【春弦】(中)

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公演が終わってから会場を出て、駐車場の方に移動していた時、通りかかったタクシーがヒロミたちのそばで停まり後部座席の窓が開いた。
 
「ヒロミ!」
と声を掛けたのは青葉である。ステージでは浴衣を着ていたのだが今は学校の制服姿である。
 
「青葉! サックスの演奏見たよ。凄いね」
とヒロミは笑顔で言う。
「わあ、あの演奏見たんだ? じゃ今のライブに来てたの?良くチケット取れたね」
「放送局の人からチケット頂いたんだよ。あ、こちらうちの父と母です」
 
「わ。お父様、お母様、車中から失礼します。ヒロミさんの友人の川上青葉です」
と青葉が挨拶する。
 
「こんにちは」
とお母さんが笑顔で挨拶してくれた。
 
その時、突然ヒロミは思いついた。
 
「ね。青葉、水曜日空いてる?」
 
水曜日は部活の練習がお休みである。
 
「あ。何か用事?」
「いや、もし空いてたら、ちょっと付き合ってくれないかなと思って」
 
「それ幸い! 付き合うよ。何か用事を作りたかったんだ」
「へー!」
「青葉、ヴァイオリンも練習してたよね? そのヴァイオリン持って来てくれないかなと思って」
 
「あれ、全然練習してない!」
「え、そうなの?でも来てよ」
「うん、いいよ」
 
「じゃ月曜日、13時に高岡のシダックスに」
「8号線沿いの?」
「そうそう」
「了解。午後1時ね。じゃまた」
「うん。また」
 

それで青葉はヒロミの両親に会釈して去って行った。
 
「普通に女の子の声だ」
とヒロミの父。
 
「あの子は声変わりが来る前に去勢しちゃったんだって。だから男の子の声は出ないらしいよ」
「それはまた凄いな」
 
「中3の時は、卓球の大会に女子選手として出たしね。ちゃんと出場許可が出たらしい」
「まあ、あの子見て少なくとも男には見えないよなあ」
などと父も言っていた。
 

自宅に帰ってから父はヒロミに言った。
 
「お前が女の子として生きたいというのであれば、それもまた良いと思う。今日1日お前と一緒に行動していて、お前が男の子していた時より伸び伸びとしているのに俺は気付いた。でも、もし男の子に戻りたいと思ったら遠慮無く言え。女の子として生きるのも、きっと大変だぞ。ダメだと思った時は後戻りしてみるのも良いことだ」
 
「うん。その気になったらね。でも今更私が男の子に戻ると言ったら女子の友人たちから袋だたきに遭うだろうなあ。女の子同士という前提で一緒に着替えたり、一緒にお風呂入ったりしてるし」
とヒロミは言う。
 
「お前、女の子と一緒にお風呂入るの!?」
「え?だって私、女の子だもん」
とヒロミ。
 
「ちょっと待て。女の子と一緒にお風呂に入れるって、やはりもう性転換手術しちゃってるの?」
「まっさかぁ」
 
「この子、中学の修学旅行では、水着を着て女湯に入ったらしいですよ」
と母が言うと
「水着か!びっくりした」
と父は安堵したように言った。
 

水曜日。8月7日。
 
ヒロミがシダックスに行くと、既にロビーに青葉と、杏那さん・恵規(さとみ)さんが来ている。
 
「わぁ、遅くなりました。ごめんなさい」
と言うが、
 
「まだ15分前だよ」
と青葉が言う。今日も青葉は高校の女子制服を着ている。(ヒロミも女子制服で来ている) 
「あ、紹介します。こちら、私の友人の青葉です。こちら、先日イベントで一緒になった杏那さん、こちらが恵規さん」
 
お互いに挨拶を交わす。最年長(23歳くらい)の杏那さんが受付で予約していた旨を伝える。伝票をもらって部屋に入る。杏那さんは胡弓とヴァイオリンのケースを持っている。青葉もヴァイオリンのケースを持っている。恵規さんは三味線のケースを持っている。ヒロミも胡弓のケースを持って来ている。
 
「なんかみんな楽器を持っているみたいだから、取りあえず合わせてみよう」
と杏那さんが言うが
「私、完璧な初心者です!」
と青葉。
 
「構わん、構わん」
「それでCDとか出す訳でもないし」
などと言われ、青葉もヴァイオリンを取り出して調弦する。他の人もそれぞれ調弦している。
 
「何を弾くんですか?」
「『荒城の月』を弾いてみよう」
「了解〜」
 
杏那さんが「この音で」と言って最初の音を出し、これにみんなで合わせて演奏を始める。杏那さんのヴァイオリンがメロディーを弾き、ヒロミの胡弓と青葉のヴァイオリンはそれと同じ音を弾き、恵規さんは三味線でリズムを刻む。 
でも青葉の「初心者です!」というのは確かだなとヒロミは思った。なかなか出そうとする音が出ないようで、出してみてから指の位置を調整してそのピッチに合わせようとするが、高すぎたり低すぎたりして、なかなかその音に合わない。そんなことをしている内に次の音に行く、というので今日の青葉のヴァイオリンは結果的に音を外しまくっていた。
 

「青葉ちゃんは、練習しはじめてから1ヶ月くらい?」
と演奏が終わってから杏那さんに訊かれる。
 
「実は友人から春にこのヴァイオリンを頂いたのですが、同時にサックスとフルートも練習し始めて、今は9月の大会に向けてサックスの練習に集中しているので、ヴァイオリンは全く練習していません」
と青葉は正直に答える。
 
「いや、全く練習していないにしては、弓の使い方はちゃんとしていた」
「うんうん。ノコギリの音じゃなくて、ちゃんとヴァイオリンの音になってた」
 
「練習すればすぐ上手くなるよ」
「そうですね。大会が終わったら少し練習しようかな」
「サックス吹くんだったら、それ持って来てもらっても良かったかな」
「さすがにサックスの音出したら、お店から文句言われませんかね?」
「どうだろう? 大丈夫だと思うけどなあ」
 
「あ、じゃ、青葉は歌を歌う? この子、4オクターブの声域持っているんですよ」
とヒロミが言うと
 
「おお、それは凄い!」
ということで、その後、青葉は専ら歌う係となった。
 

杏那さんが自分のヴァイオリンを出して、ヒロミにヴァイオリンの支え方や弓の使い方を教えるが、青葉まで
 
「ああ、そうするんだったんですか!」
などと言っている。
 
「ほんとに初心者なんだ!」
「弦をGDAEで調弦することくらいしか知りません」
 
「いや、それだけ知っていたら偉い」
 
結局は杏那さんが、ヒロミと青葉の両方に教えてあげる感じになった。 

その日は、ある程度ヴァイオリンのお稽古をした後で、ヴァイオリン(杏那)・胡弓(ヒロミ)・三味線(恵規)の共演に青葉が歌うという形で、ポピュラーな民謡から、少し古いポップス、唱歌などの類いを演奏しまくった。青葉は歌詞の分かる曲は歌詞で、分からない曲はラララとかアーアーとかで歌っていた。 
「あ。そうそう。みなさんにお土産」
などと言って、青葉は東京ばな奈を配る。
 
「あれ? 東京に行って来たんだ?」
「うん、週末にサックスのレッスンで」
「へー! 東京まで行ってレッスン受けてるんだ?」
 
「いや、知り合いに北陸付近でサックスを習える所を訊いたはずが、何故か東京で本格的に凄い先生について習うことになっちゃって、焦りました。向こうもこんな初心者に教えるのは戸惑ったんじゃないかと思ったけど」
 
「有名な先生?」
「元Lucky Blossomの鮎川ゆま先生です」
「おぉ! それは凄い」
 
「金曜日の、ローズ+リリーのコンサートのオープニングでサックスを吹いたからね」
とヒロミが言う。
 
「いや、あれは私が『聖少女』という曲の共同作曲者としてクレジットされているので、一度ファンに顔見せしておいてよ、と言われたんだよ」
 
「作曲するんだ!」
「しません。ただ、ケイさんがあの曲を着想した時に、ちょうど私がヒーリングをしていたのを見た直後だったので、曲の中に私のヒーリングの波動が混入してしまったんですよ。それでそのことを言ったら、ケイさんが私を共同作曲者としてJASRACに登録しちゃったんです。でもあのCDはミリオン売れたから凄い印税頂きました」
 
「へー!いくらもらったの?」
「あくまで6曲入りCDの中の1曲の、その作詞作曲家取り分の2割を頂くという契約だったのですが、あの曲何人かのアーティストにカバーとかもされて、その分とかも入って来たので最終的には600万円くらいです。今でも年に4回数万円振り込まれてきますね」
 
「凄っ!」
 

「でも、ヒーリングって、どんなの?」
 
「えっと、例えば、杏那さん、左の膝を痛めてますよね?」
「え?どうして分かったの?」
 
「それが分かるのが、この子の凄いとこなんです」
とヒロミが言う。
 
「ちょっとヒーリングしていいですか?」
「あ、うん」
 
それで青葉は杏那さんの隣に席を移り、そこで左膝の所に左手を当てた。 
「あれ? なんか気持ちいい」
 
「これ時間掛かりますから、他の方は何か適当に演奏とかしていてもいいですよ」
 
「よし」
と言うので、恵規さんが主導して三味線で『出船』(勝田香月作詞・杉山長谷夫作曲)を弾き語りする。それにヒロミが胡弓で合わせる。
 
その演奏が終わった所で青葉が訊く。
「これ、交通事故か何かですか? 1年くらい経ってる気がする」
 
「そうそう。ちょうど1年前の8月に農道を走ってて、瞬眠を起こして道路の外に飛び出しちゃって。車は全損。私も骨折で1ヶ月入院した。医者は、変形した部分は治しようがないからリハビリで克服するしかないと言ってるんだけど」
と杏那さん。
 
「なるほどですね」
と言いながら、青葉はその《変形した部分》の治療を試みていた。同時にその付近で滞っている気の流れを正常化させる。
 
実は高校に入ってから、親からも周囲からも仕事を控えろと言われて、最近あまりやっていないので青葉自身がこういう作業の感覚を忘れないようにするための練習を兼ねている!
 
更に恵規さんとヒロミが『北の宿』『平城山(ならやま)』『月の沙漠』と演奏をしていった所で、青葉は
 
「だいたい今できる範囲でヒーリングしました」
と言う。
 
「何だか膝の付近が火照ってる感じ」
「気の巡りを良くしたので、血液もリンパもよく通るはずです」
「痛みも軽減した感じ」
「お風呂に入ると、もっと良くなりますよ」
「ほんと? じゃ、みんなでお風呂に行こう」
 
「え?」
「今から?」
「みんなで?」
「折角だもん」
 

ということで、近隣のスーパー銭湯に行くことになる。杏那さんと恵規さんが車で来ていたので杏那さんの車に青葉とヒロミが同乗させてもらい移動した。 
楽器は車の中に置いて中に入る。
 
青葉がヒロミに小声で
「大丈夫なんだっけ?」
と訊いたので、ヒロミは
「たぶん」
と笑顔で答えた。
 
受付で赤いタグの付いたロッカーの鍵4つをもらい中に入る。
 
お客さんは結構居る。町中で駐車場も広いからだろうか。脱衣場で自分のロッカーの番号を見つけて服を脱ぐ。
 
「青葉ちゃん、胸大きいね」
と恵規さんから言われる。
 
「中学1年頃までは絶望的な貧乳だったんですけどねー。その後どんどん成長して、今Dカップのブラ着けてます」
 
「ああ、バストって成長し始めると急激に大きくなるんだよ」
と杏那さん。
 
「でもこれでD?」
「ブラきつくない?」
「Eカップでもよくない?」
「そんなEなんて、いいですー」
「それダジャレ?」
「えっと・・・」
「大きいことはいいことだよ」
「恥ずかしがることないのに」
 
「でもヒロミちゃんは、胸小さいね」
と恵規さんから言われると、ヒロミはちょっと恥ずかしがっている。
 
「この子、中学の時は男みたいに胸無くて、絶壁とかからかわれていたんですよ。でもやっと成長し始めたみたいですね」
と青葉が代弁する。
 
「ああ。じゃ、2年後くらいには青葉ちゃん並みに成長してるかもね」
「そうそう。成長する時期は個人差が大きいんだよ」
 

そんなことを言いながら4人とも服を脱ぎ、裸になる。
 
何となくヒロミが青葉の股間付近に視線をやったが、青葉もヒロミの股間を見ていることに気付く。青葉にはバレちゃうかな? 一緒にお風呂に入るのはこれが4度目だ。最初は昨年秋の修学旅行だが、あの時ヒロミは完璧に男の子の身体だったので女子水着を着て女湯に入っている。
 
2度目は春の新入生合宿、3度目はその直後の中学の友人たちとの温泉行きであるが、この2回は水着などは着ずに入っている。当時既に胸が結構膨らんで着ていたので、下さえ隠しておけば特に騒がれたりせず、みんなと一緒に女湯に入ることができた。しかし自分はもう男湯には入れない身体になっちゃったからなあ。
 
あまりじろじろ見ても変だしと思い始めた頃、みんなで浴室に移動する。 
脱衣場も人が結構いたが、浴室内もかなりの人数である。
 
「平日にこれだから、休日は混むんだろうね」
 
各自空いてる洗い場を見つけて、そこで身体を洗う。
 
ヒロミはまず身体全体にお湯を掛けた上で、まずはあそこを洗う。ここを洗うのにも最初は凄い戸惑いがあったものの、だいぶ慣れた。丁寧に優しく、垢のたまりやすい所を指で開いて洗う。
 
それから石鹸をつけて顔を洗い、それから喉、胸と洗う。胸を洗う時、大きな曲線に沿って手が動く。この曲線が女であることの証だ。去年の暮れから今年に掛けて、この曲線が日に日に大きくなっていった時期をヒロミは思い出して感慨にふけっていた。
 
だいたい身体を洗ったところで、お互いのアイコンタクトで、まずは内風呂の比較的大きな浴槽に集まる。(ここは内風呂の向こう側に露天風呂があるようだ)ヒロミは何となくお股付近に手をやっていた。青葉は胸の付近に手を置いている。恵規さんは自分と同様、お股の付近に手を置いているが、杏那さんはお股も胸も堂々とさらして、浴槽の縁に手を置いたり体操でもするかのように手を伸ばしたり、やや落ち着かない感じ。
 
「こういう大きなお風呂もいいですよね」
と恵規さんが言う。
 
「うんうん。自宅でひとりでのんびり入るのもいいけどね」
と杏那さん。
 
「私は家族と一緒だから全然のんびりできない。うちの父ちゃん、私が入っていてもいきなり浴室のドアを開けたりするし」
と恵規さん。
 
「まあ浴槽に浸かっている時は音がしないから気付かないことありますよね」
と青葉がフォローする。
 
「ああ、でもさっきヒーリングしてもらった付近の血行が凄くいい感じ」
と杏那さん。
 
「自分ででも軽くマッサージしたりするといいです。マッサージはあまり強くしないでくださいね。毛細血管を切って、よけい悪くなりますから」
「へー!」
 
「あくまで優しく、優しく、子猫を撫でるようにです」
「子猫って、あそこのことじゃないよね?」
「ちょっと、ちょっと」
 

「でも凄いね。こういうヒーリングとかって、どこで覚えたの?」
と杏那さん。
 
「これは気功なんですよ。曾祖母から習いました」
「へー!」
 
「元々、霊的な仕事のついでだよね?」
とヒロミが言う。
 
「うん。本業は霊的なお仕事だから、ヒーリングは余技。特にお金持ちからそのために頼まれたような時以外はお金も取らない」
と青葉。
 
「れいてきなお仕事?」
と恵規さんが訊く。
 
「この子、日本で五指に入る霊能者なんですよ」
とヒロミ。
 
「えーー!?」
「多分、寺尾玲子さん、竹田宗聖さん、秋月慈童さんの次くらいが青葉ですよ」
「それはない。私より凄い人たちは何人もいる。それに慈童さんは霊能者というのとは少し違うよ。あの人はあくまでお坊さんだから」
 
「ねぇ、青葉ちゃん。そういう方面に関わっているなら『呪いのヴァイオリン』
なんての興味無い?」
 
「ありません!」
と青葉は即座に否定した。その手の話にいちいち関わっていたら、命がいくつあっても足りない。
 
「いや、実は私の伯父さんがそういう『呪いのヴァイオリン』と呼ばれているものを買ったのよ」
 
「わあ」
「それを買った途端、持っていた株が大暴落して3億円損して」
「ひゃー」
「本人も自動車にはねられて2ヶ月入院」
 
「それ、わざわざ『呪いのヴァイオリン』と言われていたものを買ったんですか?だったら自業自得だと思いますけど」
と青葉は冷たい。
 
面白がってそういうのに首を突っ込む人自体に関わりたくない気分だ。その手の人は霊能者の指示を守らないから、下手すると、こちらまで危険なことに巻き込まれてしまう。
 
「1億円で買ったらしい。それから息子さん。私の従兄になるんだけど、その人が電車で痴漢で捕まって。本人は絶対にやってないと言って否認して今裁判しているけど、状況は不利らしい」
 
「痴漢は水掛け論になりやすいから。認めたら社会的な名誉も地位も失う。否認すると態度が悪いと言われる」
 
「だったら痴漢と疑われたらどうすればいいの?」
「疑われたら人生終わりですね」
「それ酷い」
 
「物凄く頑張って潔白を証明した人もいますけど、そんなのごく少数です。無実の罪で家庭崩壊し、仕事も失い、泣き寝入りしている人がたくさん居ますよ。だいたい後ろから触られることが多いから、振り向いて即手を掴んだつもりでも別人の手を掴んでしまうことあるんですよね」
 
「でも被害者はその掴んだ手の主が犯人だと思い込むだろうね」
「だから水掛け論なんです」
「裁判が灰色決着で無罪になった場合でも、ずっと噂されるよね」
「そういうケースもありますね」
 
「青葉は痴漢に遭ったことない?」
「あるけど、即座に相手の股ぐらを思いっきり蹴ったくった」
「おお、凄い!」
 
「これだと万一加害者を誤認した場合でもその被害は最小限だよね。一応機能障害が残らない程度に蹴ったよ」
 
「ちょっとぉ」
「機能障害が残るような蹴り方があるの?」
「一生勃たないように蹴ることもできますけど」
「こっわー」
 

「まあ、それで実は本人もちょっと反省して、このヴァイオリンどうにかならないだろうか? ってこないだうちの父に相談に来てたんだけどね」
 
「関わるの拒絶したでしょう?」
「当然。こちらまで影響が出たらかなわないもん」
「でもその息子さんはちょっと可哀想だなあ。本当にやってないのなら」
 
「青葉、その人、無実かどうか分かる?」
「今、何時何分?」
 
「え? 今あそこの時計では16:28」
「足して44。44は易では天風{女后}」 (1文字。女偏に后でコウと読む) 
「なになに?」
「女難の相という奴です。無実でしょうね」
「だったら、何とかしてあげない?」
 
やれやれと青葉は思った。でも私は弁護士じゃないぞ。
 
「そういう呪われたヴァイオリンって、お寺とかに収めてお焚き上げしてもらうといいの?」
 
「本人との関わりを切ってから焚き上げないと、呪いがそのまま固定化される可能性もあります」
「うーん。。。」
 
「それにそのヴァイオリンのせいではなく、別の原因だったら無意味です」
「それはもっとやばい」
 
「ね、ちょっと見てあげない?」
「だったら依頼料頂けるのでしたら見てもいいです」
「依頼料って幾ら?」
「呪いに関する仕事はこちらも身を危険に曝すんです。最低100万円前金で」
「お」
 
「青葉ちゃん、それちょっと叔父さんに訊いてみるよ」
 
杏那さんはどうも、青葉が100万と言ったのでよけい青葉を信用した感じでもあった。断りたいから、わざと100万なんて言ったのに!
 
「私、18日までは時間が取れないので、もしお話がありましたら、その後で」
と青葉が言うと
 
「あ、じゃ青葉に依頼するかどうかの返事は私に」
などとヒロミが言う。
 
どうも結局関わることになりそうだなと思い、青葉は溜息を付いた。
 

5時になったので帰ることにする。杏那さんがヒロミと青葉を自宅まで送ってくれることになった。最初ヒロミの自宅まで行き、ヒロミを降ろした後、青葉の自宅まで行った。
 
「あれ? ここ君のおうち?」
と杏那さんが訊く。
 
「ええ。何か」
「いや、高校の時の後輩がここに住んでいたので。何度かここに来ておやつ作りとかして、お母さんにも色々お世話になって」
 
「それたぶんうちの姉です。ちょっと待ってて下さい」
と言って青葉は車から降りて玄関を開け
 
「お母ちゃーん」
と言って、朋子を呼び出す。朋子が出てきて杏那を見ると
 
「あら、杏那ちゃん!」
と言って笑顔で声を掛ける。
 
「高園さん! あれ、じゃ、青葉ちゃんって、桃香ちゃんの妹?」
「はい、そうです」
「桃香ちゃんに妹さんがいたって知らなかった。あれれ、でも苗字が・・・」
 
「ああ。私、東北大震災で親を失って、それでこちらの家に引き取ってもらったんですよ」
と青葉は言う。
 
「えーーーー!?」
「一応、法的には後見人ということで。養女にはしてないから苗字は元々の川上のまま。高園にはしてないのよ」
と朋子は説明する。
 

で、結局近所の駐車場にお願いして杏那の車を置かせてもらい、家にあがってもらって話をすることになる。結局、杏那が自宅に連絡を入れて、夕食を一緒に食べて行くことになった。
 
「高校出た後は桃香ちゃんともあまり連絡取ってなかったから、そういう話が起きていたというのは全然知りませんでした」
と杏那。
「あ、この酢豚、美味しい」
 
「普段は青葉が作ってくれるんで、久しぶりにやったから、パイナップルを危うく入れ忘れる所だった」
「あ、パイナップルは《入れる派》ですね?」
と杏那が訊く。
 
「私は割とどちらでもいいんだけどねー。青葉は入れる派だよね」
と朋子。
 
「やはり、パイナップル入れることで味がまとまると思うんですよね。酢の酸味とパイナップルの甘味が凄く調和するんです」
と青葉は言う。
 
「私もどちらかというと《入れる派》だけど、入ってなくても気付かないかも」
と杏那。
 
杏那は桃香と同じクラブ(科学部)の1年先輩らしい。富山大学の工学部を出て社会人2年目である。コンピュータのハードウェアのメンテの仕事をしているらしい。
 
「でも、杏那ちゃん、うちの旦那の会社のイベントに出たんだ?」
「うちの父が、あの会社の常務と、草野球仲間なので、頼まれたんですよ」
「へー。でも胡弓とかヴァイオリン弾くというのは知らなかった」
「学校ではあまりそういう話してませんでしたからね」
 

「でも、青葉ちゃん、大変だったわね」
「ええ。震災直後はショックだったけど、桃香お姉ちゃんやお母ちゃんのお陰で、とっても元気になりました」
 
「この子、ずっと霊能者のお仕事してたから。そのお仕事をすることで自分の存在意義を見つけていった気がしますね。自分自身も大変だったろうに、行方不明になっている遺体をたくさん見つけてあげたよね」
と朋子は言う。
 
「あれはなかなか大変でした」
「凄いね。そういう霊能者の仕事って、小さい頃からやってたの?」
 
「幼稚園の頃からしてたって言ってたね」
「当時は曾祖母の助手だったんですけどね」
「へー!」
 

「まあそれで、うちの伯父の件で、青葉ちゃんに面倒をお掛けするかも知れません」
と杏那。
 
「また? 何か危険なことじゃないわよね?」
と朋子が言う。
 
「その手の話に関わりたくないんで、最低100万円、前金でと言ったら、杏那さん、それで逆に私を信頼なさったみたいで」
と青葉が頭を掻きながら言う。
 
「いや、多分伯父は100万円出すと思います。実は伯父の息子、私の従兄が痴漢の疑いを掛けられて、今裁判中なんですよ」
 
「裁判なら、弁護士さんの仕事では?」
と朋子。
 
「それが《呪いのヴァイオリン》というのが関わっているのではないかと」
と青葉。
「呪いって危険なのでは?」
と朋子。
「うん。だから最低100万円と言った。実際、そのくらいもらわないと、とてもやってられない」
と青葉。
 
「やはり危険なのね?」
「大丈夫と思うけどなあ」
 
と青葉は斜め後ろの方に気を向けながら言う。そこでは噴水の女神様が楽しそうに『任せろ』という感じの顔をして青葉に笑顔を見せている。(むろん朋子や杏那には見えない) 

青葉は木曜日は部活に出たものの、金曜日は休ませてもらい、高園家の菩提寺にある淡島堂に籠もらせてもらい潔斎してずっと観音経を唱えていた。夕方、普通の服に着替えてサンダーバードに乗り大阪に出る。菊枝・瞬高さんと合流する。 
「青葉、今何か呪い系の案件抱えてるね?」
と早速菊枝から指摘されてしまった。
 
「ああ。もうその兆候が出てますか? まだ引き受けるかどうか返事してないのに」
「呪い系は、こちらの身を削るような対処になるからね」
「まあ、仕方無いですね」
 
「ちょっと他の人に影響ができないように一時的な封印掛けるよ」
と菊枝は言い、何かの真言を唱える。青葉の聞いたことのない真言だ。菊枝のこの手の知識や能力というのは、どのくらいの規模なのだろう? 青葉にはまだまだ菊枝の「全容」の見当が付かない。
 
そういえば昨年の4月も呪いの事件を抱えて、高野山に師匠を訪ねたのだった。青葉は1年ちょっと前のことを思い出していた。その師匠はもう居ない。これからは何とか自分で対処して行かなければならないのだ。
 
むろんどうにもならない時は菊枝、瞬高、瞬醒、瞬嶺らが助けてくれるかも知れないが、それは本当に最後の手段だ。
 
「瞬葉(青葉)ちゃん、性転換手術の痕はもう痛まないの?」
「完璧OKです」
「師匠を送った時も、葬儀の時もそんなこと言ってたけど、まだ7−8割の状態と見た」
と瞬高さん。
 
「でももう大丈夫です」
と青葉は言うが
「私に言わせればまだ50%だね」
と菊枝。
「ああ、やはりそんなものか」
と瞬高さんは納得したように言った。
 

高野山の奥での回峰行は8月10日から16日まで一週間であった。その後、東京に出てサックスの先生・鮎川ゆまさんのレッスンを受け、18日深夜に高岡に帰宅した。帰りは上越新幹線と《はくたか》を乗り継ぐのだが、越後湯沢までの新幹線では彪志が同乗してくれて、束の間の車内デートをした。
 
その彪志と別れた後、ヒロミからメールが届いた。
 
《多分そろそろデートが終わった頃と思ったから。ヴァイオリンの件、お願いしますという連絡があったよ》
 
青葉は溜息をつく。まあ、こうなるとは思ったけどね。
 

自宅に戻ると、桃香と千里が帰省してきていた。ふたりは8月中旬から9月いっぱいまでが夏休みだが、9月中旬くらいに向こうに戻る予定らしい。それまでこちらに滞在する。帰省してきたのは、ちょうど青葉が大阪方面に行くのと入れ違いになったようである。
 
青葉が帰宅した夜はふたりとももう寝室に入っていたので、翌19日朝に朝顔を合わせた。
 
「青葉がどんなサックス使ってるのか、ちょっと見せてもらおうと思ってケースを開けたらバイオリンが入っていた」
などと桃香が言う。
 
「サックスは東京に持って行ってレッスン受けてきたから」
と青葉は笑顔で答える。
 
「しかしわざわざ東京まで行ってレッスン受けてくるとは凄いな」
と桃香。
 
「いやぁ、北陸方面で適当な先生を紹介してもらおうと思ってたら、いつの間にか東京でレッスン受ける流れになっててびっくりしたというか」
と青葉。
 
「何か有名な先生とかに付いてるのか?」
「鮎川ゆま先生というんだけど」
「Lucky Blossomの?」
「うん」
 
「凄い。今度のレッスンの時にサインもらってくれ」
「桃姉、Lucky Blossomとか聴くんだ?」
「解散したのが惜しいよ」
 
母親の朋子がジャニーズフリークである反動で、娘の桃香は専ら洋楽を聴いていたのだが、技術の高い人ばかり集まって結成された Lucky Blossom はそういう桃香の耳にも受け入れられたのであろう。
 
「でも昨日で鮎川先生のレッスンは終わりだったんだよ」
「残念!」
「また秋にレッスン受けに行くけどね」
「その時、ぜひ」
「忘れてなかったらね」
 
あまりレッスンの時にサインをねだるというのは、したくない。
 

「ところでヴァイオリンの方はどのくらい弾くの?」
 
「それはもらっちゃったんだよね。もらっちゃったから、練習しようとは思ってるけど、今はサックスの練習で忙しいから、後回し」
と青葉は答える。
 
正直、先日のカラオケ屋さんで杏那さんに少し習った以外は、ほとんど弾いていない。
 
「取りあえずバイオリン何か弾いてごらんよ」
と言われるのでケースからヴァイオリンを出して弾いてみる。
 
念のため音合わせからする。まずは音叉でAの音を出し、これにA線(第2弦)を合わせ、それと響くようにD線(第3弦)を合わせる。そしてG線(第4弦)・E線(第1弦)と合わせていった。
 
で・・・・G線だけを使って!『アマリリス』を弾いてみせた。
 
「青葉、1つの弦だけで弾くなら4本とも合わせなくても良かったのでは?」
と桃香に指摘される。
 
「いや、気持ちの問題で」
 
などと言っていたら、
 
「青葉、そのヴァイオリンの持ち方、少しおかしい」
と千里が言う。
 
「あれ、ちー姉、ヴァイオリン弾くんだっけ?」
 
「自己流だよ。でも自己流の私が見ても、青葉の構え方はおかしい」
 
と言い、千里は実際に触りながら、青葉に正しい持ち方・支え方を教える。杏那さんには指摘されなかったが、恐らくは、短時間だったので、そこまで指摘しなかったのだろう。
 
「左手でヴァイオリンを支えたらダメだよ。そしたら自由に左手を動かせないから。ヴァイオリンはあくまで肩と顎で挟んで支える」
 
「何か違和感がある」
と青葉。
 
「慣れたら、こちらの方が楽になるよ」
と千里。
 
「青葉、たくさん弾き直しながら弾いてたね」
と桃香が言う。
 
「まだどこを押さえたらどの高さの音が出るかという感覚が分からないんだよね。だから高すぎて下げたり、低すぎて上げたりの繰り返し」
 
「それはたくさん弾いていたらちゃんと分かるようになる。さっきG線だけで弾いてたけど、最初はそれでいいと思う。G線で感覚がつかめたら、他の線もすぐできるようになる。移弦の練習はその後でいいよ。私がこちらに居る間は毎日教えてあげようか」
 
「うん。じゃ、お願いしようかな」
「大会前でサックスたくさん練習しないといけないだろうから、毎日30分ずつヴァイオリンの練習しようか」
「よろしくー」
 

20日(火)。ヒロミと待ち合わせた上で、杏那さんと落ち合うことにするが、杏那さんに会うと言ったら、桃香も付いて行くと言った。実際、母の車を桃香が運転して、ヒロミを拾い、杏那との待ち合わせ場所に行ったのだが、桃香の荒い運転に青葉はキャーっと思う。信号も赤に変わってから突っ込んで行くし!田舎だからいいけど、都会だとすぐ切符切られるのでは?
 
「おぉ、桃ちゃん!」
「杏那さん、ご無沙汰です!」
としばし再会に伴う交歓。
 
「まだ千葉に居るの?」
「ええ。修士課程行ってるから、来年度いっぱいまで」
「だったら就職はその後か」
「まあ、就職しても関東方面に居座るつもり」
「そうだねー。こちらあまり良い仕事無いだろうし」
「杏那さんはどこに勤めてるんですか?」
 
「私は***」
「大手じゃないですか!」
「大手だから、よけいそうなんだろうけど男女差別をひしひしと感じるよ」
「ああ、一般社会はそうなんだろうなあ。学生の内はまだいいけど」
「やはり日本は男社会だよ」
「私、男になっちゃおうかなあ」
 
「桃ちゃん、昔からよくそんなこと言ってたね」
「男として生きて行く自信はあるんだけどなあ」
「男装とかするの?」
「あまりしたことない」
「なるほど。少しはするのか」
 
「でも可愛い妹さんね」
「うん。可愛い。元男の子だとは思えんだろ?」
「は?」
 
「この子、生まれた時は男の子だったのだが、去年中三の時に手術して女の子になったのだよ」
と桃香はあっさり青葉の性別をバラしてしまう。
 
「うっそー!?」
「ついでに、そちらの少女も元男の子だ」
と桃香はヒロミの性別もバラしてしまう。
 
「えーーーー!?」
「そちらも性転換手術済みだっけ?」
「えっと・・・」
とヒロミが返事をためらっていたら
 
「いや、女の子の身体だったよ。こないだ青葉ちゃんともヒロミちゃんとも一緒にお風呂に入ったもん」
と杏那が言う。
 
「ああ。だったら手術済みか」
と桃香。
 
「最近は中高生でも性転換手術するんだね」
「こういうのは若い内にやっちゃった方がいいと思うよ。40歳、50歳になってから手術しても変なおっさんにしか見えん。10代でやればちゃんと女の子になれる」
「まあ、確かにそうだよねー」
 
とふたりは勝手に納得してしまった。
 
「取りあえず美少年はみんな小学生の内に去勢しておけばよいよな」
などと桃香は言い出すが
「それじゃ次世代に美形の遺伝子を残せないよ!」
と杏那は言った。
 

結局、青葉・ヒロミ・桃香・杏那と4人で、杏那の伯父、山田康作の家に行った。父親が音楽教師で、作曲家の山田耕筰にちなんで命名したらしいが、本人は普通の大学の経済学部を出て、会社勤めを数年した後は、その間に貯めた資金を元に株を始め、何度も大きな相場を当てて数十億の資産を作ったらしい。 
大手企業の安定株と国債・地方債などで大部分の資産を運用している一方で、地元の企業にも投資し、多数の会社の経営にも影響力を持っているという。「うるさい株主」として知られている(と本人は言っていた)が、ヒロミの父の会社には関わりは無かったようである。
 
「初めまして。川上青葉と申します」
と青葉は自己紹介する。
 
「去年竹田宗聖さんの心霊番組で、**町の幽霊騒動を取り上げたの覚えておられますか?」
とヒロミが言う。
 
「ああ。あったね」
「あれを解決したの、実は川上さんなんです」
「それは凄い!」
 
「うーん。それは明かさないことにしてたんだけど」
と青葉。
「竹田さんとはお互いに助け合ってるよね?」
「そうだね。お互いに不得意な分野は協力して。それは竹田さんだけじゃないけど」
 
「霊能者のネットワークがあるんだな」
などと桃香は言っているが、実は桃香は心霊的なものを一切信じていない。 

それで山田さんが100万円の額面の銀行振出小切手を渡す。マネージャー然としている桃香が受け取り、用意しておいた領収書を渡す。
 
「それでこれが問題のヴァイオリンなんです」
と言って山田さんが楽器を持ってきた。
 
「きれい!」
と杏那が声を上げた。
 
「これはかなり古いヴァイオリンですね」
とヒロミが言う。
 
「16世紀くらいのものですか?」
「ええ。アマティなどと同時代の****という作家の作品と言われています。この彫刻を施したのはレオナルド・ダ・ビンチという説もあるのですが」
 
このヴァイオリンは棹の端が船の船首像のような女性の形の彫刻になっているのである。しかもその女性がヴァイオリンを弾く姿になっている。つまりヴァイオリンの棹の先に小さなヴァイオリンがあるのである。昔はこの手の装飾性の高いヴァイオリンが結構あったようだ。
 
「うーん。それはどうなんでしょうね。でもかなり腕のある彫刻家でしょうね。すごく綺麗だもん」
などと桃香も言う。
 
一方の青葉はそのヴァイオリンを見た時から、ずっと顔をしかめていた。 
「その弦はずっと張られていたものですか?」
と青葉は訊いた。
 
「ええ。ずっとこのままです」
「交換していいですか?」
「はい、構いませんけど」
 
「杏那さん、私より上手そうなので、弦の交換をお願いできますか?」
「うん、いいよ」
 

というので、青葉が持参していたドミナント(ヴァイオリンの弦では有名所。プロの演奏家で愛用する人が多い)の弦を渡し、杏那さんに張り替えをしてもらう。杏那さんはまず、糸巻きを4本とも緩め、今張ってある弦を取り外した。 
「この弦、かなり痛んでますよ。これで弾いても音が悪いと思うなあ」
などと杏那さんは言っている。
 
それで全部の弦を外し、新しい弦を張ろうとした時
 
「あ、ちょっと待って」
と青葉は言った。
 
「ん?」
 
青葉はその弦を全部外したヴァイオリンを杏那さんから受け取ると、f字孔の中を覗き込む。
 
「ああ、これか・・・・」
 
「どうかしたの?」
「このヴァイオリンの内側にですね。紙が貼ってあるのですが、そこにどうも呪符が描かれているようなんです。これ解体して調査したいのですが」
 
「なんと、そんな所に!」
 
「ちょっと知り合いに楽器関係に強いコネを持っている人がいるので、その人に頼んで信頼できるヴァイオリンのメンテ技術者をこちらに呼びます。楽器を傷つけたりはしませんから、解体調査にご同意頂けませんでしょうか?」
 
「ヴァイオリンって、バラしたりまたくっつけたりは自由自在なんだよね?」
と桃香が訊く。
 
「うん。ヴァイオリンは部品を膠(にかわ)で接着しているから、蒸気を当てたら簡単に外れる。もっとも素人がやったら木材を痛めかねないから専門家にやらせる訳だけど」
 
すると山田さんは
「でしたら、この楽器を川上さんの方で専門家の所に持ち込んでもらえますか?」
 
「いえ、高価な楽器ですから、技術者をこちらに寄越しますよ」
 
「いや、どうも呪いがやはり本物みたいだから、あまり手許に置いておきたくないので」
などと山田さんが言う。
 
「分かりました。それではお預かりします」
 
今までは《呪いのヴァイオリン》ということ自体に半信半疑だったのだろうが、どうも本物っぽいということで急に怖くなったのだろう。それに姪の後輩の妹ということで信用してくれた感じもあった。
 

「ところでこの外した弦ですが、何でできているか、お分かりですか?」
と青葉は訊いた。
 
「ガットでしょ? かなり古いものみたいだけど」
と杏那さんが言う。
 
「ガットというのは本来羊の腸ですよね」
「うん」
「これは人間の腸です」
 
「えーーーーー!?」
 
弦に触っていた杏那さんが慌てて手を離す。
 
「恐らく呪いに関わる誰かの腸なんでしょうね」
「きゃー」
 
「いつ頃のものだと思う?」
と桃香が訊く。
 
「これはせいぜい70-80年だと思います。恐らく昭和の初期です。だからこの呪いも実は新しいものなのかも」
「わぁ・・・」
 

そういう訳で、山田さんのヴァイオリンを預かって(桃香がその場で預かり証を書いて青葉と一緒に署名捺印した)、その日は取りあえず自宅に帰った。 
「あら、何かヴァイオリンを借りてきたの?」
などと朋子が訊いたので
 
「うん。《呪いのヴァイオリン》を預かってきた」
と桃香が答える。
 
「ちょっとぉ!」
と朋子が声を上げるが
 
「この楽器は所有したり演奏したりしない限り影響は受けないから大丈夫だよ」
などと青葉は言う。
 
それで早速、東京の冬子(ケイ)の所に電話する。
 
「実は《呪いのヴァイオリン》というのを預かったんですけどね」
「何それ?」
「持つ人、演奏する人が次々と不幸になるというヴァイオリンなんですよ」
「それ本物?」
「はい。それで、実はヴァイオリンの胴の内側に紙が貼ってあってですね、そこに呪いの呪符が描かれているんですよ。それでこのヴァイオリンを解体して、その紙を剥がして処分したいんで、どなたか信頼できるヴァイオリンの技術者さんを紹介して頂けないかと思って。その方に呪いが及んだりしないように、しっかりお守りしますので」
 
「それ、いっそ楽器ごとお焚き上げしちゃう訳にはいかないの?」
「なにせ1億円のヴァイオリンなので」
「ひぇー!」
と冬子は声を上げたが、適当な人を紹介すると言ってくれた。
 
電話は30分ほど後に掛かってきた。
 
「それ郵送とかする訳にはいかないだろうし、その楽器を持ってこちらに出てきてくれない?」
「了解です。いつならいいですか?」
「今から来れる?」
「行きます」
 

青葉は取り外した弦の方は、封印用にいつも用意しているお茶の缶に入れた。金属製なので、封印効果が高いのである。そしてそれとヴァイオリンケースを持ち、母に高岡駅まで送ってもらい、《はくたか》に飛び乗って(越後湯沢で新幹線に乗り継ぎ)東京に出た。
 
飛行機を使った場合、飛行機にこのヴァイオリンの影響が出たら怖いので列車にした。列車の方がこの手のものの影響を受けにくいのである。
 
東京駅で冬子と落ち合い、ヴァイオリンの工房に行った。
 
「ああ、何か貼り付けてあるね。了解。解体しますよ」
 
それで蒸気を当てて少し置き、簡単に胴の裏板と側板の間とを外してしまう。 
「この紙を剥がすのもやってあげようか?」
「あ、お願いします」
 
それでやはり蒸気を当てて少し置くとそれはきれいに剥がすことができた。こちらは、どうもふつうの糊で貼ってあったようである。紙は三重に貼られていた。
 
「どういう種類の呪符?」
と冬子が訊く。
 
「全部**系のものです。その方面に詳しい人が作ったものでしょう。表面に出ていたのは、割とどうでもいい呪符です。むしろ下にある呪符の力を抑えてますね。この楽器を所有したり演奏した人に、急激に呪いが掛かるのではなく、ゆっくりと効くようになっているようです」
 
「いやらしいな」
と技術者さんが言う。
 
「2枚目のは生殖器に作用する呪符です。これを使っていると、女性なら不妊になるし、男性は勃たなくなりますね」
「怖い、怖い」
 
山田さんの息子さんが痴漢で捕まったのもその影響だろうなと青葉は思った。 
「3枚目のは精神に作用する呪符です。鬱になりやすいし、幻覚なども見るでしょうね。所有者から聞いた話では、これを1人で弾いていたのに、他の部屋に居た人がヴァイオリンを二重奏しているように聞こえたそうです」
と青葉。
 
「そもそもそのヴァイオリンの棹の先がヴァイオリンを弾いている女性だから」
と冬子。
 
「うん、この手の装飾ヴァイオリンは僕も何度か見たことあるけど、ヴァイオリンを弾く乙女というのは初めて見た。物凄く細かい細工だよね」
と技術者さん。
 
「あまり荒く扱えませんよね。細工が細かいから」
「うん。丁寧に扱わないと、この細工を折っちゃうよね」
 
「じゃ、このヴァイオリン、また裏板、くっつける?」
「あ、その前にこれを貼ってください」
 
と言って青葉は持参した呪符を書いた紙を技術者さんに渡す。
 
「これはどういう呪い?」
「弾く人が演奏がうまくなるようにという呪符です」
と言って青葉はニコリと笑った。
 
「そんなのがあるのなら、私にもちょうだい」
と冬子が言うので、
「じゃ、また1枚書いて、そちらに郵送しますね」
と青葉は答えた。
 
なお、この時、冬子が「ヴァイオリンの内側に紙を貼り付けておく」というのを見ていたことが、数ヶ月後にワンティスの高岡が使用していたヴァイオリンの内側に多数の詩が貼り付けてあったのを発見する、きっかけになったのであった。
 

その日は冬子のマンションに泊めてもらった。
 
「ああ、とうとう冬子さんがKARIONのメンバーだったこと、政子さんにバラしてしまったんですか」
と青葉は夕食の席で、政子からその件について話を聞いて言った。
 
「青葉はいつ気付いたの?」
と政子が訊くので
 
「KARIONのCDを、偶然聴いて気付きました」
と青葉は答える。
 
「この子は、演奏に含まれる波動で、全部分かっちゃうんだよ」
と冬子は説明する。
 
「その辺が凄いな」
と政子は言った上で
 
「青葉ならさ、Raibow Flute Bands の各々の子の性別分からない?」
などと訊く。
 
「えっと、その名前を知りません」
「じゃビデオ見せてあげるよ」
 
と言って、政子は先日のサマーロックフェスティバルのステージの録画を見せる。まだ発売などはされておらず、本来は★★レコードの内部資料である。 

「これフルートは全員マジで吹いてますね。エア演奏じゃない」
「そうそう。全員、それはデビュー前に猛練習したみたい」
 
「性別は・・・・同性愛の男の子、男装者、FTM性転換者・・・トランスはまだ途中かな?、同性愛の女の子、女装者、MTF性転換者・・・この子は性転換手術済みですね。そして・・・この一番うまい子の性別は私にも分かりません」
 
「フェイちゃん?」
と言って、政子はCDのジャケットの右端の子を指差す。
 
「そうです。その子です」
 
「青葉にも分からないことあるんだ!?」
「オーラが完璧に中性なんですよ。MTXの可能性、FTXの可能性、そして半陰陽の可能性もあると思います」
 
「半陰陽って、ふたなり?」
と政子が訊くが
 
「ふたなりは半陰陽の一形態ですね。色々なタイプの半陰陽の人がいますよ」
と青葉は超簡易な説明をする。
 
「一度フェイを裸にひん剥いてみたいな」
などと政子は言うが
「裸にしてみても分からないかも」
と青葉。
 
「うーん。。確かに冬だって、高校時代に何度も裸を見たけど、性別がよく分からなかったな」
などと政子は言う。冬子は苦笑していた。
 
「そう、この子はまるで天使か妖精みたいな子ですね」
と青葉はフェイについてコメントした。
 
「ああ、そういえば、そもそも『フェイ』は妖精という意味だよな」
と政子が言う。
 
それを聞いて冬子は、今日見たヴァイオリンの棹の先の彫刻を思い出していた。そうだ。あれはヴァイオリンを弾く女性と思ったが、もしかしたら天使か妖精なのかも知れないという気がした。それとともに、ずっと昔、高岡さんと一緒に書いた曲(Fairy on String)のことに思いが及ぶ。あの楽譜、どこに置いたっけ?探しておかなきゃ。
 
そんなことを冬子が考えたら、青葉がニコッと笑い
「小学校の卒業アルバムに挟まってますよ」
と言った。
 
「え?」
というので冬子が本棚の置いてある部屋から小学校の卒業アルバムを持って来た。 
果たして、楽譜はその最後のページにはさまっていた。
 
「サンキュー! 助かった」
「見つけ賃は今日ヴァイオリンの件で協力して頂いた分と相殺ということで」
「OKOK」
 

「ふーん。小学校の卒業アルバムか。冬ってどんな感じで写ってるの?」
と政子が訊いた。
 
「あ、えっと・・・これ戻してくるね」
と冬子は明らかに焦っている。
 
「ちょっと待て。見せろ」
と言って政子は冬子からアルバムを取り上げる。
 
「ちょっと、プライバシーの侵害反対」
「元々公開されてるもんじゃん」
 
と言って政子はページをめくっていく。
 
「なるほどー」
 
6年2組の集合写真の中で、冬子は可愛いブラウスに膝丈スカートという姿で写っていた。
 
「これ、白鳥の形の遊覧船。どこだっけ? 河口湖?」
「あ、えっと、山中湖。修学旅行の時かな」
 
「ふーん。つまり、冬は修学旅行にスカート姿で参加したんだ?」
「いや、なんかこれ穿いてと言われて・・・」
 
「誤魔化さなくてもいいよ。自分でちゃんとスカート持っていって、それを自主的に穿いたんだよね?」
「違うよー」
 
「なんか以前、小学校の修学旅行でスカート穿かされたけど、記念写真の直前に着替えたという話を聞いた気もするのだが、多分無理矢理穿かされたという話自体が嘘だな」
「えっと・・・」
 
「この手の話では冬はすぐ嘘つくからな」
と政子は言う。
「しかも、すぐバレるような嘘なんだから」
 
政子は楽しそうに他の写真も眺めていた。
 
 
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