【夏の日の想い出・ピアノのお稽古】(上)

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2013年2月23日(土)。ローズ+リリーのこの年最初のライブを名古屋チェリーホールで行った。
 
昨年ローズ+リリーは4回、一般観衆の前で歌っているが、まともなチケットの売り方をしたのは12月の大分公演だけで、今回の名古屋公演は実質的にはローズ+リリーの復帰第2段の公演となった。そこで★★レコードからはローズ+リリー担当の氷川さんだけではなく、上司の加藤課長も一緒に名古屋まで来てくれていた。
 
最後の曲『夏の日の想い出』を私のピアノだけの伴奏で2人で歌いお辞儀をして舞台袖に引き上げてくると、スターキッズの宝珠さんが私たちふたりをハグしてくれたし、私たちは他のスターキッズの面々、氷川さん、加藤課長、そして美智子と握手した。(幕間で歌ってくれた鈴鹿美里は中学生なので出番が終わってすぐスタッフの車でホテルまで送って行っている)
 
私たちは会場を出た観客に捕まらないよう、すぐに用意していたマイクロバスで会場を後にした。名古屋郊外、長島スパーランド近くの小さな居酒屋を貸切りにして打ち上げをした。政子は「取り敢えずひつまぶし3つ」などと頼んでいた。
 
「しかし、ピアノって本当に表情のある楽器なんですね」
と加藤課長が言う。
「多数の楽器で伴奏するのも華やかですが、ピアノだけで伴奏しても結構それだけで華やか」
 
「ああ。ケイちゃんが最後に弾いた『夏の日の想い出』ですね」
「そうそう。ケイちゃんにしても月丘さんにしても山森さんにしても上手い」
と課長が言うので
 
「待って下さい。私を月丘さんや山森さんと並べたら失礼です。私は手慰み、月丘さんや山森さんはプロですから」
と私は言う。
 
「そんなにレベル違うんだっけ?」
「いや、私と山森さんを並べたらいけません。私はプロの下っ端、山森さんは本物のプロですから」と月丘さん。
「そんなに違うんだっけ!」と加藤課長。
 
宝珠さんが解説する。
「加藤さん、野球とかで言えば、山森さんは大リーグのイチロー、月丘君は日本のプロ野球チームの普通のレギュラークラス、ケイちゃんは甲子園に出てきた高校野球チームの四番バッターといった感じですよ。ケイちゃん、ツッキーごめんね」
 
「山森さんって、そんな凄い人だったんだ!」
 
「それ、褒めすぎ〜」と言って山森さんは笑っている。
 
「山森さんは音楽大学のオルガン科をトップで卒業してますからね。私なんか一応音楽大学出だけど、ピアノ科落ちて打楽器科に回された口だから」
と月丘さん。
「私はまともにピアノを習ったことないです」
と私が言うと
 
「いや、独学であれだけ弾けたら凄いよ」
と宝珠さんがフォローしてくれる。
 
「いや、うちも娘がピアノ習ってるけど、なかなか上達しなくて」
と加藤さん。
「やっぱり、いいピアノで練習させないといけませんかね〜」
 
「そうですね。私の家にはピアノ無かったですし。エレクトーンばかり弾いてました」と私。
「私も自宅ではエレクトーンですね。一応自宅のピアノはスタインウェイのA-188ですが」
「A188ですか!さすが」と月丘さん、宝珠さん、ヤスに私が声を挙げたが、他の人はこの名前を聞いてもどんなピアノか想像が付かないようだ。
 
「パイプオルガンの方は普段はなかなかこないだみたいな大型のものは弾けないので、先日は貴重な体験をさせてもらいました」
と山森さん。
 
「まあ、パイプオルガンが自宅にある人って、あまり無いしね」と宝珠さん。「うん。聞いたことない」と山森さんも言う。
 
「うちは姉貴の部屋にアップライトピアノがあったけど、僕はなかなか弾かせてもらえなくて。ピアノ教室に通い始めたのも中学になってからでしたし」
と月丘さん。
 
「ああ、男の子はなかなか教室に通わせてもらえないよね。ケイちゃんも教室に通いたいけど、通わせてもらえなかったって言ってたね」
「ええ。男の子が通ってどうするとか言われたから、ああ、女の子だったら良かったのに、とまた思ってました」
 
「あ、私は男の子だったら、ピアノ教室なんて通わなくて済んだろうにと思ってた」
と政子。
 
「マリちゃんもピアノ習ってたんだ?」と加藤さん。
 
「小学2年生頃に止めたんです。家にアップライトピアノあったけど。私が全然弾かないから従妹にあげちゃった」
 
「じゃ、マリちゃん、今はもう全然ピアノ弾かないの?」と加藤。
「去年、一度弾いたよね。Rose Quarts Plays Classic だったっけ」と私。
「『エリーゼのために』を4小節だけ弾いたけどボロボロだった。二度と弾かない」と政子。
「練習すれば弾けるようになるよ」
「パス。私、ヴァイオリンと歌だけでいいや」
 
「でもケイちゃんのピアノ、完全独学じゃないよね。独学の人にありがちな我流っぽさが無いもん」と山森さん。
 
「基本的な指使いはエレクトーン教室に通っている姉から教わったんですが、小学校の時の先生でかなり熱心に教えてくれた人がいたもので。家でエレクトーン弾いてるだけでは、ピアノは弾けなかったでしょうね。鍵盤の重さが全然違うから」
 
「その先生にピアノ教わりながら女装も教わったとか?」と政子が唐突に言う。
「え?その頃のこと話したことあったっけ?」
と私はうっかり言ってしまった。
 
「ああ、やはり図星か」
「しまった。引っかかった」
「怪しいレッスン受けてたのね」
「そんな少女漫画みたいなことはしてないよお」
「なるほど。少女漫画みたいなことしてたのか。また拷問のネタができた」
 
「あんたたちさあ。こういう所ではいいけど、ラジオの生放送中に拷問とか縛りとか言っちゃだめだよ」
と宝珠さんがたしなめた。
 
「だってよ、冬」
「拷問とか鞭とか主として言ってるのはマーサだと思うけど」
 

3月6日(水)。ローズクォーツの企画アルバム『Rose Quarts Plays Girls Sound』
が発売になった。このアルバムの制作期間中、ローズクォーツのメンバーは雨宮先生の指示でずっと女装させられていたのだが、このアルバムの発表記者会見でまたまた女装させられてしまった。
 
「あの・・・。みなさん生き方を変えられたのでしょうか?」
と記者から質問される。
 
「雨宮先生とケイの女装癖が伝染したのかも知れません」
と女装がまんざらでもないような顔をしたタカが答える。
 
「あら、私は女装してないわよ。ただ女物の服を着ているだけ」と雨宮先生。「私は女ですから、これは女装ではなく普通の服装です」と私。
 
「みんな可愛くていいですよ」と政子。
「音源制作中はずっとこんな格好だったのですが、その期間中、ヤスとマキは奥さんが目を合わせてくれなかったそうです」
 
「サトは帰宅途中、何度も警官に職務質問されたらしいですね」
「自宅に帰るのもこの格好だったんですか?」
「アルバム制作中は、ずっと自宅でも女装しておくように言われまして」
「それは徹底してますね」
 
「やはり女の子バンドの曲を演奏するんだから、ちゃんと女の子の気持ちになって演奏しなくちゃね」と雨宮先生。
 
「トイレなんかどうしてたんですか?」
「私は共用トイレを使ってました」とタカ。
「男子トイレに入って行ったら『おばちゃんこっち違う』と言われました」とヤス。「外では我慢してました」とサト。
 
「まあ、サトが女子トイレに入ってたら、痴漢として通報されて新聞に載ってたかも知れませんね」とタカ。
 
そういう訳で質疑応答はもっぱらメンバーの女装のことで終始して、アルバムの中身についてはほとんど触れられなかったのであった。
 

その日の夕方。私は政子から頼まれてヴァイオリンの弦を買いに楽器店に行った。するとそこでバッタリ加藤課長と遭遇した。
 
「おや。こんばんは」
「こんばんは。奇遇ですね」
「ケイさんは何を買いに?」
「ヴァイオリンの弦を」
「あれ?ケイさん、ヴァイオリンも弾くんでしたっけ?」
「音が出せるって程度ですね。マリが弾くもので。今日もマリに頼まれて買いに来たんです。眠いから帰って寝るから買物しといてと言われて。このメモ渡されました」
「おやおや。。。。うーんと O L I V ?」
「ええ。オリーブという弦の名前です。ガット弦ですね」
「ガット?」
 
「ヴァイオリンの弦には主としてガット弦とナイロン弦があります。ガットというのは羊の腸ですね」
「へー。やはりナイロンより音がいいんですか?」
「音はいいですけど、扱いにくいです。少なくとも初心者向きじゃないですね。ナイロン弦に比べて高いし、寿命も短いし」
「ああ、そうなんでしょうね」
「ガット弦ではドミナントという銘柄が有名なのですが、最高に良い音が出る代わりに凄く寿命が短いです」
「わあ」
 
「ナイロン弦の方が基本的には扱いやすいから、普通の人にはこちらがお勧めです。ドイツ語でペルロン(Perlon)とも言います。時々ペルロンとナイロンを別のものと思っている人もいますが、ただの言語の違いです」
「へー」
「マリも日常的な練習にはナイロン弦を使ってるんですけどね。音源制作とかステージで演奏する時はガット弦を使ってます。こちらの方が演奏にのめり込みやすいんだって言ってますね」
「ああ。やはり良いものを使うと、それだけ演奏しやすくなるんですね」
 
「まあ、道具ってだいたいそういうものですよ。毛筆の筆なんかもそうです。小学生の習字用に売ってるような安い筆では、やはりまともに書けないです。まともな字を書くにはまともな筆が必要です。『弘法は筆を選ばず』と言いますが、この言葉しばしば、弘法大師はどんな筆ででも良い字を書くという意味に解釈されてますが、そんなことないです。むしろもうひとつの解釈、弘法大師は良い筆を一瞬で見分けるという意味に取りたいですね」
 
「ああ」
 
「あ、課長は今日は何を見に来られたんですか?」
「いや、実は娘がグランドピアノ欲しいと言ってて」
「ああ、こないだの打ち上げの時もおっしゃってましたね」
「不勉強でどんなのがいいのかさっぱり分からなくて娘と会話が成立しないのでちょっと下見と予習をと思って」
 
「課長はピアノは弾かれないんですか?」
「どれがドかというのが分かる程度です」
「あらあら」
 
その時、私を見知っている楽器店の店長さん笑顔でこちらにやってきた。私は今すぐ選ぶ訳ではないのだが、グランドピアノを少し見せてもらえないかと言った。店長さんはどうぞどうぞとピアノコーナーに案内してくれた。
 
「お嬢さん今何歳ですか?」
「小学4年生、4月から5年生なんですよ。習うのは3歳の頃から習っていたのですが」
「今、おうちにあるのはアップライトピアノ?」
「です」
 
「じゃ、まずグランドピアノとアップライトピアノのいちばんの違いを実演してみせましょう」
と私は言って、普及型のグランドピアノの蓋を開け、ラの音を同音連打してみせた。
 
「今だいたい1秒に12回くらい打ちました。私の実力ではこのくらいが限界です」
「はい」
「これをアップライトでやるとですね」
 
と言って私は少し離れた壁際にあるアップライトピアノを蓋を開けてやはりラの音を同音連打してみせる。
 
「あれ?」
「分かります?」
「こちらはゆっくり打つんですね」
「アップライトはここまでしか打てないんですよ。だいたい1秒に7回くらいが限度です。グランドピアノだと上手な人は1秒に14回打てます」
「へー」
 
「ハンマーの仕組みが違うので、アップライトピアノの場合細かい連打ができないんですよ。グランドピアノはハンマーで弦を下から打つので打った後重力で下に落ちて戻ります。ですから細かい連打が可能ですが、アップライトの場合、横から打つのでスプリングなどの力で戻します。機械的な戻し方をするので、どうしても遅くなるんですよね」
「なるほど」
「ですから、グランドピアノでは弾けてもアップライトピアノでは弾けない曲があります」
「おお」
「ですから、ある程度ピアノが上達するとアップライトではもう練習できなくなるんです」
 
「そうだったのか。やっとグランドピアノを買わなければいけないという意味が分かりました」
 
「アップライトピアノはピアノではないとか、グランドピアノとアップライトピアノは別の楽器だとおっしゃる方も多いですよ」
「わあ」
 
「課長、車はシルフィでしたよね?」
「ええ」
「たまに軽とか乗りません?」
「女房の車がムーブなんで時々運転します」
「グランドピアノとアップライトピアノは、シルフィとムーブくらい違うんですよ」
「それ凄く分かりやすいです! 確かに別物だ」
 
「あとペダルも違うんですよ」
と言って私はグランドピアノの真ん中のペダルを使って少し演奏してみせる。
 
「音が残りますね」
「です。このグランドピアノの真ん中のペダルはソステヌートペダルと言って音の余韻を残すんです。アップライトピアノにはこのソステヌートペダルが無いんです」
「え?じゃ、アップライトピアノの真ん中のペダルは?」
「こちらはマフラーペダルと言ってですね」
 
と言い、私はそのペダルを使ってアップライトピアノを弾いてみせる。
「音が凄く小さい」
「はい。これは夜間練習用なんです。でもちょっと音が小さすぎますよね」
「確かに」
「むしろ練習している本人が聞きづらいです」
「確かに!」
 
「ピアノ教室はヤマハですか?カワイですか?」
「ヤマハです」
「もしピアノもヤマハで選ぶなら、CシリーズかSシリーズですね」
「どう違うんですか?」
「Cシリーズは安い、Sシリーズは音が良い」
「シンプルですね!」
 
この店にC1X, C3X, S6B が置いてあったので、各々のピアノで私は『トロイメライ』
を弾いてみせた。
 
「S6B、凄く音がいいでしょう?」
「いや、済みません。私の耳ではさっぱり分かりません。でもその値段はさすがに予算オーバーです」
と加藤さんはS6Bの上に置いてあるプライスシートを見て言う。
 
「あ、でも最初に弾かれたピアノより、次のがいいかなと思いました」
 
「最初に弾いたのはCシリーズの中でもいちばん小さいC1Xですが、やはりこのサイズでは響きに限度がありますね。Cシリーズでも、できたらC3X以上がいいです」
「3X以上ですね」
と言って加藤さんはメモしていた。そんな会話をしながら、私は何だか突然自分でもグランドピアノが欲しくなってきた。でも買ってどこに置こうかな?
 
「後はお父様の懐具合と、お嬢さんの腕とのバランスで。でも数年単位で買い換えるエレクトーンと違って、グランドピアノはメンテさえ良ければ一生物ですからね。懐具合に余裕があったら、良いものを買ってあげてください」
 
「私、薄給ですよ〜。家のローンも抱えているし」
「女装してアイドル歌手とかやって売り出してみます?曲提供しますよ」
「女房から離縁されます」
 

その日、加藤さんとは楽器店の後で更に喫茶店でコーヒーを飲みながら1時間ほど話してから別れた。帰宅すると、政子が居間のソファの上で下着姿で詩を書いていた。
 
「ああ、冬〜、お腹空いたよ〜」
「はいはい。今御飯作るね。はい、こちらオリーブの弦」
「サンキュー。御飯食べてから張ろうっと」
 
「寝た?」
「うん。ぐっすり寝た。でも冬遅かったね」
「ああ。楽器店で加藤課長と遭遇して話し込んでたから」
「へー。加藤さん、何か楽器するの?」
「娘さんがグランドピアノ欲しいと言ってるらしいんだけど、グランドピアノ自体が良く分かってないんで娘さんとその件で会話が成立しないというので下見と勉強に来たんだって」
「ああ、それで色々教えてあげてたのね」
「うん。アップライトピアノとグランドピアノの違いとか」
 
「ふーん。アップライトピアノとグランドピアノか・・・・要するに弦を水平に張ってるか垂直に張ってるかの違いかな」
「それが根本にあるけど、結果的にハンマーの構造が全く違う。だから全く別の楽器と思った方がいい」
 
「そんなに違うんだっけ?」
「同じように真ん中に穴が開いた食べ物でもマカロニと竹輪くらい違う」
「それは大きな差だ!」
 
政子には基本的に食べ物で説明するのが理解してもらいやすい。
 
「グランドピアノは1秒間に14回同じキーを押せるけど、アップライトピアノは1秒間に7回しか押せない。テンポ100の曲で言うとアップライトピアノでは16分音符までしか弾けない。グランドピアノは32分音符が弾ける」
 
「だったら、アップライトピアノでは唱歌みたいなのしか弾けないのでは?」
「そそ。だから小学生の音楽の授業で使う用くらいに思っておいた方がいいよ」
「なるほど」
 
「あと、グランドピアノの真ん中のペダル、ソステヌートペダルに相当する機能がアップライトピアノには無い」
「へー。何かよく分からないけど、機能が無いというのは辛いね」
 
「だからピアノがある程度上達するとグランドピアノがどうしても必要になるんだよね」
「でもグランドピアノ高いよね」
「うん。ヤマハのC3Xの場合でも220万するからね」
「ピアノの上手な娘がいたら、パパも大変だね」
「うん。それで加藤さんも悩んでるみたいで」
 
「あと、狭い家には置けないよね」
「それもあるね」
「うちの防音室には電子ピアノしか置いてないもんね」
「まあ小型のグランドピアノなら入るんだけどMIDIで鳴らせるというのもあってクラビノーバを選択したんだよね」
 
「クラビノーバとアップライトピアノなら、どちらがいいの」
「絶対的にクラビノーバ。クラビノーバの鍵盤やハンマーはグランドピアノと同じものだから」
「あ、そうだったんだ」
「クラビノーバという楽器はグランドピアノの弦だけを電子装置に置換したものなんだよ」
「そんな凄い楽器だったのか」
「安い電子キーボードとは違うよ。だてに50万もしない」
 
「じゃグランドピアノ置けないような狭い家ならクラビノーバを買えばいいね」
「クラビノーバを買う人の大半はそういう目的だと思う。やはり良い楽器で練習してないと、上達しないんだよね」
 
「ふーん。私がピアノ挫折したのもアップライトの限界かなあ」
「ふふふ。かもね。マーサって結構楽器の本質を引き出すから」
「ヴァイオリンも最初に冬や七星さんと一緒に買いに行った50万のヴァイオリン、1ヶ月で限界に達したからなあ」
「良いヴァイオリンに変えたらマーサの演奏が見違えたね。最初に買ったのは弾き方を思い出すための楽器という感じになっちゃった」
 
「よし。グランドピアノ1個買って来て少し練習してみよう」
「おぉ」
「楽器店まだ開いてる?」
「もうそろそろ閉まるかな」
「じゃ明日朝から付き合ってよ」
「いいけど」
 

そういう訳で、私と政子は翌日の午前中、昨日加藤課長と遭遇した楽器店に行った。
 
政子は楽器店に入り、店長さんを見つけると言った。
「お早うございまーす。グランドピアノ1個下さい」
 
ははは。言うと思った。店長さんも政子の突飛な言動にはかなり慣れてきているので、にこやかな笑顔で
「どのクラスがお好みですか?」
と『私』に向かって訊いた。
 
「外国製のスタインウェイとかベーゼンドルファーとかも音がいいけど、やはり耐久性を考えると国産のヤマハかカワイだと思うよ。少し弾いてみる?」
と私が言うと、政子は少しやる気を出して店長に勧められて、ヤマハのC3XとカワイのGX-3で(右手だけで)『猫ふんじゃった』を弾いてみた。
 
「うーん。ヤマハの方が好きかなあ。響き方がこちらの方が私の好み」
 
「じゃさ、そこのS6Bも弾いてみない?」
と言って私はひとつ上のランクのピアノも勧めてみる。正直なところ実は自分でこれが欲しくなってきていたのである。政子はYAMAHA S6Bの前に座り、やはり片手で『猫ふんじゃった』を弾く。
 
「いい! このピアノ凄く良い!」
「でしょ」
「これ欲しい。冬、買ってよ」
「私が買うの?」
「お誕生日のプレゼント」
「それってまだ3ヶ月先だよ」
「あ?私の誕生日覚えてた?」
「覚えてるよ〜。6月17日午前11時18分だよ」
「よく時刻まで覚えてるな」
 
「まあいいよ。買ってあげるよ。店長さん、このS6Bが欲しいんですけど、納入どのくらい掛かりますか?」
「あ、はい。だいたい3週間くらいかと」
「私、明日欲しいなあ」
「そんな無茶言わない」と私はたしなめる。
「できるだけ早く納入できるように頑張りますから」と店長さん。
「済みませんね」
 
私が配送伝票にマンションの住所を書こうとしたら
「あ、マンションじゃなくて、家の方に」
と政子が言う。
 
「あそこに置くなら防音工事とかが必要だよ。住宅街だから」
「うん。防音工事よろしく〜」
 
私は頭を抱えた。
「分かった。分かった。じゃピアノ代私が出すから防音工事代の方はマーサ出してよ」
「うん。いいよ」
 
「ピアノのお支払いはどういたしましょうか?」と店長さんが訊く。
「現金で。振込みます。ヴァイオリンやフルートを買った時の口座でいいですか?」
「はい!」
 
私が携帯から振込操作をしていたら政子が
「あれ?意外と安いんだね。50万?」などと言う。
「500万だよ」
と私が笑って答えると
「ひぇー!高そうなビアノだと思ったけど、そんなにするのか」
と驚いていた。
「じゃ、今晩たくさん愛してあげるね」
「はいはい」
 
店主さんが苦笑していた。
 

防音工事の方は、昨年事務所の移転をした時に防音工事をしてくれた業者に連絡してみたら、うまい具合にキャンセルがあったので来週なら工事ができるということであったので、お願いすることにした。
 
「あ、でも防音部屋を作ったら、ヴァイオリンの練習するのにもいいなあ」
などと政子は言っていた。グランドピアノを置く部屋は今私のエレクトーンを置いている10畳の部屋である。私たちはここを「仕事部屋」と呼び、編曲などの作業をしたり、政子がカラオケで歌の練習をしたりするのに使っていたが、夜間は楽器やカラオケの音楽の音をあまり出さないように控えていた。防音工事をすると、それが夜間でも作業できるようになるので好都合でもあった。
 
「でも、お父ちゃんたち帰って来たら3部屋占有してるのはまずいよね」
と政子が心配そうに言う。
 
両親が海外に出て不在であるため、4LDKのこの家で、私たちは両親のベッドルームを除いた3部屋を使い、1階の10畳の部屋を仕事部屋、2階の6畳の部屋を私と政子の寝室、4畳半の部屋を物置のようにしていた。お父さんの帰国が決まってから主として片付けていたのが、寝室と物置である。(友人を泊める時は両親のベッドルームを貸していた)
 
「物置にしていた4畳半はもうほとんど片付いているし解放できるでしょ。お父さんたちが6畳の方も使いたいようだったら、私たちのベッドを4畳半の方に移動すればいいよ」
「そうだね」
「あるいは仕事部屋にベッドも置いちゃうか」
「グランドピアノも置くのに入る?」
「計算してみたけどギリギリ入る。グランドピアノ弾いてる時はとても寝られないだろうけどね」
「寝てる冬を起こすのにはいいな」
「猫踏んじゃったで?」
「Are you sleeping, Are you sleeping, My Darling, My Darling,
Morning bells are ringing, Morning bells are ringing.
Ding, dang, dong. Ding, dang, dong.」
と政子は歌って答えた。韻を踏んで Darling にしたようだ。
 
「なるほど起こすのにはぴったりの曲だね」
 

3月11日(月)。震災から2年の月日が経った。
 
日本全国で14:46に多数の人たちが黙祷を捧げる。私と政子も宮城県石巻市鮎川のフェリー乗り場のそばで、サイレンに合わせて黙祷を捧げた。
 
そして政子はヴァイオリン、私はフルートを取り出して、まずはモーツァルトの『レクイエム』の中で最も有名な『Dies Irae』を演奏する。それから自分たちの曲である『神様お願い』と『帰郷』。それから釜石市の中学生を起点に広がっていった曲『地球星歌』、と演奏してから私はフルートを休んで宮城県民謡『斎太郎節』を唄う。政子のヴァイオリンは「エンヤトット」の部分を演奏する。それから政子が私にヴァイオリンを渡して『荒城の月』を歌うので私がヴァイオリンを弾いて伴奏する。そして最後は無伴奏・ふたりのデュエットで『サンタルチア』を歌った。
 
50人くらいに膨らんだ聴衆から拍手が来た。「マリちゃーん」「ケイちゃーん」
と声を掛けてくれた人もあった。初めの方で持ち歌を歌ったので結構気付かれやすかったこともあろう。私はお辞儀をしてから聴衆に向かって語った。
 
「こんにちは。いつもは名乗らずにそのまま立ち去るのですが今日はちゃんと名乗ります。ローズ+リリーと申します」
拍手が来るので、あらためてお辞儀をする。
 
「何だか何も進まない内に2年経っちゃったなというのがあります。私は震災の時、仙台のスタジオに居て、物凄い揺れに驚愕しました。マリは東京に居たのですが高層マンションの21階で寝てたので無茶苦茶揺れて慌てて地上に降りたそうです。あれから何かできないかなと思ったのですが、レコード会社の企画に乗って避難所絨毯爆撃ライブをしたり、先ほども演奏した『神様お願い』の売上げを寄付したりもしましたが、どこまでお役に立てたかは不明です。沢山の人たちが被災地に入ってボランティアで頑張っていますが、私とマリは歌歌いなので、歌歌いなりにできることは何だろうと考えたら、歌を歌うことでした」
 
「それで実は震災後からだいたい月に1回、東北のどこかでこんな感じのゲリラライブをしてきたのですが、私たち自身の活動が本格化するので今日でこういう形のライブは打ち上げにさせてもらおうかと思っています。それで最後のライブを聴いてくださったみなさんを、もし良かったらこのあと福島市内で行う突発ライブにご招待したいと思います。マイクロバスを用意していますので、もしお時間の取れる方がありましたら、一緒に来られませんか?」
 
聴衆がざわめく。
 
「なおライブは19時から2時間くらいの予定。終わった後、帰りのバスをここ鮎川まで運行します」
 
「行きます!」
と言う声が多数あがる。
 
ひとり高校生っぽい女子が
「済みません。友だち呼んできたいのですが」
と言ってきた。
 
「30分後に出発します。でも定員オーバーしたらごめんなさい」
「すぐ来るように言います!」
 
そんな感じで、定員29人のマイクロバスが満員で鮎川を15:45に出発した。この他に折角福島まで行くならついでに他にも回りたいから自分の車で行きたいという人に「名前入り整理券」を渡した。これが5組12人あったので鮎川で拾ったのは合計40人である。
 

同じくらいの時刻、仙台市内某放送局前で、マキとタカがギターとベースの弾き語りでライブをして、集まった観客20人ほどと一緒にマイクロバスに乗り込み、福島を目指した。気仙沼市内ではサトとヤスがキーボードを弾きながらライブをして、やはり20人ほどの観客と一緒に福島へ移動開始した。
 
盛岡市内ではスターキッズの近藤さんと鷹野さんのギター&ベース、陸前高田では宝珠さんのフルートと月丘さんのキーボード、大船渡では宮本さんのギターと酒向さんのベースで、それぞれ観客を集めた。
 
そして会津若松市では山森さんの電子ピアノと香月さんのヴァイオリン、福島市内で博美と小春の「偽ローズ+リリー」、南相馬市では琴絵と仁恵の「千葉ペア」が各々歌を歌ってから人を集めて、それぞれ福島を目指した。(琴絵はカスタネットを打ちながらダンスして仁恵がキーボードを弾き語り)
 
このようにして集客したのが合計9箇所、約300人であった(バスに乗せる代りに名前入り整理券を発行した人を含む)。
 
この他、こういう「内輪のメンツ」が行けなかった町でも、役場の人が町内放送などで呼び掛けて、岩手・宮城・福島の計十ヶ所で人を集めてバスを仕立てて、みんな福島を目指した。
 
このバスに乗った人たちが約250人であった。
 
福島市内のFM局で待機していた美智子と氷川さんは各地の関係者と協力してもらった役場からの報告に基づき残席を422枚と計算。「400枚でお願いします」
と局アナさんにお願いした。
 
16時。福島のFM局で臨時にケイの肉声の録音を流す(私自身は鮎川から福島へのバスで移動中)。
 
「こんばんは。ローズ+リリーのケイです。今日3月11日は私にとっても日本にとっても特別な日になってしまいました。2年前の今日、私は仙台のFM局に居て生放送中に被災しました。あの日のことは一生忘れません。それで2周年の今日突然ですが、追悼と復興の応援のため、岩手・宮城・福島の地元の人を招待してローズ+リリーのライブをしたいと思います。もしお時間の取れる方はいらしてください。入場は無料、場所は福島市内某室内ホールです。なんかいつも突発ライブばかりで済みません」
 
その後、局アナさんが補足して詳細を告げる。そして整理券の配布方法についてこのように説明した。
 
「福島県内の新幹線駅の改札前に、FM**の社員がプラカードを持って立っていますので、その人から必要な数の整理券を受け取ってください。整理券は1人に最大3枚までお渡ししますので4人以上で行かれる方は2人以上で受け取りに行って下さい。お渡しする時に苗字と誕生日をお尋ねします。入場する時は運転免許証や学生証など、生年月日の入った身分証明書が入場する方全員必要です。整理券は全部で400枚で、オンライン発行し、無くなり次第終了です。配る駅は福島県内の新幹線の駅、新白河・郡山・福島の3箇所です。予想としては今から30分以内には無くなると思います」
 
最後にケイの肉声をまた流す。
 
「そういうことで、いつも突発的なことして済みません。運良く整理券を確保できた方は会場でお会いしましょう」
 

実際には各駅ともかなり並ぶ列を残した状態でソールドアウトしたらしい。折角並んだのにゲットできなかった人(ソールドアウトした時点で並んでいた人)の中で希望者には5月の仙台ライブの優待権を配布することにして名前と住所を書いてもらった。(優待額は100円だが、それより席が確保される意義の方が遙かに大きい。仙台公演は既に売り切れていて競争率10倍であった)希望した人は3駅で合計約80名-200枚分であった。
 
そうして18時までに福島市内の奏楽堂前に岩手・宮城・福島の各地から約550名と福島県内の新幹線駅から400名が集まってきた。実際には整理券を発行したものの来てない人もあったので、こうして集まった観客は約900名だった。(席は座席指定。自由席にすると700〜800人で実質満席になってしまう)
 
会場の外に100人近く、整理券を持たずに集まってきていたファンがいた。会場がどこかというのは公表していないのに、恐らくここだろうと推測して集まったファンのようであった(後日推測作業が行われた2chのスレッドを見て私も町添さんも『凄っ!』と感嘆した)。
 
そこでこの人たちを今回だけの特例処置して入場を認めることにした。
 
こうしてほぼ満席になった奏楽堂で、私たちはステージに並び幕が開くのを待った。客席では幕が開くのと同時に大きな拍手が起きるが、ステージ上にたくさん人が並んでいるのを見て、ざわざわとする。
 
ステージ下手の方に置いたピアノの前に座った美智子が『I Love You and I need you ふくしま』の前奏を弾く。そしてそれに続いてステージ上の全員で合唱すると、観客席の人たちも一緒に歌ってくれた。
 
1000人の観客とステージ上に並ぶ18人の「路上ライブ演奏者」とが一体になった。ステージから見ていると、涙を浮かべながら歌っている人もいる。私も涙が出てきた。この涙は悲しさよりも無力感の涙だ。私には福島の現状に対する激しい無力感があった。
 
演奏が終わると拍手。それに対してステージ上の18人も拍手した。
 
続いて、黒い留袖を着た、私の伯母たちが袖から出て来て三味線や太鼓を弾き始める。それに合わせて私たちは相馬盆唄を歌った。盆唄というのは元々亡くなった人を弔う唄だ。しかしここで唄う盆唄には特別な思いが入ってしまう。この相馬盆唄も知っている人が結構いるようで会場のあちこちから一緒に唄う声が聞こえた。
 
それでこの唄も終わると会場が拍手をするとともに、ステージ上の18人も拍手した。
 
「こんばんは。ローズ+リリーです」
と政子が挨拶した。今日のMCは自分にやらせてくれと政子が言ったので任せることにしたのである。
 
「災害から2年経って、それでも全然復興作業が進んでないし、ほんとに対策の遅すぎる国に対して怒りにも似た気持ちがあるんですけど、でも何もしてくれない国を頼りにしていても仕方ないです。私たちひとりひとりは大した力ないけど、でもやれる所から少しずつでもやっていきましょう」
 
と言うと拍手が来る。
 
「それで今日のライブなんですけど、ごらんの通りPAを入れてません。ケイが属しているもうひとつのユニット、ローズクォーツは震災後の2011年6月に電気を使わない楽器を持って、避難所絨毯爆撃ライブなんてのをやったんですが、今日のステージも電気を使わない楽器を中心にして演奏をしたいと思います。あ、電気使わないと言っても照明は電気使わせてもらいます。私はロウソクでやろうよと言ったのですが、消防法で禁止なんだそうです。それにこんな密閉空間でロウソク使ったら酸欠で死んじゃうと言われました。ここで1000人集団酸欠死ってのは、さすがにまずいから、電気の照明使いますね」
 
などと言うと会場のあちこちから失笑が漏れる。政子はなぜ笑われたのかよく分からない顔をして、まだしばらくしゃべり続けた。その間に全員スタンバイする。
 
ドラムスセットに座ったサトの合図で前奏がスタートする。
 
私と政子は『神様お願い』を歌い始めた。
 
元々は沖縄の難病と闘う少女・麻美さんのために作った曲だが、震災後この歌をどれだけ歌ったろうか。私はまた涙が出て来た。政子も歌いながら涙を浮かべている。私たちは間奏部分でハグしあった。
 
観客は静かに手拍子も打たずに聴いてくれている。私たちはAメロBメロを繰り返した上で、サビを3回歌って曲を終えた。
 
大きな拍手が来る。政子が演奏者を紹介する。
 
「ベース、マキ」
「ギター、タカ」
「ドラムス、サト」
「足踏みオルガン、ヤス。以上ローズクォーツ」
「パーカッション、コト」
「コーラス、ロミ、ハル、トエ」
「そしてボーカル、ケイ、および私マリでした」
 
ひとりひとりに大きな拍手が来た。しかしコト(琴絵)はいいとして、ロミ(博美)、ハル(小春)、トエ(仁恵)などという略され方は本人達もびっくりのようだった。
 
「では次の曲。『去勢しちゃうぞ』」
と政子が言ったので、ヤスなどが「へ?」という顔をしている。
 
「そんな曲歌わないよ」と私は困ったように言う。
「あれ?『もうおちんちんは要らない』だっけ?」
「ちがーう」
「あ、そうか。『女の子にしてあげる』だ」
「違うって。次は『帰郷』」
と私が訂正する。
 
戸惑うようにざわめいた観客席も安堵するかのような空気に変わる。
 
「あ、そうか。去勢と帰郷って似てない?」
「似てません。サト、よろ〜」
と言ってサトに合図を送るので笑っていたサトがリズムをスタートさせる。
 
このあと私たちはこの編成で『帰郷』『カントリーソング』『遙かな夢』
『涙の影』『あの街角で』『A Young Maiden』『花模様』『天使に逢えたら』
といった比較的静かな曲を演奏していった。今日のコンセプトはローズクォーツで静かな曲、というもので実は仙台公演に向けての実験の意味合いもあった。
 
「それでは今日のゲスト。オープニングで相馬盆唄の伴奏をしてくださいました、若山鶴音さん、若山鶴風さん、若山鶴声さん、若山鶴里さんです。実はケイの伯母さんたちです」
 
先程は黒留袖を着ていた4人が今度は全員華やかな振袖を着て出て来た。鶴音さんがタカのマイクを取って発言する。
 
「ね。冬ちゃん、新潟で民謡教室に通って初段の認定状頂いたんでしょ?
若山冬鶴って名前を用意してるから、うちの一門に来て民謡に転向しない?あんたの母ちゃん、民謡辞めちゃったから、その代わりに」
 
「いえいえ。名前はありがたいですが、私が民謡に転向したらそこの舞台袖に居る人がショック死しますから」
「あらあら、人死にが出るのはまずいわね。じゃ、みんな行くよ!」
 
鶴風さんが胡弓、鶴声さんが尺八、鶴里さんが太鼓を担当して、鶴音さんが三味線の弾き語りで『斎太郎節』を唄い始めた。マイクを取られてしまったタカがマキの所に行って一緒に『エンヤトット』のバックコーラスを入れる。(鶴音さんにマイクを渡そうとしていたスタッフがどうしよう?という感じで悩んでいる風だった)私と政子は自分のマイクで鶴音さんに唱和した。
 
やがて伯母さんたちの演奏が『会津磐梯山』に移動した所で、私たちふたりとローズクォーツ、コーラス隊は下がる。私たちが休憩している間に伯母さんたちは『チャグチャグ馬っこ』『かんちょろりん節』『常磐炭坑節』『さんさ時雨』
と唄っていく。
 
そして伯母たちはこの民謡楽器の合奏で『キュピパラ・ペポリカ』の前奏を弾き始めた。元々無国籍な歌だが、民謡楽器で演奏すると、まるで日本民謡のようにも思えてしまうのが不思議だ。私と政子は手を取り合ってステージに出て行く。拍手が来る。お辞儀をして、私たちはこの『正調キュピパラ・ペポリカ』
を唄い始めた。こんな演奏は私たちも初めてだったし、観客も当然みな初めてであろう。
 
(これに刺激されたのかこの年秋の民謡全国大会に本当に『正調キュピパラ・ペポリカ節』で出て来た人がいた。編曲の許諾を求めるメールを頂いてびっくりした。ちなみに民謡の世界で『正調』とは『新解釈』とか『新編曲』といった意味にほぼ等しい)
 
大きな拍手があり、あらためて伯母たちを紹介し、伯母たちは下がった。
 
するとそこに突然鳴り響くパイプオルガンの音色。世界は一転して民謡から教会音楽の世界に転じる。この奏楽堂自慢のパイプオルガンを山森さんが弾く。そばにストップ操作係として仁恵が付いている。私たちはこのパイプオルガン伴奏に合わせて『アコスティックワールド』を歌った。
 
大きな拍手が来て、お辞儀をした後、政子が言う。
「今日は基本的に電気を使う楽器は使わないことにしているのですが、ただひとつ、パイプオルガンだけは例外として使わせていただきます。この楽器は電気使わずに動かそうとしたらパイプに空気を送り込むのにウルトラマンが何十人かで団扇で扇がないといけないらしいです。顔の広いケイに聞いてみたけど、ウルトラマンの友達はいないと言われたので」
 
客席に笑いが起きるが、政子は例によってなぜ笑われたのか分からない顔をして更にMCを続ける。
「今演奏したのは『アコスティックワールド』という曲ですが、続けてパイプオルガンをフィーチャーした・・・・あれ?フィーチャーだっけ?フューチャーだっけ?」
 
と政子が私に訊くので
「フィーチャーだよ。フューチャーは未来」
と答える。
 
「だそうです。で、そういう訳で『言葉は要らない』聞いてください」
 
政子が話している内に、後方でスターキッズが所定の位置に付きスタンバイする。山森さんのオルガン演奏が始まるのに合わせてギターやドラムスの音も始まり、私たちは1月に沖縄にキャンペーンで行ってた時に書いた曲『言葉は要らない』
を歌った。
 
「この曲は3月20日に発売になりますので、気に入ったら買ってください」
としっかり宣伝もする。そしてここで伴奏のメンバーを紹介する。
 
「リードギター、近藤」
「セカンドギター、宮本」
「ベース、鷹野」
「ドラムス、酒向」
「ビブラフォン、月丘」
「オルガン、山森」
「トランペット、香月」
「そしてサクソフォン、宝珠。以上スターキッズ&フレンズ」
 
各々に拍手、そして声援が飛ぶ。会場の半分はFM放送での呼びかけに反応して集まってくれたローズ+リリーの熱心なファンである。被災地の各地で人を集めた場合、ローズ+リリーを知らない人ばかり集まってしまい盛り上がりを欠くライブになる危険があると加藤課長が懸念し、それで半分はファンが集まるようなやり方を考えたのである。今回はそれがとてもうまく行っている感じだった。半分のファンに引っ張られて、一般の聴衆もツボで乗ってくれる。座席は新幹線の駅で集めた人たちと、各被災地で呼びかけた人をミックスした座席配置にしている。このあたりも座席指定で客を入れたからできたことだ。
 
ステージはこの後、このメンバーで『ネオン〜駆け抜ける恋』『夜間飛行』
『Spell on You』『夏の日の思い出』『聖少女』『涙のピアス』『甘い蜜』
『愛の道標』『ハッピーラブハッピー』といったリズミカルなナンバーを演奏し、最後に『事象の夜明け』というやや意味深な曲を演奏してから『影たちの夜』で締めた。
 
拍手の中お辞儀をして全員下がる。幕が降りる。アンコールの拍手が来る。これも半分ファンを入れているから確実にアンコールしてもらえるという確信が持てた。被災地で集めた人たちばかりだと、そういうポップス系コンサートでの「暗黙の了解」が通じるかという不安があったところである。
 
私と政子が出て行く。最初にステージに並んでいた人も全員出てくる。政子がアンコールの御礼を言い、スタンバイする。小春たちがお玉を持っている。私と政子もお玉を持つ。客席から『美味しいサラダ』『食べよう』などという声が掛かる。ドラムスセットの前に座ったサトの合図で曲がスタートする。
 
「サラダを食べようピンザンティン、美味しいサラダを」
 
というこの曲のサビを歌い、Aメロに突入する。政子は楽しそうにお玉を振りながら歌っている。コーラスの小春と博美もお玉を振り振り歌う。琴絵はお玉でカスタネットを打っている。
 
演奏が終わって政子が「『ピンザンティン』でした」と言って、あらためて演奏者を紹介する。
 
「ドラムス、サト」
「アコスティックギター、リードギター、近藤」
「アコスティックキター、リズムギター、タカ」
「ウッドベース、マキ」
「ファーストヴァイオリン、鷹野」
「セカンドヴァイオリン、香月」
「ヴィオラ、酒向」
「チェロ、宮本」
「グランドピアノ、ヤス」
「ビブラフォン、月丘」
「パイプオルガン、山森」
「オルガン助手、仁恵」
「コーラス、博美、小春」
「パーカッション、コト」
「そしてフルート宝珠、以上ローズクォーツ、スターキッズ&フレンズ、及び私とケイの友人たちでした」
 
暖かい拍手。
 
「この編成のスコアはケイが書いたんですけど、どういう頭があったらこういう多人数編成のアレンジできるんでしょうか。解剖してみたいです。医療用メス買って来ようかな」
などと言うので
「マジで解剖しないように」
と言う。
「ケイにまだおちんちんが付いてた頃、おちんちんを解剖しようとしたら叱られたなあ。どうせ取っちゃうものなんだから、おとなしく解剖されてれば良かったのに」
などと政子。
 
客席はどう反応していいか分からないような雰囲気(当然例のマリちゃん発言集のサイトに追加された)。
 
しかし政子は客席のそん空気に気付いているのか気付いてないのか分からない感じで、
 
「そしてボーカル、ケイ、および私マリでした」
と言い、全員でまたお辞儀する。大きな拍手が来て、全員袖に下がる。
 
そこにまたアンコールの拍手が来る。今度は私と政子だけが出て行く。
 
「本当にアンコールありがとうございます。それでは本当に本当に最後の歌です。『Long Vacation』」
 
私がグランドピアノの前に座る。政子は私の左側に立つ。私たちのいつものポジションだ。
 
出会って別れて、また出会ってまた別れて、でもふたりの愛は別れている時もずっと眠って待っている。そういう愛がいつかまたふたりの出会いで再開されるように、今故郷に帰られない人たちも、いつかまた戻れる日々が来る。そしてまた平穏の日々がきっと来る。原爆を落とされた広島や長崎が復興し、あの水俣湾だって今は漁業が復興した。回復には何十年という月日が掛かるかも知れないけど、いつかきっと。。。。私はそんな思いでこの曲を弾き、そして歌った。
 
最後の和音を弾いたまま私は指をずっとピアノに置いたままにした。一呼吸置いて会場から割れるような拍手。政子に促されて私は立ち上がる。そして一緒に深くお辞儀をした。
 
「瀬を速み、岩に裂かるる滝川の、割れても末に逢はんとぞ思ふ」
と私はマイクに向かって言った。
 
政子が呆れたように
「唐突な発言するのは私の役目。フォローするのはケイの役目。ケイが唐突な発言しちゃダメじゃん」
 
私は微笑んで、さっき『Long Vacation』を弾きながら考えていたことを素直に言った。聴衆が静かに聴いている。
 
「えっと、それでこの話の落ちを付けてよね」
と政子。
「私は歌手だから、落ち代わりに歌を歌います」
と私はホール内の時計を見ながら言った。20:54。ホールの規定で21時までに演奏は終えなければならない。あと1曲だけ歌える。
 
「ほほお」
「マリも一緒に歌って」
「何歌うの?」
「100時間」
「ああ」
「覚えてる?」
「うん。歌えると思う。懐かしいね。高校時代だったもんね。でもあの曲当時レコーディングした記憶あるけど、その後どうなったんだっけ?」
 
この発言にファンの間にざわめきが起きた。高校時代にレコーディングしたとマリが言っているのに、ファンには初耳のタイトル。このマリの発言はその夜ツイッターと2chで大きく波紋が広がることになる。
「じゃ弾くよ」
と言って私は高校時代にスキャンダルでローズ+リリーの活動が中止を余儀なくされた時に書いた曲『100時間』の前奏を弾く。長いこと私も政子も歌っていなかったが、とんでもない心理状態の中で書いた曲なので、ふたりとも強く印象に残っていた。
 
私の歌に政子が三度唱で合わせて行く。ローズ+リリーの初期の頃よくやっていた、アルト二重唱の形式である。深い谷底の下から這い上がっていくような不思議な歌詞に観客は聴き入っていた。
 
やがて両手を使ってピアノの左端から右端までドレミファソラ・ドレミファソラで駆け上がっていき、とても高いドの音を余韻を残して弾いて演奏は終了した。
 
私はピアノから立ち上がり、政子と一緒に再び礼をした。拍手のタイミングがうまくつかめずに困っていた感じの観客が一斉に大きな拍手をしてくれて幕が降りた。もう幕が降りている最中に氷川さんが「これで本日の公演は全て終了しました」というアナウンスをした。それが20時59分58秒だったらしい。
 
ローズ+リリーの公演でサードアンコールまでやったのは数えるくらいしかないが、これがその1回目であった。
 
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【夏の日の想い出・ピアノのお稽古】(上)