【夏の日の想い出・走り回る女子中生】(1)

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これは2004年の10月から12月頃に掛けての物語。「風の歌」のすぐ後くらいからの物語である。
 
2004年。中学1年の時の私の生活の中心は学校の陸上部であった。私は陸上部の練習にはだいたい9割程度出ていたし、この練習をこなすことで私はそれまで奈緒・アスカ・静花など多数の友人から「課題」だと言われていた、筋力と体力を獲得して行っていた。
 
この時期、私は静花(松原珠妃)のバックバンドからは外れており、ライブにも音源製作にも参加していない。昨年の9月以降、バックバンドには正ヴァイオリニストが定まっていたので、出る必要も無かったし、私を高く評価してくれていた兼岩さんが社長を退任してしまったことから縁が薄れたというのもあった。
 
なお、七星さんはこの年の4月に松原珠妃のバックバンドに2代目正サックス奏者として参加しており、それから2008年3月までの4年間、そこで活動をしている。つまり七星さんが参加したのは私が離れた後なので、私と七星さんはこの時期に接触はしていない。
 
一方で私はドリームボーイズのバックダンサーの方はずっと続けており、いつの間にかリーダーの葛西さんに次ぐ古株になってしまって、勝手にサブリーダーということにされていた。月数回しか出てないのに!ドリームボーイズのダンスチームの振付は振付師の人と葛西さん、ベースの大守さんの話し合いで決められるが私もその打合せにしばしば出て行っていた。
 
葛西さんは私のダンススキルアップのため、色々基本的なトレーニングの課題を課した。それで私は踊り自体のスキルアップとともに、やはりこちらでも、筋力を鍛えられていった。
 
民謡の方では5月に風帆伯母から「若山富雀娘(ふゆすずめ)」の名前をもらって、主として伴奏やお囃子の仕事をこなしていた。私自身も民謡の大会に出ないか?と随分言われたのだが、大会に出るほどの練習をする時間が取れない気がしていたので遠慮していた。一応、名古屋の風帆伯母の所には月1〜2回新幹線で通ってお稽古を付けてもらっていたが、この時期、唄と三味線に加えて胡弓も見てもらっていた。
 
私は2004年7月に○○プロの丸花社長にたまたま歌っている所を見られ、もし歌手になる気があったら声を掛けてと言われた。そしてその3ヶ月後、再度丸花さんに偶然遭遇し、授業料安くするから、うちのスクールでボイトレとかのレッスン受けてみない?と言われた。レッスンを受けたからといって○○プロからデビューしなければならないこともないし、ということだったので私はちょっと授業に出てみることにした。芸能スクールに行くのは、小学5年生の時に★★レコード系列の音楽学校で「ヴァイオリン初心者コース」を4ヶ月ほど受講して以来、1年半ぶりであった。
 

初日、私は学校の制服(当然セーラー服!)を着て、赤坂の○○プロまで出かけて行った。受付で「とても優秀な子なので、この子をよろしく」と自筆で書かれた丸花さんの名刺を見せて
 
「こちらでエントリーしてくれと言われたのですが」
と言った。後から考えると、私のこの言い方が悪かった。
 
受付のとっても美人なお姉さん(こんな美人を受付に置いている所がさすが大手プロだなと思った)は
「それでは隣の赤い煉瓦のビルの2階にある203スタジオに行ってください」
と言い、私の制服の胸に桜の花のバッヂを付けてくれた。
 
それで言われた通り203スタジオに行くと、たくさん椅子が並んでいて30人くらいの女性が並んでいた。雰囲気的に高校生から女子大生くらいの年齢層という感じだ。スクールに入学する人たちだろうか? などと思いながら、私もそこに座る。
 
私の後からも10人くらい入ってきて、結構な人数になった。さすが大きな芸能スクールは違うなと思う。愛知で静花が通っていた地元の芸能スクールなんて全校生徒が50人くらいだった。
 
やがて椅子が並んでいる所の向こう側に置いてあるテーブルの所に30代くらいの男性が3人入ってきて、真ん中の人が
「○○プロ、制作係長の前田と申します。本日の選考会に参加して頂きありがとうございます」
と言った。
 
選考会?? 何それ? と思ったものの、もしかしてこのスクール、入試があるのかしらと思う。そんな話は聞いていなかったのだが、まあ自分の力があれば、芸能スクールの入試くらい楽勝だろうと思い直す(うぬぼれとも言う)。だいたい、入試程度に落ちるようなら、丸花さんとしても歌手デビューを勧めたりしないだろう。ちょっと気合入れてやるか、と考える。
 
「ここに集まっておられる方は、一次審査を合格した方と、特に推薦のあった方です。結構なレベルの方々が集まっておられるものと思います」
 
などと前田さんは言う。
 
へー。なるほど。私の場合は社長の推薦で一次審査省略ということなのかな?
 
「それではひとりずつ歌を歌ってもらいます。アカペラでもいいですし、伴奏音源を持ってきておられる方はそれを流してもいいですし、そこにあるピアノまたは持参のギターなどでの弾き語りでもよいです」
 
と言われ、ひとりずつ名前を呼ばれて出て行く。
 

確かに一次審査を通った人というのがよく分かった。みな結構うまい。でも多くの人が30秒くらいで打ち切られて「お疲れ様でした。またの機会に挑戦してください」などと言われている。きびしー!
 
私の前に20人ほど歌ったが、この場に残るよう言われたのは3人だけだった。
 
「唐本冬子さん」と呼ばれて「はい!」と返事をして出て行く。
 
「ピアノをお借りします」
と言い、審査員さんたちが頷くのを確認してからピアノの前に座る。
○○プロのビッグスター保坂早穂の『ブルー・ラグーン』を弾き語りする。8年前にRC大賞を取った作品である。ブルー・ラグーンというのはアイスランドにある美しい温泉であるが、とても透明感のあるこの曲は抜群の歌唱力を持つ保坂の歌で200万枚を売る大ヒットとなった。音域が2オクターブ半あるとんでもない曲であり、これをちゃんと歌える人は少ない。それだけに歌唱力のある人にとっては「魅せる」ことのできる曲だ。
 
私は審査員さんたちが、驚くような表情でこちらを見ているのに満足しながら歌った。先に歌唱テストを合格した3人がこちらを睨んでいる。ふふふ。こういう視線大好き!
 
結局フルコーラス歌った所で拍手までもらい
「歌唱テスト合格です。こちらで待機してください」
と言われた。
 
結局歌唱テストに合格したのは7人であった。
 

その後、ひとりずつ審査員の前の椅子に座らされて簡単な面接を受けた。
 
「歌手になりたいと思ったのはいつ頃からですか?」
「小学2年生の頃です」
「目標とする歌手はいますか?」
「保坂早穂さんです」
「どんな歌手になりたいですか?」
「歌そのもので魅せる歌手になりたいです」
 
その他、趣味とかふだん聴いている音楽のジャンル、友達の人数とかまで聞かれた。
 
この面接で2人落とされ、5人になった。落とされた2人はしばしば質問に言いよどんだりしていた。こういう場では、どんな答えでもいいから速やかに答えることが大事だ。テレビなどで司会者に突然マイクを向けられて何も答えられなかったら、タレントとして失格である。
 

「それでは次に水着審査をします。水着に着替えてきてください」
 
私はびっくりした。
 
「済みません。そういう審査があると知らず、水着を持ってきてません」
と私は正直に言った。
 
審査員さんたちが顔を見合わせて何か話している。
 
「普通は持ってきてないというのは言語道断なのでお帰り頂く所ですが、今日は特別に貸してあげます。サイズは何ですか?」
「ありがとうございます。Sです」
 
「ああ、確かに君、細いもんね」
 
ということで、Sサイズのピンクのビキニ!を貸してもらえた。
 

更衣室に指定された所に行き、ビキニの水着に着替える。他の4人も着替えているが全員無言だ。何か緊張するなぁ。
 
とにかくもビキニ姿になり、私は審査会場に戻った。審査員さんが1人しかおらず2人は席を外しているようだった。少し待ってくださいと言われる。
 
しかし芸能スクールに入るだけで、水着審査まであるとは! どういう少数精鋭主義なのだろう?
 
ここで待機している時に、初めてひとり18-19歳くらいの子が声を掛けてきた。
「あんた、胸小さいね」
 
「すみませーん。小学4年生並みの胸だと友達から言われています」
「あはは、ほんとに小学生並みだね!」
と彼女も笑っていた。
 
「あ、私、唐本冬子です。三池ムタ子さんでしたっけ?」
「よく覚えてるね!」
「私、人の名前覚えるの得意だから。もしかしてアンネ=ゾフィー・ムターから取られた名前とか?」
「そうなの!よく分かるね」
「どうせなら、アンネちゃんの方が良かったのに」
「私もいつもお父ちゃんにそう文句言ってた! 私の小学生の頃のあだ名とか分かる?」
「うーん・・・・炭坑節とか?」
「凄い!正解!」
「大牟田の三池炭鉱ですもんね」
「そうそう、それそれ」
 
私たちの会話でかなり場の空気が和らいだ感じもあった。部屋に残っている審査員さんが、何だかメモしていた。私たちの待っている時の雰囲気も多分審査対象なのかな、という気がした。
 
やがて前田さんたちが戻ってきて水着審査が始まる。
 
審査は審査員の前を水着で歩き、決めポーズを取るというものである。特にウォーキングの美しさを確認するのが目的のようである。着衣では誤魔化せても、水着では身体の動きが全て見えてしまう。また、そもそもの体型もチェックされている感じだ。私、胸が無いのは不利かなあ・・・
 
と思ったが、この5人は全員ウォーキングに関しては合格だったようである。
 
「ちょっとダンスしてもらいます。**先生にお手本を踊ってもらいますので、その通りに踊ってください」
 
最初に先生がひとりでお手本を踊ってくれて、次はそれを見ながらダンスした。水着のまま踊らせているので、そんなに激しい動きではないが、ここで1人23-24歳くらいかな? という感じの人が動きが悪すぎるとのことで落とされた。
 
そういう訳でここまで4人が残った。元の服に戻っていいと言われたので、更衣室に行き、着替えてからスタジオに戻った。
 

「お疲れ様でした。今日はとても良いオーディションができました。審査結果は追って郵便でお知らせしますが、3日以内に結果が届かない場合は連絡してください。最優秀の1名は今回非常にポイントが高かったので、そのまま早い時期にCDデビューという線で検討します。他の方もこの最終審査まで残った方は、しばらく特別特待生として無料でレッスンを受けて頂いて、状況次第では来年中くらいのデビュー、あるいはグループでのデビューなども考えたいと思います」
 
と前田さんは言った。へ? と思う。
 
「あの・・・すみません。これ、○○ミュージックスクールの入学審査じゃなかったんですか?」
と私は質問した。
 
「は?何それ?」
と前田さん。
 
「いえ、私は丸花社長から、○○ミュージックスクールの優待生にするからしばらくレッスン受けてみてよと言われて、今日こちらに来たんですが・・・」
 
「○○ミュージックスクールに入学審査なんて無い。希望者は誰でも入学できる。というか、これは○○プロ2005年第1期ニューフェイス・オーディションだったのだけど」
「えーーーー!?」
 
「だいたい音楽学校の入学審査で水着審査なんかやるわけないじゃん」
「いや、○○プロさんは大手だから、付属の学校に入るのも狭き門なのかなと」
 
「でもなんで君ここに来たの?」
「受付でこちらでエントリーするように言われたのですがと言ったらここに来るように言われました」
 
「その言い方が曖昧。スクールにエントリーと言わないと。君が来た時間がちょうどこのオーディションの受付時間だったんで、受付の子がてっきりオーディション参加者だと思ったんだろうな」
 
「済みません、お騒がせしました」
と言って、私はぺこりと頭を下げた。
 

「ちょっと来てくれる? 他の方、ちょっと待っててください」
と言われて、小部屋に連れ込まれた。
 
「ぶっちゃけた話。君、実は今回のオーディションでダントツ1位だったんだけど」
「えーーー!?」
 
「来年の年末の大きな賞が狙える逸材だと審査員全員の意見が一致した。水着に着替えていた間に、上司にも聴いてもらったんだけど、これは凄いという意見で、ぜひ2月か3月くらいのデビューで検討したいと。水着を特例で貸したのも歌唱のポイントが物凄かったからだよ。だから君さ、スクールに通うとかまどろっこしいことせずに、即デビューする気無い?」
 
「済みません。私、いづれ歌手になりたいですけど、今はまだ自分の技術をもう少し鍛えたいんです」
 
「確かに、まだ君の歌唱力は未完成という感じだね。でも今の君の歌でもかなり売れると僕は思う。楽曲次第ではミリオン狙える。歌手しながらレベルアップもできるよ」
 
「・・・・私の先輩で1年前に歌手デビューした人がいるんです。保坂早穂さんは目標だけど、遠すぎる目標です。当面、私はその1年前にデビューした先輩に追いつきたいんです。今の自分の歌唱力でデビューしたら彼女から『その程度でプロ歌手を名乗るな』と馬鹿にされます。ですから、大変申し訳ないですが、もう少し鍛えてからのデビューにさせてください」
 
「そうか。でもなんて歌手?」
「ζζプロの松原珠妃です」
「えーーー!?」
 
「私の元先生です。でも彼女がデビューする時、これからは先生でも生徒でもない。ライバルだと言い合いました」
 
「保坂早穂に松原珠妃が目標なら、ほんとに君もハイレベル志向だね。分かった。でも君今、高校1年生くらいだっけ? あまり年齢が高くなると売り方が変わってくるよ」
 
「あ、いえ。今中学1年生です」
 
「えーーーーーーーーー!?」
と前田さんは思わず大きな声を出した。
 
「道理で胸が無いと思った」
「済みませーん」
 
「中学1年生か! それであの歌唱力、末恐ろしいね」
と前田さんは笑顔で言う。
 
「だったら君そもそも条件満たしてない。今日のオーディションの応募資格は16歳以上だよ」
「すみませーん」
 
「でも中学生なら高校生になるくらいまで待ってもいいかな。社長から優待生にすると言われたのね?」
「はい」
 
「授業料無料の特待生でもいいと思うけどなあ。とりあえず僕の権限で特別優待生にするよ。ふつうの優待生は授業料半免だけど、特別優待生は9割免除だから」
「わあ、ありがとうございます」
 
「さっきダンスしてた所見たけど、凄く身体の動きがいいね。もしかしてバレエかモダンダンスか何かしてた?」
「はい。バレエはけっこうやってました」
「やはり。じゃ、うちの歌手とかバンドのバックダンサーとか、時々頼むかも知れないけどいいかな」
 
「あ、はい。他とぶつからない範囲で」
「・・・・・君、どこかの事務所とまさか契約済み?」
 
「いえ。契約はしてませんが、$$アーツさんのドリームボーイズのバックで時々踊っています。他にζζプロの歌手の伴奏でピアノとかヴァイオリンを弾いたりしています。また、津田アキさんという人の民謡教室に通っていて紹介されて演奏会の三味線やお囃子をやってます」
 
「なーんだ。君、津田姉さんとこの子? それでここまで鍛えられているのか。民謡歌手か何かで契約してるの?」
「いえ。していませんし、民謡はあくまで自分の喉を鍛えるためで私はポップス歌手志向です」
 
「なるほど。了解。でもどことも契約してないなら、こちらもできるかな?」
「はい、ぜひやらせてください」
 
「OK、3年後くらいの君のデビューを楽しみにしてるよ」
「ありがとうございます」
 

ということで、このオーディションは私は辞退という扱いになり、私に声を掛けてくれた三池ムタ子さんが繰り上がりでオーディション合格となった。
 
彼女は実は20歳だったが若く見えるので公称18歳ということでデビューさせることになる。そして「篠田その歌」の名前でその後2013年まで9年間、アイドルとして活躍した。
 
そして私はあらためて○○ミュージックスクールに生徒登録され、前田係長のおかげで、特別優待生になって、授業料は本来の額の1割で済ませてもらえることになった。そして、在籍中はしばしば前田さんから連絡を受けて、様々な歌手やバンドのバックで踊ったり、コーラス隊に入ったりした(要するに私の実践教育だったようである)。保坂早穂のライブでバックで踊ったこともあるが、さすがに保坂さんは私のことは覚えていなかったようだ。
 
篠田その歌のバックにも結構入ったりしたが、彼女はオーディション合格を告げられてから、私が中学1年生だったと聞き、驚愕したらしい。彼女には自分の性別も早い時期にカムアウトしたが、それも驚愕していた。
 
「道理で胸が無い訳だ。でも冬子ちゃんは女の子にしか見えないから、女の子ということにしておけばいいんだよ」
と彼女は言っていた。
 
なお、前田さんは例の大騒動が起きるまで、私が女の子でないとは夢にも思わなかったらしい。
 

なお、○○ミュージックスクールには器楽コースもあるので、私はその中のピアノとヴァイオリンのコースにも申し込んだ。そちらは実費になるかと思ったら、それも授業料9割免除でいいですよと言われた。
 
この時期、ヴァイオリンはアスカに色々指導してもらっていたのだが、やはりアスカは物凄く上手い人、私はまともなヴァイオリン教育を受けたことがない人なので、アスカに教えてもらえるレベルまで自分を引き上げるためにここのスクールのレッスンは利用させてもらった。
 
なお、ここのヴァイオリンコースには、私は兼岩さんから頂いたE.H.Rothのヴァイオリン《Flora》を持って通っていた。さすがにこのレベルのスクールにアスカから借りっぱなしであった1000万円級のヴァイオリン《Rosmarin》を持って行っては腰を抜かされる。
 
さて、このスクールのヴァイオリンコースには「クラシックコース」と「ポップスコース」があるのだが、私が参加したのは「クラシックコース」の方である。私はここまで独学に近い形でヴァイオリンを練習してきていてポップスを弾くことには結構な自信を持っていた。しかしクラシックの演奏に関しては本当の初心者同然だったのである。
 
それでも私が100万円近くするヴァイオリンを持っていて、左手をちゃんとポジションチェンジしながら弾けるし、複数の弦を使った重音も三重音まで弾ける(四重音はとても難しい)のを見て、先生は「だったら君はこの課題曲をひたすら練習しなさい」と言って、クラシックのヴァイオリン曲のリストを最初に渡された。
 
そして「取りあえず来週までにこの曲を練習しておいて」と最初に譜面を渡されたのは『ガボット』(ゴセック)である。初心者向き!という感じの曲だ。
 

私がスクール内の練習室でヴァイオリンを練習していると、よく篠田その歌がトントンとノックして入ってきていた。
 
「そうしてると、《美少女ヴァイオリニスト》って感じだなあ。でも本当に男の子なの?」
「ええ」
 
「いつもセーラー服だよね。学校にもそれで通ってるの?」
「ううん。学校には学生服で行ってる」
「冬が学生服着てたら、男装女子中生にしか見えない気がするなあ。だいたいそれって女の子の髪型だよね。学校で注意されない?」
「うん。うちの学校、髪型は自由だし。一応見苦しくない程度の髪型って言われてる」
 
「冬が髪を短くしちゃったら、そちらの方が見苦しくなって校則違反かも知れないな」
「ああ、それ時々友達に言われる」
「やはり」
 

彼女はよく自分のデビュー予定の曲も含めて、いろんなポップス系・ロック系の曲をリクエストしていたので、それに応じて私はヴァイオリンを弾いていた。彼女はそれに合わせて歌った。
 
「上手いなあ。それなのにヴァイオリン初心者コースなんでしょ?」
「クラシック系の曲、ほとんど知らないから」
 
「でもこういうポップス系の演奏すごくうまい。伴奏も弾き慣れてる感じ。さっき私が間違った所、とっさに私に合わせてくれたね」
 
「ある所で鍛えられたし、歌手の伴奏を去年やってたから」
「あれ? そうなの? 誰の?」
「私、去年の夏は松原珠妃のバックバンドでヴァイオリン弾いてたんだよ。2学期になってからは学校があるから辞めさせてもらったけど」
 
「えーー!? 無事だった? だって松原珠妃のヴァイオリニストやると発狂したり死ぬという噂が」
 
「典型的な都市伝説だね。確かに松原珠妃のヴァイオリニストってコロコロ変わってるけど、発狂した人も死んだ人もいないよ」
「そうだったのか!」
 
昨年の9月に採用された女性ヴァイオリニストも年末で辞めて1月に採用された人も今年の連休が終わった所で辞めて、5月に加入した5人目のヴァイオリニストも夏一杯で辞めて、9月からは6人目の人が就任している。(松原珠妃のヴァイオリニストは初代が三谷さん、2代目が私)
 

私が一週間で『ガボット』を弾きこなしてきたので次週渡されたのはバッハの『ブーレ』。それもできたので次週はヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲イ短調 RV356。これに2週間掛かって、次は同じくヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲のト短調 RV317(この曲はかなり苦労した!)。11月に入ってコレルリの『ラ・フォリア』、バッハのヴァイオリン協奏曲イ短調 BWV1041と進み、12月になるとモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を5つまとめて渡されて、1番から順に弾きこなしてと言われた。
 
要するにこれは、スズキ・メソードの各ステップ卒業課題曲なのである!
 
基礎的な技術だけはあるもののクラシック系の演奏に慣れてない私に特急でクラシック系の技術を身につけさせるにはこういうやり方が一番ということでの課題だったようである。
 
私はこれらの有名曲を弾きこなすのに、アスカの所に行った時にアスカ自身や一緒に習いに来ていた、真知子ちゃんという小学1年生(小1だけど無茶苦茶うまかった)にちょっと弾いてもらって、それをお手本にして弾いていた。
 

この時期、もうひとり私のお手本になってくれたのが、6月に地域のオーケストラに参加した時に知り合ったエツコさんという高校生であった。
 
彼女はオーケストラではホルンと鉄琴を弾いていたのだが、元々器用な人で様々な楽器を弾きこなす。ピアノも上手いし、ヴァイオリン・フルート・トランペットと吹きこなしていた。ただオーケストラではホルンが手薄だったのでそれを吹いていたらしい。
 
「そういえばエツコって、漢字はどう書くんですか?」
「それが『干鶴子』と書くんだよね」
「難しい読み方ですね」
 
「うん。だいたい『干(ほす)』の字を『千(せん)』と間違われて『ちづこ』
と読まれてしまう。最初から正しく読んでもらえたことは一度も無いし、しばしば『千鶴子』で登録されてしまう。そもそも『干』という字に『え』という読み方は存在しないみたい。たぶんお父ちゃんの勘違い」
 
「なるほどー」
「だから、逆に図書館の登録とか、こういう課外活動みたいなのでは誤読されないように、カタカナのエツコで登録しちゃってるんだよ」
「へー」
 
彼女は既にスズキメソードを最上級クラスまで卒業している。それで私が練習していた卒業課題曲を全部弾いてくれた。
 
その場で真似して弾いてみる。すると言われた。
 
「冬ちゃん、夏に見ていた時はてっきりヴァイオリン初心者かと思ったけど、全然初心者じゃない。だいたい、ちゃんと左手のポジション、移動しながら弾けてるじゃん。あの時はファーストポジション固定で弾いてたのに。あれでみんな騙されてる」
 
「私いろいろ忙しいし、あまり楽団にまで関わりたくなかったから初心者の振りしてたんですけどねー」
 
「なるほど、そういうことか。だいたい1000万円以上しそうなヴァイオリンを持っている段階で、初心者じゃないことに気付くべきだったな」
「あはは。でもあれは本当に借物なんですよー。演奏会だから持って行ったけど」
 
「で、これが普段用のヴァイオリンか。下倉バイオリン社だね。これも多分100万円以上するのでは?」
 
「あ、そのあたりよく分かってなくて。人からもらったものなので。でも100万円はしないと思いますよ。以前に使っていたのが70万円のピグマリウスで、それと似たような値段だと言われましたから」
 
「ふーん。でも借り物とかもらったとか、凄いな」
「今家に3つヴァイオリンありますが、3つとももらいものと借り物です」
「冬ちゃんに才能があるから、みんなくれたり貸したりするんだろうな」
 

「しかしこの部屋すごいですね」
 
夏にクラリネットの練習に付き合ってもらった時はカラオケ屋さんで会って練習したのだが、この時期は親しくなったこともあり、彼女の家によく行っていた。
 
「まあ、友達みんなから感心されるね」
 
この部屋は4畳半なのだが、その部屋にグランドピアノ、ベッド、彼女の勉強机、そして本棚・衣装ケースがきれいに収まっているのである。勉強机は部屋の入口を入ってすぐの所にあるものの、ベッドに到達するには、ピアノの下をくぐり抜けていく必要がある。なお、ホルン、トランペット、フルート、グロッケン、ヴァイオリン、ポータブルキーボードなどの楽器は衣装ケースや本棚の上に収納されている。
 
「グランドピアノ買う時に、お父ちゃんがこのサイズなら絶対入るはずといってパズルを解くみたいにして配置を決めたんだよ。運び込んできた運送屋さんもびっくりしてた」
 
「エツコさんのお父さんって面白い人みたい」
「家族みんな結構振り回されてるけどね」
「お仕事何でしたっけ?」
「うーん・・・本人に聞いても分からんと言ってる」
「へ?」
 

エツコさんの部屋はピアノを弾くために防音工事がしてあるので遠慮無くヴァイオリンの練習もすることができた。また彼女はよく私の演奏にピアノ伴奏を入れてくれた。
 
「確かに冬ちゃん、ポップス弾きだというのが分かるよ。冬ちゃんって絶対に譜面通りには弾かない。解釈が入っている」
「たぶん、私はトゥッティ奏者(オーケストラで同じ音を一斉に弾く人)にはなれないです」
「ああ、そんな気がする。1回限りの演奏会ではちゃんとみんなに合わせられても、それいつもやってたら我慢できなくなるでしょ?」
「ええ。多分そうです」
 
そんな練習をしていた11月末頃。彼女の携帯に着信がある。彼女は携帯をハンズフリーのセットに置いていたので、掛かってきた相手を確認して、スピーカーのまま取った。
 
「はい、どうしました? リーダー」
 
それは楽団のリーダーからの電話だった。
 
「実は僕、盲腸で入院しちゃってね」
「あら」
「緊急手術されて病室に戻ってきたところ」
「大丈夫でした?」
「うん、平気。平気。でも一週間入院して、そのあと一週間静養みたいなんだよ」
「演奏会に間に合わない?」
「そうなんだ。それで今度の演奏会では S君に指揮を頼むことにした」
「まあ、いいんじゃないですか?」
 
S君というのは、例のT君が辞めた後、後任のコンサートマスターとしてリーダーが連れてきた人である。
 
「それで彼がヴァイオリンを弾けないので、代わりに誰かにコンマスをやってもらおうと思って」
「ヴァイオリンセクションは、あまり弾き慣れた人がいないですね」
 
「そうなんだよ。レギュラーの出席率が悪い。それでさ。野乃さん、ヴァイオリンも上手かったよね?」
「ちょっと待ってください。私がヴァイオリンに回るとホルンがいなくなります」
 
「うん、この際ホルンは諦めるかと。ホルンを外すのとヴァイオリンを外すのでは、さすがにヴァイオリンは外せない」
「うーん・・・・」
「突然で申し訳ないけど、頼めないかな?」
 
その時、エツコは私に気づいたような顔をした。私はギクっとした。
 
「リーダー〜、今ここに夏の公演に出てくれた唐本さんが来てるんですけど、彼女にコンマスをやらせるのはどうでしょう」
 
「おお、唐本さんなら問題無い。なんといっても機転がきくからコンマスとしては最適」
 
「ということで、冬ちゃん、お願い」
「ちょっと待って。それ何日?」
 
「12月11日。空いてる?」
 
私は慌てて手帳を開いて確認する。
「・・・・昼間なら空いてる。17時からは別の仕事がある」
「演奏会は13時から2時間だよ。その17時の仕事ってどこ?」
 
「新宿のライブハウス、****」
「こちらは吉祥寺の***ホールだよ。2時間あれば充分移動可能」
「うむむ!!」
 
「あ。これ演奏曲目のリスト。冬ちゃんなら1日で覚えられるよね」
「ちょっと待って〜!」
 

ところで夏には吹奏楽部の助っ人にも頼まれたのだが、こちらも12月に演奏会があった。そして「また頼む」と言われてしまった。
 
「演奏会の時はセーラー服を着ていいからね、というか着て来てよね。冬ちゃん、セーラー服を着てないと、上手くないんだもん」
と貴理子から言われる。
 
「というか、普段の練習にもセーラー服着て来て欲しい。全然演奏技術違うよね」
とヤヨイからも言われる。
 
「そもそも学校にセーラー服で通学してくれば良いのではないかと」
と2年生の知花さんにまで言われる。
 
「ついでに性転換しちゃうといいですよね」
「いや、実は性転換済みのような気がしてならなくて」
「そうなんですよねー。夏に一緒にプールに行ってた時も、女の子の水着姿にしか見えなかったし」
 
「性転換なんてしてないよー」
「嘘ついたら、ほら吹きと認定して、ホラ貝プレゼントするぞ」
 
「冬ちゃん、学校の水泳の授業では女子水着を着てるんだっけ?」
「それが全部見学らしいですよ」
「それはいけない。女子用スクール水着持ってるんでしょ?」
 
「持ってませんよー」
「それはちゃんと買っておいて、それを着て授業を受けるべきだな」
「同感、同感」
 
「あ、それで演奏曲目はこれね」
と言って、曲目リストだけ渡される。近隣の10個の中学の合同演奏会で1校の持ち時間は30分。その時間で6曲演奏する。今回はザ・スクエアの曲である。
 
「あの・・・譜面は?」
「和泉さんのキーボードが木管系の音を出している所をフルートとオクターブ違いで吹く」
「CDとかで確認しといて」
 
「スクエアの曲はあまり知らないです」
 
「また嘘ついてる。冬ちゃんって、どんな曲聴かせても、誰々の何って曲ですねと、即言えるくせに。スクエアほどの有名どころの曲を知らない訳が無い」
 
「私、母が聴いてたから純粋なジャズには結構強いけどフュージョンは弱いんですよー」
「やはり、冬ちゃんにはホラ貝のプレゼントを」
 
「まあいいや、私の家にスクエアは全アルバムあるから、明日持って来るよ」
と貴理子。
 

「助かる。ところで演奏会、何日だったっけ?」
「12月18日」
「あ、ごめん。その日は私、お仕事入ってる」
「何の仕事?」
「えっと・・・ドリームボーイズのライブのバックダンサー」
 
「なんつう美味しいお仕事を!」
「まさか、武芸館?」
「うん」
「ねね、ドリームボーイズのそのライブ、チケットどうにかならないよね?」
「バックダンサーごときに、あんなプラチナチケットの融通は無理」
「そっかー、残念」
 
「質問です!」
とヤヨイ。
「バックダンサーって、女の子なのかなあ、男の子なのかなあ」
「え? 女の子だけど。男の子のバックダンサー使うと、蔵田さんが危ないから」
「ああ、あの人ホモって本当みたいね」
「可愛い男の子見たら、即部屋に連れ込もうとするから、サポートミュージシャンも、ダンスチームも絶対女の子なんだよ」
 
「つ・ま・り、冬ちゃんは女の子としてバックダンサーに参加すると」
「うん」
 
貴理子とヤヨイと知花が顔を見合わせていた。
 

「蔵田さんは冬ちゃんの性別知ってるの?」
「うん、知ってるよ。でもボクは女の子扱い」
 
「それってさぁ、つまり冬ちゃんが機能的に女の子だから、蔵田さんは食指が動かないとか」
 
「外見が女の子でも中身が男の子なら、Hなことできるもんね」
「でもそれをしない」
 
「つまり冬ちゃんには男性機能は存在しないんだ?」
「男性機能が存在しないって、つまりアレが存在しないってこと?」
「きっとそうだ」
 
「え?そんなことないと思うけどなあ」
「なぜ、そんなに自信の無い言い方をする!?」
 
「やはり、ほら吹きにはホラ貝プレゼント」
「それで来年の演奏会にはホラ貝で演奏参加とか?」
「そんなの吹けない」
 
「まあいいや。そちらは何時から何時まで?」
「朝から入ってリハーサルして、本番は12時開場、13時開演。15時くらいに終わる」
 
「じゃ大丈夫だ」
「うちの学校の出番は18時から。場所は**市民会館だから」
「本当はリハーサルにも出て欲しい所だけど、冬ちゃん本番に強いから大丈夫でしょう」
「うーん・・・・」
 

さて、アスカであるが、この時期は割とまじめに高校の授業には参加しており夏休みや冬休みなどを利用して短期間、ヨーロッパに行って向こうの先生に指導を受けていた。
 
「12月にさ。高校の友人3人で演奏会開こうかと思ってね」
「わ、凄いですね。日本で?」
「うん。会場は押さえた。それでさ、冬、ピアノ伴奏やってくれない?」
 
「へ? ボクが弾かなくても、同級生にピアノうまい人たくさんいるでしょ?」
「同級生はいろいろしがらみが多くてさ。演奏者が3人なので、その内の2人の伴奏をして欲しい。もう1人はうちの母さんに弾いてもらう」
 
「まあ、いいですけど」
 
弾く演目はこれだから、と言って曲目リストを渡される。
 
「譜面ください」
「え? この程度暗譜してない?」
「だから私、クラシック弱いんですよー」
「あ、そうだった」
 
「やはり、こういう曲目を暗譜してるピアニストに」
「冬、この際だから覚えた方が良い。うちの母さんに譜面は用意させて、そちらに届けさせるから」
「あはは」
 
「ちなみに間違っても男の格好してくるなよ。男の冬は要らん。私が欲しいのは女の子の冬だ。万一男装してきたらその場で性転換手術するから」
「う・・・されたいかも」
「でも冬を性転換すると男になるのか女になるのか良く分からんな」
「えーっと」
 
「そうだ。ピアノ弾いてくれる役得で、冬も1曲ヴァイオリン弾いていいよ。それもうちの母さんに伴奏させるから」
 
「無茶です。アスカさんたちの演奏の後で私の演奏なんか聞かせたら、物が飛んできますよ」
「そんなことないと思うけどなあ。冬は結構上手い。少なくとも私が教えてあげようと思う程度には上手い」
「そうかなあ・・・」
 
「ミリオンセラー歌手・松原珠妃の正ヴァイオリニストだったんだから、もっと自信持っていいよ」
「うん・・・・・」
「まあ次の曲が売れてないようだが」
「その件で、お姉さんもちょっと心配してた。こないだ偶然町で会って少し言葉交わしたんだけど」
「流行歌手は売れる時もあれば売れない時もある。それはポップスの宿命だ」
「ですけどねー」
 
「昔から特にRC大賞取った歌手は翌年落ち込むことが多い。あの保坂早穂だって『ブルーラグーン』でRC大賞取った後、翌年は鳴かず飛ばず。**なんて、このくらい実力実績のある人ならRC大賞取っても落ち込んだりしないだろうと言われていたのに、RC大賞のあと全くヒットが出ずにそのまま引退してしまった」
 
「そのジンクスも気にしているみたい」
「まあでも運があればまた浮上する。保坂もRC大賞の翌々年はまたミリオンヒットを飛ばした」
「だよねー」
 
「そうだ。冬にはラテンの名曲『ティコティコ』(Tico-Tico no fuba)を弾いてもらおう」
「う・・・」
 
「メンコンでもよいが?」
「『ティコティコ』を弾かせてください。今月はスクールの方でモーツァルトのコンツェルト5つまとめて練習してるから、メンデルスゾーンまで手が回りません」
「よし」
 
「ところで日程はいつでしたっけ?」
「ああ。ごめん。12月23日」
「何時ですか?」
「午前10時。実はその時間帯が安かったから」
「ああ。会場代高いもん。でも、それなら行けるな。23日は夕方はお仕事の予定が入ってたから」
 
「ちょっと待て。そのスケジュール表、見せろ」
「うん」
 
「何だこれ? この真っ黒な予定の入りようは?」
「えっと。お仕事とか、レッスンとか、お稽古とか、演奏会とか、ライブとか・・・」
 
「冬、頼まれたら断れない性格だろう?」
「それで、アスカさんたちのライブのピアノを弾くことになりましたし」
「うむ」
 

この年は更にもう1件頼まれることになる。
 
「冬〜、暇でしょ?」
と言ってきたのは倫代である。
 
「忙しい」
と私は答える。
 
「それでね。今年の合唱部のクリスマス会で『怪獣のバラード』と『In Terra Pax』
をやるんだけどね」
 
「ふーん。『怪獣のバラード』は分かるけど、インテラ?それは知らないや」
「結構合唱ではやるんだけどね。歌ったことない?」
「聞いたことない」
 
「でさ。これの伴奏を冬、やってくれないかなあ」
「今、合唱部のピアノって誰が弾いてるんだっけ?」
「2年生の**さんなんだけど、なんと来月唐突にお父さんが大阪に転勤になってしまった」
 
「官公庁?」
「そう。官公庁ってこういう変な時期に異動やるんだよ」
「ああ」
 
「それでさ、誰もその曲のピアノが弾けなくて」
「難しい曲なの?」
「どちらも難しい」
「『怪獣のバラード』も?」
「うん。聞いてみたら分かるけど、すっごく難しい。インテラパックスは超絶難しい。**さんがピアノ上手いんで、それ前提に選曲したんだよ」
 
「倫代は弾けないの?」
「私には無理」
「倫代に弾けない曲がボクに弾ける訳ない」
「そんなこと言わないで、ちょっと来てよ〜」
 
と言って引っ張って行かれた。
 

倫代が私を連れて音楽室に入っていく。
 
「先輩〜。ピアニスト調達してきましたよ」
「あれ?男子なの?」
「あ、何だったら性転換させますから問題無いです」
「へー!」
 
それで渡された譜面を見て顔をしかめる。
 
「何?この譜面。左右とも同時に鍵盤を駆け上がっていくとか、唐突にト音記号になったりヘ音記号になったり、変化記号も凄まじい」
 
「それで9割の子は譜面を見ただけで諦める」
「ボクもギブアップ」
「そんなこと言わないで、弾いてみてよ」
 
と言われるので、『怪獣のバラード』『In Terra Pax 地に平和を』と弾いてみたが、ボロボロである。全然まともに弾けなかった。
 
「ああ、やはり無理か」
と2年生の人が言う。
 
「あ、先輩ちょっと待ってください。今のは準備運動です。冬、その学生服脱いで」
「なんで〜!?」
「いいから脱ぐ」
 
と言って、倫代は私の学生服のボタンを外し始める。
 
「待って、待って。自分で脱ぐから」
 
仕方ないので私は学生服もズボンも脱いでしまった。
 
「あれ? 女の子下着を着けてる!?」
「この子、そういう子なんです」
 
と言いながら倫代もセーラー服とスカートを脱いじゃう。
 
「あんたら、何やってんの?」
と先輩が呆れて言う。
 
「冬、私のセーラー服を着て、弾いてみてよ」
と倫代が言う。
「えーっと・・・」
 
「私と冬の仲だし、私の服、着てもいいよね?」
「あ、うん」
 
それで、倫代のセーラー服の上下を身につけた。
 
学生服を着ている時は何だか自分がその学生服という箱の中に閉じ込められているような感覚があるのだが、セーラー服を着ると、自分が開放される気分になる。何か行けそうな気がした。
 
「セーラー服着たら、女の子に見えちゃう」
「というかさっき学生服を着ていた時の方が、何か違和感があった」
などと先輩たちが言う。
 
ピアノの前に座る。再度譜面を読む。頭の中に音符が元気に踊る。よし!
 
それでまずは『怪獣のバラード』を弾いた。ダイナミックな音がピアノから放出される。ほんっとに楽しい曲だ。でもこれ演奏能力を要求する曲だ。
 
左右の腕がピアノというフィールドの中で左右に振れる。10本の指が自由に動き回る。これは私が弾いているのではない。こんな曲、初見に近い状態では「自分で弾こう」としたら弾けない。私という存在が、楽譜とピアノを結ぶ仲介者(触媒)になるのだ。
 
弾き終わると、凄い拍手をもらう。
 
「凄い! さっきと別人!」
 
「インテラパックスも行ってみよう」
と下着姿の倫代。(一応教室には暖房が入っている)
 
譜面を見ながら演奏する。しっかしこれは超絶難曲だ。でも、譜面とピアノをつなぐ仲介者になった私の腕と指は華麗にその曲を弾いていく。グランドピアノの52の白鍵と36の黒鍵の上を、私の10本の指が踊り回る!
 
超絶難曲だけど超絶快感!!
 
終わるとまた拍手をもらうが、2年生の人から訊かれる。
 
「上手いじゃん! でもさっきの演奏は何?」
「そうそう。なんでさっきはあんなにたどたどしい演奏だったの?」
「冬は女の子の服を着ると変身するんです」
「何それ?」
 
「天王はるか、みたいなものですね。男の子の格好している時もそれなりに凄いけど、女の子の格好になるとスーパーヒロインになる」
 
ポリポリと私は頭を掻いた。
 
「だから、冬にはセーラー服を着せて出演してもらいましょう」
「それで今みたいに弾けるなら全然問題無い」
 
「あ、ごめん。下着姿じゃ寒いよね」
と言って私は倫代のセーラー服を脱ごうとする。
 
「待って。冬、そのセーラー服ずっと貸しておくからさ。練習に毎日それで出てきてよ。ってか今年いっぱいその服で通学しない?」
「えっと・・・・」
 
「私が代わりに冬の学生服着て通学しようかな」
と倫代が言うと。
 
「学生服着てたら下手くそなんだったら、セーラー服着ててもらわないといけないね」
と先輩たちも言う。
「私、洗い替え用の予備を持ってるから、そのセーラー服持ってこようか」
「あ、お願いします」
 
何だか勝手に話が進んでる!
 
「ボク、今月来月は超絶忙しいんだけど」
「昼休みにも練習してるからさ、その昼休みだけでもいいよ。放課後の練習は冬の演奏を録音しておいて使う」
「うーん・・・・クリスマス会はいつ?」
「12月25日土曜日」
 
「ごめん。その日は、HNSレコード主宰の2005年ニューアイドルフェスタに出る」
「冬、アイドルとしてデビューするの?」
「まさか。来年2月にデビュー予定の、篠田その歌って子の伴奏をするんだよ」
「それ何時?」
 
「何組か出演するイベントだから、時間がずれる可能性あるんだよね。一応17時くらいの予定だけど、18時近くまでずれる可能性はある。ステージは10分くらいなんだけど」
「場所は?」
「新宿」
 
「じゃ大丈夫だ」
「こちらのクリスマス会は、中学生は夕方になる前に終わるから。うちの出番はプログラムの順番から考えて14時頃」
「場所は市民会館ね」
 
「取りあえず今日はそのセーラー服のまま帰っていいよ」
「え?じゃ倫代は?」
「冬の学生服を着て帰宅する」
「お母さんが仰天するよ」
「コスプレだって言うから大丈夫」
 
「でも冬もセーラー服のまま帰ったら仰天されるかな?」
と小学校の合唱サークルでも一緒だった日奈が訊いたが
 
「ああ、冬がセーラー服で帰宅しても、お母さんは何とも思わないと思う」
と倫代は言った。倫代はもう私の学生服上下を着ちゃってる!
 
「あ、冬が否定しない」
「図星だったみたい」
「実はセーラー服持ってたりして」
 
「あ、否定しない!」
「冬、自前のセーラー服持ってるなら、それで通学しておいでよ」
「持ってない、持ってない」
 
「いや、さっきの表情の感じでは絶対持ってると思う」
と日奈。
 
「まあいいや。ホントにそれ貸してあげるから」
と倫代。
 
「明日、私が予備の制服持ってくるね」
と先輩。
 
「それで交換すればいいね」
「ということで、冬は年末まで、セーラー服で通学してね」
「えっと・・・」
 

まあ、仕方ないので、その日はその借りたセーラー服のまま、赤坂に行き、芸能スクールのレッスンを受けたあと、夕方から○○プロ所属のアイドル歌手のバックダンサーをした。
 
この時期のスクール通いでは、授業料を1割にしてもらっている上にバックダンサー、コーラス、ピアノやヴァイオリンの伴奏で報酬をもらうので、私の秘密のお小遣いはどんどん増殖して行っていた!
 

翌日、私が合唱部の練習でピアノを弾いていたら、吹奏楽部の貴理子が入ってきた。
 
「こちらに冬ちゃん来てない?」
「ああ、そこでピアノ弾いてる」
「あれ? セーラー服だ。とうとうセーラー服で通学するようになったの?」
と貴理子。
「ああ、昨日去勢したから」
と倫代。
 
「だったら好都合だ。冬をちょっと借りられない?」
「うーん。じゃ、30分までならいいよ」
「じゃ、借りまーす。冬ちょっと来て」
 
といって吹奏楽部の練習をしている音楽練習室に連れて行かれ、そちらでクラリネットを吹く。
 
「あれ?誰かと思ったら唐本君?」
「あ、そういえば9月の大会の時もセーラー服着てたね」
「どうしたの?」
「性転換したそうでーす」
「あ、じゃ、セーラー服でいいんだね」
 
ということで私のセーラー服姿は吹奏楽部員たちに何の問題もなく!受け入れられてしまった。
 

その日はアスカとの練習日だったので、結局そのセーラー服のまま学校からアスカの家に直行した。この時期はだいたい《Rosmarin》はアスカの家に置きっ放しで、伴奏の仕事には《Flora》を使用していた。
 
「あれ、いつも着てるセーラー服と少し違うね」
とアスカから言われる。
 
「いつも着てるのは姉のおさがりでデザインが昔のなんです。デザインが変わっちゃったので。これが今のデザインなんですよ」
「ああ、じゃとうとう自前のセーラー服を買ったんだ?」
「いえ、借り物です」
 
「買えばいいのに。冬って、どう考えても学生服着ている時間よりセーラー服着ている時間の方が長い」
「その学生服を没収されて、年末までセーラー服で通学するよう言われました」
 
「そりゃ冬は女の子だからね。学生服を着ているほうがおかしい」
「男の子ですよー」
「おちんちんが付いてないんだから、女の子で間違いない」
「付いてますー」
 
「いや、付いてないことは確認済み。もし付いているというのなら私にそれ見せなよ。写真に撮ったりはしないからな」
「人に見せるようなものじゃないから」
「それ、最後に人に見られたのは、いつ?」
 
「うーんと・・・・小学2年生の時にお医者さんに見られたかな」
「ふーん。それでそのお医者さんに切ってもらって、無くなったのね」
「切られてません。切ってあげようかとは言われたけど」
「切ってもらえば良かったのに」
「切って欲しかったんですけど」
 
「切られるの嫌だって言ったの?」
「切ってくださいと言った」
「じゃ、やはり切られたんだ?」
「切ってくれなかったんですー」
「私にまで嘘つかなくてもいいのに」
「うーん・・・」
 
「だいたい今目の前に何か書類があって性別欄があったら冬はどちらに丸付ける?」
「女に丸付けます」
「つまり冬は女だということだよ」
 

ところで、私が倫代のセーラー服を借りてそのまま帰宅した日、その姿を見た母は、特に何も言わなかった。姉があとから
 
「あれ? これ私のセーラー服じゃない」
と言っただけである。
「倫代に借りた−」
「ああ、倫代ちゃんね」
 
というだけで会話は終わってしまう! そして翌朝、私が朝ご飯の後でセーラー服を着て出てきても母は特に何も言わず、笑顔で
「いってらっしゃい」
と送り出してくれた。(父は深夜に帰宅したし、朝は先に出かけていた)
 
朝の内に合唱部の先輩から予備の制服を貸してもらい、女子更衣室で!着替えて、倫代の制服は返す。倫代はホントに学生服で登校してきていたが、それでセーラー服に着替えた。
 
「倫代、学生服で帰宅して今朝も出てきて何か言われた?」
「お前何やってんの?とは言われたけど、コスプレということで納得してもらった」
「納得されるのか!」
「冬は何か言われた?」
「何も言われなかった・・・・」
 
「多分、冬がセーラー服を着ているのが自然過ぎたんだよ」
「うーん・・・」
 

「ところでこの学生服は年末まで私が預かってていいよね?」と倫代。「返してよぉ」と私。
「でも学生服をいつ着るのさ?冬」
「えっと・・・・通学に着る。あと授業中」
「他の子には言ってないけど。冬さ、確かに朝出てくる時は学生服だけど学校から帰る時はたいていセーラー服じゃん」
「う・・・見られてたのか」
「普通気付かない。単にセーラー服を着た女の子が下校している姿にしか見えないから。冬、色々習い事とかしてるみたいだけど、そのお稽古先にセーラー服で行ってるんでしょ?」
「うん・・・まあ」
 
「授業中も多分冬がセーラー服着ていても誰も何も言わない。試しに今日1日学校でもセーラー服で過ごしてごらんよ」
「うーん・・・」
 

それで私はその日、セーラー服で授業を受けたのだが・・・・・
 
先生たちは本当に何も言わなかった!
 
そもそも、私がセーラー服を着ていることに気づいてないのではないかという気がした。
 
女子の友人たちからは「どうしたの?」と訊かれたので、私が合唱部のピアノを弾くのに、セーラー服を着てないとちゃんと弾けないからというので、合唱部のクリスマス会が終わるまで、セーラー服を着ているように言われたと説明した。何かとんでもない話のような気もしたのだが、友人たちは納得してしまった。
 
「じゃ、冬ちゃんこれからはずっと女子制服で授業受けるのね?」
「来月末までだよぉ」
「いや、遠慮しなくてもいいのに」
「誰もセーラー服姿の冬ちゃんは変に思わない」
 
男子の友人たちからは
「ああ。とうとう、そちらに行っちゃったか」
「トイレは女子トイレ、更衣室は女子更衣室を使えよ」
などと言われる。
 
「いや、普段も唐本が男子トイレに入ってくると、ギクっとするからな」
「男子更衣室で唐本が着替えてる時は、そちら見ないように気をつけてる」
「俺、唐本の姿を思い浮かべてオナニーしちまったことある」
「ちょっと、ちょっと」
「いや。それ変態じゃない。普通の反応」
 
まだこの時期はあまりその生態をみんなにカムアウトしていなかった《吟ちゃん》が、何だか熱い視線をこちらに向けていたので、まさかこの姿見て好きになられたんじゃないよな?と思い、ドキドキした。
 

なお、私は中3の夏にもしばらく女子制服で通学していて、この時は先生に呼ばれて自分の性的な志向を主張して、女子制服での通学を認めてもらったのだが、この中1の年末頃の女子制服使用については、後から先生たちに聞いてみても、全然覚えていないと言われた。
 
「まあ、男の子がセーラー服を着ていたら目立つから先生も気付くけど、冬は女の子だから、女の子がセーラー服を着ていても誰も変に思わず、何も言われなかったんだろうね」
などと後に倫代からは言われた。
 
若葉からも似たようなことを言われた。
 
「人はね、普段と違うものを見ると、あれ?って思うんだよ。だから例えば秋元君とかがセーラー服を着ていたら、そういう秋元君をみんな見慣れてないから、どうしたの?って言う。でも冬がセーラー服を着ていても、そもそも不自然じゃないし、そして実は冬って結構以前から校内でもセーラー服を着ていて、それをみんなが目撃しているでしょ? だから、普段見慣れているものを見ているだけなのよ。だから、誰も何も感じないんだよね」
 
「うむむ・・・」
 
 
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【夏の日の想い出・走り回る女子中生】(1)