【女子大生たちの二兎両得】(上)

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6月の中旬。千里が町の文房具屋さんで五線紙を買っていたら、同級生の友紀とバッタリ会う。
 
「五線紙? 千里、楽器とかするの?」
「あ、うん。楽器は洋楽器なら、ピアノ・ヴァイオリン・フルート・ベースとするかな。和楽器だと龍笛と篠笛」
「いっぱいするね!」
 
「高校時代バンドをしてたんだよ。人数だけは10人以上いたんだけど、みんな部活とか塾とかで忙しくてさ、それでお互いに来てない人のパートを代替してたから、いろんな楽器を覚えたんだよ」
「なるほどー」
 
「友紀は何買いに来たの?」
「うん。万年筆のインク」
「へー。万年筆とか使うんだ?」
「結構好きなのよねー」
 

それで、ごく自然に、買物した後、近くのスタバに入り、おしゃべりとなる。 
「宮原君、やはり来年医学部受験しなおすつもりらしいよ」
「へー。じゃ理学部は辞めちゃうの?」
「在籍したままにするつもりみたい」
「でもそれだと大学の勉強と、受験勉強の両方しないといけない」
「うん。もっと楽な学部ならいいけど、理学部と医学部の受験勉強、同時進行は辛いよね」
「在籍したまま、受験勉強だけをする手もあるけど、その場合は、合格できなかったら、確実に留年」
 
「やはり二兎を追うのは無理なんじゃないかなあ」
「同感」
 
「二兎というとさ、玲奈って二股してるよね?」
と友紀は少し小さい声で言った。
 
「あ、思った。メールの着信音が『そばにいるね』の子と『ポリリズム』の子でしょ?」
と千里。
 
「ああ、着メロか。それには気付かなかった。いや、玲奈の話聞いてると、どうも傾向の違う2種類の彼氏の話があるような気がしてさ」
 
千里は少し考えたが、すぐに分かった。
 
「自動車とアニメが好きな子と、野球やってる子だ」
「そうそう!」
 

「ところでさ」
と言って友紀は更に小さな声で言った。
 
「千里の性別疑惑の問題」
「疑惑があるの〜?」
 
「こないだ女子トイレに居たよね?」
「ごめーん。男子トイレが空いてなくて、もう我慢できなかったから」
「女子トイレに入って、騒がれた?」
「全然。騒がれたら、警察に逮捕されてる」
「列に並んだ?」
「並んだー。でもほんとに緊急避難だったんだよ」
 
「いや、列に並んでいて、誰も騒がないというのは、つまり千里が女子トイレを使っても問題無いということだよ」
「そ、そうかな?」
 
「そもそも列に並べるということは、普段から千里が女子トイレを使っているということ」
「そうなるの?」
「だって普通の男子が、緊急避難ででも女子がたくさんいるトイレに入ってきて、堂々と列に並べる訳がない」
「そういうものかな?」
「だから、千里はきっと大学の外では女子トイレを使っているに違いない」
「そんなことないよー」
 
「大学でも、普段から女子トイレを使いなよ。どうも男子たちの話を聞いてたら、千里は男子トイレを使ってて、いろいろトラブルの元になってる雰囲気だぞ」
「えー。でも私、戸籍上男子だから」
 
「戸籍上男子でも医学的には女子だということは?」
「まさか」
 
「いや、こないだの健康診断の時に女子の時間帯に千里を見かけたような気がしてさ。どこで見たのか記憶が曖昧なんだけど」
「女子の時間帯に居る訳がない」
 
「宮原君や佐藤君が男子の時間帯に千里を見たと言ってたからなあ。私の勘違いなのかなあ」
「誰か似た子がいたのでは?」
 
「まあ、いいか。今日はそういうことにしておこう」
と友紀は微妙な表情で言い、この件の追及を中止した。
 
「でも千里、男と女の両方を生きようとしているんじゃないよね?」
「それはさすがに無理だと思うなあ」
と千里は少しギクッとしたことは隠しながら答える。
 
「おちんちん付いてたら女はできないし、おっぱいが大きくなったら男はできないし」
「でも、おちんちんも、おっぱいもある人いるよね?」
「ああ。おっぱいを大きくするのは比較的簡単にできるけど、おちんちん取っちゃうのはお金が掛かるから」
 
「あれっていくらくらいするの?」
「タイで手術した場合で、だいたい100万円くらいが相場だよ」
「ふーん。相場を即答できるんだ」
「えーっと知り合いに手術したいって言ってた人がいるから」
「その知り合いって、千里自身ってことは?」
「まさかぁ。ボク別に性転換手術とかしたくないよ」
 
「それって絶対嘘。そうでなかったら、既に性転換手術を済ませてるから、更に性転換するつもりは無いということ?」
「なんでそうなるの〜?」
 

「そういえば千里、大学ではバスケはしないの? 高校の時はインハイまで行ったんでしょ? そこまでやってたのに辞めちゃうの?」
 
「高校の部活と大学の部活って格差があるからね〜。高校の時頂点近くまで行った人でも、大学では辞めちゃう人が多いみたいだよ」
 
「でも突然やりたくなったりしない?」
 
千里は微笑む。
 
「実はこないだ急にやりたい!って衝動を覚えて、新しいバッシュとマイボール買っちゃった」
「おっ」
 
「それでひとりで時々練習してるんだよ。ドリブルしてシュートして」
「へー!でもバスケってひとりでは出来ないのでは?」
 
「そうなんだよねー。今練習している所でよく会う子たちがいるんだよ。向こうも人数が少ないから、一緒に練習しない?と誘われて、パスやマッチアップの練習してたんだけど、いっそ、うちのクラブに入らない?とか誘われてるんだよね」
 
千里が千葉ローキューツに入るのはこの月の月末である。
 
「ああ、だったらそういうのに入ってもいいんじゃない?」
「今ちょっと迷ってる所」
「クラブチームなら丸刈りにしなくてもいいんでしょ?」
「丸刈りにはしたくなーい」
「実際、千里みたいな子を丸刈りにしちゃうのは、犯罪的って気がするよ」
 
ちなみにこの時点では、さすがの友紀も千里が、まさか《女子バスケ部》であったとは、思いもしなかったのであった。
 

6月30日は神社では「夏越しの大祓」が行われる。大祓は毎年6月と12月の末日に行われるもので、その趣旨は《大祓祝詞》に書かれている通りである。 
・国中の罪穢れを神様たちが全部吹き飛ばして川に流してしまい

・川に流れてきた罪穢れを全部海に流してしまい

・海に流れてきた罪汚れを速アキツ姫という神様が全部飲み込み

・息吹戸主という神様がそれを地獄に持って行き

・速サスラ姫という神様がどこかに持って行ってしまう。

 
そうしてこの国から罪穢れは消えてしまうのだ、ということで浄化の祭りである。速サスラ姫はきっと、日本海溝の奥底にあるマントル対流の吸い込み口にでも放り込んでしまうのだろう。
 
中学1年の時から神社に奉職してきた千里は毎年この祭りをしてきている。しかし中学生は21時、高校生は22時で帰すことになっていたので、いつも祭りを途中で退席していた。今年は初めて最後まで残ることになった。
 
22時過ぎてから神事は始まる。千里は龍笛を吹いてと言われて雅楽隊に参加する。その雅楽の調べが鳴り響く中、真っ白い衣装の神職さんたちを先頭に参列者の人たちが境内に設けられた茅の輪をくぐる。そして、境内の拝殿前に並ぶ。参列者の人たちを大麻(おおぬさ)・鈴を振って祓う。大麻は禰宜(ねぎ)の森原さん、鈴を振るのは、田口副巫女長がおこなった。
 
その後、人形(ひとがた)を境内の川に流す。参列者の人にはその場で名前を書き、息を吹きかけ身体をさすってもらっているが、郵送してきている氏子さんたちもいるので、人形は大量にある。これを拝殿近くから流し、鳥居近くのところに網を張っておき、そちらではスタッフが回収する。
 
この作業が結構続いた後、大祓の祝詞が唱えられる。その祝詞の最後、全ての罪穢れが速サスラ姫によってどこかに持って行かれるというくだりが唱えられていた時、唐突に雷鳴がし、雨が降ってくる。
 
参列者が一瞬ざわめくが、幸い濡れるほどの雨ではなく、軽いおしめりとなり、その後、さわやかな風が吹いてきたので、むしろこの時刻でも残る暑さを少し緩和してくれた。
 
(この晩、神社の裏山にUFOを見た人があり、その写真もブログにアップされていた) 

祭礼を終えて着替えるのに社務所の方に戻ろうとしていたら、笙を吹いていた女性神職さんに呼び止められる。
 
「はい?」
と言って、その顔を良く見たら、出羽の美鳳さんのお友だちの・・・・確か浜路さんだ。
 
「全然気付かなかった!」
と千里は本気で驚いて言う。
 
「最初からおられました?」
「いたよ」
「この付近の神社に奉職なさっているのでしょうか?」
「私たちは座敷童と同じで、そこに居ても誰も違和感を持たないんだよ」
「へー」
 
「でも相変わらず凄い龍笛吹くね」
「お褒め頂いてありがとうございます」
「龍が10体も来てた」
「今日はお祭りのエネルギーが凄いからですよ」
「高野山のZZ龍王まで来てた」
「なんか凄い方がおられると思いました」
「それにしてもあんたが龍笛吹くと、誰かが雷落とすね」
「楽しいみたいですよ。龍さんも」
 
「あ、それで今日は美鳳姉さんの代理で来た。何か忙しいみたいで」
「あの人も色々仕掛けをするのが好きみたいで」
「ふふ。それでね。あんた性転換手術を受けてから155日になる」
「・・・・・」
「これまで食事制限して血糖値を下げて治療優先で来てたんだけど、これから取り敢えず秋までは、たくさん食べて身体を戻そう」
「どのくらい食べるんですか?」
「高2の時みたいに、たくさん、お肉・お魚食べて、牛乳飲んで。蛋白質をたくさん摂って、身体も鍛える。千里は女性ホルモン剤を飲む必要がないから傷の治療さえ終われば、血糖値はあまりシビアに考えなくてもいいんだよ」
 
「・・・・。でも連休明けから自分の身体が凄く頼りなかったです」
「まあそうだろうね。半年も身体を動かしてなかったら筋肉落ちちゃうからね」
「その落ちちゃった筋肉をまた付けるんですね」
「そう。頑張ってね。あなたが今から鍛えた身体で、あんたは高2のインターハイ佐賀大会に出るんだから」
 
「なんか、そのあたりのタイムパラドックスが私にはよく分からないんですけど。もし私が身体を鍛えなかったらどうなるんでしょう?」
「私にもそういう難しいことは分からないけど、パラドックスが起きないように頑張ろう。とにかく今あんたは体内時間では2008年4月16日。高3の春の身体になってるから」
 
「頑張ってみます」
 

それで千里は神社を出た後、終電で東京に出て自分の車の駐車場に行く。それで24時間開いているスーパーに行き、少しお買物をした。
 
食事を増やせと言われても、それまで1日1400kcal程度で過ごしていたのを突然増やしても胃が受け付けない。それで少しずつ増やして行こうと考える。 
取り敢えず、野菜とお肉を買ってきて、その夜はキャベツ・もやし・ピーマン・マイタケ、豚肉300gで野菜炒めをしたが、半分くらいしか食べきれなかった。 
やはり食事の量を戻すには時間が掛かるなということで、その夜は寝た。 

翌朝は5時に起きた。睡眠時間は4時間くらいだ。千里が住んでいるアパートは千葉北ICに近くけっこう道路の交通量があるのだが、まだ早朝なのでそんなに車は多くない。特に裏道は少ないので、そういう道を愛用のスントの腕時計で時間と方角を確認しながら、1時間ほど軽くジョギングしてくる。
 
やはり1ヶ月半ほど前からバスケの練習を再開していた効果か、あまり息切れせずに1時間走り切ることができた。整理運動をしながら帰宅して、シャワーを浴びる。やはりシャワーの付いてる所を借りられて良かったなと千里は思った。 
着替えて昨日の野菜炒めをレンジで温め、豆腐の味噌汁を作り、ジョギングしていた間に炊いていた御飯を食べる。御飯には納豆を掛け、牛乳も200cc飲む。満腹感を少し越えた所まで食べてから、お片付けをし、ボディコロンを身体に掛けてから今日使う教科書・ノートを確認し、自転車で学校に出かける。 
こうして千里の「リハビリ生活」は始まった。
 

その日、学食に真帆・友紀・朱音・玲奈の4人と一緒に行って、おしゃべりしながら食べていた時、ふと朱音が「あれ?」という顔をして言う。
 
「千里、品数が多い」
「うん。実はこないだから、バスケの練習を再開したんだよね。それでカロリー消費するから、御飯も少し増やすようにした」
 
「へー」
「でもライスは、いつものように小なんだ?」
「そうそう。炭水化物の量はあまり増やさない。蛋白質を増やす。少し体重も増やそうと思っているんだよね」
「でもそれでメンチカツの単品を追加したんだ」
 
「今体重何kgだっけ?」
「46kg」
「少なすぎ!」
「うん。だから半年で5kg増やすの目標」
「5kg増えて51kg?それでも少なすぎ!」
 
「今朝は1時間ジョギングしてきた。学校の帰りには体育館で少しドリブルとかシュートの練習するつもり」
「おぉ、凄い」
 
普段練習している体育館はローキューツで借りているロッカーがあるのでそこに置いているボールを使える。実は自分のバッシュもそこに置かせてもらっている。これは「千里、うちのロッカーいつでも使っていいよ」と浩子から言われて暗証番号を教えてもらっていたのである。
 

それで夕方千里が体育館で練習をしていたら、18時頃、麻依子がやってきた。 
「おはようございまーす」
と千里が挨拶すると
「おはようなんだ!?」
と麻依子は楽しそうに言う。
 
「村山さんのことだから、クラブに参加した以上、多分毎日練習するつもりじゃないかと思って来てみた」
「溝口さんのレベルだと、このチームのメンツではあまり練習相手にならなかったんじゃないかな。でも私も半年くらい練習してなくて、随分衰えてますよ」
 
「それはお互い様だな。実は私を誘った人が入院しちゃったんだよ。ハシゴを外された感じだった。時間が合えばふたりで毎日練習しない?」
「そうですね、当面の間」
 
それで取り敢えず、お互い苗字で呼び合うのも何だしということで名前の呼び捨てということにする。
 
その日はコートの両端を走りながらパスを交換し、向こうまで到達したらシュートというのをかなり練習した。
 
「千里、マジで力が落ちてるな」
「麻依子も、高校時代の切れが無い」
 
「鍛え直さなきゃ」
と言って、ふたりは微笑みあった。
 

 
7月4日(土)。千里は朝から浩子に呼び出されて市民体育館に出て行った。 
「今日試合があるなんて全然知らなかった!」
と千里が言うと
「4日から試合だから、前日の3日までに登録が完了していないといけなかったんだよ」
と言われる。
 
昨日監督の所に届いたというチーム名の書かれたシールを自分の登録証の裏面に貼り直す。
 
「金曜日にシールが間に合うようにするには、30日が限界だったんだよ」
と監督は言っている。
 
なるほど。それで月末までということだったのかと千里は納得した。
 
クラブ選手権などというので何十ものチームが参加するのかと思ったら女子は8チームだけのようである。1回戦のあと、準決勝・決勝ということであった。 
スターティング5は、PG.浩子 SG.千里 SF.夏美 PF.夢香 C.麻依子である。交代要員はガードタイプの美佐恵、フォワードタイプの菜香子・沙也加の2人でベンチに居るのは8人だ。
 
「千里ちゃん入ってくれて助かったぁ。ガードは交代要員がいなかったから、これまで人数のやりくりが大変だったのよ」
などと浩子が言っている。
 
「でもメンバー15人くらい居るって言ってなかった?」
「試合に出てくるのはこの程度のメンツだね。私今日は生理中で試合に出る自信無かったから助かった」
となどとバックアップ・ガードの美佐恵。っつーことは、5ファウルで退場になったような場合以外は、出せないってこと?
 
「あと、茜って子がたまに出て来てくれるんだけどね」
「あはは」
「あとのメンツはほぼ幽霊部員だな」
 

1回戦の相手は、ホワイトブリーズと格好良い名前のチーム。実際にはお母さんたちでバスケ始めてみました、という感じのチームであった。後で聞いたら、若いメンバーも居て、ママさんバスケの団体「家庭婦人連盟」の登録要件(独身女性は43歳以上)を満たしていないので、普通のクラブチームとして登録しているらしい。このチームには、こちらも八分くらいの力でプレイさせてもらった。千里や麻依子・浩子はもとより、夏美のレベルでも相手とのマッチアップは全勝で、こちらの攻撃機会は全て得点に結びついた。千里も敢えてスリーは使わずに中に進入していってシュートを撃つパターンを使用していた。
 
それでも90対28というトリプルスコアでの圧勝であった。
 
午後から準決勝が行われる。
 
この相手は暴走ギャルズというちょっと危ない名前のチームだが「暴走」は実際には「房総」に引っかけたものらしい。千里たちと同様に大学生・若手OL主体のチームだった。みんな、しっかり日々の練習をしているという感じでコンビネーションがきちんとできていた。ただ、やはり趣味の範囲は越えていない感じで、1回戦の相手よりは手応えがあったものの、102対46というダブルスコアであった。この試合で千里は試運転的にスリーを5回撃ち、全て放り込んだ。 

夕方になって決勝戦になる。
 
この対戦相手サザン・ウェイブスはほんとに「クラブチームです」という感じのチームだった。昨年のこの大会でも優勝しているらしい。こちらは全力で行く。 
結構強い。若い選手が多いが、おそらく高校では県大会レベルなら上位で活躍したのではないかという感じの選手が何人も入っていた。それでもマッチアップすると千里や麻依子の敵ではなかった。
 
前半こそ43対36とけっこう良い勝負をしたものの、後半になると千里がどんどんスリーを放り込み、麻依子もマジでリバウンドを取って自分で放り込む。この2人がどんどん得点したことから、最終的には97対60という大差でローキューツが勝ち優勝した。
 

「県の大会で優勝したのは初めてだよ」
「創部3年目にしての初優勝だ」
「それはめでたい、めでたい」
「去年はこの夏季クラブ大会も冬季クラブ大会も準決勝で負けちゃったもんね」
 
「今年は麻依子が入って春の大会は準優勝だったし、かなり行けるかもと思ったけど、千里まで入ってくれて優勝できて嬉しい。このまま選手権にも優勝して全国に行きたい」
と夏美。
 
「私は正直な話、取り敢えずここでしばらくトレーニングして勘を取り戻して、どこか適当なチームに移籍と思ってたんだけど、千里が来て結構マジになっちゃったよ」
と麻依子。
 
すると、これって貴司のファインプレイか??
 
「だけど千里、今日の試合は、まだまだだったな」
「麻依子もなまってるね」
「お互い頑張ろう」
 
とふたりが言っていたら浩子が「あれでまだまだなの〜?」と言っていた。 

「千里、次は8月8日のシェルカップ、その後は9月5-6日の関東選抜だから」
と浩子が言う。
 
「今日の大会で優勝したので関東大会進出ですか?」
と千里が訊いたら
「ノンノン」
と浩子は言う。
 
「この大会はあくまで千葉のローカル大会。関東選抜は去年の12月にやった千葉県選抜大会の1−2位のチームが出るんだよ」
し浩子。
「一応、1位だったからね」
 
「あれ?じゃ別の大会では優勝経験があったんだ?」
と千里は言うが
「ノンノン」
と浩子は言う。
 
「クラブの大会には、選手権大会というのと選抜大会というのがあるんだよ。千葉県の場合、9-10月に選手権をしてその1〜2位のチームが関東選手権というのに出る」
「うん」
 
「それで選手権大会で3位以下のチームで12月に選抜大会というのをやってその中の1−2位が関東選抜に出るんだよ」
「トップが抜けてるのか!」
 
「だから関東選抜は俗に裏大会、裏関といわれる」
「へー」
「東京なんかは選手権と選抜と兼ねた大会をして、1−2位が関東選手権、3−4位が関東選抜に出る」
「なんか不思議なシステムだ」
 
「まあ、クラブチームならではのシステムだよね」
「できるだけ多くのチームに機会を与えるというか」
「特定のチームが過負荷にならないようにするというか」
 

7月9日(木)の朝、朝のジョギングを終えて、シャワーを浴び、朝御飯を食べていたら、貴司から電話が掛かって来た。何だろうと思い取ると、弱々しい声がする。
 
「千里〜。悪いけど、ちょっと助けて」
「どうしたの?貴司」
 
「風邪引いちゃって、熱が出て、身動きができない」
「それいつから?」
「昨夜から。風邪薬飲んだけど、まだ熱が下がらない」
「病院は?」
「9時になったら頑張って行ってくる。それでさ」
「うん」
「うち、全然食料のストックが無くて、悪いけど、御飯を作ってくれないかと思って」
 
「そんなの彼女に言いなよ」
「あの子、今週いっぱいキャンペーンガールでビジネスフェアに出ていて、頼めないんだよ」
「私って彼女の代理?」
「違うよぉ。友だちのよしみでお願い」
 
千里はマジで、彼女がいる貴司の所に私が看病しに行っていいものかと悩んで言ったのだが、そういう状況では仕方あるまい。貴司の妹さんたちは札幌と旭川だし、まだ自分の方がよほど近い。
 
「しょうがないなあ。じゃ、行ってあげるよ」
 
それで千里は友紀に、今日は急用で学校休むとメールをし(出席を取る授業では代返をしてくれるはず)、麻依子にも今日は練習に行けない旨メールする。近くの時間貸し駐車場まで行く。実は昨夜買い出しをしたので、そのままこちらに車を置いていたのである。
 
それで取り敢えずいつも行っている24時間営業のスーパーに行き、食料を買い込む。
 
あのマンション、ほんっとに何も食材が無かったよなあと思い、基本的な調味料から買う。
 
塩(いつも使ってる自然塩)、砂糖(きび砂糖)、味噌・醤油(味加減が分かるようにいつも使ってるメーカーのもの)、みりん(これは普通に万上)、お酒(いつも使ってるメーカーの)、米酢、ウスターソース(ブルドック)、サラダ油、一味唐辛子、ブラックペパー(GABANのミル付き)、チューブ入りのショウガ・ニンニク・ワサビ(ハウス)、豆板醤(とうばんじゃん)、味の素のコンソメ(顆粒)、丸鶏がらスープ、理研のダシの素(素材力こんぶだし)。。。。
 
などと買っていたら、だんだん楽しくなってきて、料理用ラム酒、料理用ブランデー、ホワイトペパー、カレーパウダー、オイスターソース、八角、シナモン、グローブ、クミン、鬱金(うこん:ターメリック)、甜麺醤(てんめんじゃん)、ラー油、ごま油、オリーブオイル、となんだか調味料が増殖してくる。
 
それに、お米10kg、食パン2斤、ロールパン、蒸しパン、甘食、山本山の海苔、卵2パック、牛乳、アクエリアスの2Lボトルを2本、うどん玉5個、充填豆腐、竹輪、乾燥ワカメ、出し昆布、干し椎茸、ウィンナー。それに病気ならお肉は鶏肉が食べやすいかなと考えて鶏の胸肉を2kg買う。ついでにおやつなども少々買ったが、あまりにも大量だったので、お店の人が車まで運ぶのを手伝ってくれた。 
ほんとに買い出しをした!という感じだったので結構気分は楽しい。荷室を食料で一杯にして、千里は高速に乗った。買物の会計は18000円だった! 交通費とあわせて貴司に請求しなくては。
 

車で行くと連絡したら、マンションの来客用駐車場に駐めてくれということで、駐車場を開けるidと暗証番号をもらう。
 
『ねぇ、きーちゃん、運転頼んでいい?』
と千里が後ろの子に訊くと
『うん。千里は寝てた方がいい。私とこうちゃんとで交代で運転するから』
と言うので、身体を預けて、千里は精神を眠らせた。
 
『千里、そろそろ起きなよ』
と言われて目を覚ましたのがもう桂川PAである。トイレに行って来てから自分で運転し、東名から、いつものように大阪府道2号に入って千里(せんり)ICを降りて、貴司のマンションに行く。駐車場入口でidと暗証番号を押して中に入り、客用駐車場と書かれたスペースに駐めた。
 
時計を確認したら12時であった。
 
『こうちゃん、スピード超過してたでしょ?』
『千里ができるだけ速く貴司の所に辿り着けるように頑張ったんだよ。貴司、見に行ったみたら結構苦しんでいたしさ。褒めてほしいな。オービスのある所はちゃんと速度落としたぞ』
 
『まあいいや。今日は感謝しとくよ。ありがとね』
『このまま貴司の女になっちゃえよ。愛人ででもいいからさ』
『風邪で寝てるのにセックスなんてしたら悪化するよ』
『まあそうだろうな』
 

貴司に電話してロックを解除してもらいマンションの中に入る。貴司はベッドで寝ている。熱さまシートを額に貼っている。
 
「病院行った?」
「何とか行ってきた。お腹すいた」
「待っててね。今御飯作るから。蒸しパンとかも買って来てるからまずはそれを食べているといいよ」
 
と言って、とりあえず山崎の北海道チーズ蒸しケーキとアクエリアスを出し、コップを持ってくるとなんとかアクエリアスを飲み、蒸しパンを食べていた。 
「なんか少し落ち着いた。また寝てる」
「うん、寝てて」
 
それで貴司が寝ている間に、まずはお米を持って来て、御飯を炊く。
 
ライサーが無いのか・・・。後で買って来よう。
 
取り敢えず弱っている胃腸でも食べられそうな、キャベツとウィンナーのスープを作る。マナ板が小さいのしかないし包丁もペティナイフみたいなのしかないので結構苦労する。鍋をタイマーセットしてから、買って来た食料を車から部屋まで何度も往復して運んだ。
 

台所をチェックして、欲しい調理器具をメモする。貴司はまだ寝ているようなので、鍵を勝手に借りて、車を出し、ホームセンターに行って、ホーロー鍋、中華鍋、卵焼き器、マナ板・包丁、マナ板シート、キッチンばさみ、パン切り包丁、トング、お玉、ターナー、泡立て器、菜箸、計量スプーン、すりこぎ・すり鉢、食器乾燥機、米びつ、更にはこれらを収納するのにキッチン用のワゴンと棚を買う。会計は4万だ!
 
しかしまあ、あんなに何にもない台所でよく1年も生活していたものである。外食ばかりだったのだろうか?
 
もっと近くなら毎日来て御飯作ってあげてもいいけどなあ、などとも思う、 
マンションに戻るが、貴司はまだ寝ていた。熱さまシートがぬるくなっているので交換する。その後、またまた何度も車と部屋を往復して荷物を運び込む。お米を米びつに移し、棚を組み立てて設置。ワゴンも置き、買って来たものを(必要なら洗ってから)収納していく。
 
今日はなんだか力仕事だ!
 
夕方くらいになって貴司が目を覚ましたので、御飯を雑炊にして、スープと一緒に勧める。
 
「美味しい、美味しい」
と言って食べてくれる。熱はまだ完全には下がりきっていないので、あまり無理しないようにと言って、御飯もスープも一杯だけにした。病院の薬を飲む。 
「なんか台所が見違えてる」
 
と貴司はやっと台所に気付いて言う。
 
「だって、あまりにも何も無いんだもん。貴司、外食ばかり?」
「うん。外食と、ホカ弁と、レトルトカレーにカップヌードルに」
「そんなんじゃ、バスケ選手としての身体を維持できないよ。貴司料理自体はできるよね?」
「うん、まあ」
 
「じゃ、私がメニュー考えて、レシピFAXしてあげるからさ、ちゃんと作って食べない? 近くに住んでたら毎日私が作りに来てあげてもいいんだけどね」
 
「そうだなあ。確かにインスタント食品ばかりじゃ身体に良くないなというのは思ってたんだけど」
 
少しおしゃべりした後、少し熱が出て来たというので、またアクエリアスを飲んで貴司は寝た。
 

熱さまシートのストックがあまり無かったというので、千里は近くのコンビニに行って1箱買ってくる。ついでに雑誌を数冊買ってきて、貴司のベッドのそばで読んでいた。
 
20時過ぎに貴司の携帯に着信がある。着メロが『みくみくにしてあげる♪』だ。多分彼女かな、と思うが貴司は起きない。
 
「貴司、彼女から電話だよ」
と言って、揺すってみたものの起きる気配が無い。
 
電話は何度も何度も掛かってくる。その内『世界に一つだけの花』が鳴る。どうもメール着信のようである。貴司は起きない。それで千里が見てみると 
「そちらに行きます。緋那」
と書かれている。
 
困ったなと思う。彼女はたぶんここの鍵を持っているだろう。自分は出ていた方が良いか?とも思ったものの、貴司は苦しそうにして寝ている。この貴司を放置して出て行く訳にはいかない。
 
『千里、ベッドの下に隠れる?』
と《くうちゃん》が言うので、千里は玄関に行き、自分のパンプスを取ってきてから、貴司のベッドの下に隠れた。何だか、泥棒にでもなった気分! 

彼女からのメールが来てから20分ほどして、インターホンが鳴る。貴司は起きない。うむむ。困ったな。何度か鳴った上で
 
「緋那(ひいな)です。ちょっと開けてくれない?」
という声がする。
 
彼女は鍵を持っていない??
 
貴司が起きる気配が無いので、千里はやれやれと思い、貴司の部屋を出ると玄関まで行き、マンションのエントランスのロックを解除するボタンを押した。玄関の扉も開け、そのあたりに落ちてたスニーカーを挟んで、扉がしまらないようにする。それから千里は部屋に戻ると、本気で貴司を起こす。
 
「貴司、起きてよ。彼女が今こちらに上がってくる所」
 
かなり揺すって、やっと貴司は目を覚ますが、ボーっとしている。
 
「今、ここに来るからね」
と言って、千里はベッドの下に潜り込んでしまう。
 

間もなく玄関の扉が開いて、女性が入ってくる気配がある。
 
「たかちゃん、寝てるの?」
と言いながら彼女は中に入って来た。
 
「え?」
という声をあげる。台所の様子が随分変わっているから、それに驚いているのだろう。
 
「たかちゃん?」
と言いながら、やがて女性は貴司の部屋に入ってきた。
 
「あ、来てくれたんだ? ごめん。まだ熱があってボーっとしてて」
「ごめんねー。付いててあげたいのは、やまやまだけど、今週の仕事はどうしても外せなくて」
「いや、いいんだよ」
 
彼女は強い香水の匂いをさせている。この香りは知っている。ベビードールだ。恐らくここに来る前に新たに身体に振っている。これなら私のオードトワレの匂いには気付かないかな?と千里は踏んだ。こないだの彼女は東京に来た時も香水の類を付けていなかった。だから、こちらの香りに気付いたのだろう。 
「でも台所、お母さんか誰か来たの?」
「あ、えっと、会社の同僚が心配して来てくれてさ。台所見て何にも無いと言って、勝手に色々買って持って来たんだよ。料理好きの奴でさ」
「へー、親切な人がいるんだね!」
 
取り敢えず彼女はその貴司の説明に疑問は持っていないようである。
 
「そいつがおかゆとスープも作ってくれたんだ、夕飯はそれを食べたんだよ」
「なるほどー。良かったね。あ、私も取り敢えずチーズ蒸しパン買ってきたんだけど」
「あ、それ好き」
「食べる?」
「うん」
 
と言って貴司は彼女が買って来たパンを食べている。
 
「私、今夜ここに居ようか?」
「いや、長時間居て風邪を移しちゃったら、キャンペーンに出られなくなってまずいよ。あまり遅くならない内に帰った方がいい」
 
「そうだね。じゃ10時までは居るよ」
「ありがとう」
 
ふーん。彼女に風邪が移るのは心配する訳ね〜。と千里は若干不愉快な思いだ。しかし彼女、10時まで居るのか。その間、私はトイレにも行けないし、身動きひとつできない。
 
「あ、でもスープあるのなら、私も少し食べていい?」
「うん、食べて食べて」
 

それで彼女は台所に行き、スープを温め、御飯を盛ってスープも盛って食べ始める。会話しやすいように、貴司の部屋のドアは開けたままである。 
「このスープ美味しい!」
「ああ、あいつ料理得意なんだよ」
「へー」
 
私が作ったスープを彼女が食べるというのは、まあ悪くない状況だなと千里は思う。どうせなら、女の子が食べたら呪われるようにしておきたかったけどね。 
などと思ったら、後ろで《こうちゃん》が指を折っている。
 
『勝手な親切はしないように』
『はーい』
 
その内、貴司はトイレに出ていき、そのついでに台所のテーブルの所の椅子に座った。意識をそちらに集中してみると、アクエリアスを飲んでいるようだ。 
「座ってて大丈夫?」
「うん。少しくらいならね」
 
「だけど、この調理器具買って来てくれた人、料理好きというのが分かるよ。鍋が、すごくしっかりしたもの選んである。包丁にしても、マナ板にしても玄人好みなんだよ。フライパンも素人なら絶対選ぶテフロン加工のアルミじゃなくて鉄のを選んでる。そして多分野菜くずか何か炒めて、既に表面に炭素の層を作ってる」
 
ああ、この彼女は料理好きだと言っていた。だから、こういうのが分かるのだろう。
 
「ああ、炭素の層を作るんだ、というのはうちの母ちゃんも言ってたなあ」
と貴司は答える。
 
「食材もいろいろ買ってあるみたいね」
と言って彼女は棚に並んだ香辛料を見る。
 
「ミル付きのペッパーなんて、やはり好きな人だよね〜。挽いてある奴は香りが弱いもん。だけど、クミンシードにグローブに、ターメリックに。これ個人的な趣味に走ってるな」
 
当たり!
 
冷蔵庫を開けているようだ。
 
「味噌、お酒、みりん、ショウガ、ニンニク、オイスターソース。ほんとに料理する人だなあ。安易な、すぐ使える系のものが無いのでも分かる。でもこれだけ揃ってるなら、私、御飯作ってあげる時に、持参するものが少なくて済むよ」
 
ふふ。私が用意したもので貴司に料理作るんならどうぞどうぞ。
 
「ん?」
と言って、彼女は冷蔵庫の中の何かを取り出して見ているようだ。
 
「このお味噌、見たことない」
「ふーん」
「どこのメーカーだろう。。。。。館山醸造? 聞いたことない。どこにあるんだろう・・・千葉県館山市??」
 
ぶっ。千里はつい吹き出してしまった。あはは。こうなったら、なるようになれだな。
 
「別に東京のキッコーマンだって大阪で売ってるし」
と貴司は言う。
 
「有名メーカーならそうだけど、って、あ、みりんは万上だ。そのキッコーマンじゃん。醤油もこれ見たことないな。成田醤油?? 千葉県成田市???」
 
その内卵に気付いたようだ。
「朝日養鶏場・・・千葉県香取市?」
 
千里はもう笑いたくてたまらなくなってきた。彼女はしばらく沈黙していた。 
「ね、お友だちってどこに住んでるの?」
「えっと、茨木市だけど」
「茨木市? 茨城県ってことないよね?」
「まさか、わざわざ茨城県の友だちを呼んだりはしないし、来てくれないだろ?」
 
そうだね。わざわざ千葉から普通来ないよ。
 
その時彼女は貴司がお昼に食べた、蒸しパンの袋を見つけたようである。 
「この蒸しパンの袋は?」
「あっとその友だちが持って来てくれたのを昼に食べたんだけど」
 
「・・・・工場の記号がYMKだ」
「何それ?」
「ヤマサキの製品はどこの工場で作ったか記号が入っているんだよ。私がさっき持って来たのは、ほら、YO1。これ吹田市の工場なんだよ」
「へ、へー」
 
貴司はそろそろ焦っている感じだ。あらあら、可哀想に。
 
彼女はヤマサキの工場記号の一覧を自分の携帯で確認しているようである。 
「YMKは千葉の松戸工場だよ」
と彼女は言った。
 
「あ、えっと・・・・」
 
「ねぇ、キッチン用品を持って来て、御飯作ってくれたお友だちってさ」
「うん」
「男なの?女なの?」
「えっと・・・・」
「女なのね」
 
貴司は返事をしない。
 
「こないだ京田辺市の試合を見てた子?」
 
「ごめん。君が来られないみたいだったから・・・・」
「ふーん。私が居なければ、その子でもいいんだ?」
 
ああ、多分貴司はそういう奴だ。と千里はこの瞬間だけ彼女の肩を持ちたい気分だった。
 
「それで呼んだらわざわざ千葉から出て来てくれるって凄い熱心だね」
 
私だって学校サボってやってきたんだぞ〜。
 
「ごめん。ちょっと熱が」
 
まあ、風邪引いてる時にこういうので責められたら体調も悪くなるだろうね。 
「その子はもう帰ったの? それともどこか近くのファミレスか何かででも待機してるの?」
 
あはは。まさかベッドの下に隠れてるとは思わないよね?
 
「悪いけど、その問題は後日話し合えない? 今ほんとに体調悪い。僕少し寝たいから」
 
「分かった。じゃ今晩はその彼女にせいぜい看病してもらったら?じゃね」
 
そう言って、彼女は出て行った。
 

千里はベッドの下から這い出すと台所に行った。
 
「今は何も考えずに寝た方がいい。ここは私が片付けておくから」
「済まん。じゃ、寝るから」
「うん」
 
それで貴司は部屋に戻ってベッドに寝た。熱さまシートがまた、ぬるくなっていたので、千里は新しいのに交換してあげた。
 
台所を片付けた後、毛布を持って来てLDKのソファで自分も寝た。
 

夜中《びゃくちゃん》から起こされ、貴司の様子を見に行くと、かなり熱が上がっている。これちょっとまずいのでは?という気がする。
 
『夜間診療所とかに連れて行った方がいいかな?』
『それがいいかも』
 
それで貴司を無理矢理起こして車に乗せ、休日夜間診療所に連れて行った。 
「病院にかかっているんですか? どんな薬を処方されました?」
「これですけど」
 
と言って医者に見せる。
 
「ああ、単純な風邪だと思ったんだな」
「風邪じゃないんですか?」
「インフルエンザですね」
「ああ」
「熱が出始めたのはいつですか?」
「昨夜です」
「だったらタミフルが間に合いますね」
 
それでタミフルを処方してもらい、その場で飲む。薬も持って行ったのは医者が回収し、あらたに別の内服薬を渡された。
 
それで帰宅してベッドに寝せた。90kgの体重の貴司を支えて歩くのに《こうちゃん》が力を貸してくれた。《こうちゃん》は悪いことも好きだが、頼りにもなる子である。
 

朝起きてから体温を測ってみると38度代まで下がっている。朝御飯を作っていたら、貴司が起きてきた。
 
「ぼーっとしてたけど、夜中に病院に連れて行ってくれたんだっけ?」
「うん。取り敢えずたくさん寝るといいよ。朝御飯たべる?」
「うん」
 
それで卵を落とした雑炊に、スープを勧める。
 
「あれ?味を変えた?」
「トマトを加えてみました」
「なんか栄養がありそうでいい」
「うん」
 
病気で弱っている時に、胃に優しいものを好む人と、病気と闘うため栄養のあるものを好む人がいる。体質にもよるのだろうが貴司は後者である。 
「蒸しパン食べるなら、またお昼に買ってくるよ」
「あはは、よろしく〜。でも千里、いつまで居てくれる?」
「治るまで居てあげるよ」
「ありがとう。心強い」
「うん。今は病気を治すことだけを考えて」
 
貴司は寝ていて結構汗を掻いていたので、着替えさせ、洗濯をする。シーツも交換した。インフルエンザのウィルスが部屋に随分漂っているのは間違い無いので窓を開け、換気扇を回し、千里もマスクをして、テーブルなどはよく拭き掃除もする。クレベリンを買って来て居間に置いた。
 

8時すぎに貴司の携帯に着信があるが、見るとお母さんである。千里は代わりに取った。
 
「おはようございます、お母さん。貴司さんは今寝てるんですよ」
と千里が答えると
「あんた、千里ちゃん?」
と驚くような声。
 
「看病してくれと言うので、千葉からやってきました」
「ほんとに! 千里ちゃんが付いててくれるなら私安心だわ。でもあんたたち仲が復活したの?」
「あくまで友だちということで」
「へー!」
とお母さんは言っているが、何だか嬉しがっている風である。
 
昨日の午前中に貴司がひとりで病院に行き風邪と診断されたこと。しかし夜中に随分熱があがるので夜間診療所に連れて行ったら風邪ではなくインフルエンザだと言われてタミフルを処方してもらったことなどを話す。
 
「大変だったね! でもそれって千里ちゃんが付いてなかったら、まずいことになってた」
 
「夏にかかるときついみたいですね。とにかく寝ているように言ってます」
「でも千里ちゃんまで移らないように気をつけてね」
「マスクしてるから大丈夫ですよ」
 
貴司の会社には貴司の妹を名乗ってインフルエンザにかかったので一週間ほど休むという連絡を入れた。友紀と麻依子にも一週間くらい休むとメールした。 
麻依子からメールがある。
《どうしたの?秋田(飽きた)?》
《商売(飽きない)は大阪。友だちの看病なのよ。インフルエンザ》
《友だちって彼氏?》
《えへへ》
《じゃ移らないように気をつけてね》
《うん。大丈夫。ありがとう》
 
友紀からもメールがある。
《どうしたの?風邪でも引いた?》
《風邪じゃなくてインフルエンザだって。私じゃないんだけどね》
《もしかして恋人の看病?》
《そういう訳でもないんだけど、誰も頼れる人が居ないなんて言うからさ。今西日本某都市》
《おお、愛の力で直してあげてね》
《うん》
 
友紀が『恋人』というのを男と思ったか女と思ったかは若干不安がある。 

日曜日になると、かなり熱が下がってくる。
 
「千里、看病疲れしてない? 昼間は外出しててもいいよ」
「じゃ、ちょっと汗を流してこようかな。貴司ボール貸してよ」
「いいよ。7号球だけど」
「うん。男子チームに居た時に慣れたから」
 
バスケットボールのサイズは男子は7号球、女子は6号球というものを使う。直径でいうと、男子のは24cmくらい、女子のは23cmくらいでサイズ差は微妙だが、扱う時の感覚は結構違う。
 
「ああ、そうだよね。シューズは?」
「突然したくなった時のために1ついつも車に乗せてる」
「おっすごい」
 
それで動きやすい服装に着替えて、貴司のマイボールを持ち、車の中に置いていたバッシュを持って、近くの体育館まで歩いて行った。
 
受付で使用料金を払い、シューズを履き替えて中に入る。バスケットのコートがあいているので、そこで取り敢えずスリーを撃つ。うーん。いまいちかな。 
ドリブルで走り回る練習をする。ゆっくり走ったり、スピードを出して走ったり。敵が目の前にいることを想定して、急激に進路を変えたりする。ドリブルする手を替えるのも前で替えるのと、後ろで替えるのと両方やる。そして制限エリアにドライブインしていって、タイミングを外してシュート!
 
30分もやっていると結構楽しくなってくる。しかし1人では寂しいなあ。練習相手がいるといいのに。
 

などと思っていた時、突然真後ろからこちらにボールが飛んできた。
 
振り返ってキャッチする。
 
「相変わらず凄いね」
とその人物は言った。
 
「花園さん!」
 
それはかつて愛知県のJ学園で、同校を日本一に導いたスーパー・シューター花園亜津子であった。
 
「花園さん、大阪に住んでおられるんでしたっけ?」
「ううん。愛知だよ。今日はちょっと友だちの所に来たんだけど、なんか1日でも練習休んだら、変な気分なんで、ちょっと汗流しに来た。村山さんは大阪?」
 
「私は今千葉なんです。でも友だちの所に来てて、以下同文」
 
ついお互いに微笑み会う。
 
「ちょっと手合わせしない?」
「私、受験勉強とかで中断してたからだいぶ勘がにぶってますけど、それでもよければ」
「その状態でどのくらいか見極めてあげるよ」
 

それでふたりで1on1をやる。攻撃と守備を1回交代でする。シュートできるかボールを奪われたら交代である。
 
それを10回ずつした。
 
「かなわん!」
と花園さんが音を上げる。
 
1on1は花園さんが攻撃の場合、5回千里が停めた。千里が攻撃の場合は、9本がシュートにつながった。
 
「何が勘が鈍ってるよ? 全然凄いじゃん」
「でも筋肉とか無茶苦茶落ちてるんですよ」
 
「ああ、たしかに瞬発力は落ちてるかもね。でもその前に村山さんのフェイントにどうしても騙されるんだよ。裏を書いたつもりが、裏の裏を書かれてるんだよなあ」
 
「ちょっと息抜きにシュート対決しましょうよ」
「よし」
 
お互いに30本ずつ撃った。
 
当然どちらも全部放り込んだが、花園さんは全てネットに直接放り込んだのに対して、千里はバックボードに当たって入ったのが5本、リングに当たってから入ったのが7本あった。
 
「確かに勘を取り戻してないね」
「卒業した後、しばらくは何もやってなかったんですけどね。今月初めから地元のクラブチームに入って練習を再開したばかりなんですよ」
 
「クラブチーム? 村山さん、進学校だから大学のバスケ部かと思った」
「大学のバスケ部には入らないつもりだったんですよねー。でもだったら趣味のレベルでやらない?と誘われちゃって」
 
「だったら、そのクラブチームを関東一にしちゃいなよ」
「とりあえず先週の千葉大会では優勝しましたが」
「そりゃ村山さんが居れば当然でしょ」
 
「花園さんはWリーグでしたよね?」
「うん。だけど企業チームは企業チームで悩みがあってさ。人数が少ないから練習に不自由がある」
「ああ、J学園なんて部員数が凄かったでしょ?」
「そそ。その中でのベンチ入り競争が熾烈だった。でも企業チームはベンチ枠から外れたら解雇されてるから、結果的にあの高校時代の厳しさが無いんだよ」
 
貴司の所はベンチ枠から外れている選手にはバスケ手当が支給されないことと勤務時間内の練習ができる特権が使えないだけで、趣味としての参加が容認されている。それでベンチ入りぎりぎり付近では常に競争が行われていて、それがまだ若いチームの活力のひとつにもなっている。ああいう企業チームは少ないのかも知れない。
 

その後、走りながらのパス練習をした後、1on1を5回ずつやってその日の練習を終えた。
 
「またやろうよ」
「半年休んでたから勘を取り戻すのに半年くらいかかりそう」
「じゃ9月くらいに手合わせしない?」
「しましょう」
 
そういって千里は花園さんと携帯の番号とアドレスを交換して別れた。 
マンションに戻ると、貴司は寝ていた。熱はかなり下がっているがまだ苦しそうだ。汗を掻いているので、貴司が寝ているまま着替えさせる。90kgの体重をひとりでは支えきれないので、《きーちゃん》と《びゃくちゃん》が手伝ってくれる。洗濯機を回してから自分もシャワーを浴びて、新しい下着・服に替える。 
シチューが食べたいと言ってたなと思い、クリームシチューを作り始めた。 

結局千里は火曜日まで貴司の看病を続けた。
 
「何日も看病してくれてありがとう。だいぶ楽になったよ」
「速く結婚しなよ。そしたら奥さんが看病してくれるよ」
 
「千里が奥さんになってくれるということは?」
「千葉と大阪じゃ結婚生活は困難だね」
 
「・・・・せめてフィアンセにならない?」
「フィアンセって将来の夫婦ってことでしょ? 私たちは過去の夫婦だしね」
「過去は過去で、また将来もってことはあり得ると思う。そういうカップルっているよ」
「私、今の大学に4年間通うし。そのあと修士にも2年行くと思うし。6年間遠距離恋愛はしたくない」
 
「確かに遠距離はしんどいけど・・・」
「恋人とか愛人にならなくても、私はいつでも貴司の友だちだから。今回みたいなことがあったらいつでも遠慮無く呼んでよ。何とかするからさ」
「うん」
 
「そして私は貴司が他の女の子と付き合っても、セックスしても、結婚しても平気だよ」
 
「さすがに今セックスする元気無い」
「あはは、はやく体調回復させて緋那さんとやりなよ」
「さすがに振られた気がする」
 
「そうかな。まだ完全に終わった訳じゃないと思うよ。彼女があの時帰ったのは、そのまま居れば決定的なことを言ってしまうからだと思う。自分の暴走を防止するために帰ったんだよ。あの子、冷静だよ。話し合ってごらんよ」
 
「千里、それでいいの?」
「もちろん私は貴司の恋路を邪魔すると思うけどね」
 
「千里、僕のこと好き?」
「人に訊く前に自分で言うもんだよ」
 
「千里、僕は千里のことが」
と貴司が言ったところで千里はその唇に指を当てて言葉を停めた。
 
「病気が治ってから、ゆっくり考えなよ」
「うん、そうする」
 
「あの後、彼女とセックスしたんだよね?」
「えっと、したことはしたんだけど・・・・」
「ん?」
「やはり逝けないんだよぉ」
 
「ああ。やはり、逝けないおちんちんは切っちゃう?」
「やだー」
 
「テンガで練習した?」
「した」
「逝けた?」
「逝けない。ふつうに手で握ってやっても、どうしても逝けない」
 
「ああ、重症だね。あとで性転換手術の付き添いしてくれる会社の案内をこちらに送っておこうか」
「いやだよぉ」
 
「逝けなかったらおちんちん切られると思ったら逝けたりして」
「それは、危険な道への1歩という気がするから、何とか普通に頑張ってみる」
「ふふ。頑張ってね」
「でも、チンコよりバスケ鍛えたいし」
「だったら女子バスケ選手になる道だ。身長188cmの女子はすぐ強化選手になるよ」
「それもいやだぁ!」
 

火曜日の夜10時に貴司のマンションを出て、車を運転し東京方面へと向かう。さすがに疲れたなと思い、一宮PAで仮眠した。
 
2時頃目が覚めてトイレに行ってくる。個室で少しボーっとしていたがハッと我に返り、流して手を洗い外に出る。
 
『俺が運転しようか?』
と《こうちゃん》が語りかけてくる。
 
『ごめーん。その方がいいみたい。お願い』
『よっしゃ』
 
眷属たちの中でもうひとり《きーちゃん》も運転ができるが、貴司の看病でだいぶ手伝ってもらっている。疲れているはずだ。荒っぽいので、あまり気が進まないがここは《こうちゃん》に頼んだ方が良いだろう。
 
取り敢えず自販機でコーヒー(無糖)を買い飲んでいたら、近くに赤いランエボ(三菱・ランサーエボリューション)が停まる。荒々しくドアが開き飛び出して来た人物を見てびっくりする。
 
助手席から降りて来たのが桃香だったのである。
 
運転席から降りて来たのも女の子だが、先日千葉駅で揉めていた女の子とは別の子だ。しかし今日も桃香はその車を運転していた女の子と揉めている。やれやれ。女の恋人が何人いたんだ?
 

「だから広実とはあくまで友だちとしてなら付き合っていいと言った」
「友だち同士セックスくらいしてもいいじゃん」
「友だちはセックスはしないものだ」
 
ああ。何だか耳が痛い。
 
「じゃせめてキス」
「キスもしない!」
「じゃ手を握ろうよ」
「そういうこともしないのが友だちだ」
 
ああ、すごーく耳が痛い。
 
ふたりは5分くらい言い合っていた。が、その内、桃香がこちらに気付く。 
「あれ? 千里?」
 
今日は貴司のマンションを出た後、ちょっと蒸れたかなと思いウィッグを外していたのである。服もポロシャツにジーンズだ。これだと桃香は普通に自分を識別するだろう。
 
「桃香、こんばんは」
 
すると、桃香はつかつかと近づいて来て、いきなり千里の唇にキスする。ちょっと待て!
 
「すまん。広実、これが私の新しい恋人なんだ」
 
何〜〜〜!?
 
「桃香、しばらく恋はしないと言ってたのに」
「うん。女の子とは恋はしない。実は男女の愛に目覚めてしまったんだよ」
「へ。だってその子、女の子だよね?」
 
「いや、女の子に見えるかも知れんが、これは男の子なんだ」
「うそ」
 
もう仕方無いな。
 
「ボク間違い無く男だけど」
と千里は広実の方を向いて男声で言う。
 
「えーー!?」
 
「女同士の恋より男女の恋の方が100倍楽しいと思うよ」
と桃香は言う。
 
「そんなことはない。女同士の方が楽しいって桃香も言ってたじゃん」
「済まん。やってみたら楽しかったんだよ。セックスも気持ちいいし」
「その子としたの?」
「もう10回くらいしてる」
 
そんな馬鹿な。
 
「今夜もたぶんすると思う」
 
御免!もうおちんちん無いから無理!
 
「もうビアン辞めちゃうの?」
「うん。私は男の子と結婚するつもりだから」
 
「分かった。だったら諦める。でも、今夜この後、桃香どうするの?」
 
「千里、誰かと来てるんだっけ?」
「ううん。ひとりでドライブしてた。今から千葉に帰る所」
「だったら乗せてくれ」
「いいけど」
 
それで桃香は
「私は彼と一緒に帰るから」
と彼女の方に言った。
 
「じゃ私、このまま高岡に帰る」
そう言って彼女は自分のランエボに戻った。
 
 
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