【夏の日の想い出・いと恋し】(1)
1 2
(C)Eriko Kawaguchi 2013-04-26
中学1年の時、私は学校では「猫をかぶって」普通の男の子の振りをしていた。声もだいたい男声で話していた。
私が実は、かなり女の子であること、女の子の声が出せること、実は女の子の服をしばしば着ていることを知っていたのは、ごく少数の人間だけであったし、知っている人もみなその一部だけを見ていて、私の「女の子度合い」の全貌を知る人はたぶんいない。
中学1年の時期、私の生活の中心になっていたのは陸上部の活動である。平日は毎日夕方4時から6時くらいまで練習をしていた。しかし土日は練習が無いので、毎週土曜日は小学5年生の時に知り合った津田アキさんの民謡教室に行って、三味線と唄のお稽古、それにアキさんの娘さんの麗花さんにピアノを習っていた。ただし毎月第三土曜には、私は新幹線で名古屋まで行き、伯母の風帆さんがやっている民謡教室で、若山流の三味線を習っていた。
当時私はアキさんの斡旋でしばしば民謡の大会や演奏会の三味線伴奏やお囃子などをして、その謝礼をもらっていたので、その謝礼をこれらのお稽古代や交通費の原資に当てていた。これはいわば私の「裏会計」である。
そして私は津田さんの民謡教室や名古屋に行く時は、いつも姉から譲ってもらった中学の女子制服を着ていたのであった。この女子制服は現行の女子制服とデザインは似ているのだが、ラインの形などが少し違うものである。この服は私は近所の奈緒の家に置かせてもらっていて、私は普通の男の子(?)の格好で奈緒の所に行き、そこで着替えさせてもらって、お稽古へと行っていた。それで私はこの服をくれた姉にも女子制服姿はほとんど晒していないのである。(早朝出発する時は公園のトイレなどで着替えたこともある)
ある時、陸上部で親しくなった美枝がうちに遊びに来たことがある。美枝は私が大量のクラシックCDを持っていると聞いて、聴かせて、聴かせてと言って来たのであった。
「私も3歳の時からピアノとヴァイオリン習ってたんだけど、小学校の4年生くらいで挫折しちゃったのよね〜」
「なんで?」
「だってそのあたりから弾く曲が結構難しくなってくるでしょ? どうしてもそのレベルに付いていけなかったんだな。やはりそういう難しい曲を弾きこなすには結構な練習が必要だったけど、私あまり練習好きじゃなかったし」
「なるほどねー」
「レッスンの度に先生から『全然出来てない』『練習してないでしょ』と叱られるばかりだったよ、当時」
「まあ、どんな天才でも練習せずにうまくなることはないから」
などという話をしていた時、美枝はふと私の部屋の隅に立てかけてあるギターケースに目を留めた。
「あれ、冬、ギター弾くんだ?」
「え?ギターは弾かないよ」
「だって、そのギターケース」
「ああ。これ!」
私は微笑んで、それを開ける。
「三味線!?」
「そうなんだよねー」
と言って、私はギターケースの中に入っていた三味線を取り出すと組み立てて調弦し、その三味線で『禁じられた遊び』を弾いてみせた。
「三味線でもギター曲が弾けるもんなんだ!」
「そりゃ弾けるよ。特に三味線はフレットが無いから、西洋音律の音も出せるからね」
「でも今のちょっと不思議な世界だった。でもなんでギターケースに?」
「うちのお母ちゃんが昔三味線やってて挫折して、今は三味線見るのも嫌だっていうからさ。それで三味線ケースも見たくないらしいから、ギターケースの中に納めている。エレキギターのケースと三味線ケースってほとんど同じサイズなんだよね〜。中は若干加工したけどね」
「面白いことするね〜」
私たちの世代は学校によって違いはあるが、小学校の内から英語の授業を受けていた子たちが結構いる。私が通った小学校は、愛知の方の小学校でも東京の方の小学校でも、週に1回外国人の先生が来て、簡単な英会話を中心にした授業をしていた。
またどうせ英語を学ぶなら本物の発音にたくさん触れた方がいいと言って、母が洋画のDVDをレンタルしてくると、英語モードでそれを家の中で掛けていた。それで私は英語の発音に自然に親しんでいた。
中学に入って本格的な英語の授業が始まったが、私がきれいな発音でテキストを読むので、英語の担任の花崎先生は褒めてくれたが、2ヶ月もする内に、私の発音に時々首をひねる場合があった。ある時、授業の後で廊下に私を呼び出し訊いた。
「あのね、あのね、唐本さん、英語の発音、いつもきれいなんだけど、それがふつうにきれいな時と、すごくきれいな時とがあるんだけど、なんでだろ?」
「さ、さあ、なんででしょうか?」
私はその理由には若干心当たりはあったのだが、この時期それをバラす訳には行かなかった。「すごくきれい」なのは女の子下着を着けている時なのであるが私が時々女の子下着を着けていることを知っていたのは若葉くらいであった。
6月、英検の4級を受けに行った。英検は学校によっては、学校自体を会場にして全員受けさせる所もあるようだが、うちの中学は受けたい人だけ受けようということだったので、会場になっている近隣の※※高校まで行った。私はこの日は奈緒の所に寄って女子制服に着替えてから、同じ日に受ける奈緒と一緒に会場に向かった。
「でも英検の試験会場には冬の中学の子も結構来てるんじゃない?この制服姿を見られたりして」
「うーん。その時はその時だな。でも私、女の子の服でないと調子出ないから」
「ああ。冬って、女の子の服を着ている時と、男の子の服を着ている時でパワーが全然違うもんね〜」
と奈緒は楽しそうに言う。
「でも女子制服着ててさ、受験票の名前が男名前だったら替玉受験を疑われたりしないかな?」
「あ、それは大丈夫。だって私の受験票、これだもん」
と言って、私は奈緒にその受験票を見せる。
「おぉ! Ms. Fuyuko Karamoto になってる!」
と奈緒は嬉しそうな声を挙げた。
校舎の途中で別れて各々の受験教室に行く。私はそのまま席に就き、机に伏してあまり他の受験生に顔を見られないようにしていた。そして机に伏したままヨガの呼吸法を使って心を落ち着かせる。
試験の点数というのは、その時の精神状態で、かなり左右されるものなのである。
試験はほぼ完璧に解答できた感じであった。やはり、女の子の服を着てると頭の働き方が違うなあ、と我ながら思い、楽しい気分になる。
試験時間が終了し、答案用紙が集められて解散となる。私は取り敢えずトイレに行ってから帰ろうと手近のトイレに入った。
試験が終わった後なので、列がかなり長くできている。まあ仕方無いよね、という感じで待つ。私は女の子の服を着ている時は、トイレには必ず余裕を持って行くようにはしていたが、こういうイベントの合間の時はけっこう我慢が大変な場合もある。
列がなかなか進まないので、できるだけ他のことを考えようと思い、ちょっと後ろを振り向いた時、私よりも5人ほど後に並んでいる女の子と目が合ってしまった。
「あれ?」などと言われるので、私は自分の場所を出て彼女の所に一緒に並んだ。
「お疲れ〜、貴理子ちゃん」
それは小学校の時の同級生で、中学でも同じクラスになっている貴理子であった。
「・・・もしかして、冬ちゃん?」
「えへへ。今日は運良く誰にも顔を合わせることなく、試験場まで来たと思ったのになあ」
「この服着てるの、初めて見た。セーラー服作ったんだ! あれ?これ私の制服と少し違う」
「お姉ちゃんからもらった服なんだよ。3年前にデザイン変わっちゃったからね。念のため学校に電話して確認したら、お姉ちゃんとか先輩とかから譲ってもらったという場合は、この服で通学してもいいらしい」
「へー。じゃ、これで通学しておいでよ」
「いや、それがちょっと恥ずかしい気がして」
「冬ちゃんがセーラー服着てても、誰も変に思わないと思うよ」
「そうかなあ」
「それに、冬ちゃん、そんな声も出るのね?」
と貴理子は小さい声で訊く。
「うん。学校で使ってる声はなんちゃって声変わり」
と私も小さい声で答える。
「へー。冬ちゃんって色々面白い子だなあ。あ、でもその声が出るなら、合唱部に入れるんじゃない?」
「それ、倫代にも言われたんだけどねー。当面は陸上部1本で行こうかなと思ってる」
「ふーん」
「貴理子ちゃんはずっと吹奏楽だね」
「うん」
「中学でもベルリラ打ってるんだっけ?」
「ジャンケンに負けちゃったんだよ〜」
「ありゃ」
「今クラリネット吹いてる。やっとまともに音が出るようになってきた所」
「凄いなあ。フルートにしてもクラリネットやオーボエにしても、木管楽器って吹ける気がしない。以前雑誌の付録に付いてたプラスチック製の横笛吹いてみたけど全然音が出なかったんだよね〜。クラリネットなんて私が吹いたら音出すのに1年かかりそう」
「うーん。冬ちゃんって器用だし他人の動作をコピーするのがうまいから、人の演奏を聴いた上で、集中して練習すればひょっとしたら一週間で音出るようになるかも」
「まさか!」
「いや、あれ個人差があるんだって。オーボエは本当に難しくて、みんな、音が出るまでにかなり掛かるんだけどさ。フルートやクラリネットって、すぐ出るようになる子とかなり時間が掛かる子がいるんだよ」
「へー」
「私は特に要領悪いと先輩から言われた」
「うーん。。。」
「冬ちゃんって凄く器用だからね」
「そうだねー。器用貧乏とは言われるけど」
「きっとほんとに短期間で音が出るようになるよ」
「そうかなあ」
「ね、ね、合唱部は女子だけだけど、吹奏楽部は男女混合だからさ、私と一緒にクラリネットやらない? 1年女子はクラリネット担当が最初3人いたのに、辞めちゃってさ。今私ひとりだけなのよ」
「1人ってのは辛いね〜」
彼のことはT君と書いておこう。
最初に彼に会ったのは6月中旬に新幹線に乗って名古屋にお稽古に行く時であった。
その日はかなり混雑していた。まだ東京駅で発車を待っていた時のこと。私はふたり掛けの席の窓側に座っていたのだが、私の席の近くでも席を諦めて立って乗る態勢の人たちがポツポツと出始めていた。私の隣は空いているものの、女子中生の隣というので、男の人などは遠慮している雰囲気であった。
そこに
「すみません、ここ空いてますか?」
と訊いてきた、高校生くらいの男の子がいた。
「はい、空いてます。どうぞ」
と私は女声で答える。
「助かった。失礼します」
と言って彼はそこに座ってきた。
彼は小さな楽器ケースを持っていて、それを席の上の棚に乗せた。その隣には私のギターケースが置いてある。
「そのGibsonのギターケース、君の?」
「あ、はい」
「へー。エレキギターするんだ?」
「いいえ」
「あ、エレキベースだっけ?」
「いえ、私は三味線です」
「三味線? それ、Gibson製の三味線?」
「いえ、岐阜県で職人さんが手作りしたふつうの三味線ですね。ケースは中身とは無関係です」
「へー、ギブソンじゃなくてギフケンか。でもギターケースに三味線入れるって変わってるね」
「ええ。ちょっと事情があって」
「ふーん、面白い」
それがきっかけで彼は私にどんどん話しかけてきた。
「僕はヴァイオリンやってるんだけどね。今日は友人のオーケストラにエキストラで参加しに行くんだよ」
「どちらまでですか?」
「大阪。それで8月のこちらの公演には彼が東京に来てエキストラ参加してくれることになっている」
「いろいろ大変なんですねー」
「どこの楽団もけっこうメンツ足りないからお互いに協力しあってやりくりしている感じかな」
「へー」
「君、ヴァイオリンとか弾かない?」
「触ったこともないです」
「ヴァイオリンは面白いよ〜。三味線弾けるんならヴァイオリンも弾けそうだけど」
「全然違う楽器という気がしますけど。胡弓なら分かるけど」
「君の『胡弓』の発音、変」
「ああ、『胡弓(こきゅう)』の『きゅう』にアクセントを置いて息を吸う方の『呼吸』みたいに発音なさる方もおられますね。少なくとも私の流派では『こ』の方にアクセントを置きます」
「へー!」
私は名古屋まで少し寝ておきたかったのだが、彼は1時間半しゃべりまくっていて、私は寝ることはできず、その間ずっと彼の話に付き合うことになった。
ちょっと疲れたので、名古屋駅で降りて駅裏の地下街で30分休憩してから地下鉄で教室へと行った。
「すみませーん。少し遅くなりました」
「許容範囲、許容範囲。まだお稽古スタート時間の10分前だし」
「お稽古前のお掃除できなかった。後片付けで頑張ります」
「うん、頑張って」
急いで練習用の和服に着替えたが、着替えている最中に教室に顔を出していた従姉の美耶に突然後ろから抱きつかれた。
「わっ」
「ふふふ。冬ちゃん、女の子が板に付いてるね〜」
「えへへ。うちのお母ちゃんには内緒でよろしく〜。あ、ご結婚おめでとうございます」
「ありがと。ね、ね、でもさ、これ胸あるよね。女性ホルモン飲んでるの?」
「天地神明に誓って飲んでません」
「ほんとかなあ。嘘つくと、閻魔様におちんちん取られるよ」
「それは好都合です。でもホントに飲んでないんですよー」
この時間帯にお稽古の入っている生徒さん7人ほどと一緒に、先生の三味線に合わせて演奏をする。美耶も来た以上入れと言われて一緒に弾いている。この中にはとってもうまい人もいるし、まだ初心者という人もいるが、一緒に演奏することで、うまい人にしても初心者にしても、それぞれ学ぶものがある。
「冬ちゃんの三味線、すごーくきれいだよね。ひょっとして私よりうまくない?」
と、この組の中で最上級の人から言われてしまう。
「私の三味線はこういう場では先生に合わせようとするから、結果的に先生の三味線を実質コピーして弾いてるんですよね。だから合奏でなくて独奏の時はそれなりに下手くそです」
と笑って答える。
先生(風帆)も言う。
「そうそう。この子はコピーが物凄くうまいのよ。だから、この子の演奏を聴いてて、私は自分の悪い癖に気付いてしまう。私がお稽古代払わないといけないんじゃないかと思うこともあるよ。でも独奏や伴奏ではまだまだ**さんには遠く及びませんよ」
「コピーがうまいということは、新しい楽器なんかもすぐ覚えたりして」
「ああ、行けるかもね。冬ちゃん、胡弓ちょっとやってみる?」
「あ、何か楽しそうとは思って見てました」
それで、休憩時間に風帆は胡弓を取り出してきて『越中おわら節』を弾く。
「さて、コピーできるかな?」
「えっと。そもそも私、胡弓触ったことないし」
「じゃ、触ってみよう」
と言って伯母は自分の胡弓を貸してくれた。
「これ、どうやるのかな・・・・」
と言いながら取り敢えず弓を引いてみる。
「ぎゃっ」
ノコギリのような音が出る。弓が物凄く震えて腕に伝わる衝撃が大きく、私はすぐに演奏を中断してしまった。
「ああ、さすがに一発では無理か。胡弓本体を斜めにしてるし、弓も曲がってるもん。それ水平に動かさなきゃ」
「あ!そうか。弦に対して弓を直角に動かさないとダメですよね」
「そうそう」
それで私は胡弓をまっすぐ抱えて、弓を弦と直角になるよう水平に動かしてみた。
「おお、けっこういい音出るね」
「いえ、まだ不正確ですね」
と私は言いながら、ポジション・角度を調整する。
「へー、かなり良い音になってきた。ほんとにちょっと勉強してみない?」
「そうだなあ。ちょっとやってみようかなあ」
「やると、三味線と相互にプラスになると思うよ。冬ちゃんの性格って、何かひとつに打ち込むより、色々なことをした方がその各々も良くなっていくでしょ?」
「はい、それは自覚してます。私、基本的に何でも屋で便利屋なんですよ」
「じゃ胡弓、1個取り寄せてあげるよ。代金は出世払いで」
「わあ、ありがとうございます」
私はこの時、胡弓はこの教室に取り寄せてくれて、来月のお稽古の時から教えてもらえるものと思っていた。
私はその日、初めて触った胡弓で結構良い音が出たのが嬉しくて、少し楽しい気分で名古屋駅に向かい、新幹線に乗り込んだ。うまい具合に空いていた席があったのでそこに座る。
それで頭の中で今日習ったことを再生してみていた時「あれ〜、また会った」
という声。T君だった。
「あら、こんにちは」
「ここ、空いてる?」
「はい」
「ラッキー、ラッキー。新大阪から名古屋までは立ってたんだけど、名古屋で結構降りるだろうから空き席ができないかなと思って探してたんだ」
「それは良かったですね。演奏会はどうでした?」
「うん。いい演奏ができた。観客が少ないのが問題だけどね」
「ああ。ああいうの、チケットさばくの大変そう」
「うん。楽団員を集めるのも大変だけど、チケット売るのが更に大変なんだよ。しかも実はチケットを全部売ったとしても1公演あたり10万くらいの赤になるんだけどね」
「あらあら」
「今日行った楽団にしても、うちの楽団にしても補助が出てるからそれで何とかなってるんだ」
「大変なんですね」
それで結局彼は名古屋から東京までもひたすら1時間半、しゃべりまくった。えーん。帰りも寝られなかったよぉ。家に帰ったら仮眠しよう。
などと思ったら
「ね、ね、今日これからうちの楽団の練習があるんだけど、ちょっと見に来ない?」
などと彼に言われた。
私は眠たいしと思ったので何とか断ろうとしたのだが、押しの強い彼の誘いに負けてしまい、東京駅で自宅に電話を入れた上で、彼に付いて練習を見に行くことにした。
練習場所は地域の公民館であった。
「あ、こちら見学者の・・・あ、ごめん名前なんだったっけ?」
と彼は私を紹介しようとしたが、私の名前は忘れていたようであった。
「唐本です。初めまして。みなさんの練習見学させてください」
「わあ、可愛い。中学生?」
「はい」
「楽器何かするの?」
「あ、ギターケース持ってる。エレキギターするの?」
「いえ、これ中身は三味線です」
「えー!?」
集まっている楽団員は12〜13人ほどであった。楽器ごとの人数を数えてみた。ヴァイオリン3人、ヴィオラ・チェロ・コントラバス各1人、フルート、クラリネット、オーボエ各1 トランペット・トロンボーン・ホルン各1人。ヴァイオリンはどうもT君が第一ヴァイオリンで、残りの2人が第二ヴァイオリンのようである。会話を聞いていると、どうもT君はその第一ヴァイオリン首席、つまりコンマスのようである。
室内楽編成に近いが、本来はヴァイオリンがもう少しいるのだろうし(第一ヴァイオリンが1人しかいないというのは有り得ない)、この他にファゴットあたりが入るのではという気がした。
この編成でその日はヴィヴァルディの『四季/春』第一楽章、アルビノーニの『アダージョ』、チャイコススキーの『くるみ割り人形』から『金平糖の踊り』
と『花のワルツ』を演奏した。
『金平糖の踊り』では、ホルンの人(女性)が鉄琴を弾き(本来チェレスタだろうが高価なので鉄琴で代用しているのであろう)、クラリネットの人(男性)がバスクラリネットに持ち替えて、鉄琴とバスクラで高音と低音の呼び合いを演奏する。
『花のワルツ』冒頭の本来はハープで演奏する部分は、『金平糖の踊り』で鉄琴を弾いていた女性が更に電子キーボードに移って演奏した。この編成に電子キーボードというのは変なのでおそらく本番ではグランドピアノを使うのであろう。
「本当はあと第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンにチェロが1人ずつ、ホルンがあと1人、それにファゴットとティンパニがいるんだけど、今日は来てないんだよね」
とT君は説明した。それでも全部で19人。室内楽団としても小規模な部類になる。
「以前は学校の部活だったんだけど、人数が足りなくて楽団の体を成さなくなってしまって、3つの高校と2つの中学の管弦楽部が合同で去年この楽団を結成したんだよな。建前的には各々の学校の管弦楽部が合同で練習しているということになっていて、各々の学校から部費は支援されている。一部OBやそれ以外のも入っているのは形式上は協力者」
などと言っている。5つの楽団が合同して20人ということは元々の各楽団は4〜5人ずつだったということか??
「ブラスバンド部とか軽音部とかは人が集まるみたいだけど、管弦楽はなかなか集まらないみたいで」
「ヴァイオリンのパートって第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンですよね。今日来ておられる人が1人+2人。であと2人おられるとしても2人+3人。少なくないですか?」
「そうなんだよ。本当は第一に6人、第二も4人くらい欲しいんだけど、勧誘できる人がいなくて。一応8月の演奏会にはあちこちから頼んであと3人加わることになっている」
「大変ですね」
「そうだ!唐本さん、ほんとにヴァイオリンやってみない?三味線弾けるってことはさ、耳で音程を確認しながら音を鳴らせるってことでしょ?ヴァイオリンも行ける気がするんだよね」
「そんな無茶ですよー。ヴァイオリンなんて触ったこともないし」
「じゃ、ちょっと僕のを触ってみない?」
と言って、T君は私に自分のヴァイオリンを渡した。
私はちょっと困ったものの、とりあえず見よう見まねでヴァイオリンを肩と顎で支えると、今日の民謡のお稽古の時に胡弓でやったのと同じ要領で、弓を弦に対して垂直になるようにしっかり持ち、音を出してみた。
「凄い! ちゃんと音出るじゃん」
「今のは少し濁ってましたね。引き方が甘かったかな」
と言って私はその場で多少の試行錯誤をして、きれいな音の出る弓の引き方を見つけた。
「凄い。あっという間に音がきれいになった」
「正確に音程取ってるね。絶対音感持ち?」
「君、才能があるよ」
「いや、いきなりこんなに弾けるって天才だ」
などと他の楽団員にまで言われる。
「ほんとにヴァイオリン触ったことなかった?」
「ええ。初めてです」
「ヴァイオリンは触ったことないけど、ヴィオラやチェロはやる、なんてことは無いよね?」
「そんなのもっとないです。ただ、私コピーの天才とか物真似の天才って言われるんですよ。他人がやっているのを見て、その通りにやってみるのが得意で。音も私絶対音感は無いですよ。たださっきの音を覚えていただけです」
「それも凄い」
「ああ、だから僕らが弾いてるのを見て、それと同じように弾いてみたんだ!」
「ええ、そんな感じです」
「それなら、僕らの演奏を見てたら、すぐ楽曲も覚えてしまわない?」
「うんうん。ヴァイオリン奏者、ひとりでも多くしたいし」
「自信が無ければいちばん後ろで弾いてもらえば、ミスっても目立たないよ」
「うんうん。それで8月の公演に出ない? チケット売ってとかは言わないし。純粋に演奏するだけでいいから」
「ヴァイオリンは僕のを貸してあげるよ。僕ヴァイオリン3丁持ってるから、今度別のを持ってくる」
とT君が言っている。
そういう訳で、なんだか、なし崩し的に、私はこの楽団に8月の公演までの限定で、加わることになってしまったのである。
休憩時間には楽団の女性メンバー、フルートの人とホルンの人の所に寄って行き「お疲れ様ですー」などと言って、言葉を交わしておいた。こういう場で女性同士仲良くなっておくことは、短期間ではあっても集団に溶け込むのに必須である。ふたりとも近隣の高校に通う高校2年生ということであった。
取り敢えず握手して。私たち3人の間では「冬子ちゃん」「Eさん」「Aさん」
と名前で呼び合うことになる。
「でもEさん、ホルン吹いて鉄琴弾いて、ピアノも弾いてって忙しいですね」
「そうなのよ。3種類の楽器で練習しなきゃいけないから大変。もっともホルンなんて自宅では吹けないから、自宅では鉄琴の所も含めてクラビノーヴァで弾いてみているだけだけどね」
「でもEちゃんは器用だよ。やはりこういう小さな楽団ではEちゃんみたいな便利屋さんがいないと、なかなか回らないから」
とフルーティストのAさんも言う。
「ところで、冬子ちゃんってT君のガールフレンド?」
「違いますよ〜。ただ新幹線で隣の席に乗り合わせただけです。何かあの人強引で、半ば拉致されてきました」
「ああ、ありがちありがち」
「無茶苦茶押しが強いからなあ」
「それが長所でもあり欠点でもあるけどね」
「でも、やっぱりT君が女の子と付き合う訳無いよね」
Aさんのその言葉を後で思い出して私は愕然とすることになる。
取り敢えず翌日、私はT君と待ち合わせてカラオケ屋さんに行き、そこでT君が持って来たヴァイオリンを借りて音を出してみた。
彼はいきなり楽曲を弾かせようとするのではなく、入門者用の教本を見せて、そのステップに沿って教えてくれた。私が課題をどんどんクリアするので、その日、教本の半分まで終わってしまった。
「君凄いね。学校の部活では何かやってないの?」
「私、部活は今は陸上部だけです」
「すごーい! スプリンターなんだ!」
「いえ、短距離じゃなくて長距離の方なので」
「へー。じゃ肺活量とか凄いんじゃない?」
「肺活量はこないだ測ったら6000ccでした」
「すごー! あ、そうか民謡で鍛えてる分もあるんじゃない?」
「そうですね。蝋燭を前に立てて、その火を消さないようにずっと声を出し続けるとかやってますよ。ブレス無しでだいたい3分間は発声できます」
「すげー!! 3分も。だったら、管楽器とかもできそうだなあ」
「管楽器で吹けるのはリコーダーくらいですね」
「フルートとか吹かないの?」
「吹いたことないです」
彼はそのヴァイオリンを取り敢えず8月の公演まで貸しておくということだったので、取り敢えず預かっておくことにした。カラオケ屋さんを出た後、駅まで一緒に歩き、そこで別れた。
そしてこのふたりで歩いていた所を見ていた友人が居た。
「ね、ね、冬、彼氏出来たの?」
と奈緒は言った。
「へ? なぜボクに彼氏ができないといけないの?」
「だって、昨日、新宿で冬はセーラー服着て、高校生くらいの男の子と何だか凄く仲よさそうに歩いてたの見たよ」
「昨日・・・新宿・・・? ああ! T君ね」
「冬が女の子と歩いていたらただの友だちと思うけど、女装で男の子と歩いてたら、ボーイフレンドかなと思っちゃう」
「まさか。彼、中高生を中心としたオーケストラやってて。ちょっと練習見に来ない? って誘われただけだよ」
「いや、そういうお誘いを受けたきっかけは?」
「こないだ新幹線の中で偶然隣の席になって。私は半分寝てたんだけど、彼がひたすらしゃべりまくって。それで半ば強引に連れて行かれたんだけどね」
「それって、彼は冬に気があるということでは」
「まさか。純粋に自分たちの演奏を人に見せたいだけだと思うなあ」
「ふーん。新幹線ってどこからどこまで?」
「最初、東京から名古屋まで。それで帰りの名古屋から東京までも偶然また一緒になったんだよ」
「じゃ往復3時間同席したんだ?」
「こちらは寝ておきたかったんだけどね」
「でも新幹線で3時間女子中生と同席したら、彼としては結構ときめいてると思うよ」
「そんなものかなあ」
「ああ、冬って男心が分かってないからね」
「うん。ボク男性心理はさっぱり分からない」
「彼とはそれだけ?」
「それがさあ。8月のそのオーケストラの公演でヴァイオリン弾いてって言われて、彼のヴァイオリン預かっちゃった」
「冬、ヴァイオリン弾けたんだっけ?」
「全然。こないだ初めて触った」
「初めて触って、けっこう弾けたんでしょ? 冬って器用だもん」
「自分としては単に音を出したって感じだったんだけどね」
「いや、ヴァイオリンは普通、音が出るようになるまでに時間が掛かるよ。それが出せなくて、入門以前の段階で挫折する子も大勢いるのに」
「そんなに難しいんだっけ?」
「でも、ヴァイオリンやるんなら、最高の指導者が身近にいるじゃん」
「うーん・・・・」
その話はもう早速翌日にはアスカに伝わっていた。朝7時に電話が掛かって来たので何事かと思うとアスカからであった。
「奈緒とアスカって情報伝達が速いね」
「冬の性別に関する研究の協力網だよ。私と奈緒ちゃんと明奈ちゃんと」
「ボク、ふつうの男の子だけどなあ」
「嘘付くの、よくない。でも取り敢えずヴァイオリン始めたんなら基礎的なことは教えてあげるよ。今日、学校が終わったらそのヴァイオリン持ってうちにおいでよ」
そういう訳で、私はその日、陸上部の練習を休んでアスカの自宅を訪問した。アスカのリクエストによりセーラー服である。
「おお、セーラー服の冬ちゃん可愛い、可愛い」
と私を見てアスカは喜ぶ。
アスカの家は閑静な住宅街にあるごく普通の2階建て住宅に見える。敷地面積が60坪、建築面積30坪(延べ面積60坪)くらいであろうか。
しかしこの家の地下に防音音楽練習室があるのである。アスカが4歳の時に、この子を将来音楽家に育てようというので、ここに土地を買い、最初から地下室と一体型で家を建てたのだそうである。
(なお地下室は延べ床面積の3分の1以下であれば延べ床面積に加えなくてよい。つまり容積率100%の場合、1階・2階と地下を合わせて実質150%の住宅を作ることができる)
アスカは幼い頃、ここに何日も実質閉じ込められたままヴァイオリンの練習をさせられたこともあるという。
「あの頃は夏休みとかが怖かったよ。学校があってる間は、学校にだけは行かせてもらえるからね」
「わあ。大変だ。でもアスカに才能があるからだよ。それを伸ばしてあげようとお母さんも頑張ってたんだと思う」
「そうかも知れないという気はする。私に才能が無かったら、ああいうレッスンは無かったろうけど、そしたら別の意味でお母ちゃんから冷たくされてたかもね」
「ところでこの貸してもらったヴァイオリン、いくらくらいのものだろ?」
と私は訊いてみた。
「いくらだと思う?」
「これ、音の響きが良くないんだよね。借りたものに難癖付けるのも何だけど。響きが悪いのは私の腕が悪いというのもあるかも知れないけど、形がアバウト。ここの所とか板の継ぎ目が適当」
「ああ、これはひどいね」
「この made in Italy という刻印もなんか怪しい気がして。でもイタリア製といっても、ピンからキリまでありそうだし」
「まあ、キリだろうね」
とあっさりアスカは言う。
「それか実は中国製で産地偽装してるかだよ」
「やはり」
「それにこれ接着剤で板をくっつけてあるじゃん。問題外」
「ああ」
「ねえ。そんなヴァイオリンで練習していたら変な癖付くよ。私がヴァイオリン貸してあげるから、練習はそれでしておいて、そのオーケストラに行く時だけ、そのヴァイオリン使いなよ」
「そうだね。じゃ遠慮無く借りようかな」
「これちょっと弾いてみる?」
と言ってアスカは棚から1台のヴァイオリンを取ってくれた。
「・・・これはかなり高価なものでは・・・雰囲気が上品」
「貸し賃は、8月に名古屋で一緒にお風呂に入ること、ということで」
「あはははは」
それでそのヴァイオリンを借りて試しに弾いてみると、物凄く豊かな音が出る!
「凄い、このヴァイオリン素敵」
と私は言ったが
「いや。いきなりそれだけの音を出せる冬ちゃんが恐ろしい。そんなにその子が弾きこなせるなら、ほんとにしばらく貸しとくよ」
とアスカに言われた。
「そうだ。日付を聞いてなかった。従姉さんの結婚式はいつ?」
「あ、そうそう。あれね、8月はどうもみんなの都合が付かないということで9月25日になった。土曜日。だからナガシマスパーランドは26日」
「9月26日・・・・うん。OK。時間取れる」
と言ってアスカはしっかりダイアリーに予定を書き入れていた。
「遊園地の後、プールと温泉ね」
「あはは」
T君から借りた教本は、アスカも「その教本は良い本」と言うので、アスカから借りたヴァイオリンで、最初からまた楽譜を演奏してみる。
「あ、そこは違う」
とか
「ここはこういう感じで」
などとアスカが模範演奏を見せてくれる。それで私がその通りに弾いてみせると
「冬って、以前自分でも言ってたけど、コピーが凄くうまいね」
「そう。でもそれがボクの使える所でもあり、困った所でもある」
「コピーすることで、その水準までは行けるけど、そればかりしていたら、やがてコピーできる上位者がいなくなった時に、どうにもならなくなるからね」
とアスカ。
「うん。それがボクのおばあちゃんのボクへの遺言だったんだよ」
と私。
「ふーん」
アスカも自分の練習で忙しいので、私は今週だけ後1回見てもらい、来週からは週1でアスカの家を訪問して練習を見てもらうことにした。またアスカは今の教本をあげた後、次にやるべき教本を教えてくれた。
金曜日にまた陸上部の練習を休んでアスカの所に行き、2回目のレッスンをしてもらってから帰宅すると、母が
「風帆姉ちゃんから、あんた宛てに荷物届いてるよ」
と言う。
「へ?」
と言って開けて見ると、ケースに収められた胡弓だ!
「うそ。。。取り寄せてくれるとは言ってたけど、こちらに送ってきたんだ!」
「あんた三味線以外に胡弓もするの?」
「いや、やってみようかな、と言ってみただけなのに」
「これ、いい胡弓だね」
「うん。値段を聞くのが怖すぎる。出世払いって言ってたけど」
「じゃ、頑張って稼がなきゃ」
母は三味線に対してはわだかまりがあるものの、胡弓にはそれほど嫌な思い出が無いらしく、弾き方を少し教えてくれた。
「持ち方、ちょっと違う。こうやって、こんな感じ」
「あ、この方が弾きやすい」
「ね?」
私に教えているうちに、母も乗ってきて、模範演奏まで見せてくれた。
「15年ぶりくらいに弾いたけど、身体が覚えてるな」
「弾いてる姿が美しいと思った」
「そうそう。胡弓って、腕で弾く楽器じゃなくて、全身で弾く楽器だから。うまく弾けてる時は美しく踊るように見える、と言われた。でも冬、コピーするのは得意だろうけど、弾いている姿勢や仕草をそのままコピーするんじゃなくて、その雰囲気とか心とかに学ばないといけないよ」
「うん」
「でも、冬、今アスカちゃんにヴァイオリン習ってるんでしょ?忙しいね」
「なんか同時進行になっちゃったね。どちらも擦弦楽器ではあるけど」
「混乱しない?」
「しそう。ヴァイオリンで『おわら』弾いたり、胡弓で『G線上のアリア』
弾いてしまいそう」
「それ弾けそうだけどね。私はよく胡弓でビージーズとか弾いてたよ」
「へー!」
週末、オーケストラの練習に出ていった私は
「すごーい。物凄く上達してる」
「もう普通に弾けてるじゃん」
と言われた。
「弾き方が派手だね。第一ヴァイオリン向きって感じ」
「うんうん」
「今第一がT君1人だけで、第二が2人だから、唐本さんに第一に入ってもらうと音に厚みが出るな」
などということで、私は第一ヴァイオリンのパートに入れられ、T君と並んで、同じ譜面台を見ながら弾くことになった。
「第一がひとりって、もう一人おられると言ってませんでした?」
「ああ、あいつはもう3ヶ月出てきてないから、計算対象外」
「あはは」
練習が終わってから、何となくT君と一緒に駅まで歩いた。
「一週間でここまで弾けるようになるって凄いね。本番までには僕よりうまくなってそう」
「私の演奏って、けっこうハッタリがあるから」
「そういう性格も第一ヴァイオリン向き。というよりソリスト向きかな」
「うーん。そういうのは物心付くか付かない頃からやってる人にはかないませんよ」
「そうかなあ。1年もやってたら差が無くなりそうだけど。もし気が向いたらずっとこの楽団に居て欲しいくらいだ」
「ごめーん。それはさすがに無理」
「そうだね・・・・そもそもこの楽団が存続できるかという問題があるし」
「何かあるの?」
「実は、8月の公演に、楽団をサポートしてくれている学校や自治体の関係者が見に来ることになってて、その評価が悪ければ支援が打ち切られることになってて」
「ああ、それは頑張らなきゃね」
と私は少し突き放すような言い方をした。同情するのは簡単だが、私はその結果を引き受けきれない。
「あ、そういうドライな反応が好き」
「そう?」
「ここで『私もできるだけのことするね』とか無責任に言う子は嫌い」
「私は何もできないから。私、できないことはできないと言う性格だし、できないと分かっているのに努力しますとか言うのも嫌い」
「つまり、君が『やってみようかな』とか言う時は自信がある時なんだ?」
「そうでもないけどね」
陸上部の練習は6月中旬から毎週水曜日は学校から少し離れた所にある陸上競技場で行われることになった。9月にある大会を見据えて400mトラックという長さ、そして全天候型というトラックの舗装に慣れることが目的であった。実際私は普段の土のグラウンドとのクッションの違いに最初の内、結構戸惑ったものである。
この陸上競技場での練習では私は毎回「居残り練習」をさせてもらっていた。みんなでやる練習が終わった後、更に競技場の回りを10周(約6km)走ってから帰るようにしていたのである。それは、ひとつにはやはり自分がとっても遅いので他人よりたくさん練習して少しでも速く走れるようになろうということと、もうひとつは、最後にひとりだけで帰るようにして、帰り道スカートを穿いて帰りたいという屈折した気持ちがあった。正直1日「男」を装って学校生活を送っていると、それだけで結構なストレスがあるので、少しでも女の子の服を身につける時間を取りたかったのである。
しかし暗い夜道を女の子がひとりで帰るというのは実は危険な訳で、実際に7月の中旬には一度、痴漢に襲われ掛けて、私を心配して密かに見守ってくれていた加藤先生に助けられるなどということがあったのであるが・・・・
それはそんな事件が起きる前。7月初めのことであった。
いつもは陸上競技場での練習は水曜日だったのだが、その週だけは金曜日に行われた。そしてこの日は翌日にこの競技場を使ってロックバンドのコンサートが行われるということで、フィールドにはそのための舞台が設置され、また椅子が並べられていた。そのためこの日はフィールドは使えず、トラックだけを使って私たちは練習していた。
私たちが練習している横で、その設営作業が行われていたのだが、音響を確認するためであろうか、出演するロックバンドとは違うメンツでギターやベースなどの音を出してスピーカーなどの設定や設置位置自体を調整していたようであった。演奏しているのは、この音響確認のために呼ばれたバンドであろうか、あるいは音響会社のスタッフであろうか・・・・
私はトラックを走りながら、ああこんな広い会場で演奏するの、気持ち良さそうなどと思っていた。
やがて自分たちの練習が終わり、整理運動、ミーティングの後解散になり、私は部長に断って居残り練習を始める。競技場の外側を10周すれば30分以上掛かるので、その間にみんな帰ってしまい、私ひとりだけになる。
走り終わってから、再度自分だけで整理運動、柔軟体操などをしてから、他人の目が無いのをいいことに密かに女子更衣室に入って、汗を掻いた服を脱ぎ、着替用の下着(もちろん女の子用!)に着替え、上はワイシャツ、下はスカートという、中途半端というか優柔不断的な服装になる。
そしてそれで帰ろうとしたのだが、ふと競技場のフィールドに設置されたステージに目が行った。そして気付いたら私はそのステージのそばまで寄っていた。
ステージの下から、たくさん設置された椅子の並びを見る。その日はちょうど満月だったので、その光に照らされた椅子は圧巻である。
私はステージに登ってみたくなった。
誰もいないし、いいよね?
と勝手に自分に許可を与えてステージに登る。
凄い。
これはステージの下から見るのとはまた違う。
こんな舞台で思いっきり歌ってみたいな。。。。
何だかそんな気持ちになってしまった。
私は何だか昂揚した気分の中で私はアポリネール(1880-1918)の「ミラボー橋」
をソプラノボイスで歌い出す。
「橋の下をセーヌは流れ、恋も流る。思い出せって?夜もいつか明けることを。夜が来、鐘は鳴り、日は去り、独りきり」
「手に手を取り、見つめ合って、熱く燃えた日。微笑みの日々の中で忍び寄る影。夜が来、鐘は鳴り、日は去り、独りきり」
「日が去り、週も月も去るのに、時は動かず、愛は戻らない。橋の下をセーヌは流れる。夜が来、鐘は鳴り、日は去り、独りきり」
何だか物凄く気持ちいい!
こういう会場ではやはり熱唱・絶叫できる歌に限る!
と思ったら、パチパチパチという拍手の音が聞こえた。誰もいないと思っていたので私はびっくりした。拍手をしているのは60歳前後かな、という感じの男性である。
「あ、ごめんなさい。勝手にここに入って」
「ああ、いいよいいよ。しかし君、凄く歌がうまいね」
「ありがとうございます。よくそう言われます」
「あ、これあげる。美少女には赤い薔薇が似合う」
と言って男性は唐突に赤い薔薇を1本私にくれた。
「ありがとうございます。プレゼントは歓迎です」
「ふーん」
「はい?」
「褒めた時にね、『いえ大したことありません』とか言う子、贈り物をして遠慮するような子は合唱とか合奏向きの子。そして今の君のようにむしろ自分は凄いですと主張し、もらえるものはもらっちゃう子はソロ向きの子」
「ああ。私、しばしば協調性が無いと言われますから。私ってきっとみんなが稲を作っているそばでひとりだけヒマワリでも育てているような子です」
「うん。それを自覚しているのも素敵だ。ね、君、歌手になるつもり無い?」
「はい、そのうちなるつもりです」
「うん。いい返事だ。じゃ、デビューする気になったら、僕に声を掛けてよ。悪いようにはしないから」
と言って、男性は私に名刺をくれた。
《○○プロダクション・代表取締役社長・丸花茂行》
と書かれていた。きゃー。イベンターさんかと思ったらプロダクションだったのか。これ1990年代を代表するビッグスター・保坂早穂さんのプロダクションじゃん!凄い大手!! しかもその社長さん!? 内心焦りながらも私は言った。
「済みません。名刺を切らしておりまして」
と私は言った。
「名刺作ってるの?」
「いいえ」
「あはは。やっぱり僕は君が好きになったよ。名前だけ聞かせて」
私は丸花社長から渡された薔薇を見ながら言った。
「The blossom of Rose」
「ふむ。a blossom じゃなくて the blossom なわけね?」
「はい。私に並ぶ者はありませんから」
「本当に面白い子だ。じゃ、また会おう」
と言って、丸花さんは私と握手した。
「はい。失礼します」
「気をつけて帰ってね」
「ありがとうございます」
陸上部の練習は1学期の間は平日毎日行われていたので、私はこれを火曜だけ休ませてもらい、アスカの家に通った。そして、夏休みに入ってからは、陸上部の練習は月水金の3日間になったので、続けて火曜日にアスカの家でヴァイオリンの練習をし、木曜と土曜に津田さんの教室に顔を出して、日曜にオーケストラの練習に行くサイクルにした。また名古屋行きは隔週土曜にした。
「冬ちゃん、やはり新しい楽器の習得速いなあ。ここまで弾けたら、実際の楽曲を教えてあげられるよ」
と風帆伯母から言われ、まずは『越中おわら節』の胡弓を教えられる。富山県八尾の実際の「風の盆」のビデオなども見せてもらった。
「今年の9月3日は金曜だから、一緒に『風の盆』を見に行こうか」
と言われる。
「えっと学校1日休めばいいのかな」
「違う違う。風の盆は9月3日の夜中から4日朝に掛けてが本番なのよ。公式行事は9月1日の朝から9月3日の夜9時までだけど、公式行事の終わった後が本物」
「へー」
「だからね」
と言って伯母は時刻表を見ている。
「東京を20時の新幹線に乗れば、越後湯沢で《はくたか》に乗り継いで23時半に富山に着くよ。私は車で行くから、富山駅で拾ってあげるよ」
「お祭りなのに、車で大丈夫ですか?」
「深夜過ぎると交通規制が解除されるんだよ」
「へー!」
「逆に駐車場からのシャトルバスは夜中は運行されないから、祭の本番を見るには昼間に食糧持参で行って野宿覚悟か、深夜過ぎてから車で行くしか無いのさ」
「なるほど! でも体力使いそうですね」
「女の子浴衣を着せてあげるよ」
「行きます!」
一方、アスカは8月に急遽ドイツへの1ヶ月間の短期留学が決まったということで、その忙しい中7月いっぱいレッスンしてくれることになった。
「実はさ留学の話は5月頃から打診されてたんだけど、8月にドイツに行くと、名古屋で冬ちゃんの入浴を見られないと思って渋ってたんだよね。9月になったというので安心して行ってこられる」
「そんな、私の入浴なんか気にせずに、勉強してきてくださいよ」
「いや、気になることがあっては、練習も手に付かないから」
「もう」
「だけど、冬ちゃんホントに習得が速いね。それにレッスンの時、私をコピーして弾く感じのことよくするでしょ」
「うん」
「あれで結果的に私は自分の悪い癖とかに気付いて直したりしてるんだよ」
「へー」
「自分の演奏をビデオに撮ってチェックとかもしているけど、人間にコピーされた方が特徴がよく出る。だから、冬ちゃんとのレッスンは私自身の勉強にもなるから、その楽団の作業8月14日までということだけど、それが終わっても私と一緒にヴァイオリンのお稽古しようよ。月1回とかでもいいからさ」
「うーん。なんか似た話をどこかでも聞いたような。でもそうですね。せっかく覚えてきたし、アスカさんさえ良ければもう少し教えてもらおうかな」
「ヴァイオリンは当面、そのヴァイオリン貸しておくから。楽器も弾いてくれる人がいた方が嬉しがるもん。その楽器はわりと弾く人を選ぶ楽器だけど、ちゃんと弾きこなしてるからね」
「ありがとう」
「ところでさ、戸籍上の性別を変更できるようになったね」
とアスカはつい先日施行された「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」
のことを話題にする。
「ええ。頭の硬い国会議員さんたちが、こういうことに理解を示してくれるとは思いもよらなかったから、びっくりしました。何か変な条件も付いてるけど」
「ああ、子供がいないこと、って奴?」
「ええ。意味不明な条件です」
「まあいいじゃん、子供欲しかったら性転換して戸籍変更した後で作っちゃえばいいのよ」
「そんな無茶な!」
「冬ちゃんはその内、子供産んでしまいそうだし」
「産みたいけど無理です〜」
「卵子が必要なら、あげてもいいよ」
「アスカさんの卵子だったら優秀な音楽家になりそー」
8月1日。ドイツに旅立つアスカを成田で見送ってから、私はいつもの公民館に行った。オーケストラの公演まであと2週間。全員集まっての練習は今日と来週の日曜の2度しか無い。
ところがクラリネットの人が来ていなかった。『金平糖の踊り』で、鉄琴とバスクラリネットの掛け合いが重要なので、彼が来てくれないと、その曲を練習できない。
「どうしたんだろう。誰か**の連絡先知ってる奴?」
「あ、電話してみます」
と言ってT君が携帯で電話していたが・・・
「え? そんな突然言われても・・・いやだから、何とか公演まではお願いできない?」
「どうした?」とリーダー。
「いや、**が退団すると言ってるんです」とT君。
「えー!?」
リーダーの人が電話を替わり、クラリネット奏者と話をするが、向こうの意志は硬いようである。
「そうか・・・・すまなかった」
と言ってリーダーの人は電話を切った。
「どうしたんですか?」
と別の楽団員に訊かれる。
「どうも楽団員の誰かとトラブルがあったみたいだな」
「へ?」
「誰とトラブルがあったかは、明かすと揉め事になるから明かさないが、自分はもうこの楽団にはいられない。でも楽団の今後の発展を祈る、ということだ」
「誰?そのトラブったというのは?」
「いや、それは追求しないことにしよう。それを追求するともう1人退団者を出すことになる」
「確かに」
「仕方無い。クラリネットは誰か他の楽団の人とかに応援を頼もう」
「しかし2週間後で入れる人いますかね?」
「鉄琴との掛け合いもありますし。練習にも参加してもらわないと不安です」
「うーん」
リーダーの人が、知人に電話しまくっていたが、芳しくないようであった。ヴァイオリンのトゥッティ奏者とかなら何とでもなるのだろうが、曲の重要な部分でソロ演奏のあるパート。しかも他の奏者との掛け合いがあるとなると、元々クラリネットを吹ける人でも、尻込みしてしまうだろう。しかも公演はわずか2週間後である。
「どうしても見つからないとなると、ここにいるメンバーの誰かが代わりにクラリネットを吹くかだな」
とリーダー。
「誰かクラリネット吹ける人?」
「えっと、クラリネット吹いたことのある人?」
誰も手を挙げない。
その時、T君が思いついたように言った。
「ねえ、唐本さん、クラリネットやってみない?」
「え? 私クラリネットなんて触ったことないです」
「それでも唐本さんなら、1週間でクラリネット吹けるようになるんじゃないかと思ってさ。だって一度も触ったことの無かったヴァイオリンを1週間で弾けるようになったんだもん」
「えー!? ヴァイオリンの場合はたまたまうまく行っただけですよ」
「それにさ、唐本さん、陸上の長距離やってて肺活量が凄いから、きっと管楽器はうまく吹けると思うんだ」
「えー!?」
結局リーダーが更に何とかクラリネット奏者を確保できないかあちこち声を掛けてみるのと同時に、私にもクラリネットの練習をしてもらえないか、という話になった。私は「吹けなかったらごめんなさいしますよ」と念を押した上で取り敢えず練習してみることにした。
「バスクラリネットは楽団で所有しているし、ソプラノクラリネットはレンタルできると思うけど、申し訳無いが、マウスピースとリードは買ってもらえない?合わせて1万円くらいだと思うんだけど」
というので
「いいですよ。そのくらいは自分で買っていいです」
ということで、私は翌日楽器店に見に行くことにした。
どんなのがいいのかさっぱり分からないので、吹奏楽部でクラリネットを吹いている貴理子に見立ててもらうことにした。
「おお、クラリネットを練習する気になったか!」
と彼女は喜んでいる。
「ちなみに、貴理子ちゃん、8月14日は空いてないよね?」
「一家でお父ちゃんの実家に帰省する」
「だよね〜、盆の14日なんて、みんなふさがってるよね」
「帰省しない人でもお盆の準備で、演奏会とかの気分じゃないよ。そんな日に演奏会するなんて無茶苦茶」
「その日しかホールが空いてなかったからだって」
「演奏会の日取りはお客が来るかどうかで決めるべきだよ。そこしか空いてなかったって、それは予定を決めるのが遅すぎるから。なんかそこの楽団、運営に問題があるね」
「うん。私もそう思う」
「でもクラリネット練習するならさ、9月に吹奏楽の大会があるから、出てくれない? 服装はセーラー服でも学生服でもどちらでもいいよ」
「えー?いつ?」
「19日。クラリネット本体は学校のを使えるから」
「陸上部の大会の翌週か。じゃ吹けるようになってたら出る」
「よっしゃー。じゃ、マウスピース見に行こうね」
貴理子は楽器店で、初心者に扱いやすいマウスピースとリードを選んでくれた。
「私のお勧め練習プラン」
「うん」
「この一週間はひたすら、このマウスピースを吹く練習をしなよ。実際のクラリネットにつないで練習するのは、このマウスピースで安定して音が出せるようになってからで充分だと思う。冬ちゃんなら指使いはあっという間に覚えしまいそうだし。逆にこれできちんと音を出せなかったら、管をつないでもまともに演奏できないよ」
「分かった。頑張ってみる」
そこで私は彼女に教えられてマウスピースの咥え方、そして音の出し方を習い、それで安定してドの音が出せるようにひたすら練習したのであった。水曜日は陸上部も吹奏楽部部も練習のある日だったので、途中経過を見てもらい、若干の修正をしてもらった。
1 2
【夏の日の想い出・いと恋し】(1)