【娘たちのマスカレード】(2)

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貴司たちの合宿は6月26日まで続いたのだが、23日(日)のお昼、貴司は
「ご親戚の人が来てますよ」
と言われ、面談室に出て行く。
 
来ていたのが名古屋の病院に入院していたはずの阿倍子の母・保子だったので、びっくりする。
 
「お母さん、退院なさったんですか?」
「いえ、入院していたんですが、細川さんが近くまで来ていると聞いて外出してきました」
と保子は言う。
 
保子は最初に自分の入院費を払ってくれていることに御礼を言った。
 
「いえ、お見舞いにも行かず、すっかり不義理をしておりまして」
「それはいいのですが、本当に忙しいみたいですね」
「そうなんですよ。日本代表に選ばれたので、ひたすら練習で、自宅に帰る暇も無くて」
 
「それなんですが、細川さんがあまりにも忙しいというので、阿倍子が不安がっておりまして」
「はい」
 
「結婚式はいつあげるんですか?」
「えっと、すみません。9月までひたすら大会が続くので、その後でまたあらためて話し合えないかと」
 
「でもそんなこと言っていたら、またシーズンが始まるのでは?」
「それはそうなのですが・・・」
 
「結婚式の日取りだけでも決めて頂けませんか?」
と保子は厳しい顔で貴司に言った。
 
「そうですね・・・」
「7月19日で躍信(阿倍子の父)の一周忌です。それで喪が明けますから、その後すぐにでも、式だけでもあげませんか?」
 
「それは・・・・」
 
「それとも阿倍子とは結婚できないとでも?」
「いや、そういう訳ではないのですが・・・」
「でしたら式を挙げて入籍してください」
 
保子は一歩も引かぬ姿勢であった。それで貴司は保子の勢いに負けて式を挙げて阿倍子と入籍することを約束してしまったのである。
 
「では結婚式は8月9日・金曜日に」
「分かりました」
 
そう約束してしまってから、貴司は「どうしよう?」と悩んでしまった。
 

男子の刈谷合宿と並行して女子代表は6月19日から26日まで東京NTCで合宿をしていた。そして男女の合宿が終わってから1日おいて、6月28日から30日までは、日本代表男女の国際親善試合がおこなわれた。
 
28,29日(金土)が仙台で30日(日)が東京である。対戦相手は女子はモザンビーク、男子はフィリピンである。多分勝てるだろうという相手だったが、期待通り男女とも3連勝した(でも男子はこの後のアジア選手権でフィリピンに大敗する)。
 

親善試合が終わった後、貴司は総武線に乗り、千葉に向かった。そして西千葉駅で降りて、千里(と桃香)のアパートに向かった。
 
《きーちゃん》はこの日、L神社にいたのだが、貴司が来たことを察知し、《くーちゃん》に頼んで、グラナダのアパートでお昼を食べていた千里本人を西千葉駅前に転送してもらった。
 
千里はパンを手に握ったまま転送されてしまったので「何?何?」と慌てている。しかし貴司が西千葉駅の出札口から出てきたのを見て、ギョッとして取り敢えずパンはポケットの中に入れ、転送してもらったミュールを履く。
 
貴司は千里を見ると、深刻な顔で
「千里、話がある」
と言った。
 

千里は貴司の顔を見ただけで用件がだいたい分かった。とりあえずふたりで近くの居酒屋に入る。
 
「すまない」
と貴司は居酒屋であるのに、床に頭を付けて千里に謝った。
 
「阿倍子と結婚式をあげて籍も入れざるを得なくなってしまった」
 
千里はじっと貴司を見るだけで何も言わなかった。貴司は土下座の姿勢のまま、言い訳がましく、状況を説明したが、千里はさっぱり理解できなかった。
 
お母さんから強引に言われたからって、だったら私が常々言っていることは何なのさ?せっかくお母さんと会ったのなら、その場でハッキリ阿倍子さんとは結婚しませんと宣言すればいいじゃん。何やってんのさ?
 
千里はもう貴司に愛想を尽かしたくなってきた。
 
このまま話を聞いていたら自分は決定的なことを言ってしまうかも知れない。そう思った千里は立ち上がった。
 
「貴司」
「うん?」
 
千里は顔を上げた貴司の上に、コップに入っているお冷やを注いだ。
 
「わっ」
 
千里は自分の分のコップ1杯を全部注いでしまうと、貴司のコップも取り、その水も貴司に全部掛けた。
 
そしてサヨナラも“言わずに”テーブルを離れ、店を出てしまった。
 
『くうちゃん、スペインに戻して』
『分かった。千里、今日はお酒でも飲んでぐっすり寝ろ。そうしないと神経がもたないぞ』
と普段寡黙な《くうちゃん》が珍しくアドバイスした。
 
『何のお酒がいいかな?』
『今夜は強い奴がいい。ヘレス(jerez:シェリー)かな』
 

水を掛けられた貴司は、出てきた料理も食べずに会計をしてお店を出た。
 
とぼとぼと歩いていたら
 
「細川君?どうしたの?」
と声を掛ける人がある。見るとMM化学キャプテンの石原さんである。
 
「石原さん・・・」
「俺、君の出た親善試合を見た後、千葉に親戚がいるんで、ちょっと寄ってきた所だったんだよ」
「ああ。あの試合を見に来てくださったんですか」
「凄い活躍だったじゃん。もうスターター確定じゃない?」
「いえ。今日頑張ったのはみんなボーダー組で、本当のスターターはみんな適当に流してましたから」
「ああ、そうなのかな。でもどうしたのずぶ濡れで。今日は雨とか降ったっけ?」
 
「石原さん、僕どうしたらいいんでしょう?」
 
石原さんは少し考えるようにしたが、やがて言った。
 
「話を聞いていいから、その前にその服を着替えよう」
 

結局近くのスーパーでジャージの上下を買って着換えた。そして石原さんと2人で近くのスナックに入った。
 
それで貴司は昨年6月頃からの出来事を2時間近く掛けて語った。
 
石原さんはあまり口を挟まずにじっと話を聞いてくれた。そして最後に言った。
 
「細川、君は馬鹿だ」
「そうですよね」
「千里ちゃんって、それ物凄くいい子じゃん」
「そう思います」
「でも彼女が何も言わずに席を立ったってのはさ、君の阿倍子さんとの結婚を認めるということだよ」
「そうでしょうか?」
「それを認めると口に出して言うのは、さすがに彼女のプライドが許さない。だから何も言わずに席を立ったのさ」
「・・・・・そう言われるとそんな気もしてきました」
 
石原さんと貴司は更に1時間ほど話した。そして彼は言った。
 
「じゃさ、結婚式に俺は出席するよ」
「すみません!」
「あと、船越監督と高倉部長にも出てくれるよう、俺から話してやるよ」
「ありがとうございます。部長にも監督にも、どう説明すればいいんだろうと思っていました」
 
その日は結局貴司はスナックの閉店時刻まで水割りを飲みながら石原と話したのであった。
 

貴司は母・保志絵に電話して、阿倍子の父の喪が7月19日で開けるので、その後、8月9日に大阪のRホテルで阿倍子と結婚式を挙げたいと言った。当然のことながら保志絵は激怒し、その結婚式は絶対に認めないと言った。貴司が何とか父母、理歌・美姫の4人だけでも出席してもらえないかと言ったが、保志絵は、誰も行かせないと言った。
 
保志絵は貴司との電話を切った後、千里に電話した。
 
「千里ちゃん、このままでいいの?」
「昨夜は一晩泣き明かしました」
「千里ちゃん、一度こちらに来ない?どうやって貴司にこの結婚を断念させるか、少し対策を話し合わない?」
 
「私と貴司さんは何か大きな運命の歯車に巻き込まれてしまっている気がします。たぶんこの結婚は停められません」
「じゃみすみす結婚式を挙げさせる訳?」
 
「この結婚は5年もちません」
「・・・・・」
「だから放置します」
「千里ちゃん、そんなの我慢できるの?」
 
「4月に貴司さんと話したんです」
「何て?」
「貴司さん自身も意図しないまま、阿倍子さんと婚約してしまった。これはもしかしたら京平をこの世に連れてくるためなのではないかと」
「・・・・」
 
「高校時代にも1度そんなことを話したんですよ。私が直接京平を産んであげられないから、貴司は誰か他の人と結婚してもいいよと。でも結婚して最初に生まれた男の子に京平という名前をつけて欲しいと。それはたとえ誰が産んだとしても、私と貴司の子供だからと」
 
「・・・・」
「だから、もしかしたら阿倍子さんが京平を産んでくれるのかも知れません」
「だけど千里ちゃんも、赤ちゃん産めるよね?」
「まあ生理はありますけどね。本当に産めるかどうかは分かりません」
「生理があるのなら産めると思う」
「でも私、元男の子ですよ」
「それだけは嘘だ」
「うーん・・・・」
 

親善試合の後、少し間を置いて、7月3-5日に男子代表は今度は東京NTCで合宿をした。貴司は合宿が始まるまで都内のホテルに滞在したが、ボーとしていて食事も忘れるほどであった。合宿に入っても貴司のプレイは精彩を欠き
 
「どうした細川?まるで金玉が無くなったみたいだぞ」
と言われて龍良から、しっかりお股の物体を握られた。
 
ところが貴司は倒れてお股を押さえている。
 
「細川?」
「龍良さん、強く握りすぎです。潰れるかと思いました」
「軟弱な。日本男児たるもの、金玉はプレス機でも潰れないように鍛えなきゃ」
「それ無茶です」
 
そして7月6日はウィリアム・ジョーンズ・カップに出るため台湾に飛ぶことになっていたのだが・・・・
 
5日の晩、龍良がやや無理なプレイをして先日怪我した所をまた痛めてしまったのである。
 
「龍良、何やってんだ?お前!」
と監督は心配するより怒った!
 
「すみません。面目ないです」
 
それで急遽龍良は出場キャンセルとなり、男子日本代表は11名でウィリアム・ジョーンズ・カップを戦わなければならなくなったのである。
 

2013年7月6-14日、台北市で男子ウィリアム・ジョーンズ・カップが行われたが、日本は台湾Bチームに勝っただけで、他の全てのチームに負けるという悲惨な成績に終わった。8チーム中7位で、実質最下位である。
 
龍良を欠く日本がどうにもならないことを露呈した大会であった。貴司も気を取り直して頑張ったものの、本調子ではなく、むろん龍良の穴を埋めることなど到底できない。
 

7月15日に帰国した貴司はそのまま新幹線で姫路まで行き、播但線に乗って市川ラボに帰還した。
 
「ウィリアム・ジョーンズ・カップ結構頑張ったね」
と南田さんから言われる。
 
「でも全然ダメでした」
「日本弱いからなあ」
「皆さんもどこかの国の代表でしょ?」
「まあ俺たちは中国代表やったことあるし、七瀬は元アメリカ代表だよ」
「ああ、そうですよね!」
 
貴司としても心中は色々あったのだが、今はバスケで頑張るべき時だと気持ちを切り替えて練習に励んだ。
 

千里は元々7月20日(土)から翌日21日に掛けて貴司とお泊まりデート(ただしセックスは無し)をするつもりだったのだが、先日千葉で会った時に、貴司が阿倍子といよいよ結婚式を挙げるという話を聞いてショックを受け、そのデートの約束自体も、実行するのかどうか曖昧な状態になっていた。
 
そんな折、青葉がその週末7月20-21日に東京に出てきて、桃香・彪志と一緒に食事しようという話が入って来た。更に朋子まで東京に出てくるということになった。それで貴司にメールした。
 
《7月20-21日だけど、青葉が東京に出てくることになって、私大阪に行けなくなった》
 
貴司も
《了解。また会える時に》
と返信したが、いつかまた千里と会えるだろうか?もう2度と会ってくれないかもという気がした。
 

7月21日(日).
 
貴司は午前中阿倍子をA4 Avantに乗せて神戸まで行き、名古屋から新幹線でやってきた保子と3人で、阿倍子の実家で阿倍子の父の一周忌の法要をした。
 
“お坊さん”にお経をあげてもらい、お昼を一緒に食べた。
 
貴司はそのまま市川に帰りたかったのだが、夕方まで保子と一緒に結婚式に関する打合せをすることになる。
 
「じゃ出席者は、新郎新婦と、私と、そちらの会社の人が3人なのね?」
「はい。3人出てくれるそうです」
「あなたのご親族は?」
「申し訳無いです。それが全員どうしても時間が取れないようで、誰も出席できないのです」
 
これに保子が激怒した。
 
「親族が誰も出ないって、そんな結婚式がありますか! 結婚式は新郎新婦だけのものではないでしょ?双方の親族が、お互いに結びつくための儀式なんですよ。最低でも自分の親は同席するのが道理でしょ?それともあなたの親族はそんなことも分からない非常識者ばかりなんですか?」
 
「済みません。もう一度頼んでみます」
「お願いしますよ」
と保子は念を押した。
 

どうしよう?と悩んだ貴司は父に直接電話した。
 
「父ちゃんを男と見込んで話がある」
と貴司は言った。
 
ビジネスの交渉なら得意な貴司も、この手の特に角の立つ話は苦手である。しかしそれでも頑張って父に、父ちゃんだけでも出席して欲しいと訴えた。その貴司の必死さに望信は言った。
 
「分かった。母ちゃんは絶対に出ないし、俺にも出るなと言っているけど、俺とお前の男同士の話だ。俺だけでも出てやる」
 
「ありがとう。本当に恩に着る」
と貴司は涙を流して感謝した。
 

結局21日は大阪市内のホテルに(1人で)泊まった。そして22日(月)は普通に会社に出たが、この日の午後、アジア選手権に出る男子日本代表12名が発表され、貴司はその中に入っていた。それを高倉部長に報告すると
 
「うん。頑張っておいで」
と笑顔で言ってくれた。それで貴司は翌23日からアジア選手権が終わるまで会社は休むことになる。
 
夕方会社を出るが、今日は明日の準備もあるので市川の方には行かないことにして青池さんにメールを入れておく。しかし阿倍子が住んでいる千里(せんり)のマンションに行く気にはなれないので、結局ミナミに行き、何度か入ったことのある居酒屋に入って、カウンターに座り、キリンラガービールと、おでんに鶏の唐揚げを頼んだ。
 
それでビールを飲みながら食べていたら、隣にOL風の27-28歳くらいかなという感じの女性が座った。彼女は生ビールの小ジョッキを頼み、枝豆とホッケの塩焼きを頼んだ。それで生ビールをぐいっと一気飲み!してから「お代わり!」と言った。
 
すげー!と思って貴司が見とれていたら彼女はこちらを見て
「あなた腕が凄く太い」
と言われた。
 
「あ、えっとバスケットをしているもので」
「へー。スポーツマンなんだ!なんか格好いいなあ」
 
それから貴司は彼女と会話がはずんでしまった。彼女は日本のバスケットのことはあまり知らないものの、NBAの選手の名前をたくさん知っていた。自身も中学校の頃はバスケットをしていたらしい。それでNBAの話題で盛り上がってしまったのである。
 

2時間ほど楽しく会話した後で、スナックに移動し、カラオケを歌いまくった。彼女は歌も凄くうまかった。
 
「もしかして元歌手とか?」
「秘密」
「へー!」
 
それで12時近くまでスナックで飲んだ後、呼吸で誘いあって、ラブホテル街に来てしまった。
 
「いいの?」
「うふふ」
 
彼女は明確な返事はしないものの、嫌がったりはしていない。むしろ積極的になっている感じもあった。それで雰囲気でお店を選び、パネルを見ながら、「どの部屋にしようかなぁ」などと言っていた時、
 
誰かが貴司の手を取って『地獄の部屋』のパネルを押してしまう。
 
「へ?」
と声をあげて振り向くと、怒りに満ちた顔の千里であった。
 
千里は連れの女性に向かって言った。
 
「申し訳ないけど、私この人の妻なの。帰ってくれない?」
 
と言って千里は金色のマリッジリングを見せる。女は素早く貴司の左手薬指を見た。そこにも同じ形の金色のマリッジリングがはまっている。「あれ?この人、結婚指輪してたっけ?気付かなかった!」と思ったものの彼女は
 
「分かった。帰るね」
 
と笑顔で言って、バイバイをして通りの方に行こうとする。貴司が慌てて彼女にタクシーチケットを渡したので
 
「サンキュー。楽しかったよ」
と言って、彼女は帰っていった。
 
貴司はその時自分が結婚指輪(携帯に付けているステンレスのもの)をしていることに気付き、あれ?俺これいつ填めたっけ??と考えた。
 

彼女の姿が遠くなってから千里は言った。
 
「貴司、信じられないよ。来月には阿倍子さんと結婚するんでしょう?それなのに、他の女とホテル行くなんて。あり得ないよ」
 
「すまん」
と貴司はマジで反省して答えた。
 
「そんな奴は地獄に墜ちるがいい」
 
と言うと千里はバッグの中から拳銃!?を取り出した。貴司はギョッとして
 
「待て。話せば分かる」
と焦って言うが、千里は黙って引き金を引いた。
 
カチッという音がして銃口の先に火が点く。
 
「ライターか・・・」
と言ってホッとする。
 
「このライターあげるね。じゃね。永遠にサヨナラ」
と言ってそれを手渡すと、千里は振り向いて帰ろうとした。
 
「待って。千里、君と話したい」
 
「ふーん。何話すの?私がここ1年ほどの貴司の行動でどれだれショックを受け、どれだけ傷付いたと思ってんの?さすがに愛想が尽きたよ」
 
「すまん。本当に済まん」
と貴司は謝る。
 
千里は少し考えてから言った。
 
「じゃ話を聞いてもいいけど、最高の部屋を要求する」
「最高って?」
「帝国ホテル大阪のスイートルーム」
「うっ。財布が痛いけどいいよ」
 

それでラブホテルには「申し訳無いがキャンセルする」と伝えた上で、千里と貴司はタクシーで帝国ホテル大阪に行った。スイートルームが空いているか訊くと、インペリアルスイート27万円が空いているということだったので、貴司はその部屋を借りると言った。料金は貴司のゴールドカードで決済した。記帳を求められるが千里が
 
「私が書くね」
と言って、細川貴司40歳、細川千里22歳、と記帳した。それで鍵をもらい、ボーイの案内でインペリアルスイートに行った。
 
「ここ、すごーい!こんなお部屋、初めて泊まったよ」
と千里がはしゃいでいるので、貴司もホッとする。
 
「でも千里、40歳は無いよ」
 
と貴司は千里が記帳の時、貴司の年齢を40歳と書いたことに文句を言う。
 
「私をたぶらかして、阿倍子さんもたぶらかしたんだから、年齢くらい誤魔化しているかもしれない」
 

この夜、ふたりは再度腹を割って話し合った。そして3〜4時間掛けて話しあっている内に、千里の怒りも少しは収まってきた。
 
それで2人は、4月に話したこと。“京平をつくるための悪だくみ”についても話し合った。そして千里は迷いながらも、とうとう言った。
 
「私も凄く悩んだ。悩んだ上で、ここは我慢することにした。だから貴司、阿倍子さんと結婚してもいいよ」
 
「いいの?」
と貴司の方が戸惑うように尋ねる。
 
「その代わり、京平ができたら速やかに離婚して、私の所に戻って来て」
 
「それについては今は確約できない」
「まあいいよ。どうにでも手段はあるし」
と千里は言った。
 
「手段って?」
「例えば貴司を殺して遺体を引き取ってくるとか」
「何か全然ジョークに聞こえないんだけど」
「当然。マジだから」
「うーん・・・」
 

「結婚式はどのくらいの規模にするの?日本代表だから大変でしょ。招待客は200人くらい?」
「いやそれが・・・」
 
と言って貴司は、会社関係にも、バスケ関係者にも、自分が昨年千里と結婚したと思われているので、今更他の女性との結婚なんて話はできない。それで誰も招待できないと言った。千里は可笑しくなって忍び笑いをしていた。
 
「でも、1人先輩が理解してくれて、彼を含めて3人出てくることになったんだよ」
「親族関係は?」
「それも大半の親族は僕は千里と5年くらい前から結婚しているものと思われている」
「まあ実際に私は貴司と今でも夫婦であるつもりだよ」
「うん」
と貴司は言ってから一呼吸おいて
 
「母ちゃんも妹たちも出席は絶対拒否と言った。でも父ちゃんに頼み込んで、父ちゃんだけは出てくれることになった」
「ふーん」
 
千里は腕を組んで考えた。
 
「じゃ出席するのは、貴司と阿倍子さん、阿倍子さんのお母さん、会社関係者3人、貴司のお父さん、この7人かな」
「そんなものだと思う」
 
結婚式なのに、新郎の親族がほぼ全員出席拒否?それはさすがに“阿倍子さん”が可哀相だ。
 
「私、理歌ちゃんと話してみる」
「ほんと?」
「私はその結婚式をできたらぶち壊したい」
「うっ・・・」
「でも愛する人に恥を掻かせたくも無い」
「・・・・」
「だから少し話してみるよ」
「うん」
 

「疲れたね。寝ようか」
と千里は朝6時近くになって言った。
 
「そうだね。じゃ、いつものように、僕は床に寝るね」
と貴司は言ったのだが、千里は言った。
 
「一緒に寝ようよ」
「ほんとに?」
と言って貴司が凄く嬉しそうな顔をするので、千里は呆れる。
 
こいつは猿か!?頭の中にはセックスのことしか無いのか!???もうこいつはマジで去勢した方がいいな、と思考したら《こうちゃん》が楽しそうな顔をして手術用のメスを研いでいるので押しとどめておく。
 
「ただしお互い着衣。タッチ無しというのでどう?」
と千里は言った。
 
貴司は凄く哀しそうな顔をした。しかし
「分かった。それでいい」
と答えた。
 

「それとお互いの距離を5m取る」
「ベッドの幅が5m無いよ!」
「じゃ仕方ないから50cm」
「それでも端から落ちる」
「仕方ないなあ。10cm」
「そのくらいなら何とかなるかな」
 
それで2人は交替でシャワーを浴びてきた上で、きちんと服を着た上で、同じベッドに寝た。
 
「このベッド気持ちいい!」
「さすが27万も払っただけのことはあるね」
 
千里は婚約破棄以降、何度か貴司が寝ている所に添い寝したことはあったが、お互い意識のある状態で同じベッドに寝たのは初めてであった。
 
「じゃ、おやすみ、マイダーリン」
と言って千里は貴司にキスした。
「おやすみ、マイハニー」
と貴司も答えた。
 

7月23日(火).
 
千里と貴司は11時頃まで眠っていた。起きた時爽快だったのは、最高級の部屋の超快適なベッドのせいだけではない気がした。
 
貴司を起こして一緒にコーヒーを飲んだ。貴司はかなり疲れた顔をしている。まあ明るく元気だったら、ぶん殴りたいけどね。
 
チェックアウト時刻を少し過ぎた12:15くらいに部屋を出て、フロントに行き、チェックアウトの手続きをした。そのままレストランのフロアに行き、中華料理店で1人1万円のコース料理を食べた。
 
「普段阿倍子さんとは、どんな所でデートするの?」
と千里が訊くと貴司は何か考えている風。さすがに彼女のことを自分には話したくないのかな?と思っていたら、貴司はやがて言った。
 
「僕、阿倍子とデートした記憶が無い」
「は!?」
 
「阿倍子と会ったのは・・・彼女とこんなことになる前に数回会って彼女の悩み相談に乗ったのと、間違いでセックスしてしまった夜と・・・」
 
「間違い?」
「実は・・・」
 
と言って、阿倍子と1晩すごしてしまった夜のことを語ったら、千里は呆れていた。しかし同時に千里は“これは絶対操作されている”というのを感じた。これなら貴司が言うように、京平の肉体を作るために貴司は彼女と結婚しなければならないのかも知れないという気がしてきた。
 
「その後は、彼女のお父さんの葬儀の日、流産した日、12月頭に彼女に年賀状を書いてもらおうと思って会いにいった日、3月30日に彼女がマンションに押し掛けてきて、翌日に彼女の引越を手伝って・・・。その後は週に1回郵便物を確認しに行く時に数分間言葉を交わす程度かな」
 
千里は腕を組んで考え込んだ。
 
「普通、その状態は“交際している”とは言わない」
「だよなあ」
 
「ひょっとして貴司、彼女より私との方が多く会っていたりして」
「あ、それは間違い無くそうだと思う」
「呆れた!」
 
しかし千里は少し楽しくなった。この際、貴司の法的な妻というのは一時的に阿倍子さんに貸してもいいや。実質自分が貴司の妻であり続ければいい。
 
「でも貴司、会社では私が貴司の妻だということになっているんでしょ?だったら扶養手当とか、健康保険とか、年金とか、どうすんの?」
 
「どうしよう!?」
 

千里は貴司と一緒に23日の午後の新幹線で東京に向かった。そして東京駅の駐車場に駐めていたインプで貴司を北区のNTCまで送っていった。
 
「アジア選手権頑張ってね」
「うん。頑張る。ありがとう」
 
と言ってキスして別れる。そして千里は羽田に向かい、新千歳に飛んだ。そして札幌に行き、理歌がバイトを終えた所をキャッチする。一緒に近くのイタリアン・レストランに入った。そして千里は彼女に結婚式に出席してくれないかと頼んだ。
 
「お姉さん、それでいいんですか?」
と理歌は不快そうに尋ねる。
 
千里は3月に貴司からもらったネックレスを見せた。
 
「高そう!」
「これをエンゲージリング代わりにしてもいいくらいの値段だよね。多分。恐らく、貴司が私とすぐには結婚できない状態になったことから、“つなぎ”として私にくれたんだと思う。だから私もお返しにiPad miniを贈った」
 
「まるで婚約指輪とそのお返しみたい」
「私はそのつもりだよ」
 
「・・・・・」
 
「私は自分が貴司の妻であることを再度確信した。だから阿倍子さんをsecond wife として認めてあげるよ」
「モルモン教みたい!」
 
「だから貴司の正妻として、貴司に恥は掻かせたくないんだよ。それでせめて理歌ちゃんと美姫ちゃんだけにでも出席してもらえないかと思ってさ」
 
理歌はかなり渋ったものの、自分の出席については再検討してみると言ってくれた。それでも美姫は絶対に出ないと思うと言った。
 
「だって美姫は私やお母ちゃん以上に兄貴のこと怒ってますよ」
「怒ってくれるということで、私は救われる気がするよ」
「だったら私も出ない方向で」
「そこを何とか出てくれる方向で」
 

「でも結婚式って招待客はやはり100人くらい?」
「それが今の所確定しているのは7人」
「は!?」
 
それで千里は、12月22日に千里と貴司がデートしている所に高倉部長が遭遇したことから“新婚旅行の休暇”を認めてもらったこと。その結果、会社には貴司が自分と結婚したと思われてしまったことを話す。理歌は大笑いしていた。
 
「私、男子日本代表の人たちの前にもしばしば貴司の婚約者とか妻と称して姿を見せているからね。だから、私は貴司と結婚してバスケを引退したと思い込んでいる人もあるみたい」
 
「あぁ・・・」
と言ってから、理歌は尋ねた。
 
「実際問題として、お姉さん、今何してるんです?」
「1日の半分は作曲活動」
「なるほど」
「あと半分はスペインで活動しているんだよ」
「スペイン!?」
「これ私の選手証。他の人には内緒ね」
「そうだったのか!」
「だから私の現在の所属はここLeoparda de Granada, educativo」
「格好いいかも」
「トップチームに入った訳ではないから、どこにも報道されていない」
「へー!」
 

ところで千里は4月に「9月までレオパルダの育成チームで一緒に練習してて、10月からはWリーグのどこかのチームの育成選手になって欲しい」とバスケ協会の強化部長・吉信さんから言われていたのだが、その10月からの行き先についてその後、何も連絡が無い。8月に入ってさすがに不安になったので、千里は吉信さんに連絡を取ってみた。
 
「ああ、村山君、済まない。実は僕は強化部長を退任してしまって」
「そうだったんですか!?」
 
それで話を聞いてみると、今年発足して9月から第1期のリーグ戦が始まる予定のNBLに関するゴタゴタで、かなりの役員が辞任する騒動になっており、その巻き添えで吉信さんも強化部長を実質解任されてしまったらしい。
 
「村山君の件は新しい強化部長の土山さんに引き継いだはずだったんだけど、そちらから連絡行ってない?」
「きてません」
 
「分かった。僕が再度土山さんと話してみるよ」
「すみません。よろしくお願いします」
 

すると翌日になって土山さんから直接連絡があったが、千里は絶句することになる。
 
「村山さん、申し訳無い。あまりにも多忙で、そちらの件が処理漏れていた。それで10月以降のことなんだけど」
「はい」
 
「今Wリーグの各チームと交渉している時間がどうしても取れないんだよ。それでそちらのレオパルダの代表と話したんだけどね」
「はい?」
「取り敢えず今のまま3月までそちらの所属ということにしてもらえないだろうかと」
「え!?」
「レオパルダ側は歓迎と言っている。今の契約では育成チームの試合にしか出せないんだけど、取り敢えず3月まではトップチームの試合にも出せる契約にしたいと向こうが言うんで、日本のチームの試合にも出せるなら構わないと言ったら、それはスペイン側の契約には違反しないから、スペインチームと日本チームに二重在籍することにしようと」
 
「えっと・・・」
 
「だから、村山君の所属はそのままレオパルダ・デ・グラナダということにして、こちらも日本で村山君を欲しいというところを探すから。あるいは村山君が自分で探してもいいけども」
「あ、はい」
「それでもし日本での所属チームが決まったら、スペイン側と兼任ということで」
「分かりました」
 
それで結局、千里は3月までスペインでの生活が続くことになってしまったのである!
 
しかも土山さんの場合、吉信さんと違って、自分の行き先探しについて、あまり積極的ではない感じだぞ、という気がした。
 

千里が直接レオパルダのフロントと話してみた所、向こうも昨日その話があり、喜んで3月までの延長を受け入れたのでよろしくと言われた。なおスペインでの居住許可は5年間有効なので問題無いということであった。取り敢えず3月まで日本バスケット協会からレオパルダへは千里の育成費が支払われるが、新しい契約では、トップチームの試合に出ることもあるので、その場合、1試合あたり750ユーロ(10万円弱)の報酬が、千里個人に支払われるということだった。但しその内の1割の75ユーロは派遣元の日本バスケット協会に支払われて(実際には強化依頼費と相殺)千里の手取りは675ユーロ(9万円弱)ということらしい。
 

千里の滞在が延びたことで1つ問題が発生した。
 
それは国際運転免許証が10月途中で切れてしまうことである。
 
「だったら、千里、スペインの免許証に切り替えればいいよ」
とチームメイトのシンユウが言った。それでやり方を教えてもらい、書類を揃えて交通局に申請してみた。
 
健康診断だけ受けてくれと言われて指定された病院に行くと、視力検査、聴力検査と、反射神経検査(?)をされて、合格ですと言われた。反射神経検査は昔のテレビゲームのような感じだった。
 
それで取り敢えず仮免許証を発行してもらったが、正式の免許証(EU統一免許)は後日郵送してくるということであった。
 
千里のEU統一免許にはA(自動二輪)とB(普通自動車)が設定されていた。
 
EU統一免許なので、この免許証でヨーロッパのほぼ全域(EU諸国・アイスランド・リヒテンシュタイン・ノルウェイ)で運転が可能である。永世中立国のスイスはこのエリアに含まれないが、スイスでは入国して1年以内はEU免許での運転が可能である。つまりスイスに住むのでない限り問題無い。実は日本の運転免許証でもEU免許同様にそのまま運転できる!(但し日本の国際運転免許証はスイスでは無効)が、スイスの警官の大半は日本語が読めないので、免許証の翻訳文を携行するのがお勧めらしい。
 

この免許切替えの際、日本の免許証を提示すればいいのだろうと思っていたら、交通局の人に回収されてしまった。それでは日本で運転できないので困ると言うと、出身国の大使館で受け取れるということであった。
 
そこで大使館に問い合わせると9月2日(月)以降なら受け取れるということだったので、その日にマドリッドの日本大使館まで取りに行くことにした。
 
なお、なぜこんな面倒なことになっているかというと、本来は「免許証は1人に1つ」という考え方からEU免許証を持っている間は日本の免許証は当局で預かっておくという趣旨のようである。ただしスペインのお役所は、とっても“適当”なので、この預かった免許証は高確率で!?紛失される!
 
(スペインはそもそも全てが“適当”な国である。日本やドイツのような感覚では生きていけない)
 
大使館で日本の免許証を受け取れるのは本来は日本に一時帰国する場合の便のためである。しかし、この制度を利用して双方の免許証を所持している人は割といる。ただ、本来は免許証は1つだけという建前なので、ヨーロッパ域内で運転する場合は、日本の運転免許証は自宅などに置いておき、携行しないのが良いという。
 
(実際には千里のように日本とスペインを毎日往復するような人は普通居ない)
 
スペインの交通局で紛失されてしまったりして日本の免許が返却してもらえなかった場合は、スペインで国際運転免許証!を発行してもらってそれで日本では運転するか、あるいは日本の運転免許センターで、海外で紛失したとして日本の免許証を再発行してもらうしかない。
 

貴司たち男子日本代表は7月24-25日にNTCで合宿した後、26日にマニラに渡った。そして28日からのアジア選手権に出場する。
 
この大会で日本は予選リーグでは初戦カタールに1点差負けを喫したものの、香港には勝って1勝1敗の2位で予選リーグを通過。2次リーグに進出した。しかしここでフィリピンに大敗、台湾にも僅差で敗れて決勝トーナメントには進出できなかった。
 
やはり龍良の怪我からの回復がまだ万全ではなかったのが大きかった。
 
結局9-12位決定戦に廻り、ここでインドと香港に勝って、日本は9位でアジア選手権を終えた。
 
当然来年のワールドカップには出場できない。
 

貴司たちは8月7日の決勝戦を観戦したあと、8月8日に帰国した。貴司は都内で1泊してから9日朝に大阪に戻った。千里(せんり)のマンションに戻ると保子も来ていて
 
「いらっしゃらないかと思いましたよ」
と言ったが、
「済みませんね。忙しいもので。昨日帰国したんですよ」
と結構な反感を顕わにしながら言った。
 
そしてお昼過ぎに結婚式をあげるRホテルに一緒に行った。結婚式は14時(スペイン時刻朝7時)からである。
 

千里は8月9日(金)の朝、起きてから、かなり悶々とした気分であった。
 
結局9時近くになってから
 
『きーちゃん、私やはり行ってみようかと思って』
と日本に居る《きーちゃん》に問い掛けると
 
『大陰が大阪に行ってるから彼女と位置交換するね』
 
と言って、千里を大阪のRホテルに飛ばしてくれた。それでどこかな?と思いながら歩いていると、2階ロビーにモーニング姿の貴司を見つける。そしてその近くには老齢の女性と並んだウェディングドレス姿の阿倍子を見た。あれ?お母さんだっけ?去年見た時よりかなり老けてない?と思う。
 
しかしモーニング姿の貴司とウェディングドレスの阿倍子がいるということは2人は結婚式を挙げてしまったんだというのを千里に認識させる。
 
激しい悲しみが込み上げてきた。
 
やはり私、ここに来なければ良かったかな・・・・と後悔する。それで帰ろうかと思ったら
「千里姉さん」
と声を掛けられる。
 
ライトグリーンのドレスを着た理歌であった。
 
「姉さん、来てたんですか?」
 
それでふたりで1階に降りてカフェに入った。理歌がフルーツパフェを2つ注文し一緒に食べながら話した。
 
「理歌ちゃん、ありがとうね。出席してくれて」
「出たくなかったけど、千里姉さんが出て欲しいと言うから私とお父ちゃんだけ出席しましたよ」
「お母さん何か言ってた?」
「引き出物はどぶに捨てて帰ってきてと言ってました」
 
千里は吹き出す。
 
「まあ5年はもたないだろうけど、早々に離婚するといいね」
と千里が言うと理歌も笑った。
 
「そうそう。うちのお父ちゃんったら、新婦の名前を言い間違って」
「へ?」
 
「お父ちゃん、兄貴が千里姉さんじゃない人と結婚すると聞いて、長年兄貴に干渉していた緋那さんが相手と思い込んでいたらしいんですよ」
「え〜〜!?」
 
「それで『貴司、緋那さん、幸せになってください』って」
「あははは」
 
「まあ式には出ましたけど、私も美姫もお母ちゃんも、兄貴の本当のお嫁さんは千里姉さんだと思っていますから」
 
「ありがとう」
と言って、千里は涙が出てきた。
 

ところで貴司と阿倍子の婚姻届は結婚式・披露宴が終わったらすぐに豊中市役所に提出する予定だったのが、それは翌朝になってしまった。それはこのような経緯であった。
 
9日の昼前“石原”は“船越”と“高倉”に
「おい、行くぞ」
と声を掛けた。それで3人は強烈な“愛情不成就”の呪いを掛けたワイシャツの上に倒産整理品の礼服を着て、Rホテルへと出かけた。
 
貴司を見かけて
「やぁ、今日はおめでとう」
と声を掛け、祝儀を渡すが、中身は1万円である。そして実は3人の1万円札は先日、阿倍子の父の一周忌で“お坊さん”にお布施として渡された紙幣であった。更にお寺の線香の煙にたっぷり曝して臭いがつくほどにしている。
 
貴司・阿倍子・保子がやってくる。
 

『おい、あの母ちゃん、やばくないか?』
『酷い糖尿病だ。臓器もあちこちやばい』
『余命1年無いよな』
 
『しかし母ちゃんが死んで、阿倍子が天涯孤独になったら、阿倍子は貴司と絶対別れないぞ』
『それはまずいな。仕方ない。あの糖尿病を治療しちまえ』
 
『どうやって治療するのさ?』
『この薬を飲ませればいい』
と言って“石原”はガラスの小瓶を取り出す。
 
『それは?』
『ある場所からくすねてきた薬。糖尿病くらいなら半年程度で治る』
『へー』
 
『但し50%の確率で即死する』
『それ死ぬ確率が高すぎないか?』
『生き延びた場合も10%の確率で性転換する』
『性転換くらいは些細な事という気がする』
 
この薬は実は“ある人物”が開発中だった薬品の試作品である。むろん“石原”がその薬をくすねていくのをその人物が気付かない訳が無い。自分の手を汚さずに人体実験ができると思っている。この薬は数年後には即死確率がかなり下がる。しかし性転換確率は上がる!?
 
『そのあたりも含めて運次第だな』
『あと、本人が食習慣を変えなければまた再発する』
『そこまでは面倒見切れないな』
 
それで“石原”は取り敢えず保子の心臓を一瞬だけ停めた。
 
保子が胸を押さえて倒れる。
 
「お母さん?」
と言って阿倍子が保子を介抱する。
 
そこに白衣を着た男性が通りかかる。
「どうしました?」
「今急に胸が苦しくなって」
「私は医者です。診てあげましょう」
「すみません!お願いします」
 
“医師”は保子の服をめくると聴診器を当てた。
 
「軽い心筋梗塞ですね。発作の薬をさしあげます」
「お願いします」
「この薬を飲んで下さい」
「はい」
 
それで保子は薬を飲んだ。保子は“少し”楽になったようであった。
 
どうも“永久に”楽になったのではないようである。“医師”は内心惜しいなと思った。治療しようとした結果の“事故”だったら、こいつが死んでも俺は千里から叱られないのに、などと考えている(彼は実は千里が怖い)。
 
「もし何かありましたら、うちの病院にでもいいですし、お近くの病院にでも駆け込んで下さい」
「はい。ありがとうございます」
 
それで“医師”は名刺を置いて立ち去った。
 

14時ぎりぎりになって望信と理歌が到着する。それで結婚式が始まる。
 
結婚式はロビーの一角を使い、人前式で行われた。
 
司会を買って出た“石原”が
「それではこれより結婚式を“お開き”ます」
と言って、開式(?)を宣言し、まずは三三九度をおこなう。
 
ホテルの“スタッフの女性”が、貴司の杯にお酒を注ぐ。それで貴司がお酒を飲もうとしたら、その前にお酒が消えてしまう。
 
へ?
 
と貴司は思ったものの、取り敢えず三度に分けて杯を傾け、自分が飲んだかのごとく装い、杯を戻した。“スタッフの女性”は阿倍子に杯を渡し、お酒を注ぐ。これを阿倍子が三度に分けて飲み干す。そして最後にもう一度貴司に杯は渡され、お酒が注れたが、また貴司が飲む前にお酒は消えてしまった。貴司は三度に分けて杯を傾けただけで、そのまま杯を戻した。
 
「指輪の交換です」
と“石原”が言い、“スタッフの女性”が結婚指輪の乗った台を2人の前に置く。
 
それで最初に貴司が小さい方の指輪を阿倍子の左手薬指に填めてあげた。これはチタン製の金色の指輪である。その後、阿倍子が同じく金色の大きい方の指輪を貴司の左手薬指に填めてくれたのだが、貴司はギョッとした。
 
チタンの重さではないのである。
 
この重さは金(きん)だ!(金の比重は19.3でチタンは4.5。つまり約4倍違う)それにこのデザインは記憶がある。それは貴司が昨年千里に贈るためにティファニーで作った指輪と同じデザインなのである。つまり・・・これは多分千里が自分のために作った指輪だ。
 
なぜこれがここにある?そしてなぜ入れ替わったんだ?と思うが動揺してはいけないと思い、平然とそれを填めてもらった。
 

「これで“結婚は終了”です。おめでとうございます」
と“石原”は言い、閉式を宣言した。
 
貴司は「結婚は終了」と言われた気がしたが「結婚式は終了」の聞き間違いだろうと思った。
 
続けて披露宴、というよりお食事会に進む。ホテルの小部屋に行き、8人の出席者がテーブルに就く。ここでも“石原”が、司会をしてくれた。出席者が1人ずつ祝辞を述べるが、ここで最初に祝辞を述べた望信が
 
「貴司、緋那さん、結婚おめでとう」
とやっちゃったのは、“石原”にも計算外で、思わず笑いたくなったのをぐっとこらえた。
 

食事会が終わった後、貴司が
「皆さん、ありがとうございました。それではこれから婚姻届けを出してきます」
と言ったのだが、“石原”は言った。
 
「細川君、マニラから戻ってすぐの結婚式で疲れたでしょう。奥さんとゆっくり休むといいよ。婚姻届けは僕が出してこよう」
 
「そうですか?」
実は貴司自身も結構疲れた気がしたので、提出は彼に頼むことにした。
 
それで貴司から婚姻届・阿倍子の戸籍謄本・転居届を預かり、“船越”・“高倉”と一緒にホテルを出た。
 
千里がスペインから転送されてやってきたのは、彼らが出た直後で入れ替わりになった。《きーちゃん》は千里が彼らを見たら『あんたたち何やってる?』と言いそうなので、ヒヤヒヤしていたが、うまくタイミングが合った。
 

『疲れたぁ。もう身代わりがバレないかとヒヤヒヤだった』
と“船越”が言う。
 
『船越と高倉の顔を知っているのは貴司だけで、貴司はマジでクタクタだった。気付くわけねーよ』
と“石原”。
 
『後はそれを提出したら終わりか』
『これは今日は出さない』
『なんで?』
 
『もしかして永久に出さないとか?』
『そこまでやると千里に叱られそうな気がするんだよ。だから明日の7:04以降に提出する』
 
『7:04?』
 
『今回のプロジェクトは実は千里の親友のある人物(*1)と俺とで計画したんだけど、その人物によると明日の7:04-22:07の間がボイドといって、物事が不首尾に終わりやすい時間帯らしい。だからその時間帯に提出すれば、この結婚は壊れやすい』
 
『へー』
『その人物が調べてくれたことによると最悪の時刻は7:24』
『ほほお』
『その前後でもいい。だから俺は明日7:22くらいに豊中市役所に行って時間外受付でこの書類を提出する』
『なるほどー』
 
『ところでこのワイシャツ早く脱ぎたいんだけど』
『俺も。これ凄く気持ち悪い』
『ああ、脱いでお焚きあげするか』
 
3人は京都市内の某所まで行き、そこで着ていたワイシャツ・礼服を、今日の結婚式の引出物と一緒に燃やしてしまった。
 

(*1)実は佐藤玲央美である。玲央美は千里が貴司の結婚でかなり焦燥しているのを見て繋がりのある《すーちゃん》にこの計画を持ちかけた。そして詳細は玲央美と《こうちゃん》の2人で練り上げた。玲央美は高校3年の時以来《こうちゃん》とも度々会っており、玲央美も彼を信頼して計画を進めた。
 
つまり実はこの事件の黒幕(むしろ主犯?)は玲央美だったのである。
 
仮面劇参加者:すーちゃん、きーちゃん、いんちゃん、びゃくちゃん、てんちゃん、こうちゃん、せいちゃん、げんちゃん。
 
かくして、貴司の会社の人は誰も“貴司と阿倍子の結婚”を知らなかったのであった。
 

理歌は食事会が終わったところでトイレに行って来て、父を待ってホテルを出ようとしていたのだが、そこに千里がやってきたので、1階のカフェに誘い、そこで少し話した。そして自分たちは千里こそ貴司の本当の妻だと思っているということを言うと、千里は涙を流していた。
 
千里と別れてから2階のロビーで日経新聞を読みながら待っていた父と合流する。
 
「どこ行ってたの?」
「千里姉さんと会ってた」
「千里ちゃん、来てたの!?」
 
「そうだ。お父ちゃん、その引き出物貸して」
「うん?」
 
理歌はそれを受け取ると、自分が持っていたものと一緒に、ホテルのゴミ箱に捨ててしまった。
 
望信が驚いたが、
 
「出席するのは私、千里姉さんに頼まれたから妥協したけど、これを持ち帰ることまではできないから」
と理歌は父に言った。
 
「結局、貴司と千里ちゃんの関係はどうなってるの?」
と望信は理歌に訊く。
 
「千里姉さんは現在でも兄貴の奥さんだよ。だから千里姉さんがfirst wife, 阿倍子さんは事実上のsecond wife」
「うーん・・・・」
 

そんなことを言っていたら、貴司が何かを探すようにして歩いて来て、こちらを見るとホッとした顔で寄ってきた。
 
「お父ちゃん、理歌、頼みがある」
「どうしたの?」
「この指輪を持ち帰ってくれないか?」
と言ってハンカチに包んだ指輪を見せる。
 
「それは?」
「これは千里が僕に贈ってくれた結婚指輪だと思う」
「兄貴が持ってたの?」
「なぜこれがここにあるのか分からない。実は指輪交換の時に、台に乗っていたのがこの指輪で」
 
「え!?」
「阿倍子が用意してくれていた指輪は探してみたけど見つからない。新婚旅行から戻った後で再度探す」
 
理歌は考えていた。
 
「さっきの結婚式で、兄貴はその指輪を填めたの?」
「うん。阿倍子は違いに気付かなかったようだけど」
「これ18金だよね?」
と理歌は指輪に触りながら言う。
 
「そう。填められた時に重さで違いが分かった。阿倍子が用意していた指輪はチタン製で軽いんだよ。金色の酸化皮膜が付いているけど」
 
「阿倍子さんは気付かなかったんだ?」
「あの子は鈍いから。どちらも金色だし」
 
(実は阿倍子が手に持ったのはチタン製で貴司が填めたのは金だった。すり替えは填める瞬間に行われた)
 
理歌は更に考えた。そして言った。
 
「結婚式で千里姉さんが贈った指輪を兄貴が着けたということは、さっきの結婚式で兄貴が結婚したのは千里姉さんだね」
 
「え〜〜〜!?」
 
「兄貴、結婚したばかりなのに指輪填めてなかったら変に思われるよ。これでも取り敢えず付けてればいい」
と言って理歌は指輪を貴司に戻した。
 

理歌たちは悩んでいるふうの貴司を放置し、父と一緒にホテルを出た。
 
「さあ、今日泊まるホテルに移動しよう」
「ん?今日帰るんじゃなかったんだっけ?」
「北海道日帰りは辛すぎるからね。千里姉さんがNホテルに部屋を取っておいてくれたんだよ」
「へー!」
「帰るのは日曜日。大阪2泊ね」
「ああ、それはいいかも知れない」
 
そういう訳で2人は地下鉄で移動していった。
 

保子はこの日このホテルに泊まる予定だったのだが、式の前に倒れたりして不安なので、そのまま帰ることになった。それで貴司と阿倍子で保子を新大阪駅まで送って行き、ふたりはその後またRホテルに戻った。
 
そしてふたりは一緒にホテル内の部屋に入った。
 
「お母ちゃんが強引に進めてしまってごめんね。私は本当は当面の間貴司さんの婚約者という立場でもよかったんだけど。もう少し体調がよくなったらお仕事見つけて、貴司さんのマンションも出ようと思っていたんだけど」
と阿倍子は言った。
 
貴司は阿倍子の言葉を聞いていて、この子、どこかでひっそり死ぬつもりだったのではという気がした。
 
「いや、こちらこそ全然会いに行けなくてごめん。それでさ、君の体調も結構回復してきているみたいだし、入籍もしちゃったし、妊娠作戦始めない?」
と貴司は言った。
 
彼女には何か「するべきこと」を与える必要があると貴司は思った。
 
「私あまり自信無いかも」
と彼女は不安そうに言う。
 
「取り敢えず人工授精で何度かやってみようよ。それでやはり難しそうだったら体外受精で頑張ってみよう」
 
貴司としてはセックスするつもりがない。それに多分できないだろうという気もした。
 
「僕は世間一般よりは収入が多いから費用の心配はあまりしなくていいよ」
「でも私、前の夫と体外受精でもなかなか妊娠しなかった」
「だから言ったろ?こういうのって相性があるから、僕となら妊娠するかも知れないよ」
 
貴司としては阿倍子はわりとどうでもよいのだが!?彼女に子供を産んでもらえないと困る。
 
「そうだよね!」
 
「それで2年くらいやってみて赤ちゃんできなかったら、すっぱり諦めて、2人だけの生活を楽しまない?」
 
その場合は誰か別の女に妊娠してもらえばいいし、などと内心は思っている。
 
「それでいいの?」
「構わないよ。縁があって結婚することになっちゃったし。まあ3〜4年、一緒に暮らしてみるのもいいんじゃない?それで仲良くできそうだったら、ずっと一緒に居てもいいだろうし、ダメそうだったら別れればいいし」
 
貴司がそういうことを言うと、阿倍子は泣き出した。
 

「どうしたの?」
と驚いて言う。
 
「ありがとう、貴司さん。それなら私随分楽な気持ちでやっていけるかも」
 
貴司としては敢えて3〜4年という数値を出すことで、将来の離婚の布石を打ったつもりだったのだが、阿倍子はかえって感動してしまったようで、困ったなと思った。
 
なおその夜は「初夜だからサービスするね」と言って、阿倍子は貴司の性器を随分いじってくれたのだが、それはピクリともしなかった。
 
「もしかしてED?」
「ごめーん。僕のは女性に触られても全く反応しないんだよ」
「まさかゲイなの?」
「さすがにそれはない」
「貴司さん、時々ブラジャーつけてる気がして」
 
ギクッとする。
 
「ブラジャーは着けてると身体が引き締まる感じなんで、見逃して」
「うん。そのくらいはいいよ」
「ちんちんも、人が見てないところで自分でいじればちゃんと立って射精するよ」
「女性恐怖症?」
「うーん。何なんだろう。でもたくさんいじってもらって気持ち良かったよ。君のもしてあげるよ」
「え?」
「触られるの嫌?」
 
「・・・・前の夫はそんなことしてくれなかった。自分が出したら終わりだった」
「まあ、そういう男は多いよね」
 
貴司がしてあげると、阿倍子は物凄く気持ち良くなっているようだった。それで阿倍子は「この人と結婚してよかった」と思った。
 

なお《こうちゃん》は貴司の性器操作のことをすっかり忘れていたのだが、(そもそも彼は千里同様最初は頑張るものの、すぐ飽きる人である)結婚式の時に気付き、初夜ができないように消失させようとした。しかし《たいちゃん》に停められた。
 
「男性器が無かったら騒ぎになるけどEDだと思い込ませておけばセックスを求めようとしなくなる」
「なるほどー」
 
それで貴司の性器はこの夜だけは存在したのである。翌日からは無くなったので例の輸入物で偽装した上で貴司は阿倍子だけ気持ち良くさせてあげ「自分はいいから」と言った。阿倍子は、立たないからあまり触られたくないのかな、と思って自分だけ快楽を貪った。
 
 
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【娘たちのマスカレード】(2)