【夏の日の想い出・ピアノのお稽古】(下)

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ライブ後、市内のホテルのプライベートキッチンを借りて打ち上げをした。ライブには間に合わなかったものの、仙台での用事を済ませた町添部長も同席してくれた。そしてこの打ち上げの席上で、早速氷川さんから訊かれる。
 
「さっきの『100時間』、レコーディングしたと言っておられましたが」
「あれはですね。高校3年の時に私たちふたりと雨宮先生の3人でスタジオを6時間ほど借りて、バタバタと私たちの歌だけ収録したんですよ」
「えー!? 活動休止中ですよね?」
「です。ですから、この作品群は、『Month Before Rose+Lily』と『Rose+Lily After One Year』との中間に位置する作品なんです。収録したのは2008年夏ですが作品の大半は、週刊誌報道で私たちの活動が停止して、学校にも行けずにいた2008年1月にふたりで密かに会って書いたものです」
 
「会ってたんですか!」
「それは内緒にして下さい。それがローズ+リリーが再生した瞬間だったんです」
 
「じゃ、アルバムタイトルは『Rose+Lily the time reborn』だな」
と町添部長。
「でもケイちゃんも人が悪い。そんな音源があるなら去年 After One year とか出した時にこれも一緒に出してくれたら良かったのに」
 
「あ、いや。その音源は私も持ってないんです」
「へ?」
「録音データを雨宮先生が持ち帰られて、後でミックスダウンしてデータ送るね、とおっしゃってたのですが、その後音沙汰無くて。こちらも受検で忙しくなって、すっかり忘れてました」
「ありゃ」
「じゃ、雨宮先生が持っているんでしょうかね?」
「訊いてみましょう」
 

それで私は雨宮先生に電話してみたのだが・・・・
 
今女の子とデート中だから30分待ってと言われる。
 
それで30分後に電話が掛かってきた。
「デート終わりました?」
「まだ最中だよ。でも逝かせた所。10分後に2回戦。ケイちゃんも一度私とデートしない?性感帯を開発してあげるよ」
「いえ。私は今男の恋人も女の恋人もいるから充分です」
と言ったら、雨宮先生は
「あら、オカマの恋人がいないんじゃない?」
などと言う。
「いえ、遠慮しておきます。それでですね」
 
と言って私は高校時代に一緒に録音した音源のことを訊いてみた。
 
「ん?あれ渡さなかったっけ?」
「頂いていません。町添部長が興味を持っておられるのですが、もしまだお持ちでしたら、1部コピーを頂けませんか?」
「どこかにあると思う。でもどうせならリミックスしたいから3日待って。ホワイトデーに届ける」
「ありがとうございます」
 

電話を切ろうとしたら町添さんが代わってというので代わる。
 
「おはようございます。雨宮先生」
「おはよう、町添ちゃん」
 
「ちゃん」というのはこの世界ではごくふつうの敬称である。
 
「ローズ+リリーの音源の件はお手数お掛けしますが、よろしくお願いします」
「おっけー、おっけー」
「もし良かったら、雨宮先生プロデュースということで発売したいのですが」
「いいけど、中身を聴かなくても大丈夫?」
「ケイちゃんが関わってて、雨宮先生も一枚噛んでるなら、売れないような出来とは思えません」
 
「ふふ。買いかぶりじゃないかしら」
「ところで先生」
「うん?」
「そこに居るの、まさか夢路カエルじゃないですよね?」
「あら。それを訊くのはプライバシーの侵害よ」
「高校生は22時までには自宅に送り届けていただけますか?」
「硬いこと言わなくてもいいじゃない。私は種なしだからセックスの練習相手には最適よ」
「カエルちゃんはお父さんが芸能活動にあまり積極的でないので特にきちんと門限を守らせて欲しいのですが」
「しょうがないなあ。じゃタクシーで送り届けるから。私もこの子もお酒飲んじゃったから車が運転できないもん。明日の朝車で送って行くつもりだったんだけど」
「未成年に飲酒させないでくださいよ。週刊誌に見つかったら謹慎ものですから」
「りょうかーい」
 
会話を聞きながら、私は自分も高校時代ひとつ間違うとこういう立場になってたかも知れないなと思い、冷や汗が出る気分だった。
 

「そうだ。加藤課長、グランドピアノの件はどうなりました?」
「いや、それが今ちょっと暗礁に乗り上げていて」
「あら」
「私と娘の間では買うならC3Xだねという線でコンセンサスが出来たのですが、女房がグランドピアノを買うこと自体に反対していて」
「おやまあ」
 
「置く場所が無いというのですよ」
「ああ。それは大きな問題ですね」
「娘の部屋に置くと、それ以外物が置けなくなるので、机とかベッドをどこに持って行くかという問題になります」
「ええ」
「LDKに置くことも考えたのですが、LDKのかなりのスペースを占有する上に、料理する時の脂とかがピアノに付着して良くないのではと」
「ああ、それはまずいですね」
「居間に置いてしまうと、居間に置いているコタツとかを置けなくなるので、じゃLDKにコタツとかテレビとか移動する? なんて案も出たのですが、LDKは板張りだから冬が寒いよという話になって」
「困りましたね」
「はい、それで困ってます」
 
すると政子が言った。
「うちのマンションに置いているみたいなクラビロータは?」
「ああ。クラビノーバね」
「電子ピアノですか?」
「です。電子ピアノと言ってもクラビノーバは、グランドピアノの弦だけを電子部品に置き換えたものなんですよ。ですから、タッチはグランドピアノと全く同じですし、サステヌートペダルもあります。弦の共鳴なんかまでちゃんと処理されていますし。そして何より助かるのはヘッドホンで練習できることですね。ちなみに音はヤマハの最高級のコンサートグランドの音をサンプリングしています」
 
「おお!それは素晴らしい。じゃグランドピアノ買わなくてもそれで充分ですか?」
「うーん。あくまで代替品と思ってください。でもアップライトよりは良いと思いますね。当面それで練習してて、腕が上達してきたら改めてグランドピアノを考えるという手もあると思います。グランドピアノ持っていても夜間はクラビノーバで練習するというピアニストは多いから無駄にはなりませんし。それから、クラビノーバにはCLPシリーズとCVPシリーズがありますが、ピアノの代替として使えるのはCLPの方なので間違わないで下さい」
「CLP, CLP と」
と加藤さんはメモしている。
 
「CVPはむしろエレクトーンの派生商品みたいなものです」
「なるほど。逆にそれだけピアノをシミュレートしてるなら、何がグランドピアノと違うんですか?」
「うーん。横波かな」
「へ?」
 
「ピアノは弦をハンマーで打って波を発生させてそれを音にしている楽器で、大きく見ると弦楽器の仲間ですが、弦楽器は元々の弦が揺れる横波が接触している空気に伝わり、縦波の音になりますが、元々の弦の振動も横波として伝わるんですよね」
「音って縦波なんですか?」
と加藤さんが言うと、町添さんが
「頼むから余所でそういうこと言わないでね」
と横から口を出した。
「音は縦波、光は横波。音楽関係の会社の課長ならちゃんと認識しておこう」
「はい!」
 
「音は空気の疎密状態が伝搬するものなので、縦波の代表のようなものです。ところが近年音の横波成分も重要ではという話になってきているんです」
「へー」
「横波は固体の中しか伝わらないので、ピアノが置いてある床面を通して近くにいる人に伝わってきます」
「ああ」
「電子楽器は弦が物理的に震えている訳ではないので、この横波成分が無いんですよね」
「確かに」
「これは歌手のライブ演奏をそのホールで聴くのと、ライブ版CDを聴くのとの違いみたいに思ってもらってもいいです」
「なるほど!音が完全に同じでもそれは別物ですね」
 
「グランドピアノを使えるのがいちばん理想的ではあるのですが、住宅事情で諦める人も多いです。それに防音もしっかりやらないといけないし」
「そうでしょうね」
「住宅街で防音対策せずにグランドピアノ弾いたら近所迷惑もいい所です。昔それで殺人事件が起きたこともありましたね。聞きたくもないピアノの音を四六時中、寝ようとしていても聞かされたりしたら、殺したくもなるでしょう」
「ああ、それはちょっと聞かされる側に同情します」
 
加藤課長の言葉に、寝ようとしてて娘さんのピアノの音で起こされたりしてるのかな?とチラっと思った。レコード会社の課長なんてほとんど24時間勤務である。そもそも時間という概念の無い人が多いアーティストやプロダクションとの打合せはしばしば徹夜になる。寝られる時に寝ておきたいはずだ。
 
「グランドピアノ買うなら、ピアノの値段にプラス100万くらい防音対策費を考えておいた方がいいです」
「ああ、そんなに掛かりますか」
「全然音が漏れないようにしたければ300万くらい掛かります」
「ぎゃー」
「許容範囲程度に落とすので70〜80万円でしょうね。元の部屋の構造にもよりますが」
「わあ」
「音大とかを受けようというのであれば、何とか防音室を確保してグランドピアノを入れたいところですが、その場合、家の風水を破壊しないようにする必要もあります」
 
「風水ですか?」
「以前、受検ノイローゼになった子供が親を惨殺するなんて事件があったんですけどね。この家には居間が無かったんです」
「ほほお」
「本来居間になるべき部屋にグランドピアノ置いていたんですね。それでこの家には家族が落ち着いて集まって過ごせる部屋が無かった」
「それは良くないと思う」
「私もそう思います。中心の無い家は人を狂わせます」
「部屋のやりくりを考える場合も、居間は絶対に存在してないといけないということですね」
「ええ。そこに行くとお父さんかお母さんがいて、睨みを効かせてるってのは必要ですよ。そんなのが無い家庭はもう家庭じゃないです」
「うんうん。まあうちの娘は音大までは行かないと思うし、取り敢えずクラビノーバという線で行ってみようかな」
 

「でもさっきのお話聞いた限りでは、お嬢さんの部屋に置いちゃって、後は部屋のやりくり考えってのも何とか行けそうな気はしましたが」
「やはりその線だよね」
 
「ちなみに、6畳くらいの部屋ならC3Xとベッドは充分共存できる筈です。私の友人ピアニストには、4畳半の部屋に、C3Xとシングルベッドと机を美事に収納している人もいます」
「4畳半に入るんですか!?」
「ベッドに行くのにピアノの下をくぐり抜ける必要がありますけどね。一度見学に行きます?」
「ぜひ!」
 

3月14日。★★レコードに呼び出されたので政子と一緒に行ってみると、雨宮先生が来ておられた。上島先生、町添部長、加藤課長、氷川さんも同席している。
 
「リミックスしたけど、ここでみんなで聴くのがいちばん手っ取り早いと思って」
と雨宮先生。
 
「じゃ、聴いてみようか」
ということでCDを氷川さんが応接室のステレオシステムに掛ける。懐かしいサウンドが流れる。私も政子も当時を思い出しながら聴いていた。心が撫でられる気分。
 
そして1時間後。
 
「これ、連休前に発売しようか」
と町添さんが言う。
「素晴らしい出来だね。これAfter one year や Month before より作品の品質が高い」
と上島先生も言う。
 
「多分、あの時期にケイちゃんたちが作った作品の中から私の好みで14曲抜き出して、残った曲がafter one year だよね」
と雨宮先生。
 
「残った曲プラス、このレコーディングをした以降、あの年の夏から秋に掛けて書いた作品、それから当時はまだMIDI化してなくて手書き楽譜のままだった作品などです。after one yearは」
と私は説明する。
「当時作った作品はこれらの曲以外に、鈴蘭杏梨名義で発表した作品もあります」
 
「鈴蘭杏梨ってマリ&ケイなの?」と雨宮先生。
「そうです」
「あ。それは周知かと思ってた」と上島先生。
「★★レコードにも時々問い合わせがありますが、うちとしては作曲家の個人情報についてはお答えできませんという回答しかしてないです。でもファンの間では同一人物で間違いないと考えられているようです」
と町添さん。
「鈴蘭杏梨とマリ&ケイが同じってこと、多分みっちゃんは知らないよ。あの人、こういうの鈍いから」と政子が言う。
「そういえば言ったことないかも知れないな」と私。
 
「あんたたち、たくさん名前持ってるのね」
「うーん。他には柊洋子というのがサウザンズのアルバムの制作スタッフとして何度かクレジットされてますが、そのくらいかなあ」
「あんた、サウザンズにも関わってるんだ? でも女の子名前ばかり。でも、ケイちゃんって実は5人くらいいるんじゃない?」
と雨宮先生が言うと政子が
「少なくとも3人くらい居るのではと疑ってます」
などと言う。
「うーん。ケイちゃん三つ子説か」
「ははは」
 
「しかし、この中の曲も『ファンが選ぶベストアルバム』で投票したくなりません?」
と氷川さん。
「じゃ、このアルバムにも投票券を封入しよう」
と町添部長。
 
「ああ、なるほど」
 
町添さんがカレンダーを確認する。
「このアルバムの発売は4月24日・水曜日になるかな。投票の締め切りを連休明けの5月6日にすればいい」
 
「これ演奏はMIDIですか?」
と加藤課長。
「そうそう」
「一応生のバンド演奏に差し替えましょうか」
 
「やはりそうすべきよね。でもこの歌、みんな女子高生の心情を歌ったものだからなあ。ケイちゃん、マリちゃん、高校の女子制服着なよ」
「あ、はい」
 
「それとも当時撮った『写真』を表紙にする?」と雨宮先生が言うが
「それはやめましょう」と私は焦らずに否定しておく。
 
「じゃ、ケイちゃんとマリちゃんが女子高生制服で写ってジャケ写」
「OKです」
 
「そうだ。伴奏者にも女子高生の制服着てもらおう」
「伴奏者って?」
「ポップス系の曲が多いから、ローズクォーツかな」
「ははは」
 

用意された女子制服を前にタカは何だか楽しそうに身につけていたが、マキとヤスは「またですか?」と嫌そうな顔をしながらセーラー服を手に取っていた。サトは天を仰いでいた。
 
「でもサトちゃんに合う女子制服なんて存在したのね」
と政子が感心した風に言う。
「身長190cm、体重90kgだからね。でもそういう需要が存在するのよ」
と雨宮先生は言った。
「私も女子高の制服、10着くらい持ってるわよ」
などともおっしゃる。
 
「先生、高校時代女子制服で通学してたんですか?」
などと政子が訊くので先生は何だか誤魔化しておられた。
 
「演奏収録中はこの服で自宅まで帰ってもらおうかな」
「済みません。マジで逮捕者が出るので勘弁してください」
と氷川さんが言ったので、雨宮先生も
「じゃスタジオの中だけでいいよ。但し下着はずっと女の子のを付けててね」
と言って妥協した。
 
演奏の収録は順調に進んでいった。今回、私と政子の歌は高校時代のをそのまま使うので「あんたたち暇でしょ?」と言われ、私はフルート、政子はヴァイオリンを弾いて演奏に参加した。
 

『the time reborn』の伴奏収録はとてもスムーズに行き、19日には終了した。曲が全てとても素直なので、こういう曲はそのまま素直な伴奏にした方が良いという雨宮先生の方針であった。
 
収録が終わり、仮マスタリングしたものを1枚CDに焼いて持ち帰り、私は自宅で聴いていたが、ふとここ数日ハードスケジュールで疲れが溜まっているなというのに気付き富山の青葉に電話してみた。
 
「ハロー、もし時間取れそうだったら喉だけでもヒーリングしてくれない?」
「はい。大丈夫です。こちら合格発表も終わりましたし」
「おお。どうだった? って、既に内定通知が来てたんだったね」
「ええ。中学で特に仲良かったふたりの友人と同じ科になれたので嬉しいです」
「それは良かった。あ、風の盆に一緒に来てた子?」
「ええ、そうです。あのふたりです」
 
それで私はCDを聴きながら青葉、政子とおしゃべりしながら、ヒーリングを受けていたのだが、その青葉が突然沈黙する。
 
「ん? どうかした?」
「今掛かっている曲ですけど」
「ああ。これ私たちが高校時代に歌った音源が見つかったものだから来月発売することにしたのよ。歌は当時のものそのままで、伴奏だけローズクォーツの伴奏で録り直して」
 
「この曲、このまま発売したらヤバいです。全国に呪いが拡散します」
 
その時掛かっていたのは『呪いの人形』という曲であった。政子が「啓介絶対許さないんだから」と言って、何だか魔術書を見て呪いを掛けたという話で、そのことを歌ったものである。
 
「・・・ね、この呪い、本物?」
と訊いて、私は青葉にこの曲が作られた経緯について説明した。政子は忘れているようで「へー、私、そんなことしたんだっけ?」などと言っている。
 
「その、政子さんの元カレ、変な事言ってませんでしたか? 例えば黒服の男に追われたとか? あるいは変な電話が掛かってきたとか、夜中に誰かに叩き起こされたとか」
「ピンポーン」
 
「歌詞を変えて下さい」と青葉が言う。
「でもこれ、歌は今の私たちの声で再録する訳にはいかないし」
「このまま発売すると日本全国で恐ろしい事態が発生します」
「うむむ・・・」
 
私は取り敢えずこの曲の歌詞を青葉に送り、どこを修正すべきかを書いてもらった。すぐにFAXが送り返されてくる。「ヤバイ言葉」に傍線が引かれ、代替の歌詞案まで書かれていた。特に歌詞に含まれる3個の呪文は二重傍線が引かれ絶対にこれを出さないで下さい。冬子さんたちも忘れて下さいと書かれ、全てデタラメな文字列に置換されていた。
 
もう夜22時過ぎではあったが、私はこの件ですぐさま町添さんに電話を入れた。
 
「それはさすがにヤバイね!」
 
町添さんは、スリファーズの春奈や花村唯香のヒーリングの件で青葉を信頼していたので、その呪いの話も信じたようだ。ちょっと検討して折り返し連絡するということだった。電話は1時間後に掛かってきた。
 
「技術部の則竹君に訊いてみたんだけどね。短いフレーズなら不自然にならないように差し替えることは可能だという」
 
「ほんとですか!」
「僕も細かい技術的なことは分からないんだけど、まず今のふたりに元の歌詞を歌ってもらって、それで高校時代の録音との差分を取る。それでふたりにボカロイド作成用の原稿を読んでもらい、その音声に差分を加えて、高校時代の君たちの声を模したボカロイドを作る。そしてそのボカロイドに新しい歌詞を歌わせて、それを更に歌声を編集するソフトで手調整を掛け、自然な感じで元歌の他の部分とつなぐようにする」
 
「わあ、私たちのボカロイド作るんだ!」
と政子は喜んでいる風。
 
「歌全体を置換するみたいなことは無理だけど、短いフレーズだけ置換するなら、不自然に聞こえないように加工する自信があると則竹君は言っている」
 
「お手数お掛けしますが、それでお願いします!」
 
そういう訳で、翌日20日の午前中私と政子は★★レコードの技術部に出かけ、ボカロイド作成の作業をしたのだった。
 

そして20日はローズ+リリーの13枚目のシングル『言葉は要らない』の発売日であった。午後から私と政子は一緒に★★レコードで発売の記者会見を開いた。
 
「確率の罠って面白い歌ですね。つい自分が女房と出会った確率を計算してみました」
とベテランの記者さんから声が掛かった。政子はニコニコした顔で
「私もケイと出会った確率を計算してみたら100兆分の1なんて数字が出ました。ローズ+リリーってだから百兆分の1の確率で誕生したユニットみたいです」
「おお、それは凄い」
 
封入されている投票券のことでも質問が来る。これは加藤課長が趣旨を説明した。
 
「どこかのアイドルグループのCDの真似をした訳じゃないですよね?」
「まあ、ローズ+リリーのファンはあそこより全体的に年齢層が高く理性的なファンが多いので、ひとりで100枚買ってなんて人は多分出ないと思いますので。それにメンバーの人気投票ではなく、曲の投票ですし」
 
すると政子が唐突に言う。
「ローズ+リリーのメンバーで人気投票したら誰がトップだろう?」
 
私は苦笑してその発言を引き取る。
「誰がってメンバーは2人しかいないよ。でも多分ダントツでマリだよ」
「そうかなあ」
「だって、マリちゃん本物の女の子だし」
「ケイちゃんも本物の女の子だよ」
「うーん。マリちゃんは神様作の純正品、私はお医者さん作の互換品」
「パソコンみたい」
「マリちゃんは100% pure girl だよ」
 
私がそう言った途端、突然マリはバッグの中から《赤い旋風》を取り出すと、記者会見用の原稿をプリントした紙の裏に詩を書き始めた。
 
記者たちからざわめきが漏れるが、みんな静かに見守ってくれた。
 
「できた〜。ケイ曲を付けて」
「いいよ。でも記者会見の途中だよ」
「あ、ごめんなさーい」
 
「いや、マリちゃんの貴重な創作現場を見せて頂きました」
と大手音楽雑誌の記者さんが言ってくれた。テレビ局の記者はマリの創作現場をしっかりカメラに収めたようであった。
 
「そうだ。私の方が人気あるって話だったっけ」
「そうだね。マリちゃん、ローズ+リリーのリーダーでもあるしね」
と私は五線紙に音符を書き込みながら言う。
 
「あ、そういえば、私リーダーだった。でもリーダーって何かいいことあるんだろうか」
 
「報酬とかをふたりで分割する時に端数が出た分はマリちゃんに付けてるよ」
「お、それは役得だ」
 
たわいもない会話だが、この件はしっかり幾つかの新聞に書かれていて、
「ローズ+リリーの収入はマリちゃんの方が多い」
などというタイトルが付けられていて私は吹き出した。
 
記者さんたちがとても優しく接してくれたのでマリはとてもご機嫌で饒舌だった。そして、記者会見が終わるまでに私はマリが書いた詩に曲を付け終わった。
 
「どうも歌が完成したみたいですね」
「はい」
「歌えますか?」
「じゃ、マリ一緒に歌おう」
「うん」
 
氷川さんが気をきかせてキーボードを持ってきてくれたので、私がそれで伴奏しながら、今できたての曲『100%ピュアガール』を一緒に歌った。
 
マリ&ケイが速筆なソングライターであることは結構知られていたが、記者会見をしている最中に、わずか20分くらいで曲が出来たことには驚いた記者も多かったようである。
 
「なんか凄く良い歌ですね」
と昔私たちのスキャンダル報道をした写真週刊誌の記者さんからも言われた。この雑誌の次週号には、執筆中のマリの写真が大きく載り『ローズ+リリー驚愕の創作現場』などというタイトルが付けられていた。
 
「ケイ、これCD発売しようよ」
「うんうん。★★レコードさんさえ良ければね」
 
加藤課長が
「済みません。ちょっと協議します」
と言って席を立ち、いったん記者会見場を出た。
 
課長が戻ってくるまでの間、また政子が楽しそうに、今回発売するCDの中身の曲について解説をして、それを記者さんたちが書き留めていた。
 
「ほぉ、じゃ『ヘイガールズ!』のPVでアクションしているチアさんたちはマリさんケイさんの出身高校の本物のチアチームですか?」
「ええ。私たちの友人でチアリーダーしていた子がいたので、そのツテで頼み学校にも許可を頂きました」
 
加藤課長は3分ほどで戻って来た。
 
「この曲、12cmシングルで、4月24日にローズ+リリーの新しいアルバムと同時発売することが今決定しました」
と述べる。
 
「新しいアルバムというのは、以前予告されていた『Flower Garden』ですか?」
「いえ。実はローズ+リリーの高校時代の音源がまたひとつ見つかりまして、それを発売します」
 
「見つかった、というと、行方不明になっていたのでしょうか?」
「実はふたりが高校3年生の時に、雨宮三森先生が受検勉強の息抜きにと歌わせた音源が存在することが最近分かりまして。ローズ+リリーのふたりもこの音源を持っていなかったのですが、雨宮先生が保存していたので、この音源に新たに楽器で伴奏したものをリミックスして発売します」
 
「では Month before などと同様の方式ですか」
「そうです。時期的にはふたりがスキャンダル報道で大騒ぎになって学校にも行けずにいた時期に電話やFAXでやりとりしながら作った作品で、歌は2008年夏に録音されたものです。ですから、Month before と after one year の中間に位置する作品です」
「では just after とか?」
 
「タイトルは Rose+Lily the time reborn. となります」
 
私が補足する。
「実はローズ+リリーはあの騒動でいったん壊れてしまったんです。私も全てが終わってしまったという気分でしたし、マリは当時、私今『ローズ+リリーのマリさんですか?』ときかれても『はい』と言える自信が無いと言ってました」
と言うと政子が
「そんなこと言ってたっけ?」
などと言う。
 
「言ってたけど、忘れてていいよ」
「うん。私だいたい言ったことは数秒後には忘れる」
「鶏並みだね。でもそういう、どん底の状態から、当時の★★レコード担当の秋月さんなどの励ましもあり私たちはまたゼロから再出発することを決めました。そういう訳で今あるローズ+リリーはその時に新たに生まれた新生ローズ+リリーなんです。そしてその時私たちが立ち直りながら作った作品群なので、本当に the time reborn なんです」
 
「じゃ、うちの雑誌の報道がその作品群を生み出したんですね」
と例の雑誌の記者さん。
「そうですね。御礼に藁人形でも差し上げましょうか?」
「あはは、ください。またそれ記事にしますから」
 
などとおっしゃるので、マリが面白がって本当に五寸釘を打ち付けた藁人形をこの雑誌社に送り届け、それをネタに本当に記事が書かれて話題になっていた。
 
しかしその直後にその雑誌社の常務さんで事件当時編集長だった人が階段で足を踏み外して1ヶ月の怪我をしたという話を聞くと、私はきゃーっと思った。五寸釘は心臓に打って本当に何かあったらまずいというので、足に打っておいたのである。この雑誌はその怪我の件まで「マリちゃんの呪いが効いた!」などというタイトルで、また記事にしていた。記者根性たくましい!と私は感心した。
 

20日に『言葉を要らない』の発売記者会見をした夜、上島先生から電話が掛かってきた。
 
「新曲発表の記者会見見たよ」
「わあ、ありがとうございます」
「いつもながら君たち仕事が速いね」
「上島先生には適いません」
「それでさ、ローズ+リリーが新生した時に作った曲と同時に発売するならね、ひとつ一緒に入れて欲しい曲があるんだけど」
「はい」
「『疾走』を歌ってくれない?」
「え、あれは・・・・」
「ちゃんと、正しい作詞者名で出す。長野夕香作詞/上島雷太・雨宮三森作曲としてね」
「いいことだと思います。それをきっかけに例の問題も決着が付くといいですね」
「実は高岡のお父さんと先日話した。向こうはそのことを全然知らなかったらしくて、少し考えさせてくれと言っていたので、また改めて時間を置いてから話に行く」
「はい」
 
「で、雨宮や下川とも話したんだけど、『疾走』を収録する時は僕たちに伴奏をさせて」
「それは嬉しいです。ワンティス10年目の再稼働ですね」
「うん。まあ稼働はしないけど、集まれる範囲で集まるよ」
 

この日の夕方、上島先生からの電話の2時間ほど前、頼んでいたグランドピアノが納入された。既に防音工事の終わっている「仕事部屋」に搬入してもらう。
 
「わーい、グランドピアノだ!」
と政子が喜んでいる。
 
「早速何か弾いてみよっと」
「猫ふんじゃった?」
と訊くと、政子はチッチッチと指を横に振る。
「ルードウィッヒ・フォン・ベートーヴェン作曲交響曲第九番第四楽章」
「ほほぉ」
 
それで政子はピアノの前に座り、ミミファソ・ソファミレ・ドドレミ・ミーレレ
と『喜びの歌』を右手だけで弾き始めた。
 
「へー。ちゃんと間違わずに弾けるじゃん」
「うん。何となく探り弾きだったけど、間違えずに弾けた」
 
「どういう練習するの?」
「バイエルから始めるよ。基礎が大事」
「うんうん。基礎は大事」
「神保町の古本屋さんで10円で売ってるの見て買っておいた」
「ほほぉ!」
 

3月30日・土曜日。私と政子は車で一緒に成田空港まで行った。この日帰国する政子の両親を迎えに行ったのである。
 
「5年間のバンコク勤務、お疲れ様でした」
と私が言うと
「なんか娘夫婦に迎えられたって感じだ」
とお父さん。
「うん。私たち夫婦だから。今腕に付けてるブレスは結婚指輪代わり」
と政子は言っちゃう。
「へー、そうだったんだ!」
とお母さんが楽しそうに言った。
 
長旅で疲れているだろうということで、空港のレストランでお昼を食べてから帰ることにする。
 
「なんか今年の夏はたくさんライブやるみたいな話が」
とお父さんが言うが
「ああ。同じ構成でやるライブは1回やるのと変わらない」
と政子。
 
「結局、今年のライブは2月の名古屋で1回、3月の福島で1回、5月の仙台で1回、7〜8月のホールツアーで1回、夏フェスとその後の復興イベントで1回、9月のアリーナツアーで1回、というのが政子さん的な数え方で6回だそうです」
と私は説明した。
 
「アバウトね。9月の後はしないの?」とお母さん。
「卒論をまとめる時期に入るので」
「ああ」
 
「卒論の提出はいつするの?」
「えっと、12月から1月の間に提出することになってる」
「だったら12月1日に提出しなさい。それがお父ちゃんが政子のその活動を認める条件だ」
「12月1日は日曜なので2日ですね」
「うん。それでいい」
「アイアイサー! じゃ12月2日に提出したら、12月中旬くらいに次のライブしてもいいかな?」
「うむむ」
 
私もお母さんも笑ってしまった。しかし政子がこんなにライブをやる気になったのは良いことだ。震災の頃まではローズ+リリーのライブというのは二度と無いかも知れない、なんて考えていたなと私は当時を思い出していた。
 

そのまま私の車で家まで行った。
 
「結構きれいにしてるね」
「帰国するという電話もらった後、頑張ってお掃除したから。昨日は1日掛けて拭き掃除もしたし」
「リビングのフローリングとか階段もワックス掛けしたね」
 
「お部屋はどうなってるのかしら」
「お母ちゃんたちの寝室はそのままだよ。寝具は新しいのに交換して、古いのはマンションに持って行った。あちら結構友達泊めるから予備の寝具に」
「わあ」
「私と冬が十畳の部屋と、もうひとつ6畳か4畳半かどちらか使うから、お母ちゃんたちは、寝室と、そのふたつの部屋の内どちらか使って」
「ふーん」
 
と言ってお母さんが十畳の部屋を開けると、ドーンと巨大なグランドピアノが置いてあるのでびっくりする。
 
「これ、秋に帰国した時は無かったね」
「うん。私がピアノの練習しようと思って買ったんだよね」
「へー。練習してるんだ」
「うん」
 
と言って、政子はピアノの前に座り、モーツァルトの『トルコ行進曲』を弾いてみせた。
 
「上手に弾くじゃん!」
「へへへ。ここ3日ほど猛練習したからね」
 
「でも何だか広いホールで弾いてるみたいな音の響き」
「防音工事したから」
「ああ」
「だから夜中でも弾けるよ。壁や天井は吸音板貼ってるし、窓は二重窓だし、カーテンは鉛入りだし。夏でも窓開けたら弾けないからエアコン入れたし。真上の部屋でも全然大丈夫。床も補強した」
 
「へー。それ結構掛かったんじゃない?」
「うん。工事代200万くらい掛かった」
「きゃー。ピアノよりそちらが高かったりして」
「ううん。このピアノは500万だもん」
「ひぇー!!」
 
「でも税金をたくさん払ってるから。このくらい使った方がいいんだよ」
「ああ、そうかもね」
 
お母さんは納得していたが、お父さんは信じられんという顔をしていた。
 
結局、6畳の方をお母さんたちに使ってもらうことにし、私と政子のベッドは4畳半の方に移動した。この4畳半がちょうど1階のピアノ部屋の真上になるので、そちらの方が気兼ね無いだろうということにしたのである。もっとも実際にはピアノ部屋でピアノを弾いていても、4畳半の部屋では(畳に耳を付けても)全くその音が聞こえないことを、お母さんたちと一緒に確かめた。なお、ピアノ部屋の真上で4畳半の部屋以外の部分はクローゼットになっている。
 

翌日は私たちの高校時代の友人たちが、政子の両親の「お帰りなさい会」をするというので集まってくれた。メンツはだいたい高校時代にここで勉強会をしていた顔ぶれである。
 
「ほんとにお疲れ様でした。向こうでは色々不便なことも多かったでしょう」
「お父ちゃん、言葉でだいぶ苦労してたみたいね」
「うん。普通の業務上のやりとりは俺も頑張ってタイ語勉強したからちゃんと話せていたんだけど、相手が感情的になっている時とか、あと方言でしゃべられると、もうさっぱり分からんかった。タイ人の秘書が頼りだったけど、彼も特殊な方言は分からないと言ってたね」
 
「タイは北部の方がけっこう複雑っぽいですね。あと深南部も」
「うん。深南部はもうマレーみたいなもんだからね。文化的な基盤から違う」
 
「でもニューハーフさん多かったね〜」
「ああ。社員にもたくさんいたし、手術が済んでいる子とまだの子がいるから更衣室とかでも色々配慮していたね」
「わあ。基本的には女性に準じて扱うんですか?」
「そうそう。それでだいたい問題ないみたい。彼女達は他の男の子たちと違って出家もしなければ兵隊にも行かないし」
「私たちが住んでたアパートの大家さんの息子もある日突然女の子になっちゃったし」
「おお、すごい!」
「徴兵前に女の子になりたかったみたいね。私たちが帰国する段階ではもう手術も終えて完全な女の子になってた。なんか美人でね〜」
「へー」
 
「お母さんもタイ語覚えました?」
「全然。全部日本語と英語で押し通した」
「それはそれで偉い!」
 
「バンコクで副支店長5年もやったら、日本に帰国したらどこかの支店長ですか?」
「最初盛岡支店長と言われたんだけどすぐ白紙に戻って。取り敢えず本店営業部長付なんだけどね。6月下旬の株主総会直前に次期社長が決まるから、その後支店長人事があってどこかに行くことになるんじゃないかと思う。それまでは取り敢えず東京勤務」
 
「まあ、北海道や沖縄に行くことになっても、タイよりは東京に近いしね」
とお母さんもさばさばした感じだ。
 

今日集まったメンツも、十畳の部屋に巨大なグランドピアノがあるのを見て驚く。
「えー? 冬が弾くんじゃなくて政子が弾くんだ」
「うん。冬も弾くけどね」
 
と言ってピアノの前に座ると、政子は昨日も両親に聴かせた『トルコ行進曲』
を演奏する。
 
ほとんどノーミスで演奏した政子に思わず拍手が来ると、政子はきっちりみんなに向かってお辞儀をした。
 
「ウルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲『トルコ行進曲』でした」
「うまいじゃん!」
「でも今弾ける曲はこれだけ」
「おっと」
「あとは猫ふんじゃったくらい」
「おお!」
 
「でもいつ買ったの? 2月に来た時は無かったよね」
「うん。10日前に納入された」
「へー」
「それからバイエル上下1日ずつ、ハノンで2日、ツェルニーも2日で上げた」
「すげー!」
「その後、お父ちゃん・お母ちゃんに聴かせようと思って『トルコ行進曲』をひたすら3日間練習した」
「なるほど!」
 
「ここのところ、毎日10時間くらい弾いてたね」
「うん。疲れたらヴァイオリンの練習したり歌ったり」
 
「でもそんなに長時間弾いて指傷めたりしないもの?」
「マーサはヴァイオリン弾くから指は丈夫だもん」
「あ、そーか」
「私、きつくなるまではしないから。スポ根少女じゃないしー」
「ああ、政子はスパルタ・コーチとは相性悪そう」
「あと指を休めてる間、ずっと手に湿布薬を貼っといたよ」
「なるほど」
「指のヒーリングも毎日してもらってたしね」
「うん。あれがまた気持ち良かった」
 

翌日、4月1日。『100%ピュアガール』の音源制作に入る。
 
今回のCDに収録する曲は『100%ピュアガール』『疾走』『あの夏の日』
(以上トリプルA面)『快楽大王』『包まれて』『ラブ#』の6曲である。
 
このCD製作の発端となった『100%ピュアガール』に対して上島先生が書いて下さったアンサーソングが『ラブ#』で、先生は最後まで『ラブ#』にするか『オブジェクティブ・ラブ』にするか悩んだらしいが、『オブジェクティブ・ラブ』は、その言葉遊び分かる人が少ない、という町添さんの意見で『ラブ#』
になった。
 
『あの夏の日』『快楽大王』『包まれて』はいづれも先月、自宅に来た青葉が手書き譜面を発見してくれた古い楽曲である。『あの夏の日』は高校1年の時のキャンプで書いたもので、私と政子の最初の作品。『あの夏の日の想い出』というタイトルだったのだが、大ヒット曲『夏の日の想い出』と紛らわしいので『あの夏の日』とした。
 
『快楽大王』は私が小学6年生の時に修学旅行で行った安曇野の八面大王の所で書いたもので、発見された譜面に政子が興味を持ち、新しい歌詞を書いて、それにあわせて楽曲も再構成した。
 
『包まれて』は中学の修学旅行で京都に行った時、東寺で書いたもので、これも同様に政子が書いてくれた新しい歌詞に合わせて楽曲を再構成している。つまりこの2曲は古い作品のスクラップ&ビルドをしたものである。
 
そして『疾走』は事情によって発売されることの無かった、ワンティス最後の作品である。この作品を書いた直後、作詞者の夕香さんと恋人の高岡さんがドライブに出て事故死してしまった。その時300km/hを越える速度を出していたので、その事故の性質上、こういうタイトルの作品は出す訳にはいかなかったし、また高岡さんの死でワンティス自体の活動が停止してしまったのであった。
 
ワンティスのメンバーの多くが△△△大学の出身であったことから、同じ大学の後輩ユニットであるローズ+リリーに歌って欲しいと上島先生は趣旨を説明してワンティス全員の了承を得た。そして当時のワンティス担当者である加藤課長も「もうほとぼりが冷めてるから」と作品化を承認して10年ぶりの作品化が実現することになったのである。
 
1-2日は『疾走』以外の作品の収録を行う。スターキッズのメンバーを招集して1曲ずつ録音していく。
 
「先生!『100%ピュアガール』の前奏のピアノソロを弾きたいです」
と政子が言った。
 
「先生って誰だろ?」
「きっとプロデューサー然としてるキンタマちゃんだ」
「こら〜、その呼び名使うとキンタマ取るよ」
「おお、こわ!」
 
近藤さんが笑って「じゃ弾いてごらん」と言い、政子に弾かせると結構良い雰囲気で弾く。
 
「ああ。使えるかもね」と月丘さん。
 
「だいぶ巧くなってる。去年の『エリーゼのために』とは段違いだ」
と見学に来ているサトも言った。サトはスターキッズで録音する際にもだいたい見学に来ている(むろん報酬は出ない)。ヤスも時々来るのでこの二人はしばしば無償徴用されてパーカッションを打っていたりもする。
 
「でもプロの演奏レベルじゃないね」
と鷹野さんに言われ、結局宝珠さんから「使ってもいいが木曜日までにプロレベルの演奏にすることが条件」と言われた。
 
「少し教えてあげたい気もするけど、今ここにいるメンツの中にピアノのプロがひとりもいないね」と近藤さんが言うので
 
「あ、私心当たりあります」
と私は言った。
 
「友人で音大のピアノ科に在籍してる子がいるので、その子にちょっと指導を頼んでみます」
「おお、それは凄い」
 
結局その部分を未収録で残し木曜日に収録することにして、2日間に渡る録音作業を終えた。
 

私は中学高校のコーラス部の後輩で音楽大学のピアノ科に在籍中である美野里に電話して、指導料も払うので、数日間、政子のピアノ演奏の指導をしてもらえないかと頼んだ。
 
「いいですけど、冬子先輩だって、プロのキーボード弾きなのに」
「私はピアノ正式に習ってないから、我流の人が教えると、更にひどい我流になってしまう」
 
ということで、美野里は1日の夜から来てくれた。美野里はうちにあるピアノを見ると
「すごーい。うちのピアノの後継種だ」
と嬉しそうに言った後で、
 
「こんな良いピアノ買ったんなら、しっかり練習しないとバチが当たるよ」
などと言い、政子だけではなく私にも少しピアノを弾かせて色々アドバイスしてくれた。
 
「冬子先輩の指使い、薬指を使いすぎると思う」
と美野里は指摘した。
 
「あ、それは思ったことはあった」
「釈迦に説法は承知で言いますけど、薬指はいちばん力の出ない指なんです。できるだけ中指か小指で弾けるように指替えをちゃんとしましょう」
と言って美野里は実際に私が弾いてみた曲で、理想的な指使いを実演してみせてくれた。
 
政子の方は
「プロの演奏ってどんなんだろう?」
などと言っているので、美野里が
「私はセミプロだけど」と言って、問題の譜面のピアノソロ部分を弾いてみせる。
「なんか格好いい!」
と政子は本当に感動している感じで言った。
 
「今のと同じ弾き方すれば合格するかな?」
「ああ、それはありだと思うよ。模倣することも大事」
 
「こんな感じだったかな」
と言って政子が弾くと、
「さすがプロミュージシャンだね。結構いい感じでコピーする」
と言って感心していた。
 

4月3日にはワンティスのメンバーが集まってきた。
 
上島雷太(KB1),下川圭次(KB2),雨宮三森(Sax), 水上信次(B),長野支香(Cho),ここまでは知ってる顔ばかりだ。海原重観(Gt2), 三宅行来(Dr), 山根次郎(Tp)の3人とも1度は会ったことがあったが、あまり言葉は交わしてないので改めて挨拶しておいた。
 
「歌は要するに、高岡と上島がデュエットしてた所を、このふたりのお嬢さん方に歌ってもらうんだよね?オクターブ上げて」
と三宅さんが確認するように言う。
 
「高岡のギターパートはどうするの?」
「ローズ+リリーのバックバンド、スターキッズのリーダー近藤君に弾いてもらう線でお願いしたいんですが」
と加藤課長が恐縮した感じで言う。
 
「ああ。近藤ちゃんはうまいよ。何か弾いてみて」と雨宮先生が言うので「はい」と緊張した面持ちの近藤が、適当なフレーズを弾いてみせる。
 
「ああ、合格合格」
とが三宅が言う。
 
「それで、スターキッズのもうひとりのリーダー、宝珠さんにコーラスに加わってもらいたいのですが」
と加藤さん。
 
「ああ。何か歌ってみて」
宝珠さんがプレスリーの『ハウンドドッグ』を少し歌ってみせる。
 
「おお、格好いい」
「夕香ちゃんも漢らしかったけど、この子も漢らしい」
「これだけ歌唱力あればOKね」
ということで、今回の録音ではローズ+リリーの縁で、近藤さんと宝珠さんに加わってもらったユニットで演奏することになったのであった。
 

例によって、演奏を先に収録してから歌を乗せる方式である。ワンティスがそういう方式を採っていたのは、雨宮先生の歌が捨てがたいのに雨宮先生はサックスを吹いているので演奏しながら歌えないことと、実は高岡さんも上島先生も弾き語りがあまり得意ではないこともあった。
 
「あんたたちは楽器何もしないの?」
「ケイちゃんはキーボード、マリちゃんはヴァイオリンがうまい。宝珠さんはサックスとフルートのプロ」
と上島先生が言うと
「よし、ヴァイオリン入れよう。それとテナーサックス入れようか。持ってきてる?」
「はい。車に乗せてきてるので持ってきます」
「よし。下やん、パート書いて」
「はいはい」
「ケイちゃんはどうしよう? キーボードは既に2人もいるからなあ」
「ケイちゃんもフルートとイーウィーが吹ける。イーウィーは私の直伝」
と雨宮先生が言うので
「うーん。よし。イーウィー吹いて。宝珠さんはフルートにしようか」
「あ。はい」
「持ってきてる?」
「持ってきてます」と私。
「銀管、金管の現代フルートと、木管のバロックフルートを持ってきてますが」
と宝珠さん。
 
「全部持ってきて。吹いてもらって音を聴いてどれにするか決める」
「分かりました」
 
「下やん。それでスコア作って」
「OK」
 
私たち3人が各々車に乗せていた楽器を取ってくる。フルートは銀管・金管・木管と聴き比べて、木管の音が好きと三宅さんが言ったのでそれを使うことになった。今回の制作では発案者の上島先生・雨宮先生が遠慮しているため、このふたりに次ぐ古いメンバーである三宅さんが音作りの中心になっている感じであった。
 
ということで、私と政子に宝珠さんも演奏に参加することになった。
 
それで演奏の方は下川先生が書いたスコア譜を元にプレイするのだが。。。。
 
「なんでみんなちゃんと譜面通りに弾かないの?」
「ええ? ここはこっちの方が格好良くない?」
「ひとりだけで演奏してるんじゃないんだから。全体のハーモニー計算してるんだから」
 
「提案。ここはこうした方が良いと思う」
 
といった感じで、演奏スコアが定まるのに時間が掛かった。私はこういうスタイルの収録はもっと激しいやりとりがあるのをサウザンズの音源制作で体験して慣れていたが、政子はどうだろうと思って横顔を見る。すると、メンバー間のやりとりを何だか楽しそうに見ている。これなら大丈夫かな。
 
結局、スコアが固まるまで5時間くらい掛かった。
 
そして収録は一発でOKということになった。
 
「何だか楽しかった。昔もこんな感じで議論しながら作ってたんですか?」
と政子が訊くと。
「高岡がいないから半日でまとまったね」
と海原さん。
 
「ああ、高岡は妥協ってものを知らなかったから、始まるまで一週間ひたすら議論なんて時もあった」
「加藤ちゃんが、発売予定があるから、何とか落とし所を作ってくださいって泣いて頼んでたね」
「すごーい。そんなに音にこだわるんだ?」
「いや、ただの気まぐれ。言ってることは結構コロコロ変わってたし」
「あらら」
 
その後、演奏に合わせて歌を吹き込む。まず最初に私と政子の歌を吹き込んだが、一発OKになった。その後、演奏と歌をミックスしたものを聴きながら、支香さんと宝珠さんに雨宮先生の女声を加えた3人のコーラスを入れた。
 
そういう訳で、4月3日の1日で無事『疾走』の収録は終わったのであった。
 

4月4日。『100%ピュアガール』の前奏ピアノソロの収録をすることになる。政子が弾けたら政子の演奏で、不合格ならそこは月丘さんが弾くということにしていたのだが
 
「じゃ弾いてみて」
と言われて政子が弾くと
 
「おお、見違えた」
と言われる。
「2日置いただけで随分上達したね」
「私天才ですから」
「おお、自信家だ」
「うんうん。マリちゃんはそれでいいね」
 
ということで、2回練習で演奏した後、本番は一発でOKになった。
 

「今日は4月4日、オカマの日だね。ケイちゃんお祝いとかするの?」
「しませんよー。うちは普通に3月3日、4月3日に雛祭りしました」
「へー。何するの?」
「雛人形飾って、白酒飲んで、ひなあられ、ひなケーキ食べて」
 
「なんか、ケイちゃんみたいな傾向の子の中には『自分は女』という意識の子と『自分は男でも女でもない第三の性』みたいな意識の子がいるよね」
 
「ですね。MTXとか第三の性、第四の性、第五の性、みたいな言い方もありますが、実は人の数だけ性別は存在するんじゃないかという意見もあります」
「ケイちゃんは『女の子』意識なんだ?」
「自分がどちらで生きるべきかとか、人前で女の子として行動すべきか男の子として行動すべきか、といった部分については揺れてた時期もありますけど、自分の性別意識としては基本的にはそちらですよ」
 
「物心付いた頃からずっと?」
「ええ、まあ」
と答えると、政子がキラキラした目をしている。
 
「公式にはケイって大学2年の時に性転換手術を受けたことになってるけど実は生まれた時から女の子だったのでは、という説もありまして」
と政子。
 
「勝手に変な説を作らないこと」
「でも以前集まった時に古い友達が言ってたんですよね。ケイのおちんちん見たことのある子って、ほとんどいないって」
「女の子の友達には見せないんじゃない?」
「いや、男の子の友達の中で、ケイのおちんちんを目撃した子は存在しないみたいなんです。女の子では私も含めて5人くらいいるんですけどね。だから私たちが見ていたのは実はダミーではないかと」
 
「そんな馬鹿な」
 

4月5日の午前中。政子は図書館に行くと言って大学に行っていたが、私は疲れが溜まっていたので、マンションで寝ていた。そこに電話が掛かってきた。
 
「○×医院と申しますが」
「はい」
「唐本様でいらっしゃいますか?」
「はい」
 
それは私が大学1年の時に去勢手術を受けた病院だった。3年も経っているのに何だろう。
 
「当医院が閉鎖されることに伴う、冷凍精液の○○病院への移管について先日照会頂いたのですが、調べてみたのですが、該当する精液は冷凍庫の中に存在していないようです」
「はあ?」
 
何だか話がさっぱり見えなかったので思わず聞き直した。
 
「あ、えっと3年前の5月にご主人が不妊になる治療を受けるというので、その直前に採取した精液の保存を依頼していた、とおっしゃってましたよね」
「は、はい」
 
と私は反射的に答えてしまったものの、何だそれは?と思った。
 
「しかし当医院にはご主人の唐本冬彦様の名前の精液はリストにありません。それで先代の院長に連絡して確認した所、前院長も記憶が不確かということでしたが、確かに精液の冷凍を依頼されたものの、実際に顕微鏡で検査してみた所、中に活動している精子がほとんど存在しなかったので、これでは冷凍しても意味無いですと回答した気がするということだったのですが」
 
私は何が何だかさっぱり分からなかったが、どうも政子が何らかの方法で私の精液を採取して、それをこの病院で冷凍保存してもらおうとしたようだと思われた。でも私、射精したことあったっけ?? 寝ている間に密かに搾り取られていたのだろうか?
 
電話の相手は私を政子だと思っているようだ。私が女声で応答しているし、そもそもこの時間帯、男性は仕事などで外に出ていて家にいるのは主婦とかであろう。FとMTFのレスビアンなんてのは簡単には説明できない関係だ。そしてどうも政子は「唐本政子」の名前でこの件を依頼したようだということも何となく把握した。そしてこの病院は閉鎖されるらしい。「前院長」などと言っているので、院長が交代したのだろうが、その前院長はまだ40代のはず。おそらくは経営上の問題が生じたのだろう。
 
「あ、えっと精液をどこの病院に移管してくれって頼んだんでしたっけ?」
「え? ○○病院ですよね?。実際、うちで保管している精液は当医院の閉鎖に伴い基本的には全部そちらに移す予定なのですが、そういう訳で唐本様の精液は存在しないので、移管のしようもないので、そのことをご連絡しに電話を差し上げたのですが」
 
「分かりました。わざわざご連絡ありがとうございました」
「はい。それでは失礼します」
 
私は少し考えてみた。そして度々、政子が27歳になったら子供産むとか、タネの当てはあると言っていたことを思いだした。ところが政子が冷凍依頼したという私の精液には活動性のある精子が入っていなかったという。それを当時病院側はこちらに伝えたはずということのようだが、何かの手違いできちんと政子に伝わっていなかったのだろうか。政子は思い込みが激しいので本人の都合の良いように記憶が変容していたのかも知れない。私は政子の思いに涙が出て来た。
 
私は1分くらい考えてから、若葉の携帯に電話した。
 
 
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【夏の日の想い出・ピアノのお稽古】(下)