【女の子たちの初体験】(上)

前頁次頁目次

 
「私とうとう初体験しちやった」
と京子は言った。
 
その言葉を、その時居た友人達(蓮菜・鮎奈・千里)は意外に感じた。 
「香取君と?」
と鮎奈が訊くと
「うん」
と言って頷くが、何だか照れていて可愛い。
 
「香取君《とは》初めてってことかな?」
「ううん。私、男の子としちゃったの初めて」
「嘘。京子、とっくに体験しているものと思ってた」
「だって乱れ牡丹とか松葉崩しとか教えてくれたの京子だよ」
「クラブサンドイッチとかデイジーチェーンとか」
「私、耳年増なんだよー」
「なるほどー」
 
「でもどこでしたの?」
「ホテルに行っちゃった」
「お、凄い」
「偉いな。私なんか初体験は体育館の用具倉庫だったのに」
「そんなところでするのって危険!」
 
「で、どうだった?初めての体験」
「凄く良かった」
「ああ、気持ちよくなれたのは相性が良いということ」
「そうそう。何も感じないとか苦痛だったとかいう子も多い」
 
「彼のをやさしくやさしく舐めてあげたら液体が飛び出してきちゃってびっくりした。最初おしっこ漏らされたのかと思って」
「あはは」
「彼すごく感動してるみたいで、強く抱きしめてキスしてくれたの」
「へー」
 
「避妊具はちゃんと使ったよね」
「ええー、使ってない」
「それダメ!」
「絶対付けさせなきゃ」
「妊娠したらどうすんのよ?」
「こないだの忍ちゃんの騒ぎ、他人事じゃないんだから」
 
「だって買うの恥ずかしくて」
「京子らしくもない」
「おやつや何かと一緒に買えば気にならない」
「京子が買わなくてもいいから、ちゃんと彼に買わせなきゃ」
「でもお口に精液入っても妊娠しないよね?」
 
「・・・・・」
 
「ねえ、京子、フェラした後で、彼のをヴァギナに受け入れたんだよね?」
「え?ヴァギナには入れさせてないよぉ、だってそんな所に入れるの怖いじゃん」
 
「ちょっと待て」
 
「まさか、ホテルに行ったのにフェラしただけ?」
「あ、うん。フェラして出ちゃったから。あれって1度出ると翌日までもう大きくならないんだって」
 
「そんなことない」
「30分も休めばまた立つ」
「え?そうなの?」
「千里並みに弱い子なら1日に1度しか立たないという可能性もあるが」
「いや、千里は1度も立ったことないはず」
「いや、千里はそもそも立つようなものがなかったはず」
 
「じぉ結局、ヴァギナは使ってないんだ?」
「うん」
 
「京子、それまだ初体験は成立してない」
「えーーー!?」
 

千里たちの学校では通常の部活は夕方18時で終了なのだが、バスケット部、ソフトテニス部、野球部、スキー部だけが特例で19時まで練習できる。更に2007年春は、バスケット部の宇田先生の努力で取り敢えずインターハイまでの期間超特例で20時までの練習が認められていた。バスケ部が20時まで練習を認められたことを聞いた野球部の監督も、だったらうちもと訴えたので野球部も甲子園までの期間、やはり20時までの練習が認められた。この時期、この2つの部だけが20時まで練習していた。
 
ある日、千里が練習終了後、制服(女子制服)に着替えてから、暢子や留実子たちと一緒に帰ろうとしていたら、廊下の交差するところで横から走ってきた男の子と千里がぶつかってしまう。
 
「ごめんなさい」
「いや、こちらもごめんなさい」
 
とお互い謝ったが、千里にぶつかってきた丸刈り頭で野球部のユニフォームを着た男の子は何だか千里に見とれているような感じであった。
 

「だったら本当に去勢しちゃえばいい」
と雨宮先生は言った。
 

千里はゴールデンウィーク前半の4月28日。雨宮先生から突然呼び出されて京都に行き、新人歌手・大西典香のデビューアルバム用の曲を2曲書いたのだが、その後、5月12日の土曜日、今度は蓮菜と一緒に、雨宮先生から「ちょっと《制服を着るか持つかして》京都に来て」と言われた。
 
先日作った大西典香のアルバムが葵祭りに絡む作品で、今日はその葵祭り当日なのでその関連だろうか、と話し合い、2人とも制服(女子制服の冬服)を着て旭川空港に行く。
 
「千里、最近女子制服を着た時の照れが無くなってきた気がする」
と蓮菜に言われる。
「そうかな?」
「以前は女子制服を着ている時、ちょっと恥ずかしそうにしていたのに最近は普通に着ているんだよね」
「うーん。確かに最近何だかよく着ている気がするし」
「そろそろもう男子制服を着るのやめたら?」
「そういう訳にもいかないよ」
「もう、みんな千里は女子制服を着ているのが普通と思ってるよ」
「うーん・・・」
 
雨宮先生が予約だけしといたよと言っていた12時発の関空行きの飛行機に乗った。千里は「これは去年の夏に貴司たちがインターハイに行くのに乗った便だ」というのを思い出していた。
 
あの時ヴァイオリンもらったのに・・・・その後、あまり練習してない! 
私って本当に練習が苦手だなあ、などと千里は思うが、本人は自分が《飽きっぽい》性格であるという自覚があまり無い。
 
14時半に関空に到着するが、関空から当然京都方面に移動するつもりでいたら、空港に着いてから携帯の電源を入れると「和歌山行きに乗って」というメールが来ていた。
 
なんか嫌な予感がするね、などと言いながら阪和線で和歌山に移動する。到着したのは15:42だった。駅で待っていたのは、雨宮先生ともうひとり50代の男性で《∞∞プロ代表取締役・鈴木一郎》という名刺をくれる。
 
「お早うございます。お初にお目に掛かります。醍醐春海とこちら葵照子です。あいにく名刺を切らしておりまして」
と千里は言った。
 
「あ、名刺作ってるの?」
「いいえ」
「面白い子だね」
「ええ。変わってると友人みんなから言われます」
「ははは、こういう子、僕大好き」
 
取り敢えず駅の近くのレストランに入り、お話ししたが、話の内容は先日日米2000本安打を達成した松井秀喜の話に始まり、創設された野球のBCリーグの話、更にサッカーの話などに終始して、あまりその方面の知識が無い千里は話が頭の上を飛び回っていたが、蓮菜は結構詳しいようで、普通に会話に参加していた。
 
「でも松井も凄いですけど、イチローも凄いですよね」
と千里はかろうじて持っている知識で何とか話に加わる。
 
「社長と名前が似てますよね」
と蓮菜。
「そうそう。彼も鈴木一朗だけど、朗の字が違うんだよね」
 
「だけど、鈴木一郎なんて、よく書類の書き方サンプルなんかに使われる名前じゃん。だから僕がどこかに登録するのとかに名前書くと『まじめに本名書いてください』と注意されることが良くあったよ」
「なるほどー」
「きっと、向こうのイチローさんも同じ苦労してそう」
 
「でも社長は長男ですか?」
「そうそう。うちの親父が長男は一郎でいいだろうと言って、お袋の反対を押し切って付けちゃったらしい」
「野球のイチローは次男よね」
「えーーー!?」
その話を知らなかった千里が驚く。
「あの家は男の子には全部一という字を付ける。お兄さんは一泰」
「へー!凄い」
と千里が本当に驚いたように言うと、社長は楽しそうである。
 
最後の方になってから、突然大西典香の話になる。この業界の打合せでは90%の時間を世間話に費やして最後になって短時間で商談をまとめることがよくある。 
「そうそう。これ、君たちにも1枚ずつあげるね」
と言われて、この日発売の大西典香のCDを頂いた。
 
「ジャケットも完璧に京都ですね」
「うんうん」
 
大西典香が金閣寺をバックに涼しげな夏の装いでギブソンのレスポールを持って写っており、五山送り火、清水の舞台、京都タワー、そして上賀茂神社の立砂なども写っている。
 
「これ和服着せたら、演歌のCDと間違われそう」
「そうそう。だから洋服を着せてギターまで持たせた。制作に協力してくれた観光協会からはぜひ浴衣でと言われたんだけどね」
と鈴木社長は言う。
 
「あれ?この曲の作詞作曲クレジットが」
「あ、ごめーん。その件、バタバタとしてて、連絡するの忘れてた。事後承諾でお願いしたいんだけど」
「はい」
「大西典香の作詞作曲に関しては、共同名義にしようということになって」
「それが、この鴨乃清見ですか」
「うん。賀茂神社と清水寺から取って、鴨長明(かものちょうめい)に引っかけたんだけどね」
「最初、鴨乃清明にしたんだけど画数が悪いというので鴨乃清見に変えたのよ」
「安倍晴明(あべのせいめい)にも引っかけるつもりだったんだけどね」
 
「印税はちゃんと遅滞なく配分するから」
「それでしたら名前は別に構いませんよ」
 
「実はこのプロジェクトはどうも京都絡みの人が多く関わっていてね。今回そもそも京都の観光案内の番組だったし、君たちの本来のペンネーム、醍醐・葵ともに京都に馴染みの深い名前」
「確かに」
「雨宮先生と鮎川さんが舞鶴の生まれ」
「ああ、同郷だったんですか!」
「そそ。それで最初意気投合したのよ」
「宝珠さんはお母さんが京田辺市の出身」
 
「ほうじゅ?」と千里は訊く。
「きんたまちゃんね」と雨宮先生。
「は?」と蓮菜。
 
「新島さんはご本名が大谷さんなんですよね。別に本願寺とは関係無いのですが」
 
「大西典香自身もお祖父さんが同志社を出てるんですよ」
「なるほどですねー」
 

1時間ほど話してから
「また今後もよろしく」
と言って社長は蓮菜・千里と握手をして帰って行った。
 
残った雨宮先生がふたりに訊く。
「あんたたち、おひな様の元祖、見たことある?」
 
「元祖ですか?」
「見たことないね。じゃ、連れて行ってあげる」
と言ってふたりを駐車場に連れて行く。
 
「あれ?今日はフェラーリじゃないんですか?」
「うん。フェラーリのリアシートだと長時間のドライブは辛いだろうと思って友人のクラウンマジェスタを借りてきたのよ」
 
千里と蓮菜は顔を見合わせる。
「あのぉ、そのおひな様の元祖って遠くですか?」
「ううん。30分くらいよ」
「ということは、その先に長時間ドライブが待っているんですか?」
「ふふふ。それは乗ってみてからのお楽しみで」
 
千里と蓮菜は再度顔を見合わせてしかめ面をした。
 

取り敢えず乗り込むが、マジェスタのリアシートはとっても快適である。フェラーリ612スカリエッティのリアシートもあのタイプの車にしては快適なのだが、やはりマジェスタはゆったりしている。しかし長時間ドライブってどこに行くんだ? もしかしてここから京都まで?などと千里は考えていた。 
車は最初はかなり「まとも」な道を走っていたが、やがて海岸が見えてくると、マジェスタのような大きな車で通るには、かえって不安になるような狭い道を走る。そして小さな神社の小さな駐車場に無理矢理な感じで駐めた。
 
「ここ、こんな大きな車を駐めて良かったんですか?」
「枠からははみ出てないわよ」
 
確かにマジェスタは駐車場の枠にぎりぎりで入っている感じだ。とにかくも境内の方へ行く。千里は何かを感じて自然に霊鎧をまとった。
 
「蓮菜待って。先生も」
と言って、千里はいつも持ち歩いている塩を2人に掛けた。自分にも掛ける。「何かあるの?」
「用心です」
 
そして境内に入って、蓮菜も千里も絶句した。
「何これ〜〜〜!?」
「壮観でしょ」
 
境内には所狭しと大量のお人形が並べられていた。種類別に分けられていて、ひな人形、市松人形、博多人形、大黒様、招き猫、カエル、龍、などが各々物凄い数並んでいる。
 
「私、ちょっと怖い」
と蓮菜が言う。
「気持ちをしっかり持っていれば大丈夫」
と千里は言った。
 
とにかくも拝殿でお参りした後、雨宮先生と一緒に境内を歩いてみるが確かに先生の言う「壮観」という言葉は当たっている。よくまあ、こんなに集めたものだと千里は思ったのだが、ここは人形供養の神社として知られており、全国からそのままゴミとして捨てるにはしのびないと所有者が思った人形が持ち込まれているのである(郵送では受け付けない)。
 
「ここ夜中に来たら、この人形たちが動いてたりしない?」
などと蓮菜が言うので
「蓮菜、そういうことを想像してはいけない。ただ景色として眺めていよう」
と千里は注意した。
 

神社を出てから先生の車は海岸沿いの細い道を戻り、和歌山駅の方から来た少しは広い道(それでも結構狭い)に戻る。しかし和歌山駅方面には戻らず、そのまま加太湾に沿って北上する。
 
「京都方面へドライブですか?」
「ううん。京都には行かないよ。この海が第一目的地」
「ここが第一目的地なら、さっきの神社は?」
「ご挨拶」
 
そして車は海水浴場近くの駐車場に駐める。
 
「きれいでしょ?」と先生。
「心が洗われる感じ」と蓮菜。
「神々しいです」と千里。
 
「右に見えるのが地島。左にやや薄く見えるのが神島。その神島のすぐ向こうには淡路島があるんだよ」
と先生は説明する。
 
「淡路島って、そんなに近いんだ!」
「淡嶋神社の対岸に淡路島があるって何だか意味深ですね」
「ふふ」
 
「もうすぐ日没ですね」
「うん。今日の日没は18:51。ちょうどここで日没を見られるように時間調整してたんだよ」
「この太陽、あの島影に沈みますね」
「そうなりそうね」
 

千里たちは、その本当に神々しい景色の中、初夏の太陽が次第に地島の方角に沈んでいくのをじっと見ていた。
 
「美しかった」
「凄いでしょ」
「ええ」
「じゃ、その感動を曲にしよう」
「やはりお仕事なのか」
「だからあんたたちを呼んだのよ」
 
それで3人は近くの飲食店に入り、曲作りを始めた。外はまだ太陽が沈んだばかりで赤い夕日に包まれている。その夕日の空の色が刻一刻と変化していく。その様もまた美しい。
 
「これ誰が歌うんですか?」
と蓮菜は尋ねた。
 
「津島瑤子」
と先生が言うと
 
「うっそー!」
と千里も蓮菜も声を挙げた。
 
「ミリオン歌手の歌を、私たちが書いていいんですか?」
 
千里は本気で驚いていた。大西典香はいわば駆け出しの歌手だ。自分たちのようなほとんど素人に近いソングライターの作品を歌わせてもいいかも知れない。しかし津島瑤子は数年前に『出発』(馬佳祥作詞・木ノ下大吉作曲)という曲を120万枚売り、様々な賞を獲得している。
 
「確かに『出発』はミリオン売れた。でもその後は鳴かず飛ばず」
「うーん・・・」
「世間では一発屋とみなしている人が多い。もっとも彼女はデビュー曲の『あなたの猫になりたい』も20万枚売れてるから二発屋というべきかも知れないけどね」
 
「でも逆に3発も4発もヒットが出るのは、とんでもない人たちでしょ?」
「そう。だから、津島をそのとんでもない人たちの仲間入りさせてやろうという再生企画なんだよ」
「そんな企画に私たちの曲を使っていいんですか?」
 
「こういう時に必要なのは、名前だけで、もう力の衰えた大作曲家の作品ではなくて、伸び盛りの若い実力派の作品なんだ」
 
千里も蓮菜もその《衰えた大作曲家》に心当たりがあったが無論名前は出さない。 
「まあ、あんたたちだけじゃなくて、他にも何人かの若いソングライターに頼んでいるから、あまり気負わずに書いてもらえばいい」
「アルバムですか?」
「ミニアルバムにする」
「了解です」
「これも作曲クレジットは鴨乃清見にするから」
「あはは」
 

蓮菜はその急速に変化していく夕日の光の中で『黄昏の海』という作品を書いた。千里は蓮菜の作詞作業と並行して作曲作業をしていた。蓮菜の書く詩の最初の方だけ読んでお店の外に出、フルートを吹いた。
 
夕闇迫る浜辺で女子高生がフルートを吹く様は結構絵になる。何だか観光客が写真を撮っているが、千里は気にせず吹いていた。夕日の光を全身に浴びて、その感覚が千里に旋律のモチーフを与えてくれる。でもこの写真、自分でも欲しいな。誰か写真撮ってよ、などと言ったら《いんちゃん》が千里の携帯を使ってフルートを吹いている千里の写真を撮ってくれた。
 
お店に戻って五線紙を取り出し、今フルートを吹いていて見つけたメロディーを書き留める。その中で蓮菜が既に推敲に入っている歌詞と調和しそうなものを選び、楽曲としてまとめていく。
 
ふたりの作曲作業は1時間半ほど掛かり、だいたい20時半頃にはかなりまとまってきた。
 
「そのあたりまでまとまったら、後からでもまた調整できるわよね」
「はい、多分」
「では出発」
「どこに行くんですか?」
「二見浦(ふたみがうら)」
「伊勢ですか?」
「そそ。和歌山で夕日を見て、伊勢で朝日を見る」
「明日の朝までに伊勢に行くんですか?」
「うん。今から出発」
 

それでお店を出る。ふたりを乗せた雨宮先生のマジェスタはいったん和歌山市の市街地まで戻ると、和歌山ICから阪和自動車道に乗る。そして白浜方面に進む。
 
「え?名阪方面に行くんじゃないんですか?」
 
和歌山から伊勢に行く場合、常識的には、西名阪・名阪・東名阪から伊勢道を走って行く。それならノンストップで走って3時間程度である。
 
「ノンノン。紀伊半島を海沿いに走って行く」
「えーー!?」
「かなり距離が長くなりませんか?」
「そうだね。100kmほど長くなるかな」
「時間も掛かりますよね」
「高速の無い区間が大半だからね。倍くらい時間が掛かるはず」
「もしかして道も悪くないですか?」
「だからフェラーリじゃなくてクラウンなのさ」
 
蓮菜と千里は嫌そうな顔でお互いを見つめ合った。
 
それでマジェスタは阪和道を南下し、1時間ほどで南紀田辺ICまで到達する。そこまでの区間、蓮菜と千里は雨宮先生を交えて、先日楽曲の制作をした大西典香のことや、他のいろいろな歌手・バンドの話などをしていた。
 
しかしそういう話をする余裕があったのはそこまでだった。
 
インターチェンジを降りて国道42号に入ると、物凄いカーブの連続である。千里は身体を左右に振られながら、きゃーっと思った。これ酔っちゃいそう。 
「あんたたち寝ていた方がいいかもよ」
「そうします!」
 
それで寝やすいように先生が道路脇の駐車帯に駐めてくださったので、そこに停まっている間に、蓮菜も千里も寝ることにした。車が動き出すのを千里は遠い感覚の中で感じた。
 

夜中に起こされる。
 
「ちょっと休憩しよう」
 
車はコンビニの駐車場に駐まっている。
 
「ここは?」
「串本」
「紀伊半島南端ですか?」
「そそ。ここまでの道、楽しかったわよ」
「寝てて良かったみたいですね」
 
トイレを借りた後、雨宮先生はブラックコーヒーにおにぎり1個、千里はブラックコーヒーだけ、蓮菜はコーラとハンバーガーにあんパンを買った。 
「千里も雨宮先生もブラックなのね」
 
「御飯の時以外にあまりカロリーのあるもの取りたくないから。試合中はカロリー消費激しいからスポーツドリンク飲むけど、あれは例外」
と千里は言う。
 
「私は女性ホルモン飲んでるからね。女性ホルモンって血糖値を跳ね上げるのよ。だからきちんとカロリーコントロールしておかないといけない。でも運転しているのに低血糖起こしちゃいけないから非常用におにぎり。空腹感があったら血糖が低下する前に食べる。一応ブドウ糖も持ち歩いているけどね」
と雨宮先生は言う。
 
「あれ?もしかして千里も女性ホルモン飲んでるから、カロリーコントロール?」
「ううん。でも女性ホルモンって血糖値を上げるんですか?」
「そうよ。知らなかった?」
「知りませんでした! じゃ気をつけなきゃ」
「いや、あんたみたいに少食なら充分問題無い気がする」
 
千里は加太で食べた夕食も半分蓮菜に食べてもらっている。
 

店を出るが、雨宮先生が唐突に言い出す。
 
「ねぇ、私ここまで運転してきて疲れたから、千里、あんた運転しない?」
「私、免許持ってません」
「あんたたち、まだ免許取れないんだっけ?」
「18歳以上ですよ。私まだ16です」
「じゃ、取り敢えず覚えて」
「ちょっと待ってください」
「この車はATだからゴーカートと似たようなものよ。ペダルが2個あるのの、右側がアクセル、左側がブレーキだから」
「運転できませんってば」
 
「だって凄いカーブの連続だったからさあ。神経物凄く使ったから、それでこのあと居眠りとかしたら大変だもん」
「だったら少し仮眠してから出発しましょうよ」
 
「仮眠していると二見に夜明けまでに着かない可能性があるのよ」
「だったら、どうして交代のドライバーを用意してなかったんですか?」
「うん。だからあんたが交代のドライバー」
 
千里は運転しないと言ったのだが、雨宮先生は強引である。とうとう根負けして運転席に座る。この席に座るのは初めての体験だ。
 
蓮菜は「千里頑張ってね〜」などと言って後部座席の助手席の後ろに乗る。雨宮先生は助手席に乗って少しリクライニングさせる。
 
「シフトレバー、ブレーキとアクセル、ステアリング・ホイール、ウィンカー。このくらい分かっていれば運転できる」
と雨宮先生は基本的な所を説明する。
 
「シフトレバーは基本的にDの位置で運転する。SとかNとかは考えなくていい。Pは駐車する時だけ。Rはバックだけど多分今夜はバックする場面は無い。赤信号ではPに切り替えたりせず、Dのまま、ずっとブレーキペダルを踏んでいる」
 
「AT車はアクセル踏まなくてもブレーキペダルから足を離すと勝手に動き出す。これをクリープという。これを理解してないと物凄く危険だから注意して。AT車に慣れてないドライバーはよくこれで事故を起こすんだよ。通常はアクセルを軽く踏みながら、その踏み加減で速度を調整する。逆にアクセルから足を完全に離しておくと車は次第に速度を落としていく。これをエンジン・ブレーキと言う。カーブの手前とかで速度を落としたい時は、ブレーキペダルを踏むよりエンジンブレーキを使った方が乗っている人に優しいから」
 
それでとにかくブレーキペダルを踏んだままエンジンを掛け、シフトレバーをDの位置まで動かし、ブレーキペダルを踏む足を緩めてクリープで発進する。どこでステアリングを回すかは先生が自分でもステアリングホイールに手を掛け細かく指示してくれたので、無事コンビニの駐車場を出ることができた。 
道路に入り足をアクセルの方に移す。車が少ないので何とかなる感じだ。街中ということもあり時速30km程度で走って行くが、この30km/hという速度を千里は凄まじく高速に感じた。左右にぶつけそうで怖い!
 
しかし10分くらい走っているうちに、アクセルの踏み加減と車の速度の出方の関係、ハンドルの回し加減と車体の進行方向の変化を身体が覚える。
 
「よし、その調子その調子。じゃ私寝るけど、少しでも疑問のある時は遠慮無く起こして」
「はい」
 

蓮菜は後部座席で寝ている。先生も眠ってしまった。千里は後ろの子たちに訊く。
 
『ね、ね、運転できる子居ないよね?』
『私できるよ』
と《きーちゃん》が言う。
 
『良かった。ちょっと運転代わってよ。身体預けるから。やはり不安だよ』
『了解』
 
『俺もできるけど』
と《こうちゃん》が言うが
『こうちゃん、荒っぽそうだし、きーちゃんにお願い』
と千里は言った。
 

千里は身体を《きーちゃん》に預けて自分も半分くらい神経を眠らせておいた。経路はカーナビが指示してくれるので、それに合わせて走って行くのだが、車は結構内陸部を通って行く。おそらく近くに海岸もあるのであろうが、めったに海を見ない感じであった。
 
《いんちゃん》が『海岸沿いの道が凄まじいから内陸部にバイパスが作られているんだよ』と説明してくれた。『だからこのルートは田辺から串本までが一番辛い。串本より東は難易度が低いんだよね』
 
なるほど。それで雨宮先生もその厳しい区間は自分が運転したのかと納得した。が、しかし誰かちゃんと運転免許持ってる人を同行して欲しかったよ!とも思い直す。
 
雨宮先生は1時間くらい寝るからその間代わってと言っていたのだが、実際は2時間近く寝ていた。目を覚ました後もしばらくは半覚醒状態のような感じであった。
 
新宮も尾鷲も過ぎて、紀伊長島のコンビニでトイレ休憩した時に先生も起きて「ありがとう。かなり休めた。この後は交代しよう」と言ってくださった。 
「疲れました!」
「でも凄く丁寧な運転だった」
「怖かったからあまりスピード出しませんでしたよ」
 
《きーちゃん》は制限速度ジャストでここまで走ってきている。おかげで途中かなりの車が抜いていった。
 
「あんた運転のセンスあるよ。免許取ったら、私の運転手にならない?」
「お給料次第では考えておきます」
 
「でもあんたちゃんとバックで駐車枠に駐められるじゃん」
「何とか頑張ってみました」
「私が教え忘れてたのに、上向きライトと下向きライトをちゃんと切り替えながら走ってた」
「対向車が切り替えていたのを見て、母がやってたのを思い出しました」
 
「あんた前にも運転したことあるでしょ?というかふだんも結構運転してるでしょ」
「そんなこと無いですよー」
「あんた嘘つきだからなぁ」
 
半分眠ったままの蓮菜がニヤニヤしていた。
 

雨宮先生が運転席に座り、千里は後部座席に戻る。蓮菜が運転席の後ろ、千里が助手席の後ろである。この位置関係では先生の所からバックミラーで千里は見えるが蓮菜は見えない(だからそういう座り方をしている)。
 
「先生、でも女性化が以前より進行している気がするのですが」
と千里は言ってみた。
 
「ああ。タマ取ったからね」
「・・・・もしかして、残っていた方のタマも取っちゃったんですか?」
「そうそう。それで完全にタネ無しになっちゃったよ」
 
先生は昨年睾丸を1個だけ除去していた。しかしとうとう残りも除去してしまったということのようだ。
 
「かなり感覚変わりました?」
「うん。1個でもあった時とは全然違う。混じり気無く女性ホルモンが身体に浸透していく感じなんだよ」
 
「じゃ、もう男性は廃業ですね。女遊びも終了ですか?」
「ううん。毎月3〜4人の女の子とセックスしてるよ。元気元気。しかも避妊する必要が無いから相手次第では生で入れられてとっても気持ちいい」
 
「立つんですか?」
「タマを取る前よりしっかり立つ」
「それって変です」
「あんたほど変じゃないわ」
 
「私は立ちませんよ」
「立たないというか、既に存在しないんでしょ?」
「えっと・・・」
「でないと、女子選手としては認められないはずだよね」
「そこが実は私もよく分からなくて」
 
「あんたここ数ヶ月だけでも胸がかなり成長してる気がする。あんたも去勢して女性ホルモンの効きが良くなったんじゃないの?」
 
「あ、いえ、それは真面目に女性ホルモン飲んでるからです」
「以前は不真面目だったの?」
「以前は本来飲むべき量の3分の1しか飲んでなかったんですよ」
「ほほぉ」
「でも今私女子選手になっちゃったでしょ。だからちゃんと女性ホルモン濃度を普通の女子のレベルにキープしておかなくちゃいけないと思って」
「意味がよく分からん」
 
「普通の女子選手の場合は男性ホルモンを飲むのがドーピングになるんです。でも私の場合は、ホルモン剤を取らないと女性ホルモンの量が少なくなります。それ自体がふつうの女子選手がドーピングしているのに近い状態」
「なるほど」
「そういう状態にするのはアンフェアだから、ちゃんと本来飲むべき量を飲んで本来の女子選手と同じ状態にしてるんです」
「そういうことか」
 
「つまり、あんたは女性ホルモンをドーピングすることで、普通の女子選手がドーピングしてない状態になり、女性ホルモンのドーピングをしないと、普通の女子選手がドーピングしている状態になるんだ?」
「そうなんです」
 
「ややこしい身体ね」と先生。
「まあ確かに千里は昔からややこしかったね」と蓮菜。
 
「だけどいつ去勢したの?秋に触った時はまだ付いてたし。冬休み?」
「それなんですけどね・・・」
 

千里は、実は今うしろめたさを感じているということを正直に話した。 
「なんかみんな私が既に性転換済みと信じているみたいで、かえって誰にもこういうこと相談できなくて」
と千里は言う。
 
それで千里は昨年11月にバスケ協会の方から性別を明確にするため精密検査を受けてくれと言われて病院に行き検査を受けたこと、その時医師は確かに千里の男性器に触って陰茎・睾丸があること、外性器は男性型であることを確認してそういう診断書を書いたのを見たこと。ところが協会は、千里には「陰茎も睾丸も無い」ので女子選手として認めると言ってきたこと、協会から回ってきた診断書のコピーには「女性の外性器に近似している」と書かれていたことを話した。
 
それで協会の指示に従って新人戦、そして今回の大会の地区大会まで出たが、このまま道大会に出て、もしそれで2位以内になればインターハイに行けるが実際には男の身体の自分が、そんなことをしたらまずいのではないかと悩んでいることを話した。
 
雨宮先生は運転しながら話を聞いていたが、千里の話がだいたい終わっても、しばらく沈黙していた。そして言った。
 
「あんたさあ、嘘つくにも、もう少し本当っぽい嘘をつきなさいよ」
 
寝ていたはずの蓮菜まで
「ほとんど信憑性の無い話ですよね」
と言う。
 
「病院の先生が書いた診断書で、陰唇・陰核・膣もあって、陰茎・睾丸は無く、外見的に女性型の性器に近似している、となっているということは、あんたは既に性転換済みと考える以外無い」
と先生。
 
「その意見に賛成」
と蓮菜。
 
「でも私、ほんとにまだ去勢もしてないんですよ」
 
そう千里が言うので、またしばらく考えていた風の先生はやがてこう言った。 
「だったら本当に去勢しちゃえばいい」
 

「そういう診断書が出ている以上、もう男子チームに出ることはできないよ。それに多分、あんた他の病院で再検査されても、確かに女子ですという診断しか出ない気がするよ」
 
「実はそんな気がしています」
 
「だったら、開き直って女として出場するしかない。実際あんたって骨格的にも、お肉の付き方も女の子にしか見えないんだけどね。だから女性的な肉体を持っているから、たとえ睾丸がまだあったとしても、男子チームより女子チームに入るべき。それでもどうしても後ろめたいというのであれば、本当に去勢手術を受けちゃえばいい。どうせその内手術するつもりなんでしょ?」
 
「母と20歳になるまでは去勢しないって約束したんです。だから20歳すぎたらすぐ去勢するつもりでいました」
「だったら今やってもいいよね」
 
「うーん」
「去勢してしまえば、あんたも後ろめたく感じないんじゃないの?」
「それはそんな気がします」
 
「だったら、今日の午後にも手術しちゃったら?」
「えーーー!?」
 
「二見浦に着いたら、あんたたちに朝日を見てもらって、それで曲を書いてもらうんだけど、だいたい午前中くらいには書き上げられるでしょ?」
「はい、そのくらいで行けると思います」
 
「だから午後から去勢手術を受けに行けばいい」
「そんないきなり飛び込んで手術してくれるんですか?」
「そういう病院もあるさ」
「でもお金が・・・」
「手術代くらい貸しとくよ」
 
千里は悩んだ。でも本当に・・・・やっちゃおうかな?
 
「あ、そうそう。手術受けるなら、今日は飲食禁止ね」
 

二見浦に到着したのは朝4時であった。既に空は結構明るくなっている。二見浦への入口そばにあるコンビニに駐めて、雨宮先生と蓮菜は朝御飯を買ってくる。千里はトイレだけ借りて、借りたついでに飲み物は買ったものの飲まないことにして蓮菜にあげた。
 
「そろそろかな。行こうか。日出は4:53だから」
ということで、車ごと二見浦へ移動する。
 
鳥居前の駐車場に駐めて歩いて行く。
 
「カエルさんがいっぱい!」
と蓮菜が嬉しそうに声を挙げる。
 
「可愛いね」
と千里も微笑んで言う。
 
神社でお参りをして、薄明かりの中、有名な夫婦岩を見る。これ取り敢えず岩の写真だけでも撮っておこうかな?と思ったら、携帯が無い。あーん。車に忘れて来ちゃった。だれか取って来てよ、と言ったら《りくちゃん》が『俺、千里、忘れものしてるぞと言ったのに』と文句を言いながらも取って来てくれたので、それで撮影しておいた。
 
やがて静かに太陽が昇ってくる。
 
「来た」
 

空がどんどん明るくなっていき、やがて海の向こうに太陽の一部が見えたかと思うと、どんどん光は大きくなっていき、夫婦岩の右側の付近から、太陽は昇ってきた。いや、それは昇ってきたというより、そこに太陽が生まれてきたかのような感覚であった。
 
そして太陽は物凄い速度で海から離れていく。高速撮影で残しておきたいと思うようなほんとに短い時間の自然のショーだった。
 
千里は何も言葉を発せなかった。蓮菜も雨宮先生も無言である。
 
他にも参拝客が数人居たが全員ただただ、その美しさに目を奪われていた。 
まだ近くのお店の類いが開いてないので、作曲作業は車に戻って車内で行った。例によって蓮菜がある程度詩を書いたのを見て、千里は車の外に出たが、今度はフルートではなく篠笛を吹く。この篠笛は最近購入した《ドレミ調律》つまり西洋音階に合わせて穴が空けられている篠笛である。
 
例によって千里が二見浦の海岸で横笛を吹いていると早朝から来ている参拝客が遠巻きに見ている。写真を撮ってる人もいる。その内自分の写真がどこかの写真コンテストに入選して新聞などに載ったりしないだろうかと少しヒヤヒヤである。 
15分くらい探るように吹いている内に、良い感じの旋律を見つけ出す。それで車内に戻り、蓮菜の作業を見ながら、千里は曲を組み立てて行った。
 
「あんた、笛はほんとに上手いね」
と雨宮先生から言われる。
 
「ありがとうございます」
「サックスも覚えてみない? あれも笛の一種」
「そうですね。でもサックス買うお金無いし」
「そのくらい儲けさせてあげるよ」
「でも手も回りません!」
「確かにそうかもね」
「今はバスケだけで手一杯です」
「そうだ。2月に書いてもらったインターハイ・バスケのテーマ曲、こないだ音源制作が終わったよ」
「わあ」
 
「Lucky Blossomの演奏のインストゥルメンタル版だけのつもりだったんだけど主催者が歌も欲しいと言い出してね。急遽歌詞も書いて、ボーカル版も出すことになった」
 
「そちらは誰が歌うんですか?」
と蓮菜が訊く。
「Parking Service」
「なるほどー」
 
Parking Serviceは若い女性5-8人程度の歌唱ユニットである。「程度」というのはメンバーが結構コロコロと変わっていて、人数もしばしば変動しているからである。女性警官っぽいコスプレで歌うのが彼女たちのトレードマークになっていて、デビュー曲は『あなたは私の心に駐車違反』だったが、ヒット曲っぽいものはまだ無い。しかしライブの動員はかなり凄いようで、典型的なアイドル歌唱ユニットである。
 
「CDができたら両方とも送ってあげるから」
「ありがとうございます」
「そのテーマ曲を自分で会場で聴けたらいいね」
「うん、頑張る」
 
ほんとうにあの曲を自分でその場で聴きたいと千里は思った。よし、決めた。お母ちゃんとの約束は破ることになるけど、もう去勢しちゅおう、と千里は決意した。雨宮先生に言われたように、最低でも去勢しておけば自分は女子としてインターハイに出ても良い気がしてきていた。
 

「あんたたち伊勢の神宮自体は見たことある?」
 
「はい」
とふたりとも返事する。
「玉垣の中までは入った?」
「中?」と蓮菜が質問する。
「私は巫女研修で来たので入りました」と千里。
 
「どっちみち、ご挨拶しておこう」
と言って雨宮先生は外宮の方へ車を進める。
 
「お伊勢さんに参拝する時、必ず外宮にお参りしてから内宮にお参りすることは知っているよね?」
「はい」
 
それは蓮菜も知っていたようである。それで先生は車を外宮の駐車場に駐めてから2人を降ろした上で、車内後部座席でブラックフォーマルに着替える。後ろのファスナーは千里が上げてあげた。
 
「礼服なんですか?」
と蓮菜が訊く。
「特別参拝は正装でなければいけない」
と千里は説明する。
「だから私たちに制服で来てって言ったんですね?」
「そうそう」
 
雨宮先生も千里も特別参宮章を持っているが、蓮菜は持っていないので外宮の神楽殿の所で手続きをした。先生が蓮菜に1万円札を渡したので、それを納めて、黄色い特別参宮章をもらった。
 
「1万円のお布施が必要なのか」
と蓮菜が言うので
 
「お布施はお寺だよ」
と千里は言う。
「あ、そうか。神社は何ていうんだっけ?」
「ご祈祷なんかの志は初穂料と言うけど、この場合は祈祷のために払うんじゃなくて式年遷宮の費用に寄進するんだから、奉賛金でいい」
「なんか難しいな」
 
それで3人で外宮の正殿の所に行き、そこに詰めている神職さんに参宮章を見せる。雨宮先生は神職さんに「私もこの子たちと同じ場所でいいですから」と言うと神職さんは頷いた。荷物は入口の棚の所に置き、神職の先導でぐるっと玉垣の外を横の方に回り込み、左手の出入口から中に入る。
 
身が引き締まる。
 
蓮菜も緊張しているのが分かった。二拝二拍一拝でお参りする。
 
帰りはまた来た道を辿って、入口の所に戻った。
 

「緊張した!」
と蓮菜が言った。
 
「凄い所でしょ?」
「ここはあまりにも巨大すぎる。以前観光バスで来た時は気付かなかったけど、あらためて来てみると凄い」
「うん」
「私、折角お伊勢さんに来たんだから、あれをお願いしてこれをお願いしてとか思ってたけど、全部吹き飛んじゃったよ」
「お伊勢さんは個人の願いをする場所じゃないよ」
「そう思った! ただ挨拶することだけしか出来なかった」
「うん、ここはそういう場所」
 
「ところで雨宮先生は、私たちと参宮章の色が違いましたね」
「ああ。納める金額によって色が変わるみたいよ」
「へー。先生のは赤で私と千里のが黄色。赤青黄とかですか?」
「うん。それに白もある。白は1回だけ参宮できるやつ」
「へー」
「黄色・青・赤は期間内なら、何度でも入れるのよ」
「なるほどー」
「9999円までは白、1万円なら黄色」
「だったら、黄色にしないともったいないですね」
「だからみんな1万円払う」
「先生のその赤は幾ら払ったんですか?」
「ああ。これは百万円以上だったはず」
「ひゃー!」
「だってこういうの、お金持っている人はそれなりに払うべきだよ。それがお金を持つ者の社会的な責務だと思う」
 
「そう考えられる人は偉いと私は思います」
と蓮菜は言った。千里も「同感です」と言った。
 

外宮の後、内宮に移動する。ここでもまた玉垣の中で参拝した。
 
「なんかさ、東京タワーの麓に立っているのに近い感覚なんだよ」
と蓮菜は言った。
「うん。そういう感じ。多分もっと巨大だけどね」
と千里は答える。
「やはりそうか」
 
「私は最初ここに来た時、こんな神社反則だと思ったよ」
と雨宮先生は言った。
「少なくとも普通の意味での神社じゃないですからね。ここ」
と千里も言う。
 
「ところであんたたち、瀧原宮・瀧原竝宮(たきはらのみや・たきはらならびのみや)は行った?」
「私は巫女の研修で行きました」と千里。
「私、それ知りません」と蓮菜。
 
「じゃ、葵ちゃんも見てないようだし、そこに行こう」
 
と言って車は瀧原宮・瀧原竝宮に移動する。参道そばの道の駅で少し休憩したが、この道の駅で楽曲はだいたい完成した。
 
それから3人でお参りに行く。
 
千里が前回ここにきた時は、早朝バスでここに来て、朝日が昇るのと同時に参拝した。あの独特のすがすがしさはさすがに、ここまで太陽が昇ってしまうと無いものの、それでもひじょうに《きれい》な場所である。
 
「ここはまた凄い」
と蓮菜が感動している感じだ。
「こんなきれいな所、初めて」
 
「ここがお伊勢さんの原点なのさ。でもここまで来るのは、よほど信心の篤い人か、よほどの物好きか、よほどのオタクだから、本宮の方が昼間少々乱れても、こちらはきれいなままだよ」
と先生は言う。
 
「私たちはそのどれでしょうね?」
「まあ物好きかオタクかどちらかだろうね」
 
蓮菜は創作意欲が湧いたと言って、この瀧原宮・瀧原竝宮でも新たな詩を書いた。「千里、さすがに連続では曲書けないだろうから後でいいから、これにも曲を付けてよ」
「うん。時期は少し待ってね」
 
雨宮先生は、昨夕と今朝書いた2曲の手書き譜面のコピーを途中のコンビニで取った上で「それMIDIにまとめて今週中にメールしてくれる?」と言う。 
「明後日の朝までにはやります」
と千里は答えた。
「じゃ、よろしく」
 

それで一行は伊勢を後にし、去勢手術をしてくれる病院に行くことにする。先生に言われて千里も蓮菜も私服に着替えた。当然年齢を誤魔化して手術してもらうので、高校の制服を着て病院に行ったら、保護者を連れて来なさいといわれる。
 
「なりゆきだし、私が付き添いになってあげるよ」
と蓮菜が言う。
「ありがとう」
「千里の姉ということで」
「うん」
 
午前中に先生が電話で予約を入れてくれていたが千里はネットから問診票を登録しておいた。先生は病院の駐車場の車の中で寝てるということだったので、蓮菜と2人で病院には入った。名前を呼ばれて最初千里だけ診察室に入る。 

「あれ?去勢手術と聞いたから、てっきりMTFの人だと思ったんだけど、君FTMだっけ?」
「いえ、MTFですけど」
「そうなの? いや、僕は卵巣の摘出手術はやってないんで、と言おうと思ったよ」
 
それで取り敢えず見せてと言われるので下半身裸になって見せるが
 
「パンティだけになった段階では、付いてないかと思った」
と言われた。
 
サイズを測られ、いろいろいじられる。
 
「これ勃起しないの?」
「しません」
「何年くらいホルモンやってるの?」
「3年半ほどです」
 
それで服を着てから蓮菜も呼ばれて、手術の方法、副作用などについて説明を受ける。
 
勃起できなくなることが多いですとか、子供は作れなくなりますとか、ホルモンも減るので人工的に男性ホルモンか女性ホルモンのどちらかを、死ぬまで摂り続ける必要がありますとかいった説明も受ける。
 
それで手術同意書に署名する。
 
「あ、君何歳だったっけ?」
「20歳ですけど」
「生年月日は?」
「1987年3月3日です」
「干支は何年生まれ?」
「丑年です」
 
干支は絶対訊かれるからと雨宮先生に言われたので確認しておいたのである。 
「手術は部分麻酔でも全身麻酔でもできるけど、どちらがいい?」
「部分麻酔は痛いと聞いたので全身麻酔で」
「じゃ血圧とか心電図とかチェックして15時から手術ね」
「よろしくお願いします」
 
血圧・脈拍を測られた後で採血される。レントゲンと心電図を取られる。それから取り敢えず病室に通され、看護婦さんが、あの付近を剃毛してくれた。 
「蓮菜ごめんねー。こんなのに付きあってもらって」
「ううん。友だちのよしみだよ。でもとうとう千里も男の子じゃなくなっちゃうのね」
「うん。お母ちゃんとの約束破っちゃうけど、今の身体のままではインターハイに行けないから」
「多分、お母さんもその約束は当然破られるだろうと思ってるよ」
「そうかな」
 
「春休みに千里のお母ちゃんにちょっと会った時、千里のことで色々聞かれたけどさ、お母さん、千里はもう性転換手術済みと思ってる雰囲気あった」
「うーん・・・」
 

14時40分になって部屋で手術着に着替え、千里は手術室に運ばれていく。手術なんて初めての体験だからちょっと緊張する。手術台に乗せられると心臓がドキドキする。再度医師から
 
「本当に去勢していいですね?元には戻せませんよ」
と訊かれた。
「はい、手術お願いします」
と言うので、麻酔の注射を打たれる。
 
千里は意識を失った。
 
 
前頁次頁目次