【代親の死神】(2)

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グレンツは、大学でよく医学を勉強していましたし、その上5年間にわたって、別の医師のもとで実際の診察・治療にも当たっていたのでひとり立ちしても、的確に病状を判断し、的確な投薬で患者を治していきました。
 
グレンツの“本性”はすぐ患者さんたちに認識されることになります。
 
「あのお医者さん、女の気持ちがよく分かるみたい」
「女特有のことがよく分かってるよね」
「あの先生、実は女で、男装してるということは?」
「それもありそうな気がしてきた!」
 
ということで、当時は(正規の医師免許を持つ)女性医師は他には居ないため女性たちに人気となり、患者の7割くらいが女性という状況になりました(まじない師のような感じの非正規の女性医師は存在する)。
 
女性患者は特に婦人科系のトラブルの場合、男性医師に性器を診せるのは恥ずかしいのを通り越して罪悪感さえ覚えるので、女性医師なら安心だったのです。それでローテンブルクだけでなく、ニュルンベルクやヴュルツブルクなどからわざわざ掛かりに来る人までありました。
 
↓地図再掲

 

開業してから2ヶ月ほど経った時、往診を頼むと言われて出かけていきました。そこは豪邸でしたが、そこの主人かと思われる40歳前後の男が寝ていました。いかにもすぐ死にそうに見えます。グレンツはちらっと死神を見ました。死神は患者の枕元に立っています。だったら助かるはずです。
 
「これは重い病気ですが、治る可能性があります」
とグレンツは言うと、お湯を用意させ、例の薬草を溶かして患者に飲ませました。すると翌日には患者は容体が持ち直し、その後は普通の治療でみるみる内に快方に向かいました。そして半月ほどで起き上がれるようになったのです。
 
患者は「よく助けてくれた」と言って、グレンツにたくさん御礼をしました。
 

4ヶ月ほど経った時、また患者の往診を頼まれました。患者は60歳くらいの女で、いかにも死にそうに見えます。死神をちらっと見ると死神は患者の足元に立っています。グレンツは患者の体温を見たり、胸に手を当てて心音を確認したりしていましたが、やがて難しい顔をして席を立ち、廊下に患者の息子さんを呼びました。
 
「申し訳ありませんが、もう手遅れです。これは手の施しようがありません」
「そうですか」
と息子さんは覚悟していたように答えました。
 
グレンツは患者があまり痛みなどを感じなくて済む薬を処方してあげましたが、患者は一週間後に亡くなりました。息子は母があまり苦しまなくて済んだことに感謝してお礼をしてくれました。グレンツはお葬式にお花を贈っておきました。
 

それ以降、グレンツは通常病院で診察・治療をするとともに、時々往診を頼まれました。往診を頼まれるのは多くが重症患者だったのですが、グレンツは死神の立っている位置を見て、助かるか助からないかを判断。助かる患者には例の薬草を飲ませて助けました。
 
その内、グレンツは「あのお医者さんが助かると言った患者は必ず助かる」ということで随分評判になりました。しかし評判になるにつれ、重症患者を診てくれという依頼も多くなり、結果的に首を振る率も高くなりました。
 
「何を悩んでるの?」
と代母は訊きました。
 
「最近、ひたすら『手遅れです』『助かりません』と言い続けてるなあと思って」
「そういう患者ばかり頼まれてるんだから仕方ないでしょ。死に行く患者を見送るのは医者というものの宿命だよ」
 
「それは覚悟していたつもりだったんだけど、人の生命(いのち)は重い」
「重いけど、人はいつか死ぬものだからね」
「そうだよね〜。また頑張る」
「うん」
 

「ところで、あんた結婚しないの?」
「仕事が忙しくて女の子と付き合う時間が無いよ」
「男と結婚する?“男の医者”と組んで病院を経営して、あんたは主として女を見ればいい。適当な男を紹介しようか?」
 
「・・・・・」
 
「まあそこまでしなくても、女の服を着るだけでもストレス解消になるよ。ひとり暮らしで気兼ねもないし。家の中では女の服を着てたら?」
 
「それもいいかもね」
 
「じゃ私が女の服を買ってきてあげるよ」
「え〜〜!?」
 
「ちゃんと乳帯も着けなよ」
「・・・・それ着けたことない」
「じぉ着け方教えてあげるね」
と代母は楽しそうに言いました。
 
それでグレンツは自宅(病院に隣接している)では女の格好をしていて、病院に出勤する時だけ男の格好をするようになりました。代母が言ったとおり、これは結構ストレス発散になりました。
 

ところで、この頃から、グレンツ(Grenz)のことを“Dr. Grenze”と呼ぶ人たちが出てきました。Grenze (グレンツェ)というのは境界という意味。つまり Dr. Grenze というのは“境界博士”という意味です。
 
重症患者を助かるか助からないか、一瞬で見分けることから、生と死の境界を見極めるということで、本名の Grenz に引っかけて、Dr. Grenze (Doktor Grenze) の名前ができました。でも元々グレンツ(Grenz) というのは、彼が年の境界、1年が終わって新しい年が始まる瞬間に生まれて来たことから付けられた名前なので、Grenze の方が本来の名前だったかも知れません。
 
もっとも Grenze というのは女性名詞なので、Doktor Grenze というのは言葉の“納まり”が悪く、その内、Doktorin Grenze (ドクトリン・グレンツェ:境界女博士!?)と呼ぶ人たちも出て来ました。その名前が一人歩きしてしまい、グレンツの病院に来てから
 
「女先生は今日は休診ですか?」
と訊く患者さんまでいて、婦長のイルマが忍び笑いしていました!
 

「あんた、ほんとに女の格好で病院に出たら?そしたら女医者として有名になるよ」
と代母は笑いながら言います。
 
「恥ずかしいよぉ」
「ああ、嫌な訳じゃないのね?取り敢えず髪は伸ばすといいよ」
「・・・・・」
 
どっちみち、グレンツの病院は患者が多くて、とてもひとりでは患者を診きれなくなってしまいます。それでグレンツは、開業して1年経った時、大学時代にルームメイトだったものの度重なる規律違反で退学処分になったフランクの弟ロベルトがちょうど医学博士になって大学を卒業したのを雇いました(グレンツやフランクの6つ下)。兄と違ってロベルトは真面目な性格で、また外科が得意だったので助かりました。
 
それで、内科は主としてグレンツが、また外科は主としてロベルトが診るようになりました。しかし女性の患者はグレンツに診てもらうことを希望するので、結局女はグレンツが診て、男はロベルトが診る感じになりました。実際男性の患者には仕事中の怪我などの受診が多く、女は内科・婦人科疾患が多かったというのもありました。
 
そして女の患者さんたちにはグレンツのことを“ドクトリン・グレンツェ”つまり女医者だと思い込んでいる人たちが多かったのです。グレンツは見た目が優しい雰囲気だし、髪も長くしていて結構女に見えるし、また女の身体のことをよく分かっているので、彼が男の声で話していても、患者さんは“グレンツェ”が女だと思ってしまうようです。
 
「やはりあんた女医者になっちゃったね。いっそ本当の女に変えてあげようか」
「・・・・・」
「あ、迷ってる。女になりたくなったら言ってね。ロベルトと結婚してもいいじゃん」
「いや、彼には恋愛感情は持ってない」
「ふーん」
 
ロベルトは実際にはここの医師になってから3年目に21歳の看護婦ユリアと結婚しました。もっともユリアはロベルトにプロポーズされた時
 
「私てっきりロベルトは女院長と実質夫婦なのかと思ってた」
などと言ったらしいですが!
 

医者になってから10年、ローテンブルクで開業してからも5年が過ぎ、グレンツはこの町いちばんの名医と言われていました。彼自身もう39歳になっています。病院では3人目の医師ミハエルを雇って医師3人体制になっていました。ミハエルはグレンツ同様内科が得意なので、結果的には男の内科の患者はミハエルが、女の内科・婦人科の患者はグレンツが診る感じになりました(男の婦人科患者はめったに?居ない)。但し重症患者は多くグレンツに託されました。彼は死神の立っている位置を見て、助けられるだけの患者を助けました。
 
もっとも彼がこの薬(ナハトはレーベングラス Lebengras 生命の草:と呼んでいた)を飲ませる場面は、彼以外には見えていないようでした。ナハトは「この薬は本来この世のものではないからね」と言っていました。彼はこの植物がラベンダー (ドイツ語ではラベンデル Lavendel) の近隣系統の植物のようだと感じ、ラベンダーとのハーフを作ってみました。この“レーベンデル”はミハエルやロベルトにも見えるようでした。それで重症・重傷患者の改善に結構効果を発揮しました。この薬草は後にグレンツが引退した後、この病院の宝物となります。
 

この時期、一番上の兄・ユリオン(51)は大工を引退して息子に仕事を任せていました。カメリエ(49)やリリエ(43)にはもう孫ができていました。フリーダ(50)はすっかり良いお婆ちゃん!になっていました。“ムター・フリーダ”(英語でいえばマザー・フリーダ)と呼ばれて信徒たちに親しまれていました。フリーダが育てていた子供(ルイーザが産んだ子)も結婚して子供ができていたので、フリーダも実際に“お祖母ちゃん”です。
 
収入の大きいグレンツは兄姉たちの子供や孫の代親にもなってあげ、また教育費の支援などもしていました。ちなみに彼としては?代父”(Pate パーテ)のつもりですが、支援されている甥姪、甥孫・姪孫たちは、“代母”(Patin ハーティン)と思っている気もしましたが!?
 
ノアの末娘エリカなんて
「女の医者って格好いいなあ。私も男の振りしてギムナジウム行って大学行って女医者になろうかなあ」
などと言っていました!
 
(彼女は本当に医師の資格を取り、グレンツの死後病院を継承して2代目院長になります)
 
グレンツと並んで収入の多い弁護士のローランド(47)も色々な子の“代父”をしています。彼自身、孫が5人もいて、良いお祖父ちゃんです。彼はもう30年以上男として生きているので、彼が本当は女だというのは、もうきょうだいたちも忘れかけていました。
 
「ローランドって、ひょっとしてちんちんあるの?」
「そりゃ僕は男だから、チンコくらいあるよ」
「・・・」
 
兄姉たちが、子供や孫に囲まれて生活しているのを見ながら、グレンツは、自分は結局結婚しないままになってしまったなあと思っていました。
 

ずっと独身を続けているグレンツに関して、近隣の住人や患者さんたち、また病院のスタッフ!の間には2種類の見解がありました。
 
(1) グレンツ医師には実は内縁の妻がおり、子供もいるが、ハイデルベルクで暮らしている(どこからハイデルベルクなんて地名が?)
 
(2)グレンツ医師は女医さんだが、男の振りをして医師免許を取ったので建前上男性と結婚ができず、独身を保っている。
 
実は女装のグレンツが時々目撃されているので、それを“グレンツの妻”と考えた人と“グレンツは本当は女”と考えた人があったのです。
 
グレンツが女の格好をしていると、とても自然で、男の女装には見えないので、誰も“グレンツは男だが女装する”とは思いも寄りませんでした!知っているのは婦長のイルマくらいです。彼女はこの病院を開業した時以来の看護婦で、もう6年近い付き合いになります。
 
イルマは28歳まで修道院に入っていて、修道院では病人の看護などもしていたため、どうかした若い医者より医学的な知識があったりします。彼女は結婚はしないつもりで修道院に入っていたので(好きだった人が亡くなったらしい)、現在35歳で未婚でした。彼女はどうも“女装するグレンツ”に興味があるようで、ドレスを縫ってグレンツにプレゼントしてくれたりもします。
 
「でもグレンツェも裁縫は得意だよね」
「小さい頃から教えられていたから。でも裁縫ができるおかげで怪我した患者の傷口を縫うこともできる」
「傷口を縫うと速くよくなるみたいね。ロベルト先生もあれはできないから、縫合するのは、いつもグレンツェがしてるし」
 
彼女はロベルトやミハエルには敬語を使うのに、グレンツには“ため口”です。
 
「布を縫い合わせることのできる人でないと皮膚は縫い合わせられないかもね」
 
「お医者さんは裁縫の練習をすべきかもね」
「いいことだと思うよ」
 
「あぁあ、でも私もグレンツェもずっと独身のままかなあ」
などと言っています。
 
彼女は人前ではグレンツのことを“ドクトル・シュミット”とか“ドクトル・グレンツ”と言いますが、プライベートでは“グレンツェ”になっています。
 
「イルマ、結婚してもいいよ。君にやめられると結構大変だけど何とかするから」
 
そんなことを言ったら、彼女はグレンツの“膝に腰掛けて”(女同士の親愛表現?)こんなことを言いました。
 
「ねぇグレンツェ。もし私に子種をくれたらあんたの子供(dein Kind)(*13)を産んであげるよ」
「えっと・・・」
 
(*13) ドイツ語もフランス語などと同様に、家族や恋人に使う二人称と、遠慮のある人に使う二人称が異なる。遠慮のある人には Sie, 家族などには du を使う。Sie の所有冠詞は Ihr, du の所有冠詞は dein である。つまり Ihr Kind ではなく dein Kind と言っているのは、イルマがグレンツェに事実上恋人に近い感情を持っていることを示している。
 

「グレンツェってヒゲが無いけど、睾丸取っちゃったんだっけ?」
「・・・付いてるけど」
 
ヒゲが生えないのは代母が「女医さんにはヒゲがあってはいけない」と言ってヒゲも足の毛も生えなくしてくれたのです。でもヒゲ剃りをしなくて済んで助かっています。代母はついでにグレンツの喉仏まで無くしてしまったので、グレンツは喉の形が女のようになっています。心持ち声も高くなった気もしています。それで髪は長くしているので、本当に女に見えるのです。
 
「だったら子種くれない?」
 
「36歳で子供を産んで大丈夫?」
「“グレンツェ女先生”(Ärztin Grenze) がちゃんとお世話して下さるだろうし」
「そうだなあ」
 
「私はグレンツェの奥さんになっても、グレンツェが女の格好するのは許してあげるよ。本当はむしろ女になりたいんでしょ?」
 
「あはは」
 

それで結局、グレンツは彼女と結婚しました。
 
イルマは結婚前に言っていたように、グレンツの女装を許してくれましたし、むしろ煽りました。お化粧なども教えてくれましたが、これはとても楽しい気分にさせてくれました。疲れてる時にお化粧すると、疲れが取れていく感じもしました。
 
そして1年後には娘のヤスミンが生まれました。40歳で出来た子供は可愛くて可愛くて、目の中に入れても痛くない気分でした。
 
「嬉しーい。私、お母さんになれた」
とイルマも言っていました。
 
「頑張ったね」
とグレンツは出産直後の妻にねぎらいの言葉を掛けました。
 

ちなみに、グレンツとイルマの結婚に関しては、こんな噂が、患者さんやスタッフの間には流れていました。
 
ドクトリン・グレンツェは、男のふりをして医師免許を取ったので、男という建前にしているから女性と結婚できる。ふたりは実際には仲の良いお友だちのような夫婦(婦婦?)である。娘のヤスミンちゃんは、実はイルマの妹の子供を養子にもらったもの。
 
結局誰にも、グレンツが男だという発想は存在しないようです。
 

グレンツは代母と話し合いました。
 
「ねえ、ぼくの睾丸取ってくれない?」
「へー!」
 
「だって、ぼくに睾丸があると、またイルマを妊娠させてしまうかも知れない。でもこれ以上高齢での妊娠は危険だもん。睾丸を取ってしまえば、妻を妊娠ざせることはない」
 
「いいけど自分で手術できるでしょ?」
「お母さんに頼んだら、痛み無しで取ってくれそうな気がするから」
 
「まあ、あんたのお父さんのハンスも、あんたができた後、睾丸を取ってあげた。あれ以上子供が増えたらもうどうにもならなくなってたからね。フリーダはギムナジウム時代に睾丸を取ってあげた。あまり男っぽくならないようにしてほしいと言ったから。まあフリーダはあれで長生きになったと思うよ」
 
「そうなの?」
「どうしても女の方が長生きだからね」
「一般にそうだよね〜。お年寄りは明らかにお爺さんよりお婆さんが多い」
「睾丸があるとどうしても寿命が短くなるのよ。だからあんたも睾丸取ると、きっと寿命が延びるわよ」
 
「そういうものかな」
 
「ただ、睾丸取ると、ちんちんは立ちにくくなるから」
「頑張る」
「まあ立つ立たないは気持ちの問題が大きいから、お嫁さんを満足させてあげるように頑張りなさい」
「うん」
 
「それか、いっそちんちんも取っちゃう?フリーダみたいに完全な女の形にしてあげてもいいよ」
 
「・・・・・」
 
「あ、少し悩んでる」
「睾丸だけでお願いします」
「了解了解」
 
でもフリーダ姉さん、完全な女になっちゃったの!??
 

それでナハトはグレンツの睾丸を除去してくれました。痛みは全く無かったので、お母さんに頼んで正解だった!と思いました。感覚の発達している部分だけに、手術するとかなりの激痛に耐えないといけないだろうなと思っていました。
 
睾丸を取った後は、確かにちんちんは立ちにくくなりましたが、ナハトの助言に従って、毎日立てる“練習”をしていたら、何とか立つ能力は維持することができました。なお女の服を着ている方が立ちやすい感じだったので、グレンツはドレスを着て女の下着までつけて、イルマとは夜の時間を過ごしました。ドレスを着た同士で抱き合うとお互いに物凄く興奮しました。イルマって元々女の子が好きなのかも、とチラッと思いました。
 
「自宅の中ではいつも女の服を着てればいいのに」
とイルマは言います。
「それをやると、女の服が当たり前になって、女の服を着てもちんちん立たなくなってしまう気がする」
「いっそ、女の子になっちゃう?睾丸は取っちゃったけど、更に手術して、陰茎と陰嚢も除去したら、かなり女に近くなるよ」
 
「・・・・・」
「あ、悩んでる」
 
「陰茎・陰嚢を除去した上で、陰唇・膣を形成する手術法がある。そうすればほぼ女にしか見えなくなる」
とグレンツは言います。
 
「そんな方法があるんだ!」
とイルマは驚いていました。
 
「アラビア語の医学文献で見たことはあるけど、大手術だよ」
「へー!」
 
実は代母が、フリーダを完全な女の形に変えてあげたと聞いたので、文献を調べていたら、アラビア語の文献で、男を女に変える手術、というものが存在することに数日前に気付いたのです。
 
女になりたい男がいたら一度手術してみたい気はしました。でもそういう男は・・・わりと居そうな気もします!
 

“手術の練習”をする機会を代母が提供してくれました。
 
代母は夜遅く、グレンツを1軒の豪邸に案内しました。
「ここは***さんのお屋敷じゃん」
「奧さんの***が亡くなったんだよ」
「それは知らなかった。明日にでもお花を贈っておこう」
「それがいいね」
と言って、代母はグレンツを夫人の遺体そばに導きます。
 
死に装束で美しく飾られ、手が組まれています。
「亡くなったのは3日前なんだけど、息子や娘たちが遠くから駆け付けてくるのを待ってたから明日葬式なんだよ」
「今の時期なら3日待っても大丈夫だろうね」
「3日経ってるから死後硬直はほぼ解けてるよ」
「何させるつもり?」
 
代母は死者の下半身の衣服をめくり、下着を外しました。
「嘘!?」
「奧さんは男だったのよ」
「でも子供がいたよね?」
「みんな、めかけさんが産んだ子。育てたのはこの人だけとね」
「・・・」
「この人は5歳の頃から、ずっと女として生きて来た。天に帰る前に本当の女にしてあげたいとは思わない?」
「・・・・・」
「手術中は誰もここに近寄らないようにしてあげるよ」
 
それでグレンツは手術道具を取り出しました。
 
陰嚢を中央で縦に切開します。睾丸が無かったので多分子供の内に去勢手術を受けたんだろうなと思いました。だから女らしさを保っていたのでしょう。陰茎も子供サイズしかありませんが、それを恥骨結合の所まで露出させ根元から切断します。女性の膣があるべき場所に指を突っ込んで穴を開けます。そして切断した陰茎の皮膚を剥がし、皮膚表面を内側にして、その穴に挿入。膣の“内張り”とします。あとは切開して左右に分かれている陰嚢の皮膚を各々うまく折りたたんで陰裂状に変えました。
 
「おお、ちゃんと女の形になったじゃん」
と、ナハトはグレンツの手術を褒めてくれました。
 
「陰茎が小さかったから浅い膣にしかならなかった。それに陰嚢も萎縮してたから大陰唇を作るのが精一杯で、小陰唇が作れなかった」
「でもやり方は分かったでしょ?」
「うん」
 

衣服を元に戻して家を出ます。グレンツはナハトと少し話し合いました。
 
「アラビア語の文献にそってやってみたけど、確かに女みたいな形になっちゃうから凄いね」
 
「まあ何度か練習したらもっとうまくなるよ」
「そんなに何度もは練習できない気がする」
「墓に埋葬された遺体で練習すればいいのよ」
 
「それはまずくない?」
「葬式が終わった後の遺体はただの“抜け殻”にすぎない。どうせ墓の中では腐っていくんだから、その前にその身体で練習させてもらうのは悪くない。本人も痛くないし」
 
「これ生きてる人間でやったら凄まじく痛いよね?」
「麻酔を掛けない限りは、その痛みで死ぬかもしれないくらい痛いだろうね」
「ますい?」
「眠らせて手術されている間、痛みを一切感じなくなる薬があるんだよ」
「アヘンのようなもの?」
「そうそう。それの毒性の低いものがある」
「ふーん」
「もしあんたが男を女に変える手術を生きた人間でやる時は、必要な量をあげるよ」
「分かった。そんな機会があったらお願い」
 

女になりたい男の患者というのにはすぐは遭遇しなかったものの、タマタマを取って欲しいという患者はたまにありました(ダジャレではない)。
 
グレンツが生きた時代は、イタリアでカストラート(変声期前に睾丸除去した男性歌手)が“生産”され始めた時期でした。
 
カストラートの大半はイタリアで“作られた”のですが、その波は周辺地域にも及び、ドイツ地方では、宮廷にカストラートで構成した合唱隊ができたりしていました。グレンツの病院にも息子をカストラートにしたいので、手術してくれと依頼する人が時々来ました。
 
グレンツは手術を希望している“子供のみ”と対話することを要求し、本人が本当は嫌がっている場合は手術を拒否しました(他の病院に行ったかも知れないが)。また、手術代をわざと高額にして、貧乏な親が息子を去勢して売り飛ばす、みたいなケースを排除しました。
 
そういう訳で、グレンツが手術をしたのは年間7-8人程度に留まりました。しかしひとりも死亡させることがなく(*14)「値段が高いだけのことはある」と言われました。
 
なお去勢手術は違法ギリギリなので、外科手術の得意なロベルトが当局から責任を追及されたりすることのないよう、全部グレンツ自身が行っていました(但し技術継承のため彼にも見学させました)。
 

(*14) 当時の去勢手術は極めて死亡率が高かった。恐らく3割程度は死亡した。ただ医者による差が激しく、ほとんど死亡させない医者もいる一方で、生存率1割という酷い医者もいたらしい(魔夜峰央が言う所の“紐医者”)。こんな医者の手術を受けろと言われるのは「死ね」と言われているのに等しい。
 
ただイタリアの場合は、子供を口減らしのために去勢する親も多く、去勢してカストラートの道を目指すのでなければ、間引きされかねない状況だった場合もあった。要するに親に間引きされるか、生存率1割の手術を受けるかという究極の選択だったのである。また孤児院が子供たちをどんどん去勢していた所もあったという。
 
もっとも去勢しても歌の才能があり、10年ほども続くカストラートの訓練を全うできればいいが、大半は挫折して男娼になったとも言われる。(筋力が無いから肉体労働を伴う男の仕事ができない)
 
カストラートの“手術”では睾丸を外科的に除去するより、潰す!方が主流だったようだが(壊死させる方法もあった)、子供の頃に父が牛や馬の去勢をするのをたくさん見ているグレンツは、単純に切除した方が身体への負担は小さいし回復も早いと考えていた。
 
それでグレンツは睾丸は潰さずに陰嚢を切開して摘出していた。そして切断する前に精索を結索して余分な出血が無いようにしていた。多分この結索で回復が早くなっていた。むろん術後に切開箇所はきれいに縫合する。そもそも手術器具は煮沸消毒している。昔は不衛生な器具による手術で感染症を起こして死亡する者も多かった。
 
患部はブランデーで消毒し、更にこれがグレンツのオリジナルなのだが、患部に柳の皮を煮詰めて作った鎮痛剤にアラブから輸入した薬草を混ぜたものを湿潤させてから手術を始めていた。
 
柳の皮には、サリチル酸が多く含まれており、これはヒポクラテスの時代から鎮痛剤として使用されていた(サロンパスの主成分!)。爪楊枝が柳を素材とするのも、サリチル酸があるからである。これにアラビア渡来の薬草(商人の話では東洋のジパング産の薬草らしい)を混ぜると強い鎮痛作用があった。ただこの薬草は毒性も強いので、混ぜるのは微量に留める必要があった。
 
当時多くの医師は頸動脈を圧迫して気絶させたり、あるいはアヘンを与えてから手術していたが、どちらも極めて危険で、それが死亡率を引き上げていた。しかしグレンツはどちらの方法も使用せず、患者を熱い風呂に入れてやや意識を遠くした上で鎮痛剤のみで手術したのである。要するに全身麻酔が危険なので、部分麻酔で手術していた。これが死亡率ゼロにつながっている。
 
手術は睾丸のみを除去するものであり、陰茎はそのままだが(陰茎が無いと女とみなされカストラートになれない)、グレンツは男を女に変える手術をだいぶ練習したおかげで、睾丸を取った後、そのまま陰茎も切断したい気分になり、自分を抑えるのに苦労した!
 

でも本当に「女になりたい」と言ってきた患者がいました。
 
グレンツは最初その患者を普通の少女だと思いました。ところが患部を見ると立派な男性器が付いています。
 
「今のままでは2-3年の内に声変わりが来て男みたいな身体になってしまいます。それを止めたいから、ドクトリン、私の玉と棒を除去してくれませんか?」
と少女は泣いて訴えました。
 
“ドクトリン・グレンツェ”が去勢が上手いという噂を聞いて、はるばるケルンからやってきたということでした。どうも“グレンツェ”の名前が、男と女の境界 (Die Grenze zwischen Mann und Frau) という意味でも解釈されているようだぞとグレンツは思いました。
 
付き添いで来ている母親も
「この子は物心ついた頃から女の子でした。最初は男の子の服を着せていたんですが、嫌がって女の子の服を着たがるので仕方なくそれを着せていました。この子、女子修道院に入りたいと言っているんです。でもこんなものが付いていたら修道女になれないから、取ってあげて欲しいんです」
 
グレンツはチラっと代母を見ました。代母は笑顔で頷いています。
 
「分かりました。睾丸とペニスを除去した上で、お股の形をできるだけ女性に近い形に整形しましょうか?」
「そこまでしてくださるのなら嬉しいです!」
 

グレンツは彼女を個室に入院させ、取り敢えず絶食させます。そして手術はイルマだけを助手にして深夜に行いました。
 
代母が薬をグレンツに渡しました。
 
「これは眠くなる薬です。これを飲んで下さい」
「分かりました」
 
それで患者が意識を失った所で手術を始めます。イルマは患者を少女と思い込んでいたので、股間に思わぬものがあるのを見て仰天しています。むろん彼女は患者の秘密を他人に言うことはないのでこういう時は安心です。
 
グレンツは患者の陰嚢を縦に大きく切開して睾丸を除去。続いて陰茎を皮・亀頭と中身に分離した上で中身は根部から切断します。膣のあるべき場所に消毒した金属の棒で穴を開けます。これは男性の陰茎(より少しだけ大きい)サイズに作っている(鍛冶屋を継いだノアに作ってもらった)ので、陰茎が入れられるサイズの穴ができます。そして陰茎の皮を反転して押し込み内張りします。
 
この部分は文献で読んだ方式では陰茎を切断してから皮を剥いでいたのですが、切断する前に皮を剥ぎ、中身だけを切断して、陰茎皮膚は身体に付いたままの状態で“裏返して”膣の内張りに使う方がきれいになることを“たくさんの練習”の間に認識し、手術方法を変更していたのです。
 
なお亀頭は皮膚に繋がっていて、押し込まれた時に膣の最奥部に据えられ、ポルチオの役割を果たします。これも試行錯誤の中で思いついたやり方です。多数の女性を診てきて女性の身体の構造を知り尽くしているグレンツだから思いついたテクニックでした。そして最後は股間の皮膚をうまく利用して小陰唇・大陰唇を造りました。きれいに縫合して出血しないようにします。
 
「まるで魔法みたい。凄い」
と助手を務めたイルマが感嘆していました。
 
「まあこれを見たら女にしか見えないよね」
「これ形だけじゃなくて“使える”のね?」
「もちろん。イルマも手術して女の子にしてあげようか?」
「ちんちんが生えて来たらお願いするかも」
 
手術が終わったら個室に戻します。感染症を起こしにくいように、新しい尿道に葦の茎を入れて導尿します(*15)。また、人工的に造った膣が萎縮しないように、硬くなったパンを牛の腸に入れたもの(*16)を新しい膣に入れておきました。
 

(*15)現代でいえばカテーテルである。カテーテル自体は紀元前から使用されていた。中国では玉ねぎの茎、メソポタミアでは葦が使用された。金属製のものも使用されたようだが、曲がらないので男性の尿道には挿入困難だったと思われる。この子は手術の結果、女子の尿道になったので金属製でも行けるかも知れないが、身体をできるだけ傷つけないようにするため、曲がりやすい葦を使用した。
 
(*16)むろんダイレーターである。このダイレーターは退院の時も渡し、当面の間は入れておくように言っておいた。
 

一週間後に包帯が取れたのですが
 
「凄い。本当に女みたいな形になってる。嬉しい」
 
と彼女は物凄く喜んでいました。母親も
 
「本当に娘になったんだね」
と喜んでいました。
 
手術の傷は(膣の内張り部分以外)もう治っていたので、導尿をやめて、普通に女子の排尿用の壺に直接おしっこをするようにさせましたが、そのおしっこの出方にまた感動していました。
 
(この時代、西洋にはトイレという部屋は存在せず、女性は壺にして、後で捨てていた。した後はぼろ布などで拭いていた)
 
「まっすぐ落ちていくから、失敗することがない」
と喜んでいました。
 
「先生は元々女だから分からないでしょうけど、余計なものが付いてると、時々あれが前を向いてしまって、おしっこが外に漏れることもあったんですよ」
 
「ちんちんが無くなったからそういう事故はもう起きないね」
 
更に彼女は、おしっこをした後、布で拭く時の感覚にも感動していました(普通はぼろ布で拭くが雑菌による感染症防止のため新しい布を渡している)。
 
「拭く時に邪魔なものが無くて、凄く楽」
「良かったね」
 
患者は1ヶ月ほど入院してから退院していきましたが、退院する頃にはかなり痛みも減っていて、顔色もよくなっていました。彼女はその後、半年くらい静養してから、女子修道院に入りますと言っていました。
 
しかし患者さんにもお母さんにもずっと、ぼく女医さんだと思われていたみたいだなあ、とグレンツは思いました。
 

半年後、彼女からお手紙が来たので
「立派なシュヴェスター(Schwester Eng=Sister 修道女)になったかな」
と思って手紙を開封してみたら
「立派なブラウト(Braut Eng=Bride 花嫁)になれました」
と書かれていたので、びっくりしました。
 
「彼が本当に女の子になったんだね、と言って喜んでくれています。毎日セックスが楽しいです。彼とのセックスはとても気持ちいいです。女先生のおかげです」
 
などと、かなり赤裸々な性生活が書かれているので、読んでいてこちらが恥ずかしくなりました。
 
どうも彼氏と男同士では結婚できないからというので修道院に入ってしまおうと思っていたものの、女になってしまったので結婚可能になり、それで結婚したということのようでした。
 
まあ、元は男だったことを知っている人と結婚したのなら、いいよね?とグレンツも思うのでした。
 
(この手紙をイルマが盗み読みして「きゃー!」と悲鳴?歓声?をあげていましたが、その夜はふたりでかなり濃厚なプレイをすることになりました)
 

ところでローテンブルクやグレンツたちが学んだ大学のあるテュービンゲンはプロテスタントの町なのですが、グレンツが42歳の年、ローテンブルクはカトリック派の軍の攻撃を受けました。
 
(正確には最初カトリック軍がローテンブルクに来て駐留してしまったのがプロテスタント側の攻撃で撤退し(カトリック軍の兵士が多数プロテスタント側に寝返った)、今度はプロテスタント軍が一時的にローテンブルクに駐留した。ところがここにカトリック軍が攻めてきて、元々プロテスタント寄りの市民もプロテスタント軍と一緒に戦ったが、カトリック軍に撃破された)
 
カトリック軍は町を破壊しようとしました。
 
しかしローテンブルク側はカトリック軍のティリー将軍 (Johann t'Serclaes Graf von Tilly 1559-1632) に慈悲を乞い、粘り強く交渉しました。これ以上は抵抗しないし、必要なものは提供する。そして市長が代表して処刑されるから、町の破壊や略奪はしないで欲しいと頼み込みました。
 
この時、市内の酒蔵が、将軍に上等のワインを献上しました。
「美味いな」
と将軍が喜んでいるようなので、何とか交渉がうまくいかないかと市関係者はやきもきします。
 
ティリー将軍はワインと一緒に献納された直径半エル(40cm)ほどもある大杯に目をやりました。元々はバイエルンの大公からこの町に下賜された杯です。
 
将軍は、大杯にこの美酒を注ぎました。1本、2本、3本、4本と注ぎ、5本目の途中で杯は満杯になります。
 
「この酒を誰か一気飲みしてみせたら、町を焼くのは勘弁してやる」
と将軍は言いました。
 
この時、市民の身代わりに自分を処刑してもよいと言っていた、市長のゲオルク・ヌッシュ(Georg Nusch 1588-1668)が言いました。
 
「私が飲みます」
 

それでヌッシュはこの巨大な杯になみなみと注がれたワインを一気に飲んでしまったのです。
 
これには敵味方の双方から物凄い歓声があがりました。
 
「お前は凄い男だ。俺は惚れた。この町を焼くのは中止する。お前の処刑も勘弁してやる。こんな立派な男を処刑したら俺は男じゃないからな」
とティリー将軍は言いました。
 
「男じゃないなら女になりますか?」
と副官がチャチャを入れます。
 
「俺が女になったら女房が男になるかもしれん」
 
それでローテンブルクの町は救われたのです。この当時の町並みは21世紀に至るまで、ほぼそのまま残されています。(でもカトリック軍は1年ほどここに駐留し、市民を苦しませることになる)
 

カトリック軍との交渉を成功させ、市長室に戻ったヌッシュですが、最初は調子良く幹部や友人などと歓談していたものの1時間ほど経った時、急に顔色が青ざめ、倒れてしまいます。(*17)
 
(*17)この大杯には3.25Lの酒が入っていたと言われる。度数14%として、その中に含まれるアルコールは 455ml になり、彼がスポーツマンで身長180cmくらいの男性だった場合でも、アルコールの血中濃度は飲酒の1時間後に6mg/mLに到達する。
 
筋肉質の人は筋肉の75%が水分なので同じ量のお酒を飲んでも脂肪質の人よりアルコールの血中濃度は低くなる。分母が大きいからである。脂肪には10-30%しか水分が無い。また肝臓の大きさは身長の3乗に比例する。長身なほどお酒に強い。だからラグビー選手みたいな人が最もお酒に強い。また男性では30代が最も肝臓の機能が強い。当時ヌッシュは43歳で比較的強い年代であった。
 
1時間後に最高値に達するのは、アルコールが胃腸から身体に吸収されるのに1時間程度かかるからである(だから実はすぐ吐かせれば何とかなっていた可能性がある)。アルコールの“致死量”は血中濃度4mg/mLとされる。つまり致死量の1.5倍程度飲んだことになる。
 

名医と評判の高いグレンツが呼ばれました。
 
彼は、市職員である兄のトーマスから状況を聞いて顔をしかめます。杯も見せてもらいましたが、これいっぱいの酒を飲んだとかると、常識的に考えて人間の耐性を遙かに越えています。ヌッシュが寝かされている部屋に入っていきましたが、案の定、死神は彼の足元に立っていました。
 
グレンツは一応ヌッシュの身体の温度を測ったり(*18)、脈拍を数えたり、また胸に手を当てて心音を確認したりしますが、難しい顔をします。
 
その場でいちばん偉い人のように見える老人に目配せして部屋の外に出ます。トーマスも付いてきました。
 
「申し訳ありませんが手の施しようがありません」
とグレンツはいつものように患者が助からないことを宣告しました。
 
老人は「やはり」という顔をしましたが、トーマスが納得しません。
 
「グレンツ、そんなことを言わずに何とか助けてやってくれ。市長は命懸けで酒を飲んで、この町を救ったんだ。市長があの大酒を飲み干していなかったら、この町は焼き討ちされて何千人もの人が死んでいた」
とトーマスはグレンツの手を握りしめて頼みます。
 
「そんなことを言われても」
と言いながらも、グレンツは部屋に戻りました。
 
「取り敢えず吐かせましょう」
と言って、彼はヌッシュの口の中に無理矢理腕を突っ込み、吐けるだけ吐かせます。それでだいたい吐ける分を吐いたら、今度は砂糖湯を作らせてそれをたくさん飲ませました。砂糖湯は吸収が速いので、それによって体内のアルコール濃度を下げることができます。
 
そしてグレンツは市長の下半身の服を脱がせ、陰嚢と肛門の間の“蟻の門渡り”の部分を切開します。そして露出した尿道に葦の茎(*19)を入れて、膀胱内の尿を強制的に排出させました(壺で受ける)。グレンツは更に生理食塩水を作って、トーマスに時計で時間を計らせて20分おきに少量ずつ何度も市長の腕の静脈に注射しました(*20).
 

(*18) この当時人間の体温を計るのに特化された体温計はまだ無かったものの、温度計は存在した。
 
(*19) 短くて直線的な女性の尿道と違って、男性の尿道は曲がっているし長いので、現代のプラスチック製のカテーテルなら挿入できるが、17世紀の原始的なカテーテルでは挿入不可能である。それで、グレンツは膀胱直下部分の尿道を切開して、女の尿道と同等の状態にしてから挿入したのである。
 
(*20) 当時まだ注射器は存在しないが、注射針は存在し、輸液のようなことが行われた。但し注入速度が速すぎたり分量が多すぎると患者をショック死させる極めて危険なものであったし、非衛生な針を使用すると感染症を起こしていた。19世紀に発明された注射器というのは衛生的に正確な分量を適切な速度で注入できる画期的なものだったのである。
 

そうやってグレンツは彼にできる限りの処置をするのですが、死神は相変わらずヌッシュの足元に立っています。
 
グレンツは考えました。
 
例の薬草をお湯で溶かしました。
 
「それ飲ませたって無駄だからね」
と死神は言っています。
 
しかしグレンツは近くに居る屈強な男性2人に囁きました。
 
「分かりました」
と言って、2人の男性は、ヌッシュの身体を抱えて、逆向きに寝せたのです。瞬間的にヌッシュは立っている死神の方に頭を向ける形になりました。
 
そこでグレンツは薬草を彼に飲ませました。
 
死神が唖然としています。
 
しかし薬草を飲んだヌッシュはみるみる内に顔に生気が戻って来ました。
 
「おおっ」
と声があがりますが、グレンツは冷静です。
 
「まだ分かりません」
と言って、あらためて砂糖湯を彼に飲ませます。利尿作用のある(普通の)薬草も飲ませます。
 

彼は一晩中ヌッシュの治療を続けました。すると明け方近くになって、やっと患者は意識を取り戻しました。
 
「俺、倒れてた?」
と訊きます。
「お前、もう死ぬかと思ったぞ」
と市長の兄が言っています。
 
「助かったのかな・・・」
 
しかしグレンツは
「まだ分からん」
と言って、治療を続けていっていたら、お昼過ぎになって、やっとヌッシュは自分で立てるようになりました。
 
「回復したかな」
「私の見立てではまだまだ分かりません。取り敢えず3日は寝ていて下さい、その間、できるだけお茶を飲ませてください」
「分かりました」
 
「それから強制排尿のために尿道を切開しています。当面、おしっこは女のように座ってしかできないので我慢して下さい。後日縫合します」
「ちんこ切られたんだっけ?」
 
「お望みなら切り落としますが。女の形になれば引っかかりなくおしっこできますよ」
「勘弁して〜。まだ男辞めたくない。でもちんこ切られた訳じゃなければ、おしっこの仕方くらい、我慢するよ」
 
「では私はいったん帰ります。何かあったら呼んで下さい」
「お疲れ様でした!」
 
「ありがとうグレンツ」
と一緒に徹夜したトーマスが涙目で言い、彼はグレンツをハグしました。
 

それでグレンツは自宅に帰ると、死んだように眠りました。目が覚めた時、代母が恐い顔をして立っていました。
 
「何てことをするのよ?あの男は死ぬはずだったのに、私を欺して助けるなんて」
「済まなかった。謝るから今度だけは勘弁して欲しい」
 
「自然の摂理をねじ曲げると、どこかでしっぺ返しを食らうよ」
「うん。罰を受けなければならないなら甘んじて受ける」
 
「いい覚悟ね。だったら今度だけは見逃してあげる。二度とこんなことしないでよ」
「分かった。ごめん」
 

ともかくもゲオルク・ヌッシュは助かり、後でグレンツの所に御礼と言って金貨を10枚(現代の価値で約100万円)も持って来ましたが、グレンツは辞退しました。
 
「そのお金で今回の戦いで親や夫を亡くした人たちに補償をしてあげて下さい」
「分かりました!あなたは本当に偉い医師だ」
とヌッシュ市長は感動していました。
 

「金貨を受け取らなかったことは褒めてあげるわ」
と代母は言いました。
「受け取れないでしょ」
 
「万一お前があれを受け取っていたら、即お前の命を奪っていた」
「ぼくがお母さんでもそうすると思うよ」
「お前も少しは死神の仕事が分かってきたみたいね。私の跡継ぎになってくれない?」
「死んだら考えるよ」
「うふふ」
 
どうも死神は許してくれたみたいだなとグレンツは思いました。
 

グレンツが45歳の時のことでした。この年はまたローテンブルクで戦闘があり、更にはペストまで流行して多くの命が失われました。グレンツは町中の診療所はペスト専門にして、郊外に一般診療所(と自宅)を新設し、院内感染を防ぎました。敷地周囲に殺鼠剤を撒いたりしてネズミの駆除と侵入防止策に力を入れます。スタッフには防護マスクや手袋をつけさせ、患者の着た服は焼却するなど、防疫対策もしっかりしました。
 
代母が何か御札(おふだ)?を作っていました。何か妖精のような絵が描かれています。
 
「何それ?」
「欲しい?」
「何かのおまじない?」
「これを家の入口に貼っておけば、その家ではペストの死者は出ないよ。私以外の死神は入れないから」
 
つまり死神の縄張りマーク??
 
「ちょうだい」
「金貨1枚と交換で」
「高い!」
「買わない?」
「100枚作って」
「100枚!?1日待って」
 
しかし死神も商売するのか、と少し呆れました。自宅、一般診療所に貼り、自分の病院に勤めている医師・看護婦、また親戚などにも配って家の入口に貼らせましたが、その御札が効いたのか、グレンツの病院では、医師や看護婦(修道院からの応援を含む)は、ひとりも死にませんでした。
 

戦争もペストも何とか落ち着いてきた頃、カトリック勢力ではあるものの、プロテスタントに一定の理解を示していたバシルサ大公の公女で女城爵(Burggräfin : 他国では女子爵に相当)の地位も持つアンドレア殿下がローテンブルクを訪れました。市は姫君を大歓迎し「カトリックもプロテスタントも神の前では等しく神の徒ですよ」と言って、カトリックとプロテスタントの融和を訴えました。
 
宴席が開かれたのですが、この時、給仕に変装していた暴漢が姫君を襲いました。近くに居た職員が暴漢を取り押さえたものの、姫君は刺されて倒れています。
 
市の幹部が青くなります。姫君に万一のことがあればバシルサ公がローテンブルクを攻撃するのは明らかです。
 
またグレンツが呼ばれました。
 
グレンツは死神を見ます。死神は足元に立っています。
 
しかしグレンツはとにかく最善の手を尽くします。
 
まず体温を見ると高めです。傷の炎症のせいでしょうか。脈拍も速いのですが、心音は心持ち弱い気がします。しかし胸に手を当てて心音を確認した時、胸の小さな娘だなと思いました。姫君は15歳らしいですが、どうも女性としての成長が遅いようです。
 
傷口を清潔な水で洗浄します。その上で傷口を縫合します。強壮作用のある薬草を溶いたものを飲ませます。しかし姫君の顔色は青ざめていて、誰の目にも瀕死に見えます。
 
一通りの治療をしたものの、死神は足元に立っています。グレンツは代母の目の前で例の薬草をお湯で溶きました。「ほほぉ」という感じで代母はそれを見ています。そしてグレンツは姫君の護衛の兵士2人に姫君の寝床を180度回転するよう言いました。代母は厳しい顔でグレンツを見ています。
 
そして姫君が死神に立っている所に枕を向けた所でグレンツは薬草を姫君に飲ませました。姫君の顔に赤味がさしてきます。
 
「おぉ!」
と声があがります。姫君は心音も弱々しかったのが、力強く打つようになりました。そしてグレンツが一晩頑張って治療を続けた結果、明け方には姫君は意識を取り戻したのです。
 

「あなたは本当に名医だ」
と市長が言うのに対して
 
「すみません。本当に疲れたので帰ります。申し訳ないですが、この後のことは他のお医者さんに」
「分かった。誰か適当な人に頼みます」
 
それでグレンツは精神的にクタクタに疲れて自宅に戻りました。代母に何を言われるだろうと考えています。今回は言い訳を思いつかない気がしました。
 

ところが帰宅すると、妻のイルマが狼狽しています。
 
「グレンツェ。どうしよう?ヤスミンが、ヤスミンが」
「え!?」
 
見ると娘のヤスミンが青い顔をしてベッドに寝ています。体温を確認すると低下しています。脈拍を見ますが、かなり落ちています。そしてグレンツは死神がヤスミンの足元に立っているのを見ました。
 
死神が言います。
「お前は死ぬはずだった姫君を助けてしまった。そのため、代わりにお前の娘が危篤状態になっている。この子は助からない」
 
グレンツはキッと死神を睨みました。死神が一瞬ひるみます。
 
グレンツはイルマに命じて湯を用意させ、薬草を溶かしました。
 
「イルマ。このベッドの向きはよくない。2人でこの子を逆に寝せる」
「うん」
 
それでグレンツはイルマと2人でヤスミンを逆向きに寝せたのです。そしてヤスミンの頭が死神の立っている所に向いた所で、グレンツは娘に薬草を飲ませました。
 
「あぁ!」
とイルマが声をあげました。
 
ヤスミンの顔に赤味がさしてきました。
 
「イルマ、後の処置は頼む。必ずこの子は助かるから」
「うん」
「すまない。ぼくはクタクタだ。部屋で寝てるからしばらく起こさないで」
「分かった」
 
それでグレンツはイルマ、そしてしっかりとした息を立て始めたヤスミンにキスしました。
 
そして「幸せな人生だったな」と思いながら、部屋に入りました。代母が厳しい顔をして立っています。
 
「本当に済まなかった。ぼくは多分もう死なないといけないよね。覚悟してる」
「いい覚悟ね。だったら、ちょっと来なさい」
 
 
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【代親の死神】(2)