【女の子たちの塞翁が馬】(下)

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一方、八雲と別れた美空と月夜は空港で実父の車に乗り、最初、月夜の希望で優佳良織工芸館に行く。
 
「小学1年生くらいの頃に来たっきり、ここ来てなかったのよね」
などと言って月夜は懐かしそうであった。
 
販売コーナーで優佳良織の財布とストールを買い求め、美空に
「どちらかあげるよ」
と言ったら、美空は
「私、財布は落としそうだからストールにする」
と言うので、月夜が財布を取った。
 

その後、今度は美空の希望で、あさひかわラーメン村に行く。
 
「私、ここのラーメン屋さん8軒を制覇したかったのよ」
と美空は楽しそうである。
 
「じゃ次来た時、また来るかい?」
と父は言ったのだが
「お父ちゃん、それ美空を理解してないよ」
と月夜に言われるが、意味がよく分かっていない。しかし父は2時間後に月夜のことばを思い知ることになる。
 
まずは知名度の高い梅光軒に入る。
 
「醤油ラーメンの大盛りに味玉、パターコーン、それからチャーシュー4枚」
などと美空は楽しそうに言う。
 
札幌は味噌ラーメンが名高いが旭川は醤油ラーメンに名品が多い。
 
(注.梅光軒のラーメン村店は2008.4.25オープンなので本当はこの当時はまだやっていません) 
「うちのラーメンは元々ボリュームあるよ」
とお店の人が心配して言ったが
「ああ、じゃ残したら僕がもらうから」
とお父さんが言うので、お店の人もそれでオーダーを入れる。月夜は醤油ラーメンのハーフサイズ、お父さんは塩ラーメンのハーフサイズにした。
 
しかし、ここはハーフサイズでも結構ボリュームがある。実際問題として父はそれを食べただけでけっこうお腹いっぱいになった。
 
が美空は楽しそうに大盛りのラーメンを食べている。見事に完食したところでお店の人が
「凄いね。君、女子高生?」
と言った。
 
「はい。生物学的には。でも食欲は男子高校生並みだってよく言われます」
と美空が笑顔で答えると
 
「じゃ、名誉男子高校生の称号をあげるよ」
などとお店の人は言っていた。
 
「だったら、ちんちん付けちゃおうかな」
と美空は言いい、
「ああ、いいかもね。誰か余っている奴のチンコ取ってこようか」
などと言ってお店の人は笑っていた。
 

「でもおちんちん余ってる人ってどんな人だろう?」
「うーん。2本持っている人とか」
「2本あったら、どちらからおしっこすればいいか悩むよね」
「さあ、おちんちん付けたことないから分からないな」
 
などという娘たちの会話を父は困ったような顔で聞いていた。
 
次に「旭川らぅめん」と称する青葉に入る。梅光軒が近年の人気一番店なら、青葉は蜂屋と並ぶ旭川ラーメンの最老舗で、旭川ラーメンのルーツのひとつである。
 
美空はまた醤油らぅめんの大盛りを頼んでいるが、お父さんは味噌のハーフにし、月夜は飲み物だけである。
 
「おまえよく大盛りが連続で入るな」
と父が半ば呆れ気味に言うが、美空は楽しそうに食べている。ここも10分ほどできれいに完食して
 
「お嬢ちゃん凄いね。お嬢ちゃんだよね?」
などと性別に疑問をつけられる。
 
「おちんちん付ける手術受けないか?と言われたことありますよー」
などと美空は言っている。
 
お店の人は冗談だと思ったようだが、父が
「あの医者は藪だよ。言ってたことが無茶苦茶」
などと言ったので
「あんた、ほんとにチンコ付けたらと言われたの?」
とお店の人は驚いていた。
 

2軒で大盛りを食べたので
 
「お腹も膨れたし帰ろうか。次は旭山動物園にでも行く?」
と父は言ったのだが
「まだまだ食べるよ」
と美空は言って、楽しそうに天金に入って行く。月夜は笑っている。美空がお店に入っていくので父も慌ててそれに続く。
 
もはや父も姉も飲み物だけである。美空は「正油ラーメン」の大盛りを頼んでまた楽しそうにおしゃべりしながら食べる。
 
天金の後は、更にここも本州の人に知名度の高い山頭火に入り、ここでは「しおらーめん」のやはり大盛りを食べる。このあたりから、もう月夜と父は席に座らず後ろで立って見ている。
 
次はSaijoで塩ラーメン、いし田で味噌ラーメン、一蔵でも味噌ラーメンと食べて最後は、いってつ庵で醤油ラーメンを食べて、さすがの美空も
 
「ちょっとお腹いっぱいになったかな」
と言った。
 
(注.一蔵はその後閉店したようで、2014年現在は代わりに工房加藤ラーメンが入っている模様:旭川の有名な製麺所・加藤ラーメンの社長の弟さんがやっている店) 
「そりゃ、ラーメンの大盛りを8杯も食べればお腹いっぱいだろうね」
と言って月夜は笑っているが、父は物凄く心配そうに言った。
 
「美空、おまえ、契約書に体重のことは書かれていないの?」
「どうだったっけ?」
 

「まあ、どうぞどうぞ。取り敢えず1杯」
と牧場のオーナーは蔵田に地酒を勧める。
 
「お肉も好きなだけ食べてくださいね」
と言われるので、蔵田も樹梨菜も、すき焼きをどんどん食べている。
 
「美味しいですね。ここの牧場の牛なんですか?」
「いや、うちは肉牛は育ててないもんで。近隣の牧場の北見牛なんですけどね」
「へー。でも凄くうまいですよ」
 
「でも社長さん、女の子に興味無いんでしたら、可愛い男の子を手配しましょうか?それともたくましい方がいいですか?」
などとオーナーが小声で言うと、思わず蔵田は
「お、いいですね。どちらも好きですよ」
と言うが
「浮気したら去勢」
などと樹梨菜に耳元で言われて
「じゃ、次の機会に」
などと蔵田は名残惜しそうである。
 
蔵田は旭川近郊の食品会社にCM曲を頼まれて北海道に来ていて、東京に帰る所だったのだが、八雲が「もし良かったら、うちの牧場に来て、すき焼きでも食べて行かれませんか?」と誘ったら
 
「北海道のすき焼き、美味しそうだね!」
と言って、空港で返却したばかりのレンタカーを強引に「延長する」と言ってまた借りて、それを飛ばして美幌の牧場まで走ってきたのである。
 
「まあ、ジュリーも飲め」
と蔵田は言うが
「私まで飲んだら、レンタカー返しに行けないじゃん」
と樹梨菜は答える。
 
「ああ、レンタカーくらいうちの若いもんに返却させますよ。料金もこちらで払っておきますから。お帰りは明日ですか?」
「済みません。今日中に帰らないといけないんです。明日の朝、東京でラジオ出演があるので」
と樹梨菜。
 
「だったら、女満別空港まで送らせましょう。ここから15分くらいで行けますから。羽田への最終便は20:20ですよ」
「じゃ、18時半くらいまでは飲んでてもいいかな?」
と蔵田。
 
オーナーさんはすぐ女満別から羽田へのチケットを2枚手配した。
 
それで樹梨菜も
「僕も飲んじゃおう」
と言って、お酒をついでもらい一口飲む。
「美味しい!」
 
そういうふたりの様子を眺めていて八雲はこの2人、ちょっと面白いカップルだなあと思いつつ、ウーロン茶を飲んでいた。
 
要するに生物学的に男性である蔵田さんが女役で、生物学的に女性である樹梨菜さんが男役なんだ! 多分。
 

ラーメン村を出た後、美空・月夜のふたりは、旭川市内のスタジオに入る。ここでDRKの新しいCDの音源製作をすることになっていたのである。美空は∴∴ミュージックと専属契約を結んだので、事務所を通さない音楽活動はできないのだが、契約の発効日が月曜日12月17日なので、16日までは契約に縛られないはず、などと言ってこの音源製作に参加することにしたのである。
 
DRKの最初のシングルは昨年12月に制作したもので、千里の『鈴の音がする時』
(タイトル曲)、麻里愛の『ユーカラ夜想曲』、雨宮先生の『子猫たちのルンバ』
の3曲を収録した。
 
2枚目はこの8月に制作して、麻里愛が書いた『大雪山協奏曲』(タイトル曲)、『ふたりの銀河』、千里の『シークレット・パス』、月夜が書いた『恋の旅人』
の4曲を収録している。
 
今回は千里も計画的に頑張ったので2曲提供できた。『届かないラブソング』、『青い翼』、そして麻里愛が書いた『石狩川序曲』、そしてまた月夜が提供してくれた『塞翁が美味い恋愛』の4曲を今日明日で吹き込もうということになっている。
 
参加メンバーは前回の大波さんを含めた14人に、更にL女子校から同じバスケ部1年の空川美梨耶さんが加わって15人になっている(結果的にこの時のメンツがDRKの活動の中では最大人数であった)。但し今回足がまだ万全ではない留実子はベースに回り、ドラムスは京子が打っている。実は空川さんを連れて来たのは彼女がトランペットを吹けるので、京子の代わりにトランペットを吹いてもらうためというのもあった。
 
そして例によって、この人数が集まるのは初めてなので最初は全く収拾が付かない。プロデューサー役の田代君、名目上のリーダーである蓮菜、それに月夜の3人が何とかまとめて行こうとする。この作業で結局初日は終わってしまった。 

スタジオは一応明日の夜まで2日連続で借りているのだが、20時頃
 
「じゃ今日はもうこれで解散してまた明日頑張ろうか」
という話になったのだが、ここで千里が少し悩むようにして言う。
 
「ボーカルだけでも今日録っておこうよ」
 
すると蓮菜も少し考えて
「確かに楽器パートは後からでも何とかなるけど、ボーカルは美空ちゃんが居る間に収録を終えないといけないもんね」
 
と言い、美空や他のボーカル2人も同意して、結局、田代君、月夜、蓮菜とボーカルの4人(花野子・千里・麻里愛・美空)だけ残って、歌の収録をすることにした。(他に鮎奈と梨乃がお茶係と称して残ってくれたし、美空たちのお父さんがお弁当・おやつの差し入れをしてくれた) 
その日の最終的な譜面を大急ぎでMIDIに反映させたものを鳴らして、それに合わせて歌う。プロダクションから依頼された技術者さんも付き合ってくれたので、このメンツで結局夜12時近くまで掛かって4曲のボーカル部分だけを収録した。 
「結果的にここから譜面自体は変更できないね」
と蓮菜と田代君は言った。
 

そして後から和泉や冬子が「熱い1日」と呼んだ2007年12月16日(日)。 
この日、冬子は名古屋の伯母から民謡の大会の伴奏を頼まれていたので愛用の三味線を持ち、小紋の着物を着て朝から東京駅に行こうとしていた。出がけに父が
 
「何だか女物みたいな着物だな」
と言ったが、冬子は
「民謡の着物って派手だよね」
などと言って父の言葉をスルーして出かける。
 
ところが東京駅で新幹線に乗り換えるのに切符を買おうとしていた所に電話が掛かってくる。
 
「おはようございます、蔵田さん」
「洋子、今日暇か?」
「伴奏の仕事で今から名古屋に行くんですけど」
「じゃ、まだ東京だよな?」
「はい」
「じゃ、今すぐ青山に来て」
「は? いや、私が行かないと歌う人が困るから」
「そんなのアカペラで歌わせておけばいいよ。俺が来いと言ったら来い」
 
冬子はため息をついて
「分かりました。そちらに行きます。和服なんですけどいいですかね」
「ああ。それもまたイマジネーションを掻き立てられるかも」
 
それで冬子は仕方なく、伯母に急用で行けなくなったことを連絡する。伯母はじゃ何とかしようと言ってくれたが、この時は従姪で埼玉に住む小学6年生の三千花(後の槇原愛)が急遽出て行って代役をしてくれたらしい。三千花は小学生とはいえ、当時は鶴派代表の後継候補者だったので、小さい頃から鍛えられており、三味線自体の腕は冬子よりずっと巧かったのである。
 

8時頃。和泉は大宮駅に出て、新幹線乗り場へ向かっていた。この日はここの所ひじょうに多忙であったKARIONに関わる作業が一段落し、長野の親戚からおそばでも食べにおいでよと言われ、戸隠神社にお参りして当地のそばを食べようということで単身、長野に行く予定だった。母と妹も誘ったのだが、母は着ていく服が無い(要するに長野まで行くのが面倒くさい)と言い、妹はゲームの発売日なのでそれに並ぶと言って早朝から新宿に出て行った。
 
それで新幹線に乗る前に飲み物と軽食でも買っておこうと思い、構内のお店に入ってパンとウーロン茶を選んでレジに並んだ時、直前に並んでいた女子高生が驚いたようにこちらを振り向いた。
 
「和泉ちゃん!ごぶさた!」
 
和泉は目をぱちくりした。
 
「ごめーん。誰だっけ?」
「あ、分からないよね。私、照橋」
「もしかして陽成君?」
「うん」
 
「嘘!? 女の子になっちゃったんですか?」
「最近けっこうこの格好で出歩いている。学校には学生服で行ってるけどね」
 
それは中学の時のコーラス部の先輩であった。当時から彼はかなり女性的な性格で、そのため他の男子とはあまり会話などせず、といっても女子の大半は彼を男とみなしていたので、結果的にいつもひとりでポツンとしていた。コーラス部では音域が広いのでバスに入れられていたが、
 
「実はアルトも出るんだ」
と言って、和泉たち数人のごく親しい人にだけアルトボイスでの歌唱を聴かせてくれていた。彼はピアノもうまかったので、しばしば歌わずに伴奏をしていた。本人としても音楽が好きでコーラス部に入っているものの、男声を使うことにストレスを感じるようで、かえってピアノを弾いている方が気楽っぽかった。 
「アルトボイスで話せるようになったんですね」
「うん。中学の頃はこの声で歌えても話せなかったんだよね。息の切り替えが難しいからテンポの速い曲とか、しゃべるのは難しいんだよ」
 
確かに当時彼が和泉たちに聴かせてくれたのは、滝廉太郎の『花』とか、メンデルスゾーンの『歌の翼に』など、ゆったりしたテンポの曲ばかりであった。彼は一応アルトボイスと言っていたが、音域的には充分ソプラノ域まで行っていた。 
「和泉ちゃん、どこ行くの?」
「長野の親戚まで」
「私、八王子でピアノの大会があるのに出るんだ。和泉ちゃん聴いてくれない?」
 
和泉は10秒ほど無言で考えてから言った。
 
「いいよ」
 

旭川では千里たちが朝9時からまた集まり、がやがやとしながらも楽曲の練習をしていた。
 
「『青い翼』はだいぶまとまってきたと思う。これ収録しようよ」
「よし。まずは1曲確定させるか」
 
というので、いちばん易しい曲の演奏を何とか仕上げて収録する。15人もの人数でやっていると、全員ノーミスで演奏するのはなかなか大変なので、結局3回録音したところで、あとでうまくつなぎ合わせますよと技術者さんが言って、それでいいことにした。
 
「ところで昨夜遅くなって、田代君がどこに泊まったのか興味あるんだけど」
などと京子が言うので、蓮菜はあっさり
 
「私んちに泊めたけど」
と言う。
「叔母さんから何か言われなかった?」
「叔母ちゃん、私がまだ雅文とつきあっていると思い込んでいるから」
「でもあんたたちいいの?」
 
「まあ純粋に寝ただけだし」
と田代君。
「ああ、何もしなかったのね?」
「うん。一緒のお布団に寝ただけ」
と蓮菜。
 
「同じ布団なの〜〜〜!?」
「大丈夫だよ。セックスしたくなったら避妊するから」
「そりゃ避妊はしなきゃだめだけど」
 
「蓮菜も田代君も恋人いるんでしょ?」
「いるけど、セックスしないなら一緒に寝るくらい、いいよね?」
「いや、その感覚は絶対おかしい」
 

「ところで、皆さん聞きました? 例の放火犯の賠償問題」
と大波さんが言う。
 
「あ、聞いた聞いた。深川市・旭川市・北海道への賠償金3000万円は全部払って、C学園にも2000万くらい取り敢えず渡したらしいね」
「うんうん。それで、C学園側も民事訴訟を起こすのは留保しておいて、今後を見守るとか」
「それでその5000万をなんでも妹さんが調達したって言うんでしょ」
「そうそう。そういうことらしい」
「でも妹さん2人って高校生だよね。どうやって作ったんだろ」
「あ、ふたりとも高校は辞めたらしいよ」
「確かに学校行きづらいよね」
 
「だけど女子高生が5000万円も作るってどうすればできるんだろ?」
「まさか、身売り?」
「いや、身売りして5000万円払ってくれる人がいたら私が身売りしたい」
「どんなに高額でも1桁小さいよね」
「相手がアラブの大金持ちだとか」
「アラブの大金持ちなら5億払ってくれるかも。それで賠償金を倍くらい払ってしまうとか」
「じゃアラブの小金持ち」
「やはりアラブなの?」
 

冬子は青山のカフェで蔵田さんのアイドル談義に付き合い、やれやれと思っていた。蔵田さんは創作を始める前に長時間、色々な音楽談義をする癖がある。その間におそらく構想をまとめているのだろうが、こちらはただ聞いているだけなのでなかなか疲れる。でも話を聞くだけなら私でなくてもいいよね?などと思っていたら
 
「洋子聞いてる?」
などと言われる。
 
「私、今日名古屋に伴奏の仕事に行ってたら、きっと、ひつまぶしのお弁当くらい食べられたかも知れないのに」
などと言っちゃう。長年の付き合いなので遠慮無しだ。
 
すると同じく話につきあわされている樹梨菜も
「あ、私もウナギ食べたい」
と言い、蔵田さんも
 
「んー。じゃ昼飯はウナギでも食うか?」
と言って取り敢えずカフェを出ることになる。冬子がこの着物で臭いのつくうなぎ屋さんには行きたくないと言ったのでとりあえず近くの洋服屋さんで適当な服を買って着替え、それで荷物をスタジオに置いてからうなぎ屋さんに入った。
 
「でも今日は誰に渡す曲を作るんですか?」
「あ、えっと、名前忘れた」
「えーーー!?」
 

午前中はリハーサルのようであった。
 
和泉が客席に座っていると次から次へと今回の大会の参加者が出てきてはピアノの小品を弾いていく。だいたい3−4分くらいの作品が多い。照橋はラフマニノフのピアノ練習曲《音の絵》から作品39-6を演奏した。高音の可愛い旋律と低い旋律が交錯するので「赤ずきんと狼」の異称がある曲である。リハーサルで名前を呼ばれる時「てるはし・ひなさん」と呼ばれていた。その点を演奏を終えて和泉の隣の席に戻ってきた照橋に訊くと
 
「私の戸籍名、陽成(ようせい)って、訓読みすると《ひなり》でしょ?だから最後の1文字を落として《ひな》というのが実は結構小さい頃から使っている私の女性名。今通っている音楽教室では《照橋ヒナ》で登録しているんだよ」
と説明した。
 
「可愛い名前だね」
と和泉が言うと、嬉しそうだった。
 
「漢字は《陽成》のままで読みを《ひな》ということにしちゃってもよかったりして」
「あ、それもいいなあ」
「読みの変更って裁判所とかいかなくても、市役所に届け出すだけでできるらしいよ」
「え?そうなの!?」
 

DRKの録音は午前中に『青い翼』、『塞翁が美味い恋愛』を完成させて、お昼休みに入る。スタジオの近くにあるラーメン屋さんの蜂屋に入ったのだが、美空が「ここのも好き」と言って笑顔で2杯食べていたので
 
「よく入るね〜」
とみんなに感心されていた。
 
「私、青葉も梅光軒も天金も山頭火も好き」
などというので
「そのあたりは人気だよね」
という声も出るが、月夜は笑いをこらえていた。まさか誰も昨日の昼にそれを全部食べているとは思いもしない。
 
「美空ちゃん、何時の飛行機で帰るんだっけ?」
「20:20の旭川発羽田行き。だからここを18時くらいに出ればいいかな」
「それまでには何とかまとまるかな」
 

冬子たちはお昼を食べた後は、★★レコードのスタジオ最上階・青龍の部屋に入った。この部屋はトップアーティストにしか貸さないので、蔵田さんと一緒でなければ中を覗く機会もなかなか無い所である。
 
蔵田さんは冬子と樹梨菜に「これ付けろ」と言って、さくらんぼの形に作られた紙のお面を渡す。
 
「何これ?」
「これ歌ってた子たちがこれ付けてたんだよ」
 
などと言われるので付けるが顔が完全に隠れてしまう。
 
「前が見えません」
「これじゃ顔が隠れちゃうじゃん。歌手が顔かくしてどうすんだい?」
 
すると蔵田さんはポン!と手を打ち
「あ、隠れるってのいいね。よし、ちょっと待て」
と言うと、携帯電話のスイッチを入れて、どこかに電話している。
 
「あ、どうもどうも。例の子たちですけどね。あれいっそ顔全部隠しちゃったらいいと思いません? うんうん。でしょ? え? 名前ださない? うん。それはそうしようということで、ニックネームだけで。え?ニックネームも付けない。あ、それはいいかも。名無しの歌手ですね。スタッフ扱い。うんうん、面白い」
 
冬子は蔵田さんの電話から漏れてくる声で、相手がしまうららさんであることに気づいた。ああ、ζζプロの仕事なのか。そこの事務所の松原珠妃は冬子の先輩・「元先生」であり、また蔵田さんの「自称1番弟子」である。実際、蔵田−松原のコンビが生み出す利益は巨大であり、ζζプロの屋台骨を支えている。しまさんはそのζζプロの重鎮、ベテラン歌手で、松原珠妃を見い出した人である。 
電話が終わると、蔵田さんはオンフックしただけで携帯をそのまま机の上に置いた。冬子は「あれ?電源切らなくてもいいのかな?」と思ったが、まあいいやと考える。どうせ鳴っても出ないだろうし。蔵田さんは創作中はだいたい携帯の電源は切っておくことが多い。
 

お昼を一緒に近くのショッピングセンターのフードコートで食べてから、和泉は出演者ひとりひとりの演奏を聴いていた。リハーサルを聴き、そして本番が始まってここまでの演奏を聴く限り、そんなにレベルの高い大会ではない。これならヒナ(と呼ぶことにした)は優勝かそれに準じる成績をあげるのではという気がした。和泉はずっと昔、自分もピアノの大会に出て準優勝した時のことを思い出していた。
 
やがて女子高生制服姿のヒナが登場し『赤ずきんと狼』を演奏する。赤ずきんはヒナ自身かも知れないなと和泉は思っていた。
 
演奏を終えてステージから降りてヒナが和泉の席に来る。笑顔で拍手して和泉はヒナを迎えた。
「どうだった?」
「1ヶ所ミスった所以外は完璧だったと思う。かなり練習したでしょ?」
「ああ、ミスった所分かった?」
「まあこの曲を知っている人なら」
「いや、弾いたことのある人しか分かんないだろうと思ったんだけどな」
「練習したことはあるけど弾きこなせる所までいかなかった」
「なるほどね」
 
そんなことを小声で言っていた時、ヒナがふと気づいたように言う。
 
「和泉ちゃん、ポケットが光ってるけど、もしかして携帯の着信では?」
「え?」
 
慌てて確認する。ライブ会場なので和泉は携帯をサイレントマナーモードにしていたのである。慌てて開いてみると事務所からだ。
 
「ごめん。ちょっと外に出て取ってくる」
「うん」
 

それで和泉は他の人の邪魔にならないよう前屈みの姿勢で静かに会場の外に出る。こちらから事務所に掛ける。三島さんが出る。
 
「おはようございます。絹川和泉です。お電話を何度もいただいたみたいで済みません」
「おはようございます。今、社長と代わるね」
 
それで畠山が出るが焦った声で言う。
「和泉ちゃん!よかった。誰も捕まらなくて困ってたんだよ」
「何でしょうか?」
「ラムがKARIONを辞めることになった」
「えーーーー!?」
 
ラムは昨日父親から1月からインド勤務になったことを告げられた。日本に来て間もないのだが、インド支店の支店長が急死したため、急遽行くことになったらしい。ラムは日本の環境に慣れかけたところでまだ居たかったが、お母さんが英語の通じない日本の暮らしに疲れていたので、インドなら行きたいと言い、それで結局ラムも連れていくということになってしまったらしい。その件をついさっき、1時過ぎにラムの父親から事務所に電話があったのだという。父親は最初月曜日に連絡すればいいかなと思っていたらしいが、ラム本人が「一刻も早く連絡すべき」と主張したので、勤務時間外で申し訳ないがと断り社長の携帯に電話してきたのだという。
 
「そんな突然辞めるのは契約違反では?」
と和泉は言うが
「それを英語で議論する自信ある?」
と社長は訊く。
 
私も自信無い!
 
「だから、明日工場に持ち込む予定だったデビューシングルのマスターが使えなくなった」
「だったら、また作り直しですか?」
「それが、もう発売日は動かせない。万一キャンセルするとなるとTVスポットのキャンセル料なども入れて数千万円かかる」
 
和泉は5秒ほど考えた。
 
「ということは今から、私と美空・小風の3人で集まって、明日朝までに音源を作りなおすしかないと思います。ラムのパートは私が代理歌唱しますよ」
 
「それが美空ちゃんは北海道、小風ちゃんは九州にいるんだよ」
「えーーー!?」
「ちなみに和泉ちゃんは今どこに居るの?」
「都内です」
 
と答えて、和泉は自分が都内に居るのは、ヒナのおかげだなと思った。 
「良かった!取り敢えず対策を考えたいから、すぐこちらに来てくれない?」
「いいですけど、それでは美空、小風は今からこちらに戻るんですか?」
「そうしてくれと言った所だけど」
「むしろそのまま現地に居てくれた方がいいと思います」
「なんで?」
「美空と小風は実際問題として今どこに居るんですか?」
「美空は旭川、小風は平戸島という所なんだけど。一応本土との間に橋は架かっているらしい」
 
「小風はそれたぶんもう今日の最終便の飛行機になりますよね」
「かも知れない。今何時頃戻れるか確認してもらっている所。あっちょっと待って」
 
と言って、畠山は別の電話に出ている。
 
「和泉ちゃん、美空ちゃんは18:50羽田着だって。あ、ちょっと待って」
 
更に別の電話が掛かってきたようだ。
 
「小風ちゃんは21:00羽田着らしい」
 
「社長、やはりふたりとも現地で待機してもらいましょう。21時に羽田に着いて新宿に着くのはもう22時半です。長旅で万全ではない体調で、深夜にばたばたと録音して、まともな歌唱にはなりません」
「じゃどうすんの?」
 
「ラムが入る前のもの、冬子が歌った版を使うんです。あれはマスタリングまで終わっていたはず」
「ああ、そういう手があったか!!」
 
社長も焦っていたので、その方法を思いつかなかったようである。そしてこの瞬間、冬子はKARIONに復帰せざるを得なくなってしまったのである。
 
「だけど冬子ちゃんが同意してくれるかね?」
「その件に関しては私が責任を持ちます」
「分かった」
 
「でも冬子が入った版を使う場合、多分若干の調整が必要だと思うんです。その場合に、小風と美空の承認を取らないと先に進めない作業があると思うんですよね。それを考えると、飛行機に乗られて、電話連絡のできない時間を2時間くらい作るより現地にとどまってもらって、いつでも連絡して確認しながら進められるようにした方がいいと思うんです」
 
「それは一理あるな」
「おそらく、冬子が入った版を工場に持ち込める状態にするのに、今すぐ取りかかっても明日の朝までかかる気がします」
「それは僕もそう思う!」
 

それで畠山は電話がつながったままの小風と美空に、とりあえず電話の通じるところで待機して、飛行機や新幹線には乗らないよう伝えた。それで小風はとりあえず福岡空港に向けて移動するということであった。美空もなにやら向こうで多人数で話していたようであったが、新千歳の方が便が多いので、そちらに移動するということだった。
 
そこまで連絡した所で畠山は冬子にも連絡を取るべく彼女の携帯に掛けるのだが、電源を切っているようでつながらない。それで少しためらったものの自宅に掛ける。するとお母さんが出た。
 
「初めまして、私、畠山と申します。∴∴ミュージックという所の社長をしておるのですが」
と畠山が言うと
 
「お世話になっております。冬子に何かお仕事の件ですか?」
と母は訊いた。
 
冬子(冬彦)の母としては、自分の息子を女名前で言うことには抵抗があるものの、息子が女の子としていろいろ活動しているようだというのは知っているので、ビジネスと割り切って敢えて自分の息子を「冬子」と呼んだ。 
畠山は、冬子はしばしば単発であちこちの事務所の仕事をしていると言っていたのを思い出し、初めて聞く名前でも、理解してくれたようだと考える。それで畠山は事情を話す。1月デビューの歌手ユニットの音源製作に、冬子に臨時で協力してもらったこと。しかしその後、正規の参加者を確保したので、その音源はいったん封印して新たな参加者を入れた音源を再作成したこと。ところがその参加者が突然辞めてしまったため、その新しい音源が使えなくなったこと。それで冬子が入っていたバージョンに差し戻して発売したいこと。 
「ああ、そういうことでしたら構いませんよ。自由に使ってください」
とお母さんは言う。
 
畠山もお母さんが承認してくれたのなら大丈夫かなと思い
 
「助かります! もう明日の朝、工場に持ち込まないといけなかったもので」
 
と言ったのだが、お母さんは更に言った。
 
「でもそれ多分本人もそちらに行かせた方がいいですよね?」
「はい、それはそうしてもらうと助かりますが」
 
「ちょっとこちらで連絡が取れないか試してみます」
「助かります。お願いします!」
 

それで冬子の母は、今日は名古屋に伴奏の仕事で行ったはずと思い、名古屋の風帆の所に電話する。ところが風帆は
 
「冬ちゃん、出がけに急用が入ったとかで、別の所に行ったみたいよ」
などと言う。
 
「えーー!?どこに行くとか言ってなかった?」
「なんか、くらたさんとか言ってた」
「分かった。ありがとう!」
 
それで冬子の母は蔵田の事務所である$$アーツに電話する。すると高崎さんという人が出て、
 
「ああ、冬ちゃんのお母さんですか? 私、ドリームボーイズのダンスチームで一緒だった高崎と申します」
「あらまあ、それはずっとお世話になっておりまして」
 
などと挨拶を交わした上で、高崎さんは前橋社長にとりついでくれた。前橋社長は話を聞くと、それは僕が直接畠山さんと話して事情を聞いてみましょうと言い、∴∴ミュージックに電話する。それで状況を聞くと前橋は言った。
 
「畠山さん、それは冬子ちゃんをすぐそちらにやった方がいいね。僕の勘が言ってる。たぶんそれ冬子ちゃんが居ないとできない作業が出てくる」
 
「可能性ありますね。それでは連絡お願いしていいですか」
「OKOK。何とかしますよ」
 
それで前橋社長は蔵田の携帯に電話する。幸いにも電源は切られていないようだ。辛抱強く待つ。すると50回くらい鳴らした所で
 
「今日は創作に集中したいから電話しないでと言ったじゃん!」
という蔵田の声。
 
「音源製作うまく行ってる?」
と前橋が尋ねると
 
「あ!社長!? 何かありましたか?」
と蔵田。事務所の電話を使っているので、おそらくマネージャーの大島からだと思ったのであろう。
 
「ちょっと洋子ちゃんと話がしたいんだけど」
「へ? 洋子ですか? はい、代わります」
 
と言って蔵田は冬子に電話を代わった。
 

一方の旭川では電話があった時、収録中だったので月夜が代わりに取ったのだが、話を聞いて、演奏が停まったところでフロアに入っていき、美空に緊急事態で事務所から連絡が入っていることを告げる。
 
「分かりました!すぐ戻ります」
 
それで時刻を調べるが、旭川発14:20にはもう間に合わないので、次は17:05になることが判明する。
 
「新千歳にも便がない?」
「16:40が限度だと思う」
「でも東京に着くのは30分くらい早くなるよね?」
「じゃそちらを使おう」
 
「美空、荷物は全部置いていきなよ。私が持って行くから」
と月夜が言うので、そうすることにして、美空のお父さんの車で新千歳まで行き、16:40の羽田行きに飛び乗る話になる。それで到着時刻を東京の事務所に電話した所、状況が変わったので、とりあえず飛行機には乗らずに待機していてくれという話になった。
 
「でもどのくらい待機してればいいんだろう?」
 
千里はバッグの中から筮竹を取りだし、易卦を立てた。何だか今日の暦と見比べているようである。
 
「明日の午後だと思う」
と千里は言った。
 
「丸1日待機か!」
「たぶんデータを作りなおすのに丸1日掛かるんだよ。その間に美空との連絡が取れない事態があると、そこで作業が停まっちゃうんだと思う」
 
「新千歳空港内で夜は明かせないよね?」
「追い出されると思う」
「千歳市内のホテルで待機した方がいいよ」
 
千里は筮竹と航空時刻表を見比べていたが
「連絡があるのは14時頃だから、最速で新千歳発14:30の便に乗れるよ」
と言う。
 
「連絡があってからではその便のチケット買えないよね?」
「15:30になっちゃうだろうね。空席があっても」
 
「じゃ、私、その占いを信じて14:30のチケット買って搭乗口まで行ってるよ。それで電話を受けたらそのまま機内に入ればいいから」
と美空が言う。
 
「だったらさ」
と蓮菜が言う。
「DRKの録音作業は続行しようよ」
「いいんだっけ?」
「どうせ飛行機にも乗れないし、青函トンネルも通れないみたいだし」
 
「よし、全員フロアに戻って」
「演奏するよ!」
 

小風は連絡を受けたのが葬儀をやっている最中だったので、きりのいい所で抜けだし、大学生の従姉の車で唐津まで送ってもらうことにした。そこから電車で福岡空港に移動する。それで飛行機の便を予約して、到着時刻を連絡したら申し訳ないが、飛行機や新幹線には乗らずに、電話連絡のできるところで待機してくれと言われてしまった。
 
「うーん。連絡の取れるところか。福岡空港のロビーで待ってようかな」
と小風が言うと
「小風ちゃん、ひとりじゃトイレにも安心して行けないだろうし、空港までつきあうよ」
「すみませーん」
 
それで従姉は唐津までではなく、そこから西九州自動車道で博多まで小風を送ってくれた。途中何度か連絡はあるものの、いっこうに飛行機に乗ってくれという連絡はない。
 
「どうしよう。ホテルに泊まらなくちゃかな」
 
すると従姉は言った。
 
「いっそ、今から車で東京まで走ろうか?」
「えーー!?」
「一度そういう長距離走ってみたかったのよね」
 
ということばで小風はちょっと不安になる。
 
「でも電話がつながらない所に入るとまずいから」
「中国道じゃなくて山陽道の方を走ればたぶんほとんど圏外にはならないはず」
「でもぶっ通しで運転すると疲れますよ」
「一応2時間走ったら1時間休憩するペースで。小風ちゃんは後部座席で寝てて」
「寝てます!」
 

一方、連絡を受けて駆けつけた冬子は、再度事情を聞いて、自分が歌唱参加したバージョンに戻して発売するという件に合意する。それでラムが参加する前にいったん完成していたはずの「マスターデータ」を探すのだが
 
「これが最終でしょうか?」
「タイムスタンプはこれがいちばん新しい」
「でもこれは完成していないね」
「うん。どうかしたスタジオならこれで完成ですと言うかも知れないけど、これはうちのクォリティじゃない」
 
それで担当した人に電話するのだがあいにくつながらない。やっと家族の人を捕まえたが「済みません。チェジュ島に釣りに行ってます」と言われる。 
「どこでしたっけ?」
「韓国なんですけど」
「国外ですか!」
 
でも韓国なら何とか連絡がつくはずというので、ツアーの主宰会社を通して何とか連絡を取った。
 
「それのマスターデータは、佐渡サーバーのPrivateフォルダのKARIONというフォルダに入れたはずです。パスワードは・・・」
 
というのでその場所を見るが、それらしきデータは見当たらない。
 
「あれ?変ですね。それのバックアップが礼文サーバーにありませんか?」
 
このスタジオではサーバーの名前に日本の島の名前を使用している。
 
しかし彼と30分近いやりとりをした結果、結論から言って冬子が入ったバージョンの完成したはずのマスターデータは行方不明であると判断せざるを得なかった。 
(実はサーバーの時計がダウンしていて、そこにセーブしたデータのタイムスタンプがおかしくなっており、そのため《本当の最新版》が一見古いデータのように見えたのであったことが数日後に判明した) 

「仕方ない。このいちばん新しいものから再度マスターを作りましょう」
とこちらに居る技術者さんは言ったのだが
 
「今考えていたんですが、それ歌詞が違います」
と和泉が言う。
 
「あ、そうだった! 歌詞の一部が商品名に聞こえるというので、変えたんだった」
「ということは、完成したマスターがあっても結局使えなかったのか」
「その部分の歌唱を録り直すかカットするしかないですね」
 
「録り直そう」
「でも小風と美空が」
「小風と美空の歌唱は、ラムが入ったバージョンの方からコピーする」
「なるほど!」
 
「だから冬子だけ居ればいいんだ!」
「やはり冬子に来てもらって助かった」
 
冬子は考えていた。自分が東京に残っていたのは蔵田さんに強引に楽曲制作に付き合わされたおかげだよなと。しかし冬子はこの日唐突に楽曲制作をすることになったのが、昨日美空と会っていた八雲が、旭川駅で偶然蔵田と遭遇したのが発端になっていたとは、知るよしも無かった。
 

一方の美空は、連絡があるのは明日の朝と千里が占ったのを信じて、その日20時頃までDRKの録音に付き合い、録音作業を完了させた。
 
「お疲れ様でした」
「何とかまとまったね」
 
「じゃ、これ数日中にマスターにまとめてプレスに回しますので」
「よろしくお願いします」
 
その後、みんなで一緒にジンギスカンを食べに行く。
 
「美空ちゃん、食べっぷりが凄い!」
と感心される。
 
その後、月夜と一緒に父の家に行き、父の奥さんに歓迎されて、そこでまたおやつをたくさん食べて、美空の胃袋を充分承知しているはずの月夜からも呆れられる。そしてその日はぐっすりと眠った。
 
そして翌日早朝、父の車で旭川の家を出発。新千歳空港で待機する。月夜は荷物を持って一足先に行くことにして、7:50の便で羽田に向かった。美空は父と一緒に空港内のレストランで笑顔でおやつを食べていた。
 

小風は従姉の車で、九州自動車道から山陽自動車道方面へと移動しつつあった。小風は起きていると酔いそうだったし、後部座席で(本当はいけないのだが)横になって寝ていた。翌朝は西宮名塩で少し長めの仮眠をしたが、まだ連絡は入らない。結局お昼も過ぎて湾岸長島PAで休憩していた時に、やっと「移動していい」という連絡がある。
 
「ここまでありがとうございました。このあとは新幹線で移動してもいいみたいだから、名古屋駅で降ろしてもらえます?」
 
「あ、それより飛行機の方が早くない? セントレアに行こうか?」
「でも飛行機は乗り降りでけっこう時間を食うから」
「そっかー。じゃ、名古屋駅に行くね」
 
それで小風は名古屋駅で降ろしてもらい、15時の新幹線に乗った。17時頃東京に着くはずである。
 

一方の美空は14時すぎに「移動してよい」という連絡が入ったが、千里の占いを信じて既に14:30発の便に乗るべくセキュリティも通って搭乗ゲート前で待機していた。それで連絡を受けたので安心してその便に乗る。そして16時に羽田に着くが、荷物は既に月夜が持って行ってくれているのでバッグ1つの身軽な旅である。そのままモノレールに乗って16:50に浜松町に着いた。
 
そして美空はJRへの乗換口を通り、山手線の「東京上野方面行き」(内回り)に乗った。
 
(本当は外回りの新宿方面行きに乗らなければならない)
 

美空がちょうど浜松町に着いた頃、小風の乗る新幹線は品川に着いた。早足で歩いて乗り換える。小風はちゃんと山手線外回り「新宿方面行き」に乗車し、17時半頃に新宿のスタジオにたどり着いた。
 
新幹線の中ではひたすら寝ていたが、平戸からずっと運転がまだ未熟な従姉の車に揺られてくたくたに疲れている。もうやだ。もう絶対辞めてやる!と思ってスタジオに入っていった。
 
しかしそこで見たものは真剣な表情でテータの調整をしている和泉と冬子の姿であった。
 
「あ、小風ちゃん、お疲れ様。大変だったでしょ?」
と冬子が笑顔で小風を迎え入れたので、小風は心がキュンとするような感覚を覚えた。
 
「和泉ちゃん、冬ちゃん、鏡の国のセットを作ったんだけど、問題無いかどうか見てくれる?」
と畠山社長が入って来て言う。
 
「あ、小風ちゃん!お帰り!助かった。ありがとう。大変だったよね」
と言う畠山さんの顔はかなり疲労が溜まっている感じだ。
 
「セットできたなら私も見ましょうか?」
と小風は言ったが
 
「美空ちゃんが戻るまでは撮影できないし、休んでて。何なら仮眠してて、そこに毛布あるし」
と冬子は言う。
 
「あ、そうそう。滋養強壮にこれいいらしいよ」
と言ってユンケルをくれる!
 
「うん。小風はまだ少し休んでて」
と和泉も言うので小風は毛布を取り
 
「じゃ少しまだ寝てるね」
と言ってソファに横になった。
 
そして目をつぶりながら考えた。
 
冬子や和泉が頑張ってるなら、私ももう少し頑張ろうかな、と。
 

美空に先行して荷物を持ってスタジオに入っていた月夜は14時半の便に乗ったはずの美空がなかなか来ないので、18時すぎに美空に電話する。
 
「今どこに居るの?」
「あ、ごめーん。寝てた。どこかな?」
と言って、結局近くに乗っている人に尋ねているふう。
 
(電車内での通話は遠慮しましょう)
 
「もうすぐ三鷹だって」
「なぜそんな所に居る!?」
 
美空は東京駅に着いた所で『そうだ、中央線に乗り換えなくちゃ』と思ってしまった。羽田から自宅に帰る時の乗換パターンが勝手に頭の中で起動してしまったのである。そして目的地である新宿を通り過ぎて、ひたすら自宅に向かって移動していたようである。
 
それで月夜の指示に従って、次の駅で降りて、反対方面行きに乗った。結局美空がスタジオにたどり着いたのは19時近くで、小風より1時間遅れての到着となった。しかし美空はそもそも昨夜も熟睡しているし、今日も中央線往復の間ひたすら寝ていたので、とっても元気であった。
 
それですぐにPVの撮り直しに入ることができた。
 
美空が無事スタジオでの撮影に入ったのを見届けた《せいちゃん》は『全くこの子、苦労するぜ』と独り言を言ってから、北海道にいる《宿主》の所に帰還した。
 

「へー!お面しちゃうんですか?」
と陽子は面白そうに言った。
 
「あんたたち、それぞれの事情で身元を明かせないんでしょ? だったら顔を完全に隠して虹子ちゃん・星子ちゃんのバックで踊っていればいい」
としまうららさんは言う。
 
「あ、そうか。顔を隠してステージに立てばいいんですね」
「うんうん。あんたたちが居た方が、気良姉妹も安心して歌えるし」
 
「うん、それで行きましょう」
と八雲も楽しそうに言った。
 
「何なら男装してもいいよ」
「あ、私実は男装好き」
「私も男装とかしてみたいな」
 
「ギターとベースの人は逆に女装してみません?」
「やだ、絶対やだ」
 
「何かトラウマでも?」
「ああ。こいつ、幼稚園の頃、悪いことするとよく罰としてスカート穿かされていたらしいですよ」
と秋月(紅ゆたか)は笑って言った。
「おお、ペティコート・パニッシュメントか」
と、しまうららさんも楽しそうに言った。
 

鮎奈が美空から「KARIONのCDとPV間に合ったぁ」という連絡を受けたのは水曜日であった。
 
「今までやってたの?」
「CDのデータは月曜の朝までに和泉と冬子が完成させて、テレビCMのを午後までに完成させて、その後火曜日に新たにPVを撮り直したんだよ。今日は学校に出たから連絡するの今になった」
 
と言いつつ、美空はなんか違う気もするなと思っていた。実際にはPVを撮り直したのは美空と小風が東京に戻ってきた月曜日の夕方から夜に掛けてで、火曜日は丸1日自宅で寝ていたのだが、疲労もあって記憶が混乱していたようである。 
「大変だったね! あ、じゃ結局冬子ちゃんと一緒にやることになったんだ?」
「そうなるみたい。PVは全部4人で撮ったし。冬子ちゃん、学校にも女子制服で出て行くことにしたみたいだし」
 
実際冬子は火曜日は半ば朦朧とした意識の状態で、母との約束で学校にいかなければと言って、女子制服を着たまま学校に出て行った。実はこの日は冬子が高校3年間で唯一女子制服で授業を受けた日なのだが、本人はあまりにも疲れていたため、そのことを覚えていないようである。しかし仁恵が「記念撮影」していた画像が後に政子の手に渡ることになる。
 
「そりゃ、女子高生アイドルしてて、学校に男子制服で通うのは変だよね」
 
などと言いながら、鮎奈は女子バスケ選手しながら学校に男子制服で出てきていた一時期の千里のことを考えていた。
 
「結局、性転換手術は延期したのかな?」
「うん。それだけど、和泉ちゃんが言うには、あの子実はとっくに性転換しているんだけど、親に黙ってやっちゃったから、まだ性転換していなかったことにしていただけじゃなかろうかと」
 
「ああ、それはあり得るよねー。結構高校生で性転換しちゃう子いるんだろうな」
 
と美空と話しながら、鮎奈は本当の所は千里はいつ性転換したのだろうと考えていた。
 
 
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