【夏の日の想い出・花の女王】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2013-07-13
ところで、ローズ+リリーにはこれまでデビュー以来5年間、一度もファンクラブが作られたことが無かったのだが、花枝が主導して、来年の1月からファンクラブの活動をすることになった。
それで、その《予備登録》を今回の福岡・横浜・大阪の公演会場で受け付けることにした。入場ゲートのそばに《ローズ+リリー・ファンクラブ開設》という看板を出して、登録用紙(料金受取人払のハガキ)を自由に取ってもらい、会場内のボックスに入れてもいいし、後から書いてポストに入れてもいいということにした。
その結果、福岡では11000人の入場者に対して、後から郵便で到着した分まで入れて、3万人以上の予備登録があり、花枝が仰天していた。
恐ろしい数の登録数だったので、花枝は急遽、この登録の事務をするバイトさんを10人雇うとともに、会場で回収した分と初日到着した分は入力代行会社に丸ごと委託した。社内で入力をしてもらうのに雇った人の中のリーダー格は汐田早波さんという27-28歳くらいの人で、以前花枝が務めていたイベンターでもデータ入力のバイトをしていたという人であった。
「汐田さん、タイプ凄い速いですね」
と私は彼女の入力している様を見て言った。
「ええ。以前テープ起こしの仕事とかもしてたので」
「わあ凄い。秒10文字以上打ててますよね?」
「そうですね。カナ入力で秒9-10文字くらい、英語の入力やローマ字入力なら秒12文字くらいです。こういう日本語ばかりの入力ならカナ入力の方が速いですね」
「おお! カナ入力派だ。仲良くしましょう」
と言って、私は彼女と握手した。
UTP関係者でカナ入力するのは、私と政子の他は悠子くらいである。ちなみに私がカナ入力するのは、その方がローマ字で打つより速く入力できるからで汐田さんと同様の理由である。私はだいたいカナでも英語でも秒7-8文字くらい打つ。政子の場合も、カナ入力の方が速いといえば速いのだが、政子は両手の中指1本ずつで、のんびり打ち込むので、どっちみち、ゆっくり入力である。
なお、予備登録は急遽、UTPのサイト、及びローズ+リリーの公式サイトにも入力フォームを作り、オンラインでも登録できるようにした(携帯のメールアドレスで認証する方式にして、スパム登録や二重登録を防止)。
この結果、横浜・大阪での用紙による登録と、オンライン登録とを合わせて9月末までに20万人の登録者があった。
ローズ+リリーのファンクラブは年末までは「準備期間」の名目で無料運用し、1月以降の継続を望む場合は会費の納入が必要という方式にした。サービス内容としては、会員証の発行、会員限定コンテンツの公開、定期メールなどで、12月にはローズ+リリーの写真入りクリスマスカードを送付、そして来年の春以降ローズ+リリーのライブでのファンクラブ先行予約を行うことも予告していた。
(但しファンクラブで売るのは全体の2割以下で、座席もぴあなどと対等に分けるので、ぴあでも最前列が取れる可能性があることを断っている)
花枝はファンクラブの活動をしていく上で、こういうことができないかという要望を募集した。その結果、年4回くらいでもいいから会報を出して欲しいという声がひじょうに多かった。最近はネット上の限定ページやチケット優先確保だけをサービス内容にして会報は発行していないファンクラブが、アイドル系を中心に多くなっているが、やはり紙の会報を求める声も強いようである。
花枝はこの会報の作成について、ローズ+リリーの最新情報をいつもレポートしてくれている《千葉情報》の発信者、琴絵・仁恵のふたりに接触して打診した。するとふたりは、一般向けにも充分な情報を流し続けることを条件に会報の編集を引き受けてくれることになった。(この件に関して、ふたりが来年入社する予定の★★チャンネルおよび親会社の★★レコード側の承認も取れた)
なお、ファンクラブの会員番号は一般の人には1001番から出すことにした。そして1番はマリ、2番はケイということにした。
さてローズ+リリーの福岡公演にゲストで出てくれたバレンシアは公演の4日後、9月4日の水曜日にデビューCDが発売になった。私は名目上はこのCDの制作には関わってないことになっているのだが、一応事務所の先輩という立場でデビュー曲発表記者会見には同席して、色々コメントをしておいた。
彼女たちは週末の横浜と大阪のローズ+リリーのライブにも参加した後、9月いっぱい全国のライブハウスをキャンペーンで回ることにしており、それには窓香が帯同することになっている。
そのバレンシアの発売日翌日。私は月末に予定しているKARIONのアルバムの件で打ち合わせがあるのでと言われて出て行ったのだが、場所が写真スタジオだというので、何だか嫌な予感がした。
取り敢えず完成して既にプレスに回している音源を聴かせてもらう。みんな出来映えに満足している感じだ。
「まあ、そういう訳で今日は午前中、このアルバムに封入するミニ写真集用の写真を撮ろうと」
と畠山さん。
「わあ、みんな頑張ってね」
と私は言ったのだが
「蘭子も頑張ろう」
と小風に言われてしまう。
「やはりそうなるのか」
「顔は出さないからさあ」
「うむむ」
という訳で私も振袖を着せられた。着付けをしてくれたのは畠山社長の妹さんで都内で美容室を開いており、しばしば∴∴ミュージックのスタイリスト的な役割もしている。私も6年来のお付き合いである。
着た振袖の色は、和泉が赤、小風が黄色、美空が青、私はピンクであった。
私は身長が166cmほどあるが、和泉も165cmの長身なので、並ぶとほとんど変わらない感じである。小風−和泉−私−美空、と歌う時にいちばん自然な並びに並んでの写真も撮ったが、長身の2人が中央、150cm台の小風と美空が脇にという構図は、とても美しくなる。(後で編集で私の顔はマスクしてもらう)
なお、私がKARIONを辞退した後に一時加入したラムは170cmを越える長身だった。
ひとりずつの写真も撮ったが、私は後ろ向きの写真を掲載してもらうことにした。
午後からは菊水さんのスタジオに移動して、PVの撮影を行った。写真集にも写ってしまったので、PVくらいもうどうでもいいやという感覚である。しかし水沢歌月がKARIONのPVに出演するのは久々になった。
トラベリングベルズのメンバーにも入ってもらって、実際に演奏している所を撮影した。私がキーボードを弾くので、ヴァイオリンについては、七星さんにお願いして出てきてもらい、ウィッグを付けて私のボディダブルを務めてもらった。
「すみませーん。詰まらない用事で呼び出してしまって」
「いいよ。ちゃんとその分のギャラはもらうしね」
と言って七星さんは笑っていた。七星さんは身長160cmくらいなのでヒールの高い靴を履いて私との身長差を調整し、吹き替えを務めてくれた。
なおヴァイオリン奏者の近景はあらためて私が同じ衣装・ウィッグを着けて別途弾いて撮影する。ただし、顔と指は写らないようにしてもらった。指は顔と同じくらい表情があるので、指を見たら私の指であることがバレてしまう。
ひととおり撮影が終わり、映像を確認しながら休憩する。トラベリングベルズの5人はお疲れ様でしたということで解放し、KARIONの4人と畠山さんに七星さんで、しばしお茶を飲みながら話をする。
「でもとうとう蘭子ちゃんが写真にも写ってくれて僕は嬉しいなあ」
などと畠山さんは言っている。
「ね、ね、この写真と見開きにしたりしない?」
などと言って、畠山さんは自分のパソコンの中から一枚の写真を取り出す。
「うっ」
「おお、可愛い!」
「何だか懐かしい〜」
それはKARIONのデビュー前に、私たち4人で撮った写真である。4人ともヒラヒラした感じのドレスを着ている。
「あ、今回の振袖と同じ配色じゃん」
「ほんとだー」
写真の中でも、和泉が赤、私がピンク、小風が黄色、美空が青を着ている。並んでいる順序も、小風−和泉−私−美空 である。
「何も考えずに衣装を選んだけど、やはりこの4人、こういうイメージなのかね〜」
と畠山さんは感心していた。
七星さんも写真を覗き込んで
「可愛い。ちゃんと冬ちゃんも女の子してる」
などと言っている。
「まあ、普通に女子高生にしか見えませんよね」
と小風。
そんな話をしていた時、七星さんの携帯のバイブが鳴った。
「あれ、繁ちゃん(鷹野さん)だ」
と言って電話を取る。
「はい」
「・・・えーー!?」
「どうしました?」と私が訊く。
「繁ちゃん、急病だって」
「えーーー!?」
私も驚いた。
「病状は?」
「それが、手足口病らしい」
「・・・あれ?大人でも罹るんですか?」
私はてっきり子供の病気だと思い込んでいた。
「ああ。大人でもやるよ。私も大学生の時にやったから」
「へー!」
「どうしよう? あれ治るまで一週間掛かる」
と七星さんは本当に困っている感じ。
私は電話を代わり、直接本人から病状を聞いた。取り敢えず医者からはできるだけ他の人との接触を避けるよう言われたらしい。お母さんが来て、取り敢えずしばらく御飯とかの世話はしてくれることになったらしい。
「分かった。代理の演奏者は何とかするから、休んでてください」
「ごめーん」
と鷹野さんは本当に申し訳ないという感じであった。
さて。鷹野さんは公演でヴァイオリンとベースを弾く。ひとりでこの両方が弾ける人が簡単に確保できるとは思えないから、2人の代理演奏者を見つけなければならない。日数が無いから、できたらローズ+リリーの曲をよく知っている人が良い。
ヴァイオリンは何とかなりそうな気がする。ヴァイオリン奏者には初見に強い人が多い。やはり問題はベースだ。
最初に考えたのはローズクォーツのマキだった。が即否定した。彼ならローズ+リリーの曲は全部弾ける。が困ったことに、土曜日はローズクォーツが出演する「しろうと歌合戦」の生放送がある。時間帯も重なっているので彼を使うことはできない。
次に考えたのはバレンシアのベース奏者・愛好(あいす)だ。どっちみち一緒に行く。ベース奏者が必要になるのは、ライブの後半だから、ゲストコーナーで出てきた人が、そのまま後半のライブに居残りするのは演出上もそう大きな問題は無い。しかし私は否定した。これが一週間くらい時間があればいいのだけど、公演が土曜日で今日は木曜。つまり1日しか時間が無い。その1日で、11曲を覚えるのは、少々できる人でも至難の業である。バレンシアの練習を見ていて愛好(あいす)の譜読みはあまり速い方ではない気がしていた。
シレーナ・ソニカの穂花も考えてみた。実力は充分だし初見にも強い。大会場でのパフォーマンスは未知数だが度胸はありそうだ。しかし、彼女を使うには《鈴蘭杏梨》問題を考慮しなければならない。できたら避けたい。
私はスイート・ヴァニラズのSusanに頼めないかと思い、電話してみた。彼女は初見に強いし、セッションセンスも抜群である。
「おはようございます」
「おはようございます」
と挨拶を交わして、事情を説明した上で都合を訊いてみた。
「いつ?」
「今度の土日なんですが」
「ああ、ごめん。日曜日はライブハウスの出演がある」
「ああ、そうでしたか。済みませんでした」
「うん。ごめんねー」
私は悩んだ。nakaさんも考えたが、今度の土日はワンティスの録音が入っていたはずだ。トラベリングベルズのHARUさんも一瞬考えたのだが、今週末は妹さんの結納があると言っていた気がする。他にも何人かの知り合いのベース奏者を考えてみたが、やはり1日で11曲覚えてもらわないといけないというハードルが高すぎる。これはと思った人3人に電話してみたら全員土曜か日曜のどちらかがふさがっていた。私はいっそ土曜と日曜で別の人を使うか?というのまで考え始めた。
その時、和泉が訊いた。
「鷹野さんが病気で、代わりのベース奏者が必要なの?」
「うん。今度の土曜の横浜と日曜の大阪。大会場だから、舞台度胸のある演奏者でないといけないし、ベースはバンドの中心だからセッションセンスのある人でないと無理だし、譜面を覚える時間が明日1日しかなくて、その1日で演奏する11曲を覚えてもらわないといけないし。マキが使えたらいいんだけどテレビ番組とぶつかるんだよ」
と私は説明する。
「だったら、ここに1人、ベース奏者がいる」と和泉。
「ん?」
私は思わず和泉の視線の先を見た。
「へ?」
と美空が見つめられて声をあげる。
なるほど! 美空はローズ+リリーの曲は(ライバルなので)全部聴いてるはずだ。しかも彼女は元々、曲を聴く時に無意識にベースラインを追いかける癖がある。ということは、ローズ+リリーの曲のベースラインを、普段から頭の中でシミュレーションしているはずだ。しかも元々他人の演奏に合わせるのが上手い。最高の人材じゃん!
「みーちゃん、ちょっとローズ+リリーのライブに出てみない?卒論の気分転換」
と私は笑顔で言う。
「えーー!?」
「ああ。それもいいね。友情出演で出てあげなよ」
と畠山さんまで言い出す。
「そうだ。みーちゃんをローズ+リリーの第4のメンバーに任命しよう」
「第4のメンバーって、3人目は?」と美空が訊くので
「和泉だよ」と答える。
「そうだったのか!」
「待て。いつの間に私、3人目になったんだ?」と和泉。
「マリが決めた」と私。
「へー、いっちゃんが3人目、みーちゃんが4人目か」
と小風が言うので
「じゃ、こーちゃんを5人目ということで」
と私は返した。
それで私は演奏予定の曲目のMIDIを開き、取り敢えず流してみた。
「何とかなりそうな気はする。曲自体はみんな良く聴いてる曲ばかりだし」
「じゃマイナスワンで流すから弾いてみてくれない?」
「うん」
まずはプリンタで譜面を全部印刷する。美空はプリントされている間に順次譜面を読んでいた。スタジオのベースを借りて、MIDIをベースだけオフにしたマイナスワン状態で流す。美空が演奏する。「ひとりでは寂しいよぉ」と言われたのでギターもMIDIをオフにして、私がギターを弾いて、ふたりで演奏し、ついでに私が歌も歌って、11曲演奏した。
「できるじゃん。凄い」
「いや、今のは何とか弾いたというだけ。弾ける状態にするには少し練習しないと」
「それを今夜もう一度と、明日やろう」
「じゃ自分のベースを取ってくるよ」
ということで、この場はいったん解散し、夕食後、あらためて私と七星さん、美空が集まることにした。美空が演奏することについて、その場にいた畠山さんは了承というより面白がっていたので、私は、花枝と氷川さんに連絡して承認を求めた。ふたりとも驚いていたが、了承してくれた。
美空が自分のベースを取りに行った間に、私はアスカに電話した。取り敢えず土日の都合を訊いてみたのだが「ごめーん。日曜日に新潟でリサイタルやる」
ということであった。
「でもそれ緊急事態だよね?」
「うん。困ってる」
「じゃさ、私の後輩を紹介するよ。凄く初見に強い子がいるんだよ。本人ロックも好きで、レッド・ツェッペリンとかダークネスとか聴いてたみたいだから行けると思う。本人の承諾が得られたら、連絡するから」
「助かります」
やがて美空が自分のベースを持って戻ってくる。氷川さんと花枝も来た。夕食を終えた七星さんも戻り、近藤さんと酒向さんも来てもらって練習をした。ついでに晩御飯を食べ損なった政子まで出てきた。ピザの出前を取ってあげたら喜んで食べていた。
「私にも少し取っておいて〜」と同じく晩御飯を食べ損ねた美空は言っていたが「無理」と政子はひとこと言う。私は笑って「練習が終わったら焼肉にでも行こう」と言った。
「みーちゃん、練習が終わったら冬の女子高生ヌード見せてあげるよ」
などと政子が言っている。
「う、それはちょっと見てみたい気がする」と美空。
「ちょっとぉ、そんなの人に勝手に見せないでよ」
「いいじゃん、減るもんじゃなし」
「そもそも、そんな写真iPhoneに入れて持ち出さないでよ。落としたりしたらどうすんのさ?」
「話題にはなっても別にスキャンダルにはならないと思うけど。セックス中の写真とかじゃないし」
「もう・・・」
「冬は晩御飯食べた?」
「食べてないけどいいよ。マーサ食べてて」
「うん。食べてる」
実際に近藤さんがギター、酒向さんがドラムスを打って合わせてみる。
「君、うまいねー」
と近藤さんが感心していた。
「美空は、お姉さんが組んでいたバンドでずっとベースを弾いてたんですよ。KARIONとしてデビューした後でも、結構休日のライブとかに引っ張り出されているみたい」
「へー。やはり普段から弾いてるからかな。弾き慣れている感じがあるよね」
「だいたいバレてないんですけどねぇ。春休みに大会出て行った時、審査員がゆきみすず先生だったんですよー。あんた何してんの?って言われましたけど」
「あはは」
ゆきみすず先生はKARIONの初期のプロデューサーである。
「一応、歌手のプロではあるけど、ベースのプロではないということで勘弁してもらいました」
「いや、充分にプロ級だと思う」
と近藤さんは言っていた。
翌日、午前中、私はアスカの家に行き、アスカの後輩の更紗さんという人を紹介してもらった。現在♪♪大学の2年生ということだった。
「私、基本的にはあまりポップスはやらないんですけどね。でも冬子さんも凄いヴァイオリニストだから、ヴァイオリニスト同士のよしみで助けてあげてと言われました。だから冬子さんの腕前を見せてくれませんか? 下手だったらこの話お断りします」
などと言われる。この気の強さはさすがアスカと相性が良さそうである。
「うーん。じゃ何か演奏しようか?」
ということで3人で地下の練習室に降りて行く。
「ヴァイオリンはこの子を貸してあげるよ」
とアスカは《Angela》を貸してくれた。アスカが中学時代から大学3年生の時まで使用していたヴァイオリンで数々のコンクールに入賞した、いわばアスカにとっての出世時期の愛用楽器である。18世紀に制作された古楽器であり、購入価格は6000万円くらいと聞いている。
「お借りします」
と言って受け取り、ケースから出してちょっと撫で撫でする。調弦する。
「ツィガーヌか、カルメン幻想曲あたりでも弾きましょうか?」
と私が言うと
「じゃ、カルメン幻想曲弾いてください」
と更紗は言う。どちらも難曲だが、こちらが少しだけ難しい。でもアスカはニコニコしている。
「私がピアノ弾いてあげるね」
と言ってアスカはYamaha S6A の前に座る。
ミッミミ・ミファ・ソファ、ミッミミ・ミレ・ドレ、・・・・
という格好良いスタッカートのピアノ前奏に引き続き、私はこの曲を弾き出した。ビゼーの『カルメン』の中の曲を利用してサラサーテが作った12分ほどの作品である。サラサーテは一般の人には『ツィゴイネルワイゼン』の作者として知られるが、ヴァイオリニストの間では、この曲もよく弾かれる。本来はオーケストラと一緒に演奏する曲だが、ピアノ伴奏で弾くことも多い。そして!ピアノ伴奏で弾く方が難しい曲である。
更紗は椅子に座ってじっと聴いている。私の左手の指の動きを注視している感じもある。
そして私たちが弾き終わると笑顔で拍手してくれた。
「凄いですね! こんなに弾けるとは思ってませんでした。解釈が凄く深い。私も『あ、そうか』と思った所が何ヶ所かあった。ヴァイオリニストに転向しません?」
と更紗。
「それやると、★★レコードが倒産するから」
「ああ、それはまずいですね」
「でもさすがだね、冬。ちゃんと《Angela》を弾きこなすね」とアスカが言う。
「いや、弾きこなせてません。この子、凄い子です。政子の言葉を借りると、ブロントサウルスに乗ってる感じでした。普段弾いてる《Rosmarin》なら、馬に乗ってる感じなんですけど」と私は言う。
「そうですか?ちゃんと弾きこなしているように見えましたけど」と更紗。
「いや、この子を弾きこなすには私、10年は掛かりそう」
などと言うと
「なんなら10年くらい貸与しようか? 格安で」
などとアスカに返される。
「あはは。アスカさんの格安って怖いなあ」
「でも、ヴァイオリン科の学生ですと言っても充分信用してもらえるよね」
とアスカ。
「まあ、ヴァイオリン科の学生と言ってもピンからキリまであるから」
と私。
「いや。♪♪か芸大のヴァイオリン科の学生と言って信用してもらえると思います。というか、うちのクラスに入ってもこの腕ならかなり上位ですよ」
「それはさすがに褒めすぎ」
「でもまあ確かに音楽大学にもピンからキリまでありますよね」
と更紗。
「あるある。凄いとこもある」
「こないだ、うちの教授が言ってましたよ。講師で行ってる私立の音大で、ヴァイオリン科の学生で、300-400万しそうな楽器持ってるのに、音階が弾けない新入生がいるって」
「へ?」
「話にならないから、まずはそれ弾けるようになるようにと課題出してるんだけど春から一向に改善されないらしくて。極端に音感が悪いみたい」
と更紗は言う。
「それ、何のためにヴァイオリン科に来たのかな?」
「というか、よくそれでヴァイオリン科に合格したよね!」
「まあ、世の中いろいろ不思議なことはある」
「うーん・・・」
「でもこの『カルメン・ファンタジー』はかなり弾いてたんですか?」
「私が高校1年でアスカさんが大学1年の頃かな、かなり一緒に練習しましたね。ノンストップ10時間コースとかで、この地下練習室で」
「へー。どんな感じで練習するんですか?」
「ヴァイオリンとピアノを1回交替でノンストップ」と私。
「だいたい夜10時くらいから始めて朝8時くらいまでかな」とアスカ。
「ひゃー!!」
「休憩はトイレに行く時だけ」と私。
「水とコーヒー・紅茶は飲み放題、但し砂糖無し」とアスカ。
「だからダイエットに良い」
というより、こんな練習してて砂糖を取っていたら絶対身体に良くないから砂糖無しなのである。
「最近は8時間コースになっちゃいましたね。深夜1時から朝9時まで」
「最近でもやってるんですか!?」
「今年はモーツァルトの(ヴァイオリン協奏曲)5番をひたすら弾いてる」
「わぁ・・・」
「たまに気分転換に3番や4番も弾く」
「更紗ちゃんも一緒にやらない?」
「ごめんなさい。パス。そこまで私体力に自信無い」
そういう訳で、更紗は快く土日の鷹野さんの代役を引き受けてくれたので、その後は演奏予定の譜面を渡して弾いてもらった。さすがアスカが推薦するだけのことはある。一発できれいに演奏してくれた。
「彼女入れると、『花園の君』の新譜でも弾けるよ」
とアスカが言う。
「どんな譜面なんですか?」
と訊くので、見せると「ぎゃっ!」と声をあげた。
「これ、アスカ先輩、弾いたんですか?」
「うん」
「アスカさんは初見で弾いちゃったね」と私。
「きゃー。ちょっと初見では自信が無い」と更紗。
「じゃ5分準備時間のあと弾いてみよう」とアスカ。
更紗が必死に譜面を読んでいる。時々指を動かすような動作もした。
「じゃ、私がパート2、冬がパート3というのでやってみようか」
「うん」
「頑張ります」
それで3人で弾いてみる。更紗は何ヶ所か間違ってしまったものの、全体的には何とか弾きこなした。
「難しかった! アスカ先輩、これ初見でノーミスで弾けました?」
「うん」
「アスカさんは、いきなり完璧に弾けたね」
「凄い! 私も頑張ろう」
私は松村さんに電話し、まずは鷹野さんが病気で倒れて今度の土日は出られないことを伝えて、ピンチヒッターのヴァイオリニストにアスカの後輩で《凄い腕》の人を確保したので、その人に『花園の君』の新譜のパート1を弾いてもらうので松村さんには新譜のパート2を弾いてもらえないかと打診した。松村さんは「了解です」と答えたが、
「花の女王でも、その方にパート1を弾いてもらいますか?」
「いえ。そちらは松村さんがパート1でお願いします。テンポキープの問題もありますから。こちらの方に鷹野さんが弾いていたパート2を依頼します」
「了解しました」
練習時間は今日1日しかないので、こちらとしてはあまり無理したくない。
更紗が挨拶だけしておきたいということだったので、電話を代わり少し話をさせた。
午後からは更紗を連れてスタジオに行き、七星さん・近藤さんと引き合わせた。そして『花の女王』を、私のパート1、更紗のパート2、七星さんのパート3で演奏してみた。
「凄い!」
と言って七星さんが感動していた。
「これだけ弾けたらヴァイオリン科のトップですよね?」
「それが、凄く強力なライバルがいて、1〜2位をふたりで争ってます」
「わあ、頑張ってね!」
「はい」
更に『花園の君』も更紗のパート1、私のパート2、七星さんのパート3で新譜で演奏する。近藤さんが天を仰いでいた。
「アスカさん見た時も思ったけど、なんか別世界という感じだ」
「アスカさんの演奏もダイナミックですけど、更紗さんの演奏も激しいですね。でも少し荒削りな感じでしょ? その分が伸び代なんですよ。だから更紗さんは数年後にはアスカさんの良きライバルになるでしょうね」
などと私は言う。
本人は「いや、ライバルなんて、おこがましい。アスカ先輩は雲の上の人です」
などと言っているが表情を見ると闘争心充分。たぶんアスカもこういう更紗を見て楽しんでいるし、自分自身に対する良き刺激と思っているのだろう。アスカも相当の闘争心を持っているはずだ。
結局この午後は、スタジオの隣り合う部屋で、片方では美空が近藤さん・酒向さんと一緒にライブ後半のベースを練習し、片方では更紗が七星さん・私と一緒にライブ前半のヴァイオリンを練習するという形で進行した。政子も出てきて、両方の部屋を行き来して、いろいろ好きなように注文を付けていたが、その役割の人が欲しかったので助かった。
疲れが残ると明日に響くので練習は19時で切り上げて、みんなでしゃぶしゃぶを食べに行った。郊外のお店で個室が使える所である。そこに例によってバラバラで入る。
「昨日の焼肉も良かったけど、やはりしゃぶしゃぶは美味しい」
と政子が言うが
「同感。同感。たっぷり練習したからお腹が空いた」
と美空。
そのふたりの食べっぷりに更紗が驚いていた。
「大阪は一緒に粉物制覇しようよ」と政子が言うと
「おお、それは楽しみだ」と美空も言う。
このふたり、結構気が合いそうである。
「やはり食べ物があれば『言葉は要らない』だね」
「『食の喜び』だね」
とお互い相手の曲名で会話している。
「ところで冬の高校時代の女子高生的実態について研究してるんだけどね」
と政子。
「おお、私の知ってることなら、何でも答えるよ。昨夜見たようなヌードまでは分からないけどね」
と美空。
やれやれである!
「例えばこの写真、冬の服装は映ってないんだけど、なんか怪しい気がしてね」
「あ、これは幕張のアイドルフェスタの写真じゃん。KARIONで出ない?って誘ったんだけどね。断るから諦めてたら当日楽屋に居るじゃん。あれ?来てくれたの?と言ったらさあ。ごめーん、ドリームボーイズのバックで踊る、なんて言うんだよね」
「ほおほお」
「そんなバックで踊るなんて言わないで、私たちと並んで歌おうよと言ったんだけど、また今度とか言って逃げるんだよね」
「あはは。でも結局、ヴァイオリン弾いたじゃん」
「ほほぉ!!」
「で、質問の核心ですが、この時の冬の服装は?」
「ドリームボーイズのバックで踊った時はボディコン、私たちのバックでヴァイオリン弾いた時は、黄色いドレスだよ」
「おぉ! ボディコンって女の子の服だよね?」
「もちろん。男の子のボディコンなんて聞いたことない。バドワイザーガールみたいな感じの」
「おぉぉぉ!!」
翌日。横浜エリーナ。今回のツアーで最大規模の会場である。12000人で満員になっている中、幕が開く。福岡では女子高生の合唱団に出演してもらって『花』を歌ったのだが、横浜では弦楽四重奏団に出演してもらい、同じ瀧廉太郎の『月』を演奏した。
福岡と同様に風船の中から飛び出す演出に続き、その弦楽四重奏団の演奏に合わせて、今日は青地に銀色の月の模様を染め抜いた衣装(やはり宮里花奈さんのデザイン)の私とマリが歌った。
「光はいつも変わらぬものを、ことさら秋の月の影は
などか人に物思はする、などか人に物思はする、 あゝ鳴く虫も同じ心か、あゝ鳴く虫も同じ心か、 声の悲しき」
拍手に応えてから私たちは演奏してくれた人たちを紹介する。
「私たちの後輩に当たります、△△△大学の女子学生4人のアンサンブル、マティーナ・フォルトナートの皆さんでした!」
拍手があって4人が楽器を持って下がる。代わって、松村さん、更紗、清水さんがヴァイオリンを持って入ってくる。更にフルートを持った七星さん、クラリネットを持った詩津紅も入ってくる。
『花の女王』を演奏する。
この時、会場の一部で隣同士囁き合うような姿がところどころに見られた。鷹野さんがいないのを不審がっているのかもという気がした。この公演と福岡公演は同時に発売されているので、両方のチケットを取れた人はほとんどいないはずである。しかし公演の様子をけっこう詳しくレポートしていたブログもあったので、福岡ではここで鷹野さんがヴァイオリンを弾いたことを知っているファンもいるのであろう。
『花の女王』に続けて『花園の君』を演奏する。ここで松村さんと更紗が立ち位置を交替した。そして清水さんの横に、香月さん・宮本さんが並び、七星さんもフルートをヴァイオリンに持ち替えて並ぶ。近藤さんのギター、月丘さんのキーボード、酒向さんのドラムスも入る。
それでこの曲を演奏すると、ヴァイオリン・パート1の超絶技巧の演奏に会場が湧いて、曲の途中ではあったが物凄い拍手が起きた。その拍手を聞いて更紗も気持ち良さそうである。一流のプレイヤーは客席の反応があるとそれを吸収して演奏に磨きが掛かる。演奏後半部で一応音符は書いているものの《カデンツァ》(自由演奏)と指定していた部分では、超絶素敵な演奏を見せてくれた。ここでも聴衆から凄い拍手があった。
そういう訳で、私とマリを食ってしまった感もある更紗の演奏で『花園の君』
は曲を終えた。私は紹介する。
「第1ヴァイオリン、凜藤更紗(りんどうさらさ)!」
大きな声援があり、更紗も手を振っている。
ここで私は観客に向かって説明する。
「実はスターキッズの鷹野さんが急病のため、今日と明日の公演には参加できません。それでライブ前半の《アコスティック・タイム》でのヴァイオリン演奏の代役として、今日は凜藤さんにお願いしております。鷹野さんのファンの方、ごめんなさい」
鷹野さんは結構女性ファンが多いのである。
客はざわめいていたが、ここで松村さんと清水さんが退場し、通常のスターキッズのアコスティック・バージョンで、鷹野さんの代わりに更紗が弾く形で前半の曲が進んで行く。
『100時間』『あなたがいない部屋』『桜のときめき』まで演奏したところで舞台下手から、◇◇テレビの女性アナウンサーが入って来た。
「ライブ中に失礼しまーす。実は、今◇◇テレビで「しろうと歌合戦」の生放送をしているのですが、これの伴奏はケイさんのお友だち、ローズクォーツですね。それで、今日はその番組のゲストにローズ+リリーをお迎えして、スタジオとこの会場を回線で結んで、放送局スタジオのローズクォーツをバックにこの会場のローズ+リリーのおふたりに歌って頂こうという企画です」
この企画があることは事前には公表していなかったので、会場は結構ざわめく。
こういう二元ライブをやる時に壁となるのが「時間差」である。どんなに高速回線で両者を結んでも、音が向こう側の会場に届くのには0.数秒の時間が掛かる。その僅かな時間で両者のタイミングが合わなくなる。
今回横浜会場を選んだのは、その時間差をできるだけ小さくするためである。そして今日の「しろうと歌合戦」は横浜市内の放送局のスタジオで制作している。市内で距離は数kmである。しかしそれでもやはり遅れることは遅れる。
一応事前に類似環境でのリハーサルはしているが、本番とは完全に同じ環境ではないし、今日のセッションには未知数の部分もあった。
ステージの後ろの白い幕にスタジオで行われている番組の様子が投影される。やがてゲストコーナーとなる。今日はフライトアテンダントのコスプレをしているタカが手を振り、私とマリも手を振り返す。向こうにはこちらの様子がモニターで映されているはずだ。
やがてローズクォーツの伴奏が始まる。私たちは映像は無視して純粋にその音を聴きながら『夏の日の想い出』を歌った。会場のみんなも手拍子を入れてくれる。スターキッズは束の間の休憩中であるが、やはり手拍子を打ってくれる。
放送ではこの会場の音(私たちの生歌+こちらのスピーカーで聞こえているローズクォーツの伴奏)を流す。その音と、時々映されるスタジオのローズクォーツの演奏映像とはどうしても微妙にずれていたようだが、これはどうにもならないところである。
多分タカたちは、私たちの歌は無視して自分たちのペースで演奏しているだろう。歌のモニターを切ってもらっているかも知れない。私たちの歌を聴いてしまうと、セッションセンスの良さがあだになり、無意識に合わせようとして演奏が遅れてしまう。
終曲とともに大きな拍手・歓声があり、テレビ局の女性アナウンサーも「ありがとうございました!お邪魔しました!」と言って下がった。
その後、通常の演奏に戻り、『君待つ朝』『天使に逢えたら』『ネオン〜駆け巡る恋』と歌い、ここでスターキッズwith更紗が退場する。私があらためて更紗を紹介したので、大きな声援があり「さらちゃーん!」などという歓声まで飛んできて、更紗もちょっとびっくりしていた。
その後は、私のピアノだけの伴奏で『A Young Maiden』『森の処女』『雪の恋人たち』『夜宴』と演奏。ゲストコーナーでバレンシアが出た後で、ライブは後半となる。
まずは私の親戚6人が出て和楽器で『200年の夢』を演奏した後、美耶以外の5人が退場。スターキッズが電気楽器を持って入ってくるが、当然ベース奏者がいない。そこで私はあらためて鷹野さんの病気のことを説明した上で
「そういう訳で、ライブの後半には、素敵なベーシストをお願いしています。どうぞ!」
と私が言うと、真っ赤なベース(Fender JB62/FRD)を首からさげた美空が入ってくる。
「えーーー!?」
という声が会場から湧く。
「きゃー!」とか「おぉぉ!」
という声や
「みそっちー!」あるいは「みそりーん!」
などというコールも飛んでくる。(美空の公式ニックネームは無いものの、ライブではこの2パターンで呼ばれることが多い。一度両者でファンサイトで投票が行われたものの拮抗していたし、twitterで意見を求められた美空が「美空金剛Zが良い」などと訳の分からないことを言うので結果は曖昧になった)
「それでは紹介します、今日のベース奏者、朝風美空さんです!」
と私があらためて紹介し、美空も
「あ、どもー。未熟者ですが、よろしくお願いしますです」
と言って、ベースのポジションに就いた。横に並ぶギターの近藤さんや、サックスの七星さん、胡弓の美耶と挨拶し、後方に居る月丘さん・酒向さんにも挨拶する。
そして『坂道』を演奏した。
何だかいつもより拍手の勢いが凄い。観客はノリノリである。美空も良い感じのノリでベースを弾いている。酒向さんのドラムスとのコンビネーションもピッタリである。酒向さんは美空に合わせるつもりでいたようだが、実際には美空がちゃんと酒向さんに合わせている感じだった。私たちも気持ち良く歌うことができた。
歌が終わり、胡弓を弾いてくれた美耶を再度紹介して、美耶が下がるが、観客の興奮状態は高い。その状態に乗るようにして、私たちは『ファレノプシス・ドリーム』『Spell on You』『影たちの夜』『キュピパラ・ペポリカ』『夜間飛行』
『ヘイ・ガールズ!』『青いブガッティ』『疾走』と演奏していった。
そしてライブのクライマックス、『ピンザンティン』となるが、窓香がお玉を3本持って入ってくるので、私は「ん?」と思った。私とマリに1本ずつ渡してから、もう1本を美空に渡す。???
とにかく演奏を始める。すると、美空はなんとお玉の先を使ってベースを弾き始めた。隣でギターを弾いている近藤さんが笑っている。5月の仙台ライブではサトがお玉でドラムスを打ったが、ベースをお玉で弾くなんてのは、美空が初めてだ。私はちょっと目を丸くしてその様子を見ながら、歌っていた。
舞台の端では例によってピエトロの社長がサラダを作り、今日は佳楽がそのサラダを食べて、美味しそうにしていた。
そしてライブは『王女の黄昏』を演奏して幕が降りる。そしてアンコールになる。『私にもいつか』を演奏するが、この曲はアコスティックのアレンジなので、ギター近藤・フルート七星・ピアノ月丘・ドラムス酒向という楽器の組合せに加えて、更紗が再登場してヴァイオリンを弾く。しかし美空も入ってくる。明奈・佳楽も続けて入って来て、後方のマイクスタンドの所に立った。3人でコーラスを入れてくれるのである。
私は福岡公演と同じ説明をする。この曲が実は、ステージ復帰に向けてのマリの決意を表した曲であったこと。歌詞の中にある「ときめく時間」とは実はステージで歌う時間であること。そして今マリはステージに戻ってきたこと。
「マリ、今日はときめいた?」
「うん。ときめいた。観客のみなさんのおかげ」
暖かい拍手、「マリちゃーん」というコール。
「ケイもライブでは観客のみなさんの声援でときめくでしょ?」
「うん。何だかパワーをもらう気がするよね」
「ケイ、性転換手術を受けて1ヶ月もしないうちにライブをしたけど、その時もお客さんからパワーをもらって元気になったと言ってたね」
「あはは。まあ、そういうこともあるかもね」
観客は反応に困っている雰囲気。しかし演奏がスタートすると、手拍子に変わる。
美空たちのコーラスは楽譜には起こしていなかったのだが、適当にハーモニーになるように入れてくれた。ハーモニーを入れるのは大得意の美空が主導し、民謡でセッション感覚を鍛えている佳楽・明奈もそれに合わせて、まるで何度も練習していたかのような、きれいなコーラスになった。
そして最後の曲は私とマリ、七星さんの3人だけが残り、私のピアノと七星さんのフルートで『あの夏の日』を演奏した。
それで波乱の横浜公演は幕を閉じた。
公演後、★★レコード、UTP、△△社、○○プロ、∴∴ミュージックに、「明日の大阪公演にも、みそらちゃんは出るんですか?」という問い合わせが殺到して、一時、これらの電話が全然つながらなくなった。どこも「出る予定です」と回答したし、私も美空もtwitterで、美空が大阪公演に出ることを明言した。この件がtwitterのトレンドに登っていた。
美空が大阪公演に出ることが知れ渡ると、今度は大阪公演に追加チケットは無いんですか? という問い合わせも殺到した。これについて花枝と町添さんが急遽電話で話し合い、畠山さんの承認も取って、警備上の理由から、本来売る予定の無かった立見席(700枚)を発行することにして、翌日、つまり公演当日の朝7時に発売することを決めて、ホームページ、twitter、そして夜中ではあったが、ローズ+リリーとKARIONのファンクラブ会員へのメールで告知した。
ローズ+リリーのファンクラブ会員は、金曜日までに郵便で届いた分まで既に入力が終わっていた(汐田さん様々である)ので、それとオンラインで登録してくれた人たちに一斉メールすることにしたが、短時間に数万人にメールするのはUTPのサーバーからは無理なので、★★レコードの口利きで、KARIONのファンクラブ会員分も一緒に、大手メルマガ配信サイトに特別に依頼して送信を代行してもらった。(夜中なのでメルマガ側もサーバーに余力があった)
そして翌朝、チケットはもちろん瞬殺で売り切れた。枚数が少ないので7時ジャストに電話がつながっても取れなかった人も多かったようであった。
むろん公演は警備員を増員した。
アリーナツアーは、その大阪ユーホールで最終日となる。ここは基本的には横浜とほぽ同じ形で進行した。途中の番組中継が入らなかっただけである。大阪公演の後は政子と美空は2人で本当に粉物食べ歩きをやっていた。私はとても付き合い切れないのでふたりを放流したまま、他の人たちとささやかな普通の食事で打ち上げにした。
大阪ユーホールでのライブが終わった翌日。私たちは『花の女王』のPVを撮影した。本当は6月に音源制作をした時に一緒に撮りたかったのだが、『Flower Garden』の制作がたいへんだったのに加えて、私個人がKARIONのアルバムの方の再編曲作業で手が空かなかったこともあり制作を見送っていた。所が今回のツアーをやってて「PVが無いのは寂しい」という声が、特に今回チケットを取れなかった人たちから多く挙がった。そこで、急遽撮ることにしたのである。
ライブの疲れは溜まっていたが、早朝からスタジオに出かけて行く。予め作られていた森林のセットの中で、アルプスっぽい衣装を着た私と政子が森を散歩するかのような雰囲気で『森の処女』を歌っている所を撮影する。バラバラに歩いていたふたりが最後に出会って手を取り合う演出である。
『青いブガッティ』は実際にブガッティ・ヴェイロンを借りて、運転席に私とマリが座っている様子を撮影した。これに流れる背景を合成して完成させる。ヴェイロンは最高速度407km/hという化け物のようなスーパーカーで日本国内にも恐らく5台くらいしか無いと言われているが、カーマニアの花枝の知人の知人が偶然にも所有していたので借りたのである。その車がうまい具合に青いペイントだったので、とても助かった。
『花の女王』は、お花でいっぱいのセットを使って撮影した。花であふれた中で私とマリがフルート、ヴァイオリンを弾いている様を撮影した。私たちは花柄の衣装(福岡ライブで着たもの)を着て、花で作ったティアラを頭に付けた。そして上から花びらに擬したたくさんの千代紙を降らせて、扇風機で風を起こし、それが舞う中での撮影となった。
「なんか今回のPVって凄くお金が掛かってない?」と政子。
「気にしない、気にしない。マリが食べる御飯のお金はちゃんと取ってあるから」
「うん。私は御飯食べていられたら満足」
七星さんが吹き出していた。
「でも花枝さん、今回のPVは何だかリキが入ってますね」と政子。
「ああ、これ私の企画じゃないよ。色々手配はしたけど」と花枝。
「へ? じゃこれ★★レコードの企画ですか?」と政子。
「ううん。便宜は図ったけど、企画書の指示に従っただけ」と氷川さん。
「じゃ、これってケイの趣味なの〜?」
「違うよ。ちょっとHな偉い先生」と私は答える。
「あの人か!」
ここまでの撮影を14時頃までに終えたので、私たちは伊豆半島に移動した。私が『王女の黄昏』を書いた、西伊豆・恋人岬まで行く。この日の日入は18:01だったので、その日没を背景に撮影を行った。私たちは本当にプリンセスのような衣装を着け、手に手を取り合って歩いたり、ふたりで対称になるような形でヴァイオリンを弾いたりした。
ここで対称形にするため、私は★★レコードが所有している左利き用ヴァイオリンを使い、右手で弦を押さえ、左手で弓を引くという弾き方をした。
「ケイ、左右を逆にしてもちゃんと弾けるんだ!」
「中学の頃、知り合いの楽団の人が左利き用ヴァイオリンを使ってたんだよ。その時、借りてちょっと弾いてみたことがあった」
「冬って、ほんとに色々なエピソード持ってるね」
「あはは」
「冬の女の子ライフのエピソードもまだまだありそうだしなあ」
「うふふ」
最後に『200年の夢』のPVを撮影した。移動時間節約のため、この西伊豆のホテルの広い和室を使い、このホテルが所有している江戸時代の狩野派の絵師が描いた屏風なども立て、私たちは江戸時代の大名家の娘のような衣装を着て、一緒に抹茶を飲んだり、また私が箏を弾き、マリは龍笛を吹く真似をしたりした。マリは中学時代に吹奏楽部でフルートを吹いていたので、横笛を吹く真似をしても本当に吹いているかのように、様になっている。
・・・・と思ったのだが、
「マリ、それ実際音出るんじゃない?」
「無理だと思うけどなあ」
「ちょっと息を出してごらんよ」
マリが恐る恐る息を出すと・・・・音は出た!
「あれ〜、3年前にフルート吹いてみた時は全然出なかったのに」
「その時はたまたま調子が悪かったのでは?」
「うむむ」
それで結局マリはこの龍笛を本当に吹いて、PV撮影をした。このPVには私たちと同様に江戸時代の衣装を着た女性たちが10人ほど参加して、私たちの周囲を歩き回った。
撮影は21時前に終了した。
この1日の撮影に掛けた費用は、セットの制作費、ヴェイロンを借りるための保険代(*1)、衣装代、スタジオやホテルの借り賃、交通費、スタッフの宿泊費、最後の撮影のエキストラさんのギャラ、撮影技師への謝礼、それにプロットを書いてセットの監修までしてくれた、ちょっとHな偉い先生への謝礼まで入れて1500万円ほどになった。お金を出したのはサマーガールズ出版である。
(*1)車自体は所有者の好意でタダで貸してくれたのだが、保険は掛けてと言われた。なお、私たちは直筆の感謝状とサイン色紙を書くと共に、御礼に(会社の費用ではなく)私と政子の自腹で松阪牛の贈答セットと良質の紅茶を贈った。
「1日でこんな金額を使うと、何だか自分がお金持ちになったかのような錯覚を覚えますね」
などと七星さんに言ったら
「冬ちゃん、充分大金持ちじゃん!」
と言われた。
その日は結局西伊豆のホテルに泊まったのだが、翌朝マンションに戻った時、私は絶句した。
「何これ?」
と言ったまま私が戸惑っていると政子は
「昨日、『花の女王』の撮影に使ったお花をさ、この後どうするんですか?と聞いたら、捨てるというから、それ可哀想と言って、こちらに運び込んでもらった」
などと言う。
居間が花であふれていた。
「これさぁ、この後、誰が片付けるの?」
水にも付けていない切花は2日も経てば全部枯れてしまうだろう。
「ああ、それはきっと小人(こびと)さんがしてくれるよ」
「小人さん?」
「私がね、パソコンをハングさせて困ったり、お料理に挑戦して失敗して放置していてもね、眠って朝起きたら、ちゃんと治っていたり、台所も片付いてるのよね。あれは、きっと小人さんの仕業なの」
「あはは、小人さんね〜」
私は頭を抱えた。
「でもお花さんの中に埋もれるの楽しいよ。ほら。冬も一緒に楽しもう」
「そうだね」
私は取り敢えず後片付けのことは考えないことにした。
政子と一緒に花の中に埋もれると確かにちょっと楽しい。
「何だかこうしてると、私たち本当に花の女王みたい」
と楽しそうに言う政子を見つめて私も幸せな気分になった。
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【夏の日の想い出・花の女王】(2)