【夏の日の想い出・ベサメムーチョ】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-10-10
記者会見には一応私と氷川さんも付いていたのだが、こちらで口を挟む必要も無かった。政子は笑顔で(実は何が問題だったのかも良く分かっていない)、記者たちの質問に答え、記者会見場は穏やかなムードであった。
一方のBさんのほうの記者会見はけっこう厳しい質問なども出たようであるがBさんは淡々と質問に答えていったようであった。実際問題として記者たちの関心も途中からBさんと前々から噂のある女優のM美さんとの関係の方に移っていったようである。Bさんとしても政子との関わりを完全に否定しておかないとM美さんから「浮気?」という疑いの目を向けられては困るというのもあったようであった。
記者会見が終わった後、政子がトイレに行っている間に氷川さんは私に
「いや、ホッとしました」
などと言う。
「今ローズ+リリーは人気絶頂ですからね。ここで唐突にマリちゃんの恋愛なんて話が出てきたら、勢いにブレーキが掛かるかも知れないから」
と氷川さん。
「23歳でもまだ恋愛はダメですかね。そもそもこれまでもマリは恋人がいたんですけどね」
「ええ。でも最近は注目度が上がっていますから」
「かも知れないなあ」
「先日連休のど真ん中で行われた山村星歌ちゃんと本騨真樹君の結婚発表の影響で、山村星歌ちゃんの4月下旬に出したCDの売れ行きがパタリと停まってしまいました。連休後に発売されたWooden FourのCDも事前予約が40万枚入っていたのに、まだ20万枚しか売れてないんですよ」
「ああ・・・」
「星歌ちゃんはまだ19歳ですけど、本騨真樹君は23歳ですからね」
「そうか。本騨君も誕生日を過ぎた所だったんだ」
本騨真樹は私たちより1つ下の学年、1992年生まれでWooden Fourのメンバーの中で最年少である。いちばん上は大林亮平で1987年生まれ。亮平は私たちより4つ上だ。彼らは2005年デビューで、デビュー当時、亮平が高校3年、本騨君は中学1年であった。初期の段階では本騨君のまだ声変わりしていないハイトーンボイスが人気を博したのである。
「タレントへのあこがれは仮想恋愛、2次元の恋人と同じようなものと頭では分っていても、やはり熱狂的なファンは本来の自分の購入能力を超えて買ってますからね。それが冷静になっちゃって『ボーナスが出てから買おう』とかになっちゃうんですよ」
「そしてボーナスが出た頃は忘れていると」
「ですです。でも今回のマリちゃんのは完全に疑いが晴れたようだから、たぶん影響は出ないでしょう」
「まだ発売まで2ヶ月ありますしね」
次のローズ+リリーのCDは7月末くらいに発売予定である。ちょうどKARIONの次のCDもその頃になりそうなので、1週間の時間差を開けてどちらも水曜日に発売されることになるだろう。
「それも運が良かったです。少し時間がたてば、この手の騒ぎもみんな忘れてくれるから」
と氷川さんは言った。
ちょうどそんな騒ぎがあっていた頃、正望は司法試験を受けていた。私は一度会って励ましたかったものの、どうにも時間が取れない状況で「頑張ってね」というメールだけ送っておいた。
6月4日、司法試験短答式の成績発表があり、正望は合格していた。私は発表時刻(16:00JST)にはアメリカに向かう飛行機の中で、ニューヨークに着いてから正望のメールで知り、LINEで10分くらい通話しておめでとうを言った。
ローズ+リリーの世界ツアーは6月4日から16日まで行われ、今まで触れ合うことのできなかった海外のファンの熱狂を肌で感じることができたし、たくさん曲も作ることができて充実した13日間であった。
もっとも身体の方はクタクタになったのだが!
その直後、私と政子は、和実と淳の結婚式に出て、小夜子の出産、うちの姉の萌依の出産が続き、そのあと私は政子にうまく乗せられて正望と2人で鹿児島県の指宿温泉まで行ってきた。
もっとも私は仕事が無茶苦茶溜まっているので、旅先でもひたすらパソコンに向かって楽譜の整理をしていて、またまた正望に呆れられることとなる。
そして6月25日に東京に戻ってくると、政子がひじょうに不機嫌なので戸惑う。どうも私が指宿に行っていた間に松山君と何かあったようだが、政子はその時は何もその件については話してくれなかった。
私たちはその後、27日に大阪のロックフェスタに出演したが、この時、私たちは千里の元恋人(実は今も恋人?)の細川さんの奥さんの出産に立ち会うこととなった。
そして7月に入るとローズ+リリーのアルバム制作に本格的に入るのだが、先行してシングルの制作を行った。
『内なる敵』『∞の後』『黒と白の事情』『ペパーミントキャンディ』『虹を越えて』の5曲で、音源制作自体は私と政子、スターキッズのメンバーが集まっての作業でスムーズに進み、7月5日(日)には完了して、技術者の手でマスタリングをした上で、翌6日(月)に★★レコードの営業の人の確認をもらった上で、データを工場に持ち込んだ。
このシングルは7月29日(水)に発売されることになる。制作から発売までの期間が短いが、これは夏休みに本格的に入る前に出したいというレコード会社側の事情が作用したものである。
シングルのマスタリングは技術者さんにお任せしておいて、私たちは6日だけ休んだ後、7日からいよいよアルバムの中の曲の制作に入り、最初は『コーンフレークの花』という曲を録音した。
この曲は雨宮先生が編曲とPV制作をさせてくれていうことだったのでお任せした。雨宮先生の譜面に沿って作っていけばいいので作業自体はスムーズに進む。内容的には簡単に言うと片想いの歌だ。好きな人がいるのだけど、彼には既に恋人がいる。自分は彼とは一応友だちという関係にあって、その彼女とも友人なので「2人の恋を応援してるよ」なんて言っている。でも・・・という、友情の狭間で言い出せない恋心に悩む少女の物語である。
政子の書いた歌詞はダジャレを多用したコミカルなものになっている。その軽いタッチが、ひとつ間違うと重くなりがちな「潜在的三角関係」を明るく笑い飛ばすかのように歌っている。
明るい雰囲気にするため、アレンジは複雑な和音を使わず、G, C, D7, Em, Am のみを使っている。9とか12みたいな複雑なコード、dimやaugなどの不協和音も一切使用していない。音符も8分音符までしか出てこない。16分音符や三連符も無い。政子が「この曲は練習しなくてもすぐ歌える」と喜んでいた。もっとも練習時間の大半は政子が正しく音程取りできるようになるのに費やされた。簡単な曲は間違いも目立つので正確に歌う必要がある。政子は7日だけでも150回くらい歌ったはずである。
雨宮先生は楽曲を単純化するために一部メロディーライン自体にも手を加えていた。演奏も敢えて平易な感じにしてある。エレクトーンの8級アレンジという雰囲気である。間奏のソプラノサックス・ソロも難しいテクニックは不要。
(但しボーカルの音域は広く、マリでも13度、ケイは19度もある)
それで演奏上の問題も生じず、音源制作は7日にたくさん練習した後8日は軽く流した上で9日に本格的な収録に入り、9日の夜遅く終了した。
そして次の曲『仮想表面』の制作に入ろうとしていた7月10日。
私は朝からまたまたショックを受けるはめになった。
その日発売された週刊誌に
「ローズ+リリーのマリ、熱愛発覚」
というタイトルが踊っていたからである。
この週刊誌の広告が全ての全国紙にも載っており、結果的に日本中の新聞購読者もこのニュースのことを知ることとなる。
私は慌てて近くのコンビニに行き、その雑誌を1部買って来たが、そこには政子と俳優の渋紙銀児さんが、どこかの神社の境内と思われる所で並んでいるシーン、そして割烹のような所で天ぷらの盛り合わせ?を前に楽しそうに話している写真が載っていた。
政子を起こして内容について問い糾す。
「あ、渋紙さん、こないだ会ったよ。面白い人だった」
「付き合ってるの?」
「まさか。ただ会って話しただけ」
私は頭を抱える。
「あのさ。マリちゃんって有名人なんだから、あまり気やすく年頃の男性と目立つ場所で会わない方がいい。こないだも俳優のBさんとこういうの書かれたばかりじゃん」
「ごめーん」
間もなく氷川さんから電話が掛かってくるので、私が状況を説明する。取り敢えず★★レコードに来てということであったので、ふたりで一緒にリーフに乗ってそちらに赴いた。
★★レコードには私たちが来た時点ではまだローズ+リリー関係の人は誰も来ていなかった。たまたま徹夜していたという八雲さんが居て、私たちを応接室に通し、コーヒーを煎れてくれた。
その時、私は八雲さんの身体から女性用化粧品のような感じの香りを一瞬感じた。あれ? 誰か女性とデートでもしていたのかな?と私はその時は思った。
「あれ、事実なんですか?ここだけの話」
と彼が訊くので
「単に偶然出会って、立ち話も何だからと言って近くの飲食店でおしゃべりしただけらしいんですよ」
と私は答える。
「あの写真だと何か本格的な御飯という感じだったけど」
「マリは天ぷら5人前くらいは《軽いおやつ》なんです」
「あ、そうだったね!」
「でも参りました」
「マリさん、ひょっとして誰かにハメられようとしてません? こないだも似たような騒ぎがあったし、これ記者は金もらってマリさんに張り付いていたのでは?」
と八雲さんが言う。
「うーん・・・・私たちをハメたい人なら何人か心当たりはあるけど」
「それにしてもマリさん、脇が甘すぎるよ」
「ごめんなさーい」
と言ってから政子はふと思いついたように訊く。
「ね、全然関係無いけど、八雲さんって実は女性なのでは?という噂があるんですけど」
すると八雲さんは苦笑してから答えた。
「それってヒの付く人から聞いたんじゃないよね?なんかあの人ボクを随分と詮索している感じでさ。胸とかお股付近に視線を感じるし。じゃ、マリちゃん、ボクと約束しない? 当面男性とふたりきりで話すような場面は絶対に作らないこと。その代わり、ボクの秘密、マリちゃんにだけ教えてあげる」
「はい、約束します」
「じゃマリちゃんにだけ教えるからケイちゃん、悪いけどちょっとだけ外に出てて」
「いいですよ」
それで応接室の外に出ていたら、7-8分ほどして八雲さんがドアを開けて
「もういいですよ。失礼しました」
と言った。
それで私は八雲さんと入れ替わるようにして応接室の中に入ったが、政子はキラキラした目をしていて
「八雲さんって私の思ってたままの人だった」
と言って、とても満足気であった。
「八雲さんってやはり女の人だったの?」
「秘密」
やがて氷川さん・加藤課長・町添部長・松前社長が出勤してくる。少し遅れてUTPの大宮副社長と○○プロの前田部長も出てきた。
それで私が主導して状況を説明する。政子は
「誤解を招きかねないことをして大変申し訳ありませんでした」
と謝った。
「マリちゃん、こないだも同じようなことがあったよね。こういうの気をつけてほしいんだけど」
と社長が苦言を呈する。
「本当にごめんなさいです」
と政子は本気で反省しているようである。
「とにかく、先方の事務所とも連絡を取ってそれぞれ記者会見を開きましょう」
と町添さん。
「仕方ないですね。29日に発売予定の新曲に影響が出なければいいのですが」
と社長。
新譜『内なる敵』は半月後の29日(水)に発売予定で、近日中にテレビCMを流したり、FMなどで先行して部分的に公開したりし始める予定であった。このCDは先月下旬に《タイトル未定》のまま発売日だけ告知した段階で予約が入り始め現在既に予約は30万枚も入っている。
★★レコードでは『言葉は要らない』(2013.3)以来の7作連続ミリオンは確実と見て発売日までに最低でも80万枚以上商品を用意する予定。現在封入する小冊子の仕上がりを待っている所である。それができたらすぐにプレスを始める予定であった。
しかし町添さんは念のため、工場に連絡を取ってプレス作業の開始をいったん保留してもらうよう依頼した。
「工場は大量のプレスで期日も無いことから、見切り発車で既にCD本体のプレスを始めていたそうです。その作業を中断してもらいました」
と町添さんは電話を置いて言った。
そして加藤さんが渋紙さんの事務所と連絡を取ったのだが、ここで困ったことになる。
向こうは交際を完全否定する記者会見には同意できないというのである。途中から町添さんが電話を代わったものの、向こうの意向は覆られなかった。
「渋紙君がこないだのデートでマリちゃんのことが好きになってしまった。だから交際したいと思っていると言うのだよ」
と町添さんは戸惑うように言う。
「え〜?そんなの困ります」
それで政子は直接渋紙さんの電話に掛けようとしたものの、町添さんに停められる。
「今直接交渉して、マリちゃんが渋紙君に口説かれてしまったら困る。取り敢えず今日の段階ではこちらとしては交際の事実は無いし、その意志も無いということを明言しよう」
と町添さんは言った。
事はもはや個人の恋愛問題ではないのである。15億円のビジネスに関わる問題であり、多くの人の運命を巻き込む問題になってしまっている。
そこで10時から、同時に★★レコードと、向こうの事務所とで始まった記者会見は奇妙なことになった。
こちらサイドでは、当日は偶然出会って立ち話をして、それでずっと立ち話をするのも何だからと言って、近くの和食の店に入り、(マリ的に)軽食を食べながら話の続きをしただけであり、交際の事実も無ければ、その意志もない。マリは当面誰とも恋愛や結婚をするつもりは無いと明言した。
しかし向こうサイドの記者会見では、渋紙銀児本人が「僕は先日のデートでマリちゃんが好きになってしまった。結婚したいと思っている」と発言する。「これまで何度会ったんですか?」の質問に対して「会ったのは1度だけだけど、まるで中学生のような気持ちで恋してる」と言った。彼はその後もマリへの思いを熱く語った。
テレビ局はどこも、渋紙という大俳優の機嫌も、ローズ+リリーという今一番売れている歌手の機嫌も損ねたくないので扱いにかなり苦慮したようである。両者の会見の様子を単純に流し、コメンテーターも、慎重に発言をしてくれる人だけ指名して、できるだけ中立的なコメントを流していた。
そして、これまでずっと毎日増え続けていたローズ+リリーの新譜の予約がこの日ピタリと停まってしまった。
ネットでは
「あれだけ熱烈にプロポーズされたら、マリちゃん、渋紙の愛を受け入れるのでは?」
「ちょっと話しただけなんて言ってるけど、間違い無くセックスしてるよな?」
「高校生じゃあるまいし、デートして食事だけってことないでしょ」
「食事した後はドライブしてホテルというコースじゃないの?」
「年末くらいにマリちゃんが結婚してローズ+リリーは解散するのでは?」
「サヨナラ公演はやはり関東ドーム3日間くらいかなあ」
などといった発言が並んでいた。
「ショック・・・・。マリちゃん好きだったのに」
「ああ、さよなら、僕のマリちゃん。とうとう他人の物になってしまうのか」
などと嘆くような書き込みも大量に見られた。
そしてローズ+リリーの新譜を予約していたけどキャンセルしたいという問合せも全国のCDショップに寄せられ、ネット販売大手のアルテミスなどでは実際に大量の注文キャンセルが行われた。
その後の一週間、私たちはアルバムの音源制作も中止して(実際、私自身もとても制作ができる精神状態では無かった)氷川さんや町添さんと電話で連絡を取りながら今後の対策について検討したのだが、妙案は出なかった。渋紙さんと話し合える人に密かに依頼して、発言を撤回してもらえないかと打診してみたものの、答えは否であった。
新譜のキャンセルは続いている。新曲のCMは流し始めたのだが、極めて反応が悪い。このままでは10万枚も売れないかも知れないという悲観的な見方も営業部では浮上しているという話であった。
そんな騒動のさなかの13日の夕方のことであった。
私の携帯に電話があるが、見ると桃香である。
桃香からの電話は珍しいなと思いつつもオフフックする。
「こんばんは〜。どうしたの?」
「忙しい所申し訳無いんだけど、ちょっと相談があるんだけど」
「うん?何かな?」
「お金貸してくれないかな」
「へ?いくらくらい?」
「40万くらい貸してくれると助かるんだけど。ボーナスが出たら返すから」
「それはいいけど、どうしたの?」
「実は恋人が妊娠してしまって。中絶手術するのに手術代が無くって」
は?
私は少し考えた。
これってひょっとしてオレオレ詐欺じゃないよね? 私確か携帯に「桃香」という名前が表示されたのを見てから取ったはずと思い起こす。
「あっと、ごめん。そちら誰だっけ?」
と私は尋ねる。詐欺であれば名前を言えないはずだ。
「え?私だよ」
「私って」
「桃香だけど」
「やはり、そうだよね。これオレオレ詐欺じゃ無いよなって考えちゃった」
「え〜?私が詐欺なんかする訳が無い」
「うん。桃香本人ならそうだろうけど。それで詐欺なら名前を名乗れないはずと思って、念のため名前を訊いた」
「あれ〜?そう言われたらこれってオレオレ詐欺のパターンかも」
「でしょ?」
「ごめーん。ちょっと焦ってたもんだから」
「でも恋人が妊娠って、桃香、おちんちんあるんだっけ?」
「残念ながら本物のおちんちんは持ってない。作り物のおちんちんなら時々付けてることもあるけど」
「それでどうして恋人が妊娠するのさ?」
「いや。別の男にレイプに近い形でやられて妊娠したんだよ」
「そういうことか」
「こないだから様子がおかしいんで聞き出したら、3月中旬に会社の同僚の男性に残業中にほぼ無理矢理やられてしまって。それで妊娠していると言うんだよ」
「ほぼ無理矢理?」
「うん。最初は抵抗したらしいんだけど、途中で『してもいいけど痛くしないで』と言ったらしい」
「うーん・・・微妙だな」
レイプ事件の裁判でしばしば争いになるようなケースだ。男は同意の上だと主張するであろう。
「そのあと生理が来ないんでおそるおそる妊娠検査薬を試してみたら陽性。オレンジジュース2L飲んで再度試してみたけど、やはり陽性だったと。でもお金が無くて中絶できないと言うんだ」
「でも産んだらもっとお金掛かるよ」
「そうなんだけどね」
「彼には妊娠のこと言ったの?」
「言いたくないというんだ。言ったら結婚を迫られるからって。元々が暴力的な男で一回だけデートした時もホテルには行きたくないと言ったら殴られたらしいんだよ。その時は周囲に人が居たから彼女は逃げることができたらしいんだけど。そういう男だから付き合いたくないと言うんだ」
「それでこっそり中絶したいのか。そもそも無理矢理するにしても付けずにするなんて言語道断。でも待って。3月中旬にしたセックスが元で妊娠したんなら、もうかなり妊娠は進んでいるよね?」
「うん。今もう5ヶ月目なんだよ」
「それって中絶できるの?」
「正確に計算してみたんだけど現在19週目なんだよ。法的には21週6日までは中絶できる」
「かなりギリギリだね」
「そうなんだよ。それで給料日まで待ってられなくて。最初に本人に電話させた所では断られた。でも2ヶ所目で私が途中から電話を代わって、レイプされたから中絶したいんだと強く言ったら、取り敢えず来なさいと言われた」
「それって、会社辞めたほうがいいね」
「うん。私もそう言っている」
「住んでいるのはアパートとか?」
「うん」
「彼は実家の住所は知ってるの?」
「高知県というのは話しているけど、細かい住所は教えてないそうだ」
「だったら会社やめた後、引越もした方がいい」
「うん。そう思う」
「じゃ、取り敢えず中絶手術代貸すし、そのあとの引越代も貸してあげるよ」
「すまない。引越代は年末のボーナスで」
「そちらはその彼女に出世払いということにして貸しておくから」
「ありがとう。お金の受け渡しはどうしようか?」
「桃香今どこに居るの?」
「新宿まで出てきているんだけど」
「じゃ恵比寿までおいでよ。うちのマンションで渡すよ。場所わかるよね?40万くらいなら現金で持っているから」
「恩に着る。あ、それとさ」
「うん?」
「これ良かったら千里には内緒にしててくれない?この手術代は確実に今月中に返すから」
私は苦笑したが
「うん、いいよ」
と答えた。まあ千里に内緒にしたいから私に頼ってきたのだろう。
「でも千里、まだ帰国していないんだっけ?」
千里は今月初めから、ユニバーシアードに出場するのに韓国に行っていたはずである。試合は昨日の決勝で日本が勝って終了したのだが。
「何か色々あって帰国は明日になるらしい。明日も帰ってきたらあちこちに報告に行って、帰宅するのはたぶん夜遅く」
「大変だね!」
それで30分後に桃香は線の細そうな女性を伴ってマンションに来た。妊娠5ヶ月といってもお腹は目立たない感じである。それで40万円渡すと、桃香はその場で借用証書を書いた。
「冬は忙しいみたいだから、私がその病院まで送って行ってあげるよ」
と政子が言い、ふたりをリーフに乗せて送って行った。
病院では検査を受け先生は事情を聴いた上で、そういうことであれば中絶しましょうということになり、明日手術をすることになったそうである。政子は帰ってきてからかなり考えていたようであったが、やがて詩を書いた。
『狼からの逃亡』というシリアスな詩だ。羊が3匹草を食んでいる所に狼が忍び寄る。それで逃げ出すのだが、1匹は逃げ遅れて食べられてしまう。残りの2匹は友だちを失った悲しみに泣きながらも、もうあそこには怖くて草を食べに行けないねと話し合う。
「何か救いの無い詩だなあ」
と私は感想を言う。
「今日はそういう気分なのよ」
「まあ、ちょっと今回は参ったね。ところで松山君との関係はどうなってんのさ?」
「今は言いたくない」
「分かった」
その晩、私たちは深夜過ぎまでベッドの中で睦み合った。政子は泣いていた。それは渋紙さんとの事で困って泣いていたのか、それとも松山君とうまく行ってなくて泣いていたのか、あるいは桃香の友人の不運に泣いていたのか、はたまた明日には消えてしまう小さな命に涙していたのか。
その週、私たちは何度か★★レコードに出て行き、レコード店での情報やネットの書き込みなどの情報分析をしつつ氷川さんたちと色々議論した。
「今回、ちょっと難しい曲であったのもマイナス要素だったかも知れないなあ」
と加藤課長が漏らす。
「この曲でいいと言った私の責任です。申し訳ありません」
と氷川さんが言う。
確かに『内なる敵』はあまりヒット性のある曲では無かったかも知れないと私も反省した。あの時はやはりインパクトが凄かったので書いてしまったのだが、自分はあの時、セールスのことまで考えたろうか?と自問する。
町添さんも
「もうこうなったら、当面成り行きを見守るしかないでしょう。少しほとぼりが醒めたところで反転攻撃に転じましょう」
と言っていた。
それで20日も★★レコードに行ってから、私と政子はぐったりして帰ってきて、晩御飯を作る気力もないまま、ソファーで伸びていた。するとそこにインターホンが鳴る。取材とかなら面倒だなと思って出ると、なんと千里である。
上にあげると凄い荷物を抱えている。
「旅行?」
「明日から合宿なんだよ。だからここを出た後、合宿所に行くから。今夜深夜に合宿所に入ることは、許可をもらっている」
「大変だね!こないだ帰国したばかりなのに」
「また海外だよ。24日からオーストラリア、1日からニュージーランド」
「大変だね!」
それで取り敢えずリビングのソファーを勧めると、千里は
「桃香がお世話になったみたいで」
と言う。
「えっと何のことだろう?」
と私はとぼける。
「これ例の彼女から冬にって。退職金をもらったから、中絶手術代・引越代を返したいって」
と言って分厚い封筒を差し出す。私が受け取らずにいると千里は説明する。
「桃香が留守中に彼女のお母さんが来たんだよ。それで話を聞いてしまって」
「ああ、そういうことか」
「上司に事情を話して挨拶も無しに退職させてもらうことにした。それで会社では夏の賞与も払った上でその翌日付けの退職にして退職金も払ってくれたんだよ。だから給与日割り分と合わせて60万円ほどもらえたんだ」
「良かったね!」
もっとも中絶の費用はお寺さんの費用なども含めて最終的に70万円近く掛かっている。
「結局彼女自身は新しいアパートへの引越を中止して田舎に帰ってしばらく実家で静養させることにしたらしい」
「それがいいかもね」
「例の彼の方にはこれ以上彼女に手出しができないように、私が処置しておいたから」
などと千里は更に言う。
「何したの?」
「別に。まあ彼も少し自分の生き方を考え直した方がいいだろうね」
うーん。千里って、というか青葉もだけど、時々怖いと思うことがあるぞ、と私は思った。特に千里は、青葉にはさせていない闇の部分を代わって実行している雰囲気がある。
「桃香はちょうど会社の方の研修でこの連休は小豆島に泊まり込んでいるんだよ」
「ああ、それで」
「彼女は桃香には手紙を書くと言っていた」
「じゃ桃香も失恋しちゃう訳か」
「まあ桃香は毎年3人くらいに失恋しているから大丈夫だよ」
「うーん・・・・」
千里と話している内に私も少し気力が戻って来たので、取り敢えず冷凍ストックしている料理を少し解凍したり、インスタントラーメンを作ったりする。結局、3人でマルちゃんの麺づくりを食べながら、解凍したローストビーフや枝豆などを摘まみつつ話をする。政子も少し元気が出てきたようで、ファンの方からの頂き物のお菓子を出してきて開封する。
「この返してもらったお金だけど、私も少なからず関わっちゃったからさ、この内10万はその子に御見舞いとして渡してもらえない?私と政子から5万ずつということにして」
と私は言う。
「私も実はそのお母さんに『こういう時は女同士の助け合いですよ』と言って、私と桃香の2人分と言って10万渡したんだけどね」
「そうそう。助け合い」
「じゃ実家の住所書くから冬が直接送ってあげてくれない?」
「うん。じゃ桃香からもらった借用証書は桃香のアパートに郵送しておくね」
「でも千里は日本代表のお仕事は終わったんじゃないんだ?」
「まだまだ。12日までユニバーシアードがあって14日に帰国して、一応15日から今日20日の昼までは会社に行ったんだよ」
「お疲れ様!」
「でもまた明日から10日まで合宿。この後9月5日まで1ヶ月半ほどずっと合宿か試合」
「きゃー。会社クビになるのでは?」
「一応9月4日まで1ヶ月半ほど休職扱いにしてもらった」
(9月5日は土曜日である)
「よくしてくれたね」
「個人的にはクビでも良かったんだけど」
「退職したらいいのに」
「うーん。世間の義理でさあ」
「千里、よくそういうこと言ってるね」
「ところで政子、大変な目に遭ったみたいね」
と千里が言う。
「参ったよ」
と政子はマジで弱音を吐いている。
「占ってあげようか」
「お願い」
それで千里はバッグから筮竹を取り出すと、略筮で卦を立てた。
「天地否の5爻変。之卦は火地晋」
「天地否って大凶だよね?」
「そうそう。上爻の天は上に上がろうとする。下爻の地は下に降りようとする。だから男女が交わらない」
と千里が言った所で政子は辛そうな顔をした。
「今はそういう状態。逆に言うとこれ以上悪くなりようがない」
と千里が言うと
「だったらこの後は少しよくなる?」
と政子は尋ねる。
「なるよ。火地晋は1歩ずつ進んでいくこと。今までのことは忘れて初心に戻って、また1歩1歩頑張っていけばいいんだよ」
「またファンの人戻って来てくれる?」
「少しずつね」
「じゃまた頑張るか」
「ちなみにこの五爻変の爻辞は『否を休む。大人は吉。其れ亡びなん其れ亡びなんとて、苞桑にかかる』。最悪の状態はここまで。大きな心を持つことが大事。色々壊れてしまうけど、わらしべを差し出してくれる人があるから、それに頼るといい、ということ」
「誰かが助けてくれるんだ?」
「そう。いろんなものが壊れちゃうけど、もう過去は振り返らないことだよ」
と千里が言った時、政子は涙を浮かべた。私はやはり松山君と何かあったんだなと推察した。
「でもきっと新しいものもこれから出来ていく。この爻の十二支が申(さる)なんだよね。私たちヒツジ年生まれだから、助けてくれるのは私たちより1つ年下の人かもね。あるいは11歳上か」
「へー!」
その後千里は私に最近来た郵便物や宅配便の類いを見せてくれと言った。それで見せていると、千里はDM2通、ファンレター3通、ファンからの贈り物として届いていたお酒の包みを2つ選り出した。
「私、呪いとかはよく分からないんだけどさ。この7つは私が見ても怪しい。処分していい?」
「うん。よろしく!」
「今度青葉と会うでしょ?その時、またこのマンションをチェックさせた方がいいよ」
「頼んでみる」
それで千里は夜12時すぎにタクシーで帰って行った。たぶん「怪しいもの」をどこかで処分してから、合宿所に入るのであろう。
連休明けの7月21日。
今日は午後から★★レコードで社長や営業部・法務部も入れた対策会議をしたいと聞いていたので気が重かったのだが、朝◇◇テレビの響原取締役から電話が入る。
「そちらにもご迷惑掛けていて申し訳ありません」
と私は言ったのだが、響原さんの口調が明るい。
「今はまだ詳しいことは言えないけどさ、昼12時のうちのテレビ見てよ。君たちにとって悪くない話があるから」
と言う。
「何でしょう?」
「それは見てのお楽しみで。これ今、町添君にも教えてあげた所。とにかく昼12時、よろしく」
それでネットで情報を収集すると、今日のお昼12時の◇◇テレビの情報番組で、先日結婚宣言をした山村星歌と本騨真樹が全国の皆さんに話したいことがあるということで緊急会見をするというのが流れている。私は情報源を確認しようとしたのだが、ソースらしきものが見付からない。
これって◇◇テレビがわざと曖昧な情報としてネットに放流したな?と私は思った。町添さんとも連絡を取ったのだが
「僕も内容は聞いてないんだよ。でも良かったら、うちに来て一緒にテレビ見ない?」
と言うので、政子を起こしてリーフで★★レコードに出かけた。
そして、私と政子、氷川さん、加藤課長、町添部長、松前社長が応接室でテレビを囲む。社長のおごりでウナ重が出てくるが、誰も手を付けない。政子も手を付けないのが凄いと私は思った。
番組がスタートする。
すると山村星歌と本騨真樹だけでなく、本騨真樹と同じWooden Fourに所属している大林亮平まで居る。
冒頭で本騨真樹が発言する。
「一週間ほど前、ローズ+リリーのマリちゃんが、俳優の渋紙銀児さんと熱愛しているのではという報道があって、ネットを見ていたら、ふたりはこの日食堂で話しただけでなく、その後ホテルとかに行ったのでは、などという書き込みも多数あったのですが、それは無いということを証言したくて、僕たちはここに出てきました」
「僕たちWooden Fourはここしばらく、ハワイで写真集の撮影をしていたんですよ。それですぐには対応できなくて」
と大林亮平が言う。
「私が真樹さんにメールして、それなら僕たちは力になれるかもと言ってくださったんです。それで私たち双方の事務所の許可を得て会見をすることにしました」
と山村星歌が言う。
「もしかしてその当日にマリさんと会ったのですか?」
とキャスターが尋ねる。
「はい。そうです。僕たち3人、大阪で会いました」
「大阪ですか!」
それを見ていて政子は「あ、そうだった」と言い出す。
ああ、やはり政子はあの日、松山君に会いに行ったんだなと私は思った。そして多分そこで何かがあった。
本騨君は更に説明を続ける。
「先日の記者会見で、マリさんは6月22日の午後に渋紙さんと会ったということでしたよね?」
「そうですね。マリさんが持っていた和食の店の伝票が18:58でしたので」
とキャスターは資料を確認して言う。
「僕たちが大阪でマリさんと会ったのが夜の0時半くらいだったんですよ。でも渋紙さんはその日東京に居ましたよね?」
「確かに翌日の朝8時のテレビ番組に出演なさっていますから、その夜は東京におられたはずですね」
このあたりはテレビ局もかなり調査確認したようである。
「僕たちと会った時、マリさんはケイさんがロケハンで鹿児島に行って、ひとりなんで、お腹が空いたから大阪にたこ焼き食べに来たと言ってたんですよ」
「マリさんらしいですね!」
とキャスターが笑顔で言う。
他の人なら信用してもらえないだろうが、政子や美空が「タコ焼き食べに大阪に行った」と言ったら充分信じてもらえる。
「僕たちと会った時、マリさんはたこ焼きの包みを4つ持っていて、ひとりで食べるつもりだったけど、僕たちと一緒に食べてもいいよということで、結局、ホテルのロビーで、マリさんが2つ、亮平が1つ、僕と星歌が残りの1つを分けて食べたんです」
「何かさりげなくのろけてますね」
「僕と星歌は愛し合っていますから」
キャスターは笑っている。
「じゃ、マリさんは渋紙さんと別れてからすぐ大阪に来たんですか?」
「そうみたいです。19時に渋紙さんと別れて、一度自宅に戻ってから、お腹が空いたと思って21時の新幹線に乗って、とりあえず新大阪駅近くでたこ焼きをゲットして、どこかに泊まろうと思ってホテルに来たところで、ちょうど同じホテルに泊まろうとしていた僕たちと会ったんですよ」
「本騨さんたちは3人で行動していたんですか?」
とキャスターが訊くと、亮平が答える。
「真樹と星歌ちゃんを、結婚するまでは絶対にふたりきりにするな、と社長から厳命されているので、不本意ながらふたりのデートに僕が付き添っていました。当てられてばかりで、たまらんのですけどね」
「それでそのホテルではどのような組合せでお休みになったんですか?」
「4人ともそれぞれ別室です。お互いに他の人の部屋には入っていません」
と言って真樹はホテルの領収証を見せた。
山村晴香様、本騨真樹様、大林亮平様、そして中田政子様という宛名書きがされたデラックスシングルの伝票3枚、ロイヤルツインの伝票が1枚である。デラックスシングルは1室12000円、ロイヤルツインは22000円という値段になっている。
「庶民的なホテルですね」
とキャスター。
「プライベートではこんなものですよ」
と真樹。
「これマリさんの伝票はマリさん、書いてもらったままフロントデスクに忘れていってたんですよ。それで知り合いだから渡しておきますよと言って僕が預かって、あとで事務所に届けてあげようと思っていて、うっかり忘れていてまだ手元にあったんです。追って届けますので」
と亮平が説明した。
「マリさんは以前も買物して財布を忘れていって、ちょうど近くに居た小野寺イルザさんが届けてあげたという話がありましたね」
「ありました、ありました。マリちゃんって忘れ物の天才なんですよ。ツアーに行く時は、付き人さんがトイレの中とかも毎回チェックして忘れ物がないか確認しているそうですから」
「大変ですね!」
「じゃ、マリちゃんは時間的に見て、渋紙さんとその日何かしたようなことはあり得ないですね」
「そうだと思います。それを言いたくて僕たちは出てきたんです」
「マリさんに渋紙さんがプロポーズしていましたが、それについてはどう思われますか?」
とキャスターは訊いた。
あとから聞いたのでは、ここで大林亮平はもっと当たり障りのない発言をする予定だったらしい。しかし亮平はここでとんでもないことを言ってしまう。
「あんな15歳も年上の男がプロポーズしなくても、僕がマリちゃんにはプロポーズするから」
と大林亮平は言った。
「えっと・・・」
とキャスターが戸惑っていると、亮平は更に発言する。
「僕もマリちゃんが好きですから。彼と結婚するくらいなら僕と結婚してよ」
と亮平は言い切った。
この発言が流れた後、全国の亮平ファンから「きゃー」と悲鳴が上がった。事務所の社長は頭を抱えたらしい。それでなくても本騨の結婚を渋々認めたのに、大林までもかよと思い、今回の会見を許可したことを後悔する。うちの会社、資金繰り大丈夫かな?というところまで心配になったらしい。
ともかくもこの発言を受けて私たちはそのまま応接室で緊急会議に移行した。そして政子に再度記者会見をさせることを決め、各報道機関にFAXを流した。
そこでふと見ると、政子の前のウナ重の重箱が空っぽになっていた。ついでに私の前にあった分も食べられている! 私は政子が最小限の元気を取り戻したことを確信した。
記者会見には、直前の通知であったにも関わらず、大量の記者が押し寄せる。そしてこの様子は◇◇テレビを含む複数のテレビ局で午後の情報番組内で中継された。
「マリさん、その日山村星歌さんたちと会ったことを先日は言いませんでしたね?」
と記者が訊くと
「お互いプライベートなので、彼女たちに迷惑が掛かってはいけないと思い、そのことは言いませんでした」
と政子は言う。
この発言は全体的に好感された雰囲気であった。プライバシーの重視は大事なことである。
「じゃ結局その晩は大阪のホテルで4人別々の部屋で寝られたんですね」
「4人の部屋が同じ最上階フロアの比較的近くだったんですよ。それで一緒におやすみって声を掛けて各部屋に入りましたけど、少なくともその時点では全員別々の部屋でしたね。でも私その後、内線でけっこう長時間星歌ちゃんと話してたから、星歌ちゃんと真樹君はHしてないと思いますよ。後から考えたら、お邪魔だったかも知れないけど」
「マリさん、先日の渋紙さんに続いて、大林さんからまでプロポーズされましたが」
「どちらもお断りです。私は女優の妻とかするつもりは無いし、大林亮平のことは私、嫌いですから結婚なんてあり得ないです」
「えっと渋紙さんは女優ではなくて俳優ですが」
「あ、ごめんなさーい。私そもそも男の人にあまり興味が無いんですよね」
「レスビアンでしたでしょうか?」
「私、御飯を食べることと、詩を書くこと、歌うこと以外には興味無いんです」
「なるほどー」
「大林さんのことは嫌いなんですか?」
「あいつ、私に1度無理矢理キスしたことあるんですよ。だから嫌いです。今回のことは恩に着ますけど」
「キスって、それはいつですか?」
「まだ高校生のころですよ。私もまだ無防備だったけど」
すると記者席の中からひとりの記者が
「マリちゃんは今でも無防備っぽい」
と声を掛ける人がある。
「すみませーん。それで★★レコードの社長さんにも叱られました。ほんとにファンの皆さんにもご心配掛けたし、関係のみなさんにはご迷惑掛けちゃって。とにかく私は当面男の方とは交際するつもりはありませんし、少なくとも10年くらい先までは結婚するつもりもありませんから」
と政子は笑顔で言った。
本騨君たちの援護射撃を受けての政子の記者会見はひじょうにうまく行った。
ネットの反応を見ても
「どうもローズ+リリーの解散は当面無さそうだな」
「マリちゃん、10年後まで結婚しないのなら、俺も10年後まで童貞を続けなきゃ」
などという声が上がっていた。大林亮平のプロポーズについては、彼の熱狂的なファンを除いては「格好良かった」「まさに白馬の騎士」という声が上がっていた。結局ひとりの男性からだけプロポーズされた状態と複数の男性からプロポーズされている状態ではまるで違う。大林の発言によって、政子が渋紙さんと結婚する可能性は大幅に小さくなったとネットの住民たちは判断したのである。
このネットの反応を見て、翌日には渋紙さんも自身のツイッターで
「マリちゃんの件に関しては僕もいったん発言を留保することにして、その旨、マリちゃんに伝えました。僕もマリちゃんに迷惑を掛けることは本意ではないので。でもマリちゃんのこと好きだという気持ちは変わらないです」
と述べた。彼もやはり自分の発言がマリにかなり迷惑を掛けたことを申し訳なく思ったようであった。
「でも大林君、15歳年上は無いよ。僕まだ36だけど」
とも渋紙さんは書いていた。
何だか物凄くうまく行ったような気もしたのだが、私は記者会見の席で政子が「当面男の方と交際するつもりはありません」と妙にハッキリと明言したことが気になっていた。それで1階の記者会見場から引き上げ、上の階の制作部の方に戻る途中、私は政子を廊下の隅に連れていき尋ねた。
「男の方とは交際しないと言ったけど、松山君とはどうするのさ?」
「さあ。あいつはあいつで適当に誰かと結婚するんじゃないの?」
「いいの〜?」
「元々私とあいつは基本的に友だちにすぎないから」
「マーサ、確かに最初からそんなことは言っていたけど」
「まあ今の彼女と結婚できたら結婚すればいいし、振られたら自分でウェディングドレス着て花嫁になればいいんじゃない?」
「彼がウェディングドレス着るの〜?」
「あいつ元々は女の子になりたかったと言ってたし」
「ああ、そういえばそうだった。でも相手は?」
「花嫁兼花婿で。タキシード着たりウェディングドレス着たり」
「それ忙しそう!」
「初夜もセルフサービスで」
「それどうやんのさ?」
「おちんちんは取り敢えず切って、ヴァギナ作って、切り離したおちんちんを自分の新しいヴァギナに入れればいいんだよ」
「究極のナルシシズムだね!」
制作部では再度会議室に全員入り、コーヒーとケーキを食べて一息付いてから少しお話をした。
「これでダメージは最小限で済みそうですね」
「大林亮平君たち3人には感謝状をあげたいくらいだ」
などという声が出ていたのだが、ここで政子は爆弾発言をする。
「ケイ、氷川さん、あの新譜ですけど作り直しましょう」
「え〜〜〜〜!?」
政子はあの『内なる敵』という曲が、もしかしたらシングルに入れる曲としては重すぎるかも知れないとずっと気になっていたのだと言う。しかし誰も反対しないし、いいのかなあと思っていたと。
「あの曲は次のアルバムに収録して、シングルのタイトル曲は『コーンフレークの花』にしましょう」
と政子は言うのである。
氷川さんは少し考えていたが
「その意見に賛成します。『コーンフレークの花』は少しコミカルで明るい曲なので、こういう騒動の後始末にもいいと思います。あれは今までローズ+リリーのファンでなかった人でも買ってくれると思います」
と言う。
「でもシングルのタイトルは『内なる敵』ということで既にたくさんプロモーションしているのだけど」
と松前社長が言う。
「シングルのタイトルは『内なる敵』のままで。でもその曲自体は次のアルバムに移動というのでもいいですけど」
「そういう例は以前KARIONでもやりましたね。アルバムの作り直しをした結果、『三角錐』というアルバムの中に三角錐という曲は入っていなくて、その曲は次のシングル『四つの鐘』に収録しました」
と加藤さんが言う。
「取り敢えずその『コーンフレークの花』を聴かせてもらえませんか?」
と社長が言う。
そこで営業部の人も再度呼んできて、既に音源制作も終わっているその曲を、暫定版PVと一緒に流した。このPVはアニメ制作会社から先週末届けられたもので、まだ曲自体との合わせ付け作業まではしていないものである。
一応まだ歌と画像の同期を取ってないことを断った上で流したのだが
「この曲、面白いですね」
という声が多い。
「これ雨宮三森先生がアレンジしてくださったんです。PVも監修して下さいました」
「おお、さすが雨宮君」
「この豚がストリップするアニメは倫理規定とかには引っかかりませんかね?」
という意見も出るが
「大丈夫でしょう」
と町添さんが言い切る。
「豚は本来裸だしね」
と松前社長も言うので、その問題は気にしないことにした。
「コーンフレークというのは商標とかにはなってない?」
という声が出るのですぐに確認した。
「アパレルメーカーの登録がありますが、食品のコーンフレークは大丈夫ですね」
「じゃ曲の題名として問題無いね」
CDのタイトルに関しては、やや議論はあったものの、最後は社長の決断で、『内なる敵』は都合により『コーンフレークの花』と改題して発売しますということにしようということが決まる。CDの番号なども新たに設定して、アルテミスやHNSなどの通販サイトでは別商品として扱うことにした。従って『内なる敵』に入った予約は全ていったん無効となる。CDショップなどでの予約の扱いは各店に任せることにするもののキャンセルには柔軟に対応してくれるよう要請することにした。
「ところで『内なる敵』は結局何枚プレスされていたの?」
と社長が訊く。
「済みません。パンフレットは150万枚分できあがっていて、CD本体は20万枚です。町添取締役が早い段階で停めてくださったので、ケースへの梱包作業は全くされておりませんでした」
と加藤課長が言う。
「ではそれ全部廃棄で」
と社長。
「プレス工場はこちらの開始指示前にプレスを始めてしまっていたのですが、その分の費用は支払っていいですよね?」
と加藤さんは確認する。
「うん。こちらが元々無理なスケジュールを言ってやってもらっていたのだから、その分は正規の料金を払ってあげて。改訂版も無理してもらわないといけないし」
「分かりました」
「社長、その廃棄費用を含む追加で必要になる費用はサマーガールズ出版で出させてください」
と私は言った。
小冊子150万枚とCD本体20万枚の廃棄はおそらく500万円くらい掛かる。その他に改訂版を急いで作ってもらうために数百万円余分な費用が掛かりそうだ。最終的には1000万円以上の無駄が発生するのでは、と私は頭の中で推算した。
しかしこれが既に包装まで終わり、CDショップなどに配送した後で回収ということになっていたら費用は1桁、いや最悪2桁大きくなっていた可能性もある。今回はプレスしたまま、まだジュエルケースへの収納もされていない状態だったから、かなり安く済む。
「うーん。じゃ折半しようか」
と社長が言う。
「はい。ご迷惑おかけしました」
と私は深く頭を下げた。
「それで新しいCDを何枚くらいプレスしましょう?」
という質問が出る。
営業部の方では5万枚くらい、あるいはあまり店頭に並ぶ品が少なくても寂しいから10万枚思い切ってプレスしてはなどという意見が出る。実際にはかなりの宣伝費を掛けているので25-30万枚くらいがペイラインである。5万とか10万では確実に大赤字となる。
町添さんは言った。
「私の首を賭けます。50万枚プレスさせてください」
すると社長は
「ではそれで」
と了承した。町添さんが首を賭けると言っては営業部も反対できなかった。
「じゃ、ケイちゃん、氷川君はすぐにマスターの作り直し作業をして。明日の朝いちばんに工場に持ち込みたい」
と社長が指示を出す。
「はい」
「うちの技術部のメンバーを動員していいから、今夜中にこのPVからCF用のデータを作ってよ。それでテレビCMを明日流す分から差し替えてもらうから」
「すぐさせます」
と言って加藤課長が飛び出して行く。
「町添は大宮さん・秋乃さんと連絡取って、★★レコードとローズ+リリーの公式サイトに掲示するお詫びの文面を作成して。仕上がったら、すぐ掲示していいから」
「分かりました」
(実際には大宮副社長も風花もすぐにこちらに飛んできた)
それで各自作業に入る。
ホームページの掲示については町添さんや大宮さんにお任せすることにして、風花には氷川さんとふたりでCDに封入するジャケット(小冊子)・裏ジャケット・サイドキャップの改訂作業をしてもらうことにした。
そちらは18時に完成し、★★レコードの複数の支店にデータを送って各支店の近くで超特急で印刷してくれる所に依頼する。1ヶ所ではとても間に合わないためであったが結局10ヶ所の印刷所で印刷されることになった。
氷川さんと風花はその後、CDレーベルの改訂も引き続きしてくれた。
一方、私は駆け付けてくれた七星さん・有咲と一緒に音源の調整をする。政子には取り敢えず寝ていてもらう!
私が今回のシングルのマスタリングする前のデータ原本が入っているハードディスクをリーフでマンションまで往復して持って来る。そして★★スタジオの一室で作業を始める。
『内なる敵』の代わりに『コーンフレークの花』を入れた上で、通して聴いた場合を前提とした他の曲も若干のミキシング調整をし、全体のボリューム合わせをして、マスターデータを仕上げる。
このプレス用のデータ作成作業は19時には完了してしまったので、それをすぐに加藤課長がプレス工場に持ち込んだ。工場ではCD本体のプレス作業を今夜から始めてくれることになった。小冊子は明日以降仕上がり始めるので出来た分をどんどんここに持ち込み、揃った分から封入作業をしてもらうことになる。地方の印刷屋さんで仕上がった小冊子は取り敢えず明日の分は新幹線や飛行機で★★レコードの社員が手で運んで持ち寄る。
加藤さんの話では発売日までに取り敢えず20万枚くらいは用意できるのではないかということであった。
音源制作が終わった後は、私と七星さんは技術部の則竹さんたちがしてくれていた、CF作りの方に合流することにした。この作業は結局3時頃まで掛かったものの、何とか朝になる前に完了して私はホッとしたのであった。このデータは朝4時に松前社長が自分で広告代理店に持ち込んで差し替えを依頼してくれた。(差し替えの話自体は昨夜の内に通している)
フルバージョンのPVは22日の日中に、有咲・七星さん・風花の3人で作ってくれることになった。
22日の早朝、私は政子を連れてクタクタの状態でマンションに帰宅した。すると居間で雨宮先生がソファーに座ってブランデーを飲んでいる。
「なんで先生ここにおられるんです?」
「終電を逃しちゃってさあ。ちょうどあんたんとこの風花ちゃん見かけたからケイのマンションの鍵貸してと言ったら貸してくれたよ」
なるほど〜!
取り敢えず政子は「眠い」と言って寝室に行った。私はソファに座って話をするが
「ここはたくさんお酒があっていいわぁ。クルボアジェX.O.久しぶりに飲んだけど、さすがに美味しい」
と雨宮先生は言っている。
「お持ち帰りして頂いていいですよ」
「そうしようかな。こういう高いブランデーは、なかなか自分では買わないし」
「ファンの方が送って下さるんですよ」
「ありがたいね〜」
「全くです。でも今回の事件はそのファンの方々の信頼を揺るがしかねない事件でした」
「まあ、あんたたちの年齢は結婚とか熱愛とか騒がれやすいから気をつけた方がいい。****とか****とか、隙あらばあんたたちを転ばそうと考えてるよ」
「そのあたりは意識してますよ」
「そうそう。風花ちゃんから聞いたけど、新譜の楽曲、組み替えることにしたんだって?」
「『内なる敵』を外して『コーンフレークの花』を入れました」
「おお、私の意見を入れたね。よしよし」
「こういうCFにしましたよ」
と言って私は完成したばかりのCFを見せる。
「おお。男心が分かってるじゃん。そうそう、この寸止めで打ち切るのが良いのよ。このCDは150万枚行くよ」
「行くといいですけどね」
と言いながらも私は眠いなと思いつつ、雨宮先生に勧められたブランデーのグラスに口を付けた。
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【夏の日の想い出・ベサメムーチョ】(2)