【娘たちのムスビ】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2018-05-11
千里の大学では2月16日(木)までに試験期間は終了し、追試や追試代わりのレポートに追われている桃香のような子を除いては春休みに入る。
千里はどっちみち試験は受けない(普段の授業にも出ていないので試験に通る訳が無い。きーちゃんに代理で受けてもらう)ので、2月8日(水)の最終授業を受けた後は、葛西のマンションに籠もって作曲の作業をし、2月11-12日に冬季クラブ大会・シェルカップに出場あるいは対応した後、大阪に向かった。
12日(日)夜の打ち上げを終えた後、インプレッサに乗り《こうちゃん》の運転で豊中市の貴司のマンションまで行く(千里は後部座席で寝ていた)。
千里が到着すると貴司は熟睡していたので、用意していた食材を使って朝御飯とお弁当を作った。そろそろ起こした方がいいかなという時刻を見計らって貴司をキスで起こす。
「あなた、起きて」
「わっ、千里来てたんだ?」
「朝御飯できてるよ」
「セックスしたい」
「それやってると遅刻するね」
「夕方まで居る?」
「今日1日居るよ」
「いつ帰るの?」
「今夜かな」
「明日の朝にしようよ」
「いいよ」
それで一緒に朝御飯を食べる。
「これバレンタインね」
「わぁ、ありがとう!」
中身は結構値の張る洋菓子店のチョコレート詰め合わせ、それに新しいバッシュである。
「このバッシュ、かなり高そう」
「そのバッシュで日本代表をつかみなよ」
「うん。頑張る」
貴司を会社に送り出した後は、丸一日掛けてマンションの掃除をした。ゴミ袋が8個も出た! どうも普段全く掃除をしていないようである。
だいたい掃除が片付いた所で、パソコンを開いて作曲作業をする。夕方くらいから夕食にシチューを作る。21時半頃、チーム練習を終えた貴司が帰宅するのでキスで出迎える。
「あなた、お風呂にする?ごはんにする?それとも、わ・た・し?」
「えっと練習の後だからシャワーして、食事してから、ゆっくりと夜の楽しみを」
「OKOK」
2月14日(火)の朝、「ハッピーバレンタイン」と言って、この日もお弁当を持たせて貴司を会社に送り出してから千里は東京に帰還した。
2月15日(水).
夕方、千里は電車で北与野駅(大宮駅の1つ南側)まで行くと、JAFの埼玉支部に行った。雨宮先生の指示でB級ライセンスを取っておいてくれということであったので、この日行われる講習会を受けに来たのである。
(四輪)自動車レースの国内B級ライセンスというのは、実は講習会を受けるだけで取れる。筆記試験も実技も無い。
ともかくもこの日千里は受付で運転免許証(二輪免許を取ったのでブルーになっている)とJAF会員証を見せて受講料を払うと講習会に臨んだ。内容は自動車レースに関する基本的なことの説明である。講習会終了後にライセンスの申請書類を書いて写真・申請料と一緒に提出。その場で取り敢えず仮ライセンスをもらった。正式のものは後日交付ということであった。
なお国内B級ライセンスと同時に、、審判員ライセンスのコース・技術・計時B3級も一緒にもらえる。なおB級ライセンスは毎年更新料が3100円必要である!
2月16日は葛西のマンションで作曲作業をしていたら冬子から連絡があり、事情は言えないけど、今自分は東京に居ないことになっているので、★★レコードに持って行くハードディスクを代わりに届けてくれないかということであった。快諾して彼女と新橋駅で落ち合い、ディスクを受け取って★★レコードに届けた。
受付の所で氷川さんを呼び出してもらおうとしていたら当の本人が到着する。受付の女性が
「あ、氷川さん、醍醐春海先生がいらしてます」
と言うので、千里は彼女と名刺を交換した。
「ああ、ローズ+リリーの担当になられたんですか?」
「実は正式入社前なんですけどね」
「大変ですね!実は旅先でケイちゃんと会いましてね。東京に戻るんだったら届けてくれないかと頼まれたんですよ」
と千里は言ってハードディスクの入った紙袋を渡した。
「ありがとうございます。ケイもローズ+リリーの制作しながら、ローズクォーツのツアーで飛び回っていて、その間にAYAの音源製作に参加したり、スリファーズ、ELFILIESの制作もやっているし、無茶苦茶忙しいみたいですね。自分が2人欲しいなんてこないだは言ってましたし」
と氷川さんは言う。
その話し方を聞いていて千里は、氷川さんはケイが今東京に戻っていることを知っているなと感じた。
むろんそんなことは彼女とは話さない。
「きっとケイって3〜4人居るんですよ。でないと、あり得ないですね」
「ああ、私もそんな気がしています。多分ケイは4つ子か5つ子くらいじゃないですかね」
そんなことを氷川さんとは話してその日は帰った。
2月18日(土).
土浦市の霞ヶ浦文化体育館では、シェルカップの準決勝と決勝が行われた。
ローキューツBチームがベンチに座るが、Aチームの面々や、4月からローキューツに合流することになった“晩餐”の4人(の内実際に合流するのは2人)と揚羽は観客席に座って応援していた。準決勝に残ったのはこの4チームである。
ローキューツ、TSブライト、多摩ちゃんず、茨城S学園
江戸娘も参加を検討していたようだが、関東クラブ選手権と日程がダブったので、こちらはキャンセルしたらしい。多摩ちゃんずは関東クラブ選手権を逃したので、こちらに出てきたようだ。
準決勝の相手はその多摩ちゃんずであった。
こことは2008年12月の純正堂カップの準決勝で当たっている。東京のクラブチームではBEST4くらいには入るチームで関東クラブ選手権や選抜にも何度か出ている。3年前に対戦した時は、ひじょうに卓越した選手がいてひとりでチーム得点の半分稼いでいたのだが、今回はその選手の姿は見なかった。
「ああ、酒井さんは実業団のMS銀行に行ったよ」
とソフィアが言った。
「不二子がいるチームか!」
「そうそう。それで聞いたんだよ。ヘッドハンティングされたみたいね」
「あの人はWリーグでもいいと思うのに」
「本人もたぶんMS銀行はステップのつもりだと思う」
「かもねー」
その酒井さんが抜けていても、多摩ちゃんずは結構強いチームであった。むろんローキューツのAチームの敵ではないのだが、Bチームで勝てるだろうか?とやや不安があった。
しかし、Bチームはやはりソフィアの存在感が大きい。ソフィアがいることで司紗が活きるし、結果的に夢香・夏美・瀬奈というBチームの主力がのびのびとプレイできる。
かなりの接戦になった。最後は1点ビハインドの場面からソフィアがシュートしようとした所を相手ファウルで停められる。フリースローになるがシューターのソフィアが外す訳は無い。きっちり2本とも決めて、ローキューツが勝った。
Bチームの面々が凄い喜びようだった。
「茜が凄い喜んでいる。きっと茜は4月からはかなり活性化すると思うよ」
と千里は言った。
「うん。彼女は最近入って来たメンバーがあまりにも強すぎて、こんなチームに居ていいのかなと悩んでいたんだと思う」
と麻依子も言った。
「薫、あの子にあまり厳しい言葉掛けないようにしてね」
と千里。
「うん。私は楽しみながらやってるメンバーにはあまり要求しないよ」
と薫。
「ということは私たちには厳しくあたられそうだ」
と元代。
そういう訳でローキューツBチームは決勝にまで進出した。相手は高校生チームに勝ったTSブライトである。
TS大学の1年生で構成されたチームである。
TS大学は最初、橘花や彰恵たちの世代(現3年生)が、入学した当初強すぎて上の学年で誰もかなわなかったので“TSフレッシャーズ”という称号を与えられた。むろんフレッシュマンの意味である。
しかしその後、1つ上の学年の部員たち(現4年生)がオープン大会に出る時にフレッシャーズに対抗して「TSメロディアン」を自称した。コーヒーフレッシュに掛けたのである。それで彰恵たちの次の学年(現2年生)は「TSマリーム」を名乗り、それで今の1年生は同じ発想で「TSブライト」を名乗っているのである。
「じゃ来年の新一年生はきっとTSクリープだ」
「もしかしたらTSスジャータかも」
「そう思わせてTSクレマトップ」
などといった声が出ていた。
試合は勝負にならなかった。
「うーん。ここまでだったか」
やはり強い大学だけあって、優秀な選手揃いである。こちらで対抗できているのはソフィア・夢香・瀬奈の3人くらいであった。
最後に司紗のかなり遠くからのスリーが決まり、思わず歓声が起きたものの、遠く及ばず。結局82-64で敗れた。
「いや、この相手に18点差は充分善戦したと思う」
「準決勝はダブルスコアで勝ち上がってきているからなあ」
そういう訳で、今回のシェルカップで、ローキューツは準優勝に終わったのである。
千葉市内に戻ってから、打ち上げをしたが
「私、バスケットがまた好きになった気がする」
と茜が遠い所を見るような目で言うのを見て、麻依子と千里は顔を見合わせて微笑んだ。
「玉緒ちゃん、来年はこの手のオープン大会にたくさん参加しようよ」
と浩子が言う。
「うん。情報集めてみる」
と玉緒も言う。
「交通費・宿泊費は全部出すから、九州とか北海道の大会でもいいよ」
と千里。
「大会を名目にして北海道旅行とかもいいね!」
桃香はその日、季里子に言った。
「ね、結婚しちゃわない?」
季里子は少し考えてから言った。
「浮気しない?」
「しないよ!」
「でも今桃香、女の子と同居してるでしょ?」
「あの子とは単なるルームシェアだよ。何も関係無いよ」
「ほんとに〜〜?つまみ食いとかしてない?」
「してない、してない(つまみ食いすると殴られるし)。だいたいあの子、彼氏いるし。あの子はストレートだよ」
と言いつつ、桃香は千里の場合は男の子を好きになるのがストレートということでいいんだろうな、と考える。
「へー!そうだったんだ!」
「よく外泊しているみたいだし、たぶん頻繁に彼氏の所に泊まっているんだと思う」
季里子はまた少し考えた。
「だったら、指輪買ってくれるなら結婚してもいいよ。私、男の子との恋愛経験無いし、今後も男の子と恋愛したり結婚するとは思えないしね」
「だったら指輪買いに行こう」
それでふたりは東京に出ると御徒町(おかちまち)で電車を降りた。ここは安い!宝石店が多いことで昔から有名である。指輪と聞いてここに来るのは安物好きの桃香の習性である。
いくつかのショップを見て回ってから、わりと雰囲気の良いお店に入る。
「ここは少し高い気がする」
「でも何か安心感がある気がする」
店員さんが寄ってきた。
「指輪をお探しですか」
「はい。エンゲージリングとマリッジリングを」
「おめでとうございます。今日は彼氏さんはおいでではないのですか?」
これは訊かれるかもと思っていたので桃香は平然と返事する。
「いえ、私たちが結婚するので」
店員さんは驚いたりしない。普通に対応してくれる。
「そうでしたか。失礼しました。婚約指輪はやはりダイヤになさいますか?」
桃香はその店員さんの反応が気に入った。ここで買ってもいいかなという気持ちになる。
「どうする?」
と桃香は季里子に訊く。
「私、誕生石がいいな」
と季里子。
「季里子は7月生まれだからルビーかな?」
と桃香。
「うん」
それでルビーの指輪を見せてもらう。幾つか見ていた時、その指輪に目が留まった。
「この石の色がきれい」
「私も思った」
「ピジョンブラッドにかなり近い色ですね」
とお店の人も言っている。
ショーケースから出してもらい、実際に指のそばに置いてみる。
「私、これ気に入った」
「じゃこれ買う?」
「そうだなあ。これリングはホワイトゴールドですか?」
「いえ、プラチナでございます」
その時、桃香は初めてプライスカードを見た。少しギョッとする。
「プラチナかぁ!いいなあ。でも桃香大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ(支払日までには何とかなるだろう)」
「じゃこれ買います」
と桃香。
「ありがとうございます。結婚指輪もプラチナになさいますか?」
と店員さん。
「あ、それがいいかも。お揃いで」
と季里子。
「結婚指輪のデザインはどうなさいますか? 最近はこのようなウェーブが女性の方には人気ですが」
「ああ、それ指輪が曲がっちゃったみたいに見えて嫌い」
などと季里子は言っている。
「あ、それ私まともに言っちゃって、怒らせたことある」
と桃香。
「ではストレートになさいます?」
「はい」
「石の入ったものになさいますか?」
「石は無しで」
「石の入っているやつは普段つけてられないもんね〜」
「うん。それで炊事洗濯はできない」
それでごくシンプルなデザインの結婚指輪を選ぶ。
「ペアで作られますか?」
「うん。2人分」
「そうだ。指輪の内側に刻印とかできます?」
と季里子が言う。
「できますよ。文字ですか?」
「文字じゃないのもできるんですか?」
「小さなイラストを刻印なさる方もいますね。最近はレーザー刻印ですので自由度があるんですよ」
「へー」
「でも文字でいいかな」
「結婚指輪はお互いのイニシャルを入れようよ」
「M TO K, K TO M?」
「KじゃなくてCHにしたいな」
「あ、そうか!季里子の名前はデ・キリコ(Giorgio de Chirico)から取ったんだった」
「そうなのよね〜。デ・キリコと同じ誕生日だから」
「じゃ私もMOにしてもらおう」
「では MO TO CH, CH TO MOで?」
と店員さんは伝票に文字を書いて確認する。
「TOは小文字にできます?」
「できますよ。MO to CH, CH to MOですね?」
と店員さんは再度文字を伝票に書き直した。
「ええ。それで」
と季里子。
「婚約指輪の方にもMO to CHと入れられます?」
と桃香。
「はい、もちろん」
刻印を入れるのと、指輪のサイズを直すのに1〜2時間掛かるということだった。支払いはカードで払うことにし、持っているマスターカードで払ったが、多分ショッピング限度額ギリギリかなという気がした。
その間にお昼を食べようということで少し距離はあったが秋葉原のロイヤルホストまで歩き、ステーキを食べてワインで乾杯した。更にユーハイムに寄ってケーキを買ってから宝石店に戻り、指輪を受け取った。
「早速つけてみようよ」
それでお互いに結婚指輪を相手の左手薬指に填めてあげた。更に季里子の指にはエンゲージリングもつける。店員さんが写真も撮ってくれた。
その後、ふたりは朝から予約していた写真館に寄り、ウェディングドレスを2着借りて身につけ、写真を取ってもらった。事前に伝えて了承を取っていたこともあり、写真館ではふたりともウェディングドレスであることについては何も言われなかった。人の良さそうな40代の女性写真家が撮影してくれた。
『来月はバイト頑張らないとやばいな』
などと桃香は思いながらも笑顔で写真に収まった。
「苗字統一する?」
と季里子は訊いたが
「個人的には夫婦別姓主義者だ」
と桃香は言ったので、苗字はお互いそのままを名乗ることにした。
このようにして、桃香と季里子の新婚生活は始まった。
2月20日(月).
茉莉花は旅行用バッグの中身を再確認すると
「さて行くか」
とつぶやいた。
出かけようとしたら家電のベルが鳴る。茉莉花はどうしよう?と思ったものの10回くらいベルが鳴ったところで受話器を取った。
「おはようございます。ローズ+リリーのケイと申しますが」
「あら、ケイちゃん、こんにちは」
「アルトさん!どうもお世話になっております。先日は凄い時間に押しかけて申し訳ありませんでした」
「ううん。慣れてるから大丈夫。今、上島は外出してるのよ。雨宮さんが来て一緒に出かけたから、どこかで飲んでるんじゃないかと思うのだけど」
「あ、そしたら申し訳無いのですが、先生に御伝言をお願いできますか?」
「はいはい」
(ちなみに上島雷太も雨宮三森も蔵田孝治も携帯はサイレントマナーになっていて、携帯に直接電話してもまず連絡は取れない。メールもまず読まれない!)
「来月頭からローズクォーツの新しいシングルのレコーディングをするので、もし良かったら何か曲を頂けないかと思いまして」
「来月頭からローズクォーツの方ね」
「はい」
「了解。あ、念のためケイちゃんの携帯の番号、教えてくれる?」
「はい。080-****-****です」
「ありがと。じゃ、伝えておくね」
この業界では迷惑電話対策で、携帯の番号を頻繁に変更する人が多い。年に数回変える人もいる。もっともケイと上島の関係なら、もし変更していたとしても連絡してはいるだろうとは思ったが、念のため確認したのである。
茉莉花は雷太へのメッセージを丁寧な字で書き、そこに今メモしたケイの携帯番号も書き添えた。
そして電話を受けながら書いた走書きのメモ用紙はバッグの中に放り込んだ。ふだんならこの手のメモ用紙はゴミ箱に捨てるのだが、今日の場合、上島が後で“ゴミ箱をあさった場合”、こんな乱雑に書いた字を見られたら嫌だなと思ったのである。
茉莉花は家を出て玄関の鍵を掛けると、その鍵を少し首を傾げて考えてから、郵便受けに放り込んだ。表に出るとちょうど走って来たタクシーがあったので、手を挙げる。
タクシーが停まる。乗り込む。
「どちらまでですか?」
「どこにしようかな・・・」
「え?」
「そうだ。甲府までとか頼んでいい?」
「はい!?構いませんが、JRとかに乗られた方がお得ですよ」
「私、有名人だから、他人にあまり見られたくないのよ。甲府に住んでいる友人の所に行こうと思って」
「分かりました。お連れします」
「あ、遠距離になるから、往復分の料金払うよ。前金でとりあえず10万くらい渡しておくね」
と言って茉莉花は福沢さんを10枚渡そうとする。
「いえ、料金は着いてからで結構です。帰りの分は高速料金だけ負担して頂ければいいですので、多分それも入れて4〜5万だと思います」
と50代くらいの運転手は言った。
上島雷太が帰宅したのは翌日の明け方だった。
最初玄関が閉まっているので戸惑う。この玄関が施錠されることはめったにない。茉莉花の携帯を鳴らす。
反応が無い。
熟睡しているのだろうか?こんな時刻に外出しているとも思えない。
雷太は悩んだ。
実は鍵を持っていないのである!
少し考えてから、郵便受けのダイヤルを回してみた。この番号は422。茉莉花の誕生日になっている。このダイヤル鍵は茉莉花が所属していた事務所・§§プロの紅川社長からのプレゼントである。この番号になるように特別に作らせたものらしい。むろんそのことを知っているのは、紅川社長の他は自分と茉莉花だけだ。雨宮や下川も知らないし、上島自身の妹や親にも言ってない。
果たして郵便受けの中に玄関の鍵は入っていた。しかしこの郵便受けの鍵を回したのはもう3年ぶりくらいという気がした。
玄関を開け中に入ってから寝室に行ってみると。茉莉花は居ない。
「まぁちゃん?」
などと声を掛けながら雷太は家中を歩いて回ったのだが、茉莉花は見当たらなかった。
「コンビニにでも行ったんだろうか?」
などと独り言のように言葉を発すると、応接室に戻る。その時、茉莉花の字で書かれたメモに気付く。
「ローズクォーツ用の曲か・・・・」
しかしこんなメモを残すというのは、どこか遠くにでも出かけたのだろうか?コンビニとかに行ったのであれば、わざわざメモを書くまでもない。戻ってから口頭で伝えればいい。しかし遠出するのなら、その件をメールでもする筈だ。
雷太はあらためて自分のiPhoneを確認するが、一週間くらい前までスクロールさせてみても、茉莉花からのメッセージの類いは無い。
雷太は何か大きな不安を感じ始めた。
2月23日(木)。和実が富山県にやってきた。
青葉が国内の病院で手術を受けることにしたことを和実に話したら、
「あ、それいいな」
と言い、その先生の診察を受けることにしたのである。
この時点で和実は今年性転換手術を受けようと考え、タイの病院に“予約”も入れていた。やはり大学3年の時に手術しておかないと、4年生になるとゼミが大変だと考えたのである。理学部は卒論は無いものの、ゼミの準備には毎週3〜4日の徹夜作業を覚悟しておく必要がある。とても性転換手術を受けた直後の体力では乗り切れない。
和実は千里が4年生になる今年性転換手術を受けると言っていたことに疑問を感じていた。彼女も理学部で同じ数学専攻だ。どう考えても自分が通っている大学より千里の大学の方が厳しい。性転換手術など受けてゼミに対応できるとは思えない。そこから、和実はひょっとして千里はもうとっくに性転換手術が終わっているのでは想像するようになっていた。そして性転換手術を受けますという名目で実際にはタイに観光旅行にでも行ってくるつもりでは?
「他人のこと言えないけどなあ・・・」
と和実はつぶやいた。
検査を受けると、松井医師は和実のことが物凄く気に入ったようである。
「ね、ね、今から手術してあげようか。今日は手術室空いているんだよ」
「私もできるだけ早く手術したい気持ちはありますが、今手術すると学業と仕事に差し障りがあるので7月にお願いします」
「仕方ないね。今日、タマだけでも抜いていかない?手術、すぐ終わるよ」
「いえ、7月におちんちん切る時に一緒でお願いします」
去勢くらいしてもらってもいいのだが、この先生はものすごーく《危ない》感じなのである。去勢手術に同意したら、絶対そのまま全身麻酔掛けられて気がついたら性転換手術が終わってそうな気がする。それで和実は去勢も断った。
それに・・・手術受けるには“準備”が必要だし・・・
和実が今すぐ手術するのは困ると言うと、松井医師は面白く無さそうな顔をする。ほんっとにこの先生、表裏の無い人だと苦笑したくなる。ところが和実の検査結果を見て「へ?」と声を出す。
「あんた性染色体がXXじゃん」
「え?そうですか?」
「それにMRIに明らかに卵巣・子宮と思われるものが写っているんだけど」
えっと・・・何と言い訳しよう?
「それ何かの間違いだと思います。再検査してもらえませんか?以前も他の病院で言われたことがあったんですが、再検査してもらったら、何も写っていませんでした」
「ふーん・・・」
それであらためて再度MRIを取ると、確かに卵巣や子宮らしきものが無いし、それどころか前立腺と思われるものが写っている。
普通の医師ならここで「やはり間違いだったみたいね」と言うところである。しかし松井医師は手強かった。
「この新しい方の画像が間違いで、最初に撮った方が本当かも知れないよ」
「えっと・・・」
「染色体検査も今回取ったサンプルでは確かにXYになっている。でもこれはねあなたの身体がモザイクである可能性がある」
「・・・・」
「つまりあなたの身体には染色体XXの部分とXYの部分が混在してるんだな」
「そんなことあるんですか?」
「あるよ。多くは本来男女の双子で生まれるはずだった子が何かの間違いで合体して1人で生まれて来た場合。そうするとXXとXYが混在するんだよ」
「でもきっと間違いですよ」
と答えながら和実は思っていた。
自分のことは取り敢えず棚に上げて \(・_\)千里こそ身体的にも霊的にもモザイクなのではなかろうかと思っていた。魂だけでいえばいわゆるtwo spiritsに近いのかも知れないが、ひょっとするとmulti spiritsかも知れない。
この時期和実は物凄く霊感が発達していた。その和実の目には、千里の中に幾つかの魂(2つのようにも見えるし4つのような気もする)が並立しているかのように見えていたのである。和実は更に千里の“周囲”にも複数の魂を感じていた。周囲に見えるものは多分千里が使役している式神ではないかと思ったが、そのことも誰にも言っていない。また和実の目には千里がとんでもないパワーを持つ霊能者のように見えるのに、青葉も冬子もそうは感じていないようであるのを不思議に思っていた。
松井医師は少し考えていた。
「7月に手術をするまでの間、うちで交通費・宿泊費を出すから、毎月ここに診察を受けに来てくれない?あなたの身体がある種のモザイクだったとしたら、再度卵巣・子宮が写るかも知れない」
「費用出してもらえるのなら、検査を受けに来るのはいいですよ」
「検査を受けていて気が変わったら即手術してあげるから」
「7月まで待ってください」
と和実は困ったよう顔をして言った。
この日、和実は青葉の家に泊めてもらった。
「あら、和実ちゃんもこの夏に手術受けるんだ?」
と朋子が言った。
「タイで予約していたんですけどね。国内で受けられるなら、その方がいいかなと思って。向こうはキャンセルする予定です」
と和実は答える。
まあ本当は予約なんてしてなかったけどね。
「手術費用自体は国内の方が高いけど、渡航費用とかコーディネーターの費用とか考えると微妙だよね」
と青葉も言う。
「でも千里ちゃんは海外なのね?」
「松井先生がちー姉を見たら、今すぐ手術してあげるからと言いそうだけど」
「それ今日、私も言われた!」
「あの先生はどうも性転換手術が趣味みたいね」
「実際問題としてタダででも可愛い子はどんどん性転換したいみたい」
「そういえば、彪志さん、受験じゃないの?どこ受けるんだっけ?」
と和実は訊いた。
「千葉のC大学」
「じゃ桃香・千里と同じ大学か!」
「学部も同じね。化学だけど」
「試験はいつ?」
「25日。だから明日岩手から東京に出てきて、1泊して試験に臨む」
その時、和実はハッとして言った。
「青葉、彪志さんと最後に会ったのはいつ?」
「・・・10月24日」
「4ヶ月も会ってないんだ!?でも青葉、毎月岩手に行ってたのでは?」
「会うと受験勉強の邪魔になるから、合格までは会わないことにしていたんだよ」
「女は割とそういうの我慢できるけど、男は我慢できないよ」
「そうかな?」
「ねぇ、お母さん、明日試験前に激励にだけ行ってくるというのはどうでしょう?」
「激励だけ?」
「彪志さんが東京駅に新幹線で到着したところを迎えて、頑張ってねと言って激励し、そのまま帰る。セックス無し」
「そのくらいならいいかもね」
「一声掛けるだけのために往復の電車代使いますけど、青葉はお金持ちだから大丈夫だよね?」
「お金持ちってことはないけど、そのくらいは問題無い」
「だけど声掛けるだけなら電話でも同じなのでは?」
と青葉は言うが
「声だけなのと、リアルに青葉が目の前で『頑張ってね』と言うのではまるで違う。電話の先の相手は仮想的存在。目の前にいれば現実的存在」
「うーん・・・」
「じゃ私が向こうのお母さんに電話してみるよ」
それで朋子が電話する。彪志の母・文月は、ただそれだけのために富山から東京までの往復電車代を使うのはもったいないのでは?と心配したが、それで彪志さんが奮起してくれたら安いものですよと朋子は言い、それで文月も了承した。
「だったらこれサプライズにしませんか?」
と文月は言う。
「今彪志はお風呂に入っているんですが、このこと私言いませんから。多分青葉ちゃんなら、彪志が知らなくても東京駅で彪志をキャッチできますよね?」
「この子なら大丈夫だと思います」
それで朋子と文月の話し合いでこの《電撃激励計画》は成立したのである。
「だから青葉は《会いには行けないから電話で激励するけど頑張ってね》みたいなメールしておくといいよ」
「そうする!」
2月23日(木).
貴司は23-24日の2日間有休を取ると新幹線で東京に出た。東京駅から京浜東北線で浦和まで行く。出札の所に千里が立っていて笑顔で手を振った。こちらも笑顔になり手を振る。
「取り敢えずごはん食べよう」
「うん」
それで浦和パルコに入り、叙々苑で焼肉をたっぷり食べる。まだお昼前なので客は少なく、のんびりとした雰囲気の中で食べることができた。
「よく焼肉を食べている男女はこれからセックスするんだろう、とか言われるよね」
などと千里が言うのでドキッとする。
「焼肉屋さんに入るってのは、もうお互い遠慮の無い関係になっているからだと思うけど」
「でも私の友だちでお見合いして、いきなりうどん屋さんだったという子を知っているよ」
「あはは、それは2つの意味でやめといた方がいい」
「2つ?」
「1つは相手の女の子が気に入ったら、少しでも自分をよく見せようと思ってある程度いい所に連れて行こうとする。《いい所》というのは、その人の経済力にもよるけど、最低でもファミレスだと思うんだよね。うどん屋に連れて行ったというのは、そんなに気に入っているのではない可能性が高い」
「なるほど。じゃ火曜日の**ちゃんとの食事の約束はキャンセルしてもらおうかな」
「ぶっ・・・」
「どこで御飯食べるつもりだったの?」
「あ、えーっと、ヴェトロ・ディ・ヴェネツィアというお店なんだけど」
「ヴェネチアン・グラスという意味か」
「よく分かるね!ガラスの容器でパスタが出てくるんだよ」
「じゃ今度大阪に行った時、私をそこに連れてって」
「分かった」
「それで?」
「キャンセルする」
と行って貴司は女の子とのデートをキャンセルするメールを入れているようである。
「でもなんで分かったの〜?」
「貴司顔に書いてあるもん」
「そうなの!?」
「あ、お見合いでうどん屋に連れて行った男はやめといた方がいいもうひとつの理由は?」
「もうひとつは、そういう男は、女性との付き合いの経験が無い男だという可能性」
「確かに」
「お見合いだから、相手って多分26-27歳だよね?」
「30歳といってた」
「30歳ならなおさらだよ。そのくらいまで恋愛をしたことがない男というのは性格的に問題がある可能性がある」
「なるほど」
「そういう男との結婚生活は破綻しやすいんだよ。やはり肉体関係までは結ばなくてもいいから、中高生時代から恋愛って経験しておくべきものだよ」
「私たちはもう高校時代にセックスしてたね」
貴司が咳き込む。
「遠距離恋愛だったからというのもあると思うよ。僕たちの場合。近くに住んでいていつも逢える関係だったら、かえってセックスしてなかったかも」
「確かに離れて暮らしていると寂しいから逢った時に激情があふれるよね」
「そうそう。僕もひとりで4年暮らしてきて寂しいよ」
「だから浮気するのね?」
「勘弁してよ〜」
「じゃその激情を熱いパトスに変えようか?」
と千里が言うので貴司はドキッとした。
お店を出る。代金は貴司が払った。千里が駐車券を見せるのでサービス券をくれる。
「ああ、車をここに駐めていたんだ」
「そうそう。駅前で無料で駐められるから便利だよ」
それで千里が駐車場に駐めていたインプレッサにふたりで乗り込む。千里が運転してお店を出る。貴司はドキドキしているようである。千里は微笑んで車をそこに着けた。
「熱いパトスってこういうことだったのか」
と言って貴司が当てが外れたような顔をしている。
「汗を流すと気持ちいいよ」
「そうだね」
車を駐車場に駐めて中に入る。
「予約していた細川ですが」
「はいはい。2時間利用ですね」
それで中に入る。奥のドアを開けて更にその中に入る。キスをすると貴司がドキドキしている。更にあそこをいじってあげると貴司の心臓の鼓動が物凄いスピードになる。
「じゃ気持ちいいことしようよ、ハニー」
「うん」
ふたりとも服を脱いで・・・
トレーニングウェアを着た!
それでゴールを引き出す棒を持って用具庫を出ると、バスケットのゴールを引き出す。棒はいったん用具庫に戻し、まずは軽く体育館内を10周走る。ラジオ体操をしてまずはドリブル練習から始める。
「さすがこのくらいでは息が乱れないね」
「毎日練習しているから」
その後シュート練習をする。千里がゴール下に居て、貴司が攻めて来る。貴司のランニングシュートを千里が巧みにブロックする。
「すげー。身長差20cmあるのに!」
「そりゃだてに日本代表やってないよ」
「千里、ジャンプ力こんなにあったっけ?」
「私はスリー専門だからあまりやらないけど、ダンクだってできるよ」
「マジ?」
それでやってみせると
「うっそー!?」
と貴司が言っていた。
身長168cmの千里が手を伸ばした場合、168cm x 1.25 = 210cm だがバスケのゴールの高さは305cmである。今日使用している男子用の七号ボールは直径24.5cmある(女子用六号は23.2cm)。従って千里がダンクを決めるには最低でも305+25-210=120cmのジャンプが必要である。
中高生の一般的な女子の走り高跳びの成績は100cm前後だが、中学生女子でも陸上の選手なら130cmくらいザラに飛ぶし、高校記録は190cm、成人女子の日本記録は196cmである!だから千里がゴール下で120cmのジャンプをするのは別に不可能ではない。
もっとも190cmなどというのは背面跳びと思われる。この場合、身体の重心(正確には重心−身体の厚みの半分)が190cmの所を通過しているわけで、立ち跳びに換算すると(身長−身体の厚み)の半分を引いて110cm程度ということになる。
そういう訳で今実際にダンクを決めたのは《こうちゃん》である!
なお本来の千里の跳躍力は80cm程度である。留実子は100cm、誠美になると110cmくらい飛ぶ(彼女が背面跳びをマスターして陸上の国内大会に出ればかなり良い成績を取る筈)。
留実子の場合身長180cmで腕を伸ばせば225cm.100cmジャンプして325cmで、ギリギリダンクができる。誠美は186cmで腕を伸ばすと233cm, 110cm飛んで343cmになり楽々ダンクを決める。
「さあ、頑張ってもらおうか」
「よし」
貴司は千里のダンクを見せられてかなり闘志を燃やしたようである。それから1時間くらいひたすら千里のブロックをかいくぐってシュートを決めようとした。しかし千里(実は《こうちゃん》)は貴司のシュートの7割をブロックした。
「参った」
「参っては困る。女子日本代表に負けるんなら、貴司、女子の代表にもなれないよ」
「いや、女子の代表になるつもりはないけど」
時間がきたのでゴールを片付け、汗を掻いた下着も交換し、普通の服に着替えてから退出する。
「じゃ一休みね」
というので貴司が少しドキドキしている。
インプレッサを運転してきたのはケンタッキーである。
「ほんとに一休みか」
「お肉食べようよ。やはりお肉食べないとスタミナ出ないよ」
「それは僕もそう思う」
それでケンタッキーで1時間休んだ上でまた別の体育館に行く。
「今日はバスケット尽くしか」
「そのために出てきたんでしょ?」
「そうだけどね」
2つ目の体育館ではひたすら1on1をやった。10本単位で攻守を交代しながらやるのだが、これが無茶苦茶ハードである。さっきは《こうちゃん》にブロックをさせたのだが、今度は千里自身が貴司に対抗する。
貴司が攻める場合、千里に3回に1度くらいしか勝てない。千里はたくみにドリブル中のボールを掠め取りしたり、ボールを弾いて飛ばしたりして、貴司の進攻を妨害する。
逆に千里が攻める場合は貴司はほとんど停めきれない。貴司が手を伸ばしたのと反対側を抜いたり、貴司が離れて守っているとみると即シュートを撃ち込む。
このあたりは大阪の実業団でしかやっていない貴司と、女子とはいえ世界相手に歴戦してきている千里の差が出た感じである。
「普段ここまで練習してない。凄いハードだ」
「要するに練習不足だね。貴司、やはりもっとレベルの高いチームに行った方がいい。自分がチームの中でいちばん上手いという状況では、それ以上伸びることができない。スポーツでは、鶏口となるより牛後となれ、だよ」
(鶏口は鶏のクチバシ、牛後は牛のお尻。鶏口牛後は史記蘇秦伝の中のことば。普通は「鶏口となるも牛後となるなかれ」で大きな組織の下で働くより小さな所のトップとなれ、という意味だが、千里は逆に弱いチームの中心選手で満足せず、強いチームの下っ端になって自分を鍛え浮上しろと言っている)
「千里は今のチームの中心でしょ?」
「うん。だから3月いっぱいでローキューツは辞めるよ」
「そうだったんだ?どこに行くの?」
「来年はお休みかなあ。結婚準備もあるし」
と千里が言うと貴司はドキッとした。
ここでの練習を終えてから、千里はインプレッサを運転してさいたま市内のホテルに入った。チェックイン手続きをしてから車はホテルの立体駐車場に入れる。
部屋に入ってから千里は貴司に言った。
「あなた、お風呂にする?御飯にする?それとも寝る?」
「えっと汗掻いたからシャワーして、お腹空いたから食事して、それから一緒に寝ない?」
「いいよ」
それで交代でシャワーを浴びてからふつうの服に着替える。千里はシャワールームを出てからわざわざ貴司の前に来て服を着た。貴司はドキドキした顔をしたいたが、ここで私を押し倒さないのが貴司だよなぁと思った。女の子をすぐ口説く癖に、実は度胸が無いんだよなあ。
「遊んでもいいよ」
「いや、それすると食事に行きそびれる気がして。でも」
「でも?」
「千里の身体って美しいよなあ。羨ましいくらい」
「貴司も手術してこういう身体になりたい?」
と千里が言うと
「えっと・・・」
と言って悩んでいる。正直な奴め。
貴司は訊いた。
「千里ってほんとに手術して女の子になったんだっけ?」
先日、母たちの前で口にした疑問である。
「そうだよ。元はここに貴司と同じ形のものが付いていたよ」
「それ絶対嘘だという気がしてきた。千里、本当は最初から女の子だったでしょ?」
千里は微笑むとバッグの中から1枚の紙を取りだして見せた。
「予約票?」
「7月18日にプーケットの病院で性転換手術を受けるから」
「え?千里、男の子になっちゃうの?」
「まさか。今男の子だから性転換して女の子になるんだよ。女の子の身体になって戸籍を女に直さないと、貴司と結婚できないからね」
「今既に女の子じゃん」
「これから女の子になるんだよ」
「卵巣と子宮を移植するとか?」
「それは既にある気がするなあ」
「やはりあるんだ!」
「だって卵巣と子宮が無いと京平と環菜(かんな)を産めないからね」
「やはり千里、子供産めるんだ?」
「私が産むって言ってたじゃん」
結局このあと少し時間のかかることをしてしまい、食事に行ったのはもう8時半であった。ラストオーダーのぎりぎりに飛び込んだが、けっこう美味しかった。そしてレストランを出たのは9:10くらいである。
「さて、もう一汗流そうか」
と千里は言った。
「ん?」
「取り敢えず車に乗ろう」
「いいけど」
千里が貴司を連れて行ったのは、三鷹市内にある体育館である。
「ここは?」
「まだ練習やっているみたいね」
「でも練習着が」
「後ろのバッグの中にあるから着換えて」
「あ、うん」
千里は着ていたワンピースを脱ぐと練習着である。
「そうなっていたのか!」
ふたりが中に入っていくと、佐藤玲央美、湧見昭子、門脇美花、越路永子、山形治美の5人がいる。
「おはよう。デートしにきたの?」
と玲央美が言う。
「うん。デートしにきた。ちょっと場所貸して」
「いいよ」
「5人でやってたの?」
「6人いたんだけど、あれ?トイレに行ったのかな?」
実はついさっきまで南野鈴子(すーちゃん)が山形治美の相手をしていたのだが、千里が来たのでびっくりして逃げ出したのである。
それでふたりはKL銀行三鷹体育館の片隅を借りて1on1の練習を始める。山形治美は鈴子が戻ってこないので困惑している。玲央美は昭子に治美の相手をするように言って、千里たちの所に来た。
「細川さん、私の相手してもらえませんか?」
と玲央美が声を掛けると
「いいよ」
と千里が答えた。
それで貴司と玲央美で1on1をやる。貴司は千里とは全く違うタイプの相手に翻弄され、最初は全く勝てなかったのが10分くらいやっている内に少し勝てるようになる。
「えいちゃーん」
と玲央美が越路永子を呼んだ。
「この子の相手をしてもらえません?」
「あ、うん」
貴司が全く勝てない!
「嘘!?」
「貴司考えすぎ。基本に忠実にやってごらんよ」
「へ?」
それで貴司は一休みさせてもらい、千里が用意してくれたドリンクを飲んでから再度永子と1on1をやる。
「あ、勝てた」
「私はハイレベルの人とやった後にやると、目くらませになるんです」
などと永子本人が言っている。
「永子ちゃんは何も難しいことはしない。でもハイレベルの人ってしばしば基本を忘れているから、基本にやられてしまうんだな」
と玲央美は言っている。
「何かミニバス時代を思い出した!」
「試合中はうまい人たちの中に混ぜて出してもらうんです。するとフェイント合戦をすることになるハイレベルの人の相手と私の相手をすると向こうの選手は混乱して、どちらにもやられてしまうんですよ」
と本人。
結局、そんな感じでこの日は11時頃門脇美花が「電車が無くなるので」と言って帰ったほかは、12時すぎまで練習が続いた。
「みんな近くに住んで居るの?」
「私は荻窪のマンション、他は会社の寮」
「寮は近い?」
「この体育館から歩いて5分」
「近くて良いね」
「だから朝6時から練習始めますよ」
「やはり貴司は練習不足だね」
それで着換えて体育館を出る。着替えは千里と玲央美が更衣室を使い、貴司は体育館外のロビーである!
「へー。これが玲央美の車か」
「うん。これを買ってから深夜練習に困らなくなった」
「夜中は電車が動いてないもんね〜」
という訳で玲央美が荻窪のマンションとこの体育館との往復に使っているのは三菱コルトプラス1.5RX 1498cc CWT 4WD(カワセミブルーメタリック)である。
「コルトかコルトプラスで悩んだけど、荷物がたくさん詰めるからこちらにした」
「新車?」
「新車」
「すごーい!お金持ち」
「千里の年収の50分の1くらいだと思うけど」
玲央美は東京に出てきた当初は入ったチームの会社の寮に入ったものの、そこが倒産したので、いったん習志野市内の月5000円!?のシェアハウスに住み、千葉市の電話受付会社に勤めながら藍川真璃子・母賀ローザと一緒に練習をしていた。九州での特別任務に就いた後、藍川真璃子のアパートに同居してミリオン・ゴールドの活動に半年間参加した。この付近は“スペシャルマンス”のために時系列が少し混乱している。
2010年にジョイフルゴールドが発足した時は寮(寮費1万円)に住んでいたのだが、日本代表の活動も多いので寮は色々制約があって不便だった。それで昨年春に荻窪のワンルームマンション(家賃6万円)を借りてそちらに引っ越した。荻窪と三鷹の間は中央線で7分である。電車は荻窪→三鷹の始発が4:31 三鷹→荻窪の最終は0:47 で“普通の人”は困らない。しかし玲央美は真夜中に突然練習したくなる時があり!その度にタクシーを呼んで体育館に出かけていた。それが度重なるので、ついに通勤用に車を買ったのである。
「え〜!? 真夜中に体育館に出てきて練習するんですか?」
「普通にするよね?」
「凄い」
「銀行には出なくていいんだっけ?」
「この体育館から走って行く。3kmくらいだからちょうどウォーミングアップ、クールダウンにいい」
「なるほどね〜」
「朝は向こうの更衣室で銀行の制服に着替える。3時間お仕事して、お昼を食べたらトレーニングウェアに着換えてこちらに走って来て午後いっぱいチーム練習。夕食を食べてから居残り練習」
「すると毎日12時間くらい練習している感じ?」
「まあそのくらいするでしょ。毎日30時間練習している千里や江美子には負けるけどね」
「まあ私や江美子はバスケの練習している訳ではないけど」
「いや、基礎体力作りは大事だよ」
「玲央美もやる?」
「まだ死にたくないからやめとく」
「死者は1冬に10人くらいしか出ないよ」
「やはりやめといた方が良さそうだ」
貴司は会話の内容が分からないようで、首を傾げている。
「そうそう。私たち結婚するから」
と千里は言った。
「おめでとう!式はいつ?」
「年末くらいかなあと思ってる」
「オールジャパンで忙しいのでは?」
「来年のオールジャパンはお休み」
「なんで〜?」
「どっちみち大学の卒業準備もあるし」
「大学なんか行ってない癖に」
「まあね」
それで玲央美と別れてインプレッサで浦和のホテルに戻った。既に1時すぎである。
「ごはんでも食べに行く?先にシャワーする?それともこのまま寝る?」
「シャワー浴びてから千里を食べたい」
「はいはい」
そういう訳でふたりが睡眠に就いたのは2時すぎである。
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【娘たちのムスビ】(1)