【八犬伝】(1)

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語り手(明智ヒバリ):時は室町時代、“人の世虚しき”1467応仁の乱が起きる少し前の1438年(永享10年)、鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏は関東管領・上杉憲実と対立し、武力衝突に至りますが、室町幕府の6代将軍・足利義教は上杉を支持し、幕府と上杉の連合軍に持氏は敗れました。これを永享の乱と言い、持氏は殺害されます。
 
しかし結城持朝らは、持氏の子、春王・安王を奉じて1440年、幕府に対して反乱を起こしました。これを結城合戦と言います。これも幕府により鎮圧されますが、この時、結城方で参戦して敗れた里見義実(桜野レイア)は家臣の杉倉氏元(青木由衣子)・堀内貞行(斎藤恵梨香)とともに落ち延びます。
 

ところで安房の長狭と平群を領する神余光弘(安原祥子)は側室の玉梓(坂田由里)の色香に溺れ、国は乱れていました。玉梓と密通していた山下定包(桜井真理子)は自分を暗殺しようとする忠臣を利用し、自分の馬に主君・神余光弘を乗せて彼らに暗殺させます。山下定包はむろん暗殺した家臣を処刑し、自分が領主になってしまいました。
 
里見主従は、神余光弘を諫めたものの聞いてもらえなかった遺臣・金碗八郎(かなまり・はちろう:かなワン!ではない:三田雪代)と偶然遭遇します。金碗八郎は里見たちと組み、山下定包に不満を持つ住民たちをまとめて山下定包を倒します。この時里見義実は、山下の側近たちは処刑したものの、玉梓は女ゆえに助命しようとしました。
 
しかし、金碗八郎は、この女こそ諸悪の根源であり、許すことはあり得ないと強く主張。里見義実も考え直して、処刑することにします。
 
玉梓(坂田由里)は死を覚悟していたのが助けると言われて喜んだのにやはり死刑と言われて納得がいきません。
 
「末代まで呪ってやる」
という言葉を残して処刑されました。
 
(要するに里見義実の優柔不断が全ての元凶)
 

今回、戦に出てくる兵士たち、捕り方役人、などで多数のエキストラも動員している。彼らはファンクラブを通して募集した熊谷市近辺の人たちで、撮影が行われた10月に、熊谷・郷愁村のホテル“赤城”に4日間滞在してもらい(その間の外出禁止)、4日目に撮影に参加してもらっている。
 
一応、公共交通機関を使わずに熊谷駅・武蔵嵐山駅あるいは直接郷愁村に来られることが条件であったが、自分の車やバイクで来た人が多かった。武蔵嵐山駅からは“未開業”で郷愁村のスタッフだけを乗せている郷愁ライナーで運んだのだが、これに乗りたいためにわざわざ武蔵嵐山駅に来た鉄道マニアたちも結構居た。郷愁ライナーは現在、武蔵嵐山駅−郷愁飛行場−郷愁村−農大前までの区間が工事完了している(荒川を渡る橋を工事中)が、“営業”しているのは郷愁飛行場−郷愁村のみ。但し武蔵嵐山駅−郷愁飛行場(−郷愁村)の間は“試験運転”の名目で嵐山町内に住むスタッフを運ぶのに使用している。
 
彼らには撮影予定日の3日前から赤城に入ってもらった。そして毎日検温して報告してもらい、撮影日には簡易検査キットでコロナ陰性を確認してから撮影に参加してもらった。実際には期間中2人陽性が判明して、ホテルから病院に移動することになった人がいた(2人とも3日経過する前に発熱があり、検査して陽性と分かる)。
 
彼らは4日間の拘束だが、5日分として一律5万円を払っている。陽性が判明した2人にも5万円と御見舞金で3万円渡している。
 
ホテル代も含めて1人あたり10万円かかっており、かなり割高なエキストラである。予算の潤沢な長時間ドラマでなければあり得なかった。
 

語り手:里見義実は結局、長狭と平群の領主となります。一方で安房館山の城主・安西景連(山下ルンバ)はこの混乱に乗じて平館の城主・麻呂信時(日野ソナタ)を倒して、2郡の領主となりました。それで、しばらく、安房は里見義実と安西景連が2郡ずつを領有する形になるのです。
 
(安房の2大領主を桜野レイア・山下ルンバという§§ミュージックの最年長の2人が演じることになったがこれは“配役ドミノ”の結果で特に意味は無い。放送時には結構深読みしようとした人もあったが)
 
里見義実は、金碗八郎に一部の領地を預けようとしましたが、金碗八郎は
「自分の主君(神余光弘)の死に乗じて領主になるのは義が通らない」
と言って謝絶します。それでも義実が強く勧めると彼は切腹してしまいました。
 
義実はこの義臣の死を悼み、彼の遺児・金碗大輔(後の丶大法師)を大事に育てました。
 
そして大輔(高崎ひろか)が20歳頃になった時のことです。
 

丶大法師は、いわば八犬士の霊的な父に相当するので、男らしいイメージから品川ありさをアサインしていたのだが、度重なる“玉突き”の結果、高崎ひろかに回ってきた。高崎ひろかは当初は伏姫の予定だった。でもひろかは後に
 
「私、全然伏姫のイメージじゃ無いですよぉ。私ならもっと図太く生きるもん」
と笑って言っていた。
 
「まあこの物語は簡単に死を選ぶ人が多すぎるよね」
と品川ありさも言った。
 

その年、安西が領する2郡で極度の不作となり、人々は食料が無く苦しんでいました。幸いにも里見の領内は何とかなっていたので、里見義実は家臣たちの反対を押し切って、安西に食料を貸し与えました。
 
ところが翌年は、今度は里見領内が不作で人々が苦しみます。里見は金碗大輔を使者に立てて、安西に昨年貸した分の食料を返してもらえないかと頼みます。ところが、安西は、里見領内が不作で力が衰えているなら、攻める好機として、里見領内に攻め入ってきました。
 
そしてあっという間に攻め立てられ、滝田城は落城寸前になります。死を覚悟した里見義実(桜野レイア)は、ふと目に入った、飼い犬の八房(常滑舞音!)に
 
「お前が安西景連の首を取ってきたら、(娘の)伏姫をやってもいいぞ」
などと呟きます。
 
(義実という人は本当に考え無しにとんでもないことを言う。トップに立つ人間としては極めて不適格)
 
すると、常滑舞音・・・じゃなくて八房はどこかに行ったかと思うと、しばらくして人間の首を咥えて戻って来ました。
 
驚いた義実が見ると、確かに安西景連の首です。
 
大将を失った安西軍は総崩れになり、里見側が劇的な逆転勝利を収めます。
 
この結果、里見義実は安房四郡を全て領有することになりました。
 

"Playback Video"が挿入される。
 
舞音扮する八房は安西景連の陣まで走って行くと、ドロンと煙が出て、美女(常滑真音!妖艶なメイクをしている)に変身する。それで安西景連の傍に寄っていくと、安西(山下ルンバ)は思わず目尻が下がる。それで彼に酌をする振りをして、女装?の八房はいきなり安西の首を掻いた。(ルンバのフィギュアを使って撮影している)
 
周囲の家臣が「あっ」と声を挙げた時には、美女は安西の首を持って陣から抜け、元の八房の姿に戻って、里見の陣まで走って戻ったのである。
 

千葉県の安房も四国の阿波も“あわ”である。これは実は四国の阿波出身の人たちが、千葉県南部の地域を開拓したので、故郷と同じ名前を付けたためと言われている(『古語拾遺』の説)。
 

語り手:里見義実は、大手柄の八房に、上等の寝床を用意し、最上の食事を与え、家来まで付けて!厚遇しました。
 
しかし八房は不満な様子で、伏姫(東雲はるこ)の部屋の近くに行きたがります、
 
(ここで八房を演じている常滑舞音が本当に不満そうな顔をしているのが名演技と言われる。こういう表情は、本物の犬やロボットでは表現できなかった)
 
伏姫は言いました。
 
「父上は、安西景連の首を取ってきたら、私を八房に与えるとはっきりおっしゃいました。武士、しかも一国の主ともあろうものが、一度言ったことばを違(たが)えるということはあってはなりません。国主が嘘を言ったら、国中の者が嘘をつくようになります」
 
「だったらお前は八房と結婚するというのか?」
と義実。
 
「国主の言葉は重いのです」
と伏姫。
 

伏姫は幼い頃に役行者(えんのぎょうじゃ)から頂いた八珠の数珠(*1)が、元々「仁義礼智忠信孝悌」の文字が入っていたのが「如是畜生発菩提心」の文字に変化しているのに気付いていました。
 
それで自分は畜生と結婚する運命なのだと感じていたのです。
 
(*1)どちらも花ちゃんお手製の数珠。「仁義礼智忠信孝悌」の方は、粒の揃った水晶に文字を入れた。「如是畜生発菩提心」のほうは安物のガラス玉に文字を入れたもの。
 

伏姫(東雲はるこ)は八房(常滑真音)に言いました。
 
「父上の約束ですから、私はあなたを夫にします。しかし私は人間であなたは犬です」
(そう言われて「ワン」と返事する常滑真音が可愛い)
 
「人間と犬が交わることはこの世の摂理に反することです。ですから私はあなたの妻にはなりますが、決してあなたに身体は許しません。いいですね?」
 
八房は少し考えてから「ワン」と鳴き、伏姫の言葉を受け入れました。
 
それで伏姫は八房と一緒に城を出ることになります。伏姫(東雲はるこ)は八房(常滑真音)の背中に乗り、数珠を手にして、観音経を唱えながら、富山(とみさん *2)の奥に入っていったのです。
 
(東雲はるこは35kgと、とても軽いので、舞音 158cm 52kg は充分彼女を背中に乗せて四つ足で歩くことができた。東雲はるこは本職のお坊さんの指導で、3日掛かりで観音経を暗記した。この長いお経を暗記できるのはさすが15歳である)
 
(*2)“富山”は“とやま”ではなく“とみさん”。房総丘陵にある、猫の耳のようにふたつの峰が並ぶ、いわゆる“双耳峰”である。標高は349m/342m.そんなに高い山ではないが、この物語では聖地として扱われ、伏姫がここに入るし、親兵衛はここで育てられるし、物語の最後(今回はそこまでしない)では八犬士がこの山奥に隠棲する。
 

八房は伏姫を富山(とみさん)の奥の洞窟に案内しました。それで伏姫はここで毎日法華経の読経と写経をしながら暮らすことになります(ちなみに観音経は法華経の一部 *3)。
 
食料は八房が木の実などを取ってきてくれました。八房は伏姫との約束通り、ずっとそばにはいますが、決して姫を襲ったりすることはありませんでした。姫の読経の声を聞いておとなしくしていました。
 
伏姫はある時期から月の者が停まってしまいました。そしてお腹が張ってくるので、自分は病に罹ったのかも知れないと思っていました。しかし山中で笛を吹く不思議な童子(松梨詩恩)(*4)に会ったことから、自分が妊娠していることに気付きます。
 
「月の者が停まり、お腹が大きくなってくる。それは普通に妊娠の症状です」
「でも私は誰とも交わっていないのに」
 
「檜はただ重ねておくだけで自然発火することがあります。植物にも雌と雄がありますが、交わるわけでも無いのに実を結び種を残します。鶴は特に交尾をしなくても卵を産むことがあります。秋の男子は嫁を貰わなくても魂が通い、春の女子は結婚しなくても妊娠するのです」
 
「確かに姫君は誰にも犯されてなく、八房も今は情欲がありませんが、八房は姫君を愛するが故に姫君の読経を聞くことを喜び、姫君は八房が喜び信じるものが自分と同じであることによって八房を可愛がっています。両者のこうした感情が感応しあえば、交わりを持たなくても子供は生じるものなのです」
 
「姫君のお腹の中には8人の子が入っています。しかしそれは実体のあるものではありません。彼らは身体を成さないまま生まれ、そして生まれた後、再び生まれ直すでしょう。8という数字は法華経の巻数とも一致します(*4).そしてその8人の子たちはいづれも里見家を盛り立てていくことになるでしょう」
 
(*3) 撮影には篠笛(唄用:日本音階)を使用したが、松梨詩恩は元々フルートが吹ける:§§ミュージックの研修所でピアノ・ギターとともに習っていた:ので篠笛はすぐ吹きこなした。楽曲は若山鶴海(ケイの従姪の今田七美花)が書いてくれたもので、このドラマのサウンドトラックに収録された。
 
(*4) 法華経には異本が多いが、8巻というのは、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の8巻28品と思われる。伏姫が富山に行く最中に唱えていた観音経はこの妙法蓮華経の第8巻第25品の別名である。
 

ショックを受けた伏姫(東雲はるこ)は、自害しようとして遺書を書きました。
 
するとこれまで「如是畜生発菩提心」となっていた数珠の文字が「仁義礼智忠信孝悌」に戻ったのです。
 
そして川に入水して死のうとした時、一発の銃声が響きます(*5).
 
伏姫を奪還しようと山に入った金碗大輔(高崎ひろか)が火縄銃で八房を射殺したのです。ところが大輔の銃弾は、八房の身体を貫通し、伏姫にまで当たってしまいました。
 
(舞音の死んでる演技が美事で「さすがマネキンの達人」と言われた)
 
(*5) 1458年頃になぜ火縄銃があったのか?という問題は、発表当時から時代考証ミスではと指摘されていたらしい。しかしここは弓矢では伏姫まで傷つける展開にはできない。なお、種子島に鉄砲が伝来したのは1543年。但しヨーロッパでは火縄銃は少なくとも1411年には存在していた)
 
この物語では信乃たちが荘助を救出する時に鉄砲隊が出て来たり、木工作(第2の浜路の養親)が鉄砲で射殺されたり、鉄砲が随分出てくるが、今回の翻案では、この大輔が八房を射殺するシーン以外では消去させてもらった。
 

大輔が慌てて駆け寄り、伏姫を介抱します。そこへ、伏姫の消息を求めてやってきた、里見義実(桜野レイア)と堀内貞行(斎藤恵梨香)も辿り着きました。
 
伏姫は幸いにも命に別状は無かったのですが、彼女は妊娠していることを恥じます。しかし自分は決して犬の子供は宿していないし、このお腹の中にいる8人の子供はきっと里見家を盛り立てていくでしょうと言い、お腹に物理的な子供が入ってないことを示すため、腹を切ってしまいます。
 
すると、「仁義礼智忠信孝悌」の数珠は高く上空に舞い上がり、ぷつんと紐が切れて、八方へ飛んで行ったのです(*6)
 
大輔は結果的に伏姫が亡くなってしまい、それは自分の責任だと言い切腹しようとしましたが、義実に止められます。そして、義実から飛び散った8つの珠の行方を捜すよう命じられるのです。
 
ここで、金碗大輔(高崎ひろか)は頭を丸めで(つけているウィッグの髪を剃っている:坊主頭が可愛いと言われる)“丶大法師(ちゅだいほうし)”と名を改めて、8つの珠の行方を捜す旅に出るのです。
 
(以上で、序章終了)
 
(*6)このシーンはCG.サンシャイン映像制作のCG技術者・森石イリモの作品。ちなみに彼女(?)の名前は回文になっているが本名(本当は漢字で入藻と書く)らしい。
 

語り手:足利持氏の近習だった大塚匠作は、結城合戦の後、自身と一緒に果てようとしていた息子の番作に「お前は生き延びて大塚の里(現在の文京区大塚)に帰り、母と姉を養え」と諭し、主君より拝領していた名刀・村雨丸を託して、いつか持氏殿の縁者に返すよう言いました。
 
番作(今井葉月)は春王・安王が処刑され、その時父も斬られたのを見て、春王・安王・そして父の首を奪い取り、木曽の夜長岳まで逃げ延びて、ここに3人の首を埋葬しました。ここで彼は手束(中村昭恵)という女性と知り合います。彼女も持氏の家臣の娘でした。ふたりは信濃の筑摩に逃れて結婚します。
 
大塚の里では、番作の母は亡くなっており、番作の姉・亀篠(マリナ@ローザ+リリン)が蟇六(ケイナ@ローザ+リリン)という男を婿にして一緒に暮らしていました。蟇六の元の苗字は弥々山ですが、亀篠の苗字・大塚を名乗ります。
 
1449年、持氏の遺児・足利成氏は許されて鎌倉公方を再興します。持氏や結城の遺臣たちを召し出すことになったので、蟇六は大塚匠作の婿であることを名乗り出て、恩賞をもらい、村長に任命されました。
 
一方、番作は世を憚って大塚の苗字を犬塚に変えて信濃で暮らしていましたが、鎌倉公方が再興されたことから、大塚の里に戻ってきます。蟇六は
「番作殿が行方知れずだったので、僭越ながら私が大塚の縁者として名乗り出て村長に任命されました」
と言います。
 
番作も自分はずっと身を隠していたから、それで良いと言い、蟇六たちの家の近くに小さな家をもらい、手束と一緒に暮らすようになります。
 

ある年、手束が滝野川の弁天様にお参りして帰ろうとしていた時、小犬を拾いますが、南の空に紫色の雲がかかり、その雲に大きな犬(常滑舞音!)を連れた仙女(東雲はるこ)が居て、手束に手招きをします。
 
手束が傍によると仙女は手束に1個の珠を渡しました。しかしその珠は消えてしまい、また紫の雲や仙女の姿も消えてしまったので、手束は夢でも見たかと思いました。なお手束はこの拾った犬に与四郎という名前を付けて可愛がりました。
 
しかし手束は間もなく妊娠していることが分かり、やがて男の娘、もとい、男の子を産み落としました。夫妻はこれまでに3人の男の子を得ていたものの、全員夭折していました。それで子が育ちにくい時は、男の子には女の子のような名前を付けると良いというので、この子に“龍子”、もとい“信乃”という女の子のような名前を付けたのです。そして髪も長くし、女の子の服を着せて育てたので、知らない人はこの子のことを女の子だと思っていました。
 
彼が男の子と知っている子は信乃を「ふぐり無し!」とからかっていましたが、信乃は自分は武士なのだから、農民の戯言など気にすることないと思い、そう言われても特に怒ったりもしませんでした。
 

一方、亀篠と蟇六は子供が無かったことから、2歳の女の子を養女にもらい、浜路と名付けて育てていました。
 
信乃が9歳になった1468年(つまり信乃は1460年生)、手束は病気で亡くなってしまいます。(この時手束は43歳:つまり手束は1426年生で35歳で信乃を産んだ。当時としてはあり得ないほどの高齢出産)
 
1470年、信乃(アクア)11歳の年、番作の家の飼犬・与四郎が蟇六の家の飼猫・紀二郎を噛み殺してしまう事件をきっかけに番作家と蟇六家は揉めに揉め、とうとう番作は腹を切ってしまいます。信乃は揉め事の発端となった与四郎を斬って自分も切腹しようとしましたが、与四郎を斬ると、その体内から“孝”の文字が入った珠が飛び出して来て、信乃の手の中に飛び込みました。
 
(紀二郎は“ナレ死”、与四郎はぬいぐるみで撮影)
 
そして信乃がいよいよ切腹しようとした時、それを偶然見た、近所の住人でいつも番作や信乃に親切にしてくれていた、糠助(鹿野カリナ)に止められます。更には蟇六夫婦も駆け付けてきて、信乃に「死んではならない」と強く言いました。
 

信乃(アクア)は結局、蟇六夫婦の家に引き取られることになります。そして男の姿に戻ることになります。蟇六(ケイナ)は彼を将来は浜路(姫路スピカ)と結婚させ、いづれ村長を譲ると言いました。
 
(例によって男装のアクアは女子にしか見えない)
 
信乃の世話は、蟇六家の下男・額蔵(がくぞう)(町田朱美)がすることになります。ところが信乃が持っている不思議な珠(孝)を見た額蔵は「自分も似たような珠を持っている」と言って見せてくれました。その珠には“義”の文字が入っていました。
 
また2人は各々身体に似たような形の痣(あざ)があることにも気付きました。信乃は左腕、額蔵は背中です。
 
額蔵は伊豆の荘官・犬川則任の子で幼名は壮之助と言いました。彼の父は讒言により切腹し、壮之助は母と一緒に安房に逃れてきましたが、その途中で母が行き倒れになり、途方に暮れていた所を蟇六が小者として雇ったのです。
 
ふたりは義兄弟の契を交わしました。
 

与四郎を葬った墓の傍にあった梅に8個の実がなりました。その梅には文字が浮き出ていて、仁義礼智忠信孝悌と読めました。それで信乃と額蔵は自分たちの仲間がきっと、あと6人いるんだということを察したのです。
 

1477年、信乃は18歳、浜路は16歳になりました。
 
この年、信乃にいつも親切にしてくれていた、糠助(鹿野カリナ)が亡くなりました。彼は亡くなる直前に信乃に自分と息子・玄吉のことを話しました。
 
彼は元々漁師をしていたが、禁漁区で漁をしていたことがバレて死罪になりそうになります。しかし伏姫の母が亡くなったことから恩赦になり、所払いとなります。しかし行く当てもなく、路頭に迷って死のうとしていた所を、足利成氏に使える足軽・犬飼見兵衛に助けられました。そして息子の玄吉は彼に託したのだというのです。この玄吉が産まれた時のお祝いの鯛から、“信”と文字の書かれた球が飛び出したので、お守り袋に入れて玄吉には持たせていた。信乃がいづれ、成氏様に仕えるのであれば、彼の元を訪れて欲しいと。
 
それで信乃は3人目の仲間の存在を知りました。この玄吉が、犬飼現八(白鳥リズム)なのですが、少し後にふたりはとんでもない場所で対面することになります。
 

糠助が亡くなった後、その家を買って入居したのが、網乾左母二郎(あぼし・さもじろう:大林亮平)でした。彼は蟇六と馬が合うようでした。
 
(大林亮平は、§§ミュージックとは無関係なのだが、一昨年の『源平記』にも昨年の『とりかへばや物語』にも出演している。今年など、事前照会とかもなく「さもし・さもじろう役お願い。10月は空けといてね」とコスモスからメールが来た!)
 
(NHKの人形劇で坂本九が「さもしい浪人・網乾左母二郎」と盛んに言ったので、彼の名前を「さもし・さもじろう」と思い込んでいる人はかなりある。悪役にしては人気キャラであり、NHK版以外でも、八犬伝の二次創作では彼の出番が多いものがわりと多いとも言う)
 

その年の暮れ、城主・大石家の陣代・簸上宮六(太田芳絵)は部下の軍木五倍二(ぬるで・ごばいじ*8)(今川容子)と卒川庵八(大崎志乃舞)を連れて領地の見回りをしている途中、村長の蟇六の家に泊まります。この時、蟇六は浜路に箏を弾かせ、左母二郎に歌を歌わせ、信乃に女姿で舞を舞わせて歓迎しました。(*7)
 
(*7) 偉い人を歓待するのに若い息子に女装させるのは、日本では古くから普通に行われていた。そして気に入られるとそのまま“お小姓”として仕える場合もあった。避妊具の無い時代、子供ができすぎないようにするため、お小姓の需要は大きかったし、お小姓は成長すると概して忠実な側近になった。
 
演奏した曲はこれも若山鶴海の作曲でサウンドトラックに収録された。亮平は日本音階の曲がどうしても歌えず(西洋音階になってしまう!)結局この歌は若山鶴凪(ケイの従兄・和代薙彦 33)が吹き替えた。箏はスピカが本当に弾いた。
 
この撮影のため、浜路役のスピカは9月いっぱい、箏の先生に女子寮に来てもらって、箏を習った。実は当初浜路役をする予定だった東雲はるこも7月に約1ヶ月にわたって箏を習ったものの、どうもはるこは箏と相性が悪かったようで弾きこなせなかった(そもそも弦楽器は苦手らしい)ので、葉月に吹き替えさせようかとも言っていた。
 
葉月は箏が上手い。彼は今ではほとんど伝える人の居ない八橋流の弾き手で、葉月に箏を習いに来た人もこれまで数人あった!八橋はお菓子の八橋の語源である。あれは箏の形のお菓子なのである。
 
スピカは一応発表会に出してもいい程度と言ってもらえた。スピカはギターを弾くので結構類推で弾けた部分もあったようだ。サウンドトラックに収録したバージョンは12月に再録音したもので、ドラマで演じた時より更にうまくなっていた(ドラマではサウンドトラック版ではなく10月に収録したものがそのまま使用された)。
 
(*8)“ぬるで”はウルシ科の木で、ウルシ同様に樹液は塗料として使用されてきた。樹液が白いので、一般には“白膠木”と書く。
 
厩戸皇子(通称・聖徳太子)は用明天皇死後の次期天皇を巡っての物部一族との天下分け目の戦いの際に、ぬるでの木で仏像を作り、それを掲げて進軍して志気を高めたという。その故事からこの木のことを“勝軍木”とも書く。また、この木には虫瘤ができやすく、これを乾燥させたものを五倍子といって、タンニンを取る材料になる。昔はこれでお歯黒を作っていた。
 

ところが、簸上宮六は浜路を見初めてしまいます。実は最初、舞を舞った信乃を気に入ったのですが、蟇六が
「すみません。あれは男の子なので」
と言うと、箏を弾いた浜路の方を所望しました。
 
蟇六は浜路には許嫁(いいなづけ)がいるからできないと言います。しかし宮六は強引で、軍木を使者に立てて結納の品を送りつけてきました。
 

豪華な結納の品を見て、蟇六夫婦は、浜路を簸上宮六に渡してしまおうと思いました。そのためには信乃が邪魔です。
 
そこで蟇六は信乃に
「お前も19歳になったから、そろそろ仕官すべき年。番作殿から言われていたように、村雨丸を成氏殿に献上してお仕えするがよい。落ち着いたら浜路もそちらに行かせる」
と言い、一方で蟇六は左母二郎には
「信乃の刀を俺の刀とすり替えろ。うまくできたら浜路はお前の自由にしていいから」
と言ったのです。
 
“自由にしていい”とは言っても実際は浜路はすぐ陣代に差し上げるのだから問題無いと蟇六は考えています。
 
蟇六と左母二郎は信乃を魚釣りに誘いましたが、ここで蟇六はわざと船から水中に転落します。信乃が助けるのに飛び込むので、蟇六は彼に抱きついてて溺れさせようとしました(ここで信乃が死んでくれたら話は簡単)。しかし信乃は泳ぎが得意なので、しがみつかれても難なく蟇六を抱えたまま船まで戻りました。
 
その隙に左母二郎は言われた通り、信乃の村雨丸と蟇六の刀をすりかえようとしたのですが、ここで左母二郎は信乃の刀が物凄い名刀であることに気付いてしまいました。そこで、彼は信乃の刀を自分の刀とすりかえ、自分の刀を蟇六の鞘に収め、蟇六の刀を信乃の鞘に収めたのです。そして蟇六の鞘にはたくさん水を入れておきました。
 
蟇六は帰宅してから鞘から刀を抜いてみると、たくさん水がこぼれ落ちるので、これが名刀村雨か!と勝手に納得してしまったのでした。
 

信乃が出発する日の前夜、浜路(姫路スピカ)は、信乃が出発してしまえばきっと自分は簸上宮六と結婚させられてしまうと思い詰め、信乃(アクア)に夜這いを掛けます!しかし、堅物の信乃は浜路を抱こうとはしません。結局明け方まで、なんとか信乃を口説こうとする浜路と、いくら許嫁でも結婚する前に抱くわけにはいかないと言う信乃との話し合いは平行線をたどったのでした。
 
そしてこれが2人の今生の別れとなってしまったのです(と言って、語り手の明智ヒバリは目を閉じた)。
 

1478年6月18日、19歳の信乃(アクア)は20歳の額蔵(後の犬川荘助:町田朱美)を伴い、足利成氏公のいる古河(こが *9)に向けて出発しました。浜路(姫路スピカ)はそれを涙を流しながら見送りました。
 
(*9)鎌倉公方・足利成氏は1455年に鎌倉を対立する関東管領・上杉房顕に奪われ、古河(現・茨城県古河市)に退避。以降、古河公方と呼ばれる。なお原作では古河のことを許我と書く。
 

翌日、蟇六は浜路に簸上宮六と結婚するよう迫りますが、浜路は自分は信乃の許嫁であるとして、これを拒否。操(みさお)を守れないなら、いっそ死んでしまおうとします。しかしそこに浜路を我が物にしようとする左母二郎(大林亮平)が侵入してきて、彼女を誘拐してしまいました。
 
左母二郎はそもそも蟇六から浜路を自由にしていいと言われていたのですから、彼としては当然の行動です。その場で犯(や)っちゃわないだけまだ紳士的かも?
 
(蟇六は浜路を信乃・宮六・左母二郎へ三重売り!している)
 

浜路を連れて遠くまで逃げた、左母二郎ですが、円塚山の麓まで来た所で、ここまで来れば大丈夫だろうと、浜路に、自分がまんまと信乃の名刀・村雨丸を騙し取ったことを得意気に語ります。
 
驚いた浜路はその刀を信乃に返してくれるよう頼むのですが左母二郎は断り、ふたりは言い争いになって、左母二郎は浜路を斬ってしまいます。彼がとどめを刺そうとした所に手裏剣が飛んできて左母二郎は倒れます。手裏剣を打ったのは、なんと浜路の兄・犬山道節(恋珠ルビー)でした。
 
道節は浜路を介抱し、自分はお前の兄であると名乗って、父の仇である扇谷定正を討とうとしていることを打ち明けます。そして、そのためにこの村雨丸を貸してほしいと言います。しかし浜路は、信乃が村雨丸を献上しに行っているので早く返さないと大変なことになると、兄に村雨丸の返却をお願いします。しかし道節は同意せず、そんなことをしている内に、浜路は左母二郎から受けた傷が思ったより酷く、事切れてしまうのです。
 
偶然そこに通り掛かって話を聞いていた額蔵は自分は信乃の義兄弟であると名乗り、村雨丸を返してくれるよう頼みますが、道節は拒否。ふたりはとっくみあいになりました。この時、額蔵が珠を入れていた守り袋が道節に渡り、一方、道節が持っていた球が額蔵の方に来てしまいました。結局道節は逃げて行ってしまいますが、額蔵が自分の所に来た球を見ると“忠”という文字が入っていました。それで額蔵は道節も自分たちの仲間であったことを知るのです。
 
額蔵は浜路を介抱しようとしましたが、もう息をしておらず、信乃に何と伝えようと嘆くのでした。
 

一方、簸上宮六は軍木を連れて浜路をもらいに蟇六の家にやってくるのですが浜路は居ません。蟇六は言い訳ができず宮六に機嫌を直してもらおうと、名刀・村雨丸を献上しますなどと言うのですが、取り出してきたものは、村雨丸とは似ても似つかぬ凡刀です。怒った宮六は蟇六・亀篠(ケイナ・マリナ)を斬り殺してしまいました。
 
ところがそこに帰って来たのが額蔵です。額蔵はてっきり強盗かと思い、宮六を斬り殺しますが、軍木はかろうじて逃げて行きました。
 
軍木の報せで駆けつけて来た、宮六の弟・簸上社平(高島瑞絵)と卒川庵八は、額蔵を陣代殺しの重罪人として捕縛します。下男の背介(神田あきら)が事情を説明するものの、その背介まで一緒に連行されてしまいました。
 

さて、信乃の方は、6月19日、古河に到着、足利成氏(阪口有菜)に謁見して村雨丸を献上しようとしますが、そこにあったのは真っ赤な偽物。信乃は献上に見せかけて成氏を狙う扇谷定正(*11)の間者ではと執権・横堀在村(左蔵真未)に疑われ、捕縛されそうになります。しかし信乃は腕が立つので簡単には捕縛されず、逃げまくって芳流閣の屋根の上まで逃げました(*10).
 
(*10) 原作では信乃が成氏の配下の侍を多数斬っているが、成氏の配下の者を斬れば信乃は絶対に許されなくなるし、後の成氏との和解はあり得ない。信乃はそこまで馬鹿ではないと思う。そこで今回の翻案では信乃はひたすら逃げたことにした。だいたい信乃が持っているのはすり替えられた凡刀なので、そんなに多数を斬ることは不可能である。普通の刀は1人斬っただけで、もう斬れなくなる。だから戦場では刀はほとんど使用されていない。戦場の主力武器は槍である。
 
(*11)1478年当時の関東管領を務めていたのは山内上杉家である。但し、山内上杉家は永享の乱・結城合戦当時の関東管領・上杉憲実の子供・上杉房顕の代で断絶してしまい、この信乃の古河入り当時の関東管領は越後上杉家から養子に来た上杉顕定であった。
 
山内上杉家の分家に当たるのが扇谷上杉家であり、この物語の中で扇谷定正と記述されているのは、実際には扇谷上杉家の上杉定正である。八犬伝は大大名である上杉家に配慮して上杉の名前を直接使うことを避け、敢えて扇谷定正と書いたものと思われるが、八犬伝があまりにも有名になってしまったため、今日ではしばしば八犬伝の呼称通り、扇谷定正と呼ぶ人もある。
 
古河公方・足利成氏は当初この2つの上杉家と対立していたが、山内上杉家の家臣・長尾景春は自らの処遇に不満を持ち、1475年、上杉顕定に対して反乱を起こし、1477年1月には上杉顕定を上野に放逐してしまう。ここで上杉顕定は1478年10月、足利成氏と和睦を結んだ。そのため、成氏の主たる敵は、扇谷上杉家の上杉定正となるのである。
 
信乃が成氏のもとを訪問した1478年7月はこの和睦直前の時期であった。
 

扇谷家の上杉定正は家臣の太田道灌(江戸城の築城者としてあまりにも有名)の活躍で足利成氏・上杉顕定連合をかなり追い詰める。しかし太田道灌の名声が高くなると、彼による下剋上を恐れて、上杉定正は、1486年、騙し討ちにして道灌を殺害した。
 
その後は、人望も失い、多くの家臣が離反して上杉顕定のもとに走り、定正はじり貧になっていく。
 
功臣を殺すような人に誰が従うだろうか。
 
北条早雲は最初この上杉定正と結んで関東西部で勢力を拡大していったとされるが、後に、関東全てを手中に収めることになる。それはまるで一見、漁夫の利のようにも見えた。
 

(本編に戻る)
 
ところで、糠助が今際の際(いまわのきわ)に話した、犬飼現八(白鳥リズム)ですが、彼は成氏公の下で、捕り方として活躍していました。しかしこの時は“獄舎長に任命する”という辞令を拒否したことから、執権の横堀在村から「だったらしばらく牢の中で頭を冷やせ」と言われて入牢(じゅろう)をくらっていました(半ば休暇のようなもの)。横掘は、捕り方名人の彼なら捕まえられるかもと思い、現八を牢から解き放ち
 
「お前の出番だ。あの者を捕縛せよ。生死は問わぬ」
 
と命じたのです。
 
それで、芳流閣の上で、アクアとリズム、もとい、信乃と現八の格闘が始まるのです。
 
2人は最初は信乃の刀と現八の十手(*12)で闘っていましたが、やがて現八が信乃の刀を折ってしまいます。その後は2人は素手で取っ組み合いの格闘となります。
 
(*12)十手は室町時代から使われ始めた。初期の頃は木製だったが、戦国時代になると鉄製の十手も見られるようになった。信乃の刀を折ったのなら鉄製と考えられるが、この時期は多分まだ鉄の十手は無い。今回の翻案では現八に刀を持たせることも考えたが、それなら現八は相手の刀を折った所で信乃を峰打ちして捕縛することもできた。そこで現八には原作通り(鉄の)十手を持たせることにした。実際に使用しているのは、撮影用のアルミ製の十手。信乃の刀は最初から折れるように工作している。
 

ふたりは互角に組み合い、なかなか決着が付きません。そしてやがて2人は取っ組み合ったまま屋根を転がり落ちてそばを流れている大きな川に一緒に落ちてしまうのでした(*13).
 
(*13) この芳流閣のセットは1億円掛けて制作した今回のドラマ用セットの中の目玉である。下から見上げるためのセット(4000万円)と、屋根だけがあって、信乃と現八が闘うシーンを撮影するためのもの(6000万円)から成る。6000万円の内の2000万円が設計計算の費用である(後述)。
 
アクアとリズムは
「適当に5分くらい取っ組み合って」
と言われたのだが、実際には取っ組み合いに移行した後は、傾斜のある所でやっているので、すぐに転がり落ちてしまった。
 
原作はこの川を利根川と書くのだが、実際には、古河城のそばを流れているのは渡良瀬川である。現代では渡良瀬川はここより4km下流で利根川に合流しているがこれは徳川家康による“利根川東遷事業”(後述)の結果であり、元々は利根川と渡良瀬川はほぼ平行して流れて、いづれも江戸湾に注いでいた。
 
もっとも馬琴は古河のことを文字を変えて許我(これはかなり古い時代の古河の呼称)と書くなど、敢えて改変している部分もあるので、これは間違いではなくわざと実際のものと変えた可能性はある。むろん芳流閣も架空の建築物である。古河城には江戸時代になって土井利勝(1573-1644)により御三階櫓と呼ばれる実質的な天守閣が建てられた。それ以前にその手の建物があったかどうかは不明。馬琴は1767生なので、馬琴の時代には立派な天守閣状のものが存在したことになる。
 
ここの撮影は、アクアとリズムが抱き合ったまま転がるのは2人がリアルでやっている。芳流閣の屋根の向こうはすぐ下にクッション材が置かれているので、2人は屋根の端から50cm程度(2人の身体がカメラから隠れるのに必要な高さ)しか転落していない(*14).
 

(*14) 事前に人形で衝撃を確認した上で、あけぼのテレビの男子社員2名で実験してクッションが充分であることは確認している:全くご苦労様である。体重70-80kgの男性で大丈夫なら、アクア45kg+リズム51kgでも大丈夫なはず。
 
「ここで抱き合って転がるんですか?」
と実験台!を頼まれた社員が言う。
 
「人形を転がしたのでは壊れなかったから大丈夫だよ」
と則竹部長が言う。
 
「万一大怪我したら、一生面倒見てくださいよ」
「大丈夫。遺族にはちゃんと年金を払うから」
「ちょっとぉ!」
 
「身体も顔もしっかり密着させてね。両手で相手の身体を抱きしめて。隙間があると危険だから」
「分かりました」
などというやりとりを経て実験したが、幸いにも年金を払うことにはならなかった!
 
「意外に痛くなかったです」
と2人とも言っていた。もっとも、2人は大学時代はバスケット選手とラグビー選手だったので、少し丈夫すぎたかも?
 
「でも男同士で抱き合うと変な気分だった」
「そのまま結婚してもいいよ」
 
実際には、ちゃんと設計段階で、体重90kgの人が2人抱き合ったまま転がっても大丈夫なように、コンピュータでシミュレーションして傾斜や摩擦係数、必要なクッションの量を計算している。実際にはクッションは計算上必要な量の倍置いた。また屋根を転がる時に痛くないよう弾力のある素材で屋根は作られている。これもきちんとシミュレーション計算している。こういう計算に2000万円掛かったのである。“見上げるための”天守閣の設計計算費用は300万円程度である。
 

アクアとリズムは2人とも度胸があるので
「事前に実験もしてるなら大丈夫だよねー」
と言って、演じてくれた。
「両手でしっかり抱きしめて、顔も密着させて隙間を作らないようにしてね。隙間が空いてると危ないから。手も身体から離れてたら骨折の危険があるからね」
「分かりました」
 
(演じたのはアクアF:Mは「リズムちゃんと抱き合うのはパス」と言った。リズムは密着して抱き合ってアクアのバスト圧を感じたが、アクアが女の子なのは今更である!)
 
「スリルはあったけど面白かった」
と2人とも言っていた。
 

屋根から抱き合ったまま川に落ちて行くシーンは、“見上げるため”のセットの最上階の屋根(高さ15m : 5階建てビル相当)から、ハイダイビングの選手2名に吹き替えしてもらっている(最初は人形で撮影するつもりだった)。撮影は屋根の固定カメラ+地上のカメラ4台+ドローン4台である。
 
演じてくれたハイダイビングの選手は山村マネージャーの知人らしい。1人は『人魚姫』の撮影で35mの崖から飛び込んでくれた蕪島順子さんで、もう1人は彼女の姉の蕪島豆代さんである。2人とも
 
「このくらいの高さなら頭から飛び込んでも平気」
 
などと言っていたが、安全のため足から飛び込んでもらった、ふたりはサービスで空中で1回転してくれたが、撮影している側はハラハラだった。ふたりにはスタント料を合計400万円払っている。
 
ちなみに水泳のハイダイビングの飛込板の高さは男子27m, 女子20mである。しかしハイダイバーには50mくらいから平気で飛び込む人たちがいる。15mの高さから落下すると水面に到達する時の速度は60km/h, 27mからなら80km/h, 35mなら94km/h, 50mなら112km/h になる。空気抵抗で少しは減速すると思うが、よく死なないものである。
 
芳流閣のセットはこの撮影のため、元々郷愁リゾートを流れる田斐川の傍に建築していたが、安全のため、2人の落下予定地点の川底を播磨工務店に頼んで臨時に10m掘削してもらった(撮影後埋め戻した)。
 
しかし彼女たちのおかげで迫力あるシーンが撮影できた。しかも2人は身長がアクア・リズムに近いので、放送時に本当にアクアとリズムが落下していくように見えて、どうやって撮影したんだろう?と思った視聴者も多かったようである。
 

語り手:現代では利根川は鹿島灘と九十九里浜の境界である銚子市で太平洋に注いでいますが、これは17世紀に徳川家康により、江戸の洪水を防ぐ目的で利根川の水を銚子を河口としていた常陸川という川に流した結果によるものです。昔は利根川も渡良瀬川も平行して流れて江戸湾に注いでいました。
 

 
さて昔の渡良瀬川の下流、江戸湾に近い所に、小さな町(*15)がありました。ここに古那屋文五兵衛(佐藤ゆか)という者が居て、宿屋を営んでいました。
 
文五兵衛には小文吾(西宮ネオン)・沼藺(ぬい:甲斐絵代子 *16)という息子・娘がおりました。また沼藺には、山林房八(湯元信康)という夫がいて、2人の間には、大八という幼い子供(後の犬江親兵衛)がいました。また小文吾は以前手柄を立てて犬田という苗字も頂いていました。
 
(*15)原作はこの地を行徳と書くが、行徳(現在は市川市の一部)は16世紀にこの地に神社を建てた人の名前から付いた名称で、戦国時代に塩田が発達して町が形成された場所なので、八犬伝の時代には少なくとも“行徳”という名称は存在しない。
 
(*16)小文吾には最初甲斐絵代子(166cm)が予定されていたが、八犬士一の強力男・小文吾に、いかにもか弱い雰囲気のエーヨは似合わないので、西宮ネオンに交替した。小文吾の身長は原作では5尺9寸。又四郎尺(1尺=302.58cm)で計算すると、178.52cmになる。当時としてはとんでもない大男である。ネオンの身長は174cm.そしてエーヨは妹の方に回った。長身の兄には比較的長身の妹が似合う。湯元君は169cmである。
 
沼藺の“藺”の字は、花の“蘭”(らん)と似ているが別の字である。畳の材料である藺草(いぐさ)の“藺”である。鹿児島県には藺牟田(いむた)という地があり、藺牟田池(いむたいけ)という湖もあるが、ここは藺草の名産地だったことが、地名にもつながっている。
 
なお沼藺(ぬい)という名前は“いぬ(犬)”の倒置語。房八も八房をひっくり返したものである。
 
大八は原作では4歳(満でいえば2-3歳)だが、神田あきらの妹・白雪めぐみ(今年満4歳)が演じている。兄の白雪大和(幼稚園の年長)を使うことも考えたのだが、原作と年齢が離れすぎるし、めぐみは4歳にもかかわらずかなり演技力があるので、女の子ではあるが、めぐみを使うことにした。めぐみは男の子役に張り切っていた。
 

語り手:6月21日、文五兵衛と小文吾が一緒に川に釣りに出かけていたら、上流から人間が2人流れてきます。てっきり水死体かと思い、取り敢えず力持ちの小文吾が2人を舟にあげます。すると、1人は小文吾の乳兄弟の現八であることが分かりびっくりします。
 
現八は糠助と別れて犬飼見兵衛に引き取られた後、小文吾の母にもらい乳をして育ったのです。小文吾が現八(白鳥リズム)が飲んでいる水を吐かせ介抱すると彼は息を吹き返しました。もうひとりの男(信乃:アクア)もやはり水を吐かせてから介抱すると、息を吹き返しました。
 
(このシーン、ネオンが「女の子の胸を押したりするのはやばいですよ」と言うので、実際にリズムやアクアの胸を押したのは、小文吾の衣裳を着けた山本コリンである。リズムもアクアも「ネオン君なら、おっぱい触ってもいいよ」と言ったのだが)
 
3人は宿に戻って話し合っていたのですが、現八が顔に痣があるのに信乃が気付いて自分にも似たような形の痣があると言って左腕の痣を見せます。「痣は俺にもあるよ」と言って、小文吾は自分のお尻を見せました。
 
「だったらお主たち、珠を持っているか」
「ある(*17)」
 
と言って3人は珠を見せ合いました。
 
信乃は孝、現八は信ですが、小文吾は悌です。それで信乃は現八・小文吾とも義兄弟の契を結びました。
 
(*17) 放送時には、信乃(アクア)・現八(リズム)・小文吾(ネオン)の内“玉を持つのは誰か?”というのがネットでは話題になった。
 
「ネオンは多分玉有り」
「アクアは間違い無く玉無し」
「リズムに玉があるかは微妙だ」
などと言われ、主としてリズムは“玉”を持っているのかというのが議論されて、アクアに玉があるかどうかは全く議論されなかった!
 
議論している中で「“股に玉”(またにたま)は回文」などという書き込みをしれっとしている人もあった。
 

原作では信乃が破傷風に罹り、破傷風は男の血と女の血を塗れば治るということで、刃傷沙汰になって死亡した、房八・沼藺の血が塗られるのだが、実際にはそんな馬鹿な話はない。破傷風は現代でも発症すれば死亡率50%という致死率の高い病気である。抗生物質も体内の毒素に対しては無力である。それで今回のドラマでは破傷風に罹るという話自体をカットした。結果的に房八も沼藺も(ここでは)死なない。
 
なお破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功したのは北里柴三郎である。破傷風はもし治癒しても免疫ができず、免疫は破傷風ワクチンのみで得られる。日本では1968年から破傷風ワクチンを含む三種混合ワクチンの接種が行われるようになった。それ以前に生まれた人は怪我などで破傷風にかかりやすいので注意が必要である。震災ボランティアなどをする人で、破傷風ワクチンを受けてない人は、作業に入る前に受けることが必須である。
 

信乃たちが泊まっている所に、房八・沼藺夫婦、大八を抱いた房八の母・妙真(甲斐波津子)もやってきます。そしてこの宿に、伏姫の珠を探していた丶大法師(高崎ひろか)が泊まりに来るのです。(古那屋の大集合)
 
大八は産まれて以来、ずっと左手を握っていて、どうしても開かなかったのですが、この時、初めて手を開きました。そこには珠があり、“仁”の字が描かれていました。丶大法師はいきなり4人も珠を持つ人物を見つけて感動します。更に信乃から、もう1人珠を持つ、額蔵の話も聞き、ぜひ会いたいと言いました。そして大八には“犬江親兵衛”の名前を名乗らせることにするのです。
 
信乃・現八・小文吾は額蔵に会うため大塚に向かいます。丶大法師も追ってそちらに行くということでした。一方、妙真(甲斐波津子)は丶大法師の勧めで大八を安房につれていくことにし、大八の両親の房八と沼藺も一緒に行きます。
 

ところが妙真たちは安房に向かう途中、盗賊の一味に襲われます。一行の中で唯一の男子・房八が刀を抜いて闘いますが(房八役・湯元君の見せ場!)1人だけではとてもかないません。とうとう賊に殺されてしまいます。
 
妙真は大八(親兵衛)をしっかり抱きしめて震えていましたが、どうすればせめて子供だけでも守れるだろうかと思います。しかし突然の雷と嵐があり、大八は犬を連れた仙女?の乗る雲の中に吸収されてしまいます。そして雷は盗賊どもを全員打ち倒してしまいました。
 
雷と嵐が去った後、生きていたのは妙真と沼藺のみでした。
 
(親兵衛の神隠し)
 

大塚に向かっていた、信乃・現八・小文吾は6月24日、豊島の神宮河原で旧知の姨雪世四郎(原町カペラ)と遭遇します。彼は大塚での事件を信乃たちに報せ、額蔵が捕まっており、信乃まで、浜路と網乾左母二郎を殺した犯人として手配されていることを教えます。
 
「軍木と卒川が酷い拷問をして、背介殿は亡くなってしまったんですよ」
「なんと気の毒に」
 
信乃は浜路の死にショックを覚えるのですが、額蔵は何とか救出しなければなりません。信乃は現八と小文吾を巻き込まないよう、彼らには古那屋に戻るよう言います。しかし現八と小文吾は、自分たちは義兄弟であるし、犬士の危機は放置できないと言って、一緒に救出に向かうことにします。世四郎は自分の息子の力二郎・尺八郎にも手伝わせますよと言いますが、危険な作戦なので、ここでは信乃はその申し出を謝絶します。
 
信乃・現八・小文吾の3人は変装して大塚に侵入しました。
 

7月2日巳刻(午前10時)頃、額蔵(町田朱美)は簸上社平と軍木五倍二の手で刑場に引き出され、この2人が槍で荘助を刺して、磔(はりつけ)にしようとします。そこに2本の矢が飛んできて、社平と五倍二の肩に当たります。信乃と現八が刑場に侵入して、この2人を斬り倒しました。卒川庵八が寄ってきますが、彼は小文吾に倒されました。
 
3人は荘助の縄を解き、4人で逃げ出しました。
 
当然役人が追ってきますが、戸田川まで来ると、姨雪世四郎が待っていて4人を舟に乗せます。しかし役人の中で馬に乗る者がそのまま川を渡ろうとしました。するとそこに水中から双子の兄弟が現れます。十条力二郎と尺八郎(*18)の兄弟(水谷康恵・水谷雪花)です。彼らが唐突に水中から現れたので、馬が驚き、馬上の侍は水中に落下してしまいました。
 
「あれは?」
と小文吾が訊きます。
 
「私の息子たちです。ここはあいつらが足止めしますから、あなたたちは先に行ってください」
 
「何と・・・・」
 
信乃たちは世四郎たちの自己犠牲に感謝し、向こう岸に着くと走り去りました。そして世四郎も舟の底の栓を抜き、舟を川に沈めてから、役人たちを足止めするのに加わりました。
 

しかし役人は何十人もいるのにこちらはわずか3人です。力二郎が斬られ、尺八郎が斬られ、世四郎が「いよいよ自分1人か、少しでも時間稼ぎをしなければ」と思った時。
 
突然空が雲で覆われ、激しい雷雨がきます。それで役人たちは信乃たちの行方を完全に見失ってしまったのでした。
 
(*18)十条力二郎と尺八郎は、姨雪世四郎が音音(石川ポルカ)と正式に結婚しないまま作った子供なので、音音の苗字・十条を名乗っている。ここで“力二”と“尺八”は“八房”の文字を分解して構成した名前である。なお音音は犬山道節の乳母で、2人は道節の乳兄弟である。なお、世四郎は信乃が飼っていた犬・与四郎と同音である。
 
この戸田川での戦闘で力二郎と尺八郎は死亡し、世四郎は生死不明だが、すぐに再登場することになる。
 

信乃たち4人はいったん雷電神社まで逃げ延びて、そこでお互いのことを報告しあいます。ここで額蔵(町田朱美)は犬川荘助を名乗ることにしました。
 
そして彼らは7月6日には、上野国甘楽郡の妙義山まで移動しました。
 
その時、4人はちょうど犬山道節(恋珠ルビー)が仇討ちで扇谷定正(南田容子)を討つ所に遭遇します。但し実際には道節が斬ったのは影武者の越杉遠安(南田容子・二役)でした。扇谷家の家臣・巨田助友(坂出モナ)が予め、越杉に定正の服を着せておいたのです。
 
道節は打ち損じに気付いたものの、その場に自分の主君の仇である竃門五行(遠下美笑干)がいるのに気付き、彼を斬ってその首級を取ります。しかし大勢の侍に取り囲まれるので、さすがの道節も逃げ出します。
 
ところが彼が逃げてきた所に4犬士がいたため、4人は道節の仲間かと思われ、彼らまで逃げるはめになります。4人は結局バラバラに逃げ出しました。
 

道節は何とか逃げのびて、途中の地蔵堂で2つの首級を入れた包みを近くに置き、少し横になって仮眠しました。道節が仮眠して少しした所で、地蔵堂の反対側で寝ていた男が起き上がりました。彼は“自分がそばに置いていた”包みを持つと道節が寝ていることには気付かず、地蔵堂を出て行きました。
 
 
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【八犬伝】(1)