【娘たちの危ない生活】(3)

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冬季クラブ選手権が終わった後の2月13日夜。
 
千里は祝勝会が終わって麻依子たちと別れると、インプレッサに乗り
 
『こうちゃん、よろしく〜』
と言って自分は後部座席に寝転がってスースー眠ってしまった。《こうちゃん》は、やれやれという顔をしながらも車を運転して一路大阪を目指す。
 
途中の足柄で《きーちゃん》に交替、夜2時頃、桂川PAに到着する。
 
ここで千里を起こす。千里はトイレに行って来た後、自分で運転し、吹田市の千里(せんり)のマンションに到着した。
 
車はマンション近くの月極駐車場に駐め、マンションのエントランスを自分の鍵で開けて入る。そして33階に上がり、3331号室のドアをやはり自分の鍵で開けて中に入る。そして寝室に行く。貴司がすやすやと寝ている。
 
千里は微笑むと服を全部脱いでわざと服を寝室に放置したまま、お風呂場に行き、シャワーを浴びる。身体を拭いてから、再度寝室に行ってベッドの中に潜り込んだ。いきなりあそこを手で刺激する。貴司は起きない!
 
やがて大きく堅くなるも、貴司は起きる気配が無い。それどころか何か夢でも見ているのか寝言を言った。
 
「千里、愛してるよ」
 
ほほぉ、ちゃんと私の名前を呼んだなと思った。他の女の子の名前を呼んでいたら即去勢だったね。貴司、男の子辞めずに済んだね、などとつぶやきながら、刺激を続けていたら、やっと貴司は目を覚ました。
 
「千里!?」
「待ってね。これもう少しで行くと思うから」
「それ千里の中で行かせて!」
「しょうがないなあ」
と言うと、千里はそれにコンドームをかぶせると、自分の身体の中に入れた。貴司は中に入れるとすぐに逝った。
 

「気持ちよかったぁ」
「良かったね」
 
「いつ来たの?」
「さっき」
「いつ帰るの?」
「朝、貴司を会社に送り出したら」
「じゃそれまでデート」
「OKOK」
 
起き出してリビングに行く。
 
「これバレンタインね」
と言って千里は貴司にチョコレートを渡した。
 
東京の洋菓子専門店のスペシャルパッケージである。
 
「ありがとう」
と言って貴司も笑顔で受け取る。
 
「それからフランス土産」
と言ってペリエ・ジュエのシャンパンを出す。
 
「なんかこれ高そう!」
「そのチョコよりは安い」
「そんなに高いチョコなのか!」
 

「そうそう。母ちゃんが振袖どうしようか?と言ってたけど」
「すぐ必要なものでもないから、貴司次に里帰りした時に、このマンションに持ち帰ってよ」
「ここに置いておけばいいの?」
「だってここは私のおうちだし」
「そうだよね!」
 
貴司が少しドライブしようよというので、深夜ではあるが、AUDI A4 Avantでお出かけした(千里が持って来たシャンパンはまだ開けていないので、ふたりともシラフである)。貴司が運転して千里が助手席に座った。
 
「関東クラブ選手権優勝おめでとう」
「ありがとう。またこのルートでオールジャパンを目指すけど、貴司もオールジャパンに出てきて欲しいなあ」
「社会人選手権経由はなかなか厳しい」
「それなら近畿総合で優勝すればいいのよ」
 

ふたりがドライブに出かけたのが午前3時頃で、ふたりは淡路島方面にドライブ。明石海峡大橋を渡って4時半頃、あわじの道の駅で休憩した。
 
「この道の駅で私たちの愛は復活したね」
と千里は懐かしそうに言った。
「千里も人が悪いよ。まるで男になってしまったかのように装うんだもん」
「うふふ。でも貴司って、女の子より男の子が好きなんじゃないの?」
「そんなことない。僕はストレートのつもりだけど」
 
「まあ私はどちらでもいいよ。私だけを愛してくれるのなら、貴司がゲイであっても、女装趣味であっても、全然問題無い。性転換されると私もレスビアン覚えないといけないから大変だけど」
 
「性転換はしないよ!それに僕は千里だけを愛しているつもりだけど」
 
それでふたりはキスをし、目隠しをして車の後部座席で少しイチャイチャしていた。ところがトントンと窓をノックする音がある。慌てて毛布にくるまって目隠しを開けてみると警官である。
 
「あのぉ何か?」
「ご休憩の所申し訳ないのですが、運転免許証を拝見できますか?」
「はいはい」
 
それで結局貴司は毛布にくるまったまま、鞄の中から運転免許証を出して警官に提示した。
 
「大阪からいらっしゃいましたか」
「はい、そうです」
「ご旅行ですか?」
「いえ。深夜のドライブをしただけなので、もうすぐ大阪に帰ります」
 
警官はチラッと千里の方を見ると
「そちらは奥様ですか?」
と尋ねた。それで千里は笑顔で答えた。
 
「はい。私はこの人の妻です。まだ籍は入れてませんけど」
 
「そうでしたか。お邪魔しました。帰りはお気を付けて。お休みの所を申し訳ありませんでした」
「いえいえ。お勤めご苦労様です」
 

そういう訳で、警官の職務質問ですっかり興ざめになってしまったので帰ることにする。服を着て、トイレに行って来てから出発する。帰りは千里が運転する。
 
「でも千里よく『妻です』とか言えたね」
「私ずっと貴司の妻のつもりだよ」
 
それで貴司は運転中の千里の頬にキスした。
 
「でも貴司、会社もあるし、寝てなよ」
「そうさせてもらうけど、千里、慎重に運転してね。眠くなったら脇に寄せて停めて」
「了解了解」
 
実際貴司はすぐ眠ってしまった。千里はそっと脇に停めてから貴司にキスするとまた車を発進させ、吹田に向かった。
 

マンションに入る前にコンビニに寄って朝御飯を買い、マンション内で食べた。そして朝7時半、
 
「あなた、行ってらっしゃい」
と言ってキスで貴司を送り出した。
 
千里は少しマンション内で仮眠すると、溜まっている洗濯物を洗濯機に入れて回し、またシンクに溜まっている食器を洗った。冷蔵庫の中身を見てからスーパーに買物に行き、大量の食材を買ってきて料理を作る。今夜の分をパイロセラムの器に入れて冷蔵室に入れた他は、小分けして料理名と日付を記入し、冷凍する。
 
洗濯物を乾燥機から取り出して畳んでタンスにしまった上で、
 
「じゃ、貴司、また来るね」
とマンション内に向かって声を掛けると、車に戻り、東京へ向かった。
 

夕方、東京に戻ると、千里は江戸川区内の不動産屋さんに行った。
 
「この度は大変でしたね」
と副支店長さんが出てきて言ってくれた。
 
「いえいえ。今友だちの家に仮住まいしているので、早く何とか引越先を確保しなければとは思ったのですが、ちょうど色々忙しくて自分で探す時間が無かったので探して頂いて助かりました」
 
それでスタッフの人の車でそのマンションを見に行った。
 
後ろの子たちがワクワクしている。うん。ここって“最悪”な場所じゃん。霊道が2つクロスしている。なんて“素敵”な、と千里は思った。それに実は雨宮先生が勝手に契約してその後2年間使用している駐車場から歩いて2分という便利な場所でもあるのである。
 
案内されて4階に上がる。玄関は北東、つまり鬼門を向いている。このマンションはコの字型で、401-403は北西向き、404と405が北東向き、407-409は南東向きである。つまり千里が案内された404だけでなく隣の405も結構きついはずだ。千里はその遙か向こうに霞ヶ浦があるのを認識する。“このあたりに漂っているもの”は根本的には利根川から流れてきたものかも知れないと思った。
 
部屋はワンルームで専有面積は20平米ということ。坪に換算すると6坪だが、玄関やユニットバスを除くと5坪。実際には8畳+クローゼット2畳という感じである。
 
「素敵な場所ですね。ここに決めます」
と千里はマンションの中まで見せてもらった上で笑顔で答えた。
 
「では事務所で手続きを」
 

不動産屋さんの事務所に戻り、契約手続きをする。保証人不要物件であるが、端末で千里の名前・住所・生年月日を入力すると、即保証OKの表示になったようである。
 
今回借りることにした物件は家賃5万円+管理費3000円、敷金2ヶ月分、礼金1ヶ月分、なのだが、前住んでいた所が崩壊してその移動先という特殊な状況で、家賃を2割引の4万円、礼金無しにすると言われた。つまり本来なら入居時に日割り分も含めて22.8万円払わなければいけない所が14.3万円で済むことになる。なによりも毎月の出費が1万円安く済むのが嬉しいところだ。
 
千里は書類に全部署名・捺印した後で言った。
 
「前住んでおられた方は、自殺でしたっけ?40代の女性みたいですが」
 
副支店長さんがギクッという顔をする。
 
「ああ、私そういうの全然気にしませんから」
と千里は笑顔で言う。
 
副支店長が後ろを振り向いて支店長と目で会話した。
 
「物は相談ですが、家賃3万円にしましょうか?」
「あら、素敵ですね。どうせなら、もう1声」
「それでは頑張って2万5千円」
「あとひと声」
「でしたら2万4千円。これが限度です」
「ではそれで」
と言って、千里は副支店長さんと笑顔で握手した。結局半額以下である。
 
「でもなんで分かりました?」
「現場を見たら一目瞭然でしたよ」
「あのぉ、見える方ですか?」
「私、見えないけど、感じとるタイプなんです」
「ああ、何となく分かります」
 
それでこの日払う金額は8.7万円になった。これをその場でクレジットで決済するとともに、毎月の家賃もこのカード払いにする。
 
。。。のだが、千里が提示したカードを見た副支店長が目を大きく見開いている。副支店長の様子を見て支店長が出てくる。
 
「お客様もお人が悪い。こんなカードをお持ちなら、そもそも保証人も不要でしたね」
などと言っている。
 
「何でしたら、マンション1軒ご購入なさいません?適当な物件を探しておきますよ」
と支店長は言うが
「2年後には大学を卒業して、関西方面に引っ越す予定があるので」
と言って、丁寧にお断りしておいた。
 
ともかくもそれで鍵をもらった。
 

後ろの子たちにたっぷり“食事”をさせてあげた上で、千里は言った。
 
『思うんだけどさ』
と千里は真剣な顔で眷属たちに話しかけた。
 
『私、やはり大学やめるべきかなあ』
 
『千里がそういう問題を私たちに問いかけるのは珍しい』
と《きーちゃん》が言った。
 
『なぜそう思う?』
と《すーちゃん》が訊く。
 
『1年生の時は前期の試験を全部レポートに代えてもらったけど、あの時は授業にはほとんど出られた。2年生の時は前期は事実上ほとんど大学に出ていない。後期もけっこう休んでいる。2年の前期まではまだ教養的な科目が多かったから良かったけど、2年後期からは専門的な科目が多くなっている。3年生の前期も今の見込みではほとんど大学に行けないけど、これはレポートに代えればいいというものではないと思う。本来は毎回授業に出て、しかも授業前に相当教科書を読み込んでおかないと授業そのものに付いていけない。正直、私のバスケ活動・音楽活動と両立できてないと思う』
 
『千里は大学生を辞めるべきではないと思う』
と《びゃくちゃん》が発言した。
 
『なぜ?』
 
『千里は大学生というのを隠れ蓑にして、現在の曖昧な性別をそのままにしている。これが大学生をやめて社会人になったら、男か女か、どちらかに強制的に分類されることになる。でもそれは千里が性転換手術を受けることになっている2012年7月まで保留していた方がいいんだよ。そうしないと矛盾点が大量に吹き出して、千里の存在そのものが歴史から抹消されるよ。これは大神様にも助けられない』
 
歴史から抹消されるのは嫌だな、と千里も思う。
 
『確かに学生だとそのあたりのモラトリアムがあるよね』
 
『実際、モラトリアムをむさぼるために学生やってる人も多いでしょ』
『確かにそれはそういう子が結構いる』
 
紙屋君とかどうするんだろう?と実際千里は心配している。
 
『しかし千里が言うようにもう掛け持ちは限界に達していると思う』
と《りくちゃん》が言った。
 
『千里は学生生活で授業に出ている時間だけで6時間×5日=30時間、その準備のために同程度の30時間、バスケの練習を平日5時間・土日10時間で45時間、作曲作業で40時間くらい使ってる。これだけで145時間。1週間168時間から引くと23時間しか無い。全部睡眠に当てても1日3時間ちょっとしか寝られない。食事や風呂の時間も考えたら、既にオーバーフローしている』
と《りくちゃん》は詳細な分析を言う。
 
『実際千里の作業のかなりを俺たちが現実に代行してるもんなあ』
『Cubaseに打ち込むのは最近ほとんど私がやってる気がする』
『千里は移動時間はほとんど寝ている。誰かが代わりに身体を動かしてる』
 
『それ以外でもファミレスと神社でバイトしてる』
『そのバイトはどちらも辞めるべき』
『同感、同感』
『でもそれは千里の収入をカモフラージュするために必要なんだよ。作曲家をしていることはあまりオープンにしたくない』
『神社は?』
『俺たちの餌場として重要』
『それがあるんだよなあ〜』
『極めて強烈な邪気を帯びた奴が来るからなあ』
 
『だったらさ』
と《とうちゃん》が言う。
 
『俺たちの餌場の確保もあるのなら、千里の生活の一部を誰かが常時代行するしかないと思う』
『誰が?』
 
『神社のバイトは貴人にしかできんな』
『え〜〜〜!?』
『だって、龍笛を吹けるのは貴人だけ』
 
『ファミレスのバイト、私がしてもいいよ』
と《てんちゃん》が言う。
『じゃ、その2つのバイトはそれで決まり』
と《せいちゃん》。
『ちょっとぉ。決まりなの?』
と《きーちゃん》が文句を言っている。
 
『あとは、学生と作曲とバスケのどれかを誰かが代行すればいい』
『作曲は千里本人にしかできん』
『Cubaseの入力は大裳やってやれよ』
『まあ今でもやってるからね。それでも千里の作業が半分はある』
 
『バスケも千里本人にしかできん』
『そうなると、取り敢えず大学卒業まで誰か千里の代わりに学生をするしかない』
『誰がする?』
『理系の話が理解できる奴でないと無理』
『それは青龍か、白虎か、貴人だ』
 
『私は生物とか医学に化学までは分かるけど高度に専門的な数学は分からない』
と《びゃくちゃん》。
『俺は男だぞ。女の千里の代理をするのは無理がある』
と《せいちゃん》。
 
《きーちゃん》はため息をついて言った。
『しょうがない。私が神社のバイトと学生の2役してあげるよ。神社は基本的に土日だけだし』
 
『そしたら、千里は作曲とバスケに専念すればいい』
と《とうちゃん》が結論付けるように言った。
 
『ほんと?きーちゃん、てんちゃん、ごめんね』
 
『まあ、私たちは過去にかなり眷属使いの荒い宿主とたくさん付き合っている。千里はそういう人たちに比べたら、私たちをとても大事にしてくれている。だから、2〜3年くらいなら、何とか代理してあげるよ』
と《きーちゃん》は笑顔で言った。
 
そういう訳で千里はこの後、学部時代の後半2年間は、基本的に大学には行かないことにしたのである!
 

千里は、桃香の部屋に置かせてもらった荷物の内、書籍のスキャン用に購入したパソコン・スキャナ&プリンタのセット2台を新しいマンションに移動した。また楽器類もほとんどをそちらに移した。他にあちこちでもらった、賞状やメダルの類いも移した。
 
家具屋さんで2段ベッドを買ってきて、下の段は外して収納空間として使う。寝る時はこの上段で寝ることにする。
 
(このマンションは誰にも秘密にして貴司にさえ教えない)
 
千里がここにワンルームマンションを借りたのは、自分でも分からない何かの予感で、賞状やメダルの類い、それに作曲関係のデータなどを一時的に桃香のアパートに移していたものの、あそこは多人数が出入りするので、セキュリティを考えてもあそこには置けないこと。むしろ自分の住居と分離した方がいいと考えていたこと。
 
それともうひとつは桃香と同居するのはいいが、桃香が恋人を連れ込んでいる時に千里自身が寝る場所をどこかに確保しておく必要があったことである。
 
そしてどうせそういう場所を確保するなら、駐車場のそばがいいなと考えたのであった。それで不動産屋さんに「代わりの住まい」という名目で探してもらった。このワンルームマンションは千里が貴司・桃香および4人の子供と一緒にさいたま市内の一軒家を買って暮らし始めた2020年の末まで10年ほど使うことになる。
 

C大学は現在、春休みに入っているが、桃香はバイトに明け暮れていた。追試代わりのレポートは3本ともちゃんと認めてもらい、留年は免れた。
 
2年から3年に進級する際、数物科の数学コースの中でも更に基礎数学分野と情報数学分野に分けられることになる。ここで桃香は情報数学を希望した。正直、桃香には代数や解析の難しい話がさっぱり分からないのである。それでコンピュータとかの話なら大丈夫だろうという考えである。朱音はSEになりたいというので情報数学の選択、友紀と美緒は学校の先生を志すということで基礎数学の選択である。
 
さて・・・千里は情報数学を選択した。それは千里は数学基礎論をやりたいと考えていたからである。いくら《きーちゃん》に任せるといっても、出席できる範囲では出席したい。その時、集合論・数理論理学などの話は大いに興味のある所だ。《きーちゃん》も集合論・カテゴリー論などは勉強したことがあるということだったので、これを学べる筧井准教授のゼミに入りたいと考えた。すると筧井先生は、情報数学なのである。
 
数学の中でも最も純粋に数学的で、基礎数学の中でも最も基礎である数学基礎論が多くの大学で情報数学コースや応用数学コースに置かれているのは、それがコンピュータの基礎理論だからである。コンピュータという仕組みは20世紀初頭に数学基礎論の中で「計算可能とはどういうことか?」という考察が行われた時に複数の研究者が考え出したチューリング機械という仮想の機械から出発している。それで数学基礎論はコンピュータの関連研究ということで情報数学の中に置かれてしまっているのである。
 
そういう訳で結果的に千里と桃香は同じコースに進むことになった。
 
数物科の女子は従って次のように別れることになった。
 
基礎数学 友紀・美緒
情報数学 千里・桃香・朱音
物理学 真帆・玲奈
 
但し千里は情報数学ではあっても数学基礎論の専攻であれば基礎数学分野の代数や幾何・解析などの単位も取っておく必要がある。カテゴリー論がその付近ともクロスオーバーしているのである。逆にプログラミングの実習などは課される時間数が短くなる。
 

ところで、お正月にもらってきたブリは2月の中旬にやっと全部消化することができた。毎日食べていたらもっと早く無くなっていたのだろうが、さすがに飽きて来て最後の方は週に1度くらいしか食べていなかった。
 
しかし千里が桃香の所に来て以来、桃香は朝御飯を毎日食べることができるようになっていた。また遅刻せずにバイト先に行くこともできるようになり
 
「最近ちゃんと出てきてるね。偉い偉い」
などと所長に褒められた。
 
千里がごはんを作ってくれるのは、桃香のアパートに泊まりに来る朱音や玲奈などにもメリットをもたらす。確実にごはんが食べられるし、何か予定があるのを言っておけば、ちゃんと起こしてくれるのである。それで朱音たちまで
 
「千里はずっとここに居てくれていいからね」
と言っていた。
 
「千里はもうこの宿舎の寮母さんだな」
などと桃香まで言っていた。
 

2月17-20日の4日間は東京北区のNTCでU21代表の第3次合宿が行われた。
 
今回の合宿では、元NBAのジョージ・メイスン氏を招き、その指導を受けることになった。こういう大物を招聘できたのは、実は藍川真璃子のコネである。メイスン氏の従姉でWNBAに所属していたこともあるメアリー・メイスンがギリシャのチームに居た時、藍川の指導を受けたことがあったのである。
 
U21のメンバーは全員ひととおり英語はできる(将来のWNBA進出可能性を考えてちゃんと勉強している子が多い)ので、ほとんどの子がメイスン氏と通訳無しでコミュニケーションできた。特に千里・玲央美・彰恵・王子の4人は全くストレス無く英語が話せる。やや怪しかったのがサクラと朋美だが、他の子が通訳してあげて、何とかなっていた。
 
それで最初は協会の通訳の人が入っていたのだが、どうしてもワンクッション入る形になるので1日目の途中から「君はもういいよ」と言われて、全員英語で直接やりとりするようになった。
 
メイスン氏の指導はシンプルである。
 
「バスケットは点をたくさん取った方の勝ち」
「相手が戻る前に点を取れ」
「相手の虚を突け」
 
といったことであった。
 
それで特にファーストブレイクの状況をかなり練習した。
 
メイスン氏は世界と戦う場合、日本人は背丈が無いのが絶対的に不利だから、その分早く動き回らなければならないと言った。それはまさに日本のバスケットの基本であり、昨年U17の監督を務めた城島さんなども言っていたことであった。またメイスン氏は、速攻で使えるいくつかのフォーメーションを教えてくれた。その方法は、千里たちには結構新鮮に見えた。
 
しかしこの4日間はひたすら走る4日間にもなった。メイスンは選手たちを本当にたくさん走らせた。練習を始める前にコートの端から端まで28mのダッシュを50本やる。練習がひととおり終ってから陸上競技場で10km走らせる。全員ヘトヘトになって宿舎に辿り着き、シャワーを浴びてから死んだように寝ていたが、物凄く充実した4日間でもあった。
 

合宿は2月20日の夜8時に終わったのだが、シャワーを浴びて着換えて玲央美と一緒に退出しようとしていたら、バスケ協会の赤井さんからメールが入っているのに気付く。手が空いたら事務局の方に来て下さいとある。
 
「あ、私も同じメールが来てる」
と玲央美が言うので一緒に行くことにする。
 
「ああ、お疲れ様です。あと高梁さんも呼んでいるので彼女が来てから」
と赤井さんが言うが
 
「高梁はきっとメールなんて気付きません」
と千里も玲央美も言った。
 
それで結局赤井さんは王子の部屋まで行って直接連れてきた。部屋で寝ていたらしい。
 

「正式には3月14日に発表予定なのですが、あなたたち3人を日本代表フル代表として召集しますので、よろしくお願いします」
と赤井さんは言った。
 
「代表候補・・・ですよね?」
と玲央美は確認を求めたが
「いえ。この3人は確定です」
 
「おぉ!」
などと王子は言っているが、千里と玲央美は顔を見合わせた。
 
「結局、フル代表の監督は誰がするんですか?」
と玲央美は尋ねた。
 
「アジア選手権は暫定的に、一昨年U16、昨年U17を率いた福井W高校の城島さんが指揮します。あなたたち3人は城島さんのご指名です」
 
「学校の方はどうするんです?」
「インターハイ本戦の時期だけ学校に戻ります」
「大変ですね!」
「基本的にフル代表の監督は専任になってもらう方針なんですけど、どうしても適当な人がいないので、兼任という条件で城島さんが引き受けてくれたんですよ。何人か絶対このメンツは入れてくれという指名も条件で、その条件を協会は受け入れました」
 
「他にはどういう人が指名されたんです?」
「ここだけの話にしてください。羽良口さん、横山さん、花園さん、馬田さん。あなたたちも入れて7名。あとの5人は候補者の中から調子を見て選定」
 
「私たち3人は置いといてその4人は外せないと思います」
と千里は言った。
 
「これもここだけの話ですが、どうも外人さんの監督を上は考えているみたいですね。でも交渉に時間が掛かっている」
「うーん。。。」
「だから今年のアジア選手権を城島さんで乗り切り、来年のロンドン五輪は外人さんの監督で行こうということのよう」
と赤井さん。
「ロンドンに行けたら、ですよね」
と玲央美が言う。
 
「まあそれが問題なんですけどね」
と赤井さんも言った。
 
来年2012年のロンドン五輪に出るには、今年8月のアジア選手権(大村市)で優勝するか、3位以内に入って2012年6月にトルコで開かれる最終予選に行き、そこで5位以内に入ることが必要である。
 
赤井さんからは、U21が終わるまでは、U21の合宿とフル代表の合宿の掛け持ちになるので大変だとは思いますがよろしくお願いしますと言われて会談を終えた。千里と玲央美はそのまま退出するが、王子は今夜はこのままここに泊まって明日の朝の新幹線で帰ると言っていた。
 

「だけどそうなると、実際問題として今年の前期も千里、ほとんど大学に行けないのでは?試験はレポートに代えてもらえるかも知れないけど、そんなに授業に出られない状態で、大学に行く意味ってあるの?」
 
と玲央美は帰りの車の中で千里に言った。
 
親友だからこそ言える核心を突く発言である。
 
「それ悩んでいるんだけどね〜」
と千里も言った。
 
一応先日、眷属たちとの話し合いで、4月以降、学校への出席は《きーちゃん》が代行してくれることになった。しかし本当にそれでいいのか、千里はまだ悩んでいた。
 
「今ならまだいくつかWリーグで来年の枠が完全には固まってないチームあるよ。もし行く気があったら、私連絡してあげるよ」
「ありがとう。もう少し悩んでみる」
「あまり悩んでいると、どこも16人の枠、埋まっちゃうよ」
「うん。分かってる」
 
それで玲央美とは別れて、桃香のアパート方面へ車を向けた。
 

2月25日(金)の夕方。貴司は練習を20時であがらせてもらうと、着換えてから新大阪駅に向かい、21:20の東京行き最終のぞみに乗った。練習の疲れから、新幹線の中では熟睡していた。23:45に東京駅に着き、在来線乗換口に行くと千里が待っていて手を振っていた。
 
一緒に山手線で渋谷に移動し、駅から少し歩いて1軒のレストランに入る。予約していたので個室に通される。
 
まずはシャンパンで乾杯した。
 
「少し早いけど20歳のお誕生日おめでとう」
「その少し早いというのは人に聞こえないように言うこと」
「ごめん」
「僕たちの愛のために乾杯」
「貴司がオールジャパンに行けることを祈って乾杯」
 
それでグラスを当てて乾杯し、飲み干す。
 
「美味しい!」
「これ美味しいね」
 
今日頼んだシャンパンは、ボランジェ(Bollinger)の普及品シャンパン、スペシャル・キュヴェである。
 

「そういう訳で、こちらは誕生日のプレゼント、こちらはホワイトデー」
「楽しみ〜。まずホワイトデーから開けてみよう」
 
「わあ、美味しそう。あ、このお店は知ってるよ」
「買ったことある?」
「名前だけ聞いてた」
 
そういう訳で大阪の有名洋菓子店の生ケーキである。これはホテルに戻ってから一緒に食べることにした。
 
「さて、誕生日のプレゼントは・・・っと。わぁ!」
 
中に入っていたのはミュウミュウのピンクの財布である。
 
「リズリサの財布をもう4年使っているし、少し大人びたものもいいかなと思って選んでみた」
「ありがとう。でもこれ高いのに」
「まあ魚は釣り上げるまでは美味しい餌をあげようと」
「結婚した後が怖いな」
 

お料理は洋風居酒屋という感じで、牡蠣と野菜のアヒージョ、ブリとトマトのマリネ、ヤリイカとタマネギのフリット、などという感じでスペイン・フランス・イタリア付近の料理がミックスされた感じで出てきた。そしてメインディッシュは、特上飛騨牛熟成肉の炭火焼きである。肉厚が凄い。
 
「これ値段訊いていい?」
と千里が言ったが
「知らない方がいいと思うよ」
と貴司は答えた。
 

ふたりがデートすれば当然話題はバスケットのことばかりである。こんなにしょっちゅうバスケの話をしていて、よく話題が尽きないものだと思うのだが、貴司が楽しそうに試合でのエピソードや練習での話題、それに国内のJBLやアメリカのNBAの話題などを話す。とにかく幾ら話してもどんどん話題が出てくる感じである。
 
そしてそういう話題を楽しそうに貴司が語るのを、千里は幸せな気分で聞いていた。
 
お料理は最後にデザートにアイスクリームにリキュールを掛けたものが出てきて終了する。深夜2時の閉店時刻に2人はお店を出た。
 
そのまま歩いて千里が予めチェックインしておいたホテルまで行き、お部屋の中に入るとキスして抱き合う。シャワーを浴びてから、たっぷりと愛の確認をして寝た。
 

翌26日土曜日は朝ごはん代わりに昨日貴司が買ってきたケーキを食べたあと、東急で郊外まで移動し、予約していた体育館に入って2人で1 on 1 をして楽しんだ。
 
「千里、物凄く強くなっている。僕がなかなか勝てない」
「私に勝てないと、女子日本代表にはなれないよ」
「僕は女子日本代表になるつもりはないけど、男子日本代表にはなりたい」
「だったら、私を遙かに凌駕できなきゃダメ」
「頑張る」
 
それでふたりはひたすら対戦を続けた。
 
2時間半ほど練習をしてから体育館を出て、また少し電車で移動してからスーパー銭湯に入る。受付は男女共通なので、貴司が2人分払って青い鍵と赤い鍵を1つずつもらう。脱衣場入口で手を振って別れ、貴司は男湯に、千里は女湯に入る。千里は40分ほどであがってきたが、貴司は1時間ほどで出てきた。一緒に飲み物などを飲んでまたおしゃべりする。
 

都心に戻って昼食を取ってから、千里は貴司を連れて、北区のナショナル・トレーニング・センターに行った。
 
「見学できます?」
と千里が受付で尋ねると、
「一般の方の見学はお断りしているのですが、村山さんならいいですよ」
と言われ、貴司もその付き添いということで中に入った。
 
この週末は男子のU18チームの合宿が行われているのである。インターハイやウィンターカップで見かけた選手が居る。指導している鱒山監督は以前高校の女子チームの指揮をしていたこともあり、一度は対戦しているので、そちらも知っている。監督はシューター組の指導をしていたので、千里はその様子をずっと見ていたのだが、監督がふと気付いたようにこちらを見た。
 
そして声を掛けた。
 
「村山くーん、ちょっと降りてこない?」
 
それで千里は貴司を連れて下に降りていった。
 
「ちょっと模範演技を見せてよ」
などと監督が言う。
 
「バスケやる格好してきてないんですけど」
と言うものの、千里は男子が使用している七号ボールを受け取ると、このボールの感触は久しぶりだな、と思いながら数回ドリブルする。既に4月からの新しい仕様で引かれているスリーポイントライン(6.75m)の所に立つと、ボールの感触を再確認してから構えると、スッと撃った。
 
ボールはダイレクトにゴールに入る。
 
「美しい・・・」
と練習していた選手たちから声があがる。
 
「ね、ね、村山君、今日はこの子たちを特別指導してくれない?」
「え〜〜!?」
とは言ったものの、結局千里は午前中使用したバスケットウェア(汗で濡れているが気にしない)に着換えて、ひとりひとりの選手のシュートを見てあげて、色々アドバイスをしてあげた。
 
この日の千里の指導で、特に今回の合宿では3番手だったシューターの子のゴール確率が画期的に上昇した。ちょっとした歯車の狂いが修正されて精密度が物凄く上がったようであった。おかげで、他のふたりの選手も目の色が変わって、必死に練習していた。
 

貴司は結局ボール拾いをしてあげることになった。
 
「そちらは村山君のお友達?」
と監督が貴司に声を掛けた。
 
「はい」
「君、パスとかうまいね。君もバスケやるの?」
「ええ、少し」
「どこかのチームに入ってる?」
「済みません。無名チームで、大阪のMM化学という所で。一応大阪実業団の一部リーグには入っているのですが、まだ全国大会とかには出て行ったことがありません」
「へー。まあ頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
 
この時の会話が、後に貴司を日本代表に導くことになるとは、この時、千里も貴司も思いもよらなかったのである。
 

千里たちは夕食休憩になるまで、5時間ほどU18男子チームに付き合った。
 
「そういえば君たちもしかしてデート中だった?」
「私たちはバスケやるのがデートで。午前中も2人だけで体育館で汗を流してきたんですよ」
 
選手達が「へー!」という顔をしているが、鱒山監督は
 
「バスケ選手同士のカップルだとそうなるんだね!そういうのも楽しいかもね」
と言って笑っていた。
 

夕食を結局NTCの食堂で取る。貴司はこの食堂も初めてだと言った。
 
「日本代表の常連になれば、年に30-40日はここでご飯食べることになるよ」
「それも経験してみたいなあ」
 
夕食後はU18のスタッフさんや受付の人に挨拶してNTCを出た。そのまま昨夜も泊まった渋谷のホテルに移動し、シャワーを浴びた。
 
「この服、コインランドリーに持って行って洗ってくるよ。貴司は休んでて」
「いや、千里こそ大変だったのに」
「平気平気。1時間くらいで戻るけど、オナニーしててもいいからね」
「そんなことせずに待ってるよ!」
 
それで千里は洗濯物を持つと、自分の大学近くにあるのコインランドリーに行き、そこで洗濯をしてから戻った。機械が回っている間は大学の院生室に行き、女子の先輩とおしゃべりしていた。
 
やがて洗濯乾燥が終わった所でホテルに戻る。
 
「洗濯終わったよ」
と千里が言うと
 
「お疲れさん。おやつとお茶買っておいたよ」
と貴司は言った。
 
「素晴らしい、素晴らしい」
「ついでにビールも買ってきたけど」
「頂きます」
 
それでビールで乾杯してからおやつを食べ、その後、愛の確認をしてそのまま眠ってしまった。
 

27日はまた午前中体育館で1 on 1をやって汗を流した後、お昼を食べてから、午後はスポーツ用品店に行って一緒に新しいバッシュを選んだり(お揃いのを買った)、大きな書店に行ってバスケット関係の本や雑誌を物色した。特に洋書コーナーにアメリカのバスケ雑誌があるのに気付き、買ってきた。
 
夕方の新幹線で一緒に京都に移動した。到着したのはもう19時過ぎである。市内で夕食を取ってから、コンビニでカルピスウォーターを買い、一緒に伏見稲荷に移動する。もう到着したのは21時過ぎである。この時間帯からお山に登ろうとする人はさすがに少ない。
 
「夜中この千本鳥居を通るのは結構怖い」
と貴司が正直に言う。
「私が付いている限り大丈夫だよ」
と千里は笑顔で言った。
 
ここは結構な傾斜があるのだが、ふたりともバスケ選手なので軽々と登っていく。四つ辻から、三の峰、ニの峰、一の峰と進む。
 
「おかあさん、パパ」
という声がする。
 
「久しぶり、京平」
 
それで京平に案内されて、どこかの茶屋のような所に行き、座った。
 
「お土産」
と言ってカルピスウォーターを渡すと
 
「これだいすきき」
と言って、嬉しそうに飲んでいた。
 

バスケット少し練習したから見て、というのでシュートの様子を見てあげる。
 
「京平、それはトラベリングだ」
「え?」
「ボールを持ったら2歩までしか歩いてはいけない」
「え〜〜〜!?」
 
京平は3ステップしていたのである。それであらためて貴司が模範演技をしてみせる。
 
「ぼくどこかでかんちがいしてたみたい」
「また練習するといいね」
 
千里がスリーの模範演技も見せるがさすがに京平の腕力では6mの距離からのシュートは届かない。
 
「まあ短い距離から始めて少しずつ遠くしていくといいね」
「そうする!」
 

京平と3人で貴司の感覚で2時間くらい話していた時のことである。京平が唐突に言った。
 
「おかあさんもパパも、らいげつぜんはんに、とうほくに、いくよていないよね?」
「東北?」
「今の所予定無いけど」
 
「もしいくことになっても、ぜったいいっちゃダメだよ」
 
「京平、何かあるの?」
「はなしてはいけないことになってるから。でもぜったい、いかないでね」
と京平は言った。
 
千里と貴司は顔を見合わせた。
 

2月28日(月)。千里たちが住んでいる千葉市で市会議員の選挙が告示された。一週間の選挙期間を経て、3月6日(日)に投票である。千里は住所を桃香のアパートの住所に変更しているので、そこに投票所入場券が送られて来た。
 
「千里は選挙期間中の3月3日に20歳になるから、ちゃんと今回の選挙は投票権があるんだな」
「桃香は去年の参議院選挙はちゃんと行った?」
「もちろん。選挙に行くのは市民としての義務だよ」
と桃香は言っていた。
 

3月3-4日。玲羅は札幌に出て札幌B大学、芸術学部音楽科の試験を受けていた。国語、楽典のペーパーテスト、聴音してそれを自分の好きな楽器で演奏(または歌唱)してみる問題、そして作文と何か適当な楽器を演奏するか歌うかの実技、と受ける。
 
国語は100点満点の10点か20点かなあという感じだったが、楽典は8割はできたつもり。小さい頃から千里がけっこう譜面の読み方を教えてくれていたので、玲羅は意外に楽典の知識がある。
 
耳で聞いてピアノで弾いてみるのは大得意である。あまり楽譜を買ってもらえなかったので、ほとんどの曲は耳で覚えている。ちなみに耳で聴いて声で歌うの(ソルフェージュ)は苦手である。玲羅は無伴奏で歌うのに実は難がある。伴奏があれば問題ないし、歌が上手いとよく言われるのだが、アカペラで歌うとどんどん音程がずれていく。しかし今回の入試ではソルフェージュは無かった。
 
作文は適当に書いた。実技はエレクトーンで事前に指定されていた曲のひとつ『エーゲ海の真珠』を弾いたら、試験官の先生から拍手まで頂いた。
 
それで面接に臨んだが、玲羅は明るく、ハキハキと試験官の質問に答えた。
 
後は結果を待つのみである。
 

千葉。3月6日の投票日。千里と桃香は同じ住所なので、同じ投票所に行く。最初に桃香が入場券を出し、名簿にチェックされて投票用紙をもらう。続いて千里が入場券を出して投票用紙をもらおうとしたら・・・
 
係の人の手がピクッと止まる。
 
そして
「これ入場券が違いますよ」
と言われる。
 
「村山千里本人ですが」
と千里は言うが
 
「だってこの入場券は男性のものですよ」
と係の人。
 
その時、記入台に行きかけていた桃香が戻って来て声を掛けた。
 
「この子、俗にいうニューハーフなんですよ」
「あら、そうでしたか?」
「念のため、身分証明書とかお持ちですか?」
 
それで千里が運転免許証を見せると、免許証の写真と千里を見比べて
 
「確かに御本人ですね。失礼しました」
と言って、投票用紙をくれた。
 
(千里が運転免許証を出した時、桃香はもう記入台に行っていたので、千里がロングヘアでメイクもして運転免許証の写真に写っているのを桃香は見ていない)
 

投票に行った後、朱音・美緒と合流して、4人でファミレスで食事をした。その時、美緒が言い出した。
 
「千里と桃香、とうとう同棲しはじめたんだって?」
 
「ええ?同棲ということになってるの?ただの同居だよ」
と千里は言う。
 
しかし桃香は何も言わずに笑っている。
 
「Hとかしないの?」
「しない、しない。そもそも私と桃香の間に恋愛関係が成立する訳無い」
「あちこち触ったりしない?」
「ええ?おっぱいくらいは触ることもあるけど、女の子同士普通だよね?」
 
「私、最近千里のおっぱいに触りながらでないと寝れなくなっちゃった」
とここで桃香が爆弾発言。
「そんなことしてない。だいたい別の部屋で寝てるのに」
「おはようのキス、おやすみのキスもしてるし」
「ちょっと、桃香〜、そんなのもしてないじゃん!」
 
「ふむ。君たちがいかにスイートな生活をしているかは分かった。当委員会としては君たちの生活を同棲であると認定する」
 
と朱音が言うと、美緒がパチパチと拍手をした。
 

「でも美緒と清紀も同棲し始めたという噂があるんだけど」
と千里は反撃した。
 
「してない、してない。ただ、清紀が最近うちに入り浸っているだけだよ。住所は別だよ。だいたい私たちの間に恋愛関係が成立する訳無い」
と美緒は言う。
 
「紙谷君、美緒んちに、一週間にどのくらい泊まっていくの?」
と桃香が訊く。
 
「え、えっと・・・一週間に4日くらいかな」
と美緒は焦って答えている。
「それ以外の日ってもしかしてバイト先に泊まり込んでいるのでは?」
「えっとぉ・・・」
美緒は何だか真っ赤になっている。
 
「なるほど、なるほど。よく分かった。当委員会としては、君たちの生活も同棲であると認定する」
と朱音が言い、千里がパチパチと拍手をした。
 

「そういえば紙屋君は春休み中はバイト?」
と桃香が訊いた。
 
「うん。2月は期末試験が終わった後、ずっとピザ配達のバイトしてた。でも今日までで終わりなんだよ。夜間のシフトに随分入ったお陰で、けっこういいバイト代もらったから、一緒に東北にでも旅行に行かないかと誘われている」
と美緒が言った。
 
千里はピクッとした。
 
「それいつ行くの?」
 
「私のバイトが空くタイミングでないといけないけど、週末に掛かると面倒だから、10日の木曜日に行って、11日金曜日の夜に帰ってこようかなと思ってる。状況次第では土曜日の帰りになるかも」
 
「どのあたりに行くつもり?」
「東北道を北上して盛岡あたりまで行って、遠野とか見てから三陸・常磐道を南下して帰ってくるつもり」
 
千里はこれは言うべきかどうか悩んだ。しかしきっと言わなかったら後悔する。親友を2人も失いたくない、と千里は判断した。
 
「美緒、その旅行は来週にしなよ」
「え〜〜〜!?」
 
「私、天気予報当たるんだよ」
「そういえば、千里が傘を持って行けと言った日は朝どんなに晴れていても雨が降るな」
と桃香が言った。
 
「今週末は東北は大嵐になるから避けた方がいい。大雪で立ち往生するかも」
「マジ?」
 
「旅館の予約とかは取ってるの?」
「ううん。彼のフィットで車中泊」
「だったら日程は変えられるよね?」
「うん。そんなに天気予報当たる千里が言うのなら、今週はやめとこうかな」
 
美緒は実際紙屋君とも相談した所、紙屋君も千里の天気予報は確かに当たると言ったので、結局旅行は翌週にすることを決めたのである。
 

翌3月7日(月)。
 
桃香と千里は一緒に長野市のM産婦人科を訪れた。桃香の友人のツテで、ここが「変則的な生殖医療」に理解があるというので、ここで千里の精子を採取し、冷凍保存してもらうことにしたのである。今日が1回目で、この後、半月おきに計6回採取の予定である。普通そんなにたくさん採取しないのだが、千里はこの精子採取が終わったら去勢手術を受けたいと言っているので、安全を見て6個取る。ただ、6個の精子の保存料金は年間12万円掛かる。
 
名前を呼ばれて一緒に診察室に入る。女性2人で入って来たので、医師がえ?という感じの顔をした。
 
「もう採精して来られたのですか?」
「いえ。こちらで新鮮な状態のを採らせてください」
 
「でも女性だけで来られても」
「いえ、この子、一応男の子の器官が付いてるので」
女医さんは驚いた様子でこちらを見つめていたが
「ああ、分かりました。ごめんなさい」
と平然とした顔に戻って言った。
 
職業柄、こういうことで驚いたりしないよう訓練はしているのだろうが、その医師にも、千里が男性というのは意外だったのだろうと桃香は思った。
 
「去勢する予定があるので、その前に採取したいんです」
「なるほど。だから凍結なのね」
「はい。私はまだ学生で今すぐは妊娠できないので」
「了解です。では採精室で、これに出して来て」
といって医師は容器を桃香に渡した。
 
「えっと出すのは千里ね」
といって桃香は千里に容器を渡し直す。
「あ、勘違いした。ごめん」
と医師が照れ笑いしながら謝った。
 
「桃香の方が精子取れそうな気がするけど」
「残念ながら私には睾丸が無いので」
 
それで最初千里はひとりで採精室に入った。
 

『これどうすればいいと思う?』
『千里、やってみたら射精くらいするかも知れんぞ』
と《こうちゃん》は面白がって言っている。
 
千里は眷属たちに気付かれないように慎重に《小春》を『見た』。《小春》は笑顔でOKサインなどしている。《小春》は実際問題として、眷属たちの中で《くうちゃん》以外の11人より高位のレベルにある。《小春》の操作はたぶん他の子たちには気付かれないだろう、と千里は踏んだ。
 
念のため《くうちゃん》を見ると、目を瞑って印まで結んでいる。彼は一言だけ千里に言った。
 
『大丈夫だから進めなさい』
 
それで何とかなりそうだなというのを確信して、千里はいったん採精室の外に出た。
 
「終わった?」
と桃香が尋ねるが、千里は
「ごめん。うまく出来ない」
と答える。
 
「私、オナニーってしたことなくて」
 
「よし。手伝ってあげよう」
「えー!?」
 
それで桃香と一緒に採精室の中に入った。桃香は千里をベッドに寝せると、下着を下げさせ、それを手で握る・・・・かと思ったのだが、桃香はいきなり口に咥えてしまった。
 
うっそー!?
 
これは想定外だったので、千里は焦る。しかし桃香がいくら舌で刺激しても千里のおちんちんは全く反応しない。とうとう桃香もその方法は諦めたようで手でそれを押さえると、女の子がするようにぐりぐりと回転運動を掛けた。
 
桃香はかなり長時間それをやっていたが、千里のおちんちんは硬くもならなければ熱くもならない。桃香がさすがに疲れたなあと思い、ちょっと天井を向いた時、唐突に千里のおちんちんが一瞬堅くなったかと思うと、その先から粘性のある液が出てきた。
 
「行けた行けた」
と言って桃香はその液を全部容器で受け止めた。
 
「できたね」
「ありがとう」
 
桃香は千里に熱いキスをした。この時は千里は無抵抗で桃香のキスを受け入れた。桃香はやりすぎで腕が痛いと思ったものの、今度は千里のバストをなでてあげた。千里は目を瞑って放心状態になっているように見えた。男の子って確かに射精した後は意識が飛ぶくらいに気持ちよくなってるみたいだもんなあ、と研二とセックスした時のことを思い出していた。
 
しかし疲れた!大変だった!
 
『これをあと5回繰り返すのか。あはは』
と桃香は思った。
 

“射精”を見ていた《こうちゃん》たちは実際問題として驚いていた。まさか千里が射精できるとは思ってもいなかったのである。
 
『これなんで射精できたの〜?』
『いや、今千里はまだ女の子の身体に変えられる前の男の子の身体に戻っているから、射精できてもおかしくない。原理的には可能だよ』
『だって大量の女性ホルモン飲んでいたのに』
『睾丸も死んでいるかと思ってたけど、僅かに生きていたのかもね』
『あと桃香がきっと巧すぎるんだよ』
『レスビアンの達人だからクリトリスの刺激の仕方も巧いだろうし』
『あれはクリトリスなのか?』
『千里はでっかいクリトリスと思ってるし、桃香もそのつもりでやったんだと思う』
 
《くうちゃん》だけが満足そうな微笑みをたたえていた。
 

その頃、留萌の自宅で1人で放送大学のテキストを見ている内にうとうととしていた武矢は、突然自分のペニスを誰か女性の手でいじられる感覚を覚えた。
 
え?え?え?
 
と思っている内に物凄く気持ちが良くなって、射精した
 
・・・・ような気がした。
 
慌てて目を覚まし、起き上がってズボンを脱いでパンツを下げてみる。
 
確かに射精した跡はある。しかし出ている液が異様に少ない。
 
あれ〜?体調が悪いのかな?それとも今のは寝ている男から精液を取っていくという伝説の夢魔???などと武矢は思った。西洋文学の講義でそういう話を聞いた気がする。確かインカバスとかサタンバスとか言った??
 
武矢は首をひねりながらも、とりあえず拭いた後、冷蔵庫からビールを出してきてふたを開けた。そしてそれを飲みながら、十八史略の原文に再度取っ組み始めた。
 

千里は“射精”の後、まるで生理の時のような頭痛がして気分が悪かった。それが桃香には男性が逝った後の放心状態に見えたようである。
 
『これ、なんで〜?』
と《小春》に訊くと、
『一時的に千里の睾丸を実際に持ってる千里のお父ちゃんと接続したから、男性ホルモンが千里の体内にも放出されたんだよ。結果的には女性ホルモンが減ったのと似た状態になったから、ホルモンバランスが崩れて、生理痛が発生したんだね』
 
『これをあと5回繰り返すの〜?』
『私のお姉ちゃんを作るためだから頑張って』
『普通の男の子って射精すると気持ちいいんでしょ?私は気持ち悪くなるのか』
『だって千里は女の子なんだもん。仕方ないよ』
と《小春》は優しく言った。
 

採精室を出たあと、桃香は千里の精子の活動性に懸念があったので女医に言うと、活動性の高い精子だけ選別して使いますし、場合によっては顕微鏡受精させますから大丈夫ですと言った。一応顕微鏡でチェックしていたが
 
「確かに平均的な20代男性の精液に比べると活動的な精子の率は低いですけど、このくらい存在していれば問題ありません。顕微授精も必要無いですね」
と笑顔で言った。
 
まあ元々未発達だった弱い睾丸が40代男性の身体にくっついている状態から採った精子だから、20代の普通の男性よりは弱いだろうなあ、とやっと頭痛が収まりつつある千里は思った。
 
「生まれてくる赤ん坊の性別は選択しますか?」
「いえ、自然に任せます」
「分かりました」
 
それでふたりは次の採精の予約を入れて、病院を出た。
 

3月9日(水)。札幌B大学の入試結果が発表された。玲羅は合格していた。学校側からのメールで「第1希望のピアノ鍵盤楽器コースに入れます。16日までに入学手続きをお済ませください」と書かれていた。
 
玲羅は千里に電話した。
 
「合格おめでとう!」
と千里の明るい声が聞こえてくる。
 
「それでさあ、お姉ちゃん、入学金とか授業料とかなんだけど」
「金額を教えて。すぐ玲羅の口座に振り込むから」
 
「入学金が30万、前期授業料が55万、施設費が15万、他に諸経費が4万円で合計104万円なんだけど。ついでに交通費とかも少し融通してくれない?」
「うん。いいよ。あとアパート借りる時はまた言ってよ。保証人にもなってあげるし。じゃ取り敢えず念のため納入金+20万くらい入れとくけど、ごめん、もう一度金額言って」
「じゃメールするね」
「よろしく〜。14時までにもらえば今日中に着金するように振り込めると思う」
「ありがとう。すぐ送る」
 

3月10日(木)の昼過ぎ。
 
千里は雨宮先生から電話を受けた。
 
「千里〜。悪いけど、今すぐ仙台まで来て。新島には内緒で」
 
千里は思わず《くうちゃん》を見た。《くうちゃん》が言った。
 
『確実に今日中に帰って来い』
 
千里は頷くと
「先生、今度は何やらかしたんですか?」
「ちょっと支払いを巡って揉めていて。できたら80万くらいお金持ってきてくれない?後ですぐ返すからさ」
「はいはい」
 
それで千里はインプに乗ると、東北道を急いで北上した。そして雨宮先生が揉めていた居酒屋さんにしっかり代金を払い、先生をインプの後部座席に乗せて東京に帰還する。先生は後部座席で寝ていたので、わざわざ三宅先生のご自宅前で降ろした。
 
「こら、なぜここに連れてくる〜!」
 
と雨宮先生は文句を言ったが、自室で作業をしていた三宅先生がすぐ出てきて雨宮先生を回収していった。
 
それが3月10日夜23時頃であった。
 
 
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【娘たちの危ない生活】(3)