【娘たちの地雷復】(1)

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龍虎は(多分)夢を見ていた。
 
「じゃ手術しますよ」
と言われ、手術着に着換えさせられる。あれ〜?ボク何の手術を受けるんだろうと思う。ストレッチャーで運ばれていき、手術台に乗せられる。無影灯がまぶしい。
 
「じゃ麻酔薬投入するよ」
と言われ、点滴に入眠薬が入れられたようである。意識を失っていきながら龍虎は小学1年生の時の大手術を思い出していた。そしたら唐突に川南さんの顔が浮かび
 
「龍虎、ちんちん取っちゃおうよ」
 
と言われ、え〜〜〜!?と思った。
 

2013年の4月以降、千里は基本的にスペインで暮らしていたので、日本時間の午前10時(ESP 3:00AM)頃に起きて日中は主として作曲作業をし、日本時間の夜9時(ESP 14:00)頃から日本時間の午前4時(ESP 21:00)まで練習をする。そのあと帰宅して6時間ほど睡眠を取っていた。
 
練習 ESP 14:00-21:00 JPN 21:00-_4:00
睡眠 ESP 21:00-_3:00 JPN _4:00-10:00
作曲 ESP _3:00-14:00 JPN 10:00-21:00
 
それでつまり日本時間でいうと、10:00-21:00 くらいが自由のきく時間帯であり、その時間の多くはグラナダ市内のアパートに居るのだが、日本の葛西のマンションに来たり、時には気分転換で千葉の桃香のアパートに来ている場合もある。
 
この間に『ハートライダー』の撮影で放送局から頼まれて富士スピードウェイで2回、鈴鹿サーキットで1回、自分のインプレッサや放送局が調達したフェラーリを走らせたし、ラリーコースも2回走った。こういうお仕事は結構気分転換になった。
 

貴司と阿倍子の結婚式の3日後、8月12日の午前中に、千里が千葉のアパートに居たら桃香が言った。
 
「千里ここしばらく何か暗い」
「そ、そう?」
「何かあったのか?」
「いや、別に何もないけど」
 
「大学も夏休みだし、しばらくうちの実家に来ないか?」
「えーっと」
 
千里は焦った。最近は時間の調整が難しく、頻繁に眷属に代役を頼んでいるのだが、高岡にいて眷属を使っていると、青葉に気付かれてしまう危険がある。
 
しかし千里は実際貴司を阿倍子と結婚させてしまったことを後悔していたし、桃香が心配してくれているのも分かるので、一緒に高岡に行くことにした。
 
新幹線・はくたかを乗り継いで高岡に行く。桃香の家に入ると、青葉は奈良に行っているということだった(回峰行をしていた)。
 
高岡では「昨年の性転換手術の傷が完治していなくてまだ体力がない」と称して午前10時に起きて、夜9時に寝る生活をさせてもらった。実際には夜9時から午前4時まで《びゃくちゃん》に桃香の部屋で千里の代わりに寝ていてもらって、その間千里はスペインでバスケをしているのである。《びゃくちゃん》は“容赦無い”ので桃香が
 
「千里、今の手刀は死ぬかと思った」
などと言っていたりする。
 
「殺すつもりで打ったから。桃香よく生きてたね」
「勘弁して〜。ちんちんも切られたし」
「桃香もそろそろ性転換して女になるべき」
 

青葉の方は16日までは奈良に居たのだが、17-18日は東京にまわってサックスのレッスンを受けたようである。それで18日の夜遅く帰ってきたのだが、何やら「呪いのヴァイオリン」なるものの処理を頼まれて20日にはまた東京に行ってきた。そして戻ってきたかと思うと、その依頼人が他にも様々な「呪いのグッズ」を持っていることが判明。その処分のため奈良に行ってくると言った。
 
さすがに桃香が停めた。
「青葉無茶苦茶。体力の限度を超えている」
 
それで奈良への移動には朋子のヴィッツを使い、青葉は後部座席で寝ていて千里と桃香がついていくことにした。むろん桃香としては自分と千里で交替で運転するつもりであった。
 
千里も正直貴司のことばかり考えていて、ボーっとしていたので、桃香から「運転代わってくれ」と言われて、初めてそのことに気がついた。
 
日本の運転免許証をまだ返してもらっていない!!
 
その間のつなぎに、せめてスペインの国際運転免許証を発行してもらっておけばよかったのだが、1ヶ月くらい大丈夫だろうと思い何もしていなかった。それで今免許が無いのである。千里は何と言い訳しようかと思った。
 
「ごめーん。私、まだ体調が良くなくて、高速を運転する自信が無い」
と千里は言った。
 
それで青葉は性転換手術の傷の治り具合がよくなくて、体力に自信が無いのだろうと解釈したようであった。
 
結局、ヴィッツは桃香と青葉が交替で運転して★★院まで行ったのだが、桃香は無謀運転だし、青葉は無免許運転だしで大変だったようである。実際には、高岡を出発したのが夜9時頃で、ヴィッツに同乗したのは《びゃくちゃん》である。青葉は夜間でもあり、疲れているので代役には気付かなかった。
 
しかし最後、高野山町から★★院までの山道は、千里(スペインから戻ってきたばかり)が
「ふたりとも疲れたでしょう」
 
と言って運転した。免許不携帯であるが、桃香に任せたら間違い無く崖から転落するし、青葉は多少仮眠はしているものの、搭載している呪いグッズが自分たちに影響を与えないよう結界の維持作業もずっとしていて疲労の限界を超えているようだったので、千里が運転するほか無かった。
 

★★院から先は、同院の醒春さんという30代のお坊さんが呪いグッズを持ってくれて青葉と一緒に処分場に行ったようである。
 
無論桃香と千里は院の中で休んでいたが、桃香は
 
「山の中に投棄してくるのかね?たくさん捨てられる所ありそうだもんな」
などという。
 
「違うよ。この山の中に“この世では無い所”があるんだよ。そこに納めてくるんだよ」
と千里は説明した。
 
「この世でないってあの世?」
「ほとんどあの世だと思う。普通の人はそこに行ったら帰って来られない」
「青葉は大丈夫な訳?」
「あそこから帰って来られる人は日本全体で120人くらいらしい」
「ああ、わりと居るんだな。青葉はまあ霊能者として日本のトップ100くらいに入っているということか」
と桃香は言ったが、近くで話を聞いていた瞬醒が苦笑していた。
 
今ここにそこから戻ってこられる人間が、青葉・千里・瞬醒と3人もいたのである。
 

青葉たちが戻ってきてから少し休憩した上で帰ろうか、と言っていたら、千里の携帯にメールが着信する。貴司からなので千里は桃香に見られないようにさっと開いて瞬間的に見たあと、次の瞬間削除した!
 
「何何?」
と桃香は言っているが
「DMだよ」
と言ってから千里はみんなから少し離れて貴司に電話する。
 
メールは《話が複雑なので電話で直接話したい》ということであった。
 
「どうかしたの?」
と千里が訊くと、貴司は
「実はヴァイオリンを引き取ってくれないかと思って」
ということであった。
 
どうも向こうは傍に阿倍子さんが居るようである。こちらも傍に桃香がいて聞き耳を立てている。それで千里は言葉を慎重に選びながら話した。
 
「貴司、新婚旅行からはもう戻ったんだっけ?」
「国体チームの合同練習が12日(月)から設定されていたからさ。だから結婚式の後10-11日の土日2日間で行ってきた」
 
新婚旅行が1泊2日(初夜まで入れて2泊3日)というのは短い気もするが、元々貴司の予定が詰まっているところに無理矢理結婚式をねじ込んだのだから仕方ない。
 
「国体は惜しかったね」
「うん。これは全国大会行けるかなと思ったんだけどね〜」
 
国体の近畿ブロック予選は京都・兵庫・和歌山、大阪・奈良・滋賀の2組に別れて予選リーグを戦い、最後に双方の1位が対戦する方式で行われた。貴司たちの大阪代表は奈良・滋賀に勝って2勝で勝ち抜けたが、決勝で京都に70-66の4点差で敗れ、国体本戦の出場を逃したのである。
 

「新婚旅行の行き先は?」
「新幹線で博多まで行って、11日は博多市内を見て、午後の新幹線で大阪に帰ってきた」
 
「のんびりとした旅だね。やはり新婚さんはホテルでたくさん時間を取らなくちゃね」
 
と千里は言っているが、もちろんイヤミである。実際問題としてせっかく九州まで行ったのなら、ハウステンボスとか阿蘇山とか見て帰ってくればいいのにと思っている。
 
「いや阿倍子の体力が無いから、長い距離の移動ができないし、日中の移動時間も短めなんだよ。博多まで行くのも、途中の岡山と山口でいったん降りて休憩しているし」
 
「そんなに彼女体力無いんだっけ?」
と千里はさすがに驚いて言った。
 
「それで頼みがあるんだけど」
と貴司は本題に入った。
 
ヴァイオリンがマンションにあるのを見て、どのくらい弾くのか聴いてみたいと思っていたと阿倍子が言ったが、自分はもう長いこと弾いてないから、弾けないと答えたということ。そんなに長く弾いていなかったものがなぜほこりもかぶっていないのかと訊かれたので、そのヴァイオリンは最近まで千里が持っていたものだということを言ってしまったということ。
 
それで自分は寛容なつもりだけど、彼女からもらったものを家に置いておくのはさすがに嫌だと言われたということを貴司は語った。
 
千里は吹き出した。そんなの正直に言わなくても適当に誤魔化しておけばいいのに、と思うが、そういう嘘をつけないところが貴司のいい所かも知れないなと思う。
 
千里は今奈良に来ているから、帰りに大阪に寄って回収していくよと言った。
 

それで千里が自分は大阪に寄って行くから、桃香も青葉も先に帰っててと言うと桃香が
 
「千里が大阪に寄るのなら、自分も同行する」
と言い出したのである。
 
桃香としてはかねてより千里がどうも大阪で彼氏と会っているようだと思っていたので、そいつを一目見てやろうという魂胆である。それで結局ヴィッツで大阪まで一緒に行き、青葉をサンダーバードに乗せて高岡に返し、桃香と千里のふたりで千里(せんり)のマンションまで行った。
 
阿倍子は千里が桃香と一緒に貴司の部屋に入って行くと、キッと千里を睨んだ。結納式の時に豪華なダイヤの指輪をつけていた女じゃん。こいつが貴司の元婚約者か?と考える。しかし千里はポーカーフェイスである。
 

千里は桃香に
「中学のバスケ部の先輩なんだよ」
と説明した。
 
「へー。バスケットしてたんですか?」
と桃香が阿倍子に訊くので
 
「いえ、私はスポーツは何も・・・」
と阿倍子は戸惑うように答える。
 
「私の先輩は貴司さんの方だよ。奥さんが男子バスケ部に入る訳ない」
と千里。
 
「あ、そうか。時々、千里が元は男だったことを忘れてしまう」
と桃香が言うが、それで阿倍子はびっくりしたようにして
 
「うっそー!? あなた男性だったんですか?」
などと阿倍子。
 
「ええ。ですから私、高校時代はバスケのために髪は五分刈りにしてたんですよ」
と千里が言うと
「そういえば、そんな話は聞いていた」
と桃香も言った。
 

「このヴァイオリンは、元々僕が小学生の頃に弾いていたものでさ、千里がヴァイオリン弾くのに楽器持ってないと言ってたから、自分はもう弾かないからあげるよと言ってあげたものなんだよね。でもその後、何度か色々な経緯で僕の所に来たり、千里の所に行ったりしていたんだけどね」
 
と貴司は説明する。
 
「だから、これは僕と千里の友情の印みたいなものかな。僕と千里の関係は基本的にはバスケの先輩・後輩の間柄だから。まあ千里が女になってしまったから、会って話したりしてると、たまに誤解する人もあるみたいだけどね」
 
と貴司は更に言った。
 
千里もその説明を追認した。これはこの後、わざわざ阿倍子に見られるように貴司の周囲に出没するための布石である。そのためあくまでふたりの関係を友人だと言っておくのである。
 
しかし阿倍子はその言葉を信用していないようにも見えたし、桃香もそれを全く信用していないように見えた。ふたりとも千里と貴司がただの友だちだなんて全く信じていないし、阿倍子はそれに加えて千里が元男性だというのも信じていないようであった。
 

千里は
「ちょっとトイレ貸して下さいね」
と言ってトイレに入ると《こうちゃん》に言った。
 
『貴司の男性器を返してやんなさい』
『バレてた?』
『気付いてたけど私もいい気味だと思って放置してた。でも京平を作るのに貴司の精液が必要なんだよ。だから取り敢えず仮釈放ということで』
『でもチンコ付いてたらきっと浮気するぜ』
『たくさん浮気すれば阿倍子さんに愛想尽かされると思う』
『なるほどー!』
『どうせ他の女とはセックスできないよね?』
『ああ。貴司のチンコは千里専用だから。切り取って箱に入れて千里が管理していてもいいくらい』
『私それ絶対紛失する』
『無くなったら諦めて女になってもらうということで』
 

大阪から帰りのヴィッツは運転を全部桃香に任せたので、桃香は高速を無謀運転しながら走っていたが、千里はほとんどボーっとしていた。やはり結婚式をぶち壊すべきだったかなあ、などとまだ迷っている。《こうちゃん》や《びゃくちゃん》の協力があればそれもできた気がする。
 
そんなことを考えていたら《りくちゃん》が言った。
 
『千里、まだ昨年7月に唐突に婚約破棄されたショックから完全には立ち直っていないんだよ。バスケットのプレイ見ていても、積極性が足りない。婚約破棄される前の千里はもっとアグレッシブだった』
 
『そっかぁ。私ももっと頑張らないといけないね』
『だから吉信さんは千里をスペインにやったんだよ。気持ちを切り替えろって』
 
千里は今育成チームでは多くの試合でスターターになっているし、毎回かなりの得点・アシストをあげているし、スティールもたくさん決めている。しかし確かに《りくちゃん》が言うように、まだ本調子ではないと思っていた。それは一昨年の夏以来半年以上にわたって試合から遠ざかっていたためだけではない気がしていた。
 

桃香は少し眠くなったといって女形谷(おながたに)PAで休憩して仮眠した。
 
千里はヴァイオリンケースをそっと開けると、その胴の中から1枚の紙を取りだした。そこには貴司の字で《922 1700》と書かれていた。千里は微笑むとその紙を丸めて車内のゴミ入れに捨てた。
 
桃香と千里は24日の夜、高岡に帰着した。
 

8月25日(日).
 
千里は貴司から渡されたヴァイオリンの弦がかなり傷んでいるのに気付き、楽器店に行って新しいのを買ってこようと思った。しかし例によって免許証が無いので運転できない。
 
「桃香、私を金沢まで連れてってくれない?」
と頼む。
「OKOK」
 
日曜日なので朋子のヴィッツが空いている。それで桃香は千里を乗せて金沢まで走ってくれた。金沢駅近くのアルプラザの駐車場に駐める。千里や朋子なら時計台駐車場という大駐車場に駐める所だが、ケチな桃香は無料で駐められるアルプラザを使う。そこの100円ショップで買物すればいいよ、などと言っている。
 
それで近くの楽器店に行き、とっても安いアリスのスティール弦4本セット3000円を買う。
 
「なんか弦も色々あるんだな」
と桃香が言う。
「品質も色々、値段も色々。これがいちばん人気のある弦ドミナント」
と言って、千里は指し示す。
「10000円か!千里が取ったのの3倍以上するじゃん」
「音質が凄くいい。でも寿命が短い」
「それは困る」
 
「こちらは普通のアマチュアに人気のインフェルド赤」
「12000円!そちらのより高いじゃん」
「これは音質はドミナントに及ばないけど、耐久性があるんだよ」
「ああ。そういうの好きだけど、それにしても高い」
 
「青葉が冬子からもらったようなああいう高価なヴァイオリンにはこういう良い弦を張らなきゃダメ。でも私が大阪の友だちからもらったような安物のヴァイオリンには、こういう安物の弦の方がいい」
 
「ほほぉ」
「私がもらったヴァイオリンにドミナント張るのは、真鍮製のネックレスに2カラットの本物ダイヤをつけるようなもの」
「ああ、そのたとえは分かりやすい」
 

それで弦を買ってお店を出て「ついでにフォーラス覗いていく?」などと言って金沢駅の裏手を歩いていたら、千里はいきなり後から羽交い締めにされた。
 
桃香がギョッとして、悲鳴をあげようとした時
 
「雨宮先生、やめてくださいよ」
と千里が言うので、桃香は悲鳴を上げるのを保留した。
 
「あんた、最近私を避けてない?」
と雨宮先生は言う。
 
確かに最近雨宮先生に会ったのは半年前の3月に蔵田孝治の結婚式に出た時、その前は昨年9月に京丹後市でラリーに出た時である。千里自身の活動が低迷していたため、結果的に雨宮先生との遭遇確率も減っていた。
 
「桃香、この人知り合いだから大丈夫。たぶん遅くなるからひとりで高岡に帰ってて。私、電車で帰るよ」
「分かった」
 
桃香には雨宮先生が“女性”に見えるので、まあ女性なら大丈夫だろうと思い、桃香も「じゃ私はアルプラザでお総菜でも買って帰るよ。気をつけて」と言ってひとりで帰っていった。
 

結局、雨宮先生に連れられて片町の何だか高そうなスナックに入る。響のボトルがキープされているので驚く。
 
「先生が金沢にも拠点を持っておられるとは知りませんでした」
「まあ今月中に来てなかったらボトルが流れていたかもね」
「なるほどー」
 
「あんた最近どこに居るのさ?マジでキャッチできないんだけど」
「ああ。取り敢えず住所書いておきますね」
と言って千里はグラナダのアパートの住所を書く。
 
「グラナダってどこよ?」
「スペインですけど」
「あんたスペインに居るの?」
「海外逃亡中です」
「それで見当たらなかったのか」
 
「何か急用ですか?」
「実は明日までに1曲書いて欲しいんだけど」
と雨宮先生が言うので苦笑する。
 
「いいですよ。最近その手の仕事をしてなかったので、懐かしいです」
「なんなら毎日その手の仕事を持ち込んでもいいんだけど」
「ギャラ次第では承ります。でも誰に渡す曲ですか?」
「KARION」
「KARIONって卒論書くからって休業中じゃなかったんですか?」
 
「あんた国外にいたから聞いてないか。ローズ+リリーの『Flower Garden』は聞いた?」
「ケイから1枚もらいました。凄い出来ですね。これまでの何年もの休業を全部吹き飛ばす名作ですよ」
「それでそれをリリース前、マスタリング前の状態で聴いた和泉ちゃんがさ、こんなのをローズ+リリーに出されては、こちらも黙ってられないというので7月にリリースする予定だった『三角錐』をキャンセルしてアルバムを作り直しているんだよ」
 
「へー!!」
 
「実際問題として中身の楽曲は総入れ替え」
「わぁ」
「それで楽曲が足りないんだよ。だから、あんたにも1曲書いて欲しい。実は、ゆきみすずから頼まれた」
 
「なるほど。そういうルートですか」
「名義は東郷誠一でも醍醐春海でも、どちらでもいい。ゆきみすずを使ってもいい」
 
「どれでもいいなら醍醐春海を使いますよ。それを明日までにですか?」
 
「彼女たちの卒論のスケジュールがあるから、8月31日までに録音までは終わらせる必要がある。でも和泉も蘭子(=ケイ)もとても精神的な余裕が無い。だから、千里に頼む。私とか鮎川ゆまが書いてもいいけど、できるだけ女子大生に近い年代の子の感覚が欲しいんだよ」
 
「それってかなり良い品質のものですよね?」
「もちろん」
 
千里は考えた。
 
「明日の夕方まで時間を下さい」
「何時に持ってこれる?」
「では19時」
「分かった。頼む」
 

千里は桃香に「急な仕事を頼まれたから今日は金沢に泊まる」と連絡した。そして《くうちゃん》に頼んで葛西のマンションに転送してもらい、そこで構想を練った。いくつかモチーフを書き出してみるが、“KARION品質”には足りない気がする。
 
考えている内にお腹が空いてきたが、冷蔵庫の中を見てもあまりまともな食糧がない。やはり最近グラナダと市川を往復する生活になっていたからかなと思う。それで葛西に駐めているホンダ・ディオチェスタに乗ってイオンまで買物に行く。
 
その時、走っていて何か違和感がある。
 
あれ〜〜?なんかこのスクーター調子良くない気がするぞ。
 
と思っている内に停まっちゃった!
 
『ねぇ、これ誰か直せる?』
『どれどれ』
と《げんちゃん》が見てくれる。彼はしばらくいじっていたが、何とかエンジンを掛けてくれた。
『ありがとう』
 
それで取り敢えず発進してイオンに向かう。
 
『でもこれはまた停まると思う』
『え〜?』
『千里、このスクーター、さすがに寿命だよ』
『そう?』
 
『元々もう動かない。部品取り用、なんて言っていたのを無理矢理動かしてきて4年だからなあ』
『うーん』
 
『新しいの買った方がいいと思う。千里、お金はあるんだから新品のスクーター1台買ったら?』
『そうだなあ』
『あるいは近所までの買物とか用なら軽自動車を1台買ってもいいと思う』
『ああ、それもいいかもね〜』
『軽なら100万円くらいで買えるぞ』
『じゃ中古車の軽で5〜6万くらいのを探そうかなあ』
『また中古車なのか?』
『だって動くのにもったいないじゃん』
 
『年収が億の奴の発想とは思えん』
と《げんちゃん》は呆れているようである。
 

それでイオンで食パン、マーマレード、サラミハム、スライスチーズなど、それにレトルトのメンチカツとハンバーグを買った。サラダも買いたかったのだが、夜遅いので売り切れであった。
 
そして帰ろうとしたら、またスクーターはエンジンが掛からない。《げんちゃん》が何とか始動してくれたが、確かにこれは本格的にやばいなと千里も思った。
 
マンションに戻ってから食パンにマーマレードを塗って食べていたら、唐突に新しいメロディーが浮かんできた。急いで五線紙に書き留める。
 
「これ、何か可愛い〜。ちょっとKARIONより誰かアイドル歌手に歌わせたいけど、もう時間が無いから、これを使おう」
 
と独り言を言って、そのメロディーを核に、買物に出る前に浮かんでいたいくつかのモチーフを組み合わせて、30分ほどでだいたいの曲の形が組み上がった。
 
「マーマレードを塗った食パンを食べながら思いついたからタイトルは『魔法のマーマレード』でいいかな」
 
などと言いながら、千里はパソコンを起動してMIDIキーボードを使い、Cubaseにリアルタイム入力していった。
 

千里は夜通しデータを入力し続け、明け方少し仮眠してから、朝になるとそのデータを再生しながら、自分で歌ってみる。それを録音して聴いてみて、調整する。ただ時間が無いので、使用楽器はKARIONのバックバンド、トラベリングベルズが使用する通常の楽器のみに限定して構成した。
 
千里はお昼も食べずに必死に調整を掛けて行き、だいたい夕方17時頃、ほぼ完成に達した。
 
それで千里は仮眠した!
 
18時頃起きる。
 
そしてその睡眠を取ってクリアになった頭と耳で再度楽曲を聴き調整する。18:53。千里は完成を確信した。急いでデータをコピーし、スコアを印刷する。
 
『くうちゃん、スタジオに転送して』
『了解』
 
それで千里はKARIONの制作がおこなわれているスタジオに行き、廊下にいた雨宮先生にスコアとUSBメモリーを渡した。
 
雨宮先生は時計を見た。18:59:45である。
 
「間に合ったか」
「頑張りました」
 
「残念だ。1秒でも遅れたら、千里のヌード写真をネットに放流しようと思っていたのに」
「それはよかったですね。そんなことされたら私も対抗して先生のヌード写真をネットに放流していたところでした」
 
「こんなおばちゃんのヌードに需要は無いわよ!」
「おばちゃんのヌードか、おじちゃんのヌードかは微妙ですね」
「後者はむしろ非難される」
 
千里は制作に立ち会わないか?と言われたが、眠いので寝ます。変更は自由にして下さいと言い、スタジオを出ると、《くうちゃん》に、高岡の桃香の部屋に転送してもらった。桃香は夕食を終えて部屋に戻ると千里が熟睡していたので、びっくりした。
 

千里は9月1日(日)夕方、飛行機でグラナダからマドリッドまで行き、市内で1泊。翌9月2日(月)の朝一番に日本大使館に行って、無事日本の運転免許証を受け取った。
 
「一時帰国なさいますか?」
「ええ。今月下旬一度行ってくるので欲しかったんですよ」
「なるほど。スペインには長く滞在予定ですか?」
「まだハッキリしないんですが、取り敢えず3月までは居る予定です」
「分かりました。道中お気を付けて」
「ありがとうございます」
 
受け取った後は飛行機でグラナダに戻り、その日の練習に参加した。
 

貴司は8月11日に新婚旅行から帰ってきた後、12日以降は国体大阪代表の練習に参加。夜遅くまでなので市川への移動は諦めて、その間は大阪市内のビジネスホテルに泊まった。17-18日に近畿ブロック大会に出たが、大会が終わると、会社と市川ラボを往復する生活に戻り、千里(せんり)のマンションには帰らない。
 
貴司が8月23日に郵便物チェックのため一時帰宅したら、ヴァイオリンのことを阿倍子から尋ねられ、それで千里に連絡したので24日(土)に千里が桃香と一緒にマンションを訪れ、ヴァイオリンを引き取って行った。
 
この時、なぜか貴司の男性器は復活してしまった。千里が帰った後もそのままである。
 

貴司は首をひねったものの、これはチャンスだと思った。
 
千里を待つ間、久しぶりにマンションで阿倍子と数時間過ごしたこともあり、千里が帰った後で、妊娠作戦のことも話し合った。それで週明けの8月26日(月), ふたりで一緒に不妊治療に定評のある産婦人科に行き、医師と話し合った。
 
医師は以前受けていた不妊治療のことを聞くと、自然妊娠は厳しいかも知れないですねと言い、取り敢えずその日は、貴司・阿倍子ともに検査をされた。貴司は
 
「男性ホルモン濃度が低い」
 
と言われた。やはり睾丸がずっと無かったからだろうなと思った。
 
精液を検査するのでとってきて下さいと言われてシャーレを渡されると、どうしよう?と悩んだ。たとえ男性器があっても、千里がいないと射精できないのである。ところが採精室の中で悩んでいたら、唐突にシャーレ内に精液っぽいものが入り、貴司はびっくりした。それを提出すると
 
「精液はいたってノーマルですね」
と言われた。
 
誰の精液なんだ〜!?と思ったが、取り敢えず今日はいいことにした。
 

阿倍子の方はやはり卵巣の機能が低いこと、子宮の機能も低いことを指摘されていた。卵管も検査されたが、卵管自体には異常が無いという話であった。
 
「これはやはり体外受精がお勧めです」
と医師は言った。
 
「でも取り敢えず何度か人工授精でやってみてもいいですよね?」
「そうですね。確率は低いですけど、できるだけ負荷の少ない方法から試してみましょうか?」
 
それで阿倍子の生理周期を確認し、次の生理周期で投薬により卵胞がよく育つように支援した上で、10月上旬に第1回の人工授精を試みることになった。
 
なお、貴司は8月27日以降は、また市川ラボと会社を往復する生活になり、マンションにはほとんど帰宅しなかった。阿倍子はちょっと寂しい気はしたものの、元々ひとりでいるのは嫌いでないし、生活費の心配をすることなく、自由にしていられるので、こういう生活も悪くないかもと思い始めていた。
 
「亭主元気で留守がいい、なんて言葉もあったしね〜」
 
なお貴司は市川に行っても男性器が消失せずに、逆に困った。男性器があるのがバレないように、睾丸は体内に押し込み、ペニスは後ろ向きに収納してガードルで押さえ、外から触っただけでは男性器など無いように感じるようにしておいた。またブレストフォームを買って練習中はそれを貼り付けた上でスポーツブラをしていた。
 

その日の夜中、龍虎は変な夢を見て夜中に起きてしまった。それでトイレに行ってから寝ようと思い、便器に座りぼーっとした状態でおしっこをした。拭こうとしたとき何か違和感があった。
 
ん?
 
と思いよく見ると、割れ目ちゃんがあるような気がする。指を入れてみると前の方にコリコリしたものがあり、触ると気持ちいいし濡れているのでこれがおちんちんのようだ。一番後ろには何か穴があった。これ何だっけ?と思う。
 
まだ夢見てるのかな?もう一度寝ようと思い、トイレを出ると自分の部屋に行って何となく気分でナプキンを付けてから布団に潜り込んで熟睡した。セーラー服を着て彩佳たちと町を歩く夢を見た。
 
朝起きてからトイレに行って確認すると、龍虎の股間はいつもの通りで、ちんちんもタマタマもいつもの状態だったし、割れ目ちゃんは無かったので、やはり夜中のは夢だったんだなと思った。
 

2013年9月1日(日).
 
日本女子代表候補の第四次合宿がNTCで行われた。第3次合宿があったのが6月下旬であり、これは2ヶ月ぶりの召集であった。
 
今回召集されたメンバーの中に栃木K大学1年生の永岡水穂の姿があった。アンダーエイジでは何度も召集されているが、フル代表に招集されるのは初めてである。
 
「ワットちゃん、召集されたんだ?」
「私もびっくりしましたー!シューターは層が厚いのに。まあ今回はお勉強ということなんでしょうけど」
 
今回召集されているシューティングガードは、三木エレン、花園亜津子と彼女の3人である。亜津子と水穂の間に伊香秋子・神野晴鹿(大学3年)もいるのであるが。
 
玲央美は絵津子や王子などとワイワイ話している水穂をじっと見つめていた。そして三木エレンもまた彼女を見つめていた。
 

合宿が始まってみると、水穂は亜津子には全くかなわないものの、三木エレンとの対決では、3〜4割くらい彼女が勝つ感じであった。成績としては三木エレンの方が良いものの“伸び代(のびしろ)”を考えると、今回は水穂が代表に選ばれるのでは?と馬田恵子や月野英美などは話していた。
 
「それにしても村山ちゃんはどうしたのかね?」
と恵子は言う。
「何か色々噂があるよ。去年の秋に何か大きな手術を受けたらしいというのは聞いた。そのリハビリに時間が掛かっているのかも」
「結婚して引退したという噂もあるよ」
 
「ああ、相手は男子代表の細川君でしょ?」
「そうそう。年末に結婚式を挙げたという噂があった」
「でも先月結婚式を挙げたという噂もある」
「結婚式2回挙げた訳?」
「年末に結婚して離婚して、また先月結婚したんだったりして」
「それは忙しすぎる」
「性転換したという噂もあるが」
「まさか!」
 

9月7日(土).
 
桃香と千里は9月中旬まで高岡に滞在するつもりだったのだが、桃香が
「夏休み中に書かないといけなかったレポートがまだ全然出来てない!」
と叫び、この日一緒に千葉に戻ることにした。
 
例によってちゃんと千里が(本当は《せいちゃん》が)チケットを手配して、朝から、はくたか+新幹線での移動である。
 
高岡8:44-10:54越後湯沢11:04-12:20東京
 
それで一緒に東京駅まで行ったのだが、千里は作曲依頼が溜まっていたので、「私ちょっと用事があるから」と言い、(東西線で葛西にいくのに)桃香と別れて大手町駅方面への地下通路を歩いていたら、バッタリと三木エレンに遭遇する。
 
「サン!あんたどこに居たのよ?」
「うーん。。。地球上かな?」
「そりゃ、あんたが火星とか金星にいたら、さすがの私もびっくりするわ」
と言ってから、
 
「あんたについて色々噂があるけど」
「噂というと?」
「結婚したとか、離婚したとか、引退したとか、大きな手術を受けたとか、性転換したとか、死亡したとか」
 
「うーん。。。。引退と死亡以外は事実ですね」
「性転換したの!?」
「性転換手術を受けて女になりました。大きな手術ってそのことですよ」
「元から女だったじゃん」
「そうなんですよね〜」
「結婚とか離婚とかしたの?」
「微妙ですね。結婚指輪なら、このくらいありますが」
 
と言って千里は金色のステンレスの結婚指輪、プラチナの結婚指輪、更にアクアマリンの指輪まで左手薬指に填めてみせる。
 
「たくさんあるね!」
と言ってから、エレンは言った。
 
「あんた引退していないのなら、私と手合わせしてよ」
「いいですよ」
 

それでエレンは千里をNTCに連れていった。京浜東北線で東京から赤羽に移動するルートである。エレンはずっと合宿をしていたのだが、バッシュが破れてしまい、彼女がいつも買っているスポーツ用品店まで買いに行くのに外出してきたらしい。彼女は大手町から東京駅に戻るのに通路を歩いていて千里と遭遇した。
 
NTCは本当はIDカードがないと中には入れないのだが、千里は顔パス!で入れてしまう。しかし千里がここに来たのは昨年6月11日以来、1年3ヶ月ぶりであった。
 
千里がNTCに来たのを見て、女子代表候補のメンバーたちがざわつく。
 
「まあ死亡説だけは間違っていたようだね」
などと広川妙子が言っている。
 
「性転換もしていないようですよ」
と王子。
 

「美樹ちゃん、手伝ってくれない?」
とエレンが言う。
 
「ディフェンスですか?」
「そそ」
 
それで石川美樹がディフェンスしている状態で、三木エレンと千里が1本交替でスリーを狙うというのをやる。
 
10本ずつやって、エレンは3本入れたが、千里は8本入れた。
 
千里の圧勝だが、エレンは言った。
「サン、本調子じゃ無い。なんかしばしば心ここにあらずの状態になってた」
 
「そうなんですよ。だからリハビリしているんです」
「ああ。やはり特別メニューで練習していたのか」
「私はまだ昨年6月の調子を取り戻していません」
「確かにそう思った」
 
その後、今度は千里とエレンの1on1をやる。1回ずつ攻防を入れ替えてやったが、これは千里の全勝だった。
 
代表選手たち、そして途中から姿を見せていた川口ヘッドコーチと戸田アシスタントコーチ、更に話を聞いてやってきた高居代表も腕を組んでこの対決を見ていた。
 
エレンは言った。
「去年より遙かに進化している」
「でも本調子じゃないんですよ」
 
「うん。それも分かった。サンはもっとできる。でも今は自分のパワーの3割も出ていない」
「ええ。ですから、自分が納得できるプレイができるまでは、私は修行を続けなければいけない気がしています」
 
「来年は来るよね?」
「来られたらいいですね。私がエレンさんを引き摺りおろすまで、代表落ちしないでくださいよ」
「当たり前だよ」
 
それで千里は
「皆さんお騒がせしました。東アジア競技大会、アジア選手権、頑張ってください」
と笑顔で言って、NTCの体育館を出て行く。
 

「千里、私とも勝負してよ」
と亜津子がその後ろ姿に声を掛けた。千里は振り向いて笑顔で言った。
 
「私まだ精神的にボロボロなんだよ。今あっちゃんとやったら間違い無く私が全敗する。武士の情けで今日はパスさせて」
 
それで千里は出て行った。
 
「コーチ、彼女を追加招集しなくていいんですか?」
と羽良口英子が川口ヘッドコーチに言った。
 
「戸田君、今の彼女のプレイをどう見た?」
「多分3ヶ月後には使えると思います」
「うん。僕も同じ意見」
 
「どうしてですか?彼女、どう見ても去年より強くなっていますよ」
と羽良口。
 
「でも本人も言ってたけど、精神的な脆弱さを感じた」
と戸田アシスタントコーチ。
「うん。あの状態では試合中、精神力を維持できないと思う。何があったの?」
と川口ヘッドコーチは玲央美に尋ねた。
 
「長年付き合っていた彼氏と破局したんですよ」
「そうだったのか」
「結婚したんじゃなかったの?」
「実質結婚したんですよ」
「別の男性と?」
「いえ。その破局した相手とです」
「意味が分からない」
 
「多分本人も意味が分かってないです。でもいい加減、復活すると思いますよ。アジア選手権に間に合うかどうか微妙と思ったのですが、少なくとも今はまだ無理っぽかったですね」
と玲央美が言うと
 
「あのプレイで代表を張れないのなら、私とかどうなるんです?」
と石川美樹が言う。
 
「石川君は落とされないように頑張ろうね」
と戸田コーチは笑いながら言った。
 

しかし千里とのこの公開対決以降、エレンのプレイが見違えた。
 
それまで亜津子に全敗、水穂にも3〜4割負けていたのが、亜津子にも1〜2割勝つようになり、水穂には全く負けなくなった。
 
「レンさん凄すぎる!」
という声が圧倒的だが
「いや、頑張りすぎてぽっくりいかないか心配になるくらいだ」
という陰口も一部で叩かれていた。
 
9月11日、日本バスケットボール協会は10月の東アジア競技大会とアジア選手権に出場する日本女子代表の最終的なメンバーを発表した。
 
シューティング・ガードには、エレンと亜津子が選ばれた。
 

9月8日(日).
 
龍虎は今年も市内文化ホールの太陽ホールで、ピアノの発表会に出た。
 
中学生の子たちはみんな制服で出演するので、6年生の龍虎は私服で出演する最後の発表会となる。一般に女子はドレス、男子は男児用スーツを着る子が多い。そして当然、龍虎は男子なので・・・・
 
期待通りドレスであった!
 
例によって
「どうしてボクの男の子用スーツって当日になると見つからないの〜?」
 
などと思いながら、可愛いペールピンクのドレスに銀色のティアラまでつけてドビュッシーの『夢想』を演奏した。
 
テクニックに走る子の場合は別の選曲があるのだが、龍虎のように短い指でそういう曲を弾くとどうしても無理が生じる。龍虎の場合は楽曲の解釈が深いので、情緒あふれる曲を弾いた方がいいという先生のアドバイスでこういう選曲になった。
 
実際龍虎がこの曲を美しく弾きあげると、会場全体から物凄い拍手があり、立って拍手する人(スタンディング・オベイション Standing ovation)、「ブラーヴァ」と声を掛ける人もあり、龍虎は立ち上がって観客に向かい、ドレスの裾を持って膝を曲げる挨拶(カーテシー curtsy)をして歓声・拍手に応えた。
 

「龍ちゃん、凄い出来だった。あんた練習の時より本番で良くなるよね」
と先生は舞台から降りてきた龍虎に拍手しながら言った。
 
「ありがとうございます。自分でも本番に強いタイプかなという気はします」
 
「今年もコンテストに出ようよ」
「そうですね。頑張ります」
 
と言ってから龍虎は尋ねた。
 
「さっき、観客席から『ブラーバ』って声が掛かっていたけど、あれ何ですか?」
「ああ。ブラボーは分かる?」
「はい」
 
「ブラボー bravo は素晴らしいという意味の形容詞だけど男性形。だから女性のパフォーマーに対してはその女性形のブラーヴァ brava を使うのよ」
 
「ああ、女性形なんですか!」
「そうそう。龍ちゃんは女の子だからブラーヴァね」
「あはは、女の子だとそうなるんですか」
と言いながら、龍虎は冷や汗を掻いていた。
 
「ちなみに男性複数形はブラーヴィ bravi、女性複数形はブラーヴェ brave ね」
「へー!」
 
「男性と女性が混じっていたらどうするんですか?」
と傍に居た彩佳が訊く。
 
「男女混じる場合は、たいてい男性複数形で代表して bravi なのよね」
「ということは私と龍が連弾したような場合は?」
「それはアヤちゃんも龍ちゃんも女の子だから、女性複数形で brave ね」
「なるほどー」
 
と彩佳は言いながら可笑しさをこらえるのに苦労した。
 

2013年9月14-16日、愛知県岡崎市で、全日本実業団バスケットボール競技大会が行われた。玲央美たちのジョイフルゴールドはここで優勝して、全日本社会人選手権に駒を進めた。
 
同じ日程で9月14-15日、和歌山市では、全日本クラブバスケットボール選抜大会が行われた。ローキューツは優勝できなかったものの、準優勝で、同じく全日本社会人選手権に駒を進めた(優勝は長崎カステラズ)。
 
NTCでは9月14日から21日まで日本女子代表の第5次合宿が行われた。12人に絞られてから最初の合宿であるが、玲央美は14-16日は上記の実業団競技大会に出るため合宿を休み、17日からの参加になった。
 

9月21-22日、第58回近畿実業団バスケットボール選手権大会が開催された。この大会は第46回全日本実業団バスケットボール選手権大会近畿地区予選、平成26年全日本実業団バスケットボール競技大会近畿地区予選を兼ねている。
 
この大会で2位以内に入れば“来年の”全日本実業団バスケットボール競技大会に行くことができて、そこで上位に入れば全日本社会人選手権大会に行けて、そこで上位に入ればお正月のオールジャパンに出ることができる。
 
昨年貴司たちは5位で“全日本選手権”には行けたのだが、“全日本競技大会”には行けなかった。今年こそオールジャパンを目指すぞ!とチームの士気は高かった。
 
この週末は1・2回戦だけが行われる。千里はこの日スペインから大阪に転送してもらい、客席から応援した。またチームにメンチカツとか、551の豚まんとかを差し入れたので歓声が上がっていた。千里がチームの控室まで入って来て、(阿倍子との結婚式に出たはずの)船越監督や石原主将も居る場で、選手たちに差し入れを配るので、貴司は「やっばぁ」と思っていたのだが、船越監督も石原さんも
 
「奥さん、ありがとうございます」
などと笑顔で言っているので、貴司は首をひねっていた。
 
それで千里の差し入れの効果もあって!?貴司たちのチームは1回戦・2回戦ともに勝って来月の準々決勝に進出した。
 
ちなみに千里は貴司と阿倍子の結婚式に《会社の人3名》が出たという話は聞いてはいたのだが、実際に誰か出たかはそもそも聞いていない。
 

試合が終わった後、千里は大阪市内のNホテルに行き、
 
「予約していた細川です」
と言って鍵をもらった。料金は“細川千里”のカードで決済する。エレベータで19階まであがり、もらった鍵の番号の部屋に入った。シャワーを浴びて汗を流しておく。
 
やがて17:05くらいに貴司が到着して千里の携帯を鳴らすのでドアを開ける。貴司が入ってくるなり、千里は抱きついてキスをした。
 
「今日はお疲れ様。頑張ったね」
「千里の差し入れパワーでみんな張り切ったみたい」
「だったらよかった。来月も差し入れ持ってくるね」
「ありがとう」
 
ヴァイオリンの内側に貼った紙に貴司が書いていた“922 1700”は、むろん9月22日、17:00の意味である。場所は書いていないが、ふたりは特に場所を指定しない限りはこの大阪Nホテルで会おうと、昨年12月に約束している。もっともその後は変則的なデートが多く、本当にNホテルで会ったのはあれ以来となった。
 

この日は最初2時間くらい、イチャイチャしながらおしゃべりをしてから、下のレストランに行きディナーを食べた。12月にここでデートした時にも見たソムリエさんがレストラン内を歩いていたので呼び止め、シャンパンを出してもらった。ソムリエさんはちゃんとふたりのことを覚えていて、モエ・ド・シャンドンの別のシャンパンを出してきてくれた。それで勢いよく栓を開けてふたりのグラスにシャンパンを注いでくれたが
 
「仲睦まじくて素敵ですね」
と笑顔で言っていた。
 

この日は日曜日でスペインの方の練習はお休みなので、そのまま夜遅くまでふたりはお部屋で話し合った。
 
貴司は阿倍子と人工授精をしたいので、自分の射精に協力して欲しいと言った。
 
それ自体は貴司が結婚する前からの千里と貴司の同意事項である。しかしこの時、貴司は実は阿倍子が不妊で悩んでいることを初めて打ち明けた。
 
千里は初耳だったので思わず「話が違う!」と言った。
 
京平の身体を作るために断腸の思いで貴司と阿倍子の結婚を容認したのに、彼女が妊娠困難な人だったなんて・・・。貴司は結婚前にも阿倍子と人工授精するつもりだと言っていたが、その時は貴司は千里への操を立てて阿倍子とはセックスしたくないからと言っていたのである。千里はそのことで文句を言ったが、阿倍子とセックスすることに罪悪感を感じるのは事実だと再度言った。
 
「女であれば誰とでもデートして誰とでもセックスしようとするくせに」
「ごめーん。でも阿倍子と深い仲になりたくないんだよ」
「なぜ?彼女が嫌いなの?」
「嫌いならさすがに結婚していない」
「ふーん。好きなんだ?」
「ごめん。それは追及しないで」
 
千里は腕を組んで考えた。
 
「仕方ない。京平のためだ。協力してあげるよ。だったら妊娠成功するまでは私たちのデートは28日おきになる訳ね」
「すまない」
「どうしても用事があって対応できない時は、諦めてね」
「それ予備を作りたい。一週間以上おいて射精して、冷凍も作っておきたいんだけど」
「分かった。タイミングがあったら協力してあげるよ」
「ありがとう」
 

取り敢えずその日は「予行練習」と称して、千里が貴司のを握って逝かせてあげたが、貴司は物凄く嬉しそうにしていた。更にその日は7月に会った時と同様にベッドの上で一緒に寝た。むろんタッチ禁止である。なお今回は着衣ではなく、お互い下着姿になって寝ようと千里は提案した。
 
「服を着たまま寝ると、服にしわが寄るのよね」
「あ、それは僕も思った」
 
しかしより裸に近いので貴司は嬉しそうだった。
 
「このベッドかなり幅が広いよ。50cmくらい離れても寝られるんじゃないかなぁ」
「そこをお情けで10cmの距離で」
 
ふたりはベッドに入ってからもずっとおしゃべりしていたが、やがて4時頃眠ってしまった。
 

翌日は月曜日なので貴司は会社に行かなければならない。朝7時に貴司を起こし、ワイシャツを着せ、スーツを着せてネクタイを結んであげる。それで一緒に下のラウンジに行って朝食を食べる。それで地下鉄の駅改札の所で
 
「あなた、行ってらっしゃーい」
と言ってキスまでして見送った。
 
千里はホテルに戻ると、チェックアウト時刻までぐっすりと眠り、チェックアウトしてからランチを食べた。その後は葛西に行って作曲作業をした。
 

9月30日(月).
 
千里は球団代表から呼ばれていつもより少し早い13時に事務所に出て行った。
 
「セニョリータ・ムラヤマ。君の書類を10月1日付でトップチームに移動するから」
「え!?」
 
「君はこの半年で物凄く進化した。今の君の実力では育成チームで指導できることはもう何も無い。この後はトップチームの中で他の強い選手に揉まれながら自主的に学んで欲しい」
 
「分かりました。頑張ります」
と千里は緊張した面持ちで言った。
 
結局育成チームから、千里と中国籍のシンユウの2人が今回トップチームに昇格することになったということだった。
 
「スペイン出身の選手を差し置いて私たちが昇格していいのかなあ」
と千里が心配するように言ったが
 
「今トップチームにスペイン人の選手は5人しかいないよ」
と今回は昇格しなかったリディア(モーリタニア系スペイン人)が笑って言っていた。
 
「他はアメリカ2人、フランス1人、スロバキア1人、イギリス1人、それに日本と中国が1人ずつになるね」
 
「国際色豊かだね!」
「まあスペインは何でもありだから」
「そのアメリカ人の1人は元々メキシコ人だったけどアメリカに国籍転換したんだよね」
「へー。でもそういう人は結構いそう」
 
「一昨年で退団したけど、男から女に性別転換した選手もいたよ」
「へー。でもそういう人も結構いそう」
 
などと言って、シンユウと千里は笑った。
 
「以前はうちの兄弟チームの男子チーム、ティグレ・デ・グラナダの方に所属していたんだけど、女になりたいというから、みんなで取り押さえて切ってあげた」
「マジ?」
「まあ取り押さえて切ってあげようとした所までは事実だけど、本人やはり病院で切ってもらうと言うから、連行して行って病院の手術台に縛り付けてきた」
 
どうもどこまでジョークなのかよく分からない話だ。
 
「でも千里もスペイン語だいぶうまくなったね」
「そうかな」
「うん。アルゼンチン人からスペイン人に言語転換した感じ」
「それも転換(conversion)なのか・・・」
 
「まあ性(sexo)を変えるのはconversionよりcambio(変更)ということが多い」
「ふむふむ」
 

チームは育成チームもトップチームも10月下旬から活動開始ということだったので、結果的に半月ほど時間があくことになった。海外から来ている選手が多いのでその間に帰国する人も結構あるようである。
 
「千里(チェンリー)は帰国するの?」
「実は私は毎日日本とスペインを往復しているのよ」
「マジ?」
「日本の夜9時がスペインの午後2時だから、日本で日中活動してからスペインに来て日々の練習に参加」
「それ寝る時間が無い気がする」
 
シンユウ(中国)もキャロル(リトアニア)も一時帰国するということだったし、カーラ(カナリア諸島テネリフェ)やリディア(国内セビリア)も実家に帰るという話だったので、千里もしばらくは日本に居てもいいかなと思った。
 
 
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【娘たちの地雷復】(1)