【娘たちのリサイクル】(4)

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9月6日(木)夕方。貴司はNTCでの合宿が終わり、宿舎を出た。出口を出た時、赤いインプレッサが停まっているのを見て、ギョッとする。しかしよく見るとナンバーが千里のインプとは違うし、運転席に座っているのも中年の男性だった。運転手は携帯をしていたようで、やがて通話を終えて車を発進させた。
 
貴司は「はぁ」とため息を付くと、とぼとぼと赤羽駅への道を歩き始めた。
 
次の合宿は9日からである。
 
赤羽駅まで来てみどりの窓口で新大阪までの切符を買おうとしていたら、
「細川君?」
と声を掛ける人がある。振り返ると久しぶりに見る顔があった。
 
「水流さん!」
と貴司はにわかに笑顔になった。
 
それは留萌のS中学の時のバスケ部の先輩・水流貞次(つる・ていじ)の兄、水流将太(つる・しょうた)で、貴司をMM化学に誘ってくれた当人である。ただ水流さん本人は、その後チームのレベルが上がりすぎて、選手枠からこぼれ落ちてしまい、他のチームに移った。貴司は申し訳無い気持ちだったのだが
 
「チームが強くなるのはいいこと。僕の代わりにこのチームを盛り立てて行ってよ」
と言い、笑顔で会社を去って行った。
 
「細川君はまだMM化学にいるの?」
「はい」
「君ならもうとっくにJBLにでも行ったかと思ったのに」
と言われてドキッとする。
 
それは千里からここ1〜2年、散々言われていたことでもあり、先日から龍良さんからも
「うちのチームでなくてもいい。JBLのどこかのチームに移籍しなよ。君はまだ伸びるけど、弱いチームにいては成長できない」
と言われているのである。
 
「水流さんは今どちらにおられるんですか?」
「茨城県の小さなチームにいるんだよ」
「へー」
「なかなか面白いよ。元プロがゴロゴロいるから」
「そんなに!?」
「君ちょっとうちの練習に出てみない?別に勧誘しないから」
「はい!ぜひお伺いさせてください」
 

それでその日貴司は大阪に帰るのをやめて、取り敢えず水流さんと一緒に焼肉屋さんに行ってつもる話などをし、その晩はビジネスホテルに泊まった。水流さんは「僕の家に泊まらない?」と言ったのだが、何となく貞操の危機?を感じたので、辞退した。
 
カプセルホテルとかにすればホテル代を節約できるが、貴司はカプセルホテルの男性用のエリアに泊まるとお風呂に入れないし、かといって女性用のエリアに泊まる勇気は無い(そもそも追い払われるか、最悪警察に通報される気がする)。
 

9月7日(金).
 
常総市に建設中だった千里の私設体育館《常総ラボ》が完成。千里は朝一番に引き渡しを受けた。工務店の人、ずっと作業してくれた人たちには感謝の意をこめてお菓子とポチ袋を配った。
 
さっそく使うことにする。体育館の壁沿いに一周すると86mほどあるので、まずは軽くこれを20周(1.7km)走り、それからコートの端から端までのドリブル走を右手と左手と交替しながら20往復やる。このウォーミングで30分ほど掛かっている。
 
それからミドルシュートの練習を場所を移動しながら軽く150本やり、その後、スリーポイントの練習をまた場所を移動しながら軽く150本やった。シュート練習には《すーちゃん》が返球係を務めてくれたので、300本の練習は2時間弱で終わった。
 
「まだまだ練習が足りないけど、まずはこのくらいから少しずつ増やしていこうかなあ」
などと言って、千里は1階のトレーニングルームで懸垂50回、腹筋・背筋50回、腕立臥せ100回・スクワット100回をしてから、お昼過ぎにインプを運転して千葉に戻った。
 

貴司は7日のお昼すぎに関東鉄道常総線の岩田駅まで来てと言われたので、ホテルを9時半頃にチェックアウトし、京浜東北線で秋葉原に出ると、つくばエクスプレスで守谷まで行く。ここで関鉄常総線に乗り換えて岩田まで行った。着いたのが11:40くらいである。
 
するとここにトレーニングウェア姿の水流さんがいる。
 
「よし走るぞ」
「はい!」
 
それで貴司は駅を出てから軽いストレッチ運動をした上で水流さんと一緒に走った。
 
「練習場所までどのくらいですか?」
「まあ走って2時間かな」
「え〜〜〜!?」
「冗談冗談。4kmくらいだから30分程度だよ」
「それでも結構ありますね!」
「練習の基本は走ることだよ」
と水流さんが言うと、ドキッとする。それはS中学時代に、よく水流さんの弟さんが言っていたことである。当時はほんとによく走らされた。
 

30分ほどで総合運動公園という名前が彫られた碑がある所に到達する。
 
「ここが練習場所ですか」
と少し息があがりながら訊く。水流さんは平気そうだ。うーん。自分は鍛錬が足りないとあらためて思った。
 
「そうそう。でも俺たちはこの運動公園の隅にある小さな体育館で練習してる」
「へー」
 
それで道路沿いに歩いて行くと、右手に運動公園の総合体育館、野球場、テニスコートなどが並んでいるのだが、テニスコートの左手の方に真新しい小さな体育館があった。
 
「ここ新しいですね」
「うん。以前はもっとボロい体育館だったんだけど、最近建て直しになったんだよ」
「へー」
「以前の体育館は雨が降ると室内にいてもずぶ濡れになってたから」
「それは困りますね!」
 
それで貴司が水流さんと一緒に階段をあがって2階に行くと、バスケのコートがギリギリ1コート取られた狭い体育館の中で4人の選手が練習をしていた。
 
「みんな、これ俺が以前いたチームの細川君」
と水流さんは貴司を紹介した。
 
「うちに加入するの?」
と言っているのは28-29歳くらいの女性だが、背が高い!自分とほとんど背丈が変わらない感じである。
 
「いや入らないけど、彼昨日までナショナル・トレーニング・センターで合宿していて、また明後日から同じ場所で合宿なんだよ。彼、家は大阪なんだけど、2日間大阪に戻っても練習とかできないし、それならこちらに留まってうちのチームと練習しない?と誘ったんだよ」
 
「ナショナル・トレーニング・センターで合宿って、何かの代表?」
と40歳近くかなという感じの男性が訊く。
 
「日本代表、フル代表だよ」
「すげー!」
「代表って男子代表?女子代表?」
「男子だと思うけど。細川君、ちんちん付いてるよね?」
「あ、えーっと・・・」
「声が男だし、男子代表では?」
などと言われると、かなりドキドキする。
 
「それなら俺たちはとても練習相手にはならないのでは?」
「でも新幹線に座ってただ往復するだけよりはマシだろ?」
「確かに確かに」
「だったら俺たちが胸を借りるつもりでいけばいいね」
「そうそう」
 
貴司は『胸を借りる』という言葉にドキッとした。あまり胸に触られたくない!
 

「ところで皆さんのチーム名をお聞きしていいですか?」
「女装ビーツ」
「へ?」
「漢字は《女を装うビーツ》
「え!?」
「常総をローマ字で書くとJosoだろ?それを誰かが女装と誤読したんで、それもいいかとその名前にした」
「マジですか?」
「ビーツは甜菜(てんさい)のbeetではなく、勝つという意味、ブザービーターのビート(beat)ね」
「へー」
「まあ天才:ジーニアス(genius)にも若干掛けている」
「うん。俺たち天才だし」
「わあ」
 
「ちなみに私は女装している訳ではなくマジで女だけど」
と、取り敢えず女性に見えるメンバーが言っている。
 
「女装したい人のために『女装の勧め』というパンフレットを作ったが、誰も女装しようとしない」
「そうだ。別にうちに入らなくてもいいから、このパンフレットあげるよ」
と言って貴司は本当に『女装の勧め』と表紙に書かれた、コピーしてホッチキスで留めた小冊子をもらってしまった。
 
「できるだけ勇気のいらない女物の服の買い方とか、お化粧の仕方、化粧品の買い方とかも解説しているから」
「君もぜひ女装をしてみよう」
「あはは」
 

しかしともかくも貴司は彼らと一緒に練習することになった。
 
ところが彼らが強い強い!
 
最初、白鳥さんという女性が手合わせさせてくださいと言って彼女と1on1をしたのだが、勝てない!
 
「少し疲れているみたいね」
「いや面目ない」
「でもこちらはいい練習になる〜。細川さん、もっとやろう」
「ええ!」
 
それでこの日は彼女と50本くらい1on1をやったが全く勝てなかった。その後、シュートの練習をする。6人で順番に、シュート係→ブロック係→リバウンド係→ボール拾い係と回しながら、ひたすらランニングシュートをするのだが、貴司は4回に1回くらいしかシュートを入れることができない。ことごとくブロックされてしまうのである。シュートとブロックが同じ組合せになってしまうので、時々順番を入れ替えながらやっていくたのだが、貴司は女性の白鳥さんにもブロックされ、この日はかなり精神的にショックだった。
 
「いや、合宿でみっちり鍛えられた後では、疲れが溜まっているよ」
と貴司をかばうように、最年長っぽい戸田さんが言っていた。
 
練習は夕方17時で終了するが、貴司は言った。
「すみません。ここでもう少し練習とかできますか?」
「ああ。いいよ。22時までなら使っていいから。鍵を帰る時に1階の郵便受けに放り込んでおいて」
「はい!」
 
それで他の5人が帰った体育館で、貴司は22時までひたすら1人で練習を続けたのであった。
 

「もう帰らなきゃ」
と貴司は独り言のように言うと、22:10頃に練習をやめた。
 
床を掃除し、トイレを借りてから体育館を出る。
 
「しかしこのトイレもまるでつい昨日できたみたいなきれいさだなあ」
と貴司がつぶやくと、貴司に見えない所で頷く影があった。
 
トイレは洋式の便器のある個室が1つあるだけだが、試合とかがある時はきっとテニスコートの方のトイレを使うのだろうと貴司は解釈した。
 
「さて走るか」
と言って貴司は駅までの道のりを走った。駅まで行くと列車が停まっている。水海道行きと書いてある。運転士さんが「乗りますか?」と声を掛けるので
 
「乗ります!乗ります!」
と言って飛び乗った。
 
「ありがとうございます。待ってくださって」
「これが最終だからね」
「本当ですか!助かりました」
貴司は危なかったなあと思った。
 
この日貴司は水海道で乗り継いで取手(とりで)駅まで移動した後、取手駅近くのホテルに泊まった。
 
貴司は翌日も午後から岩田駅まで行き、4kmの距離を走って昨日の体育館に行くと、チームの人たちと練習を重ねた。例によってなかなか勝てないのだが、昨日よりは少しは勝てる感じになり「よし!」と思った。
 
「今日は昨日よりは調子いいみたいね」
と戸田さんが言っていた。
 
貴司はこの日も22時まで居残り練習をさせてもらったが、今日は汽車にギリギリにならないよう、早めに体育館を出た。
 

千里は8日は朝5時に起きてまたインプを運転して常総市の体育館に行き、お昼くらいまで練習をした。この日は千里が常総市に行く時、《こうちゃん》にはKawasaki ZZR-1400を、《きーちゃん》にはZX600Rを乗せたハイゼットを運転してきてもらい、体育館の1階車庫に格納した。これで駐車場のやりくりに苦労しなくて済むようになった。
 
(彪志の運転練習は終了している。彪志からはお礼にピザ屋さんの商品券をもらった)
 

8日のお昼過ぎ、千里が常総市から戻り、シャワーを浴びてからお昼にそうめんでも食べようと茹でていたら、桃香が帰宅する。
 
「桃香、お帰り〜」
「千里、昨日も午前中出ていたね」
「うん。リハビリ始めようと思って午前中は少しウォーキングしてた」
「傷は痛まない?」
「だいぶ楽になったよ。青葉のおかげだね」
 
「ところでこないだから千里に言いたいことがあったのだけど」
「こないだも言ってたね?あ?新しい彼女のこと?」
「うん」
「取り敢えず、そうめん食べてからにしない?」
「そうしようか」
 

それでミカン缶と、桃香の希望で冷凍していたハンバーグを解凍して食べる。
 
「千里はほんとに料理がうまいなあ」
「桃香も少し覚えればいいのに」
「料理のうまい女の子と結婚しようかな」
「ああ、それもいいんじゃないの?」
 
そんなことを言っていた時、千里の携帯にメールが着信する。着メロはヴィヴァルディの『四季・春第一曲』である。名前の表示は《たかこ》になっている。実は『貴司、この野郎!』の略である!!
 
千里は携帯は開けるとメールを見て速攻で削除した。
 
貴司は実は毎日何かひとこと、千里にメールしてくるのである。今日のは《明日からまた合宿。頑張るね》
というものである。千里が貴司にメールしたのは1度だけ、8月31日に男子代表12名が発表になった時送った《おめでとう。頑張ってね》というものだけである。
 

「その着メロ最近よく鳴っているような気がする」
と桃香は言った。
 
「私を振った人だよ」
と千里は素っ気なく答えた。
 
「やはり、そうだったのか。しかし婚約して結納まで交わしておいていきなり振って他の女と結婚するなんて酷い奴だ」
と桃香は言う。
 
「ホントホント。しかも相手の女は妊娠しているというし」
「それで千里振られたのか!」
「あったま来るよね。きっと最初から二股してたんだよ」
「だろうな。だったら、出産までには結婚する訳だ?」
 
「でもその女のお父さんが亡くなったんだよ。だから結婚式は1周忌の後まで延期」
「結婚を延期したら、その子供はどうなるの?」
「多分籍だけは先に入れるんじゃないの?」
 
「でも千里、本当は諦めてないんじゃないの?」
「まあ、そのまま簡単には結婚させないつもりだよ」
「千里は簡単には物事を諦めない女だ。その結婚が延期されている間に彼氏を奪い返すつもりでは?」
「その気は30%くらいはある」
 

「しかしその彼って、これまでの千里の話を聞いていると、ゲイの傾向があるのでは?」
「怪しいとは思っている」
「だったらきっと、純女とは長続きしないよ」
「それは期待している」
と千里も少し闘志を燃え上がらせるような顔をする。
 
「だけどさ」
と桃香は言った。
 
「うん?」
 
「いっそ、そんな千里のことを振ったような男のことは忘れて、これを受け取ってくれないか」
 
桃香は机の引き出しから小さな紙袋を取り出した。そしてその袋の中から青いジュエリーボックスを取り出した。
 
「何?桃香が同棲するつもりの女の子へのプレゼント」
 
桃香がジュエリーボックスを開けると、中にはダイヤのプラチナリングが入っている。ダイヤは0.7ctくらいある。これは多分100万円以上する。
 
「うん。だから私は千里と一緒に暮らしたい。だから千里にこれを受け取って欲しい」
 
「へ?」
と千里は戸惑うように声をあげて桃香の顔を見上げた。
 
「千里、私の奥さんになって欲しい」
と桃香は言った。
 
「え〜〜〜〜!?」
 
千里はこういう事態は全く想定していなかったので驚いた。
 

「桃香、私のこと好きだったの?」
「好きでなきゃ千里と同棲するわけない」
「それ、わたし的には同居なんだけど」
 
と言いつつ、桃香が性転換手術が終わったら言いたいことがあると言っていたのはこれだったのかと思い至った。
 
「千里、私のこと好き?嫌い?」
と桃香は訊いた。
 
「嫌いではないけど」
と千里は答える。
 
「そういう曖昧な言い方はやめて欲しい。好きか嫌いかどちらかにしてくれ」
 
千里は本当に驚いていて、どう桃香に返事していいのか悩んだ。しかしこの時は貴司に対する怒りもあり、向こうが結婚してしまうなら、こちらも結婚してしまってもいいかなと思ってしまったのである。
 
「桃香って、いつもそう言うよね。じゃ、好き」
「私も千里のことが好きだ。だから結婚して欲しい」
「そうだね。まあいいか」
 

それで桃香は千里の左手薬指にエンゲージリングを填めてあげた。
 
「すごーい。ピッタリ!私、指のサイズ大きいのに」
「実は千里の例のプラスチックの指輪を宝石店に持ち込んでそのサイズで作ってもらった」
「なるほどー!」
 
桃香は婚姻届の用紙を出して来た。
 
「結婚の誓いでこれに記入しない?」
「え?でも私女の子になっちゃうから、これ受け付けられないよ」
「大丈夫。提出はしない。それにこれ少し改変してあるから」
「改変?」
 
それで見てみると普通の婚姻届け「夫になる人」の両親の名前および続柄の所に「男」と印刷されていて、「長男」とか「二男」とか書くようになっている所が「女」と印刷されている。むろん「妻になる人」の続柄欄も「女」である。つまりこの婚姻届は女性同士の結婚のために調整されているのである。
 
「面白ーい!」
「私がこれの夫欄に記入するから、千里も妻欄に記入してよ」
「やはり桃香が夫なのね?」
「逆でもいいけど。千里、夫になる?」
「それは嫌だ」
「だったら私が夫だな」
 
と言い、桃香は婚姻届けの左側の列を埋めていった。
 
氏名 高園桃香
生年月日 平成2年4月17日
住所 千葉市稲毛区**#丁目$番△号
本籍 高岡市***$番△号
父母の氏名 高園光彦/高園朋子
続き柄 長女
 
それで千里も右側の欄を埋める。
 
氏名 村山千里
生年月日 平成3年3月3日
住所 同左
本籍 留萌市***$番△号
父母の氏名 村山武矢/村山津気子
続き柄 長女
 
「苗字はどうする?」
と千里が訊くと
 
「私は夫婦別姓論者だ」
と言う。
 
そして見ると「結婚後の夫婦の氏」の欄には「夫の氏」「妻の氏」以外に、「各々の氏を継続使用する」という選択肢がある。
 
「面白ーい」
「これを選んでいい?」
「うん。いいよ」
 
そんなことを言いながら千里は思っていた。私、いったいこれまで何度貴司に振られたんだろう。そしてどれだけ浮気されたんだろう。あんな薄情者の浮気者のことなんか忘れて、桃香との愛に生きるのもいいかも知れない。
 
ああ。でも保志絵さんや淑子おばあちゃんに何て説明しようかな。
 
桃香は初婚再婚の所で、桃香は《再婚》を選び、《離別.平成24年6月25日》と書いた。千里も《再婚》を選び《離別.平成24年7月6日》と書いた。
 
職業欄はどちらも学生にした。同居を始めた日は平成23年1月30日と桃香が記入した。
 
「よくそんな日付覚えているね〜!」
「ちゃんと手帳に書いておいた」
「へー!」
 
「証人はいいよね?」
「うん。私たち自身が証人ということでいいと思う」
 
それで桃香は千里にキスした。千里も今日は桃香のキスを素直に受け入れた。
 
「じゃ結婚したからこれをつけよう」
と言って、桃香はプラチナのペアリングを出してくる。
 
「結婚指輪も用意していたのか!」
「内側に刻印もあるよ」
と言って桃香は内側を千里に見せる。
 
「MO to CH, CH to MOか」
とその刻印を読んでから千里は腕を組む。
 
「この指輪、季里子ちゃんと交わした結婚指輪に似てる気がするんだけど、まさか再利用じゃないよね?」
 
「まさか。季里子のイニシャルなら KI だよ」
「あ、そうか」
「こういうデザインが好きだから、ついまた同じようなのを選んでしまった。それに季里子の指輪が千里に入る訳ない」
 
「ほんとだ!」
 
それで、桃香は千里の左手薬指のエンゲージリングをいったん右手薬指に移した上で、MO to CH の結婚指輪を千里の左手薬指につけ、その上にエンゲージリングを再度左手薬指に重ねてつけてあげた。千里もCH to MOの結婚指輪を桃香の左手薬指につけてあげた。
 
それで再度キスをした。
 
「でもごめん。私の女性器まだ不安定だから、桃香を受け入れられないんだけど」
「いいよいいよ。年末くらいまでには使えるようになるかな?」
「かもね」
「じゃクリスマスか1月2日の姫初めで」
「いいよ」
と千里も微笑んで言った。
 
それでこの日は一緒のお布団に並んで寝た。あそこをいじってあげたら気持ちいい!と言って喜んでいるようだった。
 

指輪であるが、実は CH to MO の結婚指輪は季里子と交わした指輪の再利用(Reuse)である。千里は季里子のイニシャルがCHであることを知らない。彼女は画家のジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico 1888.7.10-1978.11.20)のちょうど生誕100年後、1988年7月10日に生まれたことから、季里子と名付けられた。それで彼女は自分の常用クレジットカードも Chirico Shioの表示にしている(海外に出た時のためにパスポートと同じスペルのKiriko Shioのカードも持っている)。
 
そして MO to CH の結婚指輪は実は季里子に贈った結婚指輪をいったん融かして、少しプラチナを追加して千里の指に合うサイズに再加工してもらったものである。刻印も新たに入れてもらった。そういう訳でこちらは実は資源再生(Recycle)したものだったのである。
 
正直、リサイクルするより、単純に下取りしてもらって新たな指輪を買った方が値段的には安くなったのだが、桃香は実は季里子への愛をまだ思い切れずにいて、その気持ちを密かに持ち続けたいという下心(?)でリサイクルを決断したのであった。単純にサイズ直ししてもらう手も考えたのだが、それではどうしても繋ぎ目の所が分かると言われ、いっそ融かして再形成という方法を選択した。
 
なお桃香はこの結婚指輪のリサイクルと、新たな婚約指輪の購入のために、電話受付会社からもらった退職金に加え、1年生の時に優子のお勧めで買った株で最後まで残っていたものを売却して資金に充てた。これで桃香の貯蓄は完璧に無くなってしまった。
 

2012年9月8-9日(土日)、前橋市のALSOKぐんまアリーナ(群馬県総合スポーツセンター)で全日本クラブ選抜大会が開催され、ローキューツはこれに関東クラブ選手権1位の資格で出場した。
 
以前は全日本社会人選手権に出場するには、3月の全日本クラブ選手権の上位入賞が必要だったのだが、今年からはこの全日本クラブ選抜の上位が派遣されることになったのである。
 
これに臨んだローキューツのメンバーは下記である。
 
選手(16名)
4.歌子薫(SF) 6.森田雪子(PG) 7.風谷翠花(PF) 8.原口揚羽(C) 9.松元宮花(PG) 11.水嶋ソフィア(SG) 15.東石聡美(SF) 16.馬飼凪子(PG) 18.岡田瀬奈(SG/SF)22.五十嵐岬(PF) 23.愛沢国香(PG/SF) 24.岸原元代(PF) 27.深山三葉(SF) 30.後藤真知(SF) 33.森下誠美(C) 35.長門桃子(C)
 
スタッフ(8名)
ヘッドコーチ 西原敏秀 アシスタントコーチ 谷地博伸 サブコーチ 杉山蘭 主務 島田司紗 マネージャー 鴨川絵美・宮中春江・沢口葉子・真田雪枝
 
以上の24名がベンチに座るが、玉緒と茜はベンチ外で事務的な作業をし、また沙也加たち8名のチア部も同行したので参加者は全部で34名に及ぶ。体調を整えるため選手は現地に前泊している。玉緒と司紗も事務作業のため前泊で、それ以外のメンバーは当日前橋に入っている(希望者は前泊可。実際真田雪枝と沢口葉子は前日に選手と一緒に前橋に入った)。
 

今回は全日本クラブバスケットボール選抜大会の第1回大会である。
 
全国から16チームが出場し、上位3チームが11月の全日本社会人選手権に進出し、そこで2位以内になるとお正月のオールジャパンに出場できる。関東から出ているのは、ローキューツ・江戸娘・須賀イラインの3チームである。
 
初日の午前中はまず中国地区の代表と対戦し15点差で勝利した。そして午後からは東北のチームと対戦。これも10点差で勝った。
 

「そういえば麻依子ちゃん、赤ちゃんできたんだって?」
「そそ。3月に生まれるって」
「もうママかぁ。なんか凄いなあ。同い年なのに私は彼氏も居ないや」
「まあ彼氏ができたらトントンと結婚・出産まで行くかもね」
「やはり結婚して出産の方がいいよね」
「出産してから結婚という人もたまにいるけど、それ色々問題あるよ」
 
「千里ちゃんは何か手術受けたと聞いたけど」
「性転換手術を受けたと本人は言っているが」
「嘘!?男になったの?」
「それが本人は男から女になったと言っている」
「だって元から女じゃん」
「うん。だから千里の言うことはよく分からない」
「千里も妊娠したという話もあるのだけど、未確認」
「妊娠したのなら、男だったというのも嘘だな」
「まああの子は時々よく分からないことを言う」
 

2日目まで残ったチームは下記である。
 
長崎カステラズ、三重ツインビュー、奈良ドリームキャッスル、千葉ローキューツ
 
準決勝の相手は奈良ドリームキャッスルであったが、この相手にはローキューツは終始リードを許す苦しい展開だった。しかし最後の最後に相手シュートを誠美がブロック。それを速攻で雪子が相手選手をひらりひらりとかわしてゴール近くまで運び、最後に相手センターに阻まれた所で、全く後ろを見ずにポンと後ろ向きにボールを放り投げる。
 
そこにソフィアが走り寄り、スリーポイントラインの所からシュート。
 
これがブザービーターとなって、最後の最後で劇的な逆転勝利をおさめた。
 
これでローキューツは全日本社会人選手権への出場を決めた。
 

最後に行われた決勝戦の相手はツインビューであった。カステラズとこちらも1点差ゲームを制して勝ち上がってきた。
 
このゲームは非常に厳しい戦いになった。
 
ツインビューは守りの堅いチームで、こちらはなかなか向こうの陣内に進入できない。誠美は明らかに狙われて第1ピリオドだけで2つファウルを取られたので、その後は彼女もかなり慎重になった。
 
むろん誠美や短時間彼女の代わりに出る桃子も、そう簡単には相手にゴールを許さないしリバウンドもどんどん取るのだが、結果的に超ロースコアのゲームとなった。
 
それでソフィアのスリー頼みになるのだが、向こうはソフィアにもかなり警戒してダブルチームを掛けたり、ファウル覚悟で停めに来るので、千里ほどの精密度と頑丈さの無いソフィアではこの場面を打開するほどの力は無かった。むしろ「怪我しないようにプレイして」と薫から注意され、ソフィアもあまり無理しないようにしていた。
 
試合はそれでも最後は誠美が取ったリバウンドを翠花が速攻で向こうに運び、彼女のシュートはブロックされたものの、こぼれ球を真知が取ってソフィアにつなぎ、ソフィアがファウルを受けながらもスリーを放り込んで逆転する。その後のフリースローも決めて、43-45の2点差でローキューツが勝利。優勝を掴んだ。
 
全日本クラブ選手権・全日本クラブ選抜の2冠達成である。
 

前橋で準決勝・決勝が行われた9月9日、桃香は千里に、写真館を予約しておいたから記念写真を撮ろうと言った。午前中に千里を連れて貸衣装屋さんに行き、ウェディングドレスを2着借りた。そしてお昼はホテルニューオータニで一緒に中華料理のコースを食べる。
 
「写真館は何時に予約してるの?」
「19時」
「随分遅い時間だね」
「いや、実は女同士の結婚記念写真ということで、お客があまり居なくなってからでもいいかと言われて」
「なるほどねー。でもそのくらいはいいんじゃない?」
「うん」
 
それで食事が終わった後は、カフェに移動して1時間ほどおしゃべりをしていた。
 
ところが14時頃、桃香の携帯が鳴る。
「うっ・・・」
 
「どうしたの?」
「教官からなんだけど、大学院の補欠試験を受けさせるのに、私の成績は悪すぎるらしい」
「ああ・・・」
「それでレポートを書いて今月中に出して欲しいと」
「追試みたいなものか」
「その内容を説明したいから今から来られないかということ」
「行ってくるしかないんじゃない?」
「悪い、千里。写真館は**町の**フォトスタジオという所だから」
「じゃ私は19時少し前に行っておくよ。ウェディングドレスも私が両方持っておこうか?」
「そうしてくれる?じゃ頼む」
 
と言って桃香は大学に飛んで行った。
 

千里は急に気になったので、ボイドカレンダーを見てみた。
 
「うーん。。。。桃香遅刻しないよね?」
 
今日は19:58からボイドに突入するのである。桃香が言っていたように19時に写真を撮るのであれば問題無い。しかし万一1時間ほど遅刻すると、やばいことになる。
 

千里はいったんアパートに戻り、少し眠った。17時に起きたが、桃香からは連絡が入っていない。不安を感じながらシャワーを浴びてオードトワレも振ってから新しい下着をつける。
 
ここで司紗から優勝したという連絡があった
「おめでとう!打ち上げはシャンパンとかでも開けて、新聞報道されない程度に騒いでもいいよ」
「たぶんシャンパンよりビールの方が好評」
「うん。それでもいいし。でも大量に人が入れ替わったのによく優勝できたね」
「私も思った。正直、まだチームとしてのまとまりに欠ける部分はあるんだけどね」
「まあそれは仕方ないよね」
「次は社会人選手権だけど、これは組み合わせ次第なんだよね〜」
「そうそう。運次第だよね」
 

司紗との電話を終えてから、千里はローラアシュレイのビロード風ワンピースを着て、真珠のネックレスをし、ベネトンの黒パンプスを履いた。そしてウェディングドレスの入ったケースを2つ持ってアパートを出る。
 
タクシーで目的の写真館に入った。
 
「予約していた高園ですが、パートナーが大学に呼び出されて少し遅れるかも知れません」
と千里は言った。
 
「大丈夫ですよ。うちはここが自宅兼スタジオだから、遅くなるのは何時でもOKですから」
と明るい感じの60歳くらいの男性オーナーが言っていた。
 

桃香は本格的に遅れている。千里はメールも送ってみたものの返事は無い。写真館の人は時々お茶を出してくれる。何だか申し訳ないので、フォトフレームを1個買った。結婚記念写真をこれに飾ればいいよね、などと思う。
 
「お客さん、あなただけでも着換えておかれます?」
「そうしようかな」
 
それで千里はトイレを借りてから、更衣室でウェディングドレスに着換えた。背中のファスナーはオーナーの奥さんが締めてくれた。
 
そして予定時間に遅れること50分、19:50になってから桃香は到着した。
 
「遅れて御免」
「すぐ着換えて!」
「うん」
 
それで大急ぎで桃香はウェディングドレスに着換えた。それで笑顔で千里と並んで写真を撮ってもらう。
 
千里は時計を見た。
 
20:03
 
あぁぁ・・・・。ボイドに完璧に突入してしまった。何もなければいいんだけど、と千里は思った。
 

貴司は7日・8日の2日間、水流さんたちの《女装ビーツ》と濃厚な練習をした上で9日からの男子日本代表・最終合宿に臨んだ。
 
「細川、物凄く進化している」
とキャプテンの須川さんにも言われるほど貴司のプレイはこの3日間でレベルアップしていた。
 
「これなら来年くらいにはスターター争いするかも知れんな」
とキャプテンが言うので、そうか。自分の今の力ではスターターには遙かに遠いんだな、と自分の位置づけを認識した。
 

9月10日。練習中に衛藤が無理にボールを追いすぎて腕を打撲してしまった。本人は平気だと主張したが、医師は2週間の運動禁止を言い渡した。それで代表は交代することになる。
 
本人がやらせてくれと必死で訴えるのを監督は
「今無理をしたら君は一生後悔する。怪我した時はちゃんと治療に専念しなさい。来期も必ず代表候補に召集するから」
と言って、何とか納得させた。
 
それで代わりに入って来たのは8月末に14人から12人に絞られた時に落とされた虎川である。彼もずっと一緒に代表合宿をしてきていたので、すぐにチームに溶け込んだ。
 
そしていよいよ明日からアジアカップという9月13日。
 
その交替で入った虎川が怪我をしてしまったのである。
 
監督は頭を抱えたが、怪我人を試合に出す訳にはいかない。それで大会の前日、エントリーの締め切り直前で交替となる。
 
この時、強化部長は時間が無いので、交替できそうな選手に直接連絡を試みた。8月末に虎川と一緒に落とされた根木は連絡が取れなかった。それでウィリアムジョーンズカップ直前に落とした3人に連絡を取る。すると前山と連絡が取れた。
 
「君怪我とかはしてないよね?」
「はい、元気です」
「だったら明日からのアジアカップに出て欲しいから緊急に上京して欲しい」
「分かりました!」
 
それで結局前山が代表に復帰したのである。彼の復帰を貴司はとても嬉しく思った。
 
9月14日から大田区総合体育館で男子FIBAアジアカップは始まる。
 

9月9日(日).
 
龍虎はピアノの発表会に出た。場所は熊谷市内の文化ホールで、ここには太陽ホール・月ホールという大小のホールがあり、その内大きい方、定員1000人の太陽ホールを使う。
 
このホールにはベーゼンドルファーやスタインウェイもあるが、龍虎たちが使用するのはヤマハのグランドピアノCF3Sである(3は本当はローマ数字CFⅢS).1990年代に販売されていたピアノで現在のCF4/CF6の1世代前のモデルである。
 
龍虎たちの教室にあるコンサートグランドと実は同じタイプなので、安心感があった。龍虎たちの教室には、現在普及型のグランドピアノC3Xとコンサート用グランドのCF3Sが1台ずつある。普通のレッスンはアップライトピアノやクラビノーヴァでやっているが(さすがに狭い教室の中にグランドピアノを何台も並べることはできない:クラヴィノーヴァの上位機種は実はグランドピアノの鍵盤機構が使用されている)、こういう発表会の前には、みんな本物のグランドピアノでも練習をしている。
 
でも実は龍虎の家にもグランドピアノS6Aがある。これは普及型のC3XやC5Xなどと、コンサート用のCF4やCF6などの中間に位置する《セミコンサートグランド》である。ヤマハ製《防音室》の中に設置されているので夜間でも気兼ねなく練習することができ、龍虎は事前に自宅でたっぷり練習して発表会に臨んだ。この《防音室》というのは、その中で弾くと外に音が漏れない上に、内部では広いホールで弾いているような音響になる優れものである。母が音楽の先生なので、その必要上設置したものだが、龍虎もここの家の子供になった時からずっとこれを使用している。
 
龍虎は音楽的にとても恵まれた環境で育っている。
 
もっともお金持ちのお嬢さんとかだと防音工事された地下室にスタインウェイのコンサートグランドピアノを置いているようなおうちもある(冬子の親戚の蘭若アスカなどがそれ)。
 

今日の龍虎の衣裳はお母さんに頼んで買ってもらった、男の子用のスーツで、蝶ネクタイ付きである。川南が買ってくれた可愛いドレスは同じ発表会に出る彩佳が着る。実は彩佳も事前に龍虎の家のグランドピアノでかなり練習させてもらった。彩佳の自宅にはアップライトピアノがあるのだが、やはりアップライトとグランドピアノでは演奏感覚がかなり違う。
 
演奏曲目は、比較的初心者の彩佳はモーツァルト『トルコ行進曲』、かなり上手い龍虎はショパン『別れの歌』である。『トルコ行進曲』は展開部の所を何とか勢いと気合いで弾くとわりとどうにでもなるのだが、『別れの歌』はとても易しげな弾き出し部分の雰囲気に反して、途中に、普通の人が見たら絶句するような臨時記号付きでレンジも下から上まで使う、大胆な分散不協和音展開部分があり、かなりの技術を要する。龍虎もこの曲を間違わずに弾きこなせるようになるのに実は3ヶ月近く掛かっている。それでも教室の先生からは
 
「ここまで弾けるようになったら今度は表情とかを考えて弾いてみて」
 
と言われたものの、実は現時点ではそこまでの余裕が無い。とにかく間違わずに弾き終えるようにするだけで精一杯である。
 

「お母さん、男の子用の下着が無い」
と龍虎が朝になってから言うのは、田代家の日常茶飯事である。
 
「でもあんた男の子用の下着が無いと言ってたから、こないだ3セット買ったじゃん」
「でもひとつも無いんだよ。どうしたんだろう?」
 
「洗濯カゴにも入ってないみたいだし、どうしたんだろうねぇ」
 
(犯人は彩佳である)
 
「仕方ない。女の子用の下着着けて行きなさいよ」
「えー!?」
 
このような結論になるのも、この家の日常茶飯事である。
 
それで龍虎は渋々(?)女の子用のパンティを穿き、女の子シャツを着る。
 
「あんたブラジャーは着けなくていいの?」
「要らない!」
「でも最近よく着けているみたいだから」
「ちょっと興味を感じただけだよ」
「でもあんた、女性ホルモン剤の後遺症でまだ結構胸があるし、ブラジャーで固定しておいた方が演奏の邪魔にならないのでは?」
「えー!?どうしよう?」
 
ということで、母に唆されて結局ブラジャーも着けてしまった。元々不純な動機で着けたいので簡単に乗せられる。
 
「でもあんた胸がまだ育ってない?」
と言われギクっとする。
 
「Aカップではきついかも?Bカップのブラ買っておく?」
「要らない!(欲しいけど)」
 

そしてワイシャツを着ようとして、それが1枚も無い!ことに気付く。
 
「えーん。どうしよう?」
「ブラウス着たら?こないだ川南ちゃんが買ってくれた可愛いブラウスあったじゃん」
「あれ可愛すぎる!」
 
「でも何か代わりになる服あったかしら?」
 
それで母も探してくれたのだが、可愛いブラウスが4枚も出てきたのに、ワイシャツはやはり1枚も見つからない。
 
「お店開くまで待っていたら遅れちゃうし今日はブラウス着るしかないよ」
 
ということで、シンプルなペールピンクのブラウス、キティちゃんのブラウス、物凄くドレッシーなブラウス、先日川南が買ってくれたレースたっぷりの赤い水玉模様のブラウスの中のどれを着るか?という選択になる。
 
「ピンクのブラウスがいちばんマシな気がする」
「私もそれに賛成」
 
そういう訳で龍虎は、女の子下着(ブラジャーを含む)を着け、ピンクのブラウスを着た上で、男の子用のスーツ上下を着て、蝶ネクタイを締めてもらったのであった。スーツのズボンはハーフなので、龍虎はその下に白いタイツを穿いた。タイツはむろん女の子用である!龍虎はちんちんが短いので前開きのあるタイツを履いても無意味である。そして靴は普通の!?エナメルの子供用ローファー(えんじ色)を履いた。むろんこれも本当はガールズ用である。
 

それで母の運転するブルーメタリックのベルタに乗って、龍虎は会場に入った。
 
既に多数の生徒が来ているし、多くの先生やスタッフさんが動いていた。適当に座席に座っていたら、龍虎の担任の小鹿先生が通りかかる。
 
「あら、田代さん、今年は随分ボーイッシュな衣裳ね」
「あ、はい」
「もっと女の子らしい可愛い服を着れば良かったのに。でもそのブラウス可愛い」
「そうですか?」
「じゃ今日は頑張ってね」
 
それで行ってしまう。
 
「ねぇ、龍ちゃん、あの先生、龍ちゃんを女の子だと思い込んでいるということは?」
「そんなことないと思うけどなあ」
 
やがて彩佳とお母さんも来たが、彩佳のお母さんにまで
「龍ちゃん、ドレス着なくてよかったの?」
と言われた。
 
彩佳の母は龍虎の性別は知っているものの、女の子になりたい男の子だと思い込んでいるフシがある。実際龍虎がよくスカートを穿いていて女の子下着も着けているところを見ていれば、そう思い込むのが自然である!小学2年生の頃は実は彩佳と一緒にお風呂に入ったこともあるが、最近はさすがに龍虎が遠慮している。しかしそれで実は龍虎は彩佳のヌードを見たことあるし女の子のお股の形も知っている(彩佳は“普通の”男の子のお股の形を知らない)。
 
「でもボク男の子だから、こういう服で」
「あら、性転換しちゃうの?」
 
「龍は最初はドレスを着るつもりでこのドレスを買ったんだよ。でも少し男の子の意識が芽生えて、少しボーイッシュな服を着ることにしたのね。それでこのドレスが浮いたから私がもらったんだよ」
と彩佳が説明すると
「ああ。そういうことだったのね」
と彩佳の母は納得していた!
 
「でもその服でも充分女の子に見えるから大丈夫だよ」
と彩佳の母は言った。
 
「ちなみに龍、今日はその服でも女子トイレ使いなよ」
と彩佳は言う。
 
「え〜?この服で女子トイレに行ったら悲鳴あげられない?」
「むしろ男子トイレに入ったら、女子トイレが混雑しているからといって、女の子が男子トイレを使ってはいけないと叱られると思う」
と彩佳。
 
「まあそうだろうね」
と言って龍虎の母も笑いながら言っていた。
 
「そもそも龍は小便器使えないし」
「それはそうだけど」
 
あからさまに立っておしっこができないことを言われると龍虎もさすがに不愉快である。もっとも立ってしたい訳では無い。
 
「そうだ。龍。もっと女の子らしくするのに、その蝶ネクタイちょっと外させて」
と彩佳。
「え?なんで?」
と龍虎は言ったが、彩佳は勝手に龍虎の蝶ネクタイを外すと、可愛い赤いスカーフ(用意している所が確信犯)を取り出し、それを龍虎の首の所に締めてあげた。
 
「これで可愛くなったよ」
と彩佳。
「あ、これはいいわね」
と田代の母も言っている。
「それで万が一にも性別を間違われることはないよ」
と彩佳が言うので、龍虎は悩んでしまった。
 

今日の発表会はだいたい初心者の子から始めて最後の方に上手い人が弾くようになっている。発表会は10時から始まり、彩佳は11時半頃に元気にトルコ行進曲を弾いてきた。
 
12時からいったん休憩に入るが、お昼は駐車場に駐めている車の中で朝から用意しておいたお弁当を食べた。ホールにはレストランもあるのだが、小さいので、とても今日の来場者が入りきれない。近くのガストに食べに行った人たちや、お弁当屋さんやコンビニに行ってきてやはり車の中で食べている人たちもいた。彩佳たちはガストに行ったようである。そして龍虎の方は、このベルタに電子キーボードも積んできているので、龍虎は車のシガーソケットからインバーターで電源を取って電子キーボードを駆動し、昼休み中に5回練習をしておいた。
 

13時半から発表会は再開される。後半はやはりレベルの高い人の演奏が続くので難しい曲が多く、眠ってしまう観客も多かった!
 
龍虎は14時半頃に登場する。
 
「次は田代龍虎ちゃん、曲はショパン『練習曲作品10-3ホ短調“別れの歌”』です。今日はちょっとボーイッシュな衣裳で登場ですが間違いなく女の子ですよ」
などと言われる。
 
(座席に座っていた田代母も、彩佳も吹き出した)
 
でも気にしないで龍虎はピアノに集中する。椅子に座り、両手を鍵盤の上に置いて弾き始める。
 
シ・ミーレミファー、ソソファソー、ララソドーシ、ラソレミファー
(ドレファソは半音上)
 
美しいメロディーだよなあ、と思い龍虎は弾いていく。
 
この曲は実は龍虎のように指の小さな子にはかなりきつい。そもそも譜面通りに弾くとどうやっても指が届かない所がたくさんある。しかし龍虎はそういう箇所を先生と話し合いながら、時間差を付けて弾いたり、左手で一部の音を弾いたり、最終的には一部の音を省いたりしながら、あまり違和感の無いような形の演奏を組み立てた。しかし練習している内に色々思いついた方法があり、初めの頃は省略していた音をちゃんと弾けるようになった箇所もかなりあって
 
「龍ちゃんはまるで手が3本あるみたいだ」
とまで言われた。
 
実際メロディーの2回目の所の後半は左手4和音・右手3和音というとっても辛い演奏になる。指が充分大きい人なら勢いで弾いてしまえる所だが、ここを龍虎は残響利用・時間差などを巧みに利用して、小さな指で美しく弾いた。やがて中間部を経て、臨時記号だらけの所に突入する。普通の人ならこの部分は譜面を見ただけで「パス」と言うが、龍虎は指さえ届けば臨時記号など全く平気である。それでここをパーフェクトに弾いていくので、会場内にはざわめきさえ聞こえた。そして最後はまた美しいハーモニーに戻って大団円へと進む。
 

龍虎が弾き終わった時、物凄い拍手があり、龍虎はまるでスカートの裾を両手で摘まむかのような感じの挨拶をして下がった。
 
彩佳から突っ込まれる。
 
「なぜ女の子式の挨拶をした?」
「あんな凄い拍手もらえるとは思ってもいなかったから、びっくりしちゃって、焦ったらあの挨拶になって『しまった。スカートじゃなかった』と思った」
 
「だからドレスで出れば良かったのに」
「うーん・・・」
 

発表会が終わってから、音楽教室の教室長さんから龍虎は声を掛けられた。
 
「田代さん、凄くうまかったね。まだ小さいのにあんなに弾けるって凄いよ。今度コンテストに出てみない?11月にあるんだけど」
「わあ、そんなのに出ていいんですか?」
「今日の演奏なら充分出られるよ。君の担任は小鹿先生だっけ?」
「はい、そうです」
「じゃ小鹿先生とも話しておくよ」
「よろしくお願いします」
 
「でも衣裳はドレスの方がいいかもね。女の子は可愛く装わなきゃ」
と教室長さんが言うので、田代母はおかしくてたまらない様子で、龍虎は困ったような顔をしていた。
 

9月12日(水). 高岡の青葉の家で静養していた和実が東京に帰った。青葉がずっとヒーリングしてくれるので、かなり痛みも取れ、体力も回復してきたのである。9月15日(土)にエヴォン銀座店がオープンし、和実はそこの店長になることになっている。
 
9月17日(祝)には春奈も東京に戻った。この時、エスコート役として多忙な冬子が、わざわざこちらまで来て、連れ帰った。春奈はまだ万全ではない状態である。それなのに彼女は仕事が溜まっており、11月には全国ツアーもあるということだった。
 
その話を聞いて本人も不安がっていたので、冬子とも話し合い、青葉はこの春奈たちの全国ツアーに同行し、春奈のヒーリングをしてあげることになった。
 

9月14日、東京の大田区総合体育館で男子FIBAアジアカップが始まった。
 
この大会の名称だが、これは2018年現在のアジアカップとは全く別の大会であり、2018年現在のアジアチャレンジに相当する。
 
この当時は、偶数年に予選に相当するアジアカップが行われ、その優勝国および上位入賞国が所属する地域の上位国が奇数年のアジア選手権に出場していた。そしてアジア選手権の上位入賞国が世界選手権あるいはオリンピックに出場できる。
 
ところが2016/2017年からアジアカップがアジアチャレンジ、アジア選手権がアジアカップと改称されたので、名前が以前のとは紛らわしいことになっている。
 

千里は常総ラボを引き渡してもらった9月7日以降、毎日だいたい朝5時くらいに千葉のアパートを出てインプを運転して常総ラボに行き、午前中いっぱいひとりで練習をしていた。この時期はまだまだ暑いのだが、午前中なら空調を入れなくても結構いけるのである。
 
シュート練習では《すーちゃん》や《びゃくちゃん》が返球係をしてくれて、1on1は《こうちゃん》や《とうちゃん》が相手をしてくれた。
 
「千里、このくらいできるなら、男子日本代表になれるかも知れんぞ」
などと《こうちゃん》が言う。
 
「さすがに男子代表にはなりたくない」
と千里は答えた。
 
練習が終わると汗を掻いた服を着替え、インプで葛西に戻り、仮眠してからシャワーを浴び、午後から夜に掛けては作曲作業をする。通勤の混雑が落ち着いた21時頃にインプを運転して千葉に行き、晩御飯を作って桃香と一緒に食べる。この時期、桃香は一日中アパートに籠もって、大学院の入試を受けてもよい条件として課されたレポートを必死で書いていた。
 
「桃香お昼はどうしてるの?」
 
朝御飯は千里が出かける前に作ってラップを掛けて置いておくのである。
 
「カップ麺かレトルトカレーかほっかほっか亭か、あるいは千里がくれたピザのサービス券だな」
と桃香は言っている。
 
「自分で作ればいいのに」
「それは無理というものだ」
 
それでだいたい夜中0時頃には一緒にお布団に入って、イチャイチャしながら寝ていた。そして朝4時半頃には朝御飯を作って自分の分を食べてから出かけるというサイクルである。
 

千里はかなり悩んだのだが、貴司が出場するアジアカップを見に行くことにした。日本の試合はまずは予選リーグでは次のように組まれていた。
 
9.14 19:00 カタール対日本
9.15 16:30 台湾対日本
9.17 16:30 インド対日本
9.18 19:00 イラン対日本
 
チケットは最終日まで全ての日程分を、7月18日(性転換手術の当日)に先行発売になった時、《きーちゃん》に頼んで買ってもらっている。18日に入手できなかった日の分も7月21日の一般発売で購入してもらった。
 

9月13日(木)、朝、千里はまだ(裸で)眠っている桃香に「3日くらい留守にするね」と言ってから、インプレッサに満タン給油し、自分は後部座席に寝転がって《こうちゃん》に「よろしく〜」と言って眠ってしまった。それで《こうちゃん》はぶつぶつ言いながらインプを運転して、京丹後市を目指した。
 
東名→名神(米原JCT)北陸道→R27→若狭道(綾部JCT)京都縦貫道と走り、終点の宮津天橋立ICで降りた後はR176/R312を走って京丹後市杉谷の丹後文化会館に到達する。この間、600km,《こうちゃん》の運転なので6時間ほどで到達している。
 
直前のコンビニで《こうちゃん》が千里を起こし、千里もコンビニでトイレを借りてから最後は自分で運転して待ち合わせ場所に行った。
 
雨宮先生が手を振っている。
 
「本番用の車は?」
「もう主催者に渡した。チェック後、向こうで保管されるはず」
「じゃお昼食べましょう」
「うん。千里のおごりで」
「え〜〜!?」
 
それで一緒に近くの食堂に入り、カツ丼とうどんを食べる。
 
「イルザには東京でラリー用のインプに乗せて撮影したんだよ」
「なるほどー」
「土曜日には本人も来るはず」
「まあ来てくれないと困りますね」
 
「そうだ。イルザに1曲書いてくれない?」
「いいですよ。またAORですか?」
「そうそう。でも千里ってどんなジャンルでも書けるよな。ポップスでもロックでも演歌でも何でも書いてしまう」
 
「ポリシーが無いですから」
「それはある意味使い手があるよ」
 
「ケイみたいな天才と、私みたいな凡才では生きる道が違いますし」
と千里が言うと
「ふふふ」
と雨宮先生は笑っていたが、千里にはその笑いの意味は分からなかった。
 

午後は自由時間ということなので千里は旅館で寝ていた。
 
翌14日は朝4時半に起きて雨宮先生と一緒にインプに乗り文化会館前に行く。朝6:40からレッキなのである。ここで、イルザが共演者の暁昴・尾崎吉子および撮影スタッフと一緒にやってきた。撮影(される)用のインプと撮影する用のランドクルーザーの2台である。ランクルは制作会社のスタッフが運転しているが、インプを運転しているのは尾崎吉子。彼女は国際C級ライセンスを所有しており、ドラマでもイルザが演じる小島秋枝の指導者役で出演している。
 
撮影用に持って来ているインプは今回のラリー本番で千里たちが使用するWRXと同じ型式同じ色のものであるが、貼られている広告は実は番組スポンサーのものである!実はこの車で昨日ラリーコースを一周走ってきたらしい。大半は尾崎さんが運転しているが、イルザにもかなり運転させてそれをランクルや沿道のカメラから撮影してきたという。
 
「道が細いしジグザグで結構怖かったです」
とイルザは言っていたが、免許取ってまだ半年の初心者には舗装されているとはいえ、林道を走るのは辛かったろう。
 
「坂道でずいぶんエンストさせちゃったし」
と言っていたが、きっとこの番組が終わる頃には「ATなんかつまらない」と言うような子になっているかもね、と千里は思った。
 
サービスパークは6:00オープンなのだが、5:50に撮影のために中に入れてもらいイルザとコドラ役の尾崎さんがレッキにエントリーする所を撮影した。スタッフは本物のスタッフである!ロードブックも1冊頂いた。
 
 
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【娘たちのリサイクル】(4)