【夏の日の想い出・食事の順序】(上)

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2014年6月25日。今回の物語は私の知らない所で始まる。
 
隣でトラックの乗車口がバタンと閉まる音で彼女は目覚めた。
 
「何時だっけ?」
と自問自答してそのあたりに転がっているスマホを探す。なかなか見つからなかったが五線紙の間に挟まっているのを発見。時刻を見ると5時。もう太陽が昇っている。4日前が夏至だった。この時期の朝は早い。
 
「まだ眠いけど起きるか」
 
そう言って彼女は10年物の真っ赤なヴィッツを降りて、道の駅のトイレに行く。男女表示を確認して赤いマークの方に入り、個室に入って寝ている間に溜まっていた排泄物を放出する。ペーパーで拭き、服を整えて、便器から離れると自動で水が流れる。手洗いの所に行き手を出すと自動で水が出てくる。こんなの中世の人が見たら「魔法だ!」って騒ぐだろうなと思った。
 
手を洗ったついでに顔も洗い持参のタオルで拭く。少しストレッチしてから車に戻る。
 
「さて」
 
彼女はポーチの中から手鏡と毛抜きを取り出すと《顔のむだ毛》の処理を始めた。
 
タイミングが難しいんだよなと彼女は思う。この時期は早く処理しないと暑くなってからでは大変だ。基本的にアイドリングはしたくない。そもそも明るくなってしまうと、この処理を終えるまでトイレに行けないから辛い。しかし、暗すぎると《むだ毛》が見えなくて抜けないのである。ほんとに毎朝これ面倒くさい。お金を貯めてレーザー脱毛したいな、と彼女は思っていた。
 

その日私は午前中アルバムの楽曲のアレンジについて風花と打ち合わせした後、午後からは鈴鹿美里の音源製作をしているスタジオに行き、完成間近の音源を聞かせてもらい、細かい調整点を彼女たち、および★★レコードの鷲尾さんと話し合った。
 
その作業が終わった後、美空から新居で買ったオーディオの配線が良く分からないから見てと言われていたので、念のためオーディオケーブルを数本持参して、車で彼女の家まで行く。それを接続してあげて、少々おしゃべりしていたところで政子からお腹空いたという電話が入る。すると美空も「一緒に行っていい?」
などと言うので、覚悟を決めて! 美空をカローラフィールダーの後部座席に乗せ、私は新宿区の自宅マンションへの道を走った。なお、この車の助手席は基本的には政子専用である。
 
(この時期はまだ恵比寿のマンションへの引越前)
 
6月下旬は日が長い。もう6時過ぎというのに、まだ明るい。日没は多分7時くらいだったかなと思いつつ、美空とおしゃべりしながら走っている内に渋滞に引っかかる。まあこの時間は仕方無いよなと開き直り、流れに任せる。
 
そしてその渋滞をやっと抜けて、少し郊外っぽい所を走っていた時であった。
 
私は真っ赤なヴィッツが独立型の店舗外ATMブースの前に停まっていて、シャッターの降りたブースの外側にやはり真っ赤なカットソーとスカートを穿いた女性が外向きに立っているのに目を留めた。
 
私はなぜそのそばに車を寄せたのか、自分でもよく分からない。
 
「何かお困りですか?」
と私は車を停め窓を開けて、彼女に声を掛けた。
 

すると彼女は凄く嬉しそうな顔をして寄ってくる。
 
「ごめんなさい。もし良かったら携帯を貸してくれるか、公衆電話のある所まで連れて行って小銭を恵んでくれないかしら?」
と彼女は言ったのだが、私も美空も『おっ』と思う。
 
彼女は見た感じ30歳前後で、髪も長くセンスの良いお化粧をしているが、その声が男の声だったのである。
 
ニューハーフさんかな?と思いつつも私は平然として
 
「何があったんですか?」
と尋ねた。それで彼女はこのような説明をした。
 
夕方になって、お金を下ろしておかなきゃと思ってコンビニか何か無いかなと思っていた所でちょうどここのATMを見つけた。時間がもう19時近くで焦っていたので、どこでもいいやと思い、ここに入る。それでホントにぎりぎりでお金を下ろすことができて、彼女がお金を下ろし終わった所でATMは営業終了の表示に切り替わったという。
 
それでホッとして降ろしたお金をバッグに入れ、出ようとした所でスマホを落としてしまった。それが滑っていきATMの機械の下に行ってしまう。
 
うっそーと思い、近くにあったパンフレットなどを使って、何とか機械の下からスマホを取り出した。それでホッとして、それを持ちATMブースの外に出たら、彼女が出るのと同時にシャッターが降りた。
 
そしてその瞬間、自分のバッグをブースの中に忘れてきたことに気付いたのであった。
 
「それで取り敢えずスマホでここのATMの管理をしている銀行の電話番号を調べたのよね。ところがそれ調べて番号をメモした所で、バッテリーが切れちゃったのよ。バッグの中に免許証も車のキーも入っているから、どうにも身動きできなくて」
と彼女。
 
「スペアキーはお持ちじゃなかったんですか?」
と美空が訊く。
 
「財布の中なのよね〜」
「で、その財布もバッグの中ですか」
「このスカート、ポケットが無いものだから。ポケットのあるスカートだったら、そこに車のキーは入れるんだけど」
「ああ。確かに女物の服ってしばしば機能性を無視してますから」
 
「どっちみち財布が無いと、公衆電話のある所まで行けても電話が掛けられない」
「確かに」
 
ということで私は彼女に自分の携帯を貸して、それで彼女は管理している銀行に電話をするが、営業時間外ということでつながらない。それで美空が自分のスマホを使って検索し、時間外の問合せ先を調べてくれたので、そこに掛け直す。それでやっと連絡が付き、こちらに警備会社の人が来てくれることになった。
 
「来るまできっと時間が掛かりますよ。私の車の中で少し休まれませんか?」
と言って車内に入れる。
 
「すみませーん」
と言って彼女は後部座席に乗り込む。美空を助手席に移動させた。
 
「無糖のコーヒーでも良かったら」
と言って車内に常備している缶コーヒーを勧める。
 
「ありがとう。私も無糖しか飲まないの」
と言って彼女はそのコーヒーを飲んだ。疲れていたのだろう。ほとんど一気飲みであった。
 

美空が彼女に興味津々という感じである。
 
「何をなさっている方ですか?」
「あ、お仕事?一種の自由業みたいなものかな」
「へー。ライターさんみたいな?」
「ああ。物を書く仕事ではあるわね。あまり儲かってないけど」
「今日はお仕事でこちらに?」
「うん。私はだいたい車の中で書くのよ。それが集中できるから」
 
「ああ、そういう人結構いますね。自宅の机では気が散るってんで、しばしば狭い所に入るといいという人が多いみたい。お湯を入れてない湯船の中で書くとか、押し入れの中で書くとか、トイレで書く人も多いよね」
と美空は私の方を見ながら言う。
 
「うん。トイレって結構発想するんだよね。私もかなり車の中で書いてる」
と私は答える。
 
「あれ?あなたたち、どこかで見たことあると思ったら、KARIONの美空ちゃんと蘭子ちゃんだ」
と彼女は言った。
 
「蘭子という名前が出てくるなんて、まさか同じ業界の人だったりして?」
と美空。
 
「いや、その隅っこの方ですよ。KARIONやローズ+リリーとは比較にもなりません」
と彼女はほんとに恐縮しているような言い方である。
 
「じゃ、もしかして作曲なさるんですか?」
「うん。実は今月中に3曲書かないといけないのよね」
「今月ってあと5日と4時間半くらいしかないですね」
「調子が出ると一気に1日で1曲仕上げられるんだけど、詰まるとなかなか進まないのよね」
 
「それ分かります」
と私は答えた。
 

そんなことをしている内に、警備会社の人が2人到着した。
 
シャッターを開けてもらう。中に女物のバッグがあるが、当然本人確認が必要である。
 
「中を確認させて頂きます」
と言って警備員の年上っぽい人が言い、バッグの中から運転免許証を見つけて取り出す。
 
「お名前と生年月日をよろしいですか?」
と警備員さん。
 
「えっと」
と言って彼女は一瞬躊躇う。男名前を言うのが恥ずかしいのだろう。
 
「杏堂真一(あんどうしんいち)、1984年7月3日生です」
 
女性の格好をした人が男名前を言っても警備員さんは変な顔はしない。このあたりはさすがプロである。
 
「干支は何年生まれですか?」
「ネズミ年です」
「財布の中にはおよそ幾らくらい入っていますか?」
「さっき降ろした5000円と、後は小銭が多分500-600円くらい」
 
それで警備員さんはバッグを渡してくれた。バッグの中のキーで彼女がヴィッツのロックを解除すると、警備員さんは頷いていた。一応書類にサインをくださいと言って渡されたものに、杏堂さんはサインしていた。
 
そして警備員さんたちはシャッターを再度閉めて帰って行った。
 
しかし私たちは大きな驚きを胸に抱いていた。
 

「あのぉ、杏堂真一さんって、まさかトライアル&エラーの?」
「うん」
 
「全然気付かなかった!」
と私と美空は同時に声をあげた。
 
「そ、そうね。この格好だとあまり気付かれないかな」
と彼女は頭を掻きながら苦笑いしている。
 
「音楽業界の隅っこどころか、ど真ん中じゃないですか!」
「でもトライアル&エラーはいちばん売れたCDでも8万枚だしさ。2年くらい前から事実上休業状態で、昨年末に事務所とも契約解除になったのよ」
「そうだったんですか」
 
「あれ、だったら、もしかして萌枝茜音って、杏堂さんですか?」
と私は訊いた。
 
「あら、その名前も知ってるの?」
「今、鈴鹿美里の音源製作に関わっているんですよ」
「あららら」
 

美空がぜひ色々お話したいです、ということで杏堂さんを夕食にお招きすることにする。杏堂さんの車のカーナビに私のマンションを設定して、ほぼ前後する形で走ってマンションまで行く。杏堂さんの車はマンションの来客用駐車場に駐めてもらう。
 
「下ごしらえするのに少し時間かかりますから、よかったら先にお風呂にでも」
と言ったら
 
「実は一週間くらい入ってなかった。ずっと車の中で曲を書いていたんだよ。助かる」
と言って着替えを持ってお風呂場に行く。
 
「シャンプー・リンスは好きなだけ使って下さい。バスタオルはたくさん重ねて置いてるのを自由に使ってください」
「サンキュー」
 

その日は政子と美空の希望で、しゃぶしゃぶにする。グラム150円のオージービーフの薄切りを取り敢えず2kg解凍したが、こんなので足りる訳がないのは当然で、5kgか6kg解凍するハメにはなるだろうなという覚悟である。
 
私はお肉を解凍しながら、付け合わせの野菜を切り、レンジでチンして食べやすくする。美空が皿と箸を準備してくれたが、政子は動く気配は無い。
 
しゃぶしゃぶの鍋に水を入れてテーブルの上のIHヒーターで煮る。ごまだれを作ってポットに入れそれもテーブルに置く。
 
やがて杏堂さんがお風呂から上がってきた。お化粧は落としているが、青いカットソーと黒いプリーツスカートの組合せである。髪も洗ったようで、まとめてヘアゴムで留めている。
 
「普通に女の人に見えます」
と政子が言う。
 
「ありがとう。私、大抵の所ではパスする自信あるし、プールなんかも女子更衣室使うけど、声だけがダメなのよね。練習はしてるんだけど、なかなかうまく女声が出せないのよ。だから女子トイレでも女子更衣室でも絶対に声を出さないように気をつけてるの」
と杏堂さん。
 
テーブルは私−政子−杏堂さん−美空と囲み、お肉の皿は私と政子の間に1つ、杏堂さんと美空の間に1つ置く。むろん次のお肉は解凍中である。いただきますを言って食べ始める。
 
「安いお肉で済みません」
「いえいえ。私実は霜降りより、赤身の方が好き」
 
「私も割とそうですよ。でも声は苦労する人多いですよね」
と私も言う。
 
「うんうん。上手に女声出せるケイちゃんとか花村唯香ちゃんとかが羨ましいくらいだよ」
 
「元々そういう傾向あったんですか?」
「うん。でも隠してたから、中学や高校の同級生でも私の性向知ってる人は少なかった。おかげで同じ部活の後輩の女子が私を好きになっちゃって告白されて、傷つけないように断るのに苦労したことあるよ」
 
「ああ、それは冬も似たような経験あったよね?」
と政子。
「うん。まあね」
と私。
「あれ?冬って中学や高校は女子制服で通学してたんじゃなかったの?」
と美空。
 
「いや、そう誤解している人はいるけど、私は学生服で通学してるよ」
と私。
 
「と、本人は主張してるけど、学生服を着た冬の写真って1枚も存在しないんだよなあ。中高生の頃の冬の写真って、女子制服を着ているか、そうでなくても女の子の服を着てる」
と政子。
 
「やはりそれは嘘としか思えん」
 
「こないだの松原珠妃ちゃんのCD見たけど、あれ、小学生の時のケイちゃんなんでしょ? ビキニ姿でおっぱいもあったし」
と杏堂さん。
 
「だから当時から普通に女の子として生活していたとしか思えませんよねー」
と政子は言っている。
 
「でも高校時代、私が学校で学生服を着てたのをマリは見てるじゃん」
と私は言うが
 
「きっとそれは私の記憶間違いだ」
と政子。
 
「そんな無茶な」
 

「でもトライアル&エラー、私結構好きだったのに、解散しちゃったんですね」
と政子。
 
「解散という宣言はしてないけど、事務所との契約解除で事実上の解散だよね」
と杏堂さん。
 
「あれは元々あったバンドなんですか?それとも事務所かレコード会社で企画したものなんですか?」
 
「私以外の3人は元々組んでたのよ」
「へー!」
 
「四島(しじま)・香田(こうだ)・作音(さくね)・伍代(ごだい)の4人の名前から《試行錯誤》というバンドを組んでいたんだけど、スカウトされて、メジャーデビューする段階で、香田という人が脱落したのよね。事実上解雇に近かったみたいだけど。遅刻が多くて」
 
という言葉にギクッとする子が若干2名いる。
 
「だから四島光平で《しこう》という後付けで。あと元々のバンドはギター・ベース・ドラムスだったんだけど、キーボードの音が欲しいということで私が別途スカウトされて加わったのよね。その時、私の名前を《アンド》ということにして《トライアル&エラー》という名前が作られたのよ」
「なるほど」
 
「最初からあった名前を使うと権利関係が面倒だから事務所主導で新しい名前を作ったというのもあったみたい」
「ああ、そのあたりって良く揉めますしね」
 
「楽曲はだいたい《作詞作曲:トライアル&エラー》になってましたけど、杏堂さんが作ってたんですか?」
 
「9割はリーダーの四島君の作品だよ。残りの1割が他の3人の作品だけど、それはほとんど売れてない。ヒットしたのはたいてい四島君の作品。クレジットをそうしたのは印税を山分けするため。実際には四島君がリーダーはいろいろお金が掛かるしということで4割取って、他の3人は2割ずつ」
 
「なるほど。杏堂さんが作った作品で売れたのってあります?」
 
「うーん。いちばん売れたのは『Girls on Clocks』かな」
「あ、それ好き!」
と美空と政子が同時に言った。
 

おしゃべりしている間にも肉はどんどん無くなり、私は冷凍しているお肉をどんどん解凍する。既にお肉は4kg消費されている。杏堂さんは
 
「噂には聞いてたけど、マリちゃんも美空ちゃん凄い」
などと言っていた。
 
「杏堂さん、おっぱいはあるんですか?」
 
かなりおしゃべりが進んだ時、政子が随分訊きたそうにしてたことをとうとう訊いた。
 
「ちょっとだけね」
「おちんちんは?」
「まだある」
「たまたまは?」
「まだある」
 
「じゃ、身体には手は入れてないんですか?」
「女性ホルモンは実は10年くらい前から飲んでる」
「へー!」
 
「じゃトライアル&エラーをしてた頃も、既に女性化始めてたんですか?」
「うん。でも女装での外出禁止で、お店とかで女物の服を買うのも禁止って事務所から言われてた」
 
「じゃ女物の服は通販で?」
「そうそう。だから今年になってからなのよ。お店で堂々と女物買うようになったのは」
 
「最初どきどきしませんでした?」
「怖かった。レディスコーナーに近寄る勇気が出なくて、何度も近づいては離れ、近づいては離れ。別に悪い事してるんじゃないんだから、と自分に言い聞かせても、なんか怖いんだよ」
 
「うろうろしてたら、まるで痴漢みたい」
「そう! 何度もやってると、それが変に思われないだろうかって、それがまた不安になるのよね。人が多い時は怖くて近寄れないから平日の午前中に何度もトライして、少しずつ慣れてきた」
と杏堂さんは言う。
 
それで私が
「私も最初はなかなか近寄れなかったです」
と言ったら
 
「それは嘘だ」
と政子にも美空にも言われてしまった。
 

締めきりの迫っている作曲案件があるということだったので、狭い所が落ち着くなら、うちの防音室(エレクトーンやクラビノーバを入れている防音ユニット)はどうですか?キーボードも使っていいですよ、と言ったら、やってみると言って中に入り、五線紙に書いては悩み書いては悩みしているようであった。彼女も直接打ち込むのではなく、紙に書いて創作するタイプのようである。
 
「みーちゃん、今日はどうする?おうちに帰る?ここで寝る?」
「泊まって、まぁりんと色々情報交換しようかな」
「おお、わが盟友よ」
「まあ、いいけどね」
 
ということで美空は泊まることになる。2人が寝室に入るのを見送って、私は居間でパソコンを開き、アルバムに入れる曲目のスコアの調整作業を続けた。
 

夜2時頃になって、防音室から杏堂さんが出て来て、
 
「済みません。眠くなったので毛布か何か恵んでもらえます?」
と言う。
 
「あ、寝室で寝て下さい」
と言って、客用寝室に案内した。布団を敷いて、洗濯済みのシーツを掛ける。
 
「今の時期はタオルケットで充分とは思いますが、寒かったら遠慮無く押し入れから布団出して着てください」
 
「ありがとう。大丈夫とは思うけどね」
 
「でも今どちらのお仕事なさってるんですか? あ、訊いちゃいけなかったかな?」
 
「あぁ。ケイちゃんなら話してもいいかな。鈴鹿美里2つ、チェリーツイン、小野寺イルザ、山村星歌、FireFly20、各1本ずつ。今月はこの6本だけど、まだ3本しか仕上がってなくて。今4本目を書いている所」
 
「ああ。こういうのどうしても書ける速度に波が出ますからね。でもあちこちの事務所のアーティストですね」
「うん。★★レコードから依頼をもらっているから」
 
「ああ。じゃあ私が受注してるのと似たような形か」
 

「でもケイさんもほんとに忙しいみたいですね。4月の記者会見、あれ私は意味がよく分からなかったんだけど、結局、ローズクォーツは辞めるってことですかね?」
 
「あまり人には言って欲しくないんですけど、実質そういうことです」
「いや、私は漠然と『へー、ケイちゃんまだ頑張るのか』と思ったんですけどね、先日、伊賀海都さん(富士宮ノエルの作曲家)と会った時に、『あれって辞めるということ?』と訊かれて」
「あはは」
 
「伊賀さんの言うにはね、4月1日という日付でわざわざ『辞めません』と言ったというのは、つまり『辞めません』というのが嘘で、本当は辞めるということなのでは、と」
「明察ですね」
「それでふたりで録画されていた記者会見を再度見ると、確かに伊賀さんの言うのが当たっている気がして」
 
「うちの副社長のアイデアなんですよ。私は実質離れますが、名前だけは在籍していることにしておきます」
「なるほどねー」
 

「そうだ。ローズ+リリーの次のアルバムはいつ出すんですか?」
「8月末にリリースする予定です。でも6月中旬までツアーやってたから、実質制作の時間が1ヶ月しか無いんですよね。今、最終的な楽曲のラインナップを確定させようとしている段階で」
 
「ああ、去年みたいに半年掛けて制作って訳にはいかないんですね」
「そうなんですよ。昨年はライブほとんどやってなかったから、ああいうことができたんですけどね。活動再開しちゃったから、もうあのクォリティのアルバムを制作するのは無理かなと思っているんですよ」
 
「それはちょっと残念だな」
と茜音さんは言う。その言葉が自分の心に突き刺さる気がした。その問題は実は自分でもずっと心が咎めていたのだが、やむを得ないと割り切るつもりでいた。
 
「しかも今年の夏、まだ発表してないのですが、全国アリーナツアーをやらないかという話もあっていてですね。それをやると、ほんとに制作の時間がないので勘弁してくれというので今交渉中なんですよ」
 
「あ、私もローズ+リリーは夏のツアーはしないんだろうか?発表が無いけどと思っていた」
「レコード会社にも事務所にも問合せが凄いんですけどね」
 
「そうだ」
「はい?」
「まだアルバムのラインナップ確定していないんだったら、もし良かったら、ローズ+リリーさんに私の曲を1本歌ってもらえません?」
 
「それは大歓迎です! ただ実際に使うかどうかはその曲を見てから考えさせて下さい」
 
「うんうん。それは当然。実は去年の夏に書いた作品で、誰か女性デュオに歌って欲しいなと思っていた曲があるんですよ」
 
「チェリーツインや鈴鹿美里じゃなくていいんですか?」
「どうせなら、もっと上手いデュオがいいなと思って」
「あははは」
「それに鈴鹿美里に歌わせるには若すぎるんですよ」
 
「なるほど。譜面ありますか?」
「月明けたらそちらに送りますよ」
「はい。ではそれを見てから、加藤さんと相談の上でということでいいですか?」
「うんうん」
 
杏堂さんは7月3日になってからこちらにMIDIデータをメールしてきた。3日になったのは多分30日の24時ぎりぎりまで作曲作業をしていて、クタクタに疲れていたからだろう。
 
曲は『カオル』というタイトルで、カオルという女性への愛を歌う曲であった。本来男性歌手が歌うべき曲かとも思ったのだが、女性が歌うと、自分自身に対する叱責や励ましを歌った歌に聞こえる。
 
この件は★★レコードの加藤さんが了承してくれたらOKということにした。それで今回のアルバムには、杏堂さんこと、萌枝茜音から1曲頂くことになったのであった。
 

東堂千一夜先生と会ったのは、4月の《若山冬鶴》のお披露目の直後であった。音楽業界関係の招待者リストは、★★レコードの氷川さんが町添部長に確認しながら作ってくれたのだが、その中に東堂千一夜の名前があった。
 
○○プロの丸花社長と同い年1943年生まれで70歳を過ぎているが、まだ60前後に見える。師にあたる故・鍋島康平先生(1926-2009)も若かったが、この先生も若い。かえってお弟子さんに当たる木ノ下大吉先生(1957生)の方が老けて見えていて、並んでおられる所に取材に行って師弟関係を間違った新人記者が居たという話もある。
 
お披露目パーティーの当日は政子は美空・穂花(シレーナ・ソニカ)と3人で、ひたすら食べ歩いていた。私はひたすら挨拶回りをしていた。それで最初は★★レコードの町添部長と話をしていて、その町添さんに挨拶に来た、私の恋人・正望が東堂千一夜先生に捕まってしまい、約3時間のパーティーの内の1時間半くらい、正望は先生と話していたようである。何話してたの?と後から訊いたら、最近の若手作曲家の論評だったようである。先生がひたすらしゃべるのをひたすら聞いて相槌を打ったり短いコメントをしたりしていたらしいが、先生がホントに最近のクリエイターたちをよくよくフォローしているので驚いたと正望は言っていた。
 
それで、先生は結局、私とも政子ともお話ができなかったので、明日空いてるから、ちょっと来ない?などと言われ、東堂先生から言われて行かない訳にはいかないので、私と政子、★★レコードの氷川さんの3人で翌日訪問することにしたのである。
 
私の友人・若葉のお見舞いに行った日の午後である。その若葉のお見舞いには若葉の元同級生である和泉も来ていたのだが、この後、東堂先生の所に行くと言うと和泉も会いたいと言った。和泉ちゃんなら大丈夫でしょうと氷川さんも言うので結局、私・政子・和泉・氷川さんと4人での訪問になった。
 

「おお、マリ&ケイ、森之和泉+水沢歌月を同時に見られるとは」
と東堂先生は最初からご機嫌だった。
 
私たちの作品をいくつか取り上げて、そのコード進行や曲の構成などについて率直な感想を言われる。先生がそこまでよく楽曲の中身を把握していることに私たちは驚いた。
 
先生のお宅を訪問したのは14時くらいだったのだが、まずは4時間ほど『花園の君』
『女神の丘』『アメノウズメ』『歌う花たち』に関する先生の《講義》が続く。先生のお話の中には海外の最近のアーティストの名前がポンポン出てくるので、氷川さんがマジで感心していた。
 
「ケイちゃんの曲には、アヴリル・ラヴィーンとかテイラー・スウィフトとかの影響を感じる」
「ええ。どちらも好きです」
「ケルティック・ウーマン聴いてるでしょ?」
「アルバムは全部持ってます」
 
「去年グランドオーケストラもやってたけど、自分で編曲してる曲はポール・モーリアっぽいのがかなりあるよね」
「ポール・モーリアのLP/CDは多分8割くらい持ってると思います」
 
「時々和風の曲もあるけど、民謡の基礎があるんだろうけど、椎名林檎とかGO!GO!7188とかの影響を感じる」
「椎名林檎さん、尊敬してます」
 
「先生、年齢詐称してません?実は28歳くらいってことないですか?」
などと政子が言うと
「うん。僕は永遠の28歳だから」
などと応じられる。
 
先生は何とAKB48とももクロとスパガのファンクラブにも入っていて、ライブにも何度か行ったらしい。これにはみんな驚いていた。先生の作品の「若さ」の秘密を知ったような気がした。
 

夕食が出て来て話は続く。
 
夕食の後は、私たちの作品を離れて最近の若手作曲家、シンガーソングライターの論評に入る。これは長引きそうだと思ったが、果たして話は淀みなく続く。夜10時くらいにケンタッキーが出てくる。政子の胃袋をご存じだったようで、5人で話しているのにチキンは20ピース、ビスケット8個が並べられるがむろんきれいに無くなる。
 
夜2時くらいになって、お孫さんがドライカレーを作って持って来てくれたので、それを頂く。「お代わりありますから」と言ったら、政子は3回お代わりしていた。
 
「お孫さんは普通の会社勤めですか?」
「そうそう。この子は製紙関係の会社に勤めてる。子供にも孫にもひとりも音楽関係の仕事に就いたのは居なくてね」
 
「私、レコード会社の人からアイドル歌手になりません?って高校の頃誘われたんですけど、私、すっごい音痴だから」
などと本人は言っていた。
 
深夜になると、話はベテラン作曲家たちの論評になる。これには私も和泉も氷川さんもかなり言葉を選んで応じる。うかつな事は言えない。政子は気軽に色々言うので、かなりヒヤヒヤしていたが、その反応を先生は心地良く感じていたようであった。
 
やがて朝5時くらいになって、奥さんが「冷凍食品で申し訳ないですけど」
と言ってピザを焼いて持って来てくれる。最初3枚焼いてきてくださったのだが、あっという間に無くなったので、追加で更にピザ3枚に、やはり冷凍のチキンボーンも2kgほど揚げて持って来てくださった。
 

夜が明けてからは、DAWの話になる。先生はCubaseをかなり使いこなしておられるようであったが、その日はabletonLiveの話をかなりした。ああいう道具を使ってのライブ・パフォーマンスにかなり興味がおありのようで、
 
「一度自分でライブしてみたいんだけどね。ステージで倒れられたら困るから」
と言われて、松前君(★★レコード社長)からも吉田君(%%レコード社長)からも止められてるんだよ」
 
などとおっしゃる。
 
「DAW使ったライブはKARIONでは結構やったね」
と和泉が言う。
 
「うん。私がどうしても他のユニットとの兼ね合いでKARIONライブに出られなかった時、私の演奏パートをDAWから流したんですよね。元々生演奏を収録したものだから、よほど耳のいい人が聴かない限りは生演奏に聞こえるし、専門のサウンド技術者に操作してもらったので、他のパートの演奏者は普通に演奏できて、それにDAW側は高精度に同期してくれたんですよ」
と私も言う。
 
「いつだったかはSHINさんが出だしをミスった時に、技術者さんが瞬間的に反応してタイミングを合わせたんだよね」
と和泉。
 
「それ、後から聞いてすごっと思った」
と私。
 
「ああ、そういう現場に居たかった!」
と先生はおっしゃる。
 
「私の代わりにピアノとかヴァイオリンを演奏してくれる代替演奏者を確保したことも多いですが、3割くらいはDAWで代替してるんですよね」
「多くの曲を代替演奏者に弾かせて、難しい曲だけDAW使うというパターンも多かったね」
「ただ、ああいうライブはそれなりにハイレベルの技術者さんが付いてないとなかなか難しいでしょうね」
 
「普通はDAWに生演奏者が合わせるというライブが多いよね」
「最近のライブは多分半分くらいがそれですよ」
「でもそれやると、生演奏で起きがちなハプニング的なおもしろみ、セッションの掛け合い的なおもしろみってのが無いよね」
 
「でもDAW操作している側もハイレベルなら、生演奏者との本当の意味でのセッションができるんです」
「それが本当にDAWが《楽器》に進化した時だろうね」
 
「僕も体力付けて、そういうのに参戦したいなあ」
と先生は意欲満々であった。
 

8時くらいになって、玄米御飯にシャケの切り身、ワカメの味噌汁などという日本的な朝御飯が出てくる。先生の話が終わる気配は無い。
 
唐突に男の娘の話になる。
 
「最近は、どう見てもふつうの女の子と区別の付かない男の娘が増えてる」
などと先生はおっしゃる。
 
「裸にしてみないと分からない人が居ますよねー」と和泉。
「裸にしてみても分からない人も増えてるよねー」と政子。
 
「上島君なんかは、そういう子の摘まみ食いまでしてるみたいだけど、セックスしても普通の女の子と変わらんなどと言ってたな」
と先生。
 
「Post-op(性転換手術済)の人なら実際普通の女性とほとんど変わらないとは思いますが、Pre-op(未手術)なのに、あまり女性経験の無い男性が相手なら、普通の女性とセックスしているように相手を思い込ませてしまう上手な人ってのが居るんですよね」
と私はコメントする。
 
「そういう子とやってみたい気もするけど、浮気したらうちのが慰謝料1兆円と言ってるから」
と東堂先生。
 
「先生現役ですか?」
と政子が訊く。
 
「現役、現役。女房とも週に1度はしてるよ」
「仲が良くていいですねー」
「女房が今夜はきついと言った日はTENGA使ってるから」
と先生が言うと
「あれ私1個買って中身分析してみました」
などと政子が言う。
 
それでにわかにTENGAの各タイプの評価なんて話になり、私や和泉はちょっと距離を置いて先生と政子の会話を聞いていた。
 

11時くらいになって、ラーメンが出てくる。
 
「あ、これマルちゃんの生麺・味噌味ですね」
と政子は食べただけでブランドを指摘する。
 
「うん。僕も色々食べてみたけど、結果的にはこのシリーズがいちばん美味い気がしてね。安いしさ。醤油味も好きだよ」
「私もこれ結構好きですよー」
 
「チャーシューはお手製ですか?」
と政子が奥さんに訊く。
 
「うんうん。孫が朝から作ってくれた」
「美味しいですー」
 
「そうだ!君たちに曲を書いてあげよう」
と唐突に東堂先生は言った。
 
それで先生はピアノを弾きながら15分くらいで、とても美しい曲を1曲書いてしまった。『アラベスクEG』と書かれている。
 
「これはKARION向きだなあ」
「きれいな曲ですね」
 
「先生。まさかアラベスクってラーメン丼の唐草模様から来ていて、EGってミソで味噌味だとか・・・」
「良く分かったね」
 
「制作現場に居た人以外には分からないでしょうね」
と氷川さんも笑っている。
 
「歌詞は誰か若い子に書かせよう。編曲はそちらでして」
「はい」
 
「なんかもう1曲行けそうだ」
と言って先生が書いてくださったのが後で話題になる『苗場行進曲』である。
 
その曲が完成した後で
「これ実際に苗場フェスティバルに出たことのある人たちの声を入れよう」
と言って、様々なアーティストに直接先生が電話して、楽曲への声の参加許諾を取ってしまった。
 
「ところで今年、ローズ+リリーは苗場に出るよね?」
「出場依頼を頂きました。昨年まではマリの公演回数に契約上制限があったので、お断りしていたのですが、その制限が無くなったので今年は出ます」
「よし」
 
この曲にはその場で先生が歌詞を書くが、途中、私や政子・和泉に色々意見を言わせて、それをまた歌詞に反映させておられた。
 
「まだ少し調整したいけど」とはおっしゃっていたが、仮の歌詞ができた段階で私と政子にその場で歌わせ、その録音を氷川さんに渡して、
 
「さっき電話した人たちにこれ聞かせて、思い思いのメッセージを入れさせてよ。但し場所がダブらないように管理して」
と言った。
 
「了解です。今日の午後から何人かで手分けしてすぐにやります」
と氷川さんは言っていた。
 
「ローズ+リリーのアルバムの発売はいつになるの?」
「えっと、8月末くらいになるのではないかと思います」
「だったら苗場に間に合わないじゃん」
「そ、そうですね」
「だったら、それシングルに入れてよ。次のシングル出す予定は?」
「7月16日の予定です」
と氷川さんが答える。
「苗場の直前か。だったら、それ先行公開できない?」
「それは問題無いと思います」
「よし。じゃ、それで。君たちのアルバムにはあらためてもう1曲書いてあげるよ」
「ありがとうございます」
 

そういう訳で、私たちは13時頃にやっと解放された。23時間ほど、先生はしゃべり続けたのである(途中、作曲をしている間と電話を掛けていた時間だけ、おしゃべりが停まった)。
 
さすがに私たちはみんなくたくたに疲れたのでその日は帰ってそのままベッドに倒れ込んだ。しかし氷川さんは会社に戻って『苗場行進曲』に入れる様々なアーティストのメッセージの録音の件を加藤課長にお願いしてから休んだらしので、本当にお疲れ様である。
 
「東堂先生のお宅に車で行ってはならない、という話があったんだけど意味が分かった」
「ああ。あの耐久対談の後で運転は無理だよね」
 
なお『苗場行進曲』の各アーティストの声は「場所がだぶってはならない」というひじょうに大変な制約があるので、私も政子も寝てるしということで加藤さんは結局、七星さんを呼び出して各アーティストへの割り当て場所を確定し、それで依頼を掛けたようであった。
 

その『苗場行進曲』を含むローズ+リリーの19枚目のシングル『Heart of Orpheus』
は7月16日に発売された。私と政子は当日、大宮副社長・氷川さん・加藤課長と5人で新曲発表記者会見に臨んだ。
 
冒頭私は特に発言を求めて言った。
 
「楽しみにしてくださっていたファンの方には大変申し訳ないのですが8月末に発売予定にしておりましたローズ+リリー2枚目のオリジナル・アルバムとなります『雪月花』の発売を12月に延期することになりました。また、ローズ+リリーの夏のライブも8月末に横浜で1公演実施するのみとさせて頂きます」
 
ローズ+リリーの「夏のツアー」に関して、ひじょうに多数の問合せをもらっていたのだが、事務所サイドでもレコード会社からも「検討中」ということだけで具体的な発表が無かったのだが、この会見で明確に今年は実質夏のツアーを行わないことを明言した。
 
「それはもしかしてアルバム制作に専念なさるということでしょうか?」
と質問が出る。
 
「そうです。やはり昨年出した『Flower Garden』がひじょうに高い評価をしてもらいましたので、次のアルバムの品質が悪かったら、なーんだと言われてしまいます。ですから昨年のアルバムに負けないようなものを作ろうということで制作期間を延長することにしました」
 
「8月発売予定でしたから、既にかなり制作は進行していたのでは?」
「既に音源製作が完了している楽曲もあります。ただ私たちは6月までツアーをやっていて、そのツアー後半の平日に、今日発売のシングルの制作を進めていたので、実質的にアルバムの制作は7月になってから始めました。それでやはり良いものを作るには昨年同様、数ヶ月間、他のお仕事は休ませて頂いてアルバム制作に専念しないと無理という判断をしました」
 
「昨年、ケイさんは『Flower Garden』を出した時には、もうこんな品質のアルバムは来年からは作れないとおっしゃいましたね?」
 
「そうです。でも欲が出ました」
と私が言うと、記者席には笑い声があがる。
 
「夏のツアーもぜひともやりたかったのですが、やはりツアーをやりながら、アルバムの制作もとなると、どちらも中途半端になりかねないので、アルバム制作に専念させて頂いた上で、そのあとツアーをやるつもりです」
 
「では年末あるいは年始頃にツアーをなさいますか?」
「全国20箇所程度のツアーを現在考えています」
 
その後多少の質疑の後、やっと本題の今日発売のシングルの話になる。
 

「この『Heart of Orpheus』のPVの意味が良く分からないという声があったのですが」
と質問が出る。
 
「これはオッフェンバックの『地獄のオルフェ』という物語がベースになっています。日本では『天国と地獄』というタイトルで馴染んでおられる方も多いかと思いますが。運動会の音楽として名高いですね」
と言うと、頷く記者が多い。
 
「これ自体がギリシャ神話のオルフェウスの物語のパロディなんです。元々のオルフェウスの物語では、オルフェウスが最愛の妻・エウリュディケーが亡くなり悲しんで、妻を蘇らそうと地獄まで出かけて行きます。地獄の王ハーデスは、オルフェウスの弾く竪琴の音に心を動かされ、妻を連れ帰ることを認めます。ただ条件があって、地上に戻るまで決して振り向いてはならないというのです」
 
この物語は有名なので、記者さんたちもみな知っているようである。
 
「ところがオルフェが先に歩き、その後をエウリュディケーが歩くという形で地上への道を歩いていると、オルフェは本当に妻が後ろから付いてきてくれているのか疑心暗鬼になってしまいます。やがて足跡も聞こえなくなってしまい、とうとう不安に勝てなくなってしまって、後ろを振り向いてしまう。その途端、エウリュディケーは再び地獄に連れ戻されてしまう」
 
いわゆる「見るな」の物語のひとつの形式である。
 
「オッフェンバックの『地獄のオルフェ』の場合は、オルフェウスとエウリュディケーの仲は冷え切っていて、各々愛人がいるんです。それでエウリュディケーが死んでしまうとオルフェはこれで愛人と楽しくやれると大喜び、一方のエウリュディケーも実は彼女の愛人は地獄の王プルートーだったので、彼氏の所に行けて大喜び」
 
この話は知らない記者さんも多いようで「へー」という感じでみんな聞いている。
 
「ところがオルフェの周辺の人たちが、奥さんを亡くして気の毒にとか散々同情してくれて、奥さんを返してくれるよう神様にお願いしようなどと言い出す。それでオルフェは全然気が進まなかったものの、神様にお願いしたら地獄まで行って地獄の王と交渉してもいいという許可が出てしまいます。一方のエウリュディケーは地獄の王とある程度遊んだら飽きてしまって、別の男が欲しくなってしまう。ちょうどそこに神々の王ジュピターが彼女に目を付けてこっそり彼女の部屋に侵入していちゃいちゃする。ふたりは意気投合する」
 
「そこにオルフェがやってきて、地獄の王と交渉し、オルフェは妻を連れ帰る許可をもらってしまう。で、ギリシャ神話の物語と同様に、オルフェが先を歩き、その後ろをエウリュディケーが歩いて地上への道を進む。振り返ったらいけないという条件付きです。それでエウリュディケーとしては夫が自分のことを好きであればきっと不安になって振り向いてしまうだろうと期待するのですが、オルフェは妻のことなどどうでもいいので足音が聞こえなくなっても全然気にしない。やがてもう地上が近づいてくる」
 
「そこでこれはやばいと思ったジュピターが雷を落とす。するとオルフェはその雷鳴に驚いて振り返り、エウリュディケーはジュピターによって天に召されて、オルフェにとっても、エウリュディケーとジュピターにとっても都合の良い結末となったのでした」
 
私がこの『地獄のオルフェ』の物語を語ると、あちこちでなるほどーという感じの反応が見られた。
 
今回の『Heart of Orpheus』のPVでは、冒頭、岩の斜面に放水がなされ、そこに水の染みこんだ部分が Orpheus という文字になって浮かび上がる趣向になっている。そしてその岩に沿って通路があり、そこを男女(大林亮平と南藤由梨奈)が前後して歩いている。ふたりは楽曲が進むにつれ次第に明るい所に出てくるのだが、最後もう通路が終わる直前になって、後ろを歩いていた南藤由梨奈が大林亮平の後ろから顔を掴んで無理矢理、後ろを振り向かせてしまう。すると南藤の姿がキラキラした光とともに薄くなって消えてしまい、大林はあたりを見回して南藤がいないことを確認すると、やったぁ!と喜ぶという映像になっている。
 

さて今回のアルバムには萌枝茜音さんの他に、もうひとりMTFの作曲家が参加することになる。
 
7月10日に私は★★レコードにゴールデンシックスというユニットのデビューに関する打ち合わせで行っていたのだが、その打ち合わせの場で私は、これまで長くKARIONに楽曲を提供してくれていた醍醐春海というのが、実は別の名前でよく知っている人物であったことに気付いてしまったのであった。
 
それで私は打ち合わせが終わるとすぐに彼女に電話した。
「おはようございます、醍醐春海さん」
と私が言うと
「おはようございます、水沢歌月さん」
と千里は答えた。
 
「少し話したいことがあるんだけど、近い内に時間取れない?」
「どう考えても、私よりそちらの方が10倍忙しいから、そちらに合わせるよ。今からでもいいよ」
というので
「だったら今から。どこで会う?」
「私、今江東区にいるんだけど、そちらはどこ?」
「ここは青山」
「じゃ地下鉄日比谷駅の改札で待ち合わせない?17時半くらいで」
「了解」
「今歌月さん、どんな服着てる?」
「あ、えっと。ペールピンクのビジネススーツだけど」
 
芸能事務所などにはジーンズで出かけるのだが、今日はレコード会社だったのでちゃんとした服を着てきていたのである。
 
「あ、だったら問題無いな」
「ん?」
 

17:20に私が日比谷駅まで行くと、千里は既に待っていた。上等なワンピースを着ている。
 
千里は笑顔で会釈すると近づいて来て
「お初にお目に掛かります。醍醐春海です」
と言って、《作曲家・醍醐春海》と書かれた名刺を渡す。
 
「名刺があったんだ!」
と私は驚き、こちらは《歌手・KARION・らんこ》の名刺を渡した。
「お初にお目に掛かります。KARIONの蘭子です。いつも素敵な曲を書いてくださってありがとうございます」
 
「この、らんこの名刺って凄くレアだよね」
「過去6年間に10枚も配ってない。この醍醐春海の名刺も相当レアでは?」
「渡したのは30枚くらいだと思う」
 
立ち話も何だしというので歩きながら話すが、千里は帝国ホテルに入っていく。
「まあ、お茶でも飲もうよ」
と言われたのだが、千里は帝国ホテルの中のフランス料理店に入って行く。
 
「予約していた村山ですが」
と言うと、席に案内される。
 
「予約してたんだ!」
「今日ゴールデンシックスのデビューに関する打ち合わせをすると花野子というかカノンから聞いたからね。当然、醍醐春海が誰かというのに気付いて連絡があるだろうと思ってたから、予約を入れておいた」
 
「千里って時々思うけど、物凄い予定調和で行動してるよね」
「巫女だからね」
 
「ね、ふと思ったんだけど、千葉のL神社にいる千里の知り合いって」
「私自身のことだよ。大学に入った年から、週に1回だけご奉仕している。その前、中学時代は留萌で、高校時代は旭川でそれぞれ3年間巫女をしてた」
「だったら、もう12年目のベテラン巫女なんだ!」
「そんな感じ。さすがに大学院を出るタイミングで退職させてもらおうとは思っているけどね」
 
「ちょっと待って」
と私は考える。
 
「巫女って、男の子もいるんだっけ?」
「ふつう巫女って女の子だろうね」
「だったら、中学高校時代に巫女してたって・・・」
「もちろん女の子として奉仕してたよ」
「えーっと・・・」
「冬子が小学生の時からドリームボーイズのバックダンサーを女の子としてしてたのと似たようなものだよ」
「うっ・・・」
 
「冬子は出羽山か由良の浜に知り合い居ない?」
「出羽??」
「ああ、居ないのならいい。だったらこれはあの人たちの仕業じゃないか」
 

最初にアペリティフに室温に保たれた赤ワインが出てくる。
 
「今日は私のおごりということで」
と千里が言う。
「そうだね。ここは作曲家先生と楽曲を頂いている歌手の関係だからおごられておこうかな。おごちそうさまです」
「はいはい」
 
グラスに注いでもらい乾杯する。
 
「ゴールデンシックスの前途を祝って」と私。
「ローズ+リリーとKARIONの前途を祈って」と千里。
 
「このワイン美味しい!」と私は一口飲んで声をあげる。
 
「2005年もののボルドー。ボルドーワインの当たり年だよ。この年は特に赤が良かったんだ。100年に1度の出来と言われた」と千里。
「そんな凄いんだ! でもワインは年によって出来・不出来が大きいよね」と私。
 
「歌手も当たり年があるよね。08年組はやはり豊作だった年だと思う。古くは小泉今日子さんや松本伊代さん・中森明菜さん・早見優さんとかのデビューした82年組なんてのもあったよね」
 
「アーティストのアルバムでも当たり外れはあるかな」
と言ったが、千里は否定する。
 
「うーん。当たり外れのある人もいるけど、むしろピークの時期とそうでない時期があると思う。ほとんどのアーティストはデビューして数年以内にピークを迎えて、その後はどんどん落ちていく」
 
「・・・・」
「その後は売れている人でも固定ファンが半ば義理で買っているだけで品質は見るべくもないケースが多い」
「なかなかそういう鋭い指摘は業界の中では聞けないよ」
「まあ、私は一般人だから」
 
「そうか。一般人という建前だったんだ」
「ふふふ」
 
やがて予約していた料理が前菜から出てくる。
 
「たまに2度、3度ピークのある人もある。ポール・モーリアなどは初期の『恋はみずいろ』のヒットの後、似たような傾向である程度売ってたけど、少しずつ落ちていって、その後『カリオカの碧い風』とか『ロマンティックレーザー』とか若干迷走ぎみの作品が出てくる。ところが『再会』で自分の歩むべき道を再度見出して、その後2度目のピークが来ている」
 
「2度・3度のピークのある人って、音楽史に名前を残す人だろうね」
「だと思う」
「しまうららさん、10年ごとにヒット曲を出すんだと言ってた」
「ああ、たまにそういう間欠泉みたいな人もいる。売れてない時期はエネルギーを貯めてるんだよ」
 
と言って千里は自分の携帯を操作している。
 
「1987年・初恋の丘、1998年・フリージアの恋、2005年・ヴィ・ローズか。ほんとに10年単位だね。今回出した蔵田さん作曲の『ギタープレイヤー』がもしヒットしたら、4度目の間欠泉だね」
 
「うん。本人も今度の歌はかなり手応え感じてるみたい。ギターの練習かなりやってたけど、だいぶ聴ける状態になりつつあるよ」
「それは偉い。ちゃんと頑張る所があの人だね」
 

「千里、ゴールデンシックスになる前のDRKのメンバーだったんでしょ?旭川で活動してたんだよね?」
 
「そうそう。私も葵照子もそれに参加してたんだよ。それで音源製作する時にちょうどお父さんの家に来ていた美空ちゃんが顔を出してたのを引き込んだんだけど、その美空ちゃんの歌を聴いて、三島さんがスカウトしたんだよね」
 
「するとDRKが無かったらKARIONも無かった訳か・・・」
「まあ、世の中は色々なものが複雑に絡み合っているよ」
「それは思う」
「元々のDRKを作ったきっかけは、ヨナリンの番組なんだよ。公園でお花見してたら、ヨナリンの番組で『女子高生にいきなり楽器渡してバンドになるか?』ってのやらされて」
「へー。そんな所にヨナリンが関わっているとは」
 
最近ではヨナリンはローズクォーツが出演している「しろうと歌合戦」の司会などをしている。
 
「それがなんか楽しかったからバンドの練習しようよといって始めた。あれも受験勉強の息抜きという意義が大きかった気もするけどね」
「ああ、そうだろうね」
 
「DRK, Dawn River Kittens が高校卒業で解散して、それで北海道に残ったメンバーはNorthern Fox, 東京周辺に来たメンバーがGolden Six, 関西方面に行ったメンバーがViolet Max というバンドを結成して、各々活動してたんだよ。もっとも、Northern Fox はメンバーが多忙で自然消滅、Violet Maxは大学卒業で解散しちゃったから、残ったのはGolden Sixだけ」
 
「そのGolden Sixも2人だけしか残ってないと」
 
「そうそう。あの2人はDRKの時はそれほど活動に積極的だった訳じゃないんだけどね。高校卒業した後、逆に熱心になって来た感じ」
 
「やはり受験勉強の重圧から解放されたからでしょ」
「それはあると思うよ」
 

「でも千里、当時は女子高生でバンドやってたんだよね?」
「ふふふ。冬子が女子高生の制服でテレビ局とかに行ってたのと変わらないと思うけど」
と言って千里が携帯を開いて呼び出して見せるのは、私が《歌う摩天楼》のリハーサル歌手をしていた時の写真だ!
 
「ちょっと、何でこんな写真持ってるの?」
「内緒」
 
「・・・・。花野子ちゃんは、当時千里はもう性転換済みだったと言ってたけど」
「まあ、そう思われていた気はする」
「トイレに入ってる所をうっかりドア開けちゃったら、お股の所に割れ目ちゃんがあった、なんて話を聞いた」
「たぶん冬子も似たエピソード持ってそう」
「う・・・」
 
「で、その件なんだけどね」
と千里は困ったような顔をした。
 
「実は私、自分がいつ性転換したのか、さっぱり分からないんだよ」
「はあ?」
 

色々話をしている内に、少しずつ料理が運ばれてくる。
 
「今気付いたけど、この料理すっごく美味しい」
「それは帝国ホテルだからね」
「ね、おごられている人が値段を聞いちゃいけないかも知れないけど、今日のお料理いくら?」
「料理は1人4万円。ワインは16万円だよ」
 
「16万!?」
「美味しかったでしょ?」
「美味しい! もっと飲もう」
と言って私はワインをグラスに注ぐ。千里のグラスにも注ぐ。あらためて乾杯してから、また料理も頂く。
 
「だけどこのワインは16万円払ってもいい気がするでしょ?」
「する。ここまで美味しかったら払ってもいい。正直ドンペリに10万出す人の気が知れないけど、このワインは本当に美味しい」
「料理も満足度高いよね」
「うん。凄く丁寧に作られてるもん」
 
「満足度って値段と反比例するからね。値段を高くすればそれだけ評価は厳しくなる。入場料8000円のライブは入場料2000円のライブの5倍楽しめなかったらつまらないコンサートだったと言われる」
「それは肝に銘じておくよ」
 
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【夏の日の想い出・食事の順序】(上)