【夏の日の想い出・いと恋し】(2)

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その水曜日にはソプラノクラリネットを調達できたという連絡があった。その日は日中は陸上部の練習があったので、練習が終わった後、夕方にリーダーさんと落ち合って楽器を受け取った。
 
「ごめんね。忙しいみたいなのに。ちょっとだけお茶飲まない?おごるから」
 
というので近くのスタバに入る。リーダーさんは大学生である。わあ、大学生だとやはりスタバか、などと思う。私が友人達と「お茶を飲む」というと100円でコーヒーやドリンクが飲めるバーガーショップだ。
 
「キャラメルマキアート美味しいよ」
と勧められて頼んだが凄く甘い! 美枝とかこういうの好きそう、などと思った。
 
「唐本さんって、Tと付き合ってる訳じゃないよね? あ、これここだけの話にするし、付き合うのは個人的なことだからこちらは干渉しないけど」
 
ああ、干渉しないとは言ってはいるけど、実際団員間の恋愛問題にはセンシティブになるだろうなと私は思った。
 
「全然です。私、ほんとにたまたま新幹線で隣同士の席になって、私半分寝てたんですけど、彼がひたすらしゃべりまくって。ついでに練習見に来て来て、と連れてこられただけで。私、他に好きな人いますから」
 
「ああ、Tってそういう所あるかも知れないなあ」
とリーダーは笑っていた。
「あいつ色々強引でさ。それで他の団員と摩擦が起きがちで困ってるんだよね」
 
自分の楽団のコンマスを私という一応外部の人間の前で卑下するのって、どうなんだろうと私は少し不快に感じた。あるいはT君と相性が悪いのだろうか。T君もリーダーのことをあまり良く言ってなかったし。
 
「ところで、EさんやAさんとも親しくしてるみたいね」
「そのあたりは女の子同士のネットワークで」
「Eさん、Aさん、って彼氏いそう?」
「ふたりともそれはいないみたいですよ。いたら結構女同士で分かっちゃうんですけどね.同じ学校に片想いというより憧れている人はいるみたいだけど、ボーイフレンドとかいうレベルまでも到達してないみたいです」
 
「そうか。じゃ杞憂だったかなあ・・・・」
 
その時、リーダーは辞めたクラリネットの人がEさん、Aさん、あるいは私と恋愛関係にあり、その恋愛上のトラブルで退団した可能性も考えて探りを入れてきたのかもということに思い至った。恐らく8月の公演までは不問に伏すものの、それを過ぎたらこの問題をきちんとするつもりでいるのだろう。
 

その日リーダーからクラリネットの本体を受け取りはしたものの、その週は私はひたすらマウスピースだけを吹いていたので、管をマウスピースに取り付けてみたのは、土曜日の夜のことだった。取り敢えず音階程度は吹けるようにしておいた。
 
そして日曜日。公演の一週間前。
 
結局クラリネット奏者の調達はできなかったということだった。
「唐本さんの方はどう?」
 
「まだこの程度です」
と言って『クラリネットをこわしちゃった』を吹いてみせる。
 
「おお、できてる!」
「しかしぶっそうな曲を」
 
「音が出たというだけのことです。吹きこなすにはまだかなりの練習が必要です」
「それでも一週間でここまで吹けるようになるってすごい」
「ほんとに初めての楽器に強いね」
 
マウスピースをバスクラに付け替えて、鉄琴のEさんと合わせてみる。
 
「少しずれたけど、これは一週間あれば何とかなる気がする」
 
そこで引き続きクラリネット奏者は探すものの、見つからなければ私が吹くという線で進めることになった。楽団所有のバスクラも借りていき練習することにする。
 

帰り道、T君が話しかけてきた。
 
「唐本さん、良かったら僕と少し練習しない? そちらが空いている日に僕の家に来てくれたら、僕がピアノか何かでチェレスタパート弾くから、それにバスクラを合わせてもらえたら」
「そうですね。水曜と木曜にはEさんと会ってカラオケ屋さんで合わせてみることになってるから、火曜と金曜の午前中なら」
 
「うん。それで行こう。**線の**駅まで来てくれたら、迎えに行くから」
「ありがとうございます」
「あ、じゃバスクラは僕が持って帰ろうか? ヴァイオリンとソプラノクラリネットにバスクラリネットって楽器を3つも持つの重そうで」
「じゃ、ヴァイオリンもいったんお返ししますね。ヴァイオリンよりクラリネットの方の練習を優先した方が良さそうだし」
 
ということで、私はバスクラとヴァイオリン(T君から借りたもの)を渡し、ソプラノクラリネットのみ持ってその日は帰宅した。
 

月曜日は学校に陸上部の練習に出ていった際に、吹奏楽部にも立ち寄って貴理子に声を掛け、クラリネットを見てもらった。
 
「うん。マウスピースだけでの音出し、ちゃんと正確な音で出てるね」
「それで管も接続して吹いてみたんだけど指使いが怪しくて怪しくて」
 
と言って、問題の『金平糖の踊り』の所を吹いてみせる。
 
(ソプラノクラリネットとバスクラリネットの指使いは同じである。これらは移調楽器になっている。特にソプラノクラリネットとバスクラリネットは丁度オクターブ違いで同じ音である)
 
「ああ、確かに怪しげな指使いだ。取り敢えず私が吹いてみせるね」
と言って貴理子が正しい指使いで吹いてみせる。
 

「管楽器って同じ音を出すのにも色々な指使いがあるからね。試行錯誤的に探してたら標準と違いすぎる指になっちゃうかも」
「確かに」
 
「今回、特に大事なのは低い音域だよね」
「うん。記譜上で真ん中のファ#からオクターブ下のファ#まで」
 
(クラリネットは「移調楽器」なので記譜上のファ#は標準のソプラノクラリネットでは2度下のミの音になり、バスクラリネットならその更にオクターブ下の音になる)
 
「そういう低音域はシャリュモー音域というんだけど、わりと音自体は出やすいんだよねー」
 
と言ってその付近の音を再度出してみせる。
 
「これより上、記譜上でファからシ♭くらいまでがスロート音域といって、ちょっと難しいんだよ。私もまだ下手」
 
と言って貴理子がその付近を吹くがちょっと音が不安定である。
 
「あ、今回私が吹くのはその音域入ってない」
「さすがに初心者には辛いよね。この上はクラリオン音域といってきれいな音が出る」
 
と言って、貴理子が吹くとクラリネットは美しい音を出す。
 
「あ、『金平糖の踊り』以外で私が吹くのはほとんどその付近だよ。もう1回吹いてみせて」
「OK、OK」
 
と言って再度吹いてくれるので運指を頭に叩き混む。
 
「この上はアルティッシモ音域というんだけど、これは指使いだけじゃなくて息づかいも重要だから、さすがにまだ冬には無理かな」
 
「ああ、その付近は譜面に書いてあっても無視しよう」
「実は私もこの付近はピアニッシモで吹けと言われたらできませんと言う」
「高い音を弱く出すのは難しいよね」
 

火曜日。私は**駅まで行き、駅の公衆電話からT君の携帯に電話した。すると駅のすぐ近くで待機してくれていたようで、彼はすぐ来てくれた。
 
T君の自宅は駅から歩いて5分ほどの所にあるマンションであった。
 
「マンションで楽器の音出して大丈夫なんですか?」
「昼間は大丈夫だと思うけどなあ。夜間はピアノとかも音を小さくして弾くけどね。マンションって天井と床の間の防音性がいいから」
「へー」
 
私が「お邪魔します」と言って中に入って行くと、T君のお母さんは驚いたような声を挙げた。
「どうかしましたか?」
「いや、Tが女の子の友だちを連れてくるなんて珍しいと思って」
「お母ちゃん違うよ。ガールフレンドとかじゃなくて、楽団の今度の公演に臨時に参加してもらう人だから。セッション部分を合わせておきたいから連れてきたんだ」
「ああ、そうでしたか。ちょっとびっくりした」
 
それでもお母さんは私を歓迎してくれて、美味しい紅茶を入れてくれたし、「10分ほど買物に行ってくる」と言って出かけて、ケーキを買って来てくれた。
 
ただの楽団関係と言ってはいるものの、私が彼女になる可能性ありと見て親切にしてくれているのかな?と思えて、ちょっとくすぐったい気分だった。
 
その日は彼とはそんな恋愛的な要素は無しで、ひたすら練習を重ねた。
 
「唐本さん、ほんとに飲み込みが速い。どんどんうまくなっていく」
「でもこんな素人の演奏をお聴かせしていいのかなとちょっと後ろめたいんですけどね」
 
「唐本さん、楽器は三味線以外は全然したことないんだっけ?」
「エレクトーンとピアノを自己流で少し弾きますよ」
「へー。ピアノ、ちょっと弾いてみてよ」
「そうですね」
 
私はT君のアップライトピアノを借りると『くるみ割り人形』の『行進曲』
を弾いてみせた。
 
「すごーい! 僕よりうまいじゃん。ほんとにそれ自己流なの?」
「お友だちに教えてもらったりはしたけど、きちんと教室とかに通ったことは無いです」
「それでそんなに弾けるって凄い。やはり唐本さん、楽器の天才だよ」
 

その水曜日も先週に続けて陸上競技場が取れないというこで陸上部の練習は学校になったので、練習の後、吹奏楽部に出てきている貴理子にクラリネットの演奏自体を見てもらった。そして夕方、今度はカラオケ屋さんで待ち合わせて Eさんと演奏を合わせてみる(何だか忙しい日だった)。Eさんは折畳み式の鉄琴(グロッケンシュピール)を持って来ていた。
 
「へー。これ横折りなんですね」
「うん。縦折りのはよくあるけどね」
 
小学生用の木琴などには、2オクターブの音域の半分の所で左右に折りたたむものがよくあるが、これは幹音と半音で前後に折りたたむ方式になっていた。
 
「でも済みません。練習に付き合ってもらって」
「ううん、こちらこそ。そもそも見学に来ただけだったのに、唐突にヴァイオリン弾いてとかクラリネット吹いてとかごめんねー。でも凄いね。クラリネットなんて音出るまで普通1ヶ月かかるなんていうのに」
 
「えー!? そうだったんですか?」
「ヴァイオリンだって、まともな音が出るようになる前に挫折する人も多いしさ」
「ああ、それはよく聞きますね」
 
しかしその日学校には学生服で出て行ったし、周囲の目があったので貴理子とも男声で話した。夕方はEさんが私のことを女の子と思っているので、セーラー服を着て出て行き女声で話している。頭の中が混乱して、学校で1度女子トイレに入りそうになり、このカラオケ屋さんでは逆に男子トイレに入りそうになった。トイレ問題に関してはマジで自分の頭が付いていかない。
 
女の子2人でカラオケ屋さんにいると練習はしているものの、おしゃべり部分もついつい長くなってしまう。私たちはおやつを注文して食べながらおしゃべりを随分していた。
 
「へー。じゃ去年結成した時は50人くらいいたんですか」
「そうそう。だから普通の小規模なオーケストラだったのよ。でも自分の学校でやるならいいけど、あの公民館、交通の便が悪くて辿り着くのがけっこう大変だし、今部費が月5000円だし。週1回の練習で月5000円払うならヤマハの教室にでも通った方がマシじゃないかという感じもあって。それで辞めていく子も多くて、私も正直いつまで続けるか、悩んじゃう」
「大変ですね−」
 
「私が辞めたらAちゃんも辞めちゃうだろうし、Aちゃんが辞めたら私も辞めちゃうだろうね」
「女の子ひとりでは寂しいですよねー」
「まあ、ホルンやるなら、オケじゃなくてもブラスでもいいしね」
「確かに」
 
彼女とは楽団員ひとりひとりの噂話などもした。
 
「チェロの**君は女の子に手が早いから気をつけてね。お茶とかに誘われても行っちゃだめよ。気がついたら翌朝彼と一緒にベッドの中だった、なんてことになりかねないから」
「わあ、生臭い話」
 
「そういえば冬ちゃん、T君とも練習してるんだよね」
「うん。昨日はT君の家まで行って彼にチェレスタパートをピアノで弾いてもらって合わせる練習した」
「へー。まあ、彼は安全パイだからなあ」
「ふーん」
 
私がこの時「安全パイ」の意味を追求しなかったことが後で悔やまれた。
 
彼女とは翌日もカラオケ屋さんで会って「練習」をしたが、私の演奏技術がかなり上がってきていたこともあり、練習は2割くらいで残り8割はひたすらおしゃべりをしていた。
 
最後に1度合わせて
「うん。完璧。じゃ土曜日は頑張ろうね」
と言って別れた。
 

そして金曜日。コンサート前日。
 
午前中、陸上部の練習に出てから、いったん家に戻りお昼を食べて、午後からT君の家に行き、またT君がチェレスタのパートを弾いて私のバスクラと合わせる。昨日・一昨日とEさんと、さんざん合わせていたので、今日はかなり良い感じで合わせることができた。
 
「すごーい。ほんとに二週間でものにしちゃったね」
「うーん。何とか弾けたというだけで、所詮は間に合わせですから。リーダーさんのクラリネット奏者捜しが上手く行けば、専門の方にお願いして」
「いや、あの人実際問題として探してないと思う」
「ああ、やはり」
 
「唐本さんなんかはノリでロハでやってもらっちゃったし、僕の大阪の友人なんかもお互い様ということで交通費も無しで無償で来てくれるけど、楽団として正式にエキストラお願いしたら交通費込みで5000円から1万円くらいは払わないといけないから、たぶん予算無いよ」
「なるほどねー」
「だいたい突然唐本さんにクラリネットをお願いすることになって、普通ならマウスピースくらい楽団の予算で買ってあげてもいいじゃん」
「いえ、いいですよ。マウスピースは個人専用だから、自分で買いますよ」
 
「このソプラノクラリネットとかも、実はあの人の後輩というか彼女に頼んで高校のブラスバンド部の備品を無断持ち出しさせたみたいだし」
「えー!?」
 
「あの人、ポリシーが無い上に、行動力とか計画性とかも弱いからなあ。あの人がリーダーしている限りこの楽団の未来は無い気がする。まあ今回の公演で何とか支援継続をしてもらっても1年もたない気がするな。この1年でメンバー半分辞めてるし」
「はあ」
 
私はこのふたり本当に仲が悪いんだな、とあらためて思った。
 
その時、お母さんがこちらの部屋にやってきて
「ごめーん。会社から急用が入って。2時間ほど外出してくるから。夕飯は何か買って帰るね。冬子さん、ゆっくりしていらしてね」
「あ、いえ。私はそんなに長居せずに帰りますので。お気を付けて行ってらっしゃい」
「うん、ありがとう」
 
お母さんが出かけた後も、私とT君は練習を続けた。そして1時間ほどして
「これだけ吹けたら全然問題無いよ。うちと同程度のアマチュアオーケストラで今の唐本さんより下手なクラリネット奏者もかなりいるよ」
などと言われる。
 
「うーん。それあまり褒め言葉になってない気がします」
 

それで今日の練習はこのあたりまでにしようということになり、私が帰り仕度を始めた時のことだった。
 
「ね、やはり唐本さん、公演の後もうちのオーケストラに残ってくれないかなあ」
「それは無理だというのは最初からお伝えしています」
「今回は緊急事態でクラリネット吹いてもらうけど、唐本さんのヴァイオリンが捨てがたくて」
「評価してもらえるのは嬉しいですが、無理なものは無理なので」
 
「そうか・・・・ごめんね」
「いえ」
「ね・・・・」
「はい」
「僕、実は唐本さんのこと好きになっちゃって」
「は?」
 
「もし良かったら、僕と恋人になってくれないかな」
 

男の子から告白されたことは初めてではなかったが、こんな唐突なシチュエーションからの告白は初めてだった。私は最初相手の言っている意味が分からなかった。
 
「そんな冗談言うと、私なんかだと大丈夫だけど、どうかした子は本気にしますよ」
と私は笑って言うと
「じゃ、失礼します」
と言って立とうとした。
 
「待って」
と言って彼は私の腕を掴む。
 
「本気なんだ。実は新幹線の中で会った時から、僕にとって理想の人だと思った」
「そんな話はお受けできません。聞かなかったことにしますから」
「いや聞いて欲しい。僕の恋人になって欲しい」
 
「ごめんなさい。私好きな人がいるの。片想いなんだけど、今は他の人のこと好きになれないから」
「君が好きになってくれるまで待つから、取り敢えず恋人として付き合わない?」
 
うーん。なんて強引なんだ!
 
そのまま彼としばらく押し問答をしていたが私
「とにかく私帰ります」
と言って強引に帰ろうとしたが、彼は強引に私を座らせ、勢い余って押し倒す形になった。キスしようとするので平手打ちする。
 
「私、怒りますよ」
「でも君のこと好きなんだ」
 
私はこうなったら、そのことを告知するしかないと思った。
 
「Tさん、ごめん。私どうしてもTさんの愛を受け入れられない事情があるの」
「何?」
「ショックかも知れないけど聞いて。私、本当は女の子じゃないの。私男の子なの」
 
私としてはいわば切り札のつもりだった。ところがT君はとんでもないことを言った。
 
「知ってるよ。だから好きになった。僕、女の子には興味無いから」
「へ?」
「唐本さんが男の子だというのは最初から気付いてたよ。過去にそういう子と付き合ったこともあったし」
「えーー!?」
 
「僕は男の子にしか興味無いけど、筋骨たくましいタイプとかはダメなんだ。優しい男の子、むしろ女の子っぽい男の子が好き。君みたいな男の娘はもう理想なんだ」
「ちょっと待ってーー!」
 

こういう展開は予想だにしていなかったので、私は頭の中が混乱した。それでつい抵抗する力が弱くなってしまった。するとその隙に彼は私のスカートの中に手を入れてきた。パンティの上からあそこを触られる!
 
「ふふ。やはりちゃんと付いてたね。ここに何も無い子には僕は興味無い」
 
と言って、彼は下着の上からそれを弄び始めた。私は彼に押し倒されたままの状態である。
 
「ほら、大きくなって来た。ね、少し気持ちいいことしない?」
 
私自身、それが大きくなってしまったことに驚いた。でもちょっと待て。男の子と気持ちいいことって何するの〜〜〜〜!?
 
「パンティちょっと下げていい? 舐めてあげるよ」
 
舐める〜〜!?
 
そして彼はほんとにパンティを下げてしまった。直接触られる!彼がそれを右手で掴んで上下させる。
 
「ほら、自分でもスカートやショーツ穿いたままこれこんなことしてるんでしょ?いけない娘。もうこんなに硬くなってきた」
 
それまでは正直な話、私自身、T君にちょっと憧れの気持ちが無かった訳でもない気がする。しかし、この言葉で私は完全に冷めてしまった。
 
オナニーなんてしないもん!
嫌だ!こんなことされるのも!!
 
私の中に、全てを拒否する気持ちが猛然と起きた。ちょうど左手が彼のヴァイオリンケースに触れた。私はそれを握りしめるとそれで思いっきり彼の側頭部を殴った。メキっという音がしたのでケースが壊れたかも? 本体まで壊れてたりして?
 
彼はもう私が抵抗しないものと思い込んでいたようで、虚を突かれたようだ。彼が一瞬崩れる。私は全力で起き上がると、楽器は全部そこに置き去りにし、もう脱がされ掛けているパンティも脱ぎ捨てて、自分の荷物だけ持って部屋から飛び出した。
 
靴を履いている時間が惜しいので靴を手に持ち、ダッシュでマンションのエレベータホールに走る。
 
ちょうどそこにT君の母が登ってきた所だった。
 
「おばさん、お帰りなさい。失礼します」
と言ってお母さんと入れ替わりにゴンドラに飛び込む。お母さんがびっくりした顔をしているが、構わず私は1階のボタンを押してすぐに閉のボタンを押す。ふっと大きく息をつき、服装の乱れを直し、靴を履いた。
 
心臓がドキドキしていて、ノーパンで少しスースーするのも気にならなかった。
 

電車に乗って、自分の家の最寄り駅まで来てから、公衆電話でリーダーの携帯に掛けた。
 
「済みません。ほんとに申し訳無いのですが、私今日限りで辞めますので」
「えーーーー!?」
「では短い間でしたがお世話になりました。失礼します」
「待って、待って。何があったの?」
「T君にレイプされかかりました」
「うそー。彼は男にしか興味無いから大丈夫だろうと思ってたのに、あいつバイだったのかな!」
 
何〜? それみんな知ってた訳??
 
あ。そういえばEさんがT君のことを「安全パイ」だと言っていたのを思い出した。そうか。女の子には興味無いから「安全パイ」だったのか。そういえばAさんも「T君が女の子と付き合う訳無いとは思った」などと言ってたぞ。うむむむむ。
 
「そういう訳で、楽器は全部彼の所に置いてきましたので後で回収して下さい。それでは」
「待って。今辞められるとマジ困る」
 
「それは困るかも知れませんが、こういうことがあった以上、私はもうここにはいられません」
 
「ちょっと待って。Tと話し合うから1時間後に君の所に電話させてもらえないか?」
「分かりました。でも私の結論は変わりませんよ」
 

1時間後。私はもう自宅に戻っていたが、電話してきたのはT自身であった。
 
「切りますよ」
「待ってくれ。少しだけ僕の話を聞いて欲しい」
 
彼はさきほどの事件のことを謝った。その上で私のことを好きなのは本当だと言った。それで大好きな私が目の前にいて、もう明日限りでこんな時間も持てなくなりそうというので、つい感情が暴走してしまったと言った。
 
「実は**とトラブル起こしたのも僕なんだ、春先まで、僕彼と恋人関係にあって」
「えー!?」
「それで僕が最近、唐本さんに目移りしているみたいだというので彼カリカリしていて。で喧嘩しちゃったんだよ」
「そんな恋人がいたら、その人だけを見つめてあげれば良かったじゃないですか」
 
「うん。だから今回のことは全部僕が悪い。リーダーにその件も話して、僕はこの公演が終わったら退団することにした」
「それで私に公演に出ろと言うんですか?」
 
「厚かましいお願いだというのは承知の上で頼む。みんなこの公演のためにずっと何ヶ月も頑張ってきたんだ。自分のためじゃなくてみんなのために頼む。公演が終わったら僕を殺してもいいから」
 
私はふっと大きく息をついた。
 
「私まだ殺人で捕まりたくないから。分かりました。公演には出ます。でもTさんとお付き合いすることはないですし、公演の後は二度と顔も見たくないですから」
「分かった。とにかく明日だけ頼む」
 
私は電話を切った後、リーダーに電話し、明日の公演にだけは出ることを伝えた。
 
「でも彼のヴァイオリンを借りたくないから、他の友人から借りたので明日は弾いていいですか?」
「うん、それはもちろん構わないよ」
 

翌8月14日。私はセーラー服を着て、アスカから借りたヴァイオリンを持ち、公演の行われる公会堂に行った。リハーサルをするが
「唐本さん、そのヴァイオリン凄くいい!」
などと第二ヴァイオリン首席のNさんや、エキストラで来ている第一ヴァイオリンのKさんから言われる。
 
「音大のヴァイオリン科を目指している従姉が小学生の時に使っていたものを借りてきました。彼女、今はこれの10倍くらいの値段がするヴァイオリンを使ってますよ」
と言うと
「この弓だけでも、僕のヴァイオリンが2〜3個買えそう」
などと言われた。
 
私がT君の顔を見ないようにしていたことに気付いたEさんが
「何かあったの?」
と小声で訊いた。
 
「昨日T君にレイプされかかった」
「えー!?」
「私もう辞めますってリーダーに言ったんだけど、今日の公演だけは頼むと泣き付かれたから、とにかく今日までは頑張る」
「うん。悪いけど、今日だけは頑張って」
「だからT君も今日限りで退団するというし」
「へー。しかしT君って男の子専門と思ってたのに」
「バイなのかもね」
「でも潮時かも。T君とリーダー、どう見ても合わない感じだったもん」
「ああ、それは私も感じてた」
 
リハが終わった所でミーティングが行われ、臨時参加の状態であった私が今日までであることを再確認するとともに、また突然だが、この公演を最後にT君が事情によって辞めることが告知された。
 

客の入りは観客席の3割という感じであった。この公会堂は800人入るのだが、多分250人くらいであろう。その最前列に何だかお偉いさんという感じの人たちが並んでいる。この人たちが、学校とか自治体とかの関係者なのだろう。
 
リーダーが何だかほっとした表情を見せていた。
「どうかしました?」
「あ、うん。客の入りが良いから」
「これで良いんですか〜?」
「頑張って動員掛けたからなあ。今日の観客が200人未満だったら即支援中止ということだったんだけど、220人ほど入ってる」
「はあ・・・いつもはもっと酷いんですか?」
「この楽団を結成して最初にやった公演は40人くらいだった。3月にやった公演は30人くらいだった」
 
「30人って、ステージにいる人の方が客席にいる人より多かったりして」
「うん、そんな感じだった」
 

やがて演奏が始まる。知名度の高い小品を20個ほど並べた演目である。私はヴィヴァルディの『四季』、パッヘルベルの『カノン』などバロック系の曲ではずっとヴァイオリンを弾いていた。バロック期の楽団にはそもそもクラリネットは入っていなかったので、外しても何とかなるのである。
 
私の担当は第一ヴァイオリンなので、本当はT君と並んで同じ譜面台を使うことになっていたのだが、昨日の事件を配慮して、エキストラで来ている他の楽団のヴァイオリニスト、Kさんと組むようにしてもらっていた。実際問題として私も2ヶ月前に参加したばかりでエキストラに近い状態だ。しかもそもそもヴァイオリンはそれまでやったことなかったので、実質ぶっつけ本番に近い。私は譜面だけを頼りにして弾いていた。
 
それで前半が終わった所で、その隣で弾いていたKさんから
「あなた、まだヴァイオリン始めて間もないでしょ?」
と言われる。
「済みません。未熟で。まだ始めて2ヶ月で」
「2ヶ月!? それは2ヶ月でここまで弾けるのが凄い。私はてっきり始めて1〜2年かと思ったよ」
などと変な所で感心されてしまう。
 
「でもあなたセンスが凄く良い。未熟な腕をセンスでカバーしてる」
「ああ、ハッタリだけで弾いてるとよく言われます」
「うんうん。ハッタリは大事。あなたソリスト向きかもね〜。でもほんとにセンスいいから頑張ってね」
「ありがとうございます」
 

15分間の休憩をはさんで、後半の演目に入る。1曲目にムソルグスキーの『展覧会の絵』より『プロムナード』を演奏して、次に2曲目に入ろうとしていた時に、突然最前列に並んでいたお偉いさんの付近から、着メロ?でアニメのテーマ曲が鳴りだした。
 
お偉いさんが慌ててポケットから取り出す。どうもスマホのようだが、着メロの停め方が分からない様子。するとヴァイオリンのいちばん前に座っていたT君がステージを駆け降りると、
「貸して下さい」
と言って取り敢えず着メロを停めた。
 
T君は更に
「これ電源切っておいていいですか?」
と言い、相手が頷くと、そのままスマホの電源を切った。
 
しかし、この事件で客席にもステージ上にもかなりしらけたムードが漂う。
 
その時私は唐突に思いつき、今鳴ってしまった着メロの曲を自分のヴァイオリンで弾いてみせた。
へ? という顔の楽団の面々。
 
しかし私は構わずそのまま最初のモチーフだけ使ってバリエーションを弾く。すると、第二ヴァイオリン首席のNさんがそれにハーモニーを付けてくれた。自分の席に急いで戻って来たT君が私の方を見て「立って立って」という合図をするので私は立ち上がる。そしてT君はそのまま私が弾く旋律にカウンターを入れ始めた。
 
他の演奏者も、第一ヴァイオリンの人はT君に合わせ、第二ヴァイオリンの人はNさんに合わせ、フルートのAさんは高い所で装飾音のような音を入れ、ホルンのEさんは低い音を入れて和音に深みをつける。
 
そうしてあっという間に私のヴァイオリン・ソロをフィーチャーした即興変奏曲のような感じのものになった。元はアニメのテーマ曲でもこんな感じで演奏すると、なかなか様になる。
 
演奏は2分ほどで終了したが、客席から物凄い拍手が来た。
 
さきほどのしらけたムードは完全に消えていた。
 
リーダーも自ら拍手をして、「さ、次行こう」という合図をする。それで私たちは本来の後半第2曲目であったボロディン『イーゴリ公』より『韃靼人の踊り』
(ポピュラーでも『Stranger in Paradise』などとして知られる)を演奏した。
 

後半の5曲目まで弾いた所で私はヴァイオリンを置いて管楽器セクションに移動し、クラリネット(ソプラノクラリネット)を持ち、ここからの曲では私はクラリネットを吹く。そしてそれで1曲演奏して、2曲目を演奏していた時のことであった。
 
コンマスのT君が小さく「あっ」という声を出した。見ると、どうもヴァイオリンの弦が切れてしまったようである。私は昨日私があのヴァイオリンのケースで殴ったせいじゃないよな? と思いちょっと心の中で冷や汗が出た。
 
T君が隣で弾いていたエキストラのWさんとヴァイオリンを交換し、WさんのヴァイオリンでT君は弾き続ける。するとWさんは斜め後ろにいたKさんと楽器を交換してWさんはKさんの楽器で弾き続ける。そしてKさんが、私の方を見て私が頷いたので、私が先ほどまで弾いていて、席に置き去りにしてきたアスカから借りたヴァイオリンに持ち替えて演奏を続けた。
 
私は自分の持って来たヴァイオリンをT君には触られたくない気分だったが、いろいろ優しいことばを掛けてくれていたKさんならいいかなと思い、クラリネットの方の演奏に集中した。
 
このヴァイオリンの交換劇を見て、最前列に並んでいるお偉いさんたちの数人が小さな声で会話を交わし、頷きあっていた。
 

その後演奏は何事もなかったかのように続き、クラリネットで3曲演奏した所で、私はバスクラリネットに持ち替えた。
 
いよいよ演奏会もクライマックス。次は『金平糖の踊り』である。ホルンを吹いていたEさんが、管楽器セクションから離れて、前面左端に置かれていた鉄琴の方へ行こうとして段を降りる。
 
が、その時、彼女は段を踏み外してしまった。
 
ガタガタっと凄い音を出して彼女は下まで落ちた。
 
慌ててリーダーとT君が駆け寄る。
 
「大丈夫?」
「腕をひねった」
「えー!?」
 
私とAさんも慎重に段を降りて近寄る。
 
「どう?」
「なんか右手が物凄く痛い」
「これ、腫れてる。冷やさないと」
 
客席に居たEさんのお母さんらしき人がステージまで駆け寄ってきた。
 
「あんた、何やってるの?」
「ごめーん」
 
「お母さん、彼女を取り敢えずお願いします」
とリーダーが言う。
 
「はい」
と言って、お母さんはEさんを連れて外に出る。
 
「リーダーどうします?この曲、飛ばしますか?」
「いや、できたら何とかして演奏したいんだけど。これ弾ける人いるかな?」
 
「あ、T君、ピアノでなら弾けるよね? 私の練習に付き合ってくれたから」
「うん。じゃ僕が弾こうか?」
とT君は言ったが、
「いや、君に抜けられるとヴァイオリンセクションの方が困る」
とリーダーは言う。
 
第一ヴァイオリンは本来4人の所が私がクラリネットを吹くのに抜けている。更にT君まで抜けると、確かに数が少なすぎる。
 
その時、T君は言った。
「じゃ、唐本さん弾けない? 君、僕よりピアノうまいじゃん」
「弾けると思うけど、それじゃバスクラは?」
「それも君が吹く」
「えー!?」
 
「だって、この曲、チェレスタとバスクラは掛け合いだから、同時に音を出すことはない。だからひとりで両方演奏できるはず」
「それはそうかも知れないけど」
 
「やってみよう。失敗した時は僕の責任だから」
とT君がいうので、リーダーも
「前代未聞だけど唐本さんならできるかも」
などと言って、私が両方弾くことになった!
 

「お騒がせしました。演奏を続けます」
とリーダーが言う。
 
私はバスクラを取って来て、そのストラップを首に掛けたまま、鉄琴の前に立った。実はバスクラのストラップを立って吹くのにちょうどいい長さにしていたので、座って演奏するピアノより、立って演奏する鉄琴の方が都合がいいのである。バスクラのマウスピースを咥えてスタンバイする。
 
客席からざわめきが聞こえる。
 
指揮者の合図で私は右手だけで鉄琴を叩き、高い音で
 
ソミソファ#・レ#ミ・レレレ・ド#ド#ド#・ドドド・シミドミシ
 
と鉄琴を打ち、間髪入れずにバスクラでチャララララー という合いの手を入れる。左手はバスクラに付けたままで、右手だけを切り替える。
 
客席から思わずえー?という声が上がる。「シミドミシ」を弾いた後マレットを鉄琴上に放置してすぐにクラリネットの指を押さえるので、マレットが揺れてちょっと変な響きが混じるが、この際それは黙殺した。またこの曲のチェレスタパートはあまり細かい音符が無いので片手だけでも何とか弾ける。それも幸いした。
 
ヴァイオリン・チェロ・コントラバスが控えめな伴奏を入れる中、私は鉄琴とバスクラを素早く切り替えながら、この繊細な音の掛け合いをひとりで演奏した。
 
約2分間の演奏が終わる。物凄い拍手。私は客席に一礼してからバスクラを首から外し鉄琴の下に置いた上で、今度は(ふつうの)ソプラノクラリネットを持ち、隣に置かれているグランドピアノの前に座る。クラリネットはいったんピアノの上に置く。
 

最後の曲『花のワルツ』が始まる。管楽器が一斉にチャチャチャ・チャーチャ・チャーン(ソドミファーミミー)と演奏し、その最後のチャーンと伸ばした所でハープの代理で私がピアノの分散和音を入れる。再度音程を変えてチャチャチャ・チャーチャ・チャーン(ソドミファーソソー)の後、またこちらは分散和音。そして、今度は管楽器が長めの演奏をして、そこからしばしハープ(を代行するピアノ)の独擅場状態になる。
 
とても美しい音の並びだが、弾く側は無茶苦茶忙しい。私はもう間に合わない所は目立たない音を飛ばして何となくそれっぽく弾いた。最後音の余韻を残して指の動きを止める。
 
一呼吸置いてインテンポとなり、全体での演奏が再開される。私はそれに今度はクラリネットを首に掛けてそちらで参加する(この曲ではクラリネットもけっこう主役級)。ピアノの方はこの先はお休みである。
 
色々な楽器の掛け合いがある。この曲は「バレエ音楽(作品71)」では途中に置かれる曲だが、チャイコフスキー自身が再編成した「バレエ組曲(作品71a)」
では、ラストを飾る曲である。このとても華やかな曲は『くるみ割り人形』のやはりラストに置かれてふさわしい、と私は思う。
 
繰り返し提示される「ソドミファーミミー」というテーマ。それを中心に演奏は盛り上がって行き、最後「ソドミファーソ・ドードド」で終わる。
 
客席から大きな拍手があり、指揮をしていたリーダーも客席の方を向き直りお辞儀をする。そして楽団員に起立を促し、全員でお辞儀をして演奏を終了した。幕が降りた。
 

全員楽器を持って退場する。Kさんが使っていたヴァイオリンを返してくれた。よしよしという感じでヴァイオリンを撫でてあげると
「あ、君もそれするんだ。私もよくそうやって撫でてあげてるよ」
と言っている。そしてWさんから返してもらった自分のヴァイオリンを撫でている。
「ヴァイオリンは女性の形なんだって。ほら胴がくびれてるでしょ?だから女の子を愛でるように演奏するっていうんだよね。でもヴァイオリニストにも女性が多いから、レスビアンになっちゃうね。私も唐本さんも」
「へー」
 
舞台袖にEさんが戻って来たのを認めて私とAさんは駆け寄った。
 
「大丈夫?」
「うん。冷やしたら痛みが引いた。ごめんねー」
「でも冬ちゃんの大車輪の活躍で何とかなった」
「大車輪というか、八面六臂だね」
「いや、腕が本当に6本あったら、あれ楽々できたけど」
「確かに!」
 
「金平糖のあのやりとりをひとりで演奏するのは、エレクトーン演奏では見たことあるけど、鉄琴とバスクラとふたつの楽器を使ってひとりでやるのは私も初めて見たよ」
「いや、私も本当にできるのか?って疑心暗鬼でやったけどマレットが転がって行って落ちたらどうしようとヒヤヒヤだった。でも幸い落ちていかずに何とかなった」
 
「ああ、マレットが落ちたらやばいね」
「予めひとりでやるつもりだったら、マレットに紐を付けておく所だったね」
 
「でも花のワルツも凄かったね。あれ演奏したことあった?」
「あった。あれはさすがに練習してないと無理。去年、一時期かなり練習してたのよ。でも久しぶりだったから指が追いつかなくて、かなり音をはしょった」
「うんうん。手抜きがうまい!と思って聴いてた」
 

などと言い合っていたのだが・・・・
 
「あれ?」
「なんだか」
「拍手が停まらない」
「これってもしかしてアンコールの拍手?」
 
リーダーとT君が戸惑っている。アンコールされるとは思いも寄らなかったので、アンコール用の曲を用意していないのだ!
 
「ねえ、Eさん、もう行ける?」
とT君が訊く。
 
「はい、大丈夫です」
「じゃさ、女の子3人で出て行って何か演奏しない?」
「何かって何にしよう?」
 
「じゃ、チャイコフスキーで終わったから、同じチャイコフスキーで『白鳥の湖』は?」
「『情景』?」
「そそ。誰が何をやる?」
「Eさんピアノ、Aさんフルート、私ヴァイオリン」
「OK。それで行こう」
 

幕が開く。3人で出て行く。種類の違う制服だが、中高の女子制服3人で並ぶのもそれなりに美しい。
 
Eさんが最初に「先ほどはお見苦しい所をお見せしました。もう大丈夫です」
と挨拶した上でピアノの前に座る。ヴァイオリンを持った私とフルートを持ったAさんがそばに立つ。Eさんのピアノ前奏に続いて、Aさんのフルートが
 
ラー・レミファソ・ラーソラー
 
と悲しげなメロディを奏でる。本来はオーボエで演奏するパートである。そこに私のヴァイオリンが背景的な和音を重ねる。
 
約3分ほどの短い曲だが、知名度の高い曲故に、客席の反応も良い感じだった。
 
やがて終曲。
 
大きな拍手。楽団員が全員登場して、一斉にお辞儀をし、幕が降りた。
 

私たちはファミレスに移動して、ささやかな打ち上げをした。
 
「いや、唐本さん、今日で終わりというのは寂しいよ。また時々でもいいから出てこない?」
などと第二ヴァイオリンのNさんから言われる。
 
「済みませーん。部活やってるし、お稽古事もしてるので、ちょっと時間が取れないので」
「あ、じゃ、私みたいに演奏会の時だけ臨時に加わるのとかは?」
と、前半私の隣でヴァイオリンを弾いたKさん。彼女はいわゆる「常トラ」と言って、エキストラだが、だいたい毎回参加しているらしい。
 
「いやあ、練習時間取れないし」
「じゃ、取れた時だけでもいいから」
「そうですねー」
 
ということで、私は結局、練習には参加せずお呼びが掛かった時に時間が取れたら、演奏会には出てもいいという線で妥協した。
 
でもそれって、演奏会でよく弾くような曲を常時練習してないといけないじゃん!
 
私が随分引き留められたのに対してT君を引き留める声は全然出ていなかった。あるいはもう彼の退団は半ば既定路線だったのかもという気もした。
 

後日、Eさんから電話で聞いたところでは、演奏会は支援者グループが要求した観客数を一応超えていたこと。また演奏の内容も良く、ハプニングへの対処が素晴らしくて、とても良い雰囲気であったことから、支援継続・増額が決まったということであった。
 
「でもハプニングの対処はほとんど冬ちゃんのお陰だよ。弦が切れた時もたまたま、冬ちゃんが管楽器の方に移動して残しておいたヴァイオリンが役に立ったしね。着メロの対応なんて最高に素晴らしかった。また出てこない?」
 
「ごめーん。でもよく事故が起きたね〜」
「ほんと、ほんと。まあ私はその戦犯のひとりだけどね」
 
演奏会に来ていた人(実際には楽団員と同じ学校の生徒でタダでチケットをもらって動員されてきている人が大半)の中から「この楽団に入れます?」
と言ってきた人もあり、秋からは25人で練習をするようになったとのことであった。支援金が増えた上に楽団員が増えたことから、毎月の部費も5000円から2000円に減額され、また練習場所ももっと交通の便の良い所にある廃校の音楽室を無償で使っていいことになり、色々負担も減ったので、まあ受験で忙しくなるまでは続けるかな、などとEさんは言っていた。
 
辞めたT君の後任の第一ヴァイオリン首席には、リーダーが友人をスカウトしてきて据えたらしい。それまで楽曲のアレンジや活動方針をめぐってリーダーとT君の衝突をしばしば見て楽団員がみなうんざりしていたので、後任の人とリーダーがスムーズに意思疎通しているのを見て、ホッとしていると言っていた。
 
結局、この時連れてきた新しいコンマスさんが人当たりも良く、また行動力があったため、翌年には彼が2代目のリーダーになり、対外折衝や会場の確保などもうまく行くようになり、この楽団は数年後には60人ほどの楽団員が所属する一般的な規模のオーケストラに成長した。
 

ちなみに、T君のヴァイオリンだが、弦が切れたというより、糸巻きが折れていたらしい! あはは。やはり前日の衝撃の後遺症?? 私、知ーらない!!
 
また、置き去りにしたパンティは返すと言われたが、捨ててくれと言っておいた。絶対頬ずりするか舐められるか、されてそうだし!
 

さて演奏会から一週間ほどした日、私は川崎に来ていて、ばったりとT君に駅で出会った。私はその日は実は東京駅まで父と一緒になってしまったため、その時点ではまだ男装であったが、女声で会話した。
 
「やあ、こんにちは」
「こんにちは」
 
と私は儀礼的に挨拶だけは交わす。
 
「珍しい所で会うね」
「そうですね」
「こちらは民謡のお稽古か何か?」
と私が手に持つギターケースを見て言う。
 
「答える必要は無いですけど」
「うん。そうだよね。でも僕ひとつだけ勘違いしていた気がしてさ」
「はい?」
 
「僕、君が女装男子だと思ったから、つい恋してしまったけど、こないだの公演のアンコールで、Aさん・Eさんと組んで演奏しているのを見て間違いに気付いてしまった」
「間違い?」
 
「唐本さんの男装見たのも実は初めてじゃないんだ。何度か学生服を着ている所を見かけた」
「ふーん」
 
しかし何度も見たって・・・こいつストーカーしてたのか? とも思う。
 
「それで学生服姿の君にますます恋してしまったんだけど」
「へー」
 
「でも君は中身は女の子なんだ。僕が以前知っていた男の娘たちって、中身が男半分女半分って人が多かったけど、あのアンコールでEさん・Aさんときれいに溶け込んでたでしょ。ふつうの男の娘の場合、完全に溶け合わずに遠慮みたいなのがそこに混じっているんだよね」
 
「まあ、私、厚かましいし」
 
「で結局考えてたんだけど、唐本さんって、女装男子というよりむしろ男装女子なのかもと思った」
「はあ・・・」
 
「だって中身が女の子だから、女の子の服を着ている時が普通。今日みたいに男の子の服を着ている時が男装女子」
「ふふふ、それはあり得るかもね」
 
「僕も実は出会った日に名古屋までの便の中では、てっきり本当の女の子だと思ってたんだよ。女の子にしては話しやすいなとは思ったけどね」
「そうですか」
「だけど帰りの便でもまた一緒になった時にさ、君にヒゲがうっすらと生えていることに気付いて。もしかしてこの子・・・と思ったら、『男の娘』なのかも知れないという気がしてきて」
 
「ああ。夕方でしたからね」
「普通は気付かないと思う。君、雰囲気が女の子だから、多少ヒゲが薄くあっても、少し濃い産毛くらいに思ってしまう。でもメンテさぼらない方がいいよ」
「ご忠告感謝。でも実はT君もバイだったりしてね」
 
「実はそんな気もしてきたんだよ! だって純粋に女の子である君を好きになってしまったんだから」
「今度は普通の女の子の恋人作ってみたら? でもあんな強引なことしたらダメよ」
「うん。反省してる」
 
「そうそう。Tさん、今は何してるんですか?」
「取り敢えずヴァイオリンの修行中。鍛え直すことにした。こちらに母の知り合いの知り合いの音楽大学教授がいて、レッスン受けに来たんだ。レッスン代が1回3万円するけどね」
「わあ、凄い」
 
「さすがに月1回だけどね。あとは名ヴァイオリニストの演奏のCDを聴いてる。それでちょっと僕もこれまであまりまともに受験勉強してなかったんだけど、これから頑張ってして、大学に入って、大学のオーケストラに入ろうかと」
「頑張ってください。どこかの音楽大学?」
「それはさすがに無理。今狙ってるのは※※工業大学」
「ああ。男子が多そう」
「いや、それも実は一瞬考えた」
 
私たちの会話は後半はけっこう和やかな感じになり、最後は握手して別れた。
 

T君と別れた後、私は駅の多目的トイレでいったんセーラー服に着替えた上で、川崎市内のホールに行く。今日は三味線で小さな大会の伴奏である。
 
津田さんのお友だちの若山瑞鴎さんとふたりで演奏する。服は楽屋で津田さんが用意してくれていたお揃いの和服に一緒に着替えた。
 
「和服着るの、だいぶ上手になったね」
「振袖がまだうまくひとりでは着られないんですよ」
「振袖は難しいもん。まあ少しずつ慣れていくといい」
 
大会が始まる前に演奏予定曲目の内、何曲かピックアップして合わせてみた。
 
「冬ちゃんって、今まで何度か演奏を見たけど、凄く柔軟な演奏をするよね」
「そうですか?」
「その時に組む相手の空気というのか流れというのか、それを読み取って自然に調和するように弾く。セッションセンスがいい。今も何だか私のいつもの演奏の仕方にきれいに合わせてくれて、とっても楽だった」
 
「私、協調性が無いって友人からはよく言われるんですけどね」
 
「多分、目立つべき所と目立たないでいた方がいい所をわきまえてるんだよ。冬ちゃんの演奏って」
「ああ、その辺は野生の勘で」
 

出演者は地元の素人さんたちである。事前に何本(邦楽でキーのこと)で歌うというのを登録してもらっているのだが、そこは素人さんで(前奏も無視して)予定と違うキーで歌い出す人も多いので、私の三味線は良いが、尺八を吹く瑞鴎さんは慌ててそばに置いている別の長さ(尺八はキーごとに別の長さの竹を使用する)のものに持ち替えて吹いたりしていた。
 
さて、出演者の演奏も続き、あと数人という時にその事故は起きた。
 
唄い手さんは『佐渡おけさ』を唄っていたのだが、2コーラス目を唄っておられた時に突然私の三味線の「三の糸」が切れてしまった。私は内心「うっ」と思ったもののこちらの都合で伴奏を停める訳にはいかない。私は残りの2本の糸だけで演奏を続ける。隣で尺八を吹く瑞鴎さんも驚いたようだが、動揺しないように演奏を続ける。
 
この唄い手さんは上手いので、演奏は長く続く。3コーラス目、4コーラス目と唄が続き、とうとう5コーラス目に突入した。その時、今度は「二の糸」まで切れてしまった。私は「ぎゃー」と思ったものの、平静を装い残りの「一の糸」
だけを使い演奏を続けた。私より瑞鴎さんの方が目を見張っている。
 
そして唄い手さんはついに6コーラス目まで唄って演奏を終えた。
 
(結果的にはこの人が優勝した)
 

私はその人の唄が終わった所で、急いで3本の糸全てを張り替えた。それを待ってくれていた司会者さんに会釈して、次の出演者が出てくる。
 
全員の歌唱が終わってから、瑞鴎さんから言葉を掛けられる。
 
「よく頑張ったね」
「幸いにも『一の糸』が無事でしたから」
「うんうん。『一の糸』が切れたらどうにもならないよね」
 
三味線の3本の糸の内、『一の糸』はいちばん太い糸、つまりいちぱん低い音を出す糸なので、その糸を短く押さえれば高音は出せる。しかし万一『一の糸』が切れてしまうと、他の糸では低音域が弾けないので、代替できないのである。
 
「せっかく調子良く唄っておられたのに、万一そういう事故が起きたら大変でした」
 
「しかし、糸を交換するのに、切れてない一の糸まで交換したね、君」
「だって次の演奏でその一の糸が切れたら大変じゃないですか」
 
「そう考えられる君が凄い」
と瑞鴎さんは言った。
 
「私、今日の演奏会の前に全部糸を交換したんですけどねー」
「ああ、やってたね。いつもやるの?」
「はい。伴奏で出る場合は必ず新品と交換します」
「偉いね」
「交換した糸は練習用に使いますし」
 
「君、有吉佐和子の『一の糸』って小説知ってる?」
「いえ」
「三味線の『三の糸が切れたら、二の糸で代わって弾ける。二の糸が切れても、一の糸で二の音を出せば出せる。そやけども、一の糸が切れたときには、三味線はその場で舌噛んで死ななならんのやで』。そんなことばが出てくるんだよ」
 
「まさにさっきの事故ですね!」
「『一の糸』の主人公でこのことばを言った三味線弾きも、公演の前には必ず糸を全部新品に交換していた。だから彼の揚がり糸は、喜んでもらわれて行っていた。あまり痛んでないから」
「なるほど!」
 
「でも切れてない糸で代替できるといっても、かなりしんどいよね」
「しんどかったです! 一の糸の普通の音をそのまま使っては二の糸や三の糸の出すデリケートな響きが作れないから、ちょっと弾き方を工夫しました」
 
「だよね。糸が切れたということを感じさせないようにうまく弾くと思った」
「唄い手さんを絶対に動揺させてはいけませんから。それに私、トラブルには割と強いかな。でも先日、クラシックの演奏会に出ていて、私じゃないけど、コンマスさんのヴァイオリンの弦が切れたんですよ」
「へー!」
 
「それで隣で弾いていた演奏者のヴァイオリンと交換して、そのお隣さんは後ろにいた人のと交換して、後ろの人が予備のヴァイオリンに持ち替えて」
 
「おお、そういう交換をするって、話には聞いたことあるけど、びっくりだよね、それ」
 
「ええ、三味線の糸にしてもヴァイオリンの弦にしても、糸にはドラマがありますね」
「その糸が生み出す世界が大きい分、泣き笑い、怒り歓び、そして恋もあれば感動もある」
 
「そうですね。私が音楽してるのも、その感動を味わいたいからかも知れないな」
と私が言うと瑞鴎さんも
「うん。私もここ40年ほど、そういうのを色々味わってきたよ。君も、自分で感動できて、お客さんも感動させられる音楽を紡ぎ出して行こうよ」
 
「はい」
と私は明るく返事をした。
 
 
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【夏の日の想い出・いと恋し】(2)