあたりは佐苗のわがままぶりの演技がなかなか素晴らしかった。この劇がうまく行くかどうかは、実は女王の演技が肝なのである。
そして0時になり、クリスマスツリーが飾られた元旦の舞踏会が始まる。マローズ爺さん(藤島)が舞踏会の出席者にプレゼントを配る。
ちなみにマローズ爺さん(Дед мороз)というのは、西欧のサンタクロースに相当するものである。衣裳もそっくりである。正教の国ロシアでは12月25日ではなく1月1日にツリーを飾ってマローズ爺さんが贈り物をしてくれる。
東の王子(伊東)と西の王子(佐竹)が女王にプレゼントする。東の王子は素敵なルビーのネックレス、西の王子はスミレの花の絵が描かれた小箱をプレゼントした。するとその小箱が気に入った女王は唐突に言い出した。
「生のスミレの花が欲しい。ここに持って参れ」
「陛下、スミレの花は4月にならないと咲きません」
と大臣。
「私が欲しいというのだから、持って来なさい。すぐに国中にお触れを出すように」
「こんな夜中にですか?」
「朝までにスミレの花を籠に摘んできた者にはこの小箱いっぱいの金貨を与える」
この話をお触れで聞いたアーニャの母ライザ(麻耶)はアーニャ(龍虎)に森の中へスミレの花を摘みに行かせる。アーニャは途方に暮れて歩いていたが、老兵士から聞いた話を思い出し、森の奥へ歩いて行く。すると月の神様たちの集会場に辿り着く。
スミレを摘んでこないと家に入れてもらえないというアーニャに同情した月の神々は助けてあげることにする。
現在この森を管理している1月の神(金野)が途中の2月の神・3月の神の許可も得て、4月の神(彩佳)にその座を譲ると、付近にたくさんスミレの花が咲くので、アーニャは感謝してスミレの花を摘む。アーニャがお礼を言って帰ろうとしたら、
「この指輪を持って行きなさい。この指輪を使えばいつでも私たちを呼び出すことができる」
と4月がアーニャの指に指輪を填めてくれた。
「ありがとうございます」
と言ってアーニャは指輪を着けて家に帰るが、真冬の森の中を長時間歩き回ったので、疲れている。
母とエレーナはスミレは私たちが城に持って行くからお前はここで待っていろと言う。そしてアーニャが指輪を着けているのに気付いたエレーナはその指輪を奪い取るが、自分の指には入らなかったので、ポケットに入れた。アーニャは疲労が激しいので倒れてしまう。それで母(麻耶)と姉のエレーナ(宏恵)はアーニャが摘んできたスミレの花籠を持ってお城に行く。
スミレの花に感動した女王であるが、エレーナとライザに、この花はどこで摘んできたのかと尋ね、自分をそこに連れて行けと言った。しかしふたりはそれをアーニャから聞いていないので答えられない。女王の機嫌が悪くなる。
「連れて行けないのであればお前らを朝日とともに処刑する」
「分かりました!お連れします」
それで結局、女王、家庭教師、大臣A・大臣Bが犬ぞりに乗り、警護の兵士たちも付き添って、エレーナたちに先導されて、いったん彼女たちの家まで行く。そして死んだように眠っていたアーニャを起こしスミレの花の咲いている所まで連れて行けという。
ところが森の中を歩いている内に吹雪が吹いてきて、警護の兵士たちは風に飛ばされてしまう。犬ぞりを引いていた犬たちもどこかに行ってしまう。
エレーナとライザ、女王と家庭教師が吹雪の中まとまって歩き、大臣A・Bがソリを持って歩く。一行は雪の森の中を奥の方へ歩いて行った。
「これでは死んでしまう。スミレの花の咲く楽園はどこにあるのだ?」
と女王。
「私の指輪を姉が取ってしまったのです。あれがないと神様たちに会えません」
とアーニャ。
「指輪を取っただと?妹に返してやれ」
と女王。
しかし女王から追及されたエレーナは指輪を向こうの方へ投げてしまう。
吹雪が止む。
そして12の月の神様たちが現れた。
「お前たちは何をしている?」
「申し訳ありません。道に迷ってしまったのです。助けて頂けませんでしょうか?」
と家庭教師。
「それは難儀だね。まあ、新年だし、願いなら聞いてやるよ」
と7月(細井)。
女王が言う。
「私たちをお城まで案内しなさい。褒美に金貨を授ける」
しかし7月は答える。
「金貨などたくさん持っている。今更いらない」
家庭教師は女王に言った。
「陛下。命令するとかではなく、ちゃんとお願いしてください」
「お願い?そんなことしたことがない。私は一番偉いのだから命令する」
「ここにおられる方々はきっと神様です。神様にはお願いする必要があります」
女王は戸惑うような顔をする。本人も言うように他人にお願いするなどということをしたことが無い。しかし女王は神様に言った。
「私たちを助けて。このままだとみんな凍え死んでしまう。この者たちは私の大事な者たちなのだ」
そして最後に女王は
「お願いします」
と付け加えた。
7月は言った。
「よいだろう。お前の願いは聞き届ける」
「他の者たちも何か願いがあるか?」
と10月が言う。
「私は、暖かい所に行けたら充分です」
と大臣A。
「うん。すぐに暖かい所に行けるだろう」
「私は犬の毛皮のコートでも着たい」
とエレーナと母。
「そうか。犬の毛皮が着たいか?」
と10月が言うとふたりは
「あ〜れ〜?」と
言いながらぐるぐる廻りながら、やがて四つん這いになり、女王のソリの前に座った。黒子の衣裳をつけた桐絵がふたりの所に犬の頭のかぶりものを持ってきて、ふたりはそれをかぶる。
「あら?このふたり犬になっちゃった」
と家庭教師。
「ちょうどいい。こいつらにソリを曳かせましょう」
と大臣Bがいう。
その時、女王が大臣Bに言った。
「例の男だが、死刑は免除してやれ。3年の流刑でどうだ?」
「御意。陛下の御慈悲をきっと国民が褒め称えますよ」
そして大臣Aにも言う。
「あのチェスのチャンピオンだが、本人がもし望むなら男に戻してやれ」
「分かりました。明日女になる手術を受けてもらう予定でしたがキャンセルで」
それでソリに女王と家庭教師、2人の大臣を乗せ、2匹の犬にソリを曳かせて彼らは去って行く。
「お母ちゃんとお姉ちゃんが犬になっちゃった」
とアーニャは戸惑うように言う。
「春になったら元に戻るから大丈夫だよ」
と7月が言う。
「もっともお前がお城まで返してもらいにいけば、すぐ元に戻るけどね」
と4月。
「すぐ返してもらいにいきます」
とアーニャが言うと、4月たちも満足そうに頷いた。
結局残ったのは、アーニャと老兵士、それに神様たちである。
「神様たちごめんなさい。私、指輪を無くしてしまいました」
とアーニャが謝るが
「指輪ならちゃんとあるよ。君の姉さんに返してもらったよ」
と言って4月がエレーナの投げた指輪をアーニャに再度填めてくれた。
「わあ、ありがとうございます」
「お前たちは疲れたろう。少し休んでいきなさい」
と神様たちは言い、アーニャの周りを12人の神様たちが取り囲む。そして季節の歌を歌いながらアーニャの周囲をグルグルと回ると、アーニャは美しいドレスを着て、髪にはティアラも着けていた。
「おお、可愛いですな」
と老兵士が言う。
5月と6月がたくさんの料理を、11月と12月がお酒や飲み物を持って来た。
「美味しそうな料理!」
とアーニャ。
「美味しそうなお酒だ」
と老兵士。
そして神様たちと一緒にアーニャと老兵士は楽しい宴をするのであった。
(ナレーション・黒子・プロンプター:桐絵)
10月4日(金).
貴司と阿倍子は第1回目の人工授精をおこなった。手順は一週間ほど前から阿倍子の自然な排卵の兆候を確認しておき、10月4日が精液を子宮に投入する最適なタイミングということだったので、当日採精することにしていた。
貴司は市川ラボに泊まり込んでいるので、採精の日は千里がここに来てくれることになった。千里は夜間は作業があるからと言って、A4 Avantを持ち出していたようである。明け方4時すぎに千里が車で到着し、朝食を作ってから貴司を起こす。朝御飯を一緒に食べ、A4 Avantに乗って大阪方面に向かう。そして西宮名塩SAで小休憩して、ここで車の中で30分ほどイチャイチャして睾丸を活性化(?)させてから採精容器の中で射精させる。30分ほど仮眠した後で千里が車を運転して豊中市の産婦人科まで行き、名前を書いた封筒の中に入れた採精容器を病院の当番の人に渡す。
そして千里が貴司を桃山台駅(車が停めやすいので)まで送っていき、貴司は会社に出社する。千里は車を市川ラボに戻す。
そういう訳で人工授精の日も貴司と阿倍子は顔を合わせないのである。病院が通常営業の中で対応できるのは平日の日中だが、その時間に貴司はあまり会社を空けることができないので、このような手順になったが、結果的に人工授精の日、貴司は法律上の妻であり人工授精の相手である阿倍子とは会わずに千里と会って、束の間の逢瀬を楽しみ射精の快楽も得る。このパターンが妊娠成功までの約1年間続くことになる。
ただ千里としては心中複雑であった。貴司と会うのは楽しいし、射精させてあげて貴司が本当に嬉しそうにしているのを見るのも心地よい。しかしその射精された精液が自分ではなく、他の女性の子宮に投入されることに、言いようのない不快感を持っていた。
私って結果的には貴司の射精係?それとも愛人だったりして?
最初の人工授精の後、千里はどこへ持って行きようもない怒りのようなものを抱えたまま、市川ラボまで戻った。その後、市川ラボ地下にある作曲作業室(ここの存在を貴司は知らない)で曲を書いていたのだが唐突に
「やめた!」
と叫んだ。
千里は1階にあがると、駐車場に泊まっているSuzuki Gladius 400のエンジンを掛け外に出る。駐車場を施錠して市川南ランプに向かった。
千里は福崎ICから中国道に乗り加西SAで満タン給油した後、名神・新名神・東名阪・伊勢湾岸道と走り、刈谷PAで短いトイレ休憩をしてここでまたガソリンを入れる。どちらにしようかな?と考えて、中央道に行くことにし、東海環状道・中央道・長野道・上信越道と走り、東部湯の丸でまた短いトイレ休憩と給油をする。
そして藤岡付近まで来た所で唐突に高崎のだるまが欲しくなったので高崎ICで降りた。取り敢えずお腹が空いた(朝から何も食べていない)のでラーメン屋さんに入って豚骨ラーメンを頼む。ラーメンを持って来てくれたおばちゃんに「高崎のだるまってどこのがいいですかね?」と訊いた。
「うーん。。。みんなそれぞれ好みがあるけど、私は門田さんかなあ」
というので地図の上で場所を教えてもらった。
それでラーメンを食べた後行ってみたら、あまりお店という感じでは無い。取り敢えず建物の傍にバイクを駐めて工房のような感じの所に行き声を掛ける。
「ごめーん。うちは製造元で、ここでは売ってないんだよ」
と言われた。
「そうでしたか。すみません。こちらのだるまを売っているお店を教えていただけませんか?」
と千里が訊くと
「あんた、どこから来たの?」
と訊かれる。
「えっと・・・(私の住所どこだろう?)今日は姫路から走って来たのですが」
「遠い所からきたね!」
と言って
「だったら売ってあげるよ」
と若社長さん(?)は言って、
「このあたりが完成して出荷を待っている子たちなんだけど、どれか気に入ったのある?」
と訊かれる。
「これ左側にあるのは量産品で、右側が手作りですか?」
「そうそう。よく分かるね」
「手作りのでもいいですか?」
「いいよ。高いけど」
千里はじっと見ていて、1人気になる子がいた。
「この白い子がいいです」
「OKOK」
それで箱に入れて売ってくれた。15cmくらいの高さの子で2500円だけど2000円に負けとくよと言われた。このサイズの量産品は700円らしい。
「この白いだるまは、芸事とかスポーツとかで頑張る子を応援してくれるんだよ」
「へー。実は私バスケットボールの選手なんですよ」
「おお、それならピッタシの子かもね」
と社長さんは笑顔で言っていた。
だるまの箱をバイクの荷室に入れ、さて葛西に帰ろうかなと思って、インターの方に走っていたら、見知った顔を見て思わずバイクを停める。
「美緒!」
「千里!」
美緒は晩御飯を商店街のマックで食べた後、パチンコにでも行こうかと思っていた所らしかった。取り敢えず近くのプロントに入って話すことにした。バイクは店の前に駐めておけばいいよと言われた。
「千里、なんか暗いね。失恋でもした?」
「失恋かぁ。好きだった彼が先々月結婚したんだけどね」
「ふーん。そういう時は次の彼氏をゲットするんだよ」
さっすが美緒!
「でも先月、その彼と密会した」
「新婚なのに!?」
「そして実は今朝も会って射精させてあげた」
「すげー!」
とさすがの美緒も驚いている。
「私、彼と毎月会って射精に協力する約束しちゃった」
「なんて大胆な」
「私って、あいつの愛人になったも同然かなあ。これまであいつの奥さんのつもりだったのに」
美緒は少し考えていたが言った。
「妻と妾とか、正妻と愛人とか、正室と側室とか、そういうのは西洋文明に毒された考えだと思う」
「ほほお」
「平安時代の通い婚というのが、やはり日本の基本的な恋愛の形なんだよ」
「ふむふむ」
「男はたくさん妻を作る。その時、誰が正妻でだれが愛人かなんて考えはない。みんな自分の妻なんだよ」
「ああ、わりと男って自分の好きになった女は全部自分のものと思ってるよね」
「そうそう。それで結果的には、跡継ぎになるような男の子を産んだ妻と、天皇に差し上げられるような女の子を産んだ妻が特に大事にされる。男女両方を産んでいると理想的」
「なるほどー」
「要するに産んだものの勝ちだな」
「うーん・・・」
「その点、千里は子供を産めない分、圧倒的に不利だから法的に結婚してもらえなかったのは、とりあえず仕方ないと開き直ればいい。毎月会ってHすることを約束したということは、今でも千里はその彼の奥さんなんだよ」
「あ、そうなるのかな・・・」
「これまでもずっと彼としてたんでしょ?」
「何百回とセックスしてる。実は彼とはもう10年半付き合ってきたんだよ」
「例の彼か!だったら千里とその彼の関係は今までと何も変わらない。千里、もっと自信を持って、その彼との関係を続けなよ」
恐らく元々男女関係に関する観念が崩壊しているに近い美緒でなければ、こんなとんでもないアドバイスはしなかったろう。普通の人なら相手が結婚したのなら潔く諦めて不倫などしないようにと言うだろう。
「私も、奥さんのいる男2人と今付き合ってるよ」
「相変わらず凄いね!清紀とは?」
「同居してるけど」
「うっそー!?」
美緒は地元の高崎に戻って就職したのだが、彼女が大学時代に同棲していた紙屋清紀は前橋の大学の大学院に進学して、結局一緒に住んでいるらしい。
「彼、どこに進学したんだっけ?」
「群馬県立女子大学」
「嘘!?入れてもらえたの?」
「受験票出したけど、男はダメって却下されたらしい」
「ああ」
「性転換したら入れてあげるよと言われたけど、進学のために男を捨てる決断はできなかったと」
「ふむふむ」
「それで結局群馬大学」
「あそこに理学部の大学院あったっけ?」
「今年新設されたんだよ」
「そうだったのか!」
しかし・・・紙屋君と同棲しているのに美緒は更に2人の男と付き合っているのか!?
「奥さんから訴えられたらその時だけどさ」
と美緒が言った時、最初彼女自身の話かと思ったが、そうではなく千里の話だった。
「千里の話を聞いているとむしろ千里のほうがその結婚した女を不倫で訴えられるくらい、千里の方が正当な妻だという気がするよ」
それは何となくそんな気がしていたのだが、美緒からも言われて、やはりそうなのかもと千里は再確信した。
「私、美緒と話して良かった」
「まあ、私はふしだらな女だと言われるのには慣れてるし」
「私も不道徳な女だと言われても気にしなければいいんだね」
「そうそう。一妻一夫制なんて、明治以降に唐突に出てきた考え方に過ぎない。伝統的な日本人の男女関係を続ければいい」
「なんかそれ凄いかも」
「それで男の態度でストレス感じたらさ、何かでぱーっとすることしてストレス発散すればいいんだよ」
「ぱーっとすることか」
「私は海外旅行とか行ってくると結構気が晴れるけどね。この夏休みには清紀とふたりでオーストラリアに行って来たよ」
「新婚旅行?」
「まさか。清紀に女装させて女2人の旅行を装ったよ。清紀のパスポートは女装の写真で作らせた」
「清紀って・・・性転換させてもいいのでは?」
「本人はちんちん無くすのは絶対嫌だと言ってる」
「使ってない癖に」
「ね!」
「海外かぁ。。。」
私実は海外に住んでいるけどね!?と千里は思う。
「無駄遣いするのもいいよ」
「ああ、気が晴れそうだ」
「ラスベガスに行ってカジノでもしてくるとかは?」
「そんなにお金無いよ!」
その日は途中で居酒屋に場所を移し、夜遅くまで美緒と話して結局彼女のアパートに泊めてもらった。紙屋君とも久しぶりに会ったが、
「千里、気晴らしに清紀と寝てみない?」
と言われた。紙屋君まで
「千里が男役してくれるんなら寝てもいいけど」
などと言ったが、取り敢えず遠慮しておいた。
そしたら2人は「仕方ない。清紀とやるか」「今夜は美緒で我慢しよう」といって、結構な音を立ててやっていた!
仲良いじゃん!
本当にこの2人はよく分からない。
翌10月5日、美緒たちに御礼を言って別れ、取り敢えず葛西に戻ろうかと思ったのだが、ふと気付くと千葉市内まで来ていた。あれ〜?と思って取り敢えず近くに見たショッピングモールの駐車場にバイクを駐める。
それで昨日美緒から言われたことを思い出し、確かにスペインのシーズンが始まるまで、どこか観光にでも行ってくるのもいいかなあと思いながらモールの建物の方に行こうとした時、道路の反対側に中古車屋さんがあるのに気付く。そういえば、スクーターがもう絶望的だから、代わりに軽自動車の中古車買ったら?とか言われていたよな、などと思う。
(げんちゃんが言っていたのは“軽自動車”買ったら?というのであって“軽自動車の中古”買ったら?ではない)
千里はそこに「30,000」と書かれた紙の貼られた赤いミラがあるのに目を留めた。
3万円ってすごっ!
と思って、思わず駐車場を出て、道路を横断する。そして道に立ち止まったまま、その車を見ていたら、スタッフの人が寄ってきた。
「中に入って、よく見られませんか?」
「あ、そうですね」
それで中に入ってみる。
「ちょっと型式が古いのでこのお値段なんですよ。車自体はそんなに傷んでいませんよ」
「確かに凹みとかはそう多くないですね」
「ええ。フレームに響くような傷はありません」
「距離はどのくらい走っています?」
「どのくらいかな。ちょっと待って下さい」
と言ってスタッフさんはそのミラの鍵を持って来てくれた。
スイッチを入れるとオドメーターに 223606 という数字が表示された。
「すごーい。ルート5だ」
「え?」
「√5=2.2360679 富士山麓オーム鳴く、ですよ」
「ああ、そんなの習いましたね。何でしたらちょっと試乗してみられます?」
「してみます!」
それでスタッフさんが助手席に同乗してそのあたりを回ってくる。
「お嬢さん、運転うまいですね」
とスタッフさんがマジで感心したように言う。
しっかしパワーの無い車だなあ、と千里は思った。
千里が普段使っている車としては、主として葛西に置いているインプレッサ(2000cc)、貴司が所有しているA4 Avant(1800cc), スペインで乗っているイビサ(1600cc)、と、ある程度のパワーがある車ばかりである。千里は軽はあまり運転したことがなかった。バイクの運搬用に使っているハイゼットは軽だが、あれはたまにしか運転していない。
そして今ミラに試乗していて、千里はそのミラがまるで自分自身のような気がした。
昨年夏までは日本代表やってたのに、今はそこから外れて、スペインでリハビリ中である。先日NTCに行ってエレンと対決し、自分の力がまだまだなのを再認識した。昨年夏まで貴司の奥さんやってたのに、今は愛人にも等しい状態。
これは易の地雷復だと思った。地雷復というのは
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という形の卦である。陽爻がいちばん下に1本だけあり、上は陰爻ばかり。要するに“どん底”だが、逆に言えば、これはここから陽爻が少しずつ上に昇っていこうという卦なのである。だから「復」つまり「復活」の卦なのだ。これは冬至の太陽を表すとも言われる。ここから少しずつ太陽の高度も上がっていく。つまりクリスマスである。
「この車気に入っちゃった。買います」
と千里は言った。
だって美緒は無駄遣いもいいよと言ってたもん。無駄遣い、無駄遣い。
「じゃ事務所の方で手続きしますね」
それで千里はこのミラを衝動買いしてしまったのである!
エンジンオイルをフィルターと一緒に交換してもらい、バッテリーも弱っているので交換、ワイパーも傷んでいたので交換してもらった。その代金と車の価格、登録諸費用を入れて18万、任意保険料を1年分7万円、“例のカード”で一括払いしたら、車自体はそのままお持ち帰りしていいですよと言われた。カードを見せた時、お店の人がギョッとしていたので、やはりこのカードは水戸黄門の印籠並みに“効く”なあと思った。
車庫証明書は友人に今日中に持参してもらいますと言い《すーちゃん》に頼んだ。彼女にはバイクで駐車場まで往復し、その後バイクを葛西に回送してもらう。
諸手続が終わったら書類はまとめて住所に送ると言われたので桃香のアパートに送ってもらうことにした。
それでミラに乗って中古車屋さんから出て、千里は美緒に言われたように“観光”してこようと思った。
まずは向かいのショッピングモールに戻り、食料、寝具、着換え、衛生用品にサンシェードも積んだ上で出発する。GSに寄って満タン給油した上で、東北道に乗ってひたすら北へ走る。
しかしミラは何と言ってもスピードが出ない!特にこのミラは年季が入っているので、エンジンが弱っており、アクセルをフルに踏んでも80km/h出るかどうかである。坂道だとたちまち60km/hくらいまで落ちる。
当然後ろから煽られる。クラクションまで鳴らされる。
でもスピードの上げようが無い。
千里はこの走行で「厚かましく生きる姿勢」を心の中に確立していった。
またミラは給油タンクが小さい。こまめに給油する必要もある。それで千里は早め早めに手を打つことの必要性も再認識していった。
そもそも阿倍子の存在は、早い時期に緋那から警告してもらっていた。
それなのに自分はまさか貴司が自分との婚約を破棄するとは思いもよらず、彼女に対して何の対策も取っていなかった。早い時期ならどうにでも対処法があったはずである。
千里はミラで高速道路を走りながら、そんなことを考えていた。
その日は青森の浅虫温泉のひなびた宿に泊まった。
お風呂にのんびりと浸かっていたら、おばちゃんの団体客が入ってくる。
「あなた凄い筋肉ね」
と言われる。
「私、プロバスケットボール選手なんですよ」
「へー。凄い!木村沙織ちゃんみたいな」
「木村沙織はバレーボールです!」
「あ、そうか!」
「私よくバスケットボールとバレーボールが混乱する」
「私、ソフトボールとも混乱する」
うーんソフトボールって「ボール」が共通しているだけでは?
「でもこの筋肉だけ見たら男かと思うけど、あなたおっぱいも大きいもんね」
「ちんちんも無いし」
と言って触られる!
「バスケ女子には背が高いから男と間違われて女湯で悲鳴あげられるって子がたくさん居ますよ」
「なるほどー。そうかもね」
「今私が所属しているチームには192cmの選手がいますよ」
「192!? 本当に女子なの?」
「ええ。彼女は女湯とか女子トイレで悲鳴あげられるのは慣れっこだと言ってました」
「それも大変そう」
「私は168cmだから、チームの中ではいちばん背が低いんですよ」
「168でいちばん小さいんだ!」
「それでも私の身長だと、合う服が少なくて困るんですけどね」
「ああ、背の高い人は大変よね」
「以前所属していたチームの子は182cmで、女の子用の服が合わなくて男物ばかり着ていたから、それで更に性別間違われるって言っていました」
「ほんと大変そう」
「彼女、高校入る時に面接受けたら『うちは女子校なので男子生徒は受け入れられないのですが』と言われたとか」
「本当に女子なんだよね?男の子だったけど、ちんちん取って女の子になったとか?」
「本人もしばしば、生まれた時は付いてたけど、あまり乱暴だったから切られちゃった、なんてジョークをよく言ってましたが」
「ジョークなの?」
「それあんたが言ったらジョークに聞こえないからやめとけって言われてました」
「ああ」
そのおばちゃんたちとバスケット女子の性別誤解に関する話をしていたら、また楽しくなってきた。この手のネタはかなりたくさんある。
このおばちゃんたち(仙台から来たらしい)とは、とっても仲良くなって、お風呂をあがった後、彼女たちの部屋に招かれて、おやつなど摘まみながらけっこう遅くまでおしゃべりしていた。
7日には東北道を南下、磐越道に行き新潟PAで車中泊。8日は北陸道を西行して長岡JCTから関越に入り、高崎JCTから上信越道→長野道と走りみどり湖PAで車中泊。9日は中央道を名古屋方面に走り、東海環状道・伊勢湾岸道・東名阪道と走る。数日前に Gladius 400 で走ったのと逆方向である。
しかし新名神には行かずに伊勢道を南下、夕方、伊勢の神宮に外宮→内宮と参拝。二見ヶ浦でカエルさんたちと戯れていたら、カエルの大王様?から「お前気に入ったから眷属を付けてやる」と言われ鷲璃(わしり)という若い蛙の女の子が千里に付き従った。《すーちゃん》や《てんちゃん》が「おお、可愛い!」と歓迎し、彼女は《わっちゃん》と呼ばれることになる。彼女は後に千里が3分裂した時は、ひとりだけ最初から千里3に従い、千里3の貴重な手駒になってくれた。
この日は瀧原宮・瀧原竝宮前の道の駅で車中泊する。
10月10日の日出と共にその瀧原宮・瀧原竝宮に参拝して、すがすがしい空気の中で千里は心の平穏をかなり取り戻した。
その後、紀伊半島の沿岸を半日走り続けて和歌山の加太で夕日を見る。これは高校生の時に雨宮先生と走ったルートの逆方向である。あれは思えば運転初体験だったのである。
そして夜間に阪和道・近畿道・阪神高速と走って明石海峡大橋を越え、道の駅あわじで車中泊する。この道の駅は貴司を芦耶さんから実質取り返した場所である。千里はこの道の駅で、今度は貴司を阿倍子さんから取り返すぞと自分の心に気合いを入れ直した。
自分はここ1年3ヶ月ほど、弱気になりすぎていた。
千里はそう思った。
11日は大鳴門橋を越えて四国に渡った後、高松自動車道から瀬戸大橋で岡山に戻る。山陽道→中国道と走って壇ノ浦PAで車中泊。 12日は九州道→宮崎道と走り、青島まで行く。ここも色々と思い入れのある場所だ。13日の日出とともに青島神社に参拝してから、九州東岸を北上。大分の佐賀関で関サバを食べてから国道フェリーに乗り愛媛県の三崎へ。ここから愛媛県内を走り、道後温泉で休憩してから、しまなみ海道を走って大三島へ。大山祇神社横の道の駅で車中泊。
14日は大三島神社に参拝した後、しまなみ海道に再度乗って本州に戻り(これで四国三橋制覇)、山陽道・岡山道・中国道・名神・北陸道と走って徳光PA(HO)で車中泊。15日は白山スーパー林道で白川郷に抜け、東海北陸道→名神・東名・首都高・京葉道路と走って16日深夜0時過ぎに千葉市に帰還した。
ミラのトリップメーターは5260kmを示していた。千里は「逆から読めば貴司の誕生日(6月25日)だ」と思った。
そして千里はこのミラでの10日間の旅で自分が生まれ変わった気分になった。
千里がミラを桃香のアパートの傍に付け、大量のおみやげを持って部屋にあがっていくと、桃香はびっくりしていた。
「あの車はまた借り物?」
「ううん。買っちゃった」
「いくら?」
「3万円」
「私、そういうの大好き!」
「桃香も自由に運転していいよ。少々ぶつけても全然惜しくないから」
「あはは。少し練習させてもらおうかな」
玲央美たち女子日本代表のメンバーと、男子日本代表(ユニバ代表)は10月7日に中国に渡航し、天津で10月9-14日に東アジア競技大会を戦った。男子はフル代表が使えず(信じがたいことにこの国際大会より国内リーグの開幕が優先された)ユニバ代表で参加したのに4位と大健闘した。
一方の女子代表はせっかく中国に勝ったのに最終戦で台湾に負け、結局日本と中国と台湾が2勝1敗で並んでしまった。ここで相互得失点率の勝負になり、中国が得失点率1.092で1位、日本が0.962で2位、台湾が0.950で3位となった。
金メダルを取れる大チャンスだったが、台湾に不覚を取ったことで準優勝に終わった。
10月19-20日、近畿実業団バスケットボール選手権の準々決勝・準決勝・決勝が大阪市内の体育館で行われた。
千里はまた“細川の妻”を自称して唐揚げ、トンカツ、などを差し入れた。選手たちは頑張り、優勝は果たせなかったものの準優勝を達成。これでチームは来年(2014)秋の全日本実業団競技大会に出られることになった。
選手たちは物凄い歓びようであった。
10月19日(土)、スペインでもLFBのシーズンが始まった。千里は最初の試合、第3ピリオドに出してもらった。主力を休ませる間のつなぎという感じだったが、5分間の予定だったが結局10分間出してもらう。その間に、2スティール、3アシスト、そしてスリーを3本決めて9得点と、結構な活躍であった。ターンオーバーは0である。
1軍のチームメイトたちが千里を鋭い視線で見ているのがとても快感だった。
私もそろそろ復活しなきゃね!
なお、19日の試合は現地時刻で19:00-20:30くらいに行われたが、これは日本では20日の2:00-3:30くらいに相当し、夜中なので、大阪での貴司たちの応援と両立したのである。
10月20日の貴司たちの試合が終わったのが16:30頃で、千里は準優勝のお祝いにとケーキを事務の人に託して、自分自身は葛西に転送してもらった。
18時頃、お腹が空いたのでたまには外食でもしようかと地下鉄で渋谷に出てみた。それでどこに入ろうかな?と思って歩いていたら、秋葉夕子に遭遇する。
「久しぶり〜」
「久しぶり〜」
と声を掛け合ってハグする。
「最近何してんの?」
「うーん。リハビリかな」
「ああ。それで東アジア競技大会に出なかったんだ?」
「アジア選手権もだけどね」
「そちらにも出ないの?」
「召集されてないし」
「ふーん・・・」
と夕子は意味ありげに千里を見ている。
「そちらは?最近あまりクラブチームの動向をフォローしてなかったけど、江戸娘は来月の社会人選手権に出られる?」
「それが出場を逃しちゃったのよね〜。でも私自身は3月で江戸娘を辞めたんだけどね」
「え〜〜!?」
立ち話もなんだし、ということで、千里が「奢るよ」と言って、やや高めの(人があまり多くない)レストランに入り、話をした。
「結局、夕子ちゃんは今何してるの?」
「性転換でもしようかと思ったんだけどね」
「マジ?」
「それも面倒な気もして、しばらくボーっとしてたら、やはり身体動かさないと何か体調が悪いんだよね」
「ああ、そうだよね」
「それで今は江東区の体育館を毎週木曜の夕方だけ借りてひとりで練習してるんだよ」
「夕方、何時から何時まで?」
「18時から21時を借りてるけど、実際には19時くらいに行って20時くらいにあがる感じかな」
「1時間コースなんだ!」
「ひとりだとできることも少ないしね」
「確かにね」
と言ってから千里は考えていた。日本時間の18-21時は現在ヨーロッパは夏時刻なので11-14時に相当するが、10月27日以降は10-13時になる。夏時間の間は微妙だけど、冬時間になればスペインでの練習や試合とぶつからない。
「今月は無理だけど、来月からなら、その練習に付き合おうか?パス練習とか、1on1とかやらない?」
「いいね!」
それで11月7日(木)から、千里は夕子と一緒に江戸川区の体育館で毎週夕方(スペイン時刻ではお昼前後)に練習することにしたのである。
これが40 minutesの始まりであった。
日本女子代表は10月14日に東アジア競技大会から帰国すると、休む間もなく18日から第7次合宿に入った。23日にはバンコクに向けて出発し、10月27日から11月3日に掛けてアジア選手権に出場することになっている。
この時点で日本女子代表として召集されているのは東アジア競技大会にも出た下記12名である。
PG 5.羽良口英子 9.武藤博美
SG 4.三木エレン 10.花園亜津子
SF 8.広川妙子 11.佐藤玲央美
PF 6.横山温美 12.高梁王子 14.石川美樹 15.月野英美
C 7.馬田恵子 13.黒江咲子
6月頃のロースターから、調子を落とした千石一美が落ちて、代わりに月野英美が入っている。
ところが・・・
今回の第7次合宿の最中にトラブルが多発した。
19日に武藤博美が足首を捻挫してしまい離脱。ポイントガードが1人しか居ないのは超絶まずいので、山形D銀行の鶴田佐苗が緊急召集された。更に21日に今度は黒江咲子が古傷を痛めてリタイア。その代わりに誰を召集するか?というので協議していた最中の10月22日朝になって横山温美が熱を出して寝込んだ。
医師はインフルエンザと診断した。
代表スタッフの間に震撼が走る。
インフルエンザということは・・・
チーム内に他にも感染者がいる可能性がある。
即座に選手とスタッフ全員の健康診断と、早期検出が可能な特殊なキットでのウィルス検査が行われた。その結果、羽良口英子と花園亜津子の体温が高めで顆粒白血球も増加しており感染の疑いがあることが分かり即隔離された。実際2人とも昼過ぎには早期検査キットが陽性を示し、夕方には体温が37度を超えて明らかにインフルエンザの初期症状とみられた。22日は練習自体が中止。全員マスクの着用と、閉鎖空間での相互接触禁止が命じられ、物々しい雰囲気になる。NTC内の消毒も実施される。ここ数日選手たちと接触していたNTCスタッフを全員自宅待機にして急遽他地区の強化施設から応援を呼んだ。
他の選手やコーチらも繰り返し検査されたが、他には疑いのあるケースは見当たらなかった。しかし取り敢えずこの3人は今回使えないと考えなければならない。
花園亜津子は「インフルエンザくらい根性で押さえ込むから行かせて下さい」と言ったが、飛行機で移動中に他の選手に移ったらまずいから、完治するまでNTCの病室からも外出禁止と言われた。羽良口にしても、物凄く悔しがっていたが、今の状態でタイに派遣する訳にはいかない。
それで、怪我をした黒江咲子を含めて4人も代替者を考えなければならなくなったのである。
横山温美が「ごめんなさい。私が移してしまったんですね」と言って落ち込んでいたが、エレンは「発症したのが半日差なら誰が最初に感染したかなんて分からない」と言って、責任を感じる必要はないと言ってあげた。亜津子も「馬鹿は風邪ひかないと言う通り、私、風邪の症状とか出るの遅いんですよね。だから私が最初かも知れないです」と言っていた。
土山強化部長、チームの高居代表、川口ヘッドコーチ、戸田アシスタントコーチが緊急会談をする。
代表選手の名簿は一応提出しているが、病気や怪我・死亡などの場合は、バンコク時間の今日20時=日本時間の22時までなら変更が可能である。医師の診断書が必要なのですぐ英文の診断書を書いてもらった。
「ポイントガードは、富美山史織か入野朋美だと思う」
「ふたりは今どこに?」
「富美山史織は静岡、入野朋美は川崎だと思います」
「だったらどちらも明日来れるかな?」
「確認してみます」
それで電話してみるのだが、ふたりとも連絡はついたものの、富美山史織のパスポートが年末で切れるということが判明する。それで富美山は残存期間不足でタイに入国できないことが分かり、入野朋美を召集することにした。入野は2008年に作ったパスポートが春に期限切れになるというので、昨年秋に更新していたのである。
「横山温美の代りは?」
「フォワードは候補者がたくさんいるんですよね。いったん落とした千石一美、吉野美夢のほかにユニバーシアード代表の渡辺純子、湧見絵津子、・・・・」
「その4人の中で連絡のつく人を」
それで連絡してみると渡辺純子と湧見絵津子には連絡が付いた。あと2人は連絡が付かない。渡辺と湧見のパスポート残存期間は大丈夫である。彼女らは2010年のU18で日本代表に招集され、その時パスポートを作っていたので2015年まで有効なのである。
「ふたりとも札幌の自宅にいるそうです」
「どっちにする?」
「悩むな」
「ユニバーシアードでのふたりの成績は?」
「得点は渡辺120点、湧見121点」
「ほぼ同じか!」
戸田アシスタントコーチが提案した。
「その2人とも召集しましょうよ」
「うん?」
「そして月野英美を本来のセンターに回します」
「なるほど!」
「その手があったか!」
「それに渡辺と湧見ってライバル意識が凄いから、一緒に使った方が頑張るんですよ」
「それ高梁も刺激するよね?」
「当然です。高梁のパワーも1割増しになります」
「よし、その案採用」
月野は本来センターなのだが、センターの層が厚いため、パワーフォワードで登録していたのである。
それで渡辺と湧見に、明日朝1番の飛行機(7:45-9:25)で成田空港まで来るように言った。
「羽田じゃないからね。成田だからね」
「分かりました。ふたりで連絡取り合って必ずその便に乗ります」
「万一間違って羽田に来たら、間に合わないから置いていくから。その時は泳いでタイまで来てもらうからね」
とふたりと親しい高居さんが脅す(?)。
「高性能のアクアラングを貸してください」
「レンタル料は自己負担ね」
そして最後にシューティング・ガードの人選(花園亜津子の代わり)を議論する。
「先日1度召集した永岡水穂しかいないのでは?」
「でも伊香秋子とか神野晴鹿も捨てがたいんですよ。彼女らも国際試合を充分経験していますよ」
その3人の誰にするか、意見は分かれた。念のため3人の成績を確認したが、甲乙付けがたいのである。
紛糾している内に時間が過ぎていく。もう20時を過ぎている。タイムリミットは2時間を切った。
「村山千里にしましょうよ」
と土山強化部長が言った。
「彼女がどこにいるかご存知ですか?」
と川口ヘッドコーチが尋ねる。
「スペインに派遣してるんですよ」
「スペイン!?」
「前任者の時代に派遣されたようで、私もなぜ派遣されたのかとか、詳しい経緯を聞いてないのですが、彼女の現在の所属はスペインLFBのレオパルダ・デ・グラナダです」
「そんな所にいたのか!」
「先日見た時、彼女の技術は凄いと思った。ただ表情とか見ると精神的にかなり不安定なように見えた」
「精神的に不安定ということは、実力以上に活躍してくれる可能性もあるということです。花園亜津子のスリーがなければ、このアジア選手権を勝ち抜いて来年のワールドカップに出場するのは厳しいと思っていました。村山なら花園と同レベルのプレイが期待できます。この際、彼女が何とか精神的に持ち堪えてくれることに賭けませんか?」
と土山は言う。
「今代表チームには彼女の親友の佐藤玲央美がいます。そして今日の会議で湧見絵津子も召集することになりました。彼女は村山と同じ高校の後輩です。2人が傍にいれば頑張ってくれる可能性は高いと思う」
と、千里をU18からU21まで4年間見ていた高居が言った。
「でもスペインから召集できるの?」
「村山は向こうではコア選手という訳ではないですから、出してくれると思います」
「どのくらいの時間でバンコクに来れる?」
「1日以内には移動できると思います。だから多分24日にはバンコクに来れますよ」
「だったら何とかなるかな」
「強化部長、村山の所属チームに連絡を取ってもらえませんか?」
「分かりました。すぐやります」
この方針が固まったのが、もう日本時間で21時(スペイン時刻14時)頃であった。土山がレオパルダの球団事務所に電話すると11月3日まで村山を日本代表に出すのは構わないという返事であった。
球団はちょうど練習に出てきた千里を呼んで、君が日本代表に緊急召集されたと伝えると千里は驚く。千里と土山が直接電話で話す。
「花園がインフルエンザなんですか?だったらやります。彼女の代役150%務めますから。本人にそう言っておいてください」
と千里は力強く語った。
「うん。その意気で頑張ってね」
と土山も明るく言った。
こうして千里のアジア選手権参加が急遽決まったのである。
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【娘たちの地雷復】(2)