【女の子たちのボイストレーニング】(1)

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「ねー、えっちゃん。そろそろボクの男子制服返してよぉ」
 
と昭子は従妹の絵津子に訴えた。お正月、昭子は絵津子が下宿している叔母の家を訪れていた。
 
「ん?昭ちゃんは女の子なんだから、女子制服を着て学校に通えばいいんだよ」
と絵津子は言う。
 
「あれ恥ずかしいんだよー。男子トイレにも入れないし」
「そりゃ、女の子が男子トイレ使っちゃいけないよ。昭ちゃん、そもそも以前から女子トイレ使ってたでしょ?」
「学校で女子トイレ使うのは恥ずかしいよぉ」
「慣れれば平気だよ。私なんか普通に女子トイレ使ってるし」
「だって、えっちゃんは元々女の子じゃん」
「昭ちゃんだって、元々女の子でしょ?」
「えーっと・・・」
 
「それとも昭ちゃん、自分は男の子だと思ってた?」
 
昭子は少し悩んだものの
「本当は小さい頃から女の子だったら良かったのにと思ってた」
「だったら女の子になれたんだからいいじゃん。バスケ部も女子の方に移籍する?」
「それ、薫さんに聞いたら、やはり最低でも睾丸は取っていて、おちんちんも取っちゃうか機能が無くなってないと、女子選手としては試合に出られないんだって」
 
「ああ、薫さんはもうおちんちん取ってるからね」
「え?そうなの?」
「昭ちゃん、おちんちん大きくなるの?」
 
その質問には昭子は恥ずかしそうにして俯いて首を縦に動かす。
 
「へー。まだ男の子の機能があったのか」
「うん」
「液も出るの?」
「あのね。なんか透明でさらさらしたのが出るの。たぶんあれもう精子は入ってないと思う」
 
「ふーん。だったら昭ちゃんも、手術しておちんちん取っちゃったら?ヴァギナまで作るには手術代100万円くらい掛かるらしいけど、単純におちんちん切るだけなら20万円くらいで手術してくれる所もあるらしいよ」
 
「20万円も無いよ!」
 

叔母がお茶とケーキを持って部屋に入ってきたので、やや危ない会話は中断する。
 
「わあ、美味しそう」
と昭子も声をあげる。
 
「○○屋さんのケーキ?」
と絵津子が訊く。
 
「そうそう。ここ美味しいのよねー。昭ちゃんも甘い物好きでしょ?」
「はい、大好きです」
 
「だけど、昭ちゃん、そういう格好が凄く似合ってるよ」
と叔母が言う。
 
「この格好で知ってる人に会うの、ちょっと恥ずかしいんですけどね。でも最近ずっと女子制服で学校に行っていたら、なんか男物の服着て出かけるのが変な気がして、結局スカートで出てきちゃいました」
 
「いいんじゃない?」
「お正月だし、振袖着る?とか母が言ったんですけど、それはパスしました」
「あら、振袖着せてもらえばよかったのに」
「私もそう言ってたところ」
 
「もうおちんちんも取っちゃったんだっけ?」
「まだです」
と昭子。
 
「早く取っちゃえばいいのにね」
と絵津子。
 

「でもどうせおちんちんとか取るのなら、声変わりする前に取っておけばよかったかもね」
などと叔母は言う。
 
「それは自分でも思うことあります」
と昭子。
 
「確かに昭ちゃんは姿は可愛い女の子だけど、声が男だからなあ」
と絵津子も言う。
 
「でもほら、中村中さんとか、男の人なのにちゃんと女の声に聞こえる声で話しているじゃん」
と叔母。
 
「ええ。実は男でも訓練すれば女の声が出るもんなんだって。中村中さんは声変わりしていった頃は絶望的な気分だったらしい。それで一時期は歌手の道を諦めてピアニストを目指していたんだって」
と絵津子。
 
「あれどうやったら、あんな声が出るわけ?」
「低い声を出すのは難しいけど、高い声ってちゃんと出るものらしい。ギターやヴァイオリンの弦の真ん中を指で押さえて弾くと、オクターブ高い音が出るでしょ? それと同じで人間の声帯も半分から上だけを振動させると、オクターブ高い声が出ると」
 
「なるほどー」
「喉の途中に指を置いて出してる人もいるよ。指で押さえて音程が変わる訳じゃないんだろうけど、そのあたりで振動を停める感覚の助けにするんだと思う」
 
「それって半分から下ではダメなの?」
と叔母さんが訊く。
「声は声帯で発生させた音を口の穴の所で響かせるから、そちらに繋がっている部分を振動させないといけないらしいです。口がギターやヴァイオリンの共鳴胴なんですよ」
と絵津子が言うと
「なるほどー」
と叔母も納得したようである。
 
「だから女性が男声を出すのは凄く難しいけど、男性が女声を出すのは実はちょっと要領を覚えればけっこう出来るようになるらしいよ」
 
「じゃ昭ちゃんも頑張って女の子らしい声が出るように練習しなさいよ」
と叔母が言うと
 
「ほんとにボク練習しようかな」
と昭ちゃんも言った。
 
「取り敢えず自分のことを《わたし》と言おうよ」
「恥ずかしいよぉ」
 

1月6日の深夜(日付は7日)、冬子は密かに政子の家に忍び込んで落ち込んでいた政子とたくさん話した。
 
「冬と直接話していたらだいぶ気持ちが楽になった」
「寂しくなったらいつでも呼んでよ。また夜中に忍んでくるから」
「そうだね。夜這いも楽しいよね。冬、私とセックスしてもいいよ」
 
「ごめん。ボクはマーサとは友だちのつもりだから」
「友だちでセックスしてもいいじゃん」
「それは10月に金沢で約束したじゃん。お互いの性器に触るまではいいけど、気持ち良くなったりしたらストップって」
「じゃ触って」
 
冬子は少し迷ったようだが
「じゃ服の上から」
と言ってスカートの中に手を入れ、パンティの上からそこに触ってあげた。触られることで政子は精神的な充足を感じるようだ。
 
「私、冬と恋人になっちゃってもいいよ」
 
冬子は少し考えてから言った。
 
「高校生のうちは、やはりそういうのやめとこうよ」
 
冬子が少し悩んでから答えたふうであったので、政子としては結構満足であった。
 
「ところで冬って、まだおちんちんあるんだっけ?」
「あるよー」
「触っていい?」
「ごめーん。タックしてるから」
「じゃタックの上から」
「いいけど」
 
「こうやって触っているとまるで女の子のお股だ」
「そう見えるように処置してるからね」
「タックという建前で実は手術済みだとか?」
「まだ手術はしてないよー」
「でもしばらく学校は自宅待機でしょ。その間に手術して、本当の女の子になっちゃったら?」
 
「それ、うちのお父ちゃんと約束したんだよ。高校卒業するまでは身体にはメスは入れないって」
 
「でも睾丸はさすがにもう取ってるよね?」
「まだあるよ!」
「じゃ取っちゃおうよ。睾丸取るだけなら手術も20分くらいで終わるんでしょ?代金は私が出してあげてもいいし」
「別に取らなくてもいいじゃん」
「実は睾丸取りたくないの?」
「さっさと取りたいよ」
「じゃ取ればいいのに」
「それがお父ちゃんとの約束でできないって」
「黙ってればバレないよ」
「バレなくても良心の問題」
 
「じゃセックスして」
「しないって」
「セックスするか睾丸取るか、どちらかはしてほしい」
「変な二択!」
 

政子は微笑みながら、現在発売保留になっている『甘い蜜』のCDをラジカセに掛けた。
 
「これ聞いていると私って下手だなあ、と思うんだよね」
「だったら練習すればいいよ」
「どうやって練習したらいいんだろ?」
「マーサは耳はいいんだよね。だからキーボードとかで正しい音を出して、その音に合わせて声を出せばいいんだよ」
 
「キーボードか。お母ちゃんに1個買ってきてもらおうかな」
「マーサ、昔ピアノ習ってたとか言わなかったっけ?ピアノ無かったんだっけ?」
「私が辞めちゃったから、従妹にあげちゃったんだよ」
「なるほどー」
 
「どんな感じで練習すればいいの?」
「まずは音階の練習だよ。ドレミファソファミレド、というのを半音ずつ上げ下げしながら、キーボードに合わせて歌ってごらんよ」
「ああ、合唱部の子たちが、そんなの練習してるね」
「そうそう」
 

「だけどふと思ったけど、冬ってこうやって私と話している時とか女の子の声だけど、学校では男の子の声だよね」
 
「うん。実は女でも男の声は出せるし、男でも女の声は出せるんだよ」
「へー、それどういう原理なの?」
 
「そうだね。何かないかな?」
と言って冬子は政子の部屋の中を見回して、ちょうどゴミ箱に空になったティッシュケースが放り込んであるのを見付ける。
 
「これでいいや」
と言って冬子は箱を左手で持って右手の指で箱の右端をはじいた。
 
「この音を覚えていて」
「うん」
 
それから冬子は箱の左端を剥がして開ける。そしてまた指で箱の右端をはじいた。
 
「あっ」
「音が違うでしょ」
「うん」
「もう一度やるよ」
 
冬子は開いた箱の端をいったん閉じて箱を弾く。そしてまた開いてから弾く。
 
「開いた方が音が高くなるね」
 
「そう。管楽器の音には閉管と開管があるんだよ。フルートは開管、クラリネットは閉管。同じ管の長さなら開管の方が音は高い。フルートとクラリネットって長さはほとんど同じなのに、フルートの方が音は高いでしょ?」
 
「うんうん」
 
「人間の声も一種の管楽器なんだよ。男の声帯も女の声帯も長さは大して違わない。むしろ日本人の男の声帯より欧米人の女の声帯の方が長い場合もある」
「そうかも」
 
「でも男は声帯を閉じて声を出す習慣があって、女は声帯を開いて声を出す習慣がある。男と女の声の違いって、実は習慣の違いだけなんだよ」
 
「そうだったのか!」
 
「だから男でも、女と同じような声の出し方をすれば女の声が出る。男でも何かの拍子に女の声が出ちゃうことあるから、その時の感覚を忘れないようにして、その状態をいつでも再現できるようにすればふつうに女の声が出るようになる。それは実は声帯の開閉の問題なんだけどね。逆も同じ。女の歌手でもテノールやバス音域を歌える人って居るよ」
 
「すごーい」
「マーサも男の声の練習してみる?」
 
「面白そう!ビデオ屋さんに男装してHなビデオ借りに行った時に男の声が出せると便利かも」
「ふむふむ」
 

2009年1月10-12日(土日祝)、東京ではオールジャパンの準決勝・決勝などが行われていたが、旭川では新人戦の旭川地区大会が開かれていた。
 
男子では出場校が15校あったので、昨年インターハイ地区予選の優勝校だけが1回戦不戦勝である。N高校は準優勝だったので1回戦から出たのだが・・・
 
全く無警戒であった富良野市のF高校に物凄い1年生が居て、N高校は圧倒されてしまう。最初様子見で出していたメンバーを引っ込めて、水巻・大岸・湧見・浦島といった主力を投入したものの、交代できるタイミングがなかなか無くてこの交代する前の段階で20点差も付けられたのが響き、まさかの初戦敗退となった。
 
F高校は結局旭川地区で優勝して、道大会に駒を進めた。2位はB高校、3位はD実業であった。
 
女子は13校が参加し、インターハイ地区予選の結果によりN高校・L女子高・M高校が1回戦不戦勝なので初日は試合は無く、11日からの参戦となった。しかし前日、男子がまさかの初戦敗退したことから、宇田先生は初戦からベストメンバーを投入する方針を決める。但し、20点以上点差が付いたら、その後は相手コートでのスティールは控えるよう指示を出した。
 
それで2回戦は57-2という物凄い点差になる。相手チームは1回戦をダブル・スコアで勝ち上がってきたチームなので、こちらは最初本当に全力で行ったのだが、それであっという間に30点差が付いてしまった。そこでその後はこちらは主力を下げて(絵津子や不二子は手加減というものを知らない)、空気が読める志緒と蘭を中心に、明らかに手抜きモードでプレイした。しかし向こうの選手たちが最初の猛攻にびびってしまい、泣きながらプレイしていて、全くシュートが入らないのである。更にドリブルは失敗するわトラベリングやダブルドリブルを多発するわで自滅してしまった。向こうが点を入れてくれないのではどうにもならないという感じの決着となった。
 
最終日の午前中の準決勝ではA商業と当たったが、ダブルスコアで快勝して決勝に駒を進める。相手はM高校を10点差で破って勝ち上がってきたL女子高である。これは絵津子たちが最初から出る全力戦になったが、最後はしっかり12点差で勝ち、優勝で道大会への進出を決めた。
 
なお3位決定戦はM高校が勝ったので、今回も旭川地区代表はこの3校になった。
 

2009年1月13日(火)。
 
その日高校3年の千里は唐突に声変わりが来てしまった。
 
なぜこのタイミングで声変わりが来たのか当時の千里は知るよしも無かったのだが、実は千里は大学2年の時に桃香と急速に親しくなり、桃香が子供を産みたくなった時のために精子を提供してもらえないかと頼まれたのが発端である。
 
それで千里は2011年3月から7月に掛けて何度も精子の採取を行った。精子の採取をするには射精することが必要である。更にその精子の品質を上げるため採取の前日から青葉がご親切にも千里の体内の男性ホルモンを超活性化させた。
 
この精子の採取は男性体でなければできないので、千里の体内時間2007年8-9月の時期の身体を使っている。そしてこの男性ホルモン過多状態が、ずっと保留されていた千里の変声を一気に促進してしまったのである。千里が高校3年の1月に体験した男の子の身体は体内時間では2007年10月で、この男性ホルモンが過多で更に何度も勃起させられ射精をした後であった。千里は本当は唐突に女体になってしまった2007年5月より以前では射精は1度しか経験したことがなかった。それも夢精であって勃起は経験していない。
 
男性ホルモンの過多状態は体質を男性化させる。更に勃起させたり射精をすることでも男性化が進む。それでこのタイミングで声変わりが起きてしまったのである。
 

元々千里は「声変わりするまで」貴司の恋人で居るという約束をしていた。そこで千里は貴司にメールして、自分に声変わりが来てしまったこと。それでもう貴司の恋人ではいられないということを告げた。
 
驚いた貴司は電話してきたものの、千里は電話には出ず「武士の情けで男みたいになってしまった私の声は聞かないで欲しい」とメールした。
 

貴司とそういうやりとりをした後、千里は半ば放心状態で学校を出て道を歩いていた。ふと気づくと近くの駅まで来ている。
 
その時、千里は唐突に留実子の姉、敏美のことを思い出した。
 
千里がまだ中学1年生の頃、留萌から深川に向かう列車の中で偶然遭遇した敏美は千里に男の声と女の声の話をしてくれた。敏美は声変わりが来てしまった時のために、こういう練習をして変声してしまっても女の声が出せるようにすればいいというのを教えてくれたのだが・・・・
 
私、全然練習してなかった!!
 
と千里は思いっきり後悔した。
 
ちゃんと敏美さんの言うことを守って日々練習していたら、声変わりなんか来ても平気だったのに!
 
千里は何でも飽きっぽいのが欠点である。
 
日々の努力などというのからは最も遠い性格だ。千里のやり方は何でも一挙集中してマスターしてしまうのである。
 
でも声の出し方に一挙集中は無理かなあ。
 

ちょうど駅の時刻を見ると札幌方面行きの上り列車が来る所だった。千里は切符を買って列車に飛び乗った。そしてデッキで敏美さんに電話する。
 
「こんばんわ。私、千里です。敏美さん、今日お時間取れますか?」
「千里ちゃんなの? 声どうしたの?」
「私、声変わりが来ちゃったみたい」
 
「ああ、とうとうか」
「でも敏美さん、おっしゃってましたよね。声変わりが来たってちゃんと練習すれば女の声は出るんだって」
「あんた、全然練習してなかったでしょ」
「すみませーん」
 
「でも練習する気になったんだ?」
「ちょっと切実なので」
 
「いいよ。おいで。今日はどっちみち美容室が休みで1日寝ていて、さっき起き出した所だったからさ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 

千里は美輪子にメールして、敏美さんの所に寄ってくるので遅くなると連絡した。
 
敏美は千里にドレミファソラシドを歌わせて、音域のチェックをしてくれた。
 
「完璧にバリトンの音域になってるね」
「やだぁ」
 
「千里は元々ソプラノ音域だったから声変わりで2オクターブ低くなって、バリトンになったんだね」
「ソプラノに戻れます?」
 
敏美は少し考えた。
 
「蜘蛛の糸って知ってるよね?」
「芥川龍之介ですか?」
 
「あれってお釈迦様が蜘蛛の糸を垂らして、地獄からカンダタがそれに掴まって極楽まで行こうとするよね」
「はい」
 
「あれってどのくらい登れば極楽に行けたんだと思う?」
「さあ。地獄から極楽までだから、かなりの距離じゃないんですか?」
 
「ブッブー」
「不正解ですか?」
 
「あの話には元ネタがあるんだよ」
「そうなんですか?」
「ポール・ケラス作『カルマ』という小説で、鈴木大拙が『因果の小車』という題で邦訳している。芥川はそれを見て『蜘蛛の糸』を書いた。鈴木大拙さんは仏教学者だからさ、凄く深いことを書いている。ところが芥川はそこが理解できなかったのか、そのことを『蜘蛛の糸』には書いてないんだよね」
「へー」
 
「地獄から極楽まで登らなければいけない距離はゼロなんだよ」
「え〜〜〜!?」
 
「鈴木大拙が書いているのはね、地獄にいるか極楽にいるかはその人の心次第だと言うのさ」
「・・・・」
 
「カンダタは自分が地獄に居ると思っていた。だからカンダタは地獄にいたんだよ。でも自分は極楽に居ていいと思うことができたら、その瞬間もうカンダタは極楽に居ることができたのさ」
 
千里は少し考えた。
 
「それ分かります。本当に深いですね」
「でしょ?」
「でもそれが声と関係あるんですか?」
 
「男の声を出すのも女の声を出すのも心のあり方が大きい。自分は男の声が出ると信じることができれば男の声が出るし、自分は女の声が出ると信じることができれば女の声は出るんだよ」
 
「そういうもんなんですか〜?」
「男の声を出すのも女の声を出すのも紙一重なんだな」
「それはそうかも知れない気もします」
「特にバリトンの声質って実はテノールよりも女声に近い。カウンターテナーをマスターできる人には元々のテナーよりバリトンの人が多いという説もある」
「へー」
 
「あんた、自分が女であることに対して不安を持っちゃったんじゃない?それで声変わりが起きたんだよ」
 
千里はハッとした。そうだ。この10日ほど自分は男の身体の状態になっていた。それが精神にも大いに影響したのかも知れない。
 
「11-12歳くらいで男の声になってしまって長年男の声でしゃべっていた人がいざ女の声を習得しようとすると、女の声で話すことに慣れていないから、その部分を鍛えるのに凄く時間がかかる。でもあんたは今までずっと女の声でしゃべっていたろ?」
 
「はい」
 
「だったら、女の声の出し方を『思い出す』だけで女の声に戻ることができるはずなんだよ」
 
「女の声を出すのには物凄い練習を何ヶ月もしないといけないものと思ってました」
 
「男でも女の声が出せるというのを世に知らしめたのはアメリカのメラニー・アン・フィリップス (Melanie Anne Phillips)ってMTFさんでさ。今から10年ちょっと前だよ」
 
「それって逆に割と最近ってことですよね」
「そうそう。彼女が出てくるまで、男でも女の声が出るということは知られていなかった。ただ、変声期前に去勢した人はボーイソプラノが維持できるということが知られていただけ」
 
「でもボーイソプラノと女の声は違いますよ」
「うん。そのあたりも彼女は詳しく述べているよ。一般にメラニー法と呼ばれている方法はね」
 
「はい」
「裏声と実声の中間点を見付けるということなんだ」
「はい」
「裏声で声を出して、それを少しずつ低くしていく。それを限界まで低くした時、それは裏声には聞こえないような自然な声になるんだな」
 
「でもその付近の声は安定して出すのは難しいのでは?」
 
「そうそう。だから訓練が必要。このメラニー法の発声というのはボイトレをする人たちの間でミドルボイスあるいはミックスボイスと言われているものに近いのではないかと言われている。でもね」
「ええ」
 
「そういうやり方はメラニー自身がむしろ後付けで考えた方法なんだよ」
「というと?」
 
「メラニーが言っているにはね。ある時、突然女の声が出ちゃったというんだ」
「へー」
「その時は逆に男の声に戻すのに数日かかったと」
「面白いですね」
 
「その体験から彼女は様々な試行錯誤の結果、男の声も女の声も自在に出せる境地に辿り着くんだけど、さっき言った裏声の最低点を探すというのは、その試行錯誤の中で見付けたひとつのアプローチにすぎない」
「ええ」
 
「実際には女の声を出すやり方を見付けるのはいくつかのアプローチがある」
「そうなんですか」
 
「でも到達点はたぶんみんな同じ。そして一度そこに到達したら、そのやり方を忘れないように反復練習する」
「なるほど」
 
「そのことを如実に語っているのが、メラニー自身最初は唐突に女の声が出てしまったということなんだよ」
「確かにそうかも」
 
「だから、あんたも女の声を何らかの方法で一度でも出すことができたら、あとはそのやり方を忘れないようにするだけでいい」
 
「でもどうやってその最初の一度に到達すればいいんでしょうか?」
 
「普通の男なら、それが難しい。実はね、私もある日突然こういう女の声が出たんだよ」
「え〜!?」
「メラニーもそうだと思う。私も最初唐突に出た時は音域としても4−5度しか出せなかった。それをずっと訓練していって今ではソプラノで2オクターブ歌える」
 
「なるほど」
 
「でもあんたの場合は昨日までは女の声で話して歌ってた訳だろ?」
「はい」
「だったら、その声の出し方を思い出すだけで出るはずなんだよ。多分最初からオクターブくらいは出ると思う」
 
千里は虚を突かれた思いだった。
 
「あんたはちゃんと女の声が出る。それを信じて、自分の声を見付けなさい」
「何か思い出すヒントとかないでしょうか」
 
「女の声をたくさん聞くことだよ。イメージトレーニングがとっても大事。私は松田聖子とか宇多田ヒカルとか、カレン・カーペンターとかの歌をたくさん聞いたよ」
「わあ」
 
「あんた自身の女声を録音したものがあれば、それを聞くのも凄く効果があると思う」
 
「やってみます!」
 

敏美さんは声を安定して出すためには喉の近辺の筋肉を鍛える必要があるとして、首を曲げたり回したりの運動、顔の筋肉を動かす運動、肩の上げ下げなどの運動を勧めてくれた。またうがいをする時の喉をゴロゴロ言わせる方法、また風船を膨らませたり、笛を吹くのもいいと言った。
 
「私、笛は得意です!」
「じゃ毎日笛を2時間くらい吹こう。風船もたくさん膨らませる。発声練習は長時間できないけど、笛や風船の練習はいくらやっても喉を痛めたりしないから」
「頑張ります!」
 
「いやむしろ普段から笛を吹いているのなら、ふつうの人より喉の筋肉は鍛えられているはずだから、千里ちゃん、意外に短期間に女声を身につけることができるかもよ」
「だといいですね!」
 
この日千里が緊急回避で使っていた無声音(ささやき声)も、息を破綻しないギリギリまで出して、もっと聞き取りやすくする方法を指導してくれた。また裏声を出させて、その裏声の状態から喉の奥を広げるような感じにして喉の緊張を解除し、より自然に響くようにする方法も指導してくれた。
 
「裏声の問題点は喉が物凄く緊張していることなんだよ。そのままではただの甲高い男の声にしか聞こえない。ジャパネット高田の社長の声はハイトーンだけど、女の声には聞こえないでしょ? でも例えば若い頃のさだまさしとか、南こうせつの声は、女の声だと思えば女の声にも聞こえる。あの人たちの若い頃の音源も聞くと参考になると思う。単純にハイトーンが出る歌手といえば、クリスタルキングの田中昌之だと思うんだけど、彼の声は高いけど緊張感がある。それに対して、さだまさし・南こうせつの声は高い上に柔らかくて緊張が少ない。より女声に近い」
 
と言って敏美さんはそれぞれの音源を聴かせてくれた。
 
「あ、何となく違いが分かります」
 
「要は喉を緊張させずにハイトーンを維持することなんだよ。そのためには喉の筋肉を鍛えておく必要があるんだ。最初は小さな音量で維持するといい。大きな音量で響かせるのは訓練が必要だよ」
 
敏美さんの指導はその日3時間ほどに及んだ。その日はまだ千里は「女の声」を見付けることができなかったが、今朝の絶望的な気分に比べたら、かなり心が楽になった状態で、旭川に帰ることができた。
 

翌日。1月14日(水)。
 
千里は朝起きた時、女の身体に戻っていることに気づいた。女の身体なら女の声が出ないかなと思って声を出してみるものの、やはり男の声しか出ない。以前、美鳳さんから声を出しているのは肉体ではなく神経ネットワークなのだということを聞いていたので、当然だよなあとは思う(身体が女子高生の身体と女子大生の身体とで入れ替わってもバスケの技術が継続するのも同じ原理)。とにかく自分はなんとかして女の声の出し方を見付ける必要があるのだ。
 
千里は今週いっぱい学校を休むことにした。
 
今週末はセンター試験である。実際この時期、集中して勉強したいために学校を休んでいる子もけっこう居る。京子は1月になってから補習にも出てきていない。蓮菜も昨日は冬休み明けなのでいったん学校に出てきたものの、この後は週末まで休むと言っていた。特にああいう出来る子は、学校に出てきていると心を乱されることがあったり、他の子から色々「教えて」と言われたりして、自分の勉強に集中できないだろう。国公立の入試は8割くらいセンター試験で決まってしまう。特に医学部のようなハイレベルの戦いをする子たちはここで失敗すると二次試験では挽回できない。
 

千里は自宅で敏美さんから借りてきた松田聖子全集・カーペンターのベスト版、の音源、そして自分自身が歌ったDRKの音源を繰り返しヘッドホンで聴きながらセンター試験の過去の問題をずっと解いていた。過去問題というのは、こういう直前にやるのが最も効果的である。
 
合間合間には首の運動をしたり、喉をゴロゴロ言わせながらうがいしたり、また裏声の練習をしたりする。そして喉を痛めないようにのど飴をなめる。また、過去問題を1教科分解く度に、風船を1個膨らませ、またフルートで短い曲を1曲吹くようにした(龍笛だとボリュームがあるので近所迷惑)。
 
夕方、雨宮先生から電話が掛かってくる。無視していたのだが、するとメールが入り「あと5分以内に出なかったら、あんたのヌード写真をネットに曝す」とある。嘘!? 私のヌード写真なんていつ撮ったのよ?
 
それで仕方なく電話を取る。
 
「おはようございます、雨宮先生」
「あんた誰?」
「村山千里ですが」
「あんたいつの間に男になったのよ?」
「私は最初から男ですけど」
「そういう無意味な嘘つく奴は嫌いだな」
「声変わりがきちゃったんですよ」
「へー。それはめでたい」
「めでたくないです。こんな声じゃ学校にも出て行けないから今週いっぱい休みです。どっちみちセンター試験の直前だし」
 
「私と寝てみない?女の声の出し方しっかり指導してあげるから」
「誰か他の女の子か男の娘を誘って下さい」
「ところで明日までに1曲書いてくれないかな」
「センター試験の後にしてください!」
 
「うーん。やはり無理か」
「来週だったら2曲書いてもいいですから」
「よしよし。じゃ、仕方ない。これはケイに押しつけるか」
「ああ、可哀想に」
 
「だけど女声の出し方も人様々だよわね」
「ああ、そうなんでしょうね」
「ケイなんかはあの子、民謡の名取りだからさ。お囃子とかで鍛えて高い声が出るようになっていたんだよ」
「へー。あの子、民謡やるんですか?」
 
「民謡の一派代表の孫娘なんだよ、あの子は」
「それは知らなかった」
 
「いわゆる《ささやき法》を使う子は多いね」
「私もささやき声でなら、性別をごまかせる程度の声は出るんですけど、それでは日常生活をするのに不足なので。特に学校やスポーツの場では『もっとしっかり声を出せ』と言われちゃうんですよ」
 
「フィッシュアイ話法は知ってるよね?」
「昨日先輩のMTFさんから習いました」
「声自体は諦めて、開き直って男声音域を使った上で、イントネーションなどの《話し方》を女の話し方にすると、ちゃんと女が話しているように聞こえるんだな。石田彰がセーラームーンのフィッシュアイの声を当てた時に使って当時日本中のオカマさんに衝撃を与えたんだよ」
 
「その録画を聞きましたけど、びっくりしました。声としては男の声なのに本当に女が話しているようにしか聞こえないんですよね。凄いですね」
 
「あんたの現在の話し方は、そもそもフィッシュアイ話法に近い」
「そうかも!」
「あんたは女としてずっと生きて来たからね。だから確かにあんた声変わりしたかも知れないけど、あんたの声を聞いてて誰も男だとは思わないよ。少し声の低い女だと思うだろうね」
 
「勇気付けてくれてありがとうございます」
 
「それからメラニー法とかが知られる前はハスキーボイスで話すオカマさんが多かった」
「むしろハスキーボイスが、オカマさんのシンボルみたいだったらしいですね」
「そうそう。そういう時代もあったのよ」
「でも今更もう使えない手法です」
「私もそう思う」
 
「先生の場合はどうやって、そういう美しい声を獲得なさったんですか?」
「ふむふむ。少しは人に物を訊く時の言葉遣いが分かってるね」
「先生の教育がいいので」
「ハミングだよ」
 
「ああ!」
「ハミングではわりと性別の境界を越えた声域の声が出やすいんだ。だから私は最初ハミングでアルト領域の音が出るようになったんだよ。それをやがてボカリーズやスキャットに変えて、やがてふつうの言葉でも出るようになった。ハミングは鼻声だから、喉の振動が破綻しにくいんだ」
 
「ありがとうございます。それやってみます!」
 
「あんたの女声が復活したら、どこかのメジャーレーベルから女の子歌手としてCD出させてあげようか?」
「それは取り敢えず遠慮しておきます」
「あら。私がCD出してあげるなんてオファーすることはめったにないのに。可愛い服も着せてあげるわよ」
「それは面白そうですけど、そんなことしてもらったら後が怖いですから」
「信用無いな」
 

先生は最後に大事なことを言った。
 
「高い女声の練習は1日最大でも30分にすること」
「え〜〜〜!?」
「無理して声帯潰して、まともな声が出なくなってしまったオカマさん何人も知ってるよ」
「それは怖いですね」
 
「じゃお大事にね」
 

「詩津紅ちゃん、ごめんねー。お使いみたいなことまでしてもらって」
と政子は言った。
 
「気にしないで、何か用事があったらどんどん呼び出してよ。友だちじゃん」
と詩津紅は笑顔で答えながら、買って来たキーボードを箱から出し、電源をつないだ。
 
発声練習に使うキーボードを最初母に買って来てもらおうとしたものの、母はどんなのがいいか全然分からないと言う。それで同じクラスの子でピアノも上手い詩津紅に電話して頼んでみたのである。詩津紅が買って来たのはヤマハ製でミニ鍵盤56鍵のものである。
 
「まず政子ちゃんの音域を確認しておこうよ」
と言って詩津紅はキーボードを弾きながら政子に声を出させた。
 
「F3からA4まで出てるね」
「私、冬みたいな高音が出ないのよね〜」
「まあ冬の声は異常だから。あんなに広く出る子はめったに居ないよ」
「あ、やはりそうなのね」
「でも政子ちゃんも練習してればもっと出るようになるよ」
「うん」
「低い声は練習してもそんなに出るようにならないんだけど高い方は練習でかなり出るようになるんだよ」
「へー」
「だから歌の練習をする時に、最初に毎回このキーボードで最初はF-Majorでドレミファソファミレドという所から始めて半音あげてF#-Majorでまたドレミファソファミレド、とこれを声が出る限界まで一通り上がっていっては下がっていって練習すればいいんだよ」
 
「なるほどー」
「昔ピアノやってたんなら、半音ずつ上げていきながら音階弾くのはできるよね?」
「うん。それはできると思う」
 

詩津紅は政子に音階練習をさせた後で、ローズ+リリーの持ち歌を歌わせてみた。詩津紅がケイのパートを歌う。
 
「なるほどねー」
「ごめんねー。プロ歌手を名乗れないほど下手で」
「そう下手でも無いよ」
「そう?」
 
「アイドル歌手とかには本格的に音外してる人多いじゃん。あれって耳が悪いんだよね。正しい音が取れていない。でも政子ちゃんの場合は、音は取れているんだよ。ただ、その音を出すことができないだけ」
 
「あ、冬からもそんなこと言われた」
 
「だから長い音符では最初の出だしは間違っていてもすぐ正しい音になる。4分音符以上のところは、ちゃんと正しい音になってるよ。でも八分音符以下ではその音の到達が間に合わなくて、外れたままの音で次に行く」
 
「そうそう。間に合わないんだよ」
「やはりそれをたくさん練習して、最初から正しい音を出せるようになれば、政子ちゃん、ものすごく上手くなると思う」
「ほんとに?」
 
「政子ちゃん、音楽の時間とかにあまり歌ってなかったでしょ?」
「小学校の頃は、あんたが歌うと音がおかしくなるから歌わなくていいと先生から言われてた」
「それは酷いなあ」
「だから私、ブラスバンド部に入ったんだけどね。フルートは正しい指使いさえすれば正しい音を出してくれるもん」
 
「うん。わりとフルートってそういう楽器だよね。政子ちゃん自身の声でも毎日ちゃんと歌い込んでいれば、3−4年後にはかなり上手くなると思う」
 
「3−4年掛かる!?」
「そりゃ3−4日で上手くなる訳無い」
「だよねー。まあ頑張るか」
 
「無理しない程度に頑張ればいいよ。毎日12時間練習するぞ、とか思っても3日坊主になっちゃう。まあ1日30分は練習しよう、くらいに思っていた方が長続きする。声って、日々の継続の努力が如実に反映されるから」
 
「うーん。努力するのは苦手だ」
「30分練習したらおやつ食べようとかいうのも良い」
「あ、その方式で行こうかな」
 

「よし」
 
雨宮先生との電話を終えた後、千里は声を出して立ち上がった。旅支度をする。
 
ちょうど叔母が帰ってきたので
「叔母ちゃん、ちょっと外泊してくる」
「いいけど、どこに行くの?」
「ちょっと山形まで」
「遠いね!」
 
叔母が車で旭川駅まで送ってくれた。それで
 
1/14 旭川1800-1920札幌1929-2243五稜郭
 
という連絡で函館まで行く。この列車の中では千里はひたすら寝ていた。タクシーでフェリー乗り場まで行き、23:20-3:05のフェリーで青森に渡る。千里はこのフェリーの中でもずっと寝ていた。
 
フェリーターミナルの出口に車が停まっている。
 
「きーちゃんありがとう」
 
と言って千里は運転席に乗り込んだ。
 
《きーちゃん》に予めレンタカーを借りておいてもらったのである。車はある程度パワーの出る車ということで1800ccのプリウスである。《きーちゃん》も助手席に座ってくれて、車をスタートさせる。
 
「しかし千里、堂々と無免許運転するね」
と《きーちゃん》は半ば呆れている。
「見逃してー。ついでに警察に見付からないようにお願い」
「はいはい」
 
千里は運転中、敏美さんからもらった参考音源を、眠気防止もかねてmp3プレイヤーからカーラジオにFMで飛ばして(設定は《きーちゃん》にしてもらった)、ひたすら流した。松田聖子などの歌に合わせてハミングや時にはラララで歌ってみたりした。さすがに一朝一夕には、まだその高さに合わせることはできない。でも高い音を出す感覚を模索するのにはハミングやスキャットはいいかもという気がした。
 
「千里、高い声出す時に声が裏返るでしょ?」
「うん」
「あそこをギリギリ裏返らないように我慢しなよ。そうしたら実声のまま高い音が出るはず」
「そうか。そこで我慢するのか」
「喉の筋肉無茶苦茶使うけどね」
「だから筋肉を鍛えないといけないのね」
 
車は青森環状道路から東北道に入り、ひたすら東北道を南下してから北上JCTで分岐して秋田自動車道に入る。横手JCTから湯沢横手道路に入って南下する。この高速を走る部分が280.5kmあるが、この区間を千里は3時間ほどで走り抜けた。ここから出羽三山神社までは約100kmであるがここを2時間で走り抜ける。音源はずっと同じ繰り返しでは飽きるので、時々《きーちゃん》に頼んで設定を変えてもらい、松田聖子をずっと聴いたり、さだまさしをひたすら聴いたりなどしていた。また歌わない時はずっとあめ玉を舐めて喉のメンテをした。
 
千里は函館までの列車の中とフェリーの中でぐっすり寝ておいたので、青森から出羽までの車で移動する時間帯はずっと起きていて後ろの子たちの力を借りずに自分で運転しきった。5時間の連続運転に耐えられるのはやはりバスケで身体を鍛えているからかなと千里は思った。
 
千里が三神合祭殿の前に立ったのは朝の8時すぎである。お参りしていたら、いきなり左手にガチャリと手錠を掛けられる。
 
「無免許運転の現行犯で逮捕する」
と女性警官の制服を着た美鳳さんが笑顔で言う。
 
「じゃ取り調べして欲しいんですけど」
「んじゃ、あんたの車の中で調書を作ろうか。ついでに検察官と裁判官も兼務で」
「それを兼ねちゃうのは江戸町奉行所って感じですね」
 

それで千里と美鳳さんはプリウスの後部座席に一緒に乗り込んで話をした。
 
「しかしあんた、こんなに無免許運転やってたら、その内マジで捕まるよ」
「すみませーん」
「判決。去勢の刑に処す」
「もう判決出るんですか?去勢は13日までなら歓迎だったんですけど」
 
「1月13日のあんたの体内時刻は2007年10月31日だった。翌日の2007年11月1日の体内時刻になるのは歴史的には2011年7月19日。この日、あんたは最後の精子採取をした上で去勢手術を受ける」
「じゃ、あれって去勢の前日に声変わりが来ちゃったんですか!?」
 
「あんたに声変わりが来ることは最初から決まっていたから、それは動かせなかったんだよ。ごめんね」
 
「いえ。私いろいろ助けてもらっていて、凄く恵まれていると思います」
「まあ、あんたは私たちのおもちゃだから」
 
「私時々、自分はほんとにこの世に存在しているんだろうかと思うことあります」
「あんたが存在していると思っている限り、存在しているんだよ」
 
「うーん・・・・」
 
それって敏美さんが言っていた『蜘蛛の糸』の話に似ているのかなという気もした。
 
「まあ100年くらい経ったらもう一度考えてみるといい」
「そうですね〜」
 
美鳳さんは自分たちも千里が女声を出せるようになる手助け自体はできないと言った。それは神様がしてあげることではなく、千里が自分で見つけ出さなければならないものだと言う。
 
「バスケの練習なんかと同じですね」
「そうそう。環境は整えてあげられるけど、バスケの練習するのは千里自身」
 
「昨日からずっと練習したりイメージトレーニングしたりしている時に思ったんですけど、完全に女声に聞こえる声より、中性的な声のほうが早く到達できる気がします」
 
「うん。そうだと思うよ。だから取り敢えず中性的な声の出し方を覚えて、それからあんたの新しい女声をしっかり構成していく手もある」
 
「以前おっしゃっていたおとなの女の声ってやつですね?」
「そうそう。あんたももう今まで使っていた少女の声からは卒業すべき時なんだよ」
 
「それは今回声変わりが来てみて、最初に思いました」
 
千里がこれまで使っていた声は小学5年生の頃から「可愛い声でありたい」と思って努力して調整して作り上げていったものである。中学生くらいならそういう声でもいいが、18歳にもなったら、もっとおとなの女の声になるべきではというのは、自分でも思っていた。
 
美鳳さんは出羽山中奥深い所にある喉のメンテに効く温泉を紹介してくれた。
 
「温泉とはいうけど、すごく冷たいんですけど!?」
と千里は手を入れて言う。
 
「まあ1月だからね。凍ってないだけマシ。入らない?」
「入ります」
 
それで千里は裸になってその冷たい温泉に入った。
 
「頑張るなあ。この温泉にためらわずに入った子は初めて見たよ」
と美鳳さんは温泉の外で着衣のまま言う。
 
「だってできるだけ早く女の声を取り戻したいから」
「でもあんた、引き締まったいい身体してるね」
 
千里は美鳳さんの言葉に性的なニュアンスを感じた。
 
「美鳳さん、私の身体に欲情してませんよね?」
「私、バイだけど」
「うーん・・・」
 
「人間の女の子を妊娠させたこともある」
「え〜〜〜!?」
「女同士で子供を作るとさ、どちらも染色体がXXだから、女の子しか生まれないんだよね」
「へー!」
と言いながらも千里は疑問を感じる。
 
「美鳳さん、おちんちんは無いですよね?」
「私の裸は見てるでしょ?」
「ちょっと安心した」
「別に妊娠させるのにおちんちんも精子も必要無いし、女同士でもセックスはできるし」
「そのあたりの原理ってのがどうもよく分からないんですけど!?」
 
「ふふふ。その内実地で学べるよ」
「うーん・・・・」
「一度妊娠してみる?」
 
千里は目をぱちくりさせた。
 
「私妊娠できるんですか?」
「知ってるくせに」
「うーん・・・・・・」
 

美鳳さんは喉に良く効く飴もくれた。物凄く苦かったが、効きそうな気がした。
 
結局出羽には半日滞在し、夕方千里は帰途に就いた。帰りは《きーちゃん》に運転をお願いして千里はほとんど寝ていた。《きーちゃん》は途中、錦秋湖SAと滝沢SAで休憩して青森まで運転してくれた。
 
『ごめんね。こうちゃんが戻ってくれば交代で運転してもらえるのに』
『勾陳たち、そういえばなかなか戻ってこないな』
『怪我の治療時間が掛かってるのかな。あ、私、せっかく出羽に来たのに、場所を聞いてお見舞いしてくれば良かった』
 
『千里、勾陳たちが怪我して出羽で治療しているなんて嘘だから』
『え〜〜!?』
『とっくに気づいていると思ってたのに』
『じゃ、こうちゃんたちどこで何してんの?』
『まあ色々よけいなお世話をしているみたいよ』
『ん?』
 

その頃、紺色のブレザーにチェックの膝丈スカートなどという服に身を包み女子高生の振りをした《せいちゃん》は貴司がカフェに入って来たのを見て立ち上がって、笑顔で手を振った。
 
「待った?」
と笑顔で尋ねる貴司に
「ううん。私も今来た所」
と可愛い笑顔を作って女声で答えながら《せいちゃん》は
 
『嫌だ、嫌だ、嫌だ。もう女装なんてしたくないよー』
と心の中で悲鳴をあげていた
 
この日は貴司が芦耶とデートするのを潰すために、貴司のファンの女子高生を名乗って、お茶でも飲みながら少しお話しできたら、などと貴司に働きかけたのであった。
 
(先日は《げんちゃん》がやはり女装してOLを演じて居酒屋に行った。その数日前には《こうちゃん》が子供もいると称した中年女性ファンを演じて一緒に文楽を見に行った)
 
《せいちゃん》は女装に全然慣れていないので、さっきは女子高生の制服のまま男子トイレにうっかり入ってしまい、ちょっとパニックを引き起こしてしまった。しかしそのあと女子トイレに入ったら、まず女子トイレ名物の行列の洗礼を受けて「なんでこんなに列ができてるんだ〜?」と叫びたくなり、「女の香り」にむせ返りそうなのを我慢し、やっと個室に入ってから、座ったままおしっこするってどうやるんだっけ?とまた悩んでしまった。結局、スカートを脱いで!立ってした。
 
(スカートを穿いたままでは、スカートにおしっこが飛びそうなのである)
 

女子高生に扮した《せいちゃん》はバスケットの話をひたすら4時間ほど貴司から聞くことになった。それを聞いていて《せいちゃん》は、貴司君って本当にバスケット以外には何も興味無いんだなというのをあらためて感じた。普通の女の子が好むような話ができない。こういう会話を退屈に思わないのって、ひょっとしたら千里くらいじゃないのか?というのも感じた。
 
「あ、ごめん。バスケの話ばかりして」
と貴司。
「いえ。とっても楽しいです」
と《せいちゃん》は笑顔で答える。
 
「でも細川さんって、こんなにバスケットができるんだもん。恋人はおられるんでしょう?」
と《せいちゃん》は貴司の本心を探るかのように訊く。
 
すると貴司は少し考えるようにしていた。
 
「ずっと思っている人がいる」
「中学か高校の同級生ですか?」
「うん。中学の時の1つ下の学年の子なんだよ」
「へー。じゃもう長い付き合いなんですね」
 
「そうだなあ。恋人として付き合っていた時期もあるし、友だちに戻った時期もある。実は数日前、また友だちに戻りたいと言われてしまったんだよ。あ、ごめん。こんな話しちゃって」
 
「いえ。かえって、私みたいにお互い知らない同士の方が、そういう話ってできるもんですよ」
「かも知れないね」
 
「じゃ、その人と恋人としては別れちゃうんですか?」
「自分は僕の恋人の資格を失ったと言われてしまったんだよね」
「彼女から言われたんですか?」
「うん。ちょっと病気みたいなもので。いや命や生活などには影響無い病気なんだけど」
「よく分からないけど、恋人になるのに資格なんて無いと思う」
 
「だよね−」
と言って貴司は遠くを見るような顔をした。
 
「でも僕は、きれいごとで、君がどんな状態になっても愛し続けると彼女に言う勇気が無い。今の状態の彼女を愛していく自信が無いんだよ」
 
「でもその人のこと、好きなんでしょ?」
「うん」
 
「だったら、ずっと思っていればいいんですよ。病気なら治るまで待ってあげればいいし」
「あ、そうだよね!」
 
貴司はそのことに初めて気づいたように言った。
 
確か以前千里は言っていた。声変わりしてしまっても実は女の声を出す方法は存在するんだと。米良美一さんの歌声なんて、女の人の声にしか聞こえないじゃん。だったら千里はまた女の声を取り戻すこともあるのではないか?
 
《せいちゃん》にも言ったように、貴司は正直な所、男の声で話す千里というのを想像して、どうしても自分の心の中に受け入れることができなかったのである。でも千里が頑張って女声を習得してくれたら、また自分の恋人にすることができるような気がした。
 

一方千里は深夜のフェリーで函館に渡り、1/16 函館704-1018札幌1030-1150旭川 というルートで帰還した。プリウスの車内やフェリー内では寝ていたものの、函館駅で始発の電車を待つ時間、そして電車の中では参考音源をヘッドホンで聴きながらずっと受験勉強をしていた。千里は一応受験生である。そして明日はとうとうセンター試験である。
 
16日の夕方、千里が自宅でやはり参考音源を聴きながら最後の追い込みの勉強をしていたら電話が掛かってくる。見ると貴司である。戸惑う思いでそれを黙殺する。するとメールが入った。携帯を開いてみる。
 
《千里、自分の声を聞かせたくないのだったら何も返事をしないでもいい。ただ僕の言葉を聞いて欲しいから電話に出てくれないか?》
 
それで次に音声通話の着信があった所で千里は携帯をオフフックした。
 
「センター試験の直前に動揺させるような電話してごめんね。でもどうしても話しておきたくて」
 
と貴司は切り出した。
 
「千里、君が声変わりしたという話を聞いて僕は正直ショックを受けた。声変わりしたら別れようなんて話は君が中学1年の時に、軽い気持ちで約束したんだけど、実際にはそんな事態は到来しないと思い込んでいた。ずっと千里は可愛い声の千里のままだと思っていた。だから君が男の子であったとしても僕は実質女の子として君のことを捉えていた」
 
千里は黙って聞いている。
 
「ここ3日ほどずっと考えていたんだけど、やはり男の声で話す千里って自分の恋人だと思うことができないと思う」
 
そのことをあらためて言われると千里としてはちょっとショックだ。
 
「でも恋人としては思えなくても、友だちならありかなと思うんだ。だから取り敢えず僕と友だちで居てくれるなら、受話器を指でトントントンと3回叩いてくれない?ノーだったらトンと1回」
 
千里はちょっとだけ考えてトントントンと3回指で叩いた。
 
「ありがとう。僕と千里って、どういうつながりかという形は変わったとしてもきっと一生付き合いが続く間柄だと思うんだよね。それでさ、千里以前言ってたよね。男でも訓練次第では女の声が出るんだって」
 
千里は心が緩む思いがした。
 
「今はさ、受験勉強でとてもそれどころじゃないだろうけど、大学受験が終わって一息ついたら、千里その練習をしない? 千里東京に出て行くんなら、そういうボイストレーニングしてくれる先生もきっとそちらに居るんじゃないかと思う。費用がかかりそうだったら僕がレッスン代出すから、そういうレッスンを受けてみない? そして千里がまた女の子の声が出せるようになったら、その時、またふたりの関係を少し考え直してみない?」
 
千里は微笑んでトントントンと3回指で携帯を打った。
 
「良かった。だから僕たちは今は取り敢えず友だち。でも将来もしかしたらまた恋人になるかも、という関係で居ない?」
 
千里は携帯を3回打つ。
 
「だから友だちということで、千里僕も覚悟して聞くから千里の声をちょっとだけ聞かせてよ」
 
千里は渋い顔をして1回だけトンと叩いた。
 
「そうか。僕も覚悟を決めて聞こうと思ったけど、まだお互いそれは聞かない方がいいのかも知れないな」
 
3回トントントンと叩く。
 
「でもとにかく僕はいつも千里のそばに居る。それは変わらない。だから明日の試験頑張れよ」
 
千里は微笑んで3回トントントンと叩いた上で、ツーツートン・ツーツー、ツーツートン、トン・ツートン・トン、トン・トン、トン・トン・ツートン・トン、と携帯を打った。
 
貴司は最初意味が分からないようだったが、千里がもう一度繰り返し始めると「あっ」と言い「ちょっと待って」と言って何か資料を探しているようである。
 
「モールス信号の一覧表見付けた。もう一度お願い」
 
それで千里が再度信号を打つと
 
「『ありがと』か。うん。なんか僕も千里とこうやって電話で話ができて安心した。また落ち着いたら話そう。今日はありがとう。千里好きだよ」
 
それで千里もツーツーツートン・ツー、ツートン・ツートン・トンとモールス信号で『すき』と送って会話を終えた。
 
 
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【女の子たちのボイストレーニング】(1)