【女の子たちのラストゲーム】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2014-12-26
千里は白衣を着ていて、多数の同様の白衣を着た女性の中で動き回っていた。
「これ413号室の永田さん。エストロゲンの注射してきて」
と言って薬剤を渡される。注射器と清浄綿にブラッドバンを取ってその部屋に行く。入口の患者名を見てベッドの位置を確認する。中に入って「え?」と思う。エストロゲンと言われたから女性患者だと思ったのにここは男部屋だ。そのベッドの位置まで行くとベッドに居るのは女性に見える。年齢は65-66歳くらいだろうか。
「永田さん、お注射しますよ」
「はい。お願いします」
と答える声も女の声のよう。
なぜこの人は女性なのに男部屋に入れられているのだろう? 部屋が空いてなかったのかな?などと考える。
薬剤を注射器に取る。少し押して空気を抜く。注射する箇所を清浄綿で拭く。注射器の針を刺して薬剤をゆっくり注入する。注射器を抜きブラッドバンを貼る。
「ありがとう。私これ毎日注射しもらわないと骨粗鬆症になって身体が縮んでしまうから」
ちょっとハスキーな声だ。
「大変ですね」
「女になったことは後悔してないけど、この注射を40年間してきたのだけは大変だったわ。体調悪くてもやめる訳にはいかないし」
あ。。。この人、性転換して女になったのか。昔の性転換者って割とこういうハスキーな声で話してたよなと思い起こす。でも・・・女になって40年も経っているのに病院に入ったら男部屋に入れられてしまうなんて可哀想。だいたい同室の男の患者に襲われたりしないか?と心配もした。
ナースステーションに戻ると、薬剤倉庫からインシュリンの箱をひとつ取ってくるよう言われる。鍵を持って倉庫に行き、1箱出して管理表に記入し、鍵を確実に締めて戻り、所定の場所に置く。
「薬剤倉庫に行ってきた子はたとえ男の娘であっても、もう女の子と同様とみなしていいよね」
「うん。だから千里はもう私たちと同じ看護婦ね」
などと先輩2人が言う。
え〜〜!? 私っていまだに男扱いされてたの? もう性転換してから10年経つのにと千里は不満に思ったが、取り敢えず今後は女とみなしてくれるというのであれば歓迎だ。
「千里、もう女の子だから422号室の川島さんに尿道カテーテル入れるのやってきてくれる」
「分かりました」
と言ってカテーテルと清浄綿を持ち422号室に行く。途中の廊下の隅に何だか薬剤がたくさん置いてある場所がある。あれ何だ?と思ったら一緒に同じ方角に行く先輩が
「あれは忙しくて、注射を打ちに行けなかった患者さんの薬剤を取り敢えず放置しているのよ。余裕があったら、作業代行しておいて」
などと言われる。
嘘。そんな適当なことでいいのか?
千里は422号室に入ると、川島さんのベッドに行き
「導尿します」
と言う。患者を見て驚く。何だか自分に似ている。でも私は村山だし、私じゃないよね? 見た感じは27-28歳くらいだ。
取り敢えずここは女部屋だし、患者は女のよう。良かった。女部屋に入れてもらえたのね、と何だか安堵する。患者のパジャマズボンを下げショーツを下げるとそこにあるのは女の陰部である。大陰唇・小陰唇を左手で開き、右手で尿道口を消毒した上でカテーテルをゆっくりと挿入する。膀胱に届いた所でバルーンを開く。採尿バッグをベッドの端のフックに引っかける。ショーツとズボンを戻すが自分にそっくりの患者がちゃんと女の身体になっていて、女部屋に入院していることに、千里は何だか安心した。
あれ?でも私、いつ看護師になったんだろ?
と思った所で目が覚めた。
2008年の皇后杯決勝戦は1月13日土曜日に行われた。千里と宇田先生はこの日の朝の飛行機で東京に行って表彰式に出た。そのまま日帰りすることも可能ではあったのだが、東京日帰りは辛いしということで、翌日の男子決勝戦まで見て日曜日に帰ることにしていた(男子決勝戦会場の席は主宰者が用意してくれた)。
女子表彰式の後は、宇田先生も東京で会う人がいるということで、翌日の男子決勝戦までお互い自由行動ということにしたので、千里は以前から機会があったら一度おいでよと言われていた、雨宮先生のグループの中心になっている新島さんの《仕事場マンション》を訪問した。
「つまらないものですが」
と言って白い恋人を出すと
「これ大好き〜」
と言って、紅茶を入れてくれて一緒に頂く。
「本来のお住まいも東京近辺なんですか?」
「うん。実家は奥多摩町なんだよね」
「都内ですね!」
「JRの奥多摩駅から車で20分くらい掛かるかなぁ」
「それはなんか凄い場所ですね」
「それで実際問題としてほとんどここに泊まり込みで、実家にはめったに帰ってないんだよ」
「あらあら」
「雨宮先生がこちらから連絡しようとしてもなかなか捕まらないから、結果的に仕事の手配とか、あちこちとの折衝とかもだいたい私がしてるしね。時には毛利君や北原君に手伝ってもらってたんだけど」
「ふたりとも今使えないですね」
「そうなんだよ。毛利君は謹慎中で実際には今新潟でずっと地震の後片付けのボランティアしてるし、北原君はAYAのプロデュースで大忙しだし」
「AYAは2作目も結構良い出来でしたね」
「うんうん。北原君も頑張ってるよ」
北原さんは昨年9月にインディーズデビューしたAYAという女の子3人組のユニットをプロデュースしている。最初のCDは時間的な制約から雨宮グループの総力戦で楽曲を制作したのだが、2作目は北原さんが全ての楽曲の制作をしており、1作目・2作目ともに7000-8000枚ほどの売上をあげ、企画した出版社も気をよくして春頃にメジャーデビューの方向でいる。
「来月には3作目を作って、それが1万枚以上売れたらメジャーデビュー決定」
「行くでしょう。今の状況なら。そのことを告知すればファンも買ってくれるはずです」
「それで今そのための楽曲制作で大変みたい」
「ロイヤル高島さんの方の病状はどうですか?」
AYAの名目上のプロデューサーはロイヤル高島である。ただ実際には名前を出しているだけで作業は全て北原さんがしている。しかしそのロイヤル高島さん自身が先日大手プロダクションの新年会の席上で倒れて現在入院中である。
「病状は安定しているらしい。しばらくは仕事できないみたいだけどね」
「でも取り敢えず影響は無いですよね?」
「うん。ロイヤルさんは名前だけだから」
「そういえば北原さんはご自宅なんですか?」
「彼も私と同様、作業用にマンション借りているみたい。詳しくは知らないんだけどね。私は携帯にしか電話しないし」
千里はひょっとして新島さんと北原さんって恋愛関係?というのも考えていたのだが、新島さんの言い方を聞く感じではその要素は無さそうである。
「だけどさ」
と言って新島さんはぐいっと千里の方に乗り出して訊く。
「あんた、本当に男の娘なの?」
「あはは。どうもそうみたいです」
と千里は身体を引きながら答える。
「胸は本物だよね?一度触っちゃったし」
「はい。中1の頃から育ててきました」
「へー。その頃から女性ホルモンやってたんだ」
「そのあたりはちょっと説明すると長くなるんですけど」
「ちんちん付いてんだっけ?」
「さすがに付いてません」
「だよねー。高校2年だっけ?3年だっけ?でまだ声変わりが来てないってのは、もう手術してしまってるんだろうなとは思った」
「ある時期までは女性ホルモンで抑えていたんですよ」
「ああ、なるほどね。でも高校生で性転換しちゃうって凄いね」
「時々いるみたいですよ」
「そうかもね」
と言って新島さんは誰かのことを考えているかのような顔をした。
千里が今日はホテル泊りということを言うと、だったら晩御飯食べて行きなよと言われたのだが、実際には緊急の電話が入り、新島さんは楽曲を大急ぎで制作しなければならなくなったため、その日の晩御飯は新島さんのマンションのキッチンを借りて千里が作った。
「お疲れ様です。カレーですけど、よろしかったら」
と言って、1杯盛って新島の机の所に置く。
「さんきゅ、さんきゅ。やはりこういう時カレーはいいよ。香辛料の塊だからけっこう精神を刺激するし、カロリーは取れるし」
「私野菜を炒めるのにバターとか使わずにサラダオイル少々で炒めるから少し薄味かも知れませんけど」
「私も基本的に薄味が好き〜。毛利君とか濃いのが好きみたいだけどね。UFOにウスターソース掛けて食べるって言うもん」
「それは凄いなあ。私はUFOはソース半分しか掛けないです」
「あ、私もー」
作業の邪魔にならないよう、千里も1杯カレーを食べてからホテルに戻ろうとしていたのだが、千里がカレーを食べている最中に電話が入る。
「はい、はい。え!?」
新島さんの顔色が変わっている。何があったんだ!?
「分かりました。取り敢えずそちらに行きます」
と言って新島さんは電話を切る。
新島さんは30秒ほど考えていたが、やがて千里に言う。
「千里ちゃん、悪いけど、今私が書いている曲。完成させて&&エージェンシーの白浜さんに送信してくれない?」
「いいですよ。何時までに?」
「今日の23:59までに」
「何とかします。何かあったんですか?」
「北原君が倒れたらしい」
「えーーー!?」
「出版社の人が、今日までにもらえることになっていたAYAに関するメッセージが夕方になっても送られてこないんで、電話やメールするもつながらないんだって。それで彼のマンションまで来て、台所の窓が鍵かかってなかったんで開けて見ると人が倒れているように見えて、それで管理会社に連絡して玄関を開けてもらって中に入ると、北原君が居間に倒れていて意識が無かったらしい」
「ひゃー」
「すぐ救急車呼んで病院に搬送したんだけど、家族とかの連絡先が分からないという話で。携帯を見ようとしたけどパスワードロックが掛けられているし、壁に出版社と、雨宮先生と私の電話番号書いた紙が貼ってあったんで、雨宮先生につながらなかったんで私に連絡が来たみたい」
「すぐ行ってあげてください」
「うん」
それで新島さんは飛び出して行った。千里は新島さんが途中まで書いていた楽曲をチェックし、それを完成させることにする。ごく普通の
前奏AABBサビAABBサビ間奏(転調)CCAAサビサビCoda
というパターンのようだ。このうち
前奏AABBサビ********(転調)CC********
の部分が既に完成している。
ここまであれば、普通に作曲の経験がある人なら完成させられる。間奏が無いがそこは適当に作ることにする。コーダも適当に付けることにする。
ソフト自体はいつも使い慣れているcubaseなので全然問題無い。千里は一心に作業を進めていった。
新島さんからは連絡が無い。貴司から電話が掛かってきたものの
「ごめーん。今日は忙しいからダメ。明日電話する」
と言った。
「忙しいって何してんの?」
「ちょっと音楽の方のお仕事なんだよ」
「ああ。なんか時々頼まれるって言ってたね」
「今日の23:59までに納品しないといけないんだよ」
「それは大変だ!」
「私はおしゃべりできないけど、だからといって**ちゃんに電話したりしたら、次会った時に貴司のおちんちん切っちゃうからね」
「なんで知ってんの!?」
23:30を過ぎた所でやっと楽曲は完成する。千里はホッとしてデータを白浜さん宛てに送った。新島さんの携帯に納品が完了したこともメールした。
千里としてはホテルに帰っていいのかどうか悩む。しかしここはこのまま待機していた方が良さそうな気がした。
ソファで毛布をかぶって目をつぶり仮眠を取っていたら、1時過ぎに新島さんから電話がある。
「千里、雨宮先生を何としても捕まえて連絡してくれない?」
「分かりました。何とかします。北原さんの容態は?」
「今危篤状態」
「えーー!?」
「薬と人工呼吸装置で何とか持たせている状態。毛利君が北原君の実家の電話番号をアドレス帳に入れてたんで、それでご両親には連絡が付いて、今こちらに向かってもらってる」
「そうですか」
電話を切ったものの、千里はどうやって先生を探すかというのを悩んだ。
『りくちゃん。私を雨宮先生のご自宅の中に連れ込める?』
『OKOK』
『鍵掛かっていると思うけど』
『鍵くらい掛かってても関係ないよ』
それで《りくちゃん》はほんの10分ほどで千里を雨宮先生の自宅に連れていってくれた。
『セキュリティが働いているけど沈黙させていいよね?』
と《げんちゃん》が言う。
『うん。沈黙させて』
それで室内を自由に動けるようになったようである。ただ警備会社はセキュリティが死んでいることに気づいたら駆けつけてくるかも知れない。千里は20分以内に手がかりをつかまなければならないと思った。
机の引き出しを開けようとしたが鍵が掛かっている。
『そのくらい開けるよ』
と言ってそれも《げんちゃん》が開けてくれた。
見ていると住所録がある。そのひとつひとつを見ていく。指が止まる。
「これか」
と千里は独り言をつぶやいた。
千里はそこに電話する。60回ほど鳴らした所で「はい」というぶっきらぼうな女の声がする。
「夜分恐れ入ります。私、雨宮先生の弟子で村山と申します。緊急事態なんです。雨宮先生を出してもらえませんか?」
「うん。いいけど」
「誰よ、こんな夜中に?」
と雨宮先生は物凄く不機嫌そうに答えた。
「夜分恐れ入ります。村山です。実は北原さんが倒れて危篤状態なんです」
「何〜〜〜!?」
雨宮先生は(群馬県の)草津温泉に居るということであった。
「すぐ行きたいけど、私、お酒飲んでて車が運転できない」
と先生は言う。
「タクシーとかダメですかね?」
「さすがに東京までは走ってくれないよ」
それでしばらく考えていた先生は千里に言った。
「あんたさ、今どこに居るの?」
「実は先生のご自宅です。申し訳ありません。緊急事態なので勝手に中に入りました」
「よく入れたね!」
「勝手口が開いてたので」
「うーん。あそこはしばしば鍵掛け忘れるんだよ。でもそれなら好都合だよ。千里、私のフェラーリを運転してこちらまで来てよ」
「えーー!?」
「タクシーは料金弾めばたぶん前橋か高崎くらいまでは行ってくれると思う。だから高崎付近で落ち合おう。車のキーは居間の壁に掛かっているから」
千里は少し考えたがすぐにそれしかないと判断した。
「分かりました。行きます。フェラーリは612スカリエッティの方ですか、エンツォフェラーリですか?」
「612スカリエッティに決まってる。エンツォフェラーリはさすがに他人には触らせたくない」
612スカリエッティは新車で3000万円ほどの価格だが、エンツォフェラーリは中古でも1億円くらいする。
「了解です。ではエンツォフェラーリでそちらに向かいます」
「あぁ!?」
怒ったような先生の声を無視して電話を切ると、千里は居間に行き、鍵を探す。
『千里、これがエンツォフェラーリの鍵だよ』
と《りくちゃん》が教えてくれる。
『さんきゅ』
それで千里はガレージに行き、エンツォフェラーリに乗り込む。バタフライドア(ガルウィングに似た開き方をするドア)がかっこいい!! エンジンを掛けて車を出す。家の外でいったん車を停め、戸締まりをしてから、沈黙させていたセキュリティを復活させる。
貴司からもらったスントの腕時計で時刻を見る。今2時だ。高崎までは2時間くらい掛かるかなと思った(東京−高崎間は100kmほど)。
ガソリンがあまり入っていないので最寄りのセルフ給油所に寄り満タンにする。なんか随分周囲から注目されている感じ。まあ注目するよね。
『千里、急ぐんだろ? 私が運んであげるよ』
《くうちゃん》が言うのでお願いする。
するとあっという間に高崎市内に来ていた!
『くうちゃん、すごーい』
『千里少し寝てなさい』
『うん』
雨宮先生からの電話で目が覚める。
『今タクシーで渋川市内まで来た所。今あんたどのあたり?』
『高崎市内です。すぐお迎えに行きます』
『何〜!?』
現在3時半である。
結局中間の前橋のファミレス駐車場で落ち合うことにする。先生の方は別のタクシーを使って移動するようだ。千里の方はまた《くうちゃん》に運んでもらい、時間があるので店内に入ってテイクアウトメニューのチキンを頼み、それを持って車に戻って、先生が来るまで眠っていた。
トントンという窓をノックする音で目を覚ます。ドアを開けると先生が助手席に乗ってくる。先生は女性を同伴していたが、この車は2シーターなので乗れない。交通費を渡してひとりで帰ってということになった。ついでに千里がファミレスで頼んだチキンを彼女に渡した。
「お疲れ様です」
「ほんとにエンツォフェラーリ持ってくるとは思わなかった」
「すっごい気持ちいいですよ。この車」
「万一少しでもこの子に傷が付いてたら、1発やらせてもらうからね」
「いいですよ。そのくらい」
千里があっけなく同意するので、先生は少し拍子抜けしたようだ。
千里はスムーズに車を発進させ、関越に乗る。ETCが付いていないので通行券を取って入った。軽快に加速させて本線に合流する。2車線目に移動して流れに沿って走るが、やや遅めの車が居たら3車線目を使って華麗に抜いていく。《捕まらない程度の速度》で走って行く。
「あんた、だいぶうまくなった」
「随分先生のおかげで運転させられましたから」
「私寝てていい?」
「はい、お休みになっててください」
そして千里は先生が熟睡状態になるのを待って、左車線に移動し速度を落として非常駐車帯に停めてから《くうちゃん》に頼んで車を都内の北原さんが入院している病院のそばに運んでもらった。病院の駐車場に入れ、空いている枠に駐める。結局到着したのは4:45くらいである。
「ん?」
エンジンが停止した気配に先生が目を覚ます。先生が寝ていたのは多分30分くらいだ。
「ここどこ?」
「北原さんが入院している病院です」
「ここ何区?」
「新宿区内ですね」
雨宮先生は自分の携帯で時刻を確認する。
「あんた、どんだけスピード出したのよ!?」
「緊急事態ですし」
雨宮先生は少し考えるようにした。
「いや、あり得ない。あんた40分で前橋から新宿まで移動している。平均速度でも170-180km/h, たぶん最高速度は300km/h近く出さないと無理」
「その速度が出るマシンでしょ?」
エンツォフェラーリの最高速度は350km/hである。
雨宮先生は少し額に手を当てて考えている。
「やめた。考えても仕方ない気がする」
「それより北原さんが心配です」
「うん。病室に行こう」
ナースステーションで尋ねると北原さんはICU(集中治療室)に入れられているということであった。案内されて行くと、新島さん、そして北原さんのご両親が廊下のソファに座っていた。
「新島、容態は?」
「先生が覚悟してくれと言っています」
先生はご両親に管理が行き届かず申し訳ないと謝るが、お父さんは、いや息子がきっと不摂生だったんですと言い、恐縮していた。
そして北原さんは千里たちが到着して間もなく、帰らぬ人となった。
「結果的には千里の暴走運転のおかげで北原の死に目に間に合ったことになるんだろうな」
と雨宮先生は若干八つ当たり気味に言った。先生がこんなに悲しそうな顔をしているのは初めて見た。
医師の所見によると北原さんは膵癌ということであった。
「だって夏の健康診断では何も異常無しだったと言ってたのに」
と言って新島さんが絶句する。
「膵癌は検診などでもひじょうに発見しにくい上に進行が物凄く速いんですよ。見つかった時は手遅れということが多いですし、また手術がひじょうにしにくい場所なので治療も困難なんです」
と医師は言う。
「新島、北原自分の健康について何か言ってなかった?」
と雨宮先生が訊く。
「特に聞いてませんでした。最近仕事が大変だから疲れが溜まり気味とはおっしゃっていたのですが、なにぶんこの業界みんなオーバーワークなので」
「売れっ子はオーバーワークで、過労になりようもない作家は食っていけないという業界だからなあ」
と雨宮先生は苦渋の表情で語る。暇さえあれば女とデートしている雨宮先生も年間60-70曲を生み出す多忙な生活を送っている。
「こないだどうしてもカップ麺とコンビニ弁当とレトルト食品のリピートになりがちとか言ってたから、早く結婚しなよとか言っていたのですが」
「あの子、恋人とかはいなかったんでしょうか?」
とお母さん。
「毛利君の話では好きな人はいるみたいだった。でも話したこともないんだって」
「片思いか」
水戸から駆けつけてきたお父さんのお姉さんなどとも話し合い、慌ただしいものの、今日通夜をして明日15日に葬儀をすることになった。1日置いて明日通夜で16日葬儀というのも検討したのだが、16日が友引なのでそれを避けようとすると、17日通夜・18日葬儀となり、亡くなってから日数を置きすぎることになってしまう。
「千里、あんた今日の用事は?」
と先生から尋ねられる。
「オールジャパンの主宰者からの招待で今日の決勝戦を見ることにしていたのですが」
「明日は?」
「明日まで冬休みです」
「今日の試合は何時?」
「14時からです」
「今日帰る予定だったんだよね?」
「はい。最終の飛行機が17:55羽田なので、表彰式は見ずに試合だけ見て帰るつもりでいました」
「じゃ明日帰りなさい」
「そうします」
それで千里は今日の男子決勝戦を見た後斎場に入り、通夜の手伝いをすることになった。千里は航空会社に電話して航空券の期日変更の手続きをした。
「北原さん、ご兄弟とかはおられなかったんでしたっけ? 私、北原さんの個人的なこと全然聞いてなくて」
と千里が言うと
「お姉さんがいるんだけど、フランス留学中なんだよ」
と新島さんが言う。
「フランスですか!」
それについてお母さんが語った。
「さきほど娘と電話で話しました。娘は一時帰国すると言ったのですが、帰ってくるなと言いました」
「なぜ?」
「あの子、来週がコンテストなんです」
「わぁ・・・」
「そんな時に日本との往復なんかやって、まともな演奏できる訳がない。お前が帰って来て弟が生き返る訳でも無いんだから、そちらで念仏でも唱えていなさいと言いました」
「辛い所ですね」
「あの子、来週のコンテストのためにこの半年くらい物凄い練習をしてきているんです。それをたとえ弟の葬式のためとはいえ、直前に中断はさせられませんし、あの子を指導してくださっている先生にも申し訳ありません」
とお母さんは沈痛な表情で言った。
結局お姉さんはコンテストが終わってから一時帰国することにし、お姉さんが帰って来た所で初七日をすることになった(最近では多くの場合、葬儀当日に初七日までしてしまう)。
そんな話をしていた所に医師がやってきて書類にサインを欲しいと言う。
それでお母さんがサインをしようとしたのだが、ふと気づいたように言う。
「先生。性別が間違ってます」
「え?」
「女に丸が付けてありますよ」
「え?だってお嬢さんですよね?」
「いえ。息子ですけど」
「えーーー!?」
医師は確かに患者は女であったと主張する。それで、ひょっとして他人と誤認しているということはないかという話になり、千里や新島さんも含めて霊安室に行った。
「息子だと思いますけど・・・」とお母さん。
「北原君だと思う」と新島さん。
千里も頷く。
「でも患者は女性ですよ」
と言って医師が服をめくると、下着は女物を着けている。バストも小さいながらも、どうみても女性のバストである。
「ちんちんある?」
と雨宮先生が訊くので、医師がズボンを下げてみる。女物のショーツを穿いている。そのショーツを下げると、紛う事なき女性の陰部があらわになる。
「どういうこと?」
雨宮先生が言う。
「可能性1.これは北原に似ているが別人の女性。可能性2.北原は人知れず性転換手術を受けていた。可能性3.北原は元々女だったが男を装っていた」
「あの子、少なくとも生まれた時は男の子でした」
とお母さん。
「北原君の裸を最後に見たのは?」
と新島さんが訊くと、お母さんは自信がないよう。お父さんも
「一緒に温泉とかに行ったことがないので、幼稚園の頃以降は裸は見てません」
などと言う。
何か知ってないかと最も交流の深かった毛利さんに電話してみる。
「え? 北原って女でしょ?」
と毛利さんは言った。
「えーーーー!?」
毛利さんに話を聞いてみると、最初に会った時にふざけて抱きついたりしたら女の感触だったのでびっくりしたという。それで毛利さんとしては北原さんは男装の女性だと思っていたというのである。
「へ? 北原って元々は男だったんですか?」
と毛利さんはそちらの方に驚いている。
お母さんがフランスにいるお姉さんに電話してみた。
「性転換手術までしてたのは知らなかった。でもあの子、女の子になりたがってたよ。女性ホルモンを飲んでいたのは知ってた」
などという。
「雨宮先生、ご存じなかったんですか?」
「全然気づかなかった!」
「でも世間的には、自分の女性指向を隠して男を装って生活している人って多いよね」
と新島さんは言う。
そしてお姉さんは言った。
「あの子、本当は女の子だから。戒名を付けるのに信士とか居士とかは付けないであげて。信女とか大姉とかにしてあげて」
「えーー!? でもお寺さんがそんなこと認めてくれる?」
「黙ってりゃ分からないよ。女の子の服を着せてあげて、女の子っぽく写っている遺影を出しとけばいいよ」
お母さんとお父さんは、息子が亡くなったこと以上に息子がいつの間にか娘になっていたということの方にショックを覚えている感じであった。
「だけどいつの間に性転換したんだろう」
という話になるが、千里が
「済みません。北原さんのお股、もう一度見せてもらえます?」
と言う。
お母さんが「いいですよ」と言って、ズボンと下着を下げてみせてくれる。すると千里はそのお股のところに手を当てると《陰毛》を剥がしてしまった。
「え!?」
「付け毛か!!」
「傷跡が!」
先生に再度来てもらい見てもらう。
「これは手術が終わってからまだ一週間程度の傷跡だと思います」
と医師は言った。
「じゃ女の子になりたて!?」
とお母さんが驚いたように言う。
「まさか、手術の後遺症で亡くなっということは?」
と新島さん。
しかし千里は言った。
「おそらく、北原さん、自分のご病気のことご存じだったと思うんです。それで死ぬ前に女の子の身体になりたかったんですよ」
「ああ、それなら分かる」
と新島さん。
「再度ちょっと検査していいですか?」
と言って医師は遺体を再度検査のできる部屋に運び込み、そこで採血したりしてデータを再チェックしていた。そして1時間ほど経った所で言った。
「性転換手術は、死因には無関係だと思います。この膵癌の進行状態ではどっちみち、ここ1ヶ月ほどの命だったと思います」
「どうも千里の言ったのが正しいみたいね」
と雨宮先生は沈んだ表情で言った。
千里はなんだかんだで結局お昼過ぎにやっと病院を出た。それで代々木体育館に行くと宇田先生から
「昨夜、ホテルに居なかったみたいだけど?」
と訊かれる。
「済みません。実は都内の知人が急病で倒れて」
「そうだったの?大丈夫だった?」
「亡くなりました」
「えー!?」
「それで申し訳ありません。今夜お通夜で明日葬儀なので、それに出てから明日の最終便で旭川に戻ります」
「分かった」
男子の決勝は本当にハイレベルだった。激しい接戦が続き、最後の最後までどちらが勝つか予想の付かない展開となり、最後は3点差で決着した。オールジャパンのラスト・ゲームにふさわしい試合だった。
千里としても色々刺激になるものはあった。しかし今日はそんなことより北原さんのことをあれこれ考えていた。
決勝が終わった後で、宇田先生と一緒に本部の人に挨拶してから体育館を出ることにする。その時、協会幹部の人に呼び止められた。
「後で公式の招集状が行くと思いますが、村山さんトップ・エンデバーに招集するつもりですから、よろしく」
「あ、そうなるでしょうね。こちらもよろしくお願いします」
と宇田先生は返事した。
「エン・・・何とかって何ですか?」
と千里は宇田先生に訊いた。
「エンデバー(Endeavour)だよ。まあ強化合宿だね」
「へ?」
「強い選手を学校の枠を超えて招集して鍛えて、将来の日本代表を育てるんだよ」
「へー!」
日本代表?私が!?まさかね。
連絡を取って斎場に行く。喪服を用意してもらっていたので、黒いワンピースにボレロという形式の喪服を身につけ、千里は受付の所に立って弔問客の相手をした。北原さんの遺影が女性のように見える(毛利さんが女装の北原さんの写真を持っていたので、それを使用した)ので、戸惑うように質問する弔問客もあるが、千里は故人は実は男装の麗人だったんですよと説明し、みな一様に驚いていた。
千里が受付けに立っているので、新島さんが各種の手配をして、力仕事は新潟から駆けつけてきた毛利さんがしていた。また関わりのあった幾つかのプロダクションやレコード会社の若い人もお手伝いをしてくれた。
故人は女性ということで通してしまったので、お坊さんも特に疑問を抱かずに○○大姉という戒名を書いてくれたが、その戒名を見つめる両親は複雑な表情であった。
北原さんは、おそらく性別の問題があったのだろうが、学生時代の友人というのが全くいなかったようである。それで弔問客は、音楽の仕事関係の人たちと両親の友人などに限られ、そんなに人数は居なかった。
★★レコードの加藤課長も来てくれたが
「いつだったか、北原君は男装の麗人なんだよと言ってたの、本当だったんですか!?」
と物凄く驚いていた。
あれは雨宮先生の冗談だったんだけどね。
しかし北原さんが女だったというのはマジで驚いたが、万一毛利さんが女だったりしたら、私は心臓がショックで止まるかも、などと思う。でも北原さん、片思いの人が居たというけど、それ男の人だったのだろうか?女の人だったのだろうか? 毛利さんもその相手のことは聞いてないらしいので、永遠の謎になってしまった。
北原さんがプロデュースしていたAYAの3人も来ていたが、彼女たちは驚きと同時に不安そうな表情もしていた。
最初のプロデューサーが未成年との淫行で捕まって辞退、そのあとを引き継いだプロデューサーが先日病気で倒れた上に、実際の制作指揮をしていた人が急死、というので自分たちはこの後どうなるんだろう?と本当に不安だろう。
「君たちのプロデュースのことについては明日にも一度少し話すから」
と雨宮先生が言うと
「よろしくお願いします」
と3人とも言っていた。
ただその時千里は3人の頭を下げるタイミングがバラバラだったことに気づいていた。最初にゆみが頭を下げ、それに続けてあすかが頭を下げた。あおいは他のふたりが頭を下げたのを見て慌てて自分も頭を下げる。
この3人、あまり仲良くないのかな?と千里は思った。
お通夜が終わった後で、だいたいの片付けなどして引き上げようなどと言っていたら、北原さんのお母さんが何やら物凄く焦ったような顔でやってくる。
「どうかしました?」
「あの、香典が」
「盗まれた?」
「いえ。それは大丈夫なのですが、金額が」
「ん?」
話を聞くと、香典袋の中に20万円とか30万円とかいう恐ろしい金額の入っているものばかりで、加藤課長が代理で持って来た松前社長と町添部長の香典などどちらも100万円くらい入っていたというのである。
「ああ、この業界は冠婚葬祭に包むお金の桁が世間と1−2桁違うのよ」
と雨宮先生は笑いながら言った。
「これが普通なんですか!?」
「この世界で1本と言ったら100万円」
「ひぇー。。。。あのぉ、これ香典返しはどうすれば?」
「ああ商品券を4−5万円分渡せばいいと思うよ」
「きゃーー!」
結局誰からいくらもらったので幾ら香典返しする、というのは後で新島さんに決めてもらうことにした。
「ところで立て込んでいるのに申し訳ないんですが、北原さんの仕事場のマンションを見せてもらえませんか。実は締め切りの迫っている仕事を彼していたので」
と雨宮先生がお母さんに言う。
先生は今日の弔問客には北原さんのことをずっと「彼女」という代名詞で話していた。しかしご両親には敢えて「彼」と言った。子供の性別問題を死んでから知って戸惑っている両親への配慮だ。先生って割と優しいよなと千里は思う。
でもきっとこのご両親、雨宮先生が男だなんて夢にも思ってない!
「はい、どうぞ。自由に見て下さい。必要なものは何でも持ち出して下さい」
それで結局、雨宮先生・新島さん・毛利さん・千里の4人で北原さんのマンションに行き、預かった鍵で中に入る。
「パソコンの起動パスワード(*1)が設定されている。困ったな」
と雨宮先生が言ったが、千里は
「多分 goro です」
と言う。
(*1)正確にはハードディスク・パスワードであった。これはセーフモードで起動してもバイパスすることができないし、ハードディスクを取り出して別のパソコンにつないでもやはり要求される。メーカーの工場にでも持ち込む以外には解除する方法が無い。
それを入れるとちゃんと起動する!
「goroってまさか毛利五郎?」
「きっと北原さん、毛利さんのこと好きだったんですよ」
「嘘!?」
と毛利さん本人がいちばん驚いている。
「AYAの音源製作は次の週末から始める予定だったんだ。楽曲を何とかしなければいけない」
と先生は言う。
北原さんが使用していたCubaseの中身を見ると、未知の楽曲が4曲登録されていた。内容を見ると、2曲はほぼ完成していて、1曲は編曲途中という感じ。1曲はメロディだけだった。
「毛利。今だけ許す。この途中まで出来てる奴を完成させて、このメロディーだけのはすぐにアレンジして。3日以内」
「水曜までですね?」
「うん」
「分かりました。やります」
「千里」
「はい」
「あと1曲書いてくれ」
「5曲入りのCDにする予定だったんですね?」
「そうなんだよ」
「木曜日の朝まででいいですか?」
「うん。それが多分タイムリミット。頼む」
「新島は?」
と毛利さんが訊く。
「こいつは今他の案件を抱えていて時間が取れないんだよ」
「うん。実は明日までに納品しないといけないのがまだできてない」
「高倉を今夜中に応援に行かせるから、葬儀の始まる直前までその作業してろ」
と雨宮先生。
「すみません。お願いします」
高倉さんは熊本在住の雨宮先生の弟子のひとりである。ほどなく夜中の0時頃にこちらに着くという連絡が入った。みんな大変だ!
毛利さんはこのまま北原さんのマンションで作業をすることにした。雨宮先生もそこで既存の2曲の最終調整をする。新島さんは自分のマンションに帰るということだったので、千里はそれに同行し、新島さんのマンションに泊めてもらうことにした。
「私は取り敢えず寝ます」
と宣言する。
「うん。それがいい。寝不足の頭で書いた曲なんて、書いてる時は名作ができている気になるけど、冷静になると実はたいしたこと無いんだ。頭を一度休ませたほうが絶対いいのができる。これは北原君のラスト・ゲームだからさ。いい作品に仕上げてあげたいよ」
と新島さんは少し疲れたような表情で語った。
千里が目を覚ますともう午前4時で、居間では新島さんと高倉さんが真剣な表情で楽曲のスコアを作っていた。千里は「おはようございます」と声を掛けると、まずはコーヒーを入れて2人に出し、その後、カレーを温め直してそれも盛って出した。
「さんきゅ、さんきゅ」
「何か食べたいものがあったら、材料買ってきて作りますが」
「私、なんかお肉が食べたい」
「冷凍室に鶏肉があるから、それ1kg分くらい唐揚げにできる?」
「了解です」
それで千里が唐揚げを作って持ってくると
「すごいジューシー!」
「美味しい!」
と声があがる。
「取り敢えず主婦なもんで」
「あんた結婚してたんだっけ?」
「はい。結婚してちょうど1年経った所です」
「そうだったのか!」
「知らなかった」
この発言は、高倉さんには「結婚している→きっと20歳前後なのだろう」という想像を働かせてしまった気もした。
千里は何か用があったら遠慮無く呼んで下さいと声を掛けてから、ひとりになるため寝室に戻り、そこでパソコンを開けて自分の楽曲の制作を始めた。
昨夜の内に蓮菜にメールして依頼していた詩がもう届いている。AYAの3人に歌わせるのに似合っているような可愛らしい詩だ。『ティンカーベル』というタイトルが付いている。千里はその詩のイメージに合うようなメロディを考え、取り敢えず手書きで五線紙に書き込んでいく。
ティンカーベルといったら、やはりタンスに閉じ込められちゃってバタバタしている所が楽しいよな、などと思うと、何だか楽しくなるようなメロディーが浮かぶ。
バッグの中から自分のフルートを取りだし吹いてみて、それで見付けた旋律を更に書き込んでいく。そのような作業を続けて楽曲の骨格が出来たあたりで新島さんが来て
「そろそろお葬式に行くよ」
と言った。
喪服に着替え、何となく流れでいちばん睡眠を取っている千里が新島さんのゴルフ・カブリオレを運転して3人で斎場に行った。(千里もこの際、免許のことは考えないことにした。新島さんも千里が高校生と知っているが千里の運転が結構慣れた感じだし、フェラーリで雨宮先生を迎えに行ったという話も聞いていたので、多分18歳で既に免許を取っているのだろうと思ったようだ)
今日も千里が受付けの所に立つ。大半は昨日通夜にも来てくれた人たちだが今日新たに、彼女のネット関係の友人などが来てくれていた。北原さんは千里たちが知っていた男性アカウントの他に、秘密の女性アカウントも持っていてそちらでも友人のつながりを作っていたのである。新島さんが「友人の代理書き込みです。このアカウントの本人が今朝亡くなりました」と昨夜書いたところ、お葬式の日時と場所を教えてというメッセージが多数あり、それも日記として書いた。すると弔電を送ってくれた人、そして葬儀に来てくれた人たちもあった。
この人たちは《まともに》5000円程度の香典を包んでくれたので、会葬御礼に同封してビール券3枚(2016円相当 *1)を渡している。
新島さんは毛利さんとも話した上で、葬儀場での混乱防止のため、北原さんの男性アカウントの方には落ち着いてから亡くなった旨を書こうということにしていた。
(*1)ビール券の「額面」は1997.04-2006.04は674円、-2008.03が672円、-2014.03が706円、2014.04以降は724円。
葬儀は11時から1時間ほど行われた。その後、親族の人たちの会食が行われたが性別問題で戸惑いの声が上がり、実は両親も戸惑っているということで話が混沌としていたが、本人の従姉にあたる人が
「子供の頃、あの子けっこう女の子っぽい性格だよなと思ってたよ」
と発言すると、母親も
「今になって考えてみると、若干思い当たる節もある」
と言った。
「あの子、高校の頃、女物の下着を隠し持っていたんです。《おいた》するのに持っているのかなと思ってたんですが、きっと自分で着てたんですね」
実際問題として北原さんのマンションにあった衣類は9割が女物であった。北原さんは毛利さん・新島さんを始め、友人を自分のマンションに入れることが全くなかったらしいが、そういう生活を見られないようにするためだったのだろう。
親族の会食が行われていた間に、雨宮先生と新島さん・毛利さん・千里、それに加藤課長、H出版社の辛島社長とで緊急の打ち合わせをした。
楽曲はほぽ出来ているし、CDの制作・リリース時期は一応予告されているので、これは動かしたくないという線で意見が一致した。問題は制作指揮を誰がするかである。
「ロイヤル高島先生はご無理なんですよね?」
と新島さんが言う。
「実は表向きには病状は安定していることになっているんですが、本当はかなり深刻な状況なんですよ。薬もかなり強いものに変えたので今頭髪も全部抜け落ちています。意識も無い時間の方が長い。ここ1ヶ月程度が山場だと医者からは言われています」
と辛島社長が打ち明ける。
みんなそんなに重症とは思っていなかったので鎮痛な表情になる。
「このプロジェクト呪われてないよね?」
と雨宮先生が言っちゃう。
それは恐らくこの場にいる全員が思っていたことだろう。
新島さんは不穏な空気を打ち破るように発言する。
「ロイヤル高島先生がそういう状況であるなら、提案です。飲酒運転の謹慎期間がまだ解けていないのですが、ここは毛利君にやってもらうのが最もよいと思います。彼はこれまでアイドルのCDプロデュースを何度もしています」
毛利さんは昨年8月25日に飲酒運転で捕まったため、半年間、今年の2月いっぱいまで音楽活動を自粛することになっていた。
雨宮先生も
「制作期間の2週間ほどだけ一時解除。その代わり謹慎は3月まで」
という線を提示。
加藤さんも辛島さんも、やむを得ないでしょうねということで了承した。制作のクレジットはロイヤル高島さんと北原さんのままにし、今後のプロデュースに関しては、新たな人選をする方向で検討することにした。また今回の制作では、雨宮先生も現場に入って、実質的に監修することになった。それで結果的に雨宮先生の仕事の一部が新島さんに掛かってきたし、その影響で千里と高倉さんと鮎川ゆまが1曲ずつ書くことになった。
なお実際の制作の時は、雨宮先生がTV番組やライブなどの立ち会いでどうしても出られない日に、友人の作曲家・上島雷太さんが代理で出席してくれた日が数日あった。そしてそれが縁で、このあとのAYAのプロデュースは上島さんがすることになっていくのである。そして1年後までにはAYAは「たくさんプロデュースはしているけど、大きくはヒットしていない」などと揶揄されていた上島さんにとっても、自分がプロデュースする中で最大の人気歌手となる。
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【女の子たちのラストゲーム】(1)