【春乱】(2)

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10時頃、とうとう破水が起きる。
 
千里がナースコールして看護婦さんとお医者さんが来る。
 
「分娩室に行きましょうか」
「いよいよですね」
 
それで行きかけた所で桃香のスマホが鳴る。
 
たまたま手が空いていた千里が
「ああ、私が出る」
と言ってそれを取った。
 
桃香自身は、青葉・朋子・朱音に付き添われて分娩室に行く。立つのも辛いようだったが、青葉が手を握って、そこからエネルギーを送り込んでいるのもあり、何とかなったようである。もっとも青葉もそのエネルギーは千里からもらっている。
 

分娩室に入り、分娩台に乗る。片方の手を助産師さん、片方の手を青葉が握っている。そこに千里も入って来た。
 
「誰からだった?」
「お友達からだった」
 
それで結局、千里と朋子が桃香の手を握り、青葉が助産師さんと一緒に励ます形になる。朱音は外で待機している。すぐにも出産に至るかと思ったのだが、ここからまた少し時間が掛かるようである。助産師さんや看護婦さんが出入りする。千里まで「ごめん。ちょっと疲れた」と言って、一度外に出る。千里姉はきっと夜中からずっと起きていたんだろうなと青葉は思った。千里が外に出たので青葉が空いた手を握って励まし続ける。千里姉も5分ほどで戻って来て、朋子と交代する。それで青葉と千里が両方の手を握る形になった。
 
既に赤ちゃんは産道に移動している。
 
「きついよー」
と桃香が弱音を上げるが
「もう最終段階だよ。いきんで、いきんで」
と助産師さんに言われて、頑張っていきむ。
 
少しずつ少しずつ赤ちゃんは産道を進んでいる感じである。
 
そして分娩台に乗ってから1時間ほどして、赤ちゃんの頭が見え始める(排臨)。
 
「頭が見えてきたよ。あと少しだよ。頑張ろう」
と助産師さんが言う。
 
それで桃香も辛そうな顔をしていたのが、やっと気力が出てきたようで、頑張っていきむ。やがて頭が完全に見えてきた(発露)所で、いきむのを止め、短い呼吸に切り替える。
 
そこからはかなりスムーズに行き、無事赤ちゃんの身体の全体が出てくる。青葉はその子のお股を見た。何も付いていないようだ。
 
「女の子ですね」
と後ろの方に居た若い助産師さんの声がある。
 
桃香のお股の所に陣取っているベテランっぽい助産師さんが赤ちゃんを抱えた状態で若い医師が臍帯を結索し切断する。そして次の瞬間くらいに、赤ちゃんは「おぎゃーおぎゃー」と元気な産声をあげた。
 
青葉が分娩室内の電波時計を見たら11:12:14くらいであった。
 
(占星術その他の占いで出生時刻というのは一般に最初の産声をあげた瞬間のことを言う。赤ちゃんが母体の外に出た瞬間ではない。産声を上げて肺呼吸を始めた瞬間にこの世の住人になるという考え方である)
 

赤ちゃんは、まずベテランっぽい助産師さんが抱えたままの状態で桃香本人に抱かせる。桃香だけでは支えきれないので助産師さんが支えている。腕が凄く太い助産師さんなので、安心感を青葉は感じた。その後、千里、朋子、青葉の順に抱っこした。
 
赤ちゃんの体重は2943gであった。踵の所から採血して血液型検査をした所、RH+B型ですねと言われた。
 
「但し新生児の血液型検査は、お母さんの血液型の影響が出ることもあるので正しく出ないこともあります。正確な血液型は3〜4歳になってから再度検査してもらってください」
と医師は言っていた。
 
桃香は後産の処理もあるので、2時間ほど分娩室でそのまま休んでいたが、実際問題として出産後5分もすると眠ってしまった。
 
最初意識を失った?と思われて医師が桃香に取り付けている機器の数値をチェックするも、異常が見当たらない。試しに腕をつねると目を開けて
「痛い」
と文句を言って、また目を閉じてしまう。それで意識はあることが確認できた。
 
「これは寝ているだけですね」
と医師が言う。
 
「よく寝る子だねぇ」
と朋子が少し呆れていた。
 
「普通この状況では眠れないものなのですが・・・」
と若い助産師さんが言っている。
 
今日は2件のお産が同時進行になったので、医師も助産師も入れ替わり立ち替わりになっていたが、この若い助産師さんだけはずっと付いていてくれた。
 
実際助産師さんが言うように、お産の時はアドレナリンが大量に分泌されるので興奮していて眠れないのが普通である。
 
病院によっては出産後すぐに母親が眠ろうとしたら無理にでも起こすらしい。意識を失ったのか眠っているのかが区別がつきにくいからだともいう。しかしこの病院では医師が確かに意識はあることを確認してくれたので、機械でバイタルチェックしていることもあり、そのまま眠らせてくれた。もっとも桃香も15分ほど寝た所で目を覚ました。
 
「あそこが痛い」
と言っている。
 
「まあ安産だったよ」
と朋子が言うと
 
「あれで〜〜!?」
と本人は言っていた。
 
「会陰切開せずにきれいに生まれて来た子は、私もまだ2人しか見てないです」
とお医者さんが言う。
 
「あ、切らなかったんですか?」
「切ろうと思ったら、するすると出てきましたから。今回ベテランの助産師が付いていたので、彼女の誘導の仕方も上手かったと思うのですが」
 
「ああ、切らずに済んだのはいいことだ」
と桃香は言っていた。
 
しかし青葉は、あれで安産なのかと思った。
 
実は青葉は分娩室の中に入って出産を見届けたのは初めてである。安倍子の時もフェイの時も、帝王切開だったこともあったが、青葉は廊下で待機していた。(安倍子の場合は、帝王切開しようとしたら自然分娩してしまったが、現場が混乱していたので、あの場にいた人でも京平は帝王切開で産まれたと思っている人も多いようである)
 

青葉は赤ちゃんが生まれたのは11:12:14くらいかと思っていたのだが、千里が
 
「11時12分13秒」
 
と言って、青葉たちに自分の携帯(Toshiba T008)を見せてくれた。
 
携帯のストップウォッチが12:13.24という数値を表示している。
 
「11時の時報と同時にストップウォッチを押した。そして赤ちゃんがヒフッヒフッって感じで泣きそうになった所でスタンバイして、声が聞こえた瞬間停めた。それがこの数値」
 
「すごーい」
 
プロスポーツ選手の反射神経である。かなり信頼できる数値だと青葉は思った。
 
「ちなみに0.24秒というのは60進数に直すと 60 x 0.24 = 14 になるから60進法で言うと、May 10th, 11 o'clock 12 minutes 13 seconds 14 thirds (*1)」
 
「数字の並びが凄い!」
「面白い時刻に生まれてきたよね」
 
(*1) thirdはsecondの1/60。秒を60分割する言い方はポーランド語(tercja)やトルコ語(salise)には残っているが、現代英語では滅多に使用されない。通常は日本と同様、秒の10進小数で表現する。
 
ちなみにこの子の出生時刻は母子手帳には単に11:12と記載された。
 

桃香は、出産後2時間ほど分娩室に滞在し、後産まで終わって13:30くらいに病室に戻ると、またすやすやと眠ってしまった。
 
なお赤ちゃんは新生児室に移される。ここでは最初の1日だけ母子別室で翌日から同室になる。
 
桃香が眠っているのを見て千里は
 
「眠れるのはいいことだ」
と言った。
 
「寝る子は育つかな」
と朋子。
 
「お母さんが寝てもあまり関係無いのでは」
「でもまあ重労働だからね」
 
その時千里が青葉を見て言った。
「青葉もあと7年くらいしたら自分で産むだろうから、まあ少し覚悟しておいた方がいいかもね」
 
「あ、うん」
 
と答えて、ちー姉、こういう《予言》を言うなんて、もう落雷の影響はほとんど無いんだろうなと青葉は思った。ちなみに千里姉のこの手の発言は、後で聞いても本人は全く覚えていない!どこかから降りてきた言葉を千里は伝えているのだろう。千里は天性の巫女である。
 
しかし私7年後に赤ちゃん産むのか。。。
 
でもどこから!?
 

同院の会議室。
 
「ちょっと待ってよ。だったら高園さんの赤ちゃんを取り上げたのは誰なの?」
と大間院長は困惑するように言った。
 
「赤木さんだと思っていました」
と若い高橋医師が言う。
 
「私は確かに最初高園さんに付いていたのですが、田川さんのお産が逆子だと聞いたので、こちらは問題無さそうだしと思って佐藤さんに任せてそちらに行きました」
とベテランの赤木助産師は言う。
 
「私は赤木さんがしてくださったものと思っていました。確かに赤木さんは呼ばれて一度出て行かれたので、一時的に私が代わりに介助する位置に入ったのですが、私も実際のお産でそこに入るのは初めてだったのでちょっと不安を感じていたら、赤木さんっぽい人が入って来て『任せて』と言って、その位置に入ったので」
 
と高橋医師と一緒に桃香のお産に立ち会った若い助産師・佐藤は言う。
 
「渡辺君はどちらにいたんだっけ?」
 
「私は田川さんの方にいたのですが、逆子だったので、これは私には手に負えないと思って、長山さんに赤木さんに助けてもらえないか訊いてきてと言ったんです。それで赤木さんが来てくださって、あなたは高園さんの方見てきてと言われたので見に行ったのですが、2人助産師が付いているので、てっきり山田さんと佐藤さんとばかり思って。2人付いているなら大丈夫かなと思い、田川さんの方に戻って赤木さんのお手伝いをしました」
と渡辺助産師。
 
「榊原君?」
「田川さんは事前のエコーではちゃんと頭を下にしていたんです。ところが実際お産が始まってみると、逆子になっているので、えー!?と思いました。私と渡辺さんとで赤木さんがこちらに来られないか聞いてみようと話して、長山さんに呼びに行ってもらいました」
と榊原医師。
 
「しかし今日、山田さんはお休みだったのだが」
「じゃあれは誰だったんでしょう?」
 
「山田さんはほんとにお休みだったんですか?」
「確認する」
 
と言って大間院長は山田助産師に電話する。そして今日彼女は病院には来ていないことを確認した。
 
「実際に赤ちゃんを取り上げた人は凄く手際が良かったんです。だから会陰切開もせずに出しちゃったんですよ。私はてっきり赤木さんが戻ってこられたと思っていたので、私は赤木さん、さっすがーと思っていたのですが」
と佐藤助産師。
 
「ええ。僕も物凄く上手いので赤木さんとばかり信じていました」
と高橋医師。
 
大間院長はしばらく考えていた。
「高園さんの所の赤ちゃんは異常とかは無いよね?」
「はい。何も異常はありません。元気そのものです」
 
赤木助産師が発言した。
「高園さんの母子手帳の助産師欄には私が名前を記入します。途中まで私が介助したのですから、私が責任を持ちます」
 
大間院長はそれでもしばらく考えていた。
「分かった。そういうことにしよう。それで万一、訴訟事などが起きた場合は僕が全ての責任を取る」
 
全員無言のまま、院長と赤木助産師の発言を黙認する雰囲気になった。
 

桃香の病室では、相変わらず断続的に眠ったり起きたりする桃香のそばで、青葉・千里・朋子・朱音がおしゃべりしていた。
 
やがて院長が入って来て「母子手帳の《出産の状態》のページ記入しましたから」
と言って手帳を桃香に渡し、診察もしていた。
 
「痛くない?」
「痛いです」
「高園さんはとても安産で会陰切開も不要だったんですよ。それでも痛いのは痛いでしょうから、辛いようだったら痛み止め処方しますよ」
「母乳に影響出たら嫌だから痛み止めは我慢します」
「そう?まあお母さんが痛み止め飲んでも、母乳にはその0.5%程度しか混じらないから、食品添加物の影響程度で気にすることはないんだけどね」
 
「でも気分的に嫌だから我慢します」
「分かりました。でもほんとに辛かったら僕でも看護師でもいいから言ってね」
「はい」
 

16時頃、朋子が
「そういえば私たち、お昼食べてなかったわね」
と言い出した。
 
すると千里が
「私が付いているから、お母ちゃんと青葉はごはん食べてくるといいよ」
と言った。
 
「そうだね。じゃそうしようか」
と言って、青葉は母と一緒に部屋を出て、新生児室のウィンドウ越しに赤ちゃんの様子を見てから、病院の近くの食堂に行って御飯を食べてきた。
 

青葉たちが戻ると、桃香はまだ寝ていて、そばに付いている千里もそのまま眠っていた。青葉と朋子は顔を見合わせる。
 
「ちー姉、ちー姉」
と声を掛けて起こす。
 
「ちー姉、疲れたでしょ。何なら、私たちが取ったホテルにちー姉も行って少しベッドで寝てこない?私たちがしばらく見ているよ。あるいはもう1部屋とってそこで朝まで寝ているというのでもいいし」
 
「そうだね。じゃ私ももう1部屋取ってあのホテルで休むよ」
「うん。それがいいかも」
 
それで千里は病室を出て行った。30分くらいの後、ホテルに部屋を取ったということで、部屋番号を報せるショートメールが朋子のスマホに入っていた。
 
桃香はその後、20時頃起きて
「お腹空いた。牛丼が食べたい」
と言ったので、青葉がコンビニに行って、牛丼と、それ以外に蒸しパン・おにぎりなどを買ってきた。桃香は牛丼をペロリと食べた後、おにぎりも食べたが、更に蒸しパンも食べようとした所で、朋子から
 
「そのあたりでやめときなさい」
 
と言われた。水分も不足していたようで2Lのペットボトルのお茶をあっという間に飲んでしまい、青葉は再度コンビニに行ってきた。
 
桃香が元気そうなので、青葉と朋子も面会時間の終了とともに病院から引き上げて、ホテルに戻った。
 

翌5月11日朝、青葉は8時半頃目を覚ました。
 
「ああ、起きた?まだ寝てていいよ」
と朋子が言っているが時計を見て青葉は
「起きる」
と言ってベッドから出た。
 
顔を洗ってくる。
「お母ちゃん、朝御飯食べた?」
「まだ」
「じゃ一緒に食べに行こうか」
「うん」
 
それで1階に降りて、ラウンジで朝食を食べていたら千里が
「疲れた疲れた」
と言ってやってきた。
 
「ちー姉、今日のバスケ練習は?」
と訊いてみる。
 
「今日はさすがに辛かったから1時間早めに切り上げさせてもらった」
「練習してたんだ!」
「まあそれがお仕事だからね」
 
朋子は夜中にジョギングでもしていたのだろうか?と思ったようである。
 

3人で一緒に病院に行ったが、赤ちゃんは既に桃香と同じ病室に入れられていた。朋子が抱きたがっていたので抱かせる。流れで青葉と千里も抱っこした。
 
「それでさ、赤ちゃんの名前だけど」
と桃香が言う。
 
「うん?」
「ずっと考えていた」
 
「何という名前にするの?」
 
「さつき。早い月と書く」
「それ5月に産まれたから早月(さつき)?」
「そうそう。5月中に産まれたら早月、男でも女でもその名前で。万一4月中に出てきていたら卯月(うづき)、6月に出てきたら水の月と書いてみづき」
 
「単純すぎる!」
と朋子も呆れたものの、(父親である)千里が
「いいと思うよ」
と言ったのでそれで決定した。
 
「ちなみに水の月と書く『水月』はクラゲとも読むけど」
 
と青葉が指摘すると桃香はそれに気付いていなかったようで
 
「うっそー!?」
と叫んでいた。
 

翌12日(金)朝には出生証明書を先生が書いてくれた。普通は退院の時に書いてくれるケースが多いのだが、桃香が「親族が東京に居る内に手続き関係を進めたいので」と先生に言ったので、週末に掛かることもあり、この日に書いてくれたようである。
 
千里は出生届の父親欄には自分の名前を書いていいよと言ったのだが、桃香は空欄にしたいと主張。それで千里も桃香がそう言うのならそれでもいいと言って、空欄のまま出生届を記入した。
 
(実際問題として父親欄に戸籍上女性である人の名前が書かれた出生届が受理されるものかどうかは微妙である。かなり揉めることは必至)
 
青葉に留守番してもらい、千里と朋子で車に乗って、まずは桃香の住民票がある世田谷区の区役所に届を提出(届出人は千里)。母子手帳にもスタンプをもらってきた。父親欄が空欄であることについて尋ねられたが、現時点で認知されていないのでと答えた。これは記入漏れではないかという確認だけだったようである。また、千里自身の本人との関係も訊かれたので「同性の夫婦です」と千里が言うと、係の人は「了解しました」と答えてそれで受け付けてくれた。そのついでに「ご存知かも知れませんが」と言って、世田谷区で実施している同性パートナーシップ制度のパンフレットももらった!
 
なお、桃香は事前に戸籍を親の戸籍から独立させて単独の戸籍を作成していたので、そこに長女として入籍されることになる。
 
区役所が終わった後、今度はそのまま千代田区内にある、健康保険組合事務所に行き、朋子の手で出産育児一時金の申請をおこなった。桃香の法的な親族は朋子のみなので、これは朋子がいる内にやっておかないと桃香本人が動けるようになるまで申請ができなくなってしまうところであった。
 
桃香は昨年秋まで在籍した会社の組合健保を任意継続しており、42万円の一時金に加えて10万円の付加給付も出るという話だった。
 

ふたりはそのまま近くの飲食店で早めの昼食を取ってから病院に戻った。これが13時頃である。青葉に
 
「お昼ごはんまだだったら食べておいでよ」
と言ったのだが、冬子から相談したいことがあると言われたらしく都心に出るということだった。
 
それで千里が青葉を恵比寿まで送って行くことにした。千里も仕事があるので帰るつもりだったということで、今日は後は朋子にお願いして、ふたりで一緒に病院を出て、駐車場に駐めているオーリスに乗る。
 
「時間は約束しているの?」
と千里が訊く。
 
「いつでもいいらしい。ずっとマンションにいるらしいから」
と青葉。
 
「じゃお昼食べてから行こうよ」
「そうだね」
 
そこでインターチェンジに乗る前にモスバーガーに寄って一緒にお昼を食べた。
 
「ちー姉、お母ちゃんともお昼食べたのでは?」
「モスくらいは入る」
 
「ちー姉って昔は少食だったよね」
「まあそういう時期もあったね。日々激しい運動していると食べ過ぎということは無いみたい。青葉は今体重どこまで来た?」
「今56kgくらいかな。ちー姉は60kgにしていいと言っていたね」
「ちゃんと身体を鍛えている前提でね」
「なんかここの所、あまり運動ができてない」
「それはいけない」
 
「ちー姉は毎日どのくらい練習してるの?」
「うーん。。。平均すると9時間くらいかなあ。夏の間はね」
「やはり結構な量してるね。冬は?」
「バスケット自体の練習時間は変わらない。むしろ試合が多いから時間的には減る。でも出羽の修行に参加すると毎日16時間くらい歩くからね。あれで鍛えられるね」
 
「あれってそんなに歩くのか・・・」
 
「青葉も参加してみる?参加したければ話してあげるから。青葉なら問題無く参加させてもらえると思う。だいたい2時間歩いて1時間休憩の繰り返し。これを毎回8度。最後は湯殿山の温泉に入って身体をほぐす。くたくたになるから、あの温泉が物凄いご褒美になる。私は毎年100回参加することを義務付けられているけど、普通の人は一冬(ひとふゆ)に10回か20回くらいの参加」
 
「私一度だけ夏山の修行に参加させてもらったけど、あれ凄い速いペースだよね。私正直ずっと付いていく自信無いと思った」
 
「2時間歩いて1時間休みだから、遅れた人はその1時間の休憩の間に追いつけばいいんだよ」
「もっともその分休憩時間が短くなると」
「まあそれは仕方ない」
 
「それで休憩時間にも追いつけなかったら、放置だよね」
「今は優しいから放置だね。昔は谷底に突き落としていたらしいから」
「まだ命が惜しいからやめとこう」
 

食事の後は、千里の車に乗って恵比寿に向かう。それで今から行くと青葉が冬子に連絡した。
 
「電車で来るの?」
「あ、いえ車です」
「ああ、アクアで来たの?」
「いえ。千里姉の車に同乗してきているのですが」
「あれ?千里も一緒?」
「はい」
「てっきり今アメリカかと思った!もう帰国したんだ?」
「そうですね。明日帰国するから、今ここにいるみたいですね」
と青葉が言うと、運転している千里がおかしそうに笑っていた。
 
「よく分からないけど、千里もいるなら一緒に来てくれない?」
 
千里姉の顔を見る。頷いている。
 
「分かりました。一緒にお伺いします」
 
それで恵比寿のマンションに行き、駐車場の入口を開けてもらって、ふだん政子のリーフを駐めている場所に駐めさせてもらった。
 
政子はアクアのファンクラブ幹部会議?に行っているらしい。
 
松浦紗雪(会員番号1)・マリ(同2)・春風アルト(同4)・富士宮ノエル(同10)・佐々木川南(同21)・白浜夏恋(同22)・XANFUSの光帆(同77)・KARIONの小風(同123)といったメンツが自称“幹部会議”である。
 
いかにしてアクアを拉致して去勢してしまうか!などという相談をしているらしい。
 

上に上がって冬子を見ると、どうもかなり精神的に追い込まれている感じである。冬子は七星さんと話し合いをしていたようだが、ふたりとも暗い雰囲気だった。
 
「赤ちゃん、男の子だった?女の子だった?」
と冬子が訊く。
 
「女の子でした。名前は、早い月と書いてサツキです」
「ああ。桃香らしい名前の付け方だ」
と言い、冬子は
「誕生祝い用意してなかった。後で用意して渡すね」
などと言っている。
 
「それは気にしないで下さい」
と青葉は言っておく。
 
「それで用件なんだけどね」
「はい」
「忙しい所申し訳無いんだけど、今年のローズ+リリーのアルバムに可能なら2人とも2曲ずつもらえないかと思って」
 
「2曲ですか!時期は?」
「1曲はできたら来月くらい、もう1曲は8月くらいまでにもらえると嬉しい」
「私はいいですよ」
と青葉は言って千里を見る。
「私もいいよ。何曲構成のアルバムにするの?」
「10曲」
「10曲の内4曲も私たちの作品にしていいわけ?」
 
「実は・・・」
と言って冬子は事情を説明した。
 
元々冬子は今年のアルバムは『Four Seasons』というものにするつもりで楽曲の選定やアレンジを進めていたらしい。ところが製作会議で
 
・英語タイトルの『The Cities』の成績が良くなかったので日本語タイトルにして欲しい。
・発売時期は12月では遅すぎるので11月上旬発売で
 
というのを求められた。それで新たなタイトルとして村上社長から『郷愁』という提示があり、それが賛成多数で決まってしまった。
 

「音楽分からない人は黙ってお金の計算だけしていればいいのに」
と千里がストレートな文句を言った。
 
「私も不満だけどレコード会社の方針には逆らえない」
と冬子は言う。
 
「製作会議のメンツって誰々なの?」
 
「★★レコードの村上社長、佐田副社長、氷川係長、◇◇テレビの響原部長、○○プロの浦中副社長、△△社の津田社長、UTPの須藤社長、サマーガールズ出版の風花、そして私」
 
「酷いメンツだ」
と千里は言った。
 
「氷川さんは立場上上司に反対できない。津田さんも浦中さんに反対できない。風花ちゃんは弁が立たない。孤立無援じゃん」
と千里は続ける。
 
「あの会議だけで疲れた」
と冬子。
 
「でもアルバムの構想はもう半年掛けて進めていたのを最初からやり直さなければいけないので従来のような12-14曲入りのは無理だとして10曲構成にすることを何とか了承してもらった」
 
「それで時間が無いのか」
「そうなんだよ。11月上旬発売なら10月上旬までにミクシングまで終わらせる必要がある。つまり9月までに完成させなければならない。正直4曲くらいしか書く自信が無い。何とか5曲は自作曲でいきたいんだけど」
 
「だったら、私3曲書くよ」
と千里は言った。
「その内2曲をまるでケイが書いたみたいな作品に仕上げる」
「えー!?」
「アクアに渡した『ボクのコーヒーカップ』みたいな感じね。だからケイの名前をクレジットしていいよ」
「あはは」
 
「その時間内で完成させるなら冬は作曲より歌唱に集中すべきだもん」
と千里が言うと
「私もそう言っていた所なんです」
と七星さんが言った。
 
『ボクのコーヒーカップ』は千里がおふざけで書いた「まるでケイの作品みたいに見える曲」である。マリがアクアに『おちんちんが無くなっちゃった』という曲を渡そうとして拒否されたので、代わりに渡してしまったのである。すると
 
「昔のケイっぽいね」
「こういう傾向のケイの曲好き」
「これきっと高校時代に書いたまま公表の機会を逸していた曲では」
 
などと評され、カラオケでの人気が凄かったのである。
 
「青葉もやってみない?」
と言っていきなり千里による『ケイ風作品の作り方』の講義が始まる。
 
まずケイらしい楽曲構成に始まり、ケイ好みの間奏の作り方。“ブルーノート”ならぬ独特の“グリーンノート”と千里が仮に呼んでいるコード進行、サビとメインテーマとの関わり、そしてケイが昔よく使っていたメロディパターンを4種類示す。
「特にこのAのパターンはケイの初期の作品に頻出していてファンの間でもケイ・パターンと呼ばれているんだ」
と千里は説明する。
 
七星さんが大きく頷きながら聞いていた。そして言った。
 
「だったら私も自分の曲1曲に加えて、このやり方でケイ風の作品を1つ試作してみるよ」
 
「あははははははは」
と冬子は乾燥した笑いを発していた。
 

桃香は出産した当日はひたすら眠っていたが、11日朝になると赤ちゃんが同じ部屋に連れてこられ、やっと自分も母親になったんだなという自覚が出てくる。桃香はどちらかというと「父親」というものになってみたい気もあったのだが、困ったことに精子を持っていないので、母親でもいいかなあと考えていた。
 
実は早月は「母親になりたかった」千里を父とし、「父親になりたった」桃香を母とする子供である。
 
「まあ私たちも割れ鍋に綴じ蓋だよね」
などと桃香は独りごとを言った。
 

桃香は15日(月)に退院することになった。青葉たちはその退院まで見届けてから、高岡に戻ることにした。
 
千里は実際には桃香が出産した10日の夜は病院近くのホテルに泊まったものの、11日は「悪いけど仕事があるから」と言って、夕方車で移動したようである。どうもその時間帯から仕事があるようだ。出生届などを出してきてくれた12日も14時すぎに帰り、13日は午前中のみで帰った。
 
青葉もなにやら忙しいようで、11日は夕方まで居たものの12-13日は午後から用事があるとかで新宿だか青山だかに出たようである。千里の車に同乗して都心に出たようだ。
 
つまり12-13日は午後は朋子だけになったが、その朋子も桃香の状態が安定していることもあり、18時くらいで病院を引き上げている。
 

13日の夜20時頃。千里が
 
「桃香、放置していてごめんねー」
と言って病室に入ってきた。
 
「えっと・・・」
 
桃香としてはこの日、千里は朝出てきて13時頃まで一緒に病室に居てくれたと認識している。お昼を食べに出た朋子が戻ってきたところで青葉と一緒に病室を出て、お昼を食べてから都心方面に一緒に出たようであった。
 
「今日夕方4時頃日本に着いたんだよ。色々挨拶とかあって、6時くらいにやっと開放された」
などと千里は言っている。
 
早月ちゃんだっこしていい?というので抱かせると、嬉しそうに抱っこしている。
 
桃香は“この千里”は、ほんとにこれ初めて早月を抱いたのでは?お昼までいた千里とは別人ではという気がしてきた。もしかしたら解離性同一性障害(いわゆる二重人格)??
 
「これシアトルで買ってきたクッキーね」
と言ってクッキーの袋を出す。
 
「おお、これは美味しそうだ!」
 
ホームメイドっぽいもので品名などが手書きで書かれている。しかしとても美味しそうである。
 
「知る人ぞ知る店って現地の人に教えてもらったんだよ。マイクロソフト饅頭とか、アマゾン煎餅とか聞いてみたけど、そんなの無いって」
「聞いてみたのか!?」
 
桃香はそんな訳の分からないもののことを訊かれた人に少し同情した。
 
「野球のシアトルマリナーズとか、アメフトのシーホークスとか有名だから、それのグッズはわりとあったんだけどね〜。シーホークス・クッキーはあったよ。人形焼きのクッキーバージョンという感じ。アメフト選手の形してるの」
 
「なるほどー!まあマイクロソフトのファンというのはあまり居ないかもな。アップルのファンは多いけど」
 
「アップルはワシントン州じゃなくて、カリフォルニア州のクパチーノだもんね」
 
「あと、これも美味しそうだから買ってきた」
と言ってチョコレートの箱を出す。
 
「おぉ!これは美味しそうだ!」
「ここ、オバマ前大統領のお気に入りのお店だったらしいよ」
「へー。でもこれはひとりで食べるのはもったいない。明日みんなで分けて食べよう。千里明日は?」
 
「ごめーん。18日からまた合宿だから、調整しないといけないし」
「うん。無理しないで」
「桃香、いつ退院するの?」
「15日」
「そっかー。私来られないと思うけど何かあったらすぐ呼び出してね」
「あ、うん」
 
それでその千里は21時頃、帰っていったものの、桃香はお土産のクッキーとチョコを見つめて、腕を組み
「うーん」
と声をあげて悩んだ。
 

14日。青葉と朋子はタクシーで9時頃出てきたが、千里はまだ出てきていなかった。
 
桃香が
「これ千里から昨夜もらったもの」
と言って昨夜千里からもらったチョコを見せる。
 
「千里ちゃん昨日の夜に来たの?」
「うん。夜8時頃1度来たんだよ」
 
「でもなんか豪華なチョコだね!」
 
箱の裏を見て青葉が言う。
 
「ここは割と有名なお店だよ。日本からもオーダーできるはず」
「ああ、日本でも買えるのか」
「でもこれ May 12 10:02 というスタンプが押されている。日本時間で言えば13日の午前2時。シアトルから日本まで飛行機で10時間掛かるから、実際に昨日の朝、シアトルのひょっとしたら空港内で買って持って来たものかも」
 
「じゃやはり千里はシアトルに行っていた訳?」
と桃香が訊く。
「たぶんお友達がね」
と青葉は答える。
 
「あ、そういうことか!」
と桃香は納得したようである。
 
桃香は落雷による記憶の混乱ということで納得したようだが、青葉はたぶん千里姉の代わりに日本代表の遠征に行っていた眷属さんが買ってきたものだろうと思った。
 
ただ普段の千里姉なら、そのあたりをうまくやって、不自然さを感じさせないようにするはず。それがもしかしたら落雷のせいでコントロールが効かなくなっているのかも知れないと青葉は思った。
 

取り敢えず青葉がお茶を入れてチョコを摘まんでいたら、その千里が出てきた。
 
「早朝に試合やってたから、遅くなった」
などと言っている。
 
「試合してたの?」
「うん。勝ったけどね」
「へー!」
 
「千里ちゃん、頂いているよ」
と朋子が言う。すると千里は
 
「それ美味しいでしょ? オバマ前大統領のお気に入りだったんですよ」
と言った。
 
その答えを青葉は意外に思う。“この千里”はひょっとしたらチョコのことを知らないのではないかと思ったのである。しかし知っていたということは、この千里姉が昨夜このチョコを桃香の所に持って来たのだろうか。
 
「バスケの友人がアメリカに行っていたんだよ。昨夜あちこちに配っていたみたいだけど、最終的に何個か余ったといって実はもうひとつ同じのをもらった」
などと言って、同じチョコのパッケージを出す。
 
「わっ」
「こちらのパッケージは青葉、高岡に持ち帰ってから食べるといいよ」
と言って、千里は青葉にそれを渡した。
 
「うん。じゃもらっちゃうね」
と言って、青葉は笑顔で受け取った。
 
「あれ?千里の友だちがアメリカに行ったんだっけ?」
と桃香が訊く。
「そうだけど。昨夜そう言わなかったっけ?」
 
「千里自身がアメリカに行って来たのかと思った」
「だって私昨日午前中にも来たじゃん。そんな7−8時間でアメリカまで往復できる訳無い」
と言って千里は笑っている。
 
「そうだよな!」
 
それでこの話は何とかまとまってしまったものの、青葉はどうにも疑問が残る感じだ。
 
この日は青葉も千里も1日中付いていられるということだったが、ふたりはこの日は16時で引き上げ、退院後に必要になる、おしめ、ミルク、哺乳瓶、搾乳器、洗浄剤、ベビー服、などの買い出しに行ってくれた。
 

青葉は12日の午後は恵比寿のケイのマンションでローズ+リリーのアルバムに関する打合せをしたのだが、13日の午後は、今度は実は信濃町の§§ミュージックでアクア・プロジェクトの打合せしていた。
 
「なるほど今年はアクアの映画は夏休みに主な部分を撮影して、冬休みに公開というパターンですか」
 
「昨年は『ときめき病院物語』の撮影と『時のどこかで』の撮影がクロスオーバーする中で映画の撮影を無理矢理割り込ませて、しかも夏休み中に映画公開という強引なことをしましたからね。それでアクア君がライブ中に倒れたりして、ファンからもアクアちゃんをもっと休ませてあげてという手紙やメールが大量にあったんですよ」
とTKRの三田原課長が言う。
 
「それで今年はときめき病院物語の撮影がクランクアップする6月から、映画の撮影に入り、アクア主演のドラマは10-12月は無しで、1-3月の1クールの放送にするということで、上島先生の了承を頂きました」
と事務所社長の秋風コスモスは言っている。
 
「すると映画の主題歌は秋以降に制作すればいいですね」
「そういうことになります」
「じゃ次のシングルは普通の曲でいいですね」
「はい。それで夏休み前、7月5日か12日くらいの発売を考えたいと」
 
「ですから6月上旬に制作したいので」
「5月中に作品提供ですね。いいですよ」
と青葉は微笑んで言った。
 
まあ、このくらいの急な日程での仕事にもかなり慣れてきたね!
 

桃香は15日午前中に先生の診察を受けて退院許可が出る。千里はこの日、11時頃出てきた。
 
桃香の希望で籐製のバスケットに早月を入れて退院する。このバスケットは実は昨年奏音を出産した優子からの借り物(優子と桃香の事前の話し合いに基づき今回朋子がこちらに来る時に持って来てくれていた)なのだが、図らずも姉妹が同じバスケットを共用することになった。
 
千里はランドクルーザー・プラドを持って来ていた。
 
「いつこれこちらに持って来たの?」
と青葉が驚いて訊く。
 
「今朝こちらに持って来てもらった」
「へー!」
 
(実は貴司が5月17-21日に東京のNTCで日本代表候補の合宿があるので、そのついでに持って来てよと頼んで持って来てもらったものである。実際には矢鳴さんにお願いして、貴司と交代で運転してこちらに運んで来てもらっている)
 

プラドの3列目右側にベビーシートが設置されている。このベビーシート自体は千里が数日前に買ったものらしい。
 
「ああ、これ回転式か」
と桃香が言っている。
「うん。固定式はけっこう乗せにくい。特にこういう背の低い車では乗せにくい」
と千里。
 
ベビーシート自体の取り付け練習は桃香が少し元気が出てきてからさせると千里は言っていた。
 
「シートベルト固定式なのね」
と朋子。
 
「ISOFIXの方が簡単で安全度も高いけど、取り付けられる車種が限られるんですよね。私色々な車に乗ってるから、どんな車にでも取り付けられるものがいいと思って」
 
「確かにそうだよね!」
 

それでそのベビーシートに早月を乗せ、隣に桃香が座る。2列目に青葉と朋子が座って、千里が運転席に就く。
 
千里はプラドを運転して大宮の彪志のアパートに行った!
 
実は経堂の桃香のアパートに置いた場合、何かあった場合に千里がすぐ動けなかった場合にやばいということになり、それなら彪志のアパートの方が安心ということで、結果的に彪志に桃香のお世話を頼むことにしたのである。青葉も千里もできるだけ彪志のアパートに寄り、彪志にあまり負担を掛けないようにするということにしていた。
 
実際には千里が毎日お昼頃に出てきてお昼ごはんを作ってくれて、その後は午後いっぱいパソコンで何か作業をしている様子である。そして夕方晩御飯を作って21時すぎに「仕事があるから帰るね」と言って帰っていく。彪志君とはだいたい入れ替わりになることが多かったが、たまに彪志君が先に帰ってきて3人で一緒に御飯を食べる場合もあった。
 
「自分で御飯を作らなくていいのは楽だ!」
と彪志が言っていた。
 
「青葉も東京の大学に入れば彪志君と一緒に暮らせたのにね」
と千里が言う。
「私もそうするものだと思っていたんだけど」
と桃香も言う。
 
「青葉はお母さんをひとりにしたくないんですよ。助けてもらった恩を感じているから」
と彪志。
「つまり桃香が高岡に帰っていたら、青葉はこちらに出てこられたのかな」
と千里が言うと、桃香は咳き込んでいた。
 

桃香から見て“千里の症状”はわりと安定しているように見えたが、18日には午前中に出てきて
 
「このあと23日まで合宿で、その後、ヨーロッパに遠征に行ってくるけど、何かあったら連絡してね」
と言った。
 
「うん。気をつけてね」
と言って桃香は送り出したものの、千里は翌日以降またちゃんと午後に来てくれていた。
 

15日夕方の新幹線で高岡に戻った青葉は、大学に出席する一方で、裁判所に行って「性別の取扱いの変更の申立書」の用紙をもらってきた。一応裁判所の係の人が詳しい説明もしてくれた。
 
その日のうちに青葉の手術をしてくれた病院にいき、性別変更に必要な診断書の作成を依頼する。
 
「青葉ちゃんは、色々特殊すぎて、法令上の書式に馴染まないなあ」
などと主治医の鞠村先生は言っていた。
 
「裁判所から色々疑問を呈されたら、遠慮無く呼び出して。説明に行ってあげるから」
「よろしくお願いします」
 

それで書類自体も鞠村先生に確認してもらい、5月22日、自分の誕生日の朝1番に富山家庭裁判所高岡支部に朋子と一緒に行って、提出した。
 
「ああ、今日20歳の誕生日なんですね」
「はい。それで提出しに来ました」
「性別再設定手術は・・・・5年も前に受けたんですか!」
「ひじょうに特殊な例ということで、特例中の特例中の特例ということで、倫理委員会の許可が下りたんですよ」
「ああ。手術はあそこの病院ですね」
 
たぶんあそこで手術した人の性別変更申請が多いので、裁判所の人も信頼しているのだろう。
 
他にも色々尋ねられたが、青葉や朋子が丁寧に答えると
「分かりました。これで受け付けます」
と言われた。
 

この日は金沢へのアクアの往復は明日香に頼んでいる。
 
それで裁判所(越中中川駅の近くにある)が終わったら、青葉と朋子はそのまま新高岡駅に移動し、新幹線に飛び乗った。
 
新高岡11:10 - 13:26大宮
 
それで大宮の彪志のアパートに行く。彪志は会社に行っていて留守であるが、ここには桃香が早月と一緒に今長期滞在している。そして千里もだいたい毎日午後にここに滞在しているらしい。
 
「ちー姉、今日は何時までいいの?」
と青葉は訊く。
 
「21時頃から仕事があるから抜けるよ」
と千里。
 
「了解〜」
 

今日は青葉の誕生日なので、本来なら青葉の家に友人たちが集まる所なのであるが、桃香が今大宮から動けない状態で、千里もそこに付いているし、桃香がここにいるから彪志も動けない、ということで結局青葉と朋子が大宮に来て誕生日のお祝いをすることにしたのである。
 
ここに東京方面に来ている青葉の友人たちも夕方以降集まることになっている。なお明日香や世梨奈・美由紀など、富山石川方面にいる青葉の友人たちは昨日「プレ誕生会」と称して集まりお誕生日を祝ってくれた。
 
千里は誕生日用のお料理を作り掛けていたようである。それを朋子に任せて、自分はケーキなどを買いに出かけて行った。洋菓子屋さんのクーポンもらったからそれで買ってくるなどと言っていた。
 
「20歳過ぎたからシャンパンでいいよね?」
「頑張ってみる。でも未成年の子や飲まない子もいるから、サイダーも一緒によろしく」
「OKOK」
 

結局18時頃から人が集まり始めた。
 
日香理(東京外大)、空帆(東京工業大)、奈々美(W大)、椿妃(S音大)といった中高生時代の友人がぱらぱらとやってくる。
 
彪志も18時半頃帰って来た。今日は婚約者が田舎から出てくるのでと言って早く帰してもらったらしい。
 
これに桃香・早月・千里・朋子が加わって、主役の青葉も入れて10人の誕生会となった。もっとも早月は結構騒がしいのにすやすやと眠っていた。青葉の友人たちが「可愛い!」と騒いでいたが、さすがに生まれてまだ半月の赤ん坊はみんな抱っこする自信はないようで「抱っこはまたの機会に」と言っていた。
 

バースデイケーキは千里がきれいに10等分してくれた。それで分けていくと早月はむろんケーキなど食べられないので1個余ることになる。
 
「あれ?早月ちゃん食べられないから9等分で良かったのでは?」
という声も出るが
 
「これは、姫様に」
と言って千里が青葉の右後ろ方向に皿を献げると、スッとケーキが消えるので
 
「手品〜〜!?」
という声があがっていた。
 
「まあこういう事象は、青葉の周囲ではよく起きるよね」
と奈々美が言うと
 
「うんうん。珍しくない」
といった同意する声がまたあがっていた。
 
青葉は、ちー姉、また勝手に姫様とコネクトしてる!と思った。
 

「奈々美ちゃん、春のリーグ戦で大活躍中みたい」
と千里が言う。
 
「ありがとうございます。やっと今年からベンチ枠に入れてもらったから、出してもらえる時はガンガン行ってます」
「今の所リーグの得点女王だし」
 
「たまたまですけどね〜」
「今のままならユニバ代表に呼ばれるかもよ」
「さすがにそこまでは無理ですよ〜」
「いやスリーが撃てるスモールフォワードってのは割と貴重だよ。だから行けると思ったらスリーを撃つくらいのつもりでいるといいよ」
「はい。もしそういう機会があったら頑張ります」
 
と奈々美は言ってから
「あれ?でも千里さん、代表合宿の方はよかったんですか?」
と訊いた。
「うん。そちら終わってからこちらに来た」
「ああ!でも大変ですね」
 

青葉が今日性別変更の申請をしたことも話題になった。
 
「それってどんな書類出すの?」
という質問があるので、裁判所に提出した書類のコピーを見せる。
 
「おお!こういうものを書くのか」
「何かあった時のために覚えておこう」
「あんた性転換するの?」
「男になるのも悪くない気がするなぁ」
 
「でもこれで青葉も男の娘を廃業して女の子になるわけね」
「でも青葉の場合はそもそも男として登録されていたのが間違いという気もするよ」
「うん。変更というよりむしろ誤り修正だよね」
「青葉を男の子として扱うのは単に混乱をもたらすだけだったね」
 

この日、朋子は
「疲れたから寝る。若い子だけであとはよろしく」
と言ったら千里が
「じゃ私も仕事に行かないといけないからお母ちゃん送ってから仕事場に行くよ」
 
と言って、2人で20時半頃退出した。
 
それで千里は朋子を経堂のアパートまで送って行ったようである。
 
「千里さんのお仕事って何だっけ?」
と椿妃が訊く。
 
「ソフトハウス勤務なんだけど、今の時期はバスケットの活動があるとかで休職しているんだよ」
と桃香が説明した。
 
「いや千里さんはプロバスケット選手ですよ。ソフトハウスとか勤めるわけ無いです」
と奈々美が言う。
 
「いや千里さんは作曲家ですよ。たくさんヒット曲を出してますよ」
と空帆が言う。
 
「まあちー姉の職業は実はよく分からない」
と青葉が笑いながら言った。
 
すると桃香が言った。
 
「ねえ、千里って実は10人くらい居るということは?」
 
「その疑惑はちー姉の親友さんたちによると、20年くらい前からあるようだよ」
と青葉は笑いながら言った。
 
「うーん・・・・」
 

そんな話をした翌23日。
 
青葉の友人たちの中にはそのまま泊まり込んだ子も多かったのだが、午前10時くらいまでには全員帰っていった。青葉まで彼女たちと一緒にどこか行くと言って出て行った。
 
それで早月と2人だけになった11時頃、千里がやってきたのである。
 
「今日は早いね」
と桃香は言った。
 
普段千里が来るのは12時半くらいである。
 
ところが千里は言う。
「ごめんね〜。なかなか来られなくて。ほんとに忙しくて」
「ああ、うん」
 
「いよいよ明日からヨーロッパだけど、桃香も早月ちゃんも安定しているみたいだから大丈夫だよね?」
「まあ大丈夫だと思うけど」
 
「じゃ何かあったら連絡してね。日本とヨーロッパじゃ昼夜逆転しているからかえって夜中に何かあった時に私動けるかも」
 
「確かに」
と言ってから桃香は訊いた。
 
「でも千里、ヨーロッパってどこ行くの?」
「スペインとマケドニアとセルビア」
「昔のユーゴスラビアの付近か」
「そうそう。移動したらその度に連絡を入れるから」
「了解了解」
 
「お土産何か欲しいのある?」
「そうだなあ。スペインならアリオリソースでも」
「OK。じゃ行ってくるね」
「うん、気をつけて」
 

朋子は13時頃出てきた。
 
「あら、今日は千里ちゃんは?」
「何か出張があるらしいよ」
「へー。あの子も色々なことしてて忙しいみたいね」
「うん。昨夜も千里の職業はよく分からんという話になった」
「霊能者でしょ?」
と朋子は言う。
「そうなの!?」
 
「よく青葉と一緒に除霊とかしているみたいだし」
「そういえばそんなこともしていたな。また新たな説が出た」
 
青葉は14時頃戻って来た。
 
「途中で冬子さんに呼ばれてちょっと恵比寿に寄ってきた。そうそう。これ、忙しいみたいで来られないけど、早月ちゃんの誕生祝いだって。政子さんとふたり分」
と青葉は言う。
 
「さんきゅ、さんきゅ」
と言って桃香は受け取る。
 
「アルバムが作り直しになったらしくてスケジュールが厳しいらしいんだよ」
「そういうのも大変だなあ」
 
と言いながら桃香は《中田政子・唐本冬子》の連名になっている祝儀袋を開ける。
 
「げっ」
と声を挙げた。
 
「いくら入ってた?」
「なんか1万円札に封がしてあるんだけど〜!?」
「100万円あるみたいね」
「うっそー!?」
 
「これで入院費が払えるのでは?」
「入院費は千里が既に払ったはず」
「でも100万くらいでしょ?」
「そんなにしたんだっけ!?」
 

青葉と朋子は午後の新幹線で高岡に戻った。そして千里はその日再度は来なかったものの、翌日のお昼にはふつうにやってきて、お昼ごはんを作ってくれた。ヨーロッパ遠征の件を訊いてみようかと思ったがやめておくことにした。
 
“病気”を悪化させてはまずい。
 
「冬子から早月の誕生祝いに100万円もらったんだけど、お返しどうしよう?」
 
と桃香は千里に相談した。
 
「あとで早月ちゃんの写真撮って、それをプリントして、お礼状と、商品券を1万円分くらいでも入れて送ればいいよ」
 
「100万円のお返しが1万円でいいの?」
「冬子はお返し無しでも気にしないだろうけどね」
「なんか芸能界の習慣が恐ろしい」
「異常だよね〜」
 

青葉の誕生会に出た翌日、奈々美は大学のバスケ部監督から呼ばれて何だろう?と思い出て行った。実は青葉のアパートに泊まり込んでしまったので、そこから直接大学に出て行った。
 
「寺島君、君がユニバーシアード代表候補に緊急召集されたから」
「え〜〜!?」
「K大の山原君が昨日交通事故に遭って」
「うっそー!?」
「足の骨にひびが入って全治1ヶ月の重傷。本人は本番までに何とか回復させますと言っているらしいけど、とりあえず7月のジョーンズカップには大事を取って出場させないことになった。それで彼女の代替ができるような、スリーの撃てるスモールフォワードが欲しいんだよ。それで君に白羽の矢が立った」
 
「私でいいんですか?」
「取り敢えず代表候補だから」
「はい」
「それで他の選手との比較で、本番に選ばれるかも知れないし、選ばれないかも知れない」
 
奈々美はじっと監督の話を聞いている。
 
「でもこれは君にとって物凄く大きなチャンスだよ。次また候補に召集されるとは限らない。だから、ユニバーシアード本番のことは考えずにここ1週間くらいの代表候補練習で思いっきり全力でプレイして、自分をアピールしておいで」
 
「はい!」
と奈々美は元気に答えた。
 

それで奈々美はすぐに荷物をまとめて北区のナショナル・トレーニング・センターに急行した。ユニバ代表監督の篠原さんに挨拶し、すぐにチーム練習に参加させてもらった。
 
「おお、寺島さん楽しみにしてたよ」
とオールジャパンで対決した大阪HS大の鐘川さんが言った。
 
「君、コートネームは?」
とキャプテンの駅田さんが訊く。
 
「もし他の方とダブらなければナナで」
「OK、ナナ。じゃシュート練習の所に入って」
「はい」
 

この23日はユニバーシアード代表候補の合宿と、フル代表候補の合宿が重なっていた(フル代表は明日スペインに発つ)。それで夕方、両者で練習試合をしようということになる。
 
向こうのチームの千里と目が合ったので会釈したら、彼女はニコッと笑顔で会釈を返した。
 
ゲームでは実際に奈々美は千里と対決するシーンが出た。千里がドリブルで進攻してくるのを奈々美は手を広げて待ち構える。
 
しかし一瞬のフェイントにひっかかって抜かれてしまった。
 
逆にこちらが攻めて行く時、目の前に千里がいたが、左右どちらからも抜ける気がしない!
 
奈々美はそれでも千里の前まで突っ込んで行くと、直前で真横にパスを出した。パスをもらった鐘川さんが中に侵入してシュートを撃った。これが入ったので、結果的に奈々美にはアシストポイントが付いた。
 
この試合で奈々美は千里と5回対決したものの、1度も勝てなかった。
 
千里さん、凄い!さすが世界のスリーポイント女王だと思った。
 
ただ奈々美は昨日千里から言われたことを思い出してスリーを3回撃ち、その2本をゴールさせた。
 
結果的に6得点・1アシストである。
 

試合はさすがフル代表のダブルスコア勝ちであったが、奈々美は物凄く強力な相手との対戦で、お正月のオールジャパンの時以来の満足感があった。
 
試合が終わった後で、千里がこちらに来た。
 
「青葉のお友達の奈々美ちゃんだったよね。春のリーグで活躍しているなと思ったら、召集されたのね」
 
「怪我した人が出て、緊急召集されたんですよ。それで昨日千里さんから言われたこと思い出して頑張ってスリー撃ちました」
 
「昨日?私昨日奈々美ちゃんと会ったっけ?」
「えっと青葉ちゃんの誕生会で話しました・・・よね?」
 
「ごめーん。青葉の誕生会の話は聞いてたけど、合宿中だから行けなかったんだよ。ケーキ屋さんのクーポン送っておいたんだけど」
 
などと千里が言っているので、奈々美は訳が分からず首をひねった。
 

5月31日。
 
日本バスケ協会は、東アジア選手権に出る男子代表12名、そしてユニバーシアードに出る女子代表12名を発表した。
 
直前の合宿(枠16名)までは召集されていた貴司はこの12名の枠に残ることができなかった。
 
一方、ほんの1週間前に緊急召集された奈々美は、この12名の枠に入れられた。
 

なお“千里1”が参加する日本女子フル代表候補の一行はスペイン合宿(5.24-29)を終えてマケドニア合宿(5.30-6.05)に突入していた。
 
フル代表の一行はマドリードからマケドニアのスコピエに直行したのだが、その途中のフランス・マルセイユには実は“千里3”が居て、現地の女子プロチームのメンバーと一緒に日々練習に明け暮れていた。
 
そして“千里2”は某所でリーグ戦に参加し、今季無敗の快進撃を続けていた。
 
 
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【春乱】(2)