【女の子たちのセンター試験】(1)
(C)Eriko Kawaguchi 2015-09-09
1月17日(土)。千里はセンター試験を受けに出た。
試験は9:30からである。試験会場は市内のH教育大旭川校なので、8時近くまで勉強してから女子制服に着替え、美輪子に出勤のついでに旭川駅まで車で送ってもらい、JRで試験会場に入る。
「叔母ちゃん、こないだふと思ったんだけど、私男子制服はどこにやっちゃったっけ?知らないよね?」
「ん?それ、るみちゃんにあげたじゃん」
「へ?」
「2年生の頃、一度るみちゃんが遊びに来た時、千里の部屋に男子制服が掛かってるの見て、千里これもう使わないよね、僕にちょうだいなんて言うから、千里、『うん。持ってって』と言ってたじゃん。それ聞いて、私はとうとう千里も男には戻らないことを決めたんだなと思ったよ」
「え〜?そうだったっけ?」
と言ってたら、後ろで《きーちゃん》が『あっ』と言ってる。
どうも《きーちゃん》が自分の身代わりを務めてくれていて千里はどこかで何かしていた時に留実子が来て、その時、留実子がお持ち帰りしたのだろう。それをうっかり自分に伝えておくのを忘れていたんだろうなと千里は判断した。
「あ、思い出した。そうだったね」
と千里。
「るみちゃん、その場で試着してたけど、男子制服似合うよね」
と美輪子。
「うん。あの子、しばしば男装して彼氏とデートしてるから、知らない人からはホモだと思われているみたい」
「まあいろんな愛があっていいんじゃないの?」
「そうだよねー」
と言いながらも、千里は自分と貴司の愛も普通の愛とは少し違うかも知れないなと思った。
9:00前に会場に入る。蓮菜・鮎奈・京子・花野子たちと同じ教室であるが、お互い手を振ったりしただけで、おしゃべりしたりはせずに各々集中して最後の要点確認をする。
初日の「公民・地理歴史」、まどろっこしい言い方をしているが要するに社会は2科目選択する。千里は政経と世界史を選択した。政経の方が高得点を狙えるので政経を先に回答する。
どちらもだいたい満足できるような回答をして、余った時間は机に俯せになって頭を空っぽにし、束の間の休息を取った。
お昼は休憩室に指定されている食堂に行きお弁当を食べる。おかずにトンカツが入っている。「勝つように」というおまじないだ。更にキットカットが1つ添えられている「きっと勝つ」というおまじないだ。千里は微笑んだ。
見ていると、おしゃべりしながら食べている子、午前中の試験の分からなかったところなどを聞き合っている子たちもいるが、千里はひとりで心を空っぽにして食べていた。参考書を片手におにぎりを食べている子もいる。あれは勉強しながら食べられるようにおにぎりにしてもらったのだろう。でも千里はお昼は頭をいったん空っぽにした方がいいと思っていたので、ふつうのお弁当にしてもらった。
少し離れた所にいた男の子と目が合った。向こうが手を振るので誰だっけ?と思ってよく見ると夏恋だ! 男装してきたの!?
「誰かと思った。なんで男の子なの?」
と千里は《ささやき声》で尋ねる。
「千里、声どうしたの?」
「ちょっと喉が痛くて。風邪薬は飲んでるんだけど」
「お大事にね」
「うん」
「でもこれ男の子に見える?」
「見える!」
「スカート穿いてるのに」
「あ、ほんとだ。でもスカート穿いてても雰囲気的に男の子」
「まあスカート穿く男の子もいるしね」
「うん、たまにいるよね」
「いや制服で受験するつもりがうっかり一昨日クリーニングに出しちゃってまだ返って来てないんだよね。それで適当なの着て来たんだけど、教室でも『あんた受験票の人と違うんじゃないの?』と試験官に言われた」
「ああ・・」
「近くの席に明菜が居て、間違いなく本人ですと証言してくれたんで助かった。バスケット選手なんですよと言ったら結構納得してた。バスケ協会の会員証も見せたし」
「あ、あれは結構使えるよね。でも髪も短いし」
「昨日髪切りに行ったら、ちょっと短くされすぎちゃったんだよねー」
「夏恋は別に男の子になりたいとかは無いんだよね?」
「お前男じゃないの? チンコ付いてるだろ?とかはよく言われたけど、自分としては女の意識だよ。男だったら良かったのにと思ったことは結構あるけど女の子が普通に思う程度のものでGIDではないと思う」
「スポーツ少女にはその程度はふつうに居るよね」
「うん。でも、中学高校の6年間、どこに行くのにも制服か体操服・ユニフォームだったから、私服がほとんど無かったのよね」
「ああ、ありがちありがち」
「しかも私、ふつうの女の子の服がサイズ合わないんだよ」
「そっかー! 暢子なんかも大変みたい」
「それでそもそもメンズの服とか、ユニセックスの服ばかりで」
「それでそういう格好になってしまったのか」
「お母ちゃんが私の服着てみる?と言ったから着ようとしたけど無理だった。全部ヘソ出しルックになってしまう」
「この時期にヘソ出しは寒すぎる」
「大学に入ったら少し服を買いそろえなければ」
「頑張ってね」
午後からは国語、そのあと英語であった。英語はペーパーテストの後にリスニング問題も行われた。
翌18日は、最初の時間帯の理科基礎は受験しないので11:20からの数学1から受けてお昼を食べた後、午後は数学2、理科2と受ける。理科2は2科目選択なので、物理と化学で受けた。
理科の2科目目は16:40-17:40の時間帯で受けたが、千里は化学の試験は40分ほどで書き上げ、17時半頃に会場を出た。タクシーで旭川駅に移動し18:00のスーパーカムイ46号に乗って札幌方面に行く。この列車は新千歳行きで札幌から先はエアポート192号と名前を変えるが、この車内で札幌から新千歳に移動中の岐阜F女子高のメンツとお見送りをしている旭川N高校の部員数名をキャッチする。札幌P高校の歌枕・渡辺もいる。
「お疲れ様〜」
「わあ、村山さんもお疲れ様〜」
「みんなどうだった?」
「取り敢えず今年のインターハイの北海道代表は札幌P高校と旭川N高校だろうと確信しましたよ」
などとF女子高の晴鹿が言っている。この場に旭川L女子高の部員が居ないから言えることという気もする。
実は千里たちがセンター試験を受けていたこの週末、昨年に続いて今年も愛知J学園を北海道に招いて迎撃戦が行われたのである。
今回は岐阜F女子高も招いて、岐阜F女子高・愛知J学園・札幌P高校・旭川N高校・旭川L女子高の5チームによるリーグ戦がこの土日に札幌P高校の体育館で行われた。今回「北海道氷雪杯」という名前も付きスポンサーも付いている。各校Aチーム・Bチームを編成し、Aチーム戦の合間にBチーム戦も行った。Aチーム戦は中央に1コート1試合、Bチーム戦は2面取って同時に2試合おこなう。
17日800 B(JP.FN) 920 P-N 1040 B(JN.FL) 1200 J-F 1320 L-N 1430 B(JF.PL) 1650 F-P 1710 J-L
18日800 F-L 920 B(JL.PN) 1040 J-N 1200 P-L 1320 B(FP.NL) 1430 F-N 1650 J-P
18日の最後の試合終了後全員で札幌駅近くのホテルに移動して表彰式兼夕食兼打ち上げをしている。
バスケット協会からの「強い要望」により愛知J学園と岐阜F女子高が乗る飛行機は(万一事故が起きた時に両校全滅の事態を避けるため)分けてくれということになったので、来る時は
16日 J学園 中部1645(ANA)1825新千歳 F女子高 中部1750(ANA)1930新千歳
を使用して、帰りは
18日 J学園 新千歳2030(JAL)2205羽田 F女子高 新千歳2055(JAL)2230
を使用している。J学園のメンバーにはL女子高の部員が数人、F女子高のメンバーにはN高校の部員が数人、新千歳空港まで付いていき「お見送り」をしている。P高校は会場の片付けなどもあって大変だろうということで見送りは免除なのだが、実際にはJ学園には猪瀬・伊香、F女子高には歌枕・渡辺が付いてきたようである。
無料公開する大会だが録画は禁止とした。しかし観戦した北海道バスケット協会の会長さんが「これはお金を取って見せてもいいゲームだ」などと言っていた。実際大学生やクラブチームの見学者もかなりいた。
今年は全校2年生以下のチームで参加したが、J学園の加藤絵理・夢原円、F女子高の鈴木志麻子・神野晴鹿、P高校の渡辺純子・伊香秋子、N高校の絵津子・不二子・ソフィア、L女子高の風谷翠花・黒浜玲麻など、どのチームも1年生が大活躍であった。一応の勝敗表はこのようになった。
\J F P N L 勝敗 得失
J -- 74 64 72 68 2-2(4) -3
F 78 -- 55 81 64 3-1(2) +16
P 74 58 -- 83 70 3-1(1) +18
N 69 76 84 -- 65 2-2(3) 0
L 60 54 64 58 -- 0-4(5) -31
N高校は初戦のP高校戦では今回絵津子が渡辺純子に圧勝したことと、結里と智加が競い合うようにスリーを入れたことで1点差で辛勝したものの、J学園戦では揚羽・耶麻都・紅鹿といったセンター陣がJ学園のセンター夢原さんにリバウンドで圧倒的に負けたのが響いて3点差で負けた。またF女子高戦でも留学生センター・アヤさんに全く歯が立たずにこちらは5点差で負けた。インターハイに向けてセンター陣の強化が緊急課題であることが浮き彫りになった。やはり184cmの留実子の穴は簡単に埋められない。
結局、得失点差を入れて1位P高校、2位F女子高、3位N高校、4位J学園、5位L女子高である。
F女子高の面々は搭乗手続きは早く済ませてあるので、空港に入るとロビーで少しお見送りの子たちとおしゃべりをした。
「村山さん、声どうしたんですか?」
とF女子高の晴鹿に訊かれた。
「うん。ちょっと喉を痛めたみたいで。聞き取りにくい声でごめんねー」
と言っておく。千里は無声音で話している。いわゆる《ささやき声》だが、ここ数日の練習で、結構な距離でも聞き取れるくらいにボリュームアップしている。
「この時期体調崩しやすいですよね。お大事に」
「ありがとう。でもえっちゃんと純子ちゃんが丸刈り頭で並んでいるとインパクトあるなあ」
と千里が言うと
「丸刈り仲間がまた増えたんですよ」
と絵津子が言う。
「え〜〜?」
「J学園の新キャプテン篠原さんが丸刈りにしちゃいました」
と2人の隣に立っていたF女子高の鈴木志麻子が言う。
「なんで?」
「4位になったからと」
「女子高の生徒が丸刈りしてたら、校門で警備員さんに男かと思われて咎められたりして」
と不二子。
「ああ、そういう事例はあったらしいです」
と志麻子。
「そもそも4位で丸刈りにしたら5位のチームはどうなるのさ?」
「大波さんが悩んでたから、絶対に早まったことはしないように、とみんなで釘を刺しました」
「ああ。大波さんはお嬢様なのに、丸刈りにしたらお母さんがショック死するよ」
岐阜F女子高のメンバーは20:55(JAL548)羽田行きに搭乗するのに20時半頃に手荷物検査場に消えたが(東京で1泊して月曜日の早朝の新幹線で帰還する)、この時実は神野晴鹿はトイレに行くような顔をして離脱し手荷物検査場は通らなかった。
そしてN高校の絵津子はこの遠征組の次の21:25(ADO28)の便で羽田に向かったのである。絵津子をお見送りしたのは、千里と不二子・ソフィア、そして晴鹿の4人である。絵津子は他の岐阜F女子高のメンツに30分遅れで彼女らが宿泊しているホテルに入り、翌朝は一緒に岐阜へと向かった。
そして旭川では月曜日早朝から千里の「シューター教室」が再開された。
生徒は、前回参加した結里・昭子・智加・ソフィア・晴鹿に加えて、ウィンターカップですっかりスリーに自信を持った久美子、そして4月に新入生で入ってくる予定の宮口花夜(かよ)である。建前的にはN高校の体育館を借りて開いている一般向けバスケット講座に参加しているという形にした。
一応「講座の参加条件」として5mの距離から10本シュートを撃って6本以上入れることとしたが、この7人は全員この「入学試験」をクリアした。特に晴鹿と智加は10本全部入れた。智加が全部入れたのを見て1本外してしまった結里が焦っていた。
このシューター教室の初日、千里は夏まで使っていた古いバッシュを履いていたのだが、この日の午前中に、年末にオーダーを入れていたN社の新しいバッシュが到着し、お昼休みにウィンターカップの選手15人に配られた。
千里は早速履いてみたが、まだバスケ続けてもいいかな、と思いたくなるほどの素敵なフィット感であった。
なおセンター試験の結果は自己採点した点数を大手予備校などが公開しているシステムで確認した所、千里は志望している千葉のC大学理学部でA判定であったので、安心してC大学に願書を提出した。C大学理学部では社会は1科目だけ使用されるので、千里は前半に回答した政経の点数が使用されることになる。センター試験と無関係な□□大学の方は既に願書は提出済みである。
ちなみに願書を提出する時は、C大学の分も□□大学の分も、父に署名してもらった時に鉛筆で性別・男に○をしていたのを消しゴムで消して、ちゃんと女に丸を付け直して提出した(私文書偽造)。千里は高校の学籍簿も女になっているし、センター試験の性別も女になっているので、性別は女で通すしか無いのである。
この1月下旬の時期は、一番大きな山場であったセンター試験が終了し、次の山場となる□□大学医学部入試に向けて、更に勉強をしながら毎朝と放課後にシューター教室をやっていた(放課後の教室には中学生の花夜は参加しない)。
学校の授業自体は、この時期出欠も取らないし私立の受験で転戦している子もあることから出席している生徒は半分くらいである。千里も苦手科目は先生に色々聞きたいのもあって出ていたが、そもそも受験科目ではない社会と国語の授業には出ずに図書館で勉強していた。図書館のいい所は声を掛けられることが少ないことである! 千里としては極力他の子と「声」を交わしたくなかったのである。
おかげでこの時期に千里に「声変わり」が来たことを知っていたのは蓮菜と鮎奈の2人だけであった。風邪が流行っている時期ということもあり、先生たちの中には気づいた人はいなかったようである。特に宇田先生などには知られてはいけないと千里は考えていた。千里に声変わりが来たということになれば、性別問題で面倒な話が出てくる危険がある。
『あんたたち、どこに行ってたのよ?』
と千里は、やっと帰って来た《とうちゃん》《せいちゃん》《げんちゃん》《こうちゃん》に言った。
『どこって、出羽に治療に』
と《こうちゃん》が言うが
『それ、嘘はもうバレてんだけど』
と千里が言うと
『ごめーん』
と《こうちゃん》が答える。
『一応、主犯は俺だから。他の3人は俺に付き合わされただけで』
『ふーん。自分で責任を取るのは殊勝である』
『でも、絶対千里のためになることだからさあ』
『まあいいか。んじゃ、私が受験終わるまでは好きにしてていいよ。私もその件に関してはしばらく頭が回らないからさ。どっちみち声を何とかしないとどうにもならないから』
『聞いたけど随分苦労してるみたいだな。でも千里はきっと女の声を取り戻せるよ』
『考えてみたんだけど、私が女の声を取り戻せなかったらタイムパラドックスが発生しちゃうんだよね。だから取り戻せるんだろうけど、どうやって取り戻すかは自分で試行錯誤するしかないからね』
『うん。頑張れよ。じゃ俺はもう少し工作を続ける』
『はいはい。ただし相手の女の子を殺したり大怪我させたりしたら1ヶ月メシ抜きだからね』
『1ヶ月も?しょうがないから自粛するよ。さ、青龍、玄武、また行くぞ』
と《こうちゃん》
『また行くの〜?』
と《せいちゃん》は明らかに嫌がっている。
『今度は可愛い女子中学生とかに変装させてやるからさ』
『嫌だ、もう女装するのは嫌だ!』
と《せいちゃん》は言うが
『俺は悪くないなあ。女子トイレにも女子更衣室にも入れるし。下着姿見放題』
と《げんちゃん》は言っている。
痴漢か??
『あんたたち何やってんの?』
『俺は行かなくてもいいよな?』
と《とうちゃん》が言っている。
『すみません。騰蛇さんはまた何かあった時、よろしくお願いします』
ということで結局、《こうちゃん》は《せいちゃん》《げんちゃん》と一緒に再び大阪に向かったようであった。
その日の夕方、千里が美輪子とふたりで晩御飯を食べていたら、家電に電話が掛かってくる。この日、美輪子が代引きで頼んでいた荷物が来ることになっていたので、美輪子はてっきりその在宅確認の電話かと思ったようであった。
「はいはい」
と言って取ったが、何かしかめ面をしている。ん?と思って千里が聞いているとどうもセールスの電話のようだ。美輪子が「いえ、要りませんから」と言って切ったのだが、また電話が鳴る。
美輪子は迷いつつも取ったのだが、今切ったセールスの電話のようだ。切られてもまた電話してくるなんて、酷いやつだ。それで美輪子は「いい加減にしてください」と言って、再度電話を切った。しかしまた電話が鳴る。
千里は席を立つと、代わりに電話を取った。
「あんた、そう邪険にしないでよ」
などと向こうは言っている。なんか人に物を売る人の態度じゃないなぁ。そこで千里は男声のわざと低い部分を使って言った。
「お前、誰?」
すると相手はこちらが男が出たので、ちょっとビビったようである。
「あ、いえ、ご主人様でございますか。当方は**プランニングと申しまして。そちら様では、将来の生活設計にご不安とかはございませんでしょうか」
相手はなかなか要件を言わずにまどろっこしいトークをする。
「何の用事?」
とドスの利いた声で言う。
「はい、最近しばしば将来の不安はあるのに銀行の定期預金とかはあまりにも利子が少なくてとおっしゃる方が多くてですね」
相手はあくまで目的を言わない。
「名前を名乗りなさい。要らないと言っているのにこれ以上掛けてきたら消費者生活センターに通報するから」
「あ、いえ、その・・・」
「じゃ切るよ」
と言って千里は電話を切った。
するともう掛かってこなかった。
「千里、ありがとう。男の人がいるって便利ね」
「賢二さんと結婚しなよ」
と千里はここの所使っている《ささやき声》に戻して言った。
「そうだなあ。あいつも一応男かも知れないし」
「あれは付いてるんでしょ?」
「うん。付いていることは月に数回は確認してる」
芦耶はイライラしていた。
これまで「頻繁に目撃していた」貴司の本命恋人っぽかった女子高生の姿をもう1ヶ月近く見ない。貴司にそれとなく訊くと言葉をにごすものの、どうも本格的にそちらとは破綻したのではないかと芦耶は考えていた。
それなら自分が本命の座に座れそうなのに、貴司が凄まじく浮気をしている風だからである。
ここ1ヶ月ほどの間に貴司の周囲で見かけた女性は10人近い。ずっと見かけていた女子高生とは明らかに違う制服を着た女子高生、19-21歳くらいの大学生か専門学校生という感じの子、25-26歳くらいのOL風の女性、更には和服を着た30代(?)の女性まで見た。しかも自分には仕事があるからとか練習があるからなどと言ってデートの約束を断った上で、そういう子たちと会っているようなのである。
さすがにあの和服の女性は恋人候補ではないかも知れないが、なんか突然こういうのが増えてないか?
もしかしたら今まで例の女子高生に使っていたエネルギーが余ってしまって、手当たり次第に手を出しているのかも? だったらそのエネルギーを私にそそいで欲しいのに〜。
取り敢えずデート代わりにと思い、2月1日(日)のKARION大阪公演のチケットを2枚押さえた。年末には仕事が入って空振りになってしまったものの日帰り旅行に応じる姿勢を見せてくれたし、一応自分は恋人とみなされているのかなあ、と思う。ライブが終わった後は思い切ってホテルに誘ってみようかなあ、と芦耶は思いをはせ、その先の想像をすることで自分の心のイライラを抑えようとしていた。避妊具も買っちゃおうっと。
貴司は正直迷っていた。
現時点では声変わりが来てしまったらしい千里と「恋人」ではいられないと思っている。それで電話してお互い友だちであり続けることは同意した。
それで考えてしまったのが芦耶との関係である。
そもそも貴司は芦耶と恋人になるつもりでいた。以前から千里は新たに恋人を作ってもいいよと言っていたしと思うのだが、どうも芦耶との関係は誰かに邪魔されている感覚がある。
千里が近くに居るのなら千里自身が邪魔しているのだろうと思うのだが、千里がどんなに「浮気を見付ける名人」であっても、北海道に居て大阪の自分の浮気を防ぐのは無理だろうから、ただの偶然なのだろうとも思う。
それで結局この数ヶ月、貴司の心の中では千里と芦耶が天秤に掛けられていたのである。ところが千里との恋愛関係がいったん消えてしまった今、芦耶との関係をもっと進めてもいいのか、迷ってしまうのである。
「なんか彼女とホテルに行こうとしたら絶対邪魔が入りそうな気がするなあ」
と貴司は独り言をつぶやいたが、その近くでその貴司の言葉に頷く影があることに貴司は気づかなかった。
1月31日(土)。千里は旭川955(JAL)1140羽田の便で東京に出た。機内ではずっと勉強していたが、こういう所で勉強するのって結構よく頭に入る、というのを千里は自覚した。羽田から京急と地下鉄を使い、赤坂にあるコンサートホールに行く。バックステージパスで裏口から入る。
「やっほー、美空ちゃん」
「やっほー、千里さん」
と声を交わしたのだが
「千里さん、声どうしたの?」
と美空から言われる。
「うん。ちょっと喉を痛めたみたいで。風邪薬しっかり飲んでるし、みんなには移さないように本番中以外はマスクしてるから」
「OKOK」
リーダーの和泉、そして小風にも挨拶する。事務所の社長・畠山さんと三島さんにも挨拶する。三島さんは「お久しぶり〜」と言っていた。なお、この時点で和泉・小風も、畠山さんも千里が醍醐春海であることを知らない。単に雨宮先生から紹介してもらった代理伴奏者ということになっている。
バンドの人たち、グロッケン奏者とヴァイオリン奏者、コーラス隊の子たちにも挨拶する。譜面が変更になったりしている点が無いか尋ねると黒木さんが自分のスコアと比べながらチェックしてくれた。
今日の千里のお仕事は、このコンサートの前半の全てと後半の一部でピアノ又はキーボードを弾くことである。この日、蘭子は後半からしか入ることができないらしい。
15時からリハーサルをするが渡されたヴェネツィアンマスクに戸惑う。
「これ付けるんですか?」
「そうそう。ちなみに衣装はこれ。今回は全員同じ衣装で、これで顔を隠すから誰が誰だか分からない。年齢性別不明」
なるほど。そのみんなが同じ格好をしている所でうまく蘭子を出し入れする訳だ。
蘭子に『優視線』のピアノを弾かせることはどうも最初から決めてあったようである。
和泉は本番直前に楽屋に入ってきた蘭子に今日のピアノよろしくね、と言って衣装と譜面を渡すと、蘭子が「今日は観客だから」と言って断る。すると和泉はこんなことを言った。
「じゃ『優視線』のピアノだけでも弾いてよ。あの間奏の神プレイの所は今回頼んだピアニストさんも譜面見て『すみません。これは私には弾けません』と言ったから簡易な間奏に差し替えようかとも言ってたんだけどさ。お客さんはCDやPVを聴いてあのプレイを聴きに来てると思う。だからやって欲しい。これはKARION公演を聴きに来たお客さんのためだよ」
そんな簡易版の譜面など見てないし、私も『弾けません』とも言っていないのだが(リハーサルでは適当に誤魔化して弾いた)、蘭子に承知させる方便なのだろう。しかし蘭子は黙って和泉の言葉を聞いていた。
「分かった。そういうことなら、やる」
と彼女は答えた。それでまた楽屋から出て行った。
どうも彼女は今日はマリを連れてこのライブに来ているようである。彼女はどうもKARIONとローズ+リリーの二股をしていくつもりのようだが、いわば恋人連れで別の恋人に会いに来たようなもので、まるで東京体育館に彼女を連れて来た貴司みたいだなと千里は思った。
結局蘭子は『優視線』だけを弾くことになったので、他の曲は全部お願いしますと言われて千里は了承した。
本番前にコーラス隊の子たちと話していた和泉と黒木さんが難しい顔をして千里の所に来た。
「済みません、村山さんでしたっけ? あなたソプラノで歌がうまいそうですね」
「あ、はい」
「実は今日のライブでは蘭子の歌唱パートは大半をコーラス隊のアユちゃんに歌ってもらうんですけど、彼女、この『優視線』のここのC6音を出す自信が無いというんですよ。出る時もあるけど安定しては出ないらしいんですよね。リハーサルの時はちょっと誤魔化し気味に歌ったということなのですが」
「気づかなかったですね」
「まあ和泉ちゃんがその上のE6音を出しているから、音を出さなくてもみんな気づかないといえば気づかないんですけどね」
「蘭子ならD6まで出るので、それ前提で歌唱パートが書かれているんですよ」
「なるほどー」
「それで今ちょっと美空ちゃんと話してたら、村山さんはE6まで出ると聞いたので。それでこの優視線はピアノを蘭子ちゃんが弾くし、この曲だけ蘭子ちゃんのソプラノ2パートを村山さんに歌ってもらえないかと思って」
うーん。それは声変わりが発生する前までの話だなあ、と千里は思う。
「すみません。普段なら出る所なんですけど、ちょっと今喉を痛めていて」
「あ、確かに何か、かすれ声ですね」
「やむを得ない。ここは適当に誤魔化しちゃおうか」
「ですねー。私がその上の音を歌っているからこの音だけ出てなくても、耳の良い人以外には分からないかも」
「お役に立てなくてごめんなさい」
「いえいえ」
やがて開幕する。
千里は大勢の前で演奏するということ自体は、市民オーケストラの公演に何度も出ているし、合唱コンクールの助っ人にも出ているので、今更全く平気である。しかしポップスのライブというのは、クラシック系のオーケストラの公演や合唱コンクールとは、まるで違う雰囲気だなと思った。
微妙な約束事が違うところもあるが、そのあたりはノリと度胸で何とかしていく。またKARIONはポップスとしては、割とクラシックに近い面もあるようで、ピアノやキーボードを演奏していても気分的に楽だった。
ステージに立っていると結構客席のひとりひとりの顔は見えるものである。これは市民オーケストラの公演の時も思っていたのだが、千里は少し場に慣れてくると、客席のあちこちを見ていった。
すると客席の最後部、あそこは本来見切り席なんじゃないかと思う場所に冬子と政子が並んで座っているのに気づく。なるほどー。目立たないようにあの場所に座らせたのかなと千里は思った。
演奏は曲によって使用する楽器のラインナップが違うので、持ち替えもあるし、ステージに出て行く演奏者、引っ込む演奏者も曲ごとに発生する。千里もピアノが不要な曲でステージ脇に下がって束の間の休憩をしたりもした。
ライブは進んで、あと2曲という所まで来る。ラスト前の曲『サダメ』を千里が電子キーボードで弾いて、千里はステージ脇に下がる。ヴェネツィアン・マスクを付けた蘭子が代わりに出ていきグランドピアノの前に座る。
和泉のMCに続いて最後の曲『優視線』を演奏するが、蘭子のピアノは素晴らしかった。さっすが。これがプロの演奏だな、と千里は思った。
演奏を終えて幕が下りる。下がってきた蘭子に千里は思わず声を掛けた。
「凄いです! こんな演奏を生で見られて、私幸せです」
と千里は男声のまま蘭子に言った。《ささやき声》ではこの歓声の中では聞こえない。またこの歓声の中では男声を使っても他の子にはあまり聞こえない。
「いえいえ。まだ未熟者なので。これからも研鑽します」
と蘭子は答えるが、蘭子は自分のことを男と思ったかも知れないなとは千里は思った。今日の衣装は性別も曖昧である。
「頑張ってください。私も大きな目標ができました」
と千里は言う。
「そちらも頑張ってください。それじゃ『Crystal Tunes』お願いします」
と蘭子は笑顔で言っている。
「はい」
と千里も返事した。
蘭子はその1曲で下がって客席に戻って行ったので、アンコールではまた千里がキーボードを弾く。ファーストアンコールでは『小人たちの祭』を演奏したが、自分が書いた曲をこういう所で自分で演奏するのは、ちょっと面はゆい感じだ。
そしてセカンドアンコールは蘭子にも言われた『Crystal Tunes』である。この曲はグランドピアノに移って弾いたが、こういう静寂なホールで数百人の前でスタインウェイのコンサートグランドを弾くのは、ちょっとした快感だな、と千里は思った。
その日は事務所側で用意してくれている都内のホテルに泊まる。
KARIONはライブは満席であったがCDはあまり売れていないようで、メンバーも1人1万円程度のホテルに泊まっていたようであるが、千里たちスタッフは更に安い多分6-7000円程度かなという感じのホテルであった。しかしお正月にオールジャパンを見に来た時に泊まった2人で5800円のホテルよりは随分マシである!
取り敢えず部屋にユニットバスではあるがお風呂が付いているのはありがたい。千里は今、大浴場などに行った場合、何かでうっかり声を出してしまったような時に「まさか男?」と思われる危険があるのである。
取り敢えずバスタブに身体を横たえてあちこちマッサージなどしていると自分の女体って結構美しいよなと思う。なんか美鳳さんが千里に欲情でもしたかのようなこと言ってたけど、これ結構自分でも惚れちゃうかもと思った。取り敢えずおちんちんは無いし、割れ目ちゃんはあるし、おっぱいはあるし。やっぱり女の子になって良かったなあ。
お風呂からあがった後は、例の「女声を取り戻すための参考音源」をヘッドホンで聴きながら、問題集を開いて過去の□□大学の入試問題を解く。千里は今回のKARIONツアー参加って、意外に集中して勉強できる時間がたくさんできて良かったかもと思い始めていた。
翌日はホテルのサービスの朝食を食べてきた後、チェックアウト時刻ぎりぎりまで勉強をしてから、10:50の《のぞみ》で大阪に移動する。新幹線の中でもずっと松田聖子を聴きながら勉強していた。
14時過ぎに会場に入り、今日も15時からリハーサルをする。
今日も蘭子は『優視線』のピアノのみを弾くことにするそうである。
「彼女歌わないんですか?」
と訊いてみたら
「実は今日までは契約上の問題で歌えないんですよ。楽器演奏のみOK。明日からは歌唱もできるので、今週末のライブからは歌わせるつもりです」
と畠山社長は説明していた。
その日貴司は芦耶から誘われたコンサートに一緒に行くことにした。KARIONという名前を見て最初「カーイオン?」と読んで「カリオンだよ!」と言われる。「ごめーん。女の子アイドルの名前、全然分からなくて」と言ったら「もしかして男の子アイドルが好きだとか?」と芦耶から訊かれる。実は芦耶はずっと自分の身体に手を出さない貴司について、ひょっとしてホモってことはないよね?という疑惑も感じていたのである。
しかし貴司は「え?男の子のアイドルとかもいるんだっけ?」と答えたので、その疑惑はいったん保留となる。
昼間少し練習に出るということだったので、それが終わる16時頃、練習場の体育館前で待ち合わせ、早めの夕食を兼ねて最近人気らしいお寿司屋さんに行った。
「これちょっと早めのバレンタイン」
と言ってチョコレートの箱を渡す。ゴディバのスペシャル版の大箱で清水の舞台から飛び降りるつもりで14,000円もの投資をして購入したものである。バレンタイン用の特別ラッピングもしてもらっている。
「わあ、ありがとう。僕、甘いもの大好きだから」
と言って笑顔で受け取ってくれる。
それでお寿司をつまみながらあれこれ話して、17時半頃お寿司屋さんを出てコンサート会場に入った。
19時。
KARIONの大阪公演が始まる。
千里は今日も蘭子は客席で見ているのかなと思って演奏しながら客席を探してみたものの、今日は蘭子は居ないようであった。自分の出番の時までには来るのであろうが。
それでも何気なく客席に視線を泳がせていた時。
千里はとんでもないものを見てしまった。
貴司が20歳前後の女性と並んで座っていて、どうも雰囲気的に「恋人」っぽいのである。千里は、あんにゃろーと怒りが込み上げてきた。
でも考え直してみると、自分は声変わりしてしまったので恋人の座を降りると言った。だったら貴司が誰と付き合おうと自由だ。
しかし貴司はこないだの電話で、千里が女声を取り戻すことができたらまたふたりの関係を考え直したいと言った。それなのに、もう恋人を作ってそれをわざわざ私に見せつけるなんて!(別に貴司はこのライブに千里が出演しているとは知らない)
千里は何か自分の論理が破綻しているような気もしたのだが、とにかく不愉快なことは確かである。そしてその不愉快な気分でもやもやしていた時、曲がクライマックスに達する。キーボード・パートに少し難しいくだりがある。そこを気合いを入れて弾く。その間、(アユを含めた)4人の歌声が盛り上がっていく。
そしてその上昇のピークに達した時、千里の頭の中で何かがコトッと音を立てたような気がした。
どこか外れていたスイッチがきちんと入ったような感覚。別の表現をすると、何か置きっ放しにしていた物を棚の上にちゃんと置いたような感覚であった。
千里はその時キーボードを弾きながら自然に声を出していた。
「アーアーアー!」
とコーラスの子たちと同じ音を歌う。キーボードは直接PAにつながっており、ピックアップで拾っている訳ではないので、千里が歌っても影響は無いはずと思ってノリで声を出してしまったのだが、それを歌った時千里は
え!?
と思った。
今自分が出した声がソプラノのような気がしたのである。
その先を弾きながらさっきの所を思い出す。さっき弾いた所はミソラ(E5G5A5)だ。音は確かに合っていたと思う。オクターブ下を歌ったのではないはず。この音域はまちがいなくソプラノの上の方の音だ。
まさか女声が出た!?
その後2曲弾いたところでライブは休憩に入る。ゲスト・アーティストがカラオケで持ち歌を歌う。そこで千里は女性用控室に置かれているキーボードを使って、さっき出た声がもう一度出るか試してみた。
「アーアーアー」
とおそるおそる歌ってみる。これは間違い無くソプラノの声だ。出た!?
この声って裏声とは違うと千里は思った。
出す時の感覚が裏声とは明らかに違う回路を経由しているのである。裏声がたとえて言えば喉の最奥部を細く使って水道の先に付けたホースの口を絞って出しているような感覚なのに対して、この時出た声は喉より更に後ろ、首の後ろの筋肉中?付近を通して、ストレス無くスムーズに声を出しているかのような感覚なのである。出す時の感覚はむしろふつうの実声を出す感覚に似ている。喉の負荷はほとんど無い。ただし経路が違う感じだ。
それに、裏声はちょっと金属っぽい感じがある。でもこの声はもっと柔らかい声だ。念のため自分の携帯でその声を録音して再生してみたが、ちゃんと女声のソプラノに聞こえる。勘違いではない。
千里は今出している声の出し方の感覚を忘れないようにしなければと思った。そのままキーボードを弾きながら音を上げ下げしてみる。
E5からアーアーアーアーと少しずつ音を下げて行く。下の方はG4まで出た。F#4はやや不安定。F4を出そうとすると突然喉の下の方が震えて男声っぽくなるので慌てて止める。そこからまた1音ずつ上げていく。E5は割と楽に出る。どうもC5-G5付近がいちばん出しやすい感じだ。
そしてアーアーアーと少しずつ上げていくとA5までは楽に出て、B5は最初やや不安定であったものの、少し時間を掛けて出していると、きれいに出るようになる。いったん下に下がってまた上がっていくとB5、そしてC6まで出たが、C#6は全く出ない。空振りするような感覚になる。しかしC6はちゃんと出ることが確認できた。
でもこれ練習していたらもう少し上まで出そうな気がする。
そんなことをしていたら、コーラス隊のソプラノ担当で、今日蘭子のパートを代理歌唱しているアユちゃんが寄ってくる。
「村山さん、凄くやわらかくて魅力的な声ですね」
と言う。
「実はここ1ヶ月くらい喉の調子がおかしくて、まともな声が出なかったんですよ」
と答えた千里は、自分がちゃんと女声で話していることに気づく。ただしこの声は1月12日まで使っていた声とは結構雰囲気が違う。割とお姉さんっぽい声だ。
そして話している時、この声が胸の少し高い部分から出てくる感覚だった。今までの実声が胸の乳首付近の高さから出てきていたとすれば、この声は胸のブラジャー上端から更に2cmくらい上の付近から出てくる感覚なのである。ただ今までの実声よりボリュームが小さい。
「でもさっきの『Snow Squall in Summer』の盛り上がり部分で、私もキーボード弾きながらノリで声を出しちゃったら、ちゃんとした声が出たような気がしたんですよね。それでちょっと今確かめてみたんです」
と千里は続ける。
「音域どこまで出ます?」
「今の所G4からC6までみたい。オクターブ半くらい。やはり出る範囲が狭い。まだ本調子じゃないみたい」
「いや、その音域が出るなら『優視線』のソプラノ2が歌えるはずです」
「あ、そうかな?」
「ほら、これがスコアですけど、『優視線』のソプラノ2はこのF4が最低音でここのC6が最高音なんですよ」
「わあ。でも私F4今日は出ませんよ」
「このF4はA4で代用しても和声上問題無いんです」
「あ、ほんとだ!」
「だからG4まで出せたらこのパートは完璧に歌えるんですよ」
「なるほどー」
「私は逆に上のC6が自信無いんです。確実に出るのはB♭5までで。C6も時々は出るんでリハの時やってみたら、空振りしちゃったんですよ」
「そうおっしゃってましたね!」
空振りというのは自分ではその音を出したつもりが実際の声が出てくれない現象で高音域を歌っていると、その時の調子次第で出るはずの音が出ないことがあるのである。
「黒木さんに話しますから、『優視線』のソプラノ2は村山さん、歌ってくれません?」
「やります!」
と千里は答えた。何よりも今この声の出し方を忘れないうちにたくさんリピートして、脳内に出し方を刻み込みたかったのである。
後半の出番のためちょうど男性控室から出てきた相沢さんと黒木さんを捉まえて急いで話し合い、問題のF4はA4で代替することにして『優視線』のソプラノ2(蘭子パート)を千里が歌うことになった。
その前の曲『サダメ』まで千里はキーボードを弾いている。『優視線』で昨日は千里は退場して蘭子が入って来てグランドピアノを弾いた。しかし今日は千里はその場に留まり、蘭子パートを歌うことになった。
ゲスト歌手の演奏が終わる。
KARIONと伴奏者がステージに戻ってライブの後半が始まる。
この後半でも千里はずっとキーボードやピアノ、オルガンなどを弾いた。そしてラストの曲『優視線』になる。千里はキーボードの所にいるがこの曲だけに出る蘭子はグランド・ピアノを使うので、千里はそのままキーボードの所に居てよい。アユがマイクを持って来てくれる。受け取って歌う。
出る!
ちゃんとソプラノの声が出る。
以前の声とは少し違うけど、まあいいよね。ちゃんと女の子の声だもん。音量が小さいのはやはり訓練だろうなあ(歌はPAさんがボリュームを即調整してくれたようである)。
そしてその時、千里は客席の貴司の隣にいたはずの女の子がいつの間にか居なくなっていることに気づいた。どうしたのかな?? トイレにでも行った?
『いいのか?あの子を下痢にしちゃうとか』
と心配そうに《げんちゃん》が会場の外の茂みで言う。
『あの子を殺したり大怪我させたりしたらメシ抜きって千里言ってたぞ』
『怪我させる訳じゃないから、このくらいはいいだろ? とりあえずこの状態じゃ、ホテルに誘うなんて無理だし』
と《こうちゃん》。
『確かに手っ取り早いお泊まりデート潰し策だな』
と《せいちゃん》は言う。
『でも毎回この方法使うの?』
『うーん。何度もは使えない気もするから、次はまた別の対策だな』
公演の後、KARIONの4人は最終新幹線(新大阪2120-2345東京)で東京に戻ったようであったが、スタッフはみんな泊まりになる。
ヴァイオリンの代替演奏者の長尾さんは車で来ているということで車で帰るということであった。
「村山さんはどちらですか? 私横浜なんですけど、もし方向が同じなら乗っていきません?」
と誘われる。
「私、北海道なんですけど」
「それは遠いですね!」
「大阪から帰る便は午後しかないから、新幹線で東京に出てから羽田から帰ろうかと思っていたんですけどね」
「あ、だったら羽田まで送って行きますよ」
「いいんですか?」
ということで彼女と一緒に帰ることになった。
「中心部は車駐められないから、少し郊外に出て夜食食べてから帰りましょうよ」
「そうですね」
それで彼女の運転するインサイト(初代 ZE1型)は北に向かうのだが、長尾さんは運転しながら微妙な微笑みを浮かべて訊いた。
「いや、昨日ももっとお話ししたかったんですけどね」
「はい?」
「雨宮先生から、ピアノの代理演奏者の男の娘を確保したから、ヴァイオリンはあんた弾いてなんて言われたもので」
千里は吹き出した。
「私もヴァイオリンの代理演奏者はちょうどうまい具合に可愛い男の娘がいたからあんたはピアノ弾いてと言われたんですけど」
と千里は言う。
「じゃ、村山さんも私と同類?」
「どうもお互いそうみたいですね」
「ちなみに身体はどこまで直してるの?」
「私は全部手術済みです。未成年なのでまだ戸籍は修正できないんですけど」
「すごーい。えらーい。私は実はまだ下は手術してないのよ。取り敢えず玉だけでも取りたいんだけど。おっぱいはCカップあるけどね」
「まだ去勢もしてないのに、そんなに完璧に女の子なのは凄いです。私、長尾さんがふつうに女の子にしか見えないから、結局男の娘じゃなくて普通の女性を使ったのかな、とも思ってたんですよ」
「それはこちらも同じこと考えていた。どう見ても村山さん、女の子にしか見えないもん」
「取り敢えず、《女の子》同士ということで、下の名前で呼びません?」
「うん。そうしよう。ついでにため口で」
「OKOK」
「じゃ。私は泰華(たいか)で」
「じゃ、私は千里(ちさと)で」
その時、車の進行方向前方に、大きなハートマークの電飾が見えた。
「あれ何だろう?」
「ああ。テレビで評判になった洋菓子の達人のお店だよ。バレンタインなんでああいうの出しているみたい」
「へー」
「あ、寄ってみる?」
「寄ってみたい!」
夜9時過ぎということで幸いにも駐車場が空いていたのでそこに駐める。お店の中に入ってみると、この時間帯というのに客が7-8人いる。流行ってるんだなあと思い、ショーウィンドウを見ていた。
「ちなみに千里ちゃんは彼氏は?」
「微妙な関係の人が1人」
「男性?女性?」
「たぶん男じゃないかなあ。ちんちんあるし」
「ふむふむ」
「泰華さんは?」
「アプローチ中の子がいる」
「性別は?」
「少なくとも外見上は女の子に見える」
「ふむふむ」
「私たちみたいな種族って、男の子が好きな子と、女の子が好きな子が半々くらいと思わない?」
「ああ、思う思う。私の知り合いの男の娘で、自分はオカマのレズって言ってた人いたよ」
「うんうん。世間ではオカマは男の人が好きなんだろうと思われている感じだけど、実際は両方あるんだよねー」
「そうそう」
それで見ていたら、何だか素敵な生チョコトリュフがある。
「すごーい。これ3個入りで1000円だよ」
「1個333円か。凄いですね」
などと言っていたら、お店のスタッフさんが
「そちらは1個300円で箱代を100円頂いております。こちらの5個入りですと300円×5+100円で1600円になります」
と説明してくれた。
「でも私の好きな人、チョコとか甘いもの大好きでさ。このくらいのチョコなら20個くらい一瞬で食べてしまいそう」
と泰華が言う。
「20個入りもお作りできますよ」
とお店の人。
「それだと6100円?」
「いえ。3000円以上は箱代サービスさせて頂いておりますので6000円です」
「へー」
「20個入りくらいどーんと贈ってあげようかな」
などと彼女は言っている。
「ちなみに最大何個入りまであるの?」
「一応、箱自体は100個入りまで用意致しております。先日テレビの番組で歌手の松原珠妃さんが作曲家の蔵田孝治さんに100個入りを贈っておられましたが、あれと同様の金箔を使った特別包装紙に包んでお渡し致します」
「ああ、見た見た! あのチョコか!」
と泰華は言っている。
「ちなみに100個入りだと3万円?」
「はい、そうです」
「さすがにチョコレートに3万円は出せないなあ。でも20個入りを贈っちゃおうかな」
と泰華が言った時、千里は唐突に「悪だくみ」を思いついた。
「じゃ私、100個入り買います」
「え〜〜〜!?」
「ありがとうございます。ちなみに20個入りにはこちらの赤いメッセージカード、100個入りにはこちらの金のメッセージカードが付けられますが」
「うん。書くからマイネームか何か貸してもらえます?」
「はい。各色フェルトペン揃えております」
千里は100個入りトリュフの金色スペシャルパックを受け取ると、泰華に千里中央に寄ってくれないかと頼んだ。
「うん。いいよ。千里(せんり)ICから環状線に乗って、そのまま名神に入ればいいし」
それで千里は泰華にマンションの前で待ってもらっていて、マンションの入口のロックを解除して中に入ると、33階までエレベータで上って、貴司の部屋、3331号室のドアノブにそのチョコの箱を掛けた。メッセージカードの中には言葉は書かずにピンクのフェルトペンでハートマークを描き、カードの外側にCHISATO という名前だけを書いた。
「お待たせ。ありがとう」
と言って泰華の車に再度乗り込む。
「彼氏と会えた?」
「ううん。留守だったみたい」
泰華は少し考える。
「ここオートロックのマンションだよね?」
「うん」
「不在なのにエントランス通れるの?」
「暗証番号知ってるから」
「うーん・・・・」
「チョコは玄関のドアノブに掛けて来た」
「あんたけっこうこのマンションに来てるんだ?」
「まだ今日で3度目だよ」
「ちなみに彼とのセックスは?」
「たくさんしてる」
「乱れた女子高生だ」
近くのホテルの1階のレストランが夜遅くまで営業していたのでそこで食事をした後(食事代は千里が払った)、千里(せんり)ICから上の道に乗った。
「千里(ちさと)ちゃん、でもまだ女声が不安定ね」
「実はこれまで使っていた女声が先月突然出なくなっちゃったんですよ。それで苦労した上でやっと見付けたのがこの声。実はさっきのライブ中に突然見付けたんです」
「うんうん。声の出しかたって『見付ける』もんなんだよね。でも発見したての声はどうしても不安定。なぜか分かる?」
「えーっと」
「そういう声の出し方をするための筋肉が鍛えられていないから」
「あ、そうか!」
「だからその声が気に入ったのなら、それでたくさん話したり歌ったりしていれば自然としっかり使えるようになる」
「なるほどー」
「でも最初はあまり無理しない方がいいよ。筋肉が鍛えられていない内に喉を酷使すると、声帯が潰れてまともな声が出なくなるから」
「そういえば、それ雨宮先生に注意されました!」
「だから、私たち男の娘同士だし、男声で話してもいいよ。お互い相手の男声については秘密ということで」
「そうしようかな」
と千里は男声に切り替えて言った。
「じゃ、私もこちらの声にするね」
と泰華さんも男の声に切り替えて言った。
「うーん。やはり泰華さん、男の娘だったのか」
「村山さんも、ほんとに男の娘だったのね」
と言ってふたりは笑って会話を続けた。
貴司がマンションに戻って来たのはもう夜12時近くである。
「ほんとに聖道さん、おなか大丈夫?」
「うん。ちょっと寝ていれば大丈夫だと思う。今晩は悪いけど、貴司のマンションで休ませて。自宅まで帰る体力が無くて」
「うん。そうするといいよ。絶対君の身体には手を出さないから」
いや、手を出して欲しいんだけど〜!! と芦耶は思う。
コンサートを見ている最中、芦耶は唐突にお腹が痛くなった。ライブ中に席は立ちたくなかったが、とても我慢できないのでスタッフに断ってトイレに行き、結局ライブが終わるまで籠もっていた。そのうちライブが終了して、スタッフさんに促されて会場を出たものの苦しいので、近くの公園のトイレでまた1時間くらい籠もっていた。
しかし22時半くらいになって、やっと何とかお腹が落ち着いてきたのである。それで帰ろうかということになったものの、芦耶はまだ不安なので、近くにある貴司のマンションで休ませて欲しいと言ったのである。我ながらうまい「お泊まり」の理由だと思った。体調は回復しているし、シャワーでも浴びさせてもらった上で、貴司に夜這いを掛けてやろうという魂胆である。
「やっぱりあのお寿司が良くなかったのかなあ」
「私がちょっと体調悪かったせいかも」
「ごめんねー。僕はお寿司たくさん食べたけど全然平気だったのに」
うーん。貴司は1日経ったお寿司を食べても平気そうだぞ。
それでマンションの前でタクシーを降りて、鍵でエントランスを開けて中に入る。エレベータで33階まで上がる。
それで3331号室まで行ったのだが・・・・
ドアノブに金ピカのバレンタイン・チョコの巨大な箱があるのを見る。
「何それ?」
と芦耶。
「何だろう?」
と貴司。
「ちさとって書いてある。誰?」
「あ、えっと・・・バスケット部の後輩の・・・男子だよ」
と貴司は答えた。
「男〜〜〜?」
「いや、高校は別になったんで、インターハイ予選とウィンターカップ予選で1回ずつ激突したこともある。1勝1敗だった」
と言って貴司は千里が高1の頃、丸刈りしていた時のことを思い出していた。
「ほんとに〜?」
と芦耶は疑っている様子。
「冗談がきついなあ。ハートマークまで描いてある」
と言って貴司はメッセージカードを開いて見ている。
「そのチョコ、見覚えがある。洋菓子の達人がやっているお店のスペシャル・パッケージ。こないだテレビの番組で歌手の松原珠妃が蔵田孝治に贈っていた」
「へー。有名なやつなんだ」
「そのパッケージ、3万円するはず」
と言って、芦耶は悔しい!と思った。私があげたチョコより高いじゃん!!!
「そんなにするの!?」
「ね。男だって嘘だよね? 男がバレンタイン贈る訳ないじゃん。女の子なんでしょ?。3万円もするチョコ贈るなんて大本命だろうし。年上の人?高校生に出せる額じゃないよ。だいたいここまで登ってきてそこに置いたってことは鍵を持ってるってことだよね?」
「そんなことないよー。ほんとに男子高校生なんだから。でもどうやってあいつここまで入って来たんだろう?」
「いい。もう帰る」
と言って、芦耶は踵を返してエレベータの方に向かった。
「聖道さん、お腹は?」
「治った。貴司、またね」
と言って、芦耶は後ろを見せたまま貴司に手を振ったが、はらわたが煮えくり返る思いであった。いや、今彼女はとても貴司を見ることができなかった。貴司の方を向いたら、嫉妬の気持ちで、自分の顔は般若のようになっているであろう。
【女の子たちのセンター試験】(1)