【夏の日の想い出・カミは大事】(2)

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ということで、私たちはお風呂から上がった。身体を拭き、アスカから渡された女の子下着を着ける。
 
「うーん。わざと身体にぴったりになる超ハイレグショーツを選んだのに、全然形が見えないじゃん」
「だから、見られたら逮捕されるから」
と私は笑って答える。
 
「だいたい、ふつうの男の子の構造なら、こんなにハイレグのショーツを穿かせたら、こぼれそうなのに」
「私、自分でもハイレグのショーツ何枚か持ってるよ。ここまで細くないけど」
と私は答える。
 
「やっぱりおちんちん付いてないんだよね?」
「だから、そういう危ない会話をここではしないように」
 
その後、ブラジャーを着ける。
 
「ちゃんと自分で後ろ手でホックを留められるんだね」
「そのくらいできるよー」
「それができるくらい、よくブラを着けてるんだ?」
「ああ、後ろ手でブラを留めるのは、私がだいぶ練習させた」と姉。
 
「すごーい。ちゃんと弟を妹に改造する計画、着々と実行してるんですね。おっぱい大きくするサプリも渡してるし」
「いっそ、冬の男物の服を全部燃やしてしまおうかとも思ったのだが」
「おお、凄い!それはぜひ実行しましょう」
「やめてよー」
 
「でも実は私も、冬におちんちんがあるのか無いのか分からん」と姉。
「だから、そういう危険な会話をしないように」
 
その後キャミを着てから旅館の浴衣を着ようとしたのだが、アスカは
 
「せっかくだから、この服を着て」
と言って、可愛いカットソーとスカートを渡された。私はもう今更なので
「ありがとう」
と言って、それを身につけた。
 
「うーん。こうしてると、どう見ても美少女中学生だな」
とアスカ。
「この姿があと数日で見られなくなるって惜しいよね」
と姉。
 
「え?どうして」と明奈が訊く。
「冬ちゃんの中学、男子は丸刈りらしいのよ」とアスカ。
 
「えー! こんな美少女を丸刈りにするなんてひどい。やはり冬ちゃん、性転換手術していることをカムアウトして、女子中学生として通学しようよ」
「いや、そんな手術してないって」
「私たちにまで隠すことないのにね〜」
「全く」
 
「でもさ、冬ちゃん」
「はい」
「その髪の毛切る時は私に切らせて。そして冬ちゃんの髪の毛を頂戴よ」
「いいですけど」
 
そういう訳で東京に帰ったら入学式前日にアスカに髪の毛を切ってもらい私は坊主頭になることにした。
 

私たちはそのままロピーで少しおしゃべりをし、お互いに記念写真なども撮りあった。こうして私が女の子の服を着ている写真が増殖していく。
 
そして夜10時くらいに部屋に戻って浴衣に着替えて寝た。カットソーとスカートは、明日の日中に母と別れたら着てと言われた。
 

翌日、旅館を出て新幹線とリレーを乗り継いで熊本まで行く。ここでライブに行く母がシャトルバスに乗るのを見送って、私たちはまず水前寺公園に行った。もちろん、私は昨夜アスカが渡したスカートを穿かされた!
 
「冬ちゃん、女の子の服を着た時は当然女子トイレ使うよね」
とアスカ。
「ええ。こういう格好で男子トイレに入ると無用の混乱を招きますから」
と私。
 
「冬はね・・・どうもふだんの服装でも、女子トイレを結構使っている気がするんだけどね」
と姉。
「ああ」
とアスカは大きく声を出してから
「冬ちゃんって、雰囲気が女の子だから、たとえタキシード着てても男の子だとは思われないでしょうね」
と言った。
 
「それはさすがに男の子とバレるよ」
「でも坊主頭になったら、女子トイレにも入れなくなるね。この旅行でたっぷり女子トイレを味わっておきなよ」
「そんな、味わうようなもん?」
「女子トイレ名物の行列に並ぶのとかもね」
 
「男子トイレって行列できないの?」
「イベントみたいな時はできるけど、ふつうはあまりできないと思う」
「へー」
「それってさ、やはりトイレの設計してるのが男だから、そもそも女子トイレの個数が少なすぎるんじゃないかねー」
「女子が小用をする時に掛かる時間を何も考えずに設計してるよね」
 

公園を一周して、茶屋で「いきなり団子」を食べていた時、近くに座っていたお腹の大きな女性が突然苦しみはじめた。
 
「どうしました?」
とアスカが声を掛ける。
「う、うまれそう」
とその女性。
 
「たいへんだ! 救急車を呼ばなくちゃ」
 
するとその近くにいた30歳くらいの女性が
「救急車は来るのに時間が掛かるよ。私の車で病院まで連れて行こう」
と言い、私たちは協力して、妊婦さんをその人の車まで連れて行った。
 
車は8人乗りのワゴン車だったので、何となく成り行きで、私たちも一緒に乗り込む。そして妊婦さんが「○○町の○○病院がかかりつけなので」と言うので、その病院の玄関に乗り付けた。
 
「済みません。この人が急に産気づいたので」
と窓口で言うと、すぐ対応してくれた。
 
私たちは協力して妊婦さんを降ろして、病院の看護婦さんに案内され分娩室まで連れて行った。すぐにお医者さんが来て、状態をチェックするが
 
「これはもう出かかっている!」
とお医者さんが驚いたように言う。
 
「産道が開いてますね」
と助産師さんも言う。
 
「あなたたち、妊婦さんの手を握ってあげたり、さすってあげて。身内の人がしてあげた方が力づけられるから」
とお医者。
 
私たち身内じゃないけどー、とは思ったものの、私たちは彼女のお腹をさすってあげたり、手を握ってあげたりした。私は姉から「一応あんたはあの付近は見るな」と言われ、手を握ってあげる係になった。でも妊婦さんから物凄い力で手を握られてきゃーっと思った。
 
赤ちゃんは30分くらいで出てきた。結果的には物凄い安産だった。しかし安産とは言っても、妊婦さんの苦しみようは凄かったし、物凄い力で握られて私の手はその後半日くらい痛かった。でも出産の瞬間に立ち会ったのはとても感動した。
 

落ち着いてから、私たちが通りがかりの人間で、妊婦とは関係無いことを知りお医者さんは驚いていたが、妊婦さんは私たちにとても感謝した。
 
「ご家族に連絡しますよ。電話番号教えてください」
とアスカが言ったのだが、
 
「私シングルマザーなの。母親とも実家にいる姉妹とも喧嘩してもう何年も連絡を取り合ってないし」
「それでもお母さんは、お孫さんが生まれたと言ったら喜びますよ」
「そうかなあ」
「むしろ連絡しなかったら、またそれで後で揉めますよ」
「そうかも知れない」
 
と言うと、彼女は自分の荷物の中に携帯が無いか尋ねる。アスカが荷物の中を探して見つけて渡すと
「この番号なんだけど・・・」
とアドレス帳を開いて指さす。
 
「私が電話しますよ。まだあなた出産したばかりで体力も精神力も消費しきってるもん」
と言ってアスカは電話を掛けた。このあたりのアスカの行動力はさすがだと思った。
 
「こんにちは。突然申し訳ありません。私、**さんの友人ですが、実は**さんがさきほど、赤ちゃんを出産しまして。はい、母子ともに無事ですが、**さんはまだ疲れて眠っておられます。お母さんにだけは無事赤ちゃんが生まれたら連絡して欲しいと言われていたものですから」
 
アスカはまるで自分がこの人の長年の友人であるかのような言い方をする。彼女は押しが強いので、こういう時はけっこう便利な性格である。このあたりも見習いたい気分だった。
 
アスカはこの病院の名前と住所を伝えて電話を切った。
 
「明日にもこちらまで出てくるそうですよ。田舎はどちらですか?」
「鹿児島の薩摩半島の端っこなんです。交通の便が悪いから、ほんとに1日掛かると思う。お母ちゃん車持ってないし」
「ああ、田舎は車が無いと行動力が随分制限されますよね」
「そうそう。買い物とかも農協ストアが運行している巡回バスに乗って。それも週に1度しか来ないし」
「ほんとに大変だ」
 

「でも出産って素晴らしい。私感動した」
と私が言うと、明奈も姉もアスカも同様に感動したと言った。
 
「本人は大変だけどね。でも私も感動した」
と出産した本人。
 
「みなさん、まだ10代ですよね?」
「高校生と中学生かな」
「じゃ、みんな出産は10年後くらい」
「そんなものかなあ」
「じゃ10年後のみなさんにエールを送りますね」
 
すると明奈が
「冬ちゃんも赤ちゃん産むんだっけ?」
などと唐突に訊く。
 
「確かに私あまりもてないけど、その内いい人がいたら結婚して赤ちゃん産むつもりだよ」
などと言ってみる。
 
「そうか、赤ちゃん産む気なんだ」
と明奈が感心するように言うと
 
「そんな言い方してはいけないよ。誰でもきっといい人は見つかるよ。私も結婚はできなかったけど、一応恋人できたから、こうやって赤ちゃん授かったしね。今恋人がいなくてもあまり悩む必要無い」
と新米ママさんは言った。
 
アスカも「ふーん」という感じでこちらを見ていた。
 
「あ、ごめんなさい、みなさんのお名前教えて」
 
彼女を病院まで車に乗せてくれた人は「用事があるから」と言ってすぐに帰ってしまっていたのだが、残っていた私たちは名前を名乗る。
 
「唐本萌依」
「唐本冬子」
「琴岡明奈」
「蘭若アスカ」
 
「らんじゃくって、どういう字を書くんですか?」
「植物の蘭に若いという字です。でも若は杜若(かきつばた)の若で香りの良い花を並べた苗字なんだそうです」
「へー。きれいな名前だね! あ・・・・」
 
「どうしました?」
「この子の名前、あなたのお名前から頂いていいかしら?」
「いいですよ」
「蘭って名前にしようかな」
「あ、可愛くていいと思います」
 
「よし。蘭ちゃん、親切なお姉ちゃんたちに助けてもらってよかったね」
 

彼女と私たちはその後も年賀状をやりとりする付き合いが続いた。そしてこの時産まれた赤ちゃん、蘭が後に「フラワーガーデンズ」というガールズバンドを結成し、ローズ+リリーのバックバンドになるのであるが、それはずっとずっと先の話である。
 

この日は結局この出産騒動で、どこにも行かないままタイムアップとなった。カラオケ対決は、私とアスカに関しては東京に帰ってからすることにしたが、参加できない明奈が残念がっていた。
 
「名古屋の叔母さんとこの娘さん、あんたたちの従姉が夏に結婚するんでしょ?その時、明奈ちゃんも名古屋まで出てきたりしない?」
「あ、行きたい。ってか付いていこう」
 
「じゃ私はその縁組みには直接関係ないけど、その時に名古屋まで行くよ」
「そして当然、冬ちゃんを温泉に誘うんですよね?」
「そうそう。名古屋の近くにも温泉ってあるよね?」
「あります、あります。長島スパーランドにはプールも温泉もありますよ」
「おお。それは良い。そこで今回のリベンジだ!」
 
結局昨日アスカが撮影した私の下半身の写真には肝心の部分が全く写っていなかったのである。もし股間に男の子のシンボルが付いてたら、この角度でも先端は写っていいはずなのに、とアスカは悔しがっていた。
 

夕方、熊本駅で母と落ち合う。
 
母は何だか不愉快そうな顔をしていた。
 
「どうしたんですか?」とアスカが訊く。
 
「ひどいわー。金返せだったよ。私が払ったんじゃないけどさ」
「そんなに内容がひどかったんですか?」
 
「最初の5曲くらいまではちゃんと演奏したのよ。ところがその次の曲を演奏している最中にさ、ギターのマイクとベースのジャンが喧嘩始めて」
「あら」
 
「演奏中断して、なんかどうもかなり汚い言葉で罵り合いはじめた感じで」
「きゃー」
「で、こんな奴と一緒に演奏できるか、みたいなこと言い出して、殴り合い始めて」
「うっそー」
 
「キーボードのポールが停めに入ったんだけど、殴られて気絶しちゃって」
「うーん」
「で、結局、マイクもジャンもそれぞれ反対側のステージ袖に下がっちゃって、ステージに残ったのは、気絶しているキーボードのポールと、あっけにとられて見ていたドラムスのスティーブだけ」
「それで終わりですか?」
 
「取り敢えずスタッフの人が走り込んで来て、倒れているポールを担架に乗せて運び出して、幕が下りて、『しばらくお待ちください』のアナウンス」
「ああ」
 
「それで30分くらいしてから、ギターのマイクとドラムスのスティーブの2人で出てきて『Sorry for a little trouble. We will play on』とか言って」
 
「それ、リットルトラブルなんですかぁ?」
「ビッグトラブル、シアリアス・トラブルだよね。で、結局スティーブがベースを弾いて、残りの曲はマイクのギターとスティーブのベースという演奏でラストまで。でも観客はしらけちゃって、手拍子もほとんど無かったし、アンコールも無かったよ」
 
「ひどいライブですね。当然払い戻しですよね」
 
「それについて演奏終了後に主催者から説明があって。事故があって一部のメンバーが欠けたものの、一応クレマスのメンバーで最後まで演奏をしたので、公演としては成立していて、払い戻しには応じられない、ということらしい」
 
「うーん。。。でもその主催者恨まれそう」
「なんか詰め寄ってる人たち居たよ。そこも倒産するかもね」
「それで一部の人にでも返金に応じたら、結局全員に返金せざるを得なくなりますよ」
 
「そうそう。このチケットにはクレマスの公演って書いてあるのにさ。あれはクレマスじゃないもん。マイク&スティーブでしかないよ」
 
「たかが1枚の紙だけど、そこに書かれている内容は重いですよね」
「うん。だって2万円ものお金を払ってこのチケット買った人たちは、4人揃ったクレマスを見たかったんだから、それを見せなかったのは詐欺に近い」
 
私は昨日アスカから聞いた「半分ビリーブ」のことをちょっと思い出していた。それは無料ライブであったらしいけど、2万円であっても無料であっても責任の重みは変わらない気もした。そんなことを考えていたら、アスカが言う。
 
「それで許されるのはクレマスが引っ込んじゃった後で、代わりにビートルズとかクイーンが出てきたような場合だけですよね」
「ああ、もう天国に行っちゃったメンバーがいて有り得ないけど、ビートルズやクイーンが出てきていたら、みんな金返せとは思わなかったろうね」
と母は言った。
 
私はそれはちょっと面白い発想だと思った。そしてアスカが代役を務めた「ビリーブ」のライブはもしかしたら、本物以上に観客が満足するものだったかも知れない気もした。
 

私たちがたまたま近くで産気づいた女性を助けて出産まで立ち会ったことを話すと母は驚いていた。
 
「よほどの何かの縁なんだろうね」
「退院したらお礼状書きますって言ってた」
「その人、これを機会にそのお母さんとも和解できるといいね」
「娘と喧嘩していても、孫は可愛いですもんね」
「そうそう。孫って責任感が無い分、底なしに可愛いんだよ」
「ああ、なるほど」
 
「私も明奈ちゃんも萌依さんもその内赤ちゃん産むと思いますが、冬ちゃんもお嫁さんに行って赤ちゃん産む気らしいです」
「ああ、それは別にそうしてもいいよ。あんた産めるんだっけ?」
「あまり自信無いけど、産みたいなあ」
「ふーん。まあいいんじゃない?」
 
と言って母はスカートを穿いている私の下半身に目をやった。母はこのスカートの件については特に何も言わない。
 

「でもあの人は安産で良かった。私が生まれた時は凄い難産だったらしいんですよ」とアスカが言った。
 
「ほんと?それは大変だったね」
「なかなか出てこなくて、凄い長時間掛かって。母はもう神様でも仏様でもキリスト様でも誰でもいいから助けてって思ったそうです」
「ああ、普段信心してない人でもそういう時は神様、仏様って気になるよね」
 
「本当は神様とかとは普段の付き合いが大事なんでしょうげとね。それに神様って、こちらが相当努力してないと助けてくれない気がする」
とアスカは言う。
 
その言葉を聞いて、アスカは物凄い努力の末に神様に助けてもらったことがあるんだろうなと、私は感じた。
 
「で、結局その時は、あれこれ処置してもなかなか出てこないまま3日目に突入したので、お医者さんがこれはこのままではまずい。帝王切開しましょう、と言って準備を始めてもう麻酔を掛けようとしていた時に、やっと出てきたらしいです」
「わあ」
「私が生まれた時、母はモーツァルトのこと考えていたらしくて、だから母はモーツァルト信者です」
「おぉ!」
「うちの家にはモーツァルトの祭壇があって、お土産とかもらったらいったんそこにお供えするし、毎朝アイネ・クライネ・ナハト・ムジークをピアノ演奏で奉納してます」
「ほんとにモーツァルト教だ!」
「だから私にとってアイネ・クライネ・ナハト・ムジークって子守歌みたいなものでした」
「ちょっと素敵かも」
 
「でも、結局私を産んだことで母はもうそれ以上子供が産めない身体になってしまったんですよね」
「それは大変だったね」
 
「その分、自分が果たせなかった音楽家への道を唯一の子供になってしまった私に託して、小さい頃から無茶苦茶鍛えられましたけどね。だから、私、母の愛ってあまり感じたこと無かった。母っていつも怖い人だった。この曲弾けるようになるまで御飯無しとか言われて、もう涙流して弾いてたし」
とアスカ。
 
「きびしー!」
と明奈が驚く。
 
「でもそれも愛なんだよ。ただその愛の表現が分かりにくいだけなんだよ」
と母が言う。
 
「ええ。今は私もそのあたりが少し分かる気もします。それでも母に対しては少し身構えるような気持ちがありますけどね」
 
「アスカちゃんが凄くしっかりしてるのは、そういうお母さんとの関係の中で早く自立せざるを得なかったからなんだろうね」
 
と言って母はチラッと私を見た。
「はいはい。ボクは全然自立できてません」
「うん。分かってるならいい」
と母は言った。
 

その日、私がスカートを穿いていたことについて母は結局何も言わなかった。ただ東京に着く少し前に「冬、着替えておいで」とだけ言った。私は素直に従った。私はアスカに「洗って返すね」と言ったが、「ううん。それあげるから」と言った。
 
「じゃ、もらっておこう。髪切っちゃったらもう着られないけど」
 
そんなことを言いながら、下着は女の子下着のまま、ボトムもスカートをズボンに変えただけで帰宅した私たちに父は
 
「おい、中学の頭髪規則が変更になったぞ」
と言った。
 
「へ?」
 
「いや、こちらの方は大変だったんだぞ」
 
ちょうど私たちが九州に行く少し前、都内の公立高校で生徒が自殺した。それが、部活で試合でミスをしたことを責められ、罰として丸刈りにしろと言われ、本人が嫌がっているのを、他の部員に押さえつけさせて顧問の先生が丸刈りにしたらしい。そしてその日、その生徒は命を絶った。そもそもこの部では以前から、顧問やコーチの暴力、上級生から下級生へのいじめが日常茶飯事だったらしい。顧問とコーチが傷害罪で逮捕され、その学校の全ての運動部が活動停止になった。そしてこの後、この学校では校長・教頭が引責辞職した他、他にも数名の運動部顧問が退職する騒ぎになる。入学式も行われず、授業も教師の穴埋めが間に合わずに欠講がちになって落ち着くまで半年近く掛かることになる。
 
「ちょうどお前たちが向こうに行った日にその件で大騒動になって」
「へー」
 
「それで教育委員会から各公立中学・高校に、本人の意志に反して丸刈りを強要することは無いようにという通達があって」
 
「わあ」
「それで、部活でじゃないけど、●▲中学の男子丸刈りという校則も見直すことになったらしい」
 
「じゃ校則はどうなったの?」
「以前から生徒たちの間で、丸刈りはやめて欲しいという声があったらしいんだよな。それで生徒会の代表と、生活指導の先生とで話合いをしているらしいけど、すぐには新しい規則はできない」
 
「だろうね」
「で、取り敢えず、当面の間は、見苦しくない程度の髪ならOKということになったというので、ついさっき地域の連絡網で回ってきた」
 
すると姉が言う。
「へー。良かったね、冬、丸刈りしなくていいじゃん」
「うん。嬉しい」
 
「しかし、さすがに冬彦の髪は見苦しくないか? 少し切ろう」と父。
「冬の場合は、この長さの髪で可愛い感じになるから、むしろ短くした方が見苦しくなると思うよ」と姉が言う。
 
「むむ、そうか?」
「ああ。取り敢えず今の髪のままで学校に行ってみたら? それで先生から注意されたら、切ればいいよ」
と母も言うので、とにかく私の髪は入学式までに短く切られることはなくなった。
 

早速アスカに電話して、頭髪規則の変更のことを伝える。
 
「よかったねー!」
とアスカは素直に喜んでくれた。
 
「でも冬は学生服を着て出て行ったら、その学生服が見苦しいよ。だから服をセーラー服に変えれば見苦しくなくなるね」
「それ、唆さないでよ〜。姉ちゃんからもセーラー服で入学式に行っちゃえ、行っちゃえと言われてるし」
 
「行けばいいのに」
「うっ」
「せっかく持ってるんだし」
「うん・・・」
 

髪の毛に関しては、入学式前日に姉が
「冬〜、女子中学生らしく、かぁいい感じにしてあげるね」
などと言ってミディアム・ボブっぽい雰囲気に切りそろえてくれた。
(私が高校を卒業するまで、姉は私の髪をいつも切ってくれていた)
 
更に
「眉毛が伸び放題。ちょっと整えてあげる」
などと言って結構細く切ってしまった。
 
「いいのかなあ・・・」
「こういう髪型、眉毛にしたかったんじゃないの?」
「あ、うん」
「じゃ、これでいいじゃん。明日は頑張ってね」
 

ということで翌日、その髪・眉毛で、学生服を着て中学に出かける。
 
倫代が寄ってきて
「なんで学生服なのよ?」
と言う。
 
「え?だってボク男子だし」
と中学になったので使うことに決めた男声で言ってみる。
 
「それ嘘だと思うなあ。それになあに、その男の子みたいな声?」
「え?ボクも声変わりが」
「また、そんな嘘ついて。ちゃんと女の子の声出るよね」
「うん、まあ。出ることは出るけどこれは特殊な発声法で」
と私は女声で答える。
 
「むしろ男の子の声の方が特殊な発声法では?」
「まさか」
 
「だいたい喉仏もほとんど出てない。声変わりがしないように、去勢したんだっけ?」
「してないよー」
 
「まあいいや。それで、合唱部に入るよね?」
「ごめーん、ボク陸上部に入るつもり。それにこの中学の合唱部は女子だけでしょ?」
「うん。でも冬は女子だもん」
「でも学生服着てるし」
「セーラー服着ればいいじゃん。こないだ着てたし。あるなら着ればいい」
「あれは古い制服だもん」
「じゃ新しいの作ろう。採寸に付き合ってあげようか?」
「いや、いいって」
 

中学校の体育館で行われた入学式は、入学者の名前を全員読み上げるなどというのが無かったので、比較的短いものだった。
 
国歌の斉唱があった上で、新入生代表(▲小学の児童会長をしていた子)が壇上に登って、全員を代表して校長から「入学許可」を受けた。その上で校長の祝辞、PTA会長の祝辞、来賓の祝辞、新入生代表(■小学の児童会長)の「決意の言葉」があり、校歌の紹介と斉唱がある。最後に職員の紹介があって終了。各自の教室に入った。
 
担任の先生の自己紹介と新入生に向けての言葉があり、教科書が配られる。それから生徒手帳用の写真を撮影するということで理科室に行った。
 
男子はほとんどの子が丸刈りである。
 
「唐本〜、お前髪切らなかったんだ?」
と小学生の時にもクラスメイトだった子から言われる。
 
「入学式の前日に切るつもりだったら、丸刈りが廃止になったと聞いてほっとした。丸刈りなんて死にたい気分だったもん」
 
「確かに唐本を丸刈りにするのは犯罪かもという気がするよ」
 
「あれ、唐本声変わりしたんだ?」
と他の男子の元クラスメイトからも言われる。
 
「えー?別にボクの声は変わってないと思うけど」
「いや、普通に男の子の声になってる」
「ああ、とうとう唐本も男の子になっちゃったのか」
 

翌日の5時間目の授業が終わった後で新入生は体育館に集められ、部活動の紹介が行われる。私は若葉と一緒に陸上部に入ることを決めていたので、その説明会が終わった後、体操服に着替えて、若葉と一緒に陸上部の集合場所である、校庭の鉄棒前に集まった。この鉄棒前の所から100m走のコースを設定しているのである。校庭は校舎側にあるバックネット周辺を野球部が、校舎側の残りをサッカー部が使っており、陸上部は主として校舎と反対側のこの100mコースとそばにある砂場(走り幅跳び・走り高跳び用)付近を使用していた。
 
「新しく入る人はこれに名前と学年・組を書いて」
と言われたので、1年5組.唐本冬彦 と記名する。若葉も1年6組.山吹若葉と記名した。それであらためて円陣を作った上で、既に在籍している人も含めて自己紹介をした。
「●小学校出身の唐本です。私は足は遅いですけど頑張って少しでも速くなりたいと思っています」と私。
 
「同じく●小学校出身の山吹です。元々はテニスやっていたのですが、足を鍛えるのに唐本さんと一緒に走っている内に走ること自体が気持ちいいなと思い、一緒に陸上部に入ることにしました」と若葉。
 
続いて自己紹介したのが貞子だった。
「▲小学校出身の前村貞子です。私は前の学校でも圧倒的に1番だったので、この学校でも圧倒的1番になるつもりです」
強気の自己紹介に「おおっ!」という感じで私も若葉も彼女を見つめた。実際彼女は本当に速くて、私も若葉も彼女を憧れの目で見ることになる。
 
まずは練習前のジョギングをする。
 
が私はこのジョギングでみんなに遅れてしまう。校庭をほんの5周しただけなのだが、たっぷり1周分遅れてしまった。こんなに遅れていたらクビにされるかなと思ったものの、顧問の加藤幾子先生は
 
「頑張れ頑張れ〜」
と明るい声を掛けてくれた。
 
その後、100m走、800m走、2000m走をやってタイムを測られるが、貞子は2000m走で2年生で女子エースの絵里花さんに、ほんの3mほど遅れての2位で入り
 
「強気の発言するだけのことある。頑張ってね」
と言われていた。しかし本人は
「絵里花先輩、私すぐに先輩を抜きますから」
などと言う。絵里花さんの方も
「うん。貞子ちゃんのような子がいれば私もまた頑張れる。こちらも在校中は貞子ちゃんに抜かれないように頑張るよ」
と言って握手をしていた。
 
ちなみにボクは100mは28秒、800mは4分、2000mは10分ほど掛かった。他の部員に大きく遅れ、2000mは何周も遅れたが
 
「練習してれば速くなる。頑張れ」
と先生からも先輩からも励まされて、わあこの部は居心地がいいと思い、練習ほんとに頑張ろうと思った。
 

練習の最後には整理運動をした上で2人組になって柔軟運動と太腿や腰などのマッサージをした。私はさて誰と組めばいいのかな?と思っていたら若葉が寄ってきて「冬、一緒にやろう」と言ってくれたので、組んで背中を押したり、足を揉んだりした。
 
「冬、以前から女の子っぽい感触だと思ってたけど、ますます女の子っぽさが増してる」
などと言われる。
「なんか私の脂肪の付き方、女の子的な付き方みたい」
「うーん。というか冬って実は本当に女の子だということは?」
「それはないと思うけどなあ」
「何だか自信が無さそうな言い方!」
 
最後に簡単なミーティングをして初日の練習を終えた。
 
それで体操服から制服に着替えるのに、校舎の方に行きかけたら先生が
「ちょっと女子の新入部員、集まって」
と言う。
 
女子だけ何か注意があるのかなと思いつつも私はそのまま校舎へ行こうとしていたのだが、加藤先生は
「冬ちゃーん、こっちこっち」
と私を呼ぶ。
 
「はい」
と言って何だろう?と思いつつ、女子だけ集まっているところに私も行った。若葉の隣に体育座りする。
 
先生からの女子部員への注意はいくつかあった。
 
「うちは基本的に男女であまり練習メニュー変えたりしないので、女子には体力的にきつい場合もあると思います。そういう所は自分の体力に合わせて適当に内容を勘案してください。よくロードで○○橋まで往復10kmのコースを走りますが、10kmはきついと思ったら途中の○○材木店折り返し6kmコースとかにしても誰も文句言いません。練習は頑張れば力が付くけど、やりすぎると身体を壊して一生の悔いになりますから、そこは自分で判断して下さい」
 
「生理の時は無理しないでください。副部長に言って休むか見学すればいいです。副部長がつかまらなかったら、2年か3年の女子に言っておけばいいです」
 
「試合に生理がぶつかりそうな場合は婦人科のお医者さんでピルを処方してもらってずらす手があります。2年3年の女子部員には何人かピルを使っている人がいます」
 
「帰りが遅くなった場合、できるだけ何人かで一緒に帰って下さい。念のため防犯スプレーを各自用意しておいた方がいいです」
 
私はこういう話を自分も一緒に聞いてていいのだろうか?と思った。もしかして加藤先生、私のこと女子と思った?? でもこの手の話を聞くのも「いつものこと」
なので、まいっかと思って聞いていた。
 
隣で聞いていた若葉が言う。
「冬は絶対痴漢に目を付けられるタイプだと思う。明日一緒に防犯スプレー買いに行こう」
「あ、うん」
 
するとその向こうに居た美枝が
「あ、私も一緒に行く」
と言う。
 
それで3人で待ち合わせて買いに行くことにした。
 

若葉が「私服でおいで」と言ったので、私はオレンジのセーターに黒い七分丈のジーンズで待ち合わせ場所に行った。
 
「でも冬ちゃん、今は遅いけど、凄く頑張ってるというのが伝わってくるよ。練習してれば速くなるから、頑張ろう」
と美枝が言う。
 
「そうそう。私、冬とは小6の時ずっと毎日一緒に走ってたんだけどね。最初100mが48秒掛かっていたのが、23秒まで縮んだんだよ」
と若葉。
 
「48秒! そのタイムも凄いけど、そこから23秒まで縮めたのも凄い」
と美枝が感心する。
 
「昨日は28秒だったけど、いつものランパンじゃなかったからね。月曜日はあれ持ってきなよ」
「うん、そうする」
「ああ。体操服のジャージだと足が動かしにくいかもね。ウォーミングアップの時はいいけど、練習に入ったらランパンの方がいいよ」
と美枝も言う。
 
「だけど、昨日も思ったけど、冬ちゃんって低音ボイスなんだね」
「ああ、冬は色々な声が出せるんだよ。私の前でいつも出してる声出しなよ」
と若葉。
「そうだなあ。じゃ、こちらにするか」
と私はアルトボイスで答える。
 
「あ、そちらの声の方が安心する。さっきまでの声だと男の子みたいな声だよね」
「ああ、冬は男の子だから」
と若葉。
「へ?」
「あ、ボク戸籍上は男だよ」
「なにーー!?」
「でも性転換済みだよね?」
「性転換してない、してない」
「へー、冬ってそういう子だったのか? 今日も女の子の服着てるし」
「えー? これは別に女の子の服じゃなくて普通の普段着だけど」
「なるほど、普段着が女物なのか」
 
「冬は去年の年末に女の子の友だち何人かと一緒に温泉スキーに行ったらしいんだけどね」
「うんうん」
「その時、みんなと一緒に女湯に入ってたし、胸は小さいけど膨らみかけの感じで、お股にはおちんちんらしきものは認められなかったと」
「なーんだ、それなら女子と同じだね。女湯に入れるということはやはり手術済みなのでは?」
「そう思う」
 
「何か噂が一人歩きしてるなあ。女湯は無理矢理連れ込まれただけだし、ボク一応まだ手術はしてないけど」
と私は頭を掻きながら答えた。
「じゃ、女性ホルモン飲んでるとか?」
「飲んでない、飲んでない」
 

3人で一緒に防犯スプレー(コンパクトで噴射力は強い優れもの)を買った後、スポーツ用品店に行き、スパイクの下見をした。
 
お店の人が寄ってきたが「今日はまだ買わないけど下見」ということを伝える。それでもお店の人は親切に説明してくれた。
 
「まだ中学1年でしたら、これから成長するからといって大きめのを選びたくなるかも知れませんが、大きすぎるスパイクは足を痛めます。ここで1万,2万をケチって後悔するより、ちゃんと足にぴったり合ったのを買って、成長したら買い直した方がいいです。これたくさん売りたいために言うんじゃないですから」
とお店の人は本当に私たちを心配しているように言う。
 
「最初はオールウェザー・アンツーカ兼用スパイクでいいですよね?」
「それでいいと思います。記録を狙うとか、都大会でトップ争いするとかいったレベルになったら、各々専用のになさるといいです。専用スパイクにするだけで0.1〜0.2秒はタイムが上がりますから」
「わあ」
 
お店の人は更にメーカーごとの特性なども丁寧に説明してくれた。たくさん説明を聞いている内に、美枝が
「ああ、私今日買っちゃおうかな」
と言い出した。
 
「ああ、お金持って来てるなら、それでもいいんじゃない? 冬は?」
「そうだなあ、ボクも買っちゃおうかな」
 
ということで全員足のサイズを測ってもらい、オールウェザー・アンツーカ兼用の短距離・中距離用のスパイクを出してもらった。いくつかのメーカーを履き比べてみて、結局3人ともミズノを選んだ。
 

それで月曜日にはそのスパイクを持って練習に出ていく。
 
「お、そこの3人、スパイク買ったのね。それで再度100m測ってみようか」
 
ということで測ってみると、美枝が16.2秒、若葉が17.3秒、私が20.8秒であった。
 
「冬ちゃん、金曜日とは見違えた。金曜日は体調悪かったの?」
と加藤先生から訊かれる。
 
「あ、今日はこのランパン穿いてるからですよ」
と若葉が言う。
 
「そのランパン穿くと変わるの?」
「小学校の時も、普通の服だと、100mを33秒掛かってたのにこのランパン穿くと23秒で走れてました」
「うっそー、それ魔法のランパン?」
「いや、女子用だからです」
と若葉。
 
「へ?」
「冬って女の子の服を着ると能力が上がるんです。ピアノとかも男の子の服を着てるとそんなでもないのに、女の子の服を着るとすごく上手になります」
 
「ちょっと待って、女の子の服って。。。」
「あ、冬は男の子ですよ」
「えーーーー!? 女の子と思ってた。髪も女の子っぽいし」
 
「この子、雰囲気が女の子だから、男の子の服を着ても女の子にしか見えないですよね。学生服を着ていても、ほとんど男装女子中生にしか見えないし。実際、金曜日に校内で生活指導の先生に注意されたんですよ。君、ふざけて学生服なんか着ないで、ちゃんとセーラー服着なさいって。それで本人もセーラー服を買うことにして今度採寸に行くって」
「ちょっと待って。その話、最後の方は創作が入ってる」
 
「もしかして女の子になりたい男の子?」
「本人は否定してますけど、友人は冬のこと実質女の子と同じと思ってます」
「へー!」
 
「冬、今日は下着は男物?」
「うん」
「明日、女物の下着を着けておいでよ。それで100mをもう一度測ってみよう」
と若葉が言う。
 
それで言われたしと思って、ブラに女の子パンティを穿いて翌日練習に出て、100mを再度測ってもらうと19秒8だった。
 
「冬ちゃん、100mのタイムで1秒違うって凄い!」
と加藤先生はほんとうに驚いていた。
「練習の時はいつも女の子下着を着けておくようにしようよ」
と言われて、私はポリポリと頭を掻いた。
 
なお、柔軟体操やマッサージを、私が男子なら女子の若葉や美枝と組むのはまずいのではと先生は心配し、男子の野村君にちょっと組んであげて、と言ったのだが・・・・
 
「先生、俺は構わんけど、唐本はむしろ女子と組ませるべきだと思います」
と私の背中を押してみた野村君が言う。
「へ?」
「先生、唐本の背中押してみてください」
 
というので先生は私の背中を押して。。。
 
「分かった!じゃ、若葉ちゃんか美枝ちゃんかお願い」
と先生。
「ああ、私でもいいですよ」
と貞子も言うので、だいたいこの3人の誰かと組んで柔軟体操をした。
 

ところで4月の下旬、私はちょっと用事があって愛知県時代の親友であるリナに電話した。
 
「へー。丸刈りの校則が寸前で廃止になって、髪切らずに済んだんだ!」
「うん。ほんとどうしようかと思ってたからさ。助かったよ。もう最後の最後はセーラー服着て学校に出て行って自分は女だから髪は切らないと主張しようかと思ったよ」
 
「うーん。だったらその校則廃止されなかった方が、冬にとっては良かったかも」
「うっ」
「いまだに男の子の振りしてるのが信じられないよ。ちゃんと女の子としてやっていこうよ」
「そうだなあ・・・・」
 
「そうだ。丸刈りといえばね」と奈緒。
「うん」
「麻央が丸刈りにしちゃったよ」
「えーーーーー!?」
と私は驚愕して声を挙げた。
 
「なんで?」
「あの子、野球が大得意じゃん。それで野球部に入れてくれって言いに行ったんだけど、うちは男しか入れないと言われて」
「うん」
「そもそもうちの野球部は全員丸刈りだけど、女じゃ丸刈りにできんだろ、なんて言われてさ」
 
「ああ」
「それで、丸刈りにして、『丸刈りだと言われたので丸刈りにしてきました。だから野球部に入れてください』と」
「さすが麻央!」
 
「顧問の先生もあっけにとられて」
「入れてもらえた?」
「もちろん。あの子、120kmの速球投げるから、ピッチャーにしてもらって、こないだ練習試合でいきなりノーヒットノーランやったって」
「すげー!」
 
「でも麻央の丸刈り見て、お母さんが気絶しかかったらしいよ」
「ああ、お母さん可哀想」
 
「冬は合唱部に入ったんだっけ?」
「ううん。今は陸上部。それにうちの合唱部は女子だけだし」
「いや、冬だったら、セーラー服着て『入れてください』と言いに行ったらきっと入れてくれるよ。髪切らずに済んだんだし、どうせなら女の子っぽい髪に整えてから行ってごらんよ」
 
「えっと。。。実は髪はお姉ちゃんに『女の子らしくしてあげる』と言われてミディアムボブになってる」
「おぉ! それ見たい、見たい。写真送ってよ」
「いいけど」
「どうせならセーラー服着てさ。冬のことだから、実は隠し持ってそうだし」
「えーっと。持ってることは持ってる」
 
「やはり。どうも、冬と麻央って、やっぱり性別が逆だよ」
「うむむ」
 

私は中学校の前半、2年生の秋までは陸上部1本でやっていたのだが、倫代から誘われて、昼休みには音楽練習室に行って一緒に発声練習をしていた。
 
「冬、その男の子の声、気持ち悪いから、普通に女の子の声でしゃべってよ」
と倫代は言う。
 
「うーん。まあ、倫代ならいいか」
と私は女声に切り替えてみる。
 
「うんうん。女の子の声はとても自然な響き、男の子の声は人工的な響き。どちらが本来の冬の声かは一目瞭然。いや、一耳瞭然かな」
 
と倫代は言った。
 
「えーっと」
 
「男の子の声聞かされて私もちょっと心配したけど、大丈夫そうだし、声出してみよう」
 
と言って、倫代は練習室の個室内に置かれたキーボードを弾き、中央ドから始めて、低い方、高い方へ半音ずつ上下させながらドレミファソファミレドを弾き、一緒に声を出していった」
 
「うん。アルト・ボイスもソプラノ・ボイスも健在だね」
「この声はマジで日々鍛えてる」
「うんうん」
 
「それでこういう声も今開発中なんだけどね」
と言ってメゾソプラノボイスを出してみる。
 
「おっ。ちょっと可愛い感じ。作り物っぽいけど」
「自然な感じにするのに苦労してる」
「頑張って。それ開発が進むのが楽しみだなあ」
「えへへ」
 
「それで合唱部顧問の上原先生に冬のこと話したんだけど、声が女の子で中身も女の子というなら、入れても構わないって言ってた。ほんとに合唱部に入らない?」
 
「うーん。でも今は陸上部の方に集中したいから」
「そっかー。でも私と毎日ここで練習しようよ」
「うん。私も思いっきり発声練習できて助かる」
 
「だけど私、こうやって冬と話していても、ふつうに女の子と話している感覚にしかならないのに」
「うん。私も倫代とこうやって話したり、一緒に歌うのは心地良いよ」
 
「前にも聞いたけど、実は女の子で男の子を装ってるということはないよね?」
「ないと思うけどなあ。でも性別って面倒だね。戸籍に1文字『男』と書かれているだけなんだけど」
 
「戸籍なんてただの紙切れじゃん。自分の実態で生きればいいと思うよ」
「でもその紙が重たいんだよね〜。変更もできないし」
「冬みたいな子の性別は書き直せるようにするべきだと思うな」
 
「特例法」が出来て、性別変更ができるようになるのはその年の夏からである。
 
「奈緒ちゃんから聞いたけど、もう身体は完全に女の子で、おちんちんも無いしおっぱいもまだ小さいけど出来ていて、生理もあるんだって?」
「なぜ、そんな話になってる!?」
 

この時期は、陸上部の練習は土日には行われていなかったので、土日にはしばしば津田さんの民謡教室に顔を出して特に発声を見てもらったり、三味線も聴いてもらったりしていた。
 
「でも冬ちゃんも中学生か〜」
と麗花さんが私のセーラー服姿を見ていう。
 
「この制服で通学してるの?」
「いえ。通学は学生服で」
「へー」
「でもこの教室にはこの服で来ていいですか?」
「もちろん。それで学校にも行けばいいのに」
「行きたい気分」
「何も行動しなければ、何も変わらないよ」
「はい」
 
「冬ちゃん、ゴールデンウィークどこか行く?」
とお父さんの方(アキさん)から訊かれる。
 
「いえ、予定ありませんが」
「じゃ、5月1日、演奏会の伴奏お願いしていい?」
「三味線ですか?」
「うん。小さな演奏会なので、三味線とお囃子と」
「OKです」
 

そういう訳で、5月1日(土)。私はセーラー服を着て、三味線と振袖を持って出かけて、現地で麗花さんに振袖を着せてもらった。
 
「冬ちゃん、家でセーラー服着て出てくるの?」
「ええ、そうですよ。でも母がトイレとかに行ってる隙に出ちゃいます」
「帰りは?」
「母が買い物に出てそうな時間に帰ります」
「でもそれ絶対その内、見られる」
「その時はカムアウトします」
「見られてからカムアウトするより、自主的にカムアウトした方がいいと思うなあ」
 
「小学校の時は私がスカートとか穿いてる所しばしば見せてるんですけどね。中学に入ってからはまだ見せてないかな」
「まあ、まだ1ヶ月だしね」
 
津田さん(アキさん)の元同級生の50歳の誕生日記念の個人演奏会ということで、あちこちからお友だちが集まってきていたが、みんなパワフルな感じの人ばかりで、圧倒されそうな雰囲気だった。
 
「でも女性ばかりですね」
「あ、うちのお父ちゃんは友だちは女の子ばかりだったらしいよ。男の子の友だちができたこと無いって」
「へー」
「男性の友人というと、まだ警察庁に勤めていた頃の同僚の人だけみたい」
「警察官だったんですか?」
 
「うん。警視庁じゃなくて警察庁の方だけどね。キャリアで警視だったけど、尊敬していた上司が何かの事件の責任を取って辞めたので一緒に辞めたんだって」
「へー」
「重要事件の被疑者が、マスコミとかも見ている前で被害者に刺殺されたらしい」
「わっ」
 
「警察の不手際だって、随分責められて、その人以外にも何人も辞めたり左遷されたりしたらしいよ」
「警察の責任じゃない気もするけど」
「でも誰かが責任取らないといけないからね」
「大変ですね」
 
「それでその後、音楽関係の仕事をしていたのよね」
「警察から音楽関係って、凄い転身ですね」
「まあ、男から女への転身の方が大きいけどね。その音楽関係の仕事し始めた時からフルタイムになったらしい」
「フルタイム?」
 
「警察庁に勤めていた時はさすがに女装で勤務できないから、背広着て出かけて行って、帰宅したら女の人の服に着替えていたんだって。でも音楽関係はこういうのに寛容的だから、ずっと女の人の服で仕事するようになったらしい」
「なるほど」
 
「警察を辞めた理由のひとつがフルタイムになりたかったからみたいよ」
「ああ、それは大きいですね」
 

やがて演奏会の看板が立てられる。
 
「あれ、若山瑞鴎というんですか?」
「うん。若山一門ってけっこう大きいけど、この鳥の名前を使うのは、その中でも高山にいた大先生の系統らしいね。5〜6年前に亡くなって今はその人の娘さんが継いでいるんだけど。鴎とか鵜とかはかなりの上級者にしか出さないみたい。この人の直接の先生はその高山の若先生の妹さんで名古屋にお住まいで。今日も来てくださることになってたから、そろそろいらっしゃるんじゃないかな」
と麗花さんが言う。
 
「えっと・・・まさか」
 
と思っていたら、やってきたのは確かに、伯母の風帆(若山鶴風)であった!
 
顔を合わせないようにしよう・・・と思ったが無駄だった。
 
「ね、そこの手鞠の振袖着てる子」
と声を掛けられてしまう。
 
「あ、はい」
と仕方無いので返事をする。
 
「あなた、どこかで会わなかったっけ」
仕方無いので覚悟を決める。
 
「先日は母にクレマスのチケットありがとうございました、風帆叔母さん」
「・・・あんた、冬ちゃん!?」
 
「はい」
「なんで振袖なんか着てるの? そうしてるとまるで女の子みたい」
「あ、私、こういう服の方がどちらかというとデフォルトで。今日もここまでセーラー服着てきたし」
「へー!」
 
「実はこの振袖着て、一昨年の俊郎さんの披露宴の余興に出たんですよね〜」
 
「あ!黒田節唄った!」
「はい」
「三味線は下手だけど唄が凄く上手いと思ったよ。あの時も見たような顔の子だと思ったけど、親戚たくさん来てたからね」
「まだあの頃は三味線習い始めて半年もたってなかったので」
 
「今どのくらい上手くなってるのさ」
と言われたので、三味線の弾き語りで『長崎ぷらぶら』を唄う。
 
ところが風帆伯母は
「あんたまだ声変わりしてないのね。でもそれ、若山流の三味線じゃない」
と言う。
 
私は近くで様子をうかがっていた津田さん(アキさん)の顔を見た。
 
「うん。そちらでやっていいよ」
と言うので、あらためて若山流で『長崎ぶらぶら』を再度弾き語りした。
 
「おお、ちゃんとできるじゃん」
「里美伯母さんに通信教育してもらってます。演奏したのを録音して送って採点してもらって」
「へー」
 
「あんた、今日の伴奏?」
「はい」
「若山流でやりなさい」
 
私が津田さんの顔を見ると頷いている。津田さんは伯母に
 
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。姪御さんをお預かりして三味線の基本的な技術や発声などをお教えしておりました」
と挨拶してくれた。
 
「いえ。こちらこそお世話になっております。って、あんた姪なんだっけ?」
と伯母は私に訊く。
「甥よりは姪ということにしてください」
 
「まあ、いいや」
 
「こちらで名前ももらった?」
「いえ。伯母さんたちがいる以上他では名前は頂きません。でも無名では困るので、仮の名前で『柊洋子』というのを」
 
「女の子名前だ! まだ仮の名前ということなら、津田さん、私がこの子に名前をあげてもいい?」
 
「はい、お願いします」
 
すると風帆伯母は高山のいちばん上の伯母(乙女伯母:鶴音)に電話してしばらく話していたが
 
「プロのレベルには充分達してるけど、まだ免許皆伝じゃないから。学習者名で『若山富雀娘(ふゆすずめ)』という名前をあげることにする。女の子名前がいいんでしょ?雀が増えて行くように、あんたの芸も向上していくようにという意味」
「ありがとうございます」
 
「充分上手くなったら、『若山富鶴(ふゆつる)』か何かをあげるから」
「いや、そこまでやるつもりは・・・」
「プロになれとは言わないけど、やる以上上手になろう」
「はい。それは頑張ります」
 
そこで司会者にも伝えて、今日の伴奏は、谷川豊麗(麗花さん)と若山富雀娘ということで案内されることになった。
 

演奏会が終わってから、伯母が『若山富雀娘』と和紙に書いて、落款も押して渡してくれた。
 
「なんか格好いい!」
「まあ紙1枚だけど、こういう紙1枚に結構なドラマがあるものだよ」
「そうなんでしょうね」
「とりあえずこの2年ほどの冬ちゃんのお稽古の成果に対する私の評点。今日の伴奏もしっかりしてたよ。唄う人がとちった時に、うまくカバーしてあげるね、あんた」
「自分がよく失敗するから、失敗のカバーだけは慣れているというか」
 
「いや、そういう技術は大事だよ。あんた舞台度胸もある。月1回くらいでも、名古屋まで来ない? 稽古付けてあげるよ」
「そうですね〜」
「女の子の服を着て来ていいよ」
「あ、行きたいかも・・・・」
「ふふふ」
 
 
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【夏の日の想い出・カミは大事】(2)