【夏の日の想い出】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2004-07-16
あれは高校2年の夏だった。春に大学に進学した書道部の先輩から割のいいバイトがあるからやらないか?と誘われ、まだ受験で頑張る時期でもないしということで出て行った。それはデパートの屋上や遊園地などでのイベントの設営のバイトだった。何組かのあまり名の売れていない芸人さんを連れてあちこちでミニコンサートをやるのである。芸人さんたちも歌だけの専業では食っていけないので各々のバイトを持っている。そのため全部で10組以上の芸人さんがいるのだが、どの日どこの会場に誰が来るかという管理は結構たいへんなようであった。私は同じ書道部にいる中田政子さんと先輩の花見啓介さんと3人で、機材の持ち運び・設置・撤去、および会場の警備、CDやグッズの販売などをやって1日8000円もらった。大手のイベント会社ならもっと高いらしいのだが、それでも高校生にとってこの金額はとても魅力的だった。中田さんと花見先輩とはいい仲のようで、こちらはダシ役のようであったが、同い年の女の子と毎日一緒に行動して恋愛問題を考えなくていいので、こちらとしては気楽だった。
事件はバイトが始まって2週間たった8月の初めに起きた。その日は花見さんはお休みで、ボクと中田さんの2人で宇都宮まで出かけた。会場のデパートに行くと、イベントの責任者の須藤美智子さん(PA兼任)が頭を抱えていた。ボクたちは今日はお昼からここの屋上で「リリーフラワーズ」という女の子2人組のボーカルユニットのミニコンサートをすることになっていた。このユニットは今まで横浜と千葉で2度聴いていたが、きれいなハーモニーだったので期待していたのだが。。。。須藤さんのただならぬ様子に中田さんが声を掛けた。
「どうしたんですか?」
「逃げられた」
「え?」
「リリーフラワーズの2人。どうやっても連絡付かないのよ」
「仕事先とかは分からないんですか?」
「連絡したらふたりとも一週間前に退職したらしい」
「他に知り合いとかは?」
「さっきやっと一人捕まえたんだけど海外に行くようなこと言っていたらしい」
「そんな」
「どうするんですか?今日のコンサート」
「今事務所の田代君に代わりに出れそうな人がいないか当たってもらっているのだけど、時間的に厳しい。それに都内で誰か確保してもここまで2時間かかるし。せめて昨日分かっていたら何とかなっていたのだけど」
「もし誰も捕まらないと中止ですか?」
「それは契約上できないのよ。万一中止にしたら違約金も取られるし、うちをもう信用してもらえなくなるし。。。。」
悩んでいた須藤さんはふと中田さんの顔を見て言った。
「あんた歌うまい?」
「え?私ですか。あまりうまくないですが」
「ちょっとこの譜面歌ってみて」
といきなり須藤さんは中田さんに楽譜を渡す。中田さんはびっくりしたように
「私、おたまじゃくし読めません」
と首を振って言った。
「もしかして中田さんを代役にということですか?」
「あたしじゃ薹(とう)が立ちすぎてるからね」
「でもリリーフラワーズは2人ですよ」とボクは言った。
「いいよ。誰も知らないんだし」
「でもフラワーズとSが付いているし」
「うーん。あんたは歌えないの?」
と須藤さんは今度はこちらに譜面を付きだした。
「え?ボクもピアノか何かないと音程が怪しいです」
「シンセならそこにあるよ」
と須藤さんは壁に立て掛けてあるYAMAHAのキーボードを指す。
ボクは須藤さんの勢いに負けてそれを台の上に載せ電源を入れて譜面を見ながら少し弾いてみた。すると何とかなりそうな気がしたのでその音に合わせて歌ってみた。
ワンコーラス歌った所で須藤さんがパチパチパチと拍手をした。さきほどまでの暗い顔ではない。明らかに活き活きとした普段の須藤さんに戻っていた。
「うまいじゃん。これで決まり。あんたボーカルやりな」
とボクに向かって言う。
「で、あんたはコーラスね」
と中田さんに言った。
「これで2人組のボーカルユニットだから問題なし。今日のリリーフラワーズは政子ちゃんと冬彦くんだね」
「そんなのいいんですか?」
「こんなことするのは7年ぶりくらいかな」
「前にもこんなことあったんだ。。。」
「でも」と中田さんが困ったような顔で言う。
「男女のユニットで『リリーフラワーズ』は変だと思います。女の子のユニットって感じの名前だもん」
「うーん。私は気にしないけどな。」
と須藤さんは一瞬考えたが、次の瞬間、とんでもないことを言い出した。
「じゃ唐本くんが女の子になればいいのよ」
「え?」とボクは何を言われたか理解できないまま声を挙げた。しかし「あぁ、それならOKですね」と中田さんが言った。
「じゃ私は唐本くんを女の子に変身させてくるから、中田さんはひとりで大変だろうけど、機材の設置をやっていて」
「分かりました」
「じゃ唐本くん行こうか」
「え?え?え?」
こうしてボクは事態をよく把握できていないまま須藤さんに連れられて店内の婦人服売場に行った。このあたりからは頭に血がのぼってしまったしドキドキのし通しだったので、よく覚えていない。しかし買った服一式を持って多目的トイレの中に連れ込まれ、足の毛を全部剃られて、女の子用のパンティを穿かされ、ガードルをつけられ、ブラジャーを着けさせられてその中にシリコン製のパッドを入れられ、ミニスカートまで穿かされたあたりで、気持ち的に観念して開き直りが出てきた。「君肌が白いし、顔立ちが優しいから充分女の子で通るね」と言われると少し嬉しいような気分がした。
眉を切り整えられながら「もしオカマみたいな感じにしかならなかったらコミカル路線で行こうかとも思ったのだけど、これならキュート路線で行ける」と言われた時には、笑う余裕まで出てきた。今になって思えばここで開き直ることができたおかげでステージでもあがらずに済んだのだと思う。
ステージ用の濃ゆめのメイクまで施された時には、鏡の向こうにはアイドルかと思うような可愛い女の子が映っていた。ルージュを塗られた唇の感触が未体験の変な感覚だった。つい唇をなめたくなるのを必死でこらえた。この仕上がり具合にいちばん驚いたのは中田さんだった。「可愛い!ねぇ明日からずっとこれで来たら?」と言ってから渡された自分の分の衣装を持って着替えに行った。
ステージは凄い盛況だった。ボクの声は元々はバリトンだけど高いキーの音も出るので、そういう出し方をするとけっこう性別が曖昧な声になる。そのため会場に集まった観客もみなボクが男の子であることには気づいた風は無かった。12時からのステージが手拍子なども入って盛り上がったことから、15時からの2度目のステージは椅子が足りないほどの状態になり、デパートの担当者からも感謝のことばを掛けられた。
ちょっと困ったのはトイレだった。この格好で男子トイレには入れないが女子トイレに入るのは、、、と思って我慢していたら、ちょっとまずい状態になってきた。「気分が悪いの?」と言われて「トイレが」と言うと、呆れたように「早く行っといで」と言われて女子トイレの方を指される。ボクはどきどきしながら女子トイレに入った。日曜日だったのでトイレは混んでいた。中で列ができている。仕方ないので列に並んだが、恥ずかしくて逃げ出したい気分で下を向いていた。その時、後ろに並んでいた女の子が「さっき歌っておられた方ですよね」と声を掛けてきた。「あ、はい」とボクはとっさに営業スマイルにする。「うまいし、声が中性っぽくて素敵だなと思いました。3時のステージにも友達呼んで来ますから」と言われるとボクは「ありがとうございます」
と答え、その子と握手をした。そんな会話をしたおかげで、女子トイレの列に並んでいることの恥ずかしさはどこかに飛んでしまった。
そんなことがあったことを須藤さんに言っていたら「うーん。盛り上がったからね。顔も覚えられたよね」と何か悩んでいるふうだった。須藤さんが何を考えていたのかは2度目のステージが終わって撤収作業が始まった時に分かった。作業自体は急を聞いて東京の事務所から駆けつけてくれた男性2人がしてくれたのだが、代わりにボクはまた須藤さんに連れられて多目的トイレに行き、ステージ用の服を脱がされてから「これを着て」と渡されたのはチュニック風のブラウスとジョーゼットのロングスカートだった。「まだこれからどこかで演奏があるんですか?」と戸惑って訊く。「ううん。帰るだけ」「じゃどうしてこれを?」と言うと、須藤さんは「あれだけ盛り上がって顔も覚えられているから、その人が男の格好で帰りの電車に乗っていて、万が一観客で来ていた人に見られたらまずいでしょ。だから用心」
「じゃこれで家まで帰れと?」ボクはさすがに反発して訊いた。
「このステージで着たミニスカートとは違って、これならロングだから抵抗感も少ないかなと思ったんだけど」
「でも恥ずかしくて家族に見せられません」
「うーん。それであなたの保護者から苦情が来てもまずいしな。じゃ事務所まで行って、そこで元の服に戻ればいいよ」
「分かりました」
ボクはしぶしぶその服に着替えた。メイクはステージ用の濃いのを落として、ナチュラルっぽいのにしてもらった。
翌日は都内の遊園地のイベントの予定だった。近くなので10時前に出ればいいと思っていたら8時半頃に「スケジュールの調整が必要になったので事務所に来て欲しい」という電話があり、ボクは出かけて行った。中田さんも来ていた。
「結局リリーフラワーズのふたりはヨーロッパ方面で無銭旅行をやっているらしいわ」と須藤さんが呆れたように言った。昨日あれからかなり調べたのだろう。「その分の調整をしようとしてたんだけど、このあと月末までに関東近辺で5回と、提携している大阪の事務所の管轄で2回関西近辺でミニコンサート組んでたのよね」「じゃかなりの移動になりますね」ボクはその時点では『イベントの事務所というのも大変だな』といった程度に思いながら言った。
「緊急にスケジュールの調整の付きそうな人に昨夜の内に連絡して空いている日をあげてもらったんだけど、さすがに7回分は埋まらない。特に大阪には、リリーフラワーズに匹敵する実力のある人に行ってもらわないといけないのだけど、そういう実力のある人は今からじゃ調整が効かないのよね」
「どうするんですか?」と中田さんが訊く。
「だからさ、ふたりで月末までリリーフラワーズとして活動してもらえない?」
「えぇ!?」
これには中田さんもボクもびっくりした。
「じゃまたボク女の子の格好するんですか?」
「うん。可愛いからいいじゃない」
ボクは目の前がくらくらとしてきた。
「ギャラは幾らですか?」
と中田さんが尋ねた。彼女は乗り気のようだ。
「うちは安いよ。だいたい1ステージ500円」
「えー!?」
「宣伝になるからいいだろう、と言って0円の所もあるから、それよりはマシだと思うけどね。ただ今回は事情が事情だからさ、ギャラとしてじゃなくて、スタッフとしての日当に少し色を付けるというのでどう?」
「色ってどのくらいですか?」
「女の子はこういうのシビアだよね。緊急事態だし。最後まできちんとやってくれたら2割増しにしてもいい」
「3割」
「うーん。。。じゃあ、唐本くんが男の子とバレなかったら3割付けてもいい」
「えー?」とボクが言うのと中田さんが「了解!」と言うのが同時だった。
「毎朝あたしの家に来てもらって、女の子に変身させてから連れていきますから」
「うん。じゃそうして」
「唐本くん用の女の子の服、経費で落ちますよね」
「じゃ領収書回して」
「ステージに立つ時だけじゃなくて、設営スタッフで行く時も今後は女の子の格好ですよね」
「もちろんそうでないと困る」
「じゃ今日からは唐本冬子ちゃんということで」
「話はまとまったね。じゃ今日の唐本さんの服」といって須藤さんが紙袋を渡すのを反射的に受け取って、ボクはこの後どうなるんだろう?とめまいがした。
その日から毎日、ボクは日中「女の子」として過ごすことになってしまった。毎日朝中田さんの家に出かけ、そこで女の子に変身してからイベントのある場所まで行く。帰りは中田さんの家に寄って、男の子に戻ってから帰宅する。4日後にはまたステージで歌うことになった。ボクたちのユニット名は「リリーフラワーズ」を使い続けると、ひょっとして本来のリリーフラワーズを知っている人にぶつかっては面倒ということで「ローズ+リリー」に改められた。前回の盛況の余韻があるので2度目のステージは心にも余裕があった。場所も遊園地のオープンスペースだったので、宇都宮のデパートの時の3倍くらいの人が足を止めて聞いてくれていた。自分の歌をたくさんの人が聞いてくれているのは快感だ。ひと夏だけのことだろうし、面白い体験をしているのかも知れない、という気になってきた。女の子の服を着ていること自体には抵抗感がなくなってきた。メイクも最初は全部やってもらわないと出来なかったのが、口紅の塗り方くらいは分かるようになってきた。
「女の子」に変身したボクを見た花見先輩はびっくりしたようだった。しかしそれ以上に先輩が気にしたのがボクが毎日中田さんの家に行っていることだった。嫉妬しているような言い方をしたら中田さんが「だって冬子ちゃんは女の子なんだから私には興味ないよね」と言った。ボクも悪のりして「はい。私は男の人にしか興味ないです」と言ったら、少し安心した風だった。しかしボクの発言は本気にされてしまった気もした。ホントにこういう気があると思われたらどうしよう、とも思ったが、とりあえず気にしないことにした。
翌週には1回目の大阪行きがあった。予算がないので新幹線での日帰りである。ボクたちふたりと、事務所の若い女性・甲斐さんの3人で朝早くの新幹線に乗る。
「冬子ちゃんが女の子ではないことは向こうの事務所の人は了解済みです。ただ、ステージでは明らかに男の子と分かるような言動は慎んでくださいということでした。ハプニング的にバレてしまうのは構わないとのことです」と甲斐さんが言ったが中田さんは「大丈夫。バレませんよ。バレなかったら報酬があがる約束なので、意地でもうまくやりますから」と言った。彼女は確かに燃えている。
大阪でのイベントは何組ものユニットが出演するフェスティバルのような形式だった。入場は無料らしかったが、初めてまともなホールでの演奏になったし、楽屋で大勢の女性アーティストの人と一緒だったので(みんな平気で下着姿になってるし)少し緊張した。しかしステージに立って、伴奏の人が最初の音をくれたのを聞いた途端、気持ちが落ち着いてきて、客席を見ながらノリ良く歌うことができた。本来3曲だけの予定だったのだが、アンコールがすごかったため、進行係の人の指示でもう1曲歌うことになった。ステージの袖に戻ったら次に出演するユニットの人が「凄い!うまい!声がいい!」と興奮していて、いきなり口にキスをされた。ボクのファーストキスは幸いにも女性相手ということになった。
大阪でのイベントが終わった所で「CD無いんですか?」と随分聞かれた。リリーフラワーズのCDはあるのだが、さすがにそれを出すわけにはいかない。済みません、まだ無いんですと言ったら不思議な顔をされた。確かに今時CD-RWがあれば誰でも勝手に自分のCDを作れるから、歌手として活動していて、それが無いほうが変だ。
その話が大阪の事務所の側からも来たらしい。翌日事務所に行くと「さてふたりのCD」作ろうか、といきなり須藤さんから言われた。
その日は本来は大宮でイベントの設営をする予定だったのだが、そちらは別の人達に行ってもらうことになり、ボクたちふたりは都内のスタジオに連れて行かれた。いきなり見たことのない譜面を渡される。「30分で覚えてね。予算が無いから、録音作業を全部で3時間以内に終了しないといけないから」有名な作曲家の名前がクレジットされていた。「こんな先生に書いてもらったんですか?」と中田さんが嬉しそうに言う。「ああ。5年前に別の歌手用に書いたものらしいんだけど、全くヒットしなかったのよね。勝手に使っていいからと言われてたので流用。でも冬子ちゃんの声に合うと思うのよ。それといつもコンサートで歌っている例の歌。あれはリリーフラワーズの後見人みたいな人が書いたものなんだけど、向こうも恐縮していて自由に使っていいと言われている。それとスタンダードナンバーを3曲」
「3時間で5曲とるんですか?」
「ほとんど一発録りのつもりで行かないと無理ですね」
「うん。ただ多重録音で冬子ちゃん自身にもコーラスに加わってもらうから」
「ひぇー」
それはあっという間の3時間だった。大阪までの日帰り往復より疲れた。
「これ売れたら印税もらえるんですか?」
としっかり者の中田さんが訊く。
「あ、それは勘弁して。これがもし売れて2枚目のCDも作ることになったら、その時は印税あげるから」
「分かりました」と中田さんは簡単に引っ込んだ。この答えは予想していたようだ。
録音が終わったら、お昼を食べる間もなく写真スタジオに連れていかれた。CDジャケット用の写真を撮ったのだが、これも30分で片づけられた。実際に使うのはこの写真に若干?Photoshopで加工したものになるということだった。プロフィールを付けるからといわれて、生年月日と出身地を訊かれた。
その翌日。その日は水戸市でイベントの設営の予定だったのだが、出演者が昨日入院してしまったということで、ボクたちが出ることになり、この日、出来たばかりのCDも1箱持ち込まれて、コンサートの合間に販売することになった。ボクたちもその時に初めて見たので、ジャケットの可愛らしい写真にさすがの中田さんまで赤面した。「また啓ちゃんに嫉妬されちゃう」などと言いながらも楽しそうだ。CDは持ち込んだ1箱が完売した。サインを求められたので、念のためと言われて練習していたサインをふたりで入れて、全員に売った。売り切れた後も欲しいという人があったので、須藤さんが「通販しますから」
といってURLを書いて渡していた。「このURLは明日からオープンですから」と言っている。
「いつの間にそんなホームページ準備したんですか」と驚いて尋ねると「今夜作る」と平気な顔をして言う。このCDのミキシングやジャケットの画像加工なども全部須藤さんがひとりでやっている。忙しいようなのにパワフルな人だ。
しかし自分たちのCDが売れたことがその日はボクたちは嬉しくて、ぐっすり眠ることが出来た。
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