【春慶】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2013-12-15
青葉が医師に御礼を言って病室に戻ると、だいたい全員般若心経を書き終えたところだった。竹田さんが『待ってたよー』などと心の声で語りかけてくる。あはは。この手の処理は竹田さんは苦手である。以前にも静岡の山川さんに手伝ってもらって処理したことがあったはずである。
青葉は竹田が言った通り、呪いの糸をショートさせるつもりだったのだが・・・
後ろから《姫様》が出てくると「貸せ」と言って、その糸を全部自己ループさせてしまった!
これだと呪いは本人に返るのではない。呪いのエネルギーは糸の中で永久ループしてしまう。つまり相手は呪いが利いていると思い込むが、実は何も起きない。相手の自己満足を誘引する。何年もは騙しきれないが、相手の余命が幾ばくも無いという条件でこの方法は有効だ。呪い倒したと思って死んでいくから死後怨みが残らない。
『ちょっと!頼んだのと違うじゃん』と竹田さん。
『例の池の姫様がやっちゃいました』と青葉。
『あの池の処理をしたの、青葉ちゃんか!』
『その後、私に付いておられるんです』
『凄い大物だと思った』
『あそこにあった神社は神格が高かったんだと思います』
と答えて青葉は微笑む。
竹田さんは全員の書いた般若心経を重ねると、一度般若心経を唱えた後、更に観音経を唱え始める。霊的な処理は既に済んでいるのだが、このあたりはいかにも何かやっているように見せる演出だ。高い依頼料を取るから、あまり簡単に終わっては、かえってクライアントが不安を抱く。ここだけ見るとまるで似非祈祷師だが、竹田さんは仕事自体はきちんとやってるから、こういう演出も効果を発揮する。クライアントが「ちゃんとしてもらっているようだ」と思うというのも大事である。
そして・・・青葉は竹田さんが観音経を唱えている間に『治療』を始めた。
しかし心臓の手術は難しい。下手な所を切ると大出血だから、医師が行う手術ではいったん血液の循環を人工心肺装置に代替させ、心臓を冬眠させてから切る必要がある。しかし青葉には別のやり方がある。
鏡で拡大して見ながら、青葉は病変部分の血液の流れをしっかり観察し、きちんとバイパスさせてから、その流れから外れた部分を細胞単位で処置していく。鏡と鈴と剣の複合技である。
『ふーん。なかなか器用だね』
と《姫様》が声を掛けてくる。
『何だか毎年数人の手術をしている気がします』
『手伝おうか? それ数時間かかるだろ?』
『ええ。でも凄く不安を感じるんですけど』
『大丈夫だよ。死なせないから』
『分かりました。それではお願いします』
姫様は青葉が持っている珠を勝手に起動させると、そこから強い気の塊のようなものを噴出させた。そしてほぼ一瞬にして病変部分が消えてしまった。
『うっそー!凄い』
『美事じゃろ?』
『姫様凄いです。こんなの見たの、うちの師匠が一度やったの見て以来です』
『あんたの師匠って、どこかの神様?』
『いえ、ふつうの人間ですけど。ただ高野山の山奥で60年ほど山野を回峰していました』
『ふーん。60年もやってたら、もうその人は人間じゃなくなってるよ』
『そうかも知れません』
竹田さんの観音経が終わったところで病室から退出する。そしてそのまま佐藤さんのお家に行く。佐藤さんのお祖母さんがひとりで留守番をしていた。
お祖母さんは寝たきりという訳ではないのだが、身体を動かすのが辛いようで月に一度、病院に診察を受けに行く時以外は、めったに外出もしないらしい。
「ちょっと、Jさんだけとお話ししたいのですが」
と竹田さんが言ったので、他の家族が部屋を出てくれる。
青葉と竹田さんだけがお祖母さんの部屋に残った。
「Jさん、こんな感じの女性をご存じですか?」
と竹田さんは言って、女性の特徴を言う。
「あの女だ・・・」
Jさんは怒りが込み上げてくるようだ。
「御主人と何かトラブルがありましたか?」
「主人の元婚約者です。でも喧嘩別れしたんですよ。その後、主人は私と知り合い、結婚しました」
「なるほど。でもその後もいろいろあったんですね?」
「そうです」
と言って、お祖母さんは昔のことを語り始めた。
「結婚して1年目に私は妊娠したのですが、その頃から色々嫌がらせを受けて」
お祖母さんは涙を流しながら、どんなことをされたかというのを語る。青葉は思わず顔をしかめたくなった。竹田さんはさすがに黙って表情を変えずに話を聞いている。
「そして、その日、私は買物に出かけたのですが、道路を渡るのに車が途切れるのを待っていたら、突然後ろから押されたんです」
竹田さんがさすがに
「それは酷い。お怪我は?」
と言った。
「半年入院しました。もちろん赤ちゃんは流産で」
「酷いですね。でも生きていただけでも良かったです」
と青葉は言った。
「友人たちからもそう言われました。あの女が私を押したのを見た人が何人もいて、それで逮捕されて裁判に掛けられて。でも初犯だからということで、執行猶予が付いたんです。でも人を殺しておいて初犯だからもないと思いません? お腹の中の赤ちゃんだって立派な命なのに」
青葉はふと床の間にある龍の置物を見た。
「Jさん。その亡くなった赤ちゃんが、その龍の置物の中に入っていますよ」
と青葉は言った。
「そうだったんですか! それで主人が大切にしていたのか」
「女の子だったみたいですね」
「あ、それはそんな気がしていました」
「この家の人を何とか守ろうとしていたみたい。でも力が足りなくて。特に男の人とは波長が合いにくいから守り切れなかったみたい」
「そうだったのか。それで男の人ばかり、やられていたんですね」
「Tさんは元々魂が女の子だったから、守ることができたんですよ」
「あの子は、親からは色々言われているみたいだけど、あの生き方でいいと思います」
とお祖母さんは言った。
「そうだ、祈祷師さん、Rを何とか助けてください。あの子が実質長男ですから」
竹田さんは青葉の方を見る。
「Rさんは手術を受けることはないでしょう」
「え?まさか」
「来月、退院なさると思いますよ」
と青葉は笑顔で言った。
竹田さんはこの家に入った瞬間、この家全体に結界を掛けてしまった。この結界が利いている間に霊的な処理をする必要がある。
青葉は真言を唱えると、Jさんに絡みついていた呪いの糸(30本も付いていた。よくこれに耐えていたものだ)を、持参してきたツタンカーメンの小物入れに付け替えてしまった。
『何それ?』
と竹田さんが驚いたように言う。
『ブラックホールです』
『それ自分で作ったね?』
『この入れ物がブラックホールを作るのに最適だったんですよ。これで呪いのエネルギーはどんどんここに流れ込みます』
『そして、エネルギーを使い果たして本人は衰弱すると』
『呪って果てたら本望でしょうね。死んだ後は無間地獄行きでしょうけど』
竹田さんが頷いた。
「これを御守りに」
と言って、青葉は荷物の中から遠刈田のこけしを出して、床の間の龍の置物の横に並べた。
「たくさんありますね!」
「家族7人を守るように7体用意してきました」
と言って青葉は微笑んだ。本当は身代わりに使うつもりだったのだが、姫様の活躍で出番が無くなってしまった。でも御守りにも充分効果を発揮するだろう。
『それで、そのブラックホールの処理は?』
と竹田さんが訊く。
青葉は微笑んで姫様に『これお願いします』と言った。
『やれやれ。神様使いの荒い奴だな。でもいいよ。処理してきてあげる』
と言って、姫様はツタンカーメンの小物入れを持ってどこかに行ってしまう。
最後はJさんの部屋でも般若心経と観音経を唱えて、締めとした。
佐藤さんの家を出たのが16時頃であった。青葉は竹田さんに高岡まで送ってもらい別れる。竹田さんは明日東京のテレビ局の番組に出るということで、イオンモールに寄った後、小杉ICから東京方面に向かうということだった。
この日は17:39に日没、19:05に天文薄明終了であった。
竹田さんから電話が掛かってきたのは19:30頃であった。
「今日はお疲れ様でした」
「青葉ちゃん、緊急に佐藤さんの家に行って欲しい」
「何かあったんですか?」
「異変が起きているようなんだ。僕は今妙高高原まで来てしまっているので、今から戻るとしても、佐藤さんの家に辿り着けるのはノンストップで走っても22時すぎになってしまう。君の所からなら30分くらいで行けるよね?」
「はい」
それで竹田さんはそのまま妙高高原で待機して青葉の報告次第では急行するということにして、青葉は母の車に乗せてもらい、佐藤さんの家に行った。
家の敷地の手前10mくらいの所に停めてもらう。
青葉は佐藤さんの家を見るなり「うっ」と思った。
何だこれ〜〜〜!?
それはまるでお化け屋敷か何かのように、大量の魑魅魍魎が家にあふれていた。
長男というかむしろ長女というべきTさんに中に入れてもらうと青葉は仏檀のある部屋に行った。
『姫様。珠の出番ですよね?使い方、教えてください』
『うん。私の指示に従え』
『はい』
青葉は珠をふつうに起動した後、姫様の言うとおりにそれを操作した。
すると珠からまるで噴水のように《水》が四方八方にあふれ出す。そして家の中にいる魑魅魍魎を全て洗い流してしまった。まるで古事記に出てくる潮満珠(しおみつたま)みたいな感じだ。
「何これ、すごい?」
とTさんが言った。
「きれいになりましたね」
と青葉はにこやかに言った。
「私、あんたが来てくれて良かったと思ったよ」
とTさんは言う。
「あの竹田さんって人、有名な人みたいだけどうさんくさい気がした。あんたは信用できる気がした。それに何だろう。不思議な親しみを感じるんだけど」
「それは私がTさんと同じMTFだからかも知れませんね」
と青葉は答える。
「えーー!? MTFって、つまりあんた男の子なの?」
「生まれた時はそうでしたけど、もう手術しちゃったから女の子です」
「凄い! もうやっちゃったんだ! 私は来年くらいに手術したいと思ってる」
「いいと思いますよ」
「でもそんな風には見えないのになあ。あんた、どこをどう見ても女の子にしか見えない」
「Tさんもどこをどう見ても女の子にしか見えませんよ。私、男の娘ってどんなにきれいにお化粧とかしていても、たいてい見ただけで分かるのに、Tさんのこと、言われるまで気付きませんでしたから」
「へー。取り敢えず握手」
ということで青葉はTさんと握手する。
「でもこれ原因は何?」
「土地のものだと思います。多分今までは呪いが掛かっていたので、雑多な霊は近寄れなかったんですよ」
そしてここは昼間と夜間で霊的なものの流れが完全に変わってしまう場所のようだ。前回来た時も今日の昼間来た時も、夜間にこういうことになるとは思いも寄らなかったのである。
「ああ、ライオンがいたら、狐とかは近づけないって状況か」
「です。ライオンがいなくなったんで、これ幸いとやってきたんですね」
それで青葉はTさんと一緒にお祖母さん(Tさんからは曾祖母さん)の部屋に入る。
「ちょっと失礼します」
と言って人形をいったん7体抱えると、まず1体はその場に戻して、窓の方角に向けた。
「Tさん。この角度を覚えておいて頂けますか? この場所から、窓の中心を見る方角です」
「分かった」
その後青葉は、Tさんと一緒に、Tさんのお祖母さんとお母さん(依頼主)の部屋、Tさんの部屋、入院しているRさんの部屋、それから次女Fさんの部屋で、それぞれ適当な場所にこけしを置き、いづれも窓の方に向けた。長女のNさんはFさんと同じ部屋を共用していたが、現在は独立して金沢に住んでいるらしい。
「私はRとは部屋を共用できなかったから」
とTさん。
「そりゃ女の子の下着があふれている部屋にふつうの男の子がいたら平静ではいられませんよ」
と青葉も答える。Fさんも笑っている。
「私はT姉ちゃんは、物心付いたころからこういう感じだったから何も変には思ってなかったけどねー」
などとFさんは言う。
「あと2体ありますね」
「ひとつは居間に置きます」
と言って、青葉は居間の中で場所を探す。
「神棚に置いていいですか?」
「いいですよ」
ということで、こけしの一体を神棚の左側に置いた。
「もう1体は全体の守りに使います」
と言うと、青葉は家の間取りを確認した上で、台所の棚の上に置いた。
「これ、ガスレンジの方を向けておいてもらえますか」
「ずれちゃったら?」
「気付いた時に直せばいいですよ」
と青葉は言った。
「でも今して頂いたのは、この家自体を守るものですよね。根本的な環境は改善できないものでしょうか?」
とTさんが言うので、一緒に家の外に出る。
青葉は少し考えてみた。
「高速道路の向こうからの霊的な流れが、昼間はあちらのお地蔵さんの方に行っているのですが、夜間はこの家の付近を通るんですよ。今までこの家に《猛獣》がいたので、ここで通せんぼされていたのだけど、それが無くなったので、この下流のそちらの方の家々にも影響が出ますね」
「お地蔵さんか・・・・。こちらにもお地蔵さん作っちゃうとかはどうでしょう?」
「ああ。行けますよ」
「どこに設置したらいいですか?」
青葉はTさんと一緒にその付近を歩く。
「ここがいいです」
と青葉は場所を指さした。
「ここは**さんの土地なんだけど、交渉すれば売ってくれると思う。資金は私の手術用に貯めていたお金を使えばいいや」
とTさん。
「いいんですか?」
「去勢はもう済ませてるから男性化が進行する心配は無いしね。また貯金するよ」
「早くお金貯められるといいですね」
竹田さんに電話して、処理が終わったことと、状況の説明をした。それで竹田さんも来週くらいに何とか時間を取って最終確認に来ると言っていた。
なお、地蔵を建てるのに最適な場所の持ち主さんは、地蔵くらいうちで建てようと言って建ててくれたので、Tさんは性転換手術用の資金(手術後1年程度の生活費・アフターケアの治療費などを含む)に手を付けずに済み、無事翌年、タイで手術を受けることができたようである。
むろん、次男さんの方は青葉が予言した通り、翌月手術不要・奇跡的な全快として退院することができた。
青葉が佐藤さんの件を処理した翌日。いつものように朝4時に起きて3kmほどのジョギングをして帰って来た青葉は朝御飯を作りながら、考え込んだ。
やがて起きてきた母に言う。
「お母ちゃん、今日、私、学校休む」
「あらあら。昨日たいへんだったみたいだから、その疲れが出た?」
「別件」
「またお仕事?」
と母は顔をしかめて言う。
「物凄く大事なこと。冬子さんの今後を左右する」
「冬子さんって、東京の歌手の?」
「うん」
「こちらに来るって連絡あったの?」
「ううん。でも今日来ると思う」
「ふーん」
「それで、お母ちゃんも会社を休んで欲しいんだけど」
「どこか行くの?」
「えっとね・・・・」
と言って青葉は目を瞑って考える。
「雨晴海岸・・・・輪島・・・じゃないな。えっと・・・小松だ」
空港のイメージが出てきたので、輪島市にある能登空港かとも思ったのだが、小松の方だと思い直した。
「それで。ごめん。明日と明後日も学校休みたいんだけど」
「それ、凄く大事なことなのね?」
「うん」
「分かった。でも気をつけてね」
「これは危険な仕事ではないから」
と青葉が笑顔で言ったら
「じゃ昨日のは危ない仕事だったの?」
と訊かれる。
しまったーと思ったものの
「今、凄い強力な味方が付いてるから平気。もちろん、危険な真似はしないよ」
と答える。しかし
「あんまり信用できないなあ」
などと母は言っていた。
母は小松まで行くならガソリン満タンにしておくと言い、買物がてら市の中心部の方に行った。青葉は風呂場に行き、裸になって水垢離をした。
11時頃母が帰宅する。母はタコ焼きを買ってきてくれていたのだが
「ごめーん。今、私お肉やお魚が食べられない」
と言って、野菜サラダだけいただく。
「ケーキもダメ?」
「うん。生クリームは牛の乳だしスポンジに卵使ってるし」
「面倒だねー!」
やがて青葉の予想通り、12時すぎに冬子が来訪した。母がドアを開けて中に入れる。
「お待ちしてました」
と巫女服を着た青葉が言うと、冬子はびっくりしていた。
取り敢えず、手つかずだったタコ焼きを冬子に押しつけ、一息ついてから3人は母の車で市内の雨晴海岸まで行く。母がふたりを置いてどこか散歩していると言い車外に出たので青葉は車の中で冬子とセッションを開始した。
ただ、この日は普通のヒーリングのようなことはせずに、もっぱら話をした。
冬子の話を聞きながら、青葉は頭の中で要点を整理していく。すると問題点は2つあることが浮かび上がってきた。
1つは冬子が現在の仕事の量が過負荷になっていると感じていること。
1つは冬子が最近良質の曲を書けないと感じていること。
両方の問題はリンクしている。過負荷で精神的な余裕が無いから楽曲の品質が落ちてしまっているのだろう。
「やはりひとつの問題は冬子さん、断るのが下手だってことですね」
と青葉は正直に言う。
「うん。それはいつも政子や和泉に言われている」
「あと、他の人にもできることは、どんどんその人に任せちゃえばいいんですよ。楽譜をまとめるくらいの作業とかは、お友だちとかミュージシャン仲間の誰かに頼むなり、何なら人を雇ってもいいんじゃないですか?」
「ああ。清書係を雇う手はあるかも知れないな」
「才能のある人、きっといますよ」
冬子は言う。
「でも下手な人には頼めないのが作曲だよ。それなのに最近のヒット曲って、実は昔書いたのばかり。『あの夏の日』『花園の君』『あなたがいない部屋』
は高1の時の作品、『A Young Maiden』は高2、『影たちの夜』『夜宴』は高3、『雪うさぎたち』『坂道』なんて中学1年の時の作品。大学に入ってから作った作品で売れたのと言うと『恋座流星群』は私じゃなくて和泉が書いたものだし、『神様お願い』は政子が書いたものだし。私って実は中学高校時代の貯金でやってきているみたいなものなんだよ。私もうああいう曲は書けないのかも知れない」
「『キュピパラ・ペポリカ』は?」
「あれは大学2年だけど、夢の中で見たモチーフなんだよ」
「『ピンザンティン』は?」
「・・・大学3年。でもそれも夢で見た曲」
「『アメノウズメ』は?」
「それは今年だけどえっと・・・・・」
冬子が言いよどむ。
「彼氏とHしながら書いたんですか?」
「知ってたの!?」
「冬子さんの心を読みました」
「もう・・・」
「つまり、そういう名曲がちゃんと書けるんですよ。逆にこのレベルの曲は1年に1〜2曲くらいしか書けませんよ」
「うーん。。。」
「そういう曲を書く時って個人の力で書いているんじゃないんです。神様の力を借りているんですよ」
「最初の話だね」
「タルティーニが悪魔から習って『悪魔のトリル』を書いたのとか、もう耳が聞こえていなかったはずのベートーヴェンが、不思議なメロディーに誘われて散歩に出て『月光』を書いたのだとか、やはり一種の神懸かりだったと思うんですよ」
「政子の詩作なんか、そもそもそれに近いよね?」
「ええ。政子さんは詩を綴る巫女です」
「私も・・・歌を綴る巫女になれるだろうか?」
「冬子さんは、元々歌を綴る巫女だったと思います。『Crystal Tunes』とかあるいは『あなたがいない部屋』とか、天からメロディーが降りてきたような感覚がありませんでしたか?」
「私・・・・もしかしたら、その感覚をどこかに忘れてきたのかも知れない」
「だったら思い出しましょうよ」
「どうやったら思い出せる?」
「確実に、冬子さんが巫女として歌を綴ったことのある場所に行けば思い出しやすいと思います」
「『あなたがいない部屋』はスタジオで書いたんだけど、あれは凄く特殊な心理状態だったんだよ。政子からタイに転校するかも知れないと言われ、彼女を失うかも知れないという心の不安があれを書いた」
「自分のパートナーを失うかも知れないという不安は、それこそ心の根本を揺り動かしたでしょうからね。『Crystal Tunes』は?」
「あれはね。KARIONのキャンペーンで博多に行った時、ホテルで書いたんだ」
「じゃ、一緒に行きましょうよ」と青葉は言った。
「いつ?」
「今から」
結局車の中で青葉と冬子は3時間くらい話していた。青葉は母を呼び、小松空港に行ってくれるよう言った。車内で冬子の手を握り、ふつうのヒーリングを施す。車は高岡北ICから能越自動車道に乗り、小矢部砺波JCTで北陸道に乗って、小松ICまで行き、小松空港に着いたのは18時半くらいだった。
車内で福岡行きを予約・決済していたので、母に礼を言って降りて航空券を受け取り、福岡行き最終ANA319便に乗った。青葉は機内でもずっと冬子の心のヒーリングを続けた。そして福岡空港で降りて地下鉄で博多駅まで行きこれも母の車内で予約していたホテルにチェックインする。うまい具合に当時と同じフロアに部屋を確保することができた。
当時は大浴場に行った後、和泉から詩を渡されたのだということだったのでそれを再現しましょうと言い、冬子を大浴場に行かせる。
なお、明日は冬子は仕事があるので朝から東京に戻るが、夕方政子と一緒に広島に来てくれることになった。2010年の夏に『蘇る灯』と『星の海』に曲を付けた時のことを再現するためである。
その日は冬子が大浴場に行くのを見送ってから、青葉は少し考えて、和泉に電話を掛けた。
「おはようございます。川上青葉です。今少し時間取れますか?」
「うん、いいよ」
実際には今和泉の時間が取れるはずというのを確信して電話している。ちなみに政子は入浴中と判断した。
青葉は冬子と一緒に福岡の**ホテルに来ていることを話した上で、実は冬子が少し自信喪失ぎみになっているので、名曲が出来た時の状況を再現して、その時の心理状態を呼び起こしたいのだということを説明した。それで冬子に何か曲を書かせたいので、適当な詩がないかと尋ねた。
「だったら、ちょうどいいのがあるよ」
と言って、和泉は『輝く季節』という詩をメールしてくれた。
「青葉ちゃん、ついでにといっては何だけどヒーリングしてくれない?」
「はい、いいですよ」
それで青葉はいったんLINEに切り替えてから和泉といろいろ雑談しながら20分ほどヒーリングをした。
「和泉さん、寝不足みたい」
「うん。ここのところ卒論書くのに睡眠時間3時間になってるから」
「わあ、たいへんですね。でも頑張ってください」
「うん。多分冬子は私以上にたいへんなはず」
「・・・多分冬子さん、まだ着手してないと思います」
「それはヤバイなあ。あの子の卒業が遅れるとKARIONの活動再開が遅れてしまうから」
「それですけど、私、和泉さんを唆していいですか?」
「ん?」
「もうバラしちゃいましょうよ。蘭子さんの正体。活動再開する時はちゃんと4人でお客さんの前に並びましょうよ」
和泉は少し考えているようだった。
そして言った。
「その話、乗った」
和泉とのセッションを終えた後、青葉は冬子がまだ大浴場の浴槽に浸かっていること(かなりボーっとしていて時間を忘れている感じ)を感知して、和泉からメールで送ってもらった詩を、ホテルの便箋に書き写した。そしてエレベータに乗って大浴場のある階に行く。そして冬子が出てくるのを待った。
「冬子さん」
と呼び掛けると、向こうは不意を突かれた感じで驚いている。
「すみません。これに曲を付けてくれませんか?」
「へ?」
冬子は紙を受け取り詩を斜め読みしていた。
「これ、和泉の詩?」
「はい。当時の状況をできるだけ近い感じで再現するには、和泉さんの詩を出した方がいいかなと思ってお電話してみたら『じゃ、これお願い』と言ってメールしてもらったので、それを書き写して来ました」
「あはは。了解。朝までに付けるね」
それで一緒に部屋に戻り、裸で寝てもらってヒーリングを開始した。冬子は5分ほどで眠ってしまった。
その眠ってしまった冬子の心の中に侵入する。
『冬子さん、こちらです』
と言って、手を引いて森の中の道を歩いて行く。この森は実際には冬子の心の中の Self(自己) と呼ばれる部分である。Ego(自我)よりひとつ下の階層にある深層心理のエリアだ。この道は実際には《姫様》が誘導してくれている。やがて森の中のある場所にたどりついた。
そこで姫様が青葉の珠を起動して水を噴出させた。すると、その水につられて冬子自身の心の中からも水が湧き出してきた。このあたりもどうもこの珠の『裏の使い方』のひとつのようである。この珠にはいろいろな使い方があるようだ。
『美味しそうな水でしょう? 飲んでみるといいです』
と青葉は冬子に言った。手ですくって飲んでいる。
『美味しいでしょ?』
『うん。もっと飲んで良い?』
『たくさん飲んで下さい』
『飲んじゃおう。青葉も飲むといいよ』
『そうですね。じゃもらっちゃおうかな』
と言って青葉はその冬子の心の中から湧いてきた泉の水をもらって少し飲んだ。
冬子が深く眠ったのを見て意識を戻す。冬子に毛布を掛けてやり、青葉は部屋を出てロビーに行き、政子に電話をした。政子は2時間ほど掛けてのんびりとお風呂に入った後、どうもDVDの映画を見ていたようである。
「おはようございます。川上青葉です。ちょっといいですか?」
「あと1時間待って〜。今『二代目はニューハーフ』見てた。いやあ、大笑いしてたよ。でもこのベルちゃんって子、可愛いなあ。全然男の子には見えない」
「政子さん、論文は大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。23時になったら始めるから」
「今もう1時ですけど」
「え? ぎゃー、やばい! 論文書かなきゃ!」
「じゃ、その論文に取りかかる前にちょっと詩をひとつ頂けませんか?」
「ん?」
青葉が冬子の心のリハビリのために、過去に名曲を書けた場所に来ているのでここで名曲を書かせたいということを伝えると、政子は、だったらこれに曲を付けてもらって、と言って『柔らかい時計』という詩をその場で書いてメールしてくれた。即興で書いたにもかかわらず、美しい詩だ。とてもコミカルな映画を見ながら書いたとは思えない。
しかし和泉は詩のストックの中からメールしてくれたようだったが、政子はその場で書いた。このあたりはふたりの性格の違いだよなと青葉は思った。もっとも、政子は、冬子がいないと自分が過去に書いた詩がどこにあるか分からないかも知れないが!? 政子はひとりだけだと生活能力ゼロである。
青葉は政子に御礼を言い電話を切ると、それをホテルの便箋に書き写してから自分も寝た。
朝起きると、冬子はもう起きていて、五線紙にボールペンを走らせていた。
「青葉、私、書けたよ」
青葉は冬子が書いていた譜面を借りて読んでみた。凄い!美しい!
「凄くいい曲ですね」
「うん」
「創作の泉が復活したんですね」
「復活したかどうかは分からない。でもこの感覚は久々に感じた」
「その感覚を忘れないようにするために、今日東京に戻るまでにこれに曲を付けてみましょう」
と言って青葉は詩を書いた紙を取り出して冬子に渡した。
「ぶっ。これは政子の詩か!」
「はい。頑張りましょう」
一緒に朝御飯に行く。バイキングなので適当に料理を取るが、青葉はおにぎりとお味噌汁(昆布だしだと判断した)だけ取る。冬子はウィンナーとかハムエッグとかを取っていた。
「この件、私青葉にいくら払えばいい?」
「じゃ経費込みで1000万円で」
「了解」
「驚かないんですか? 私がこんな金額要求するのはとてもレアです」
「ううん。1億円でも払う価値がある気がしたから」
「ああ。じゃ3000万くらい言っておけば良かったかな」
「青葉も結構気が弱いね」
「えへへ」
「じゃ3000万円払うよ」
と冬子は笑顔で言った。
「えー!? いいんですか?」
「遠慮せずにもらっておきなよ」
「そうします!」
「ところでさ。さっき渡された政子の詩には私が飛行機の中で曲を付けるけどさ」
「はい」
「青葉、ちょっと頼まれてくれない?」
「なんですか?」
「これにちょっと曲を付けてくれないかなあ」
「へ?」
冬子は詩を書いた紙の束を青葉に渡した。
話を聞くと、スイート・ヴァニラズのEliseさんが妊娠しているのだが、妊娠したら詩が書けなくなってしまったらしい。それでアルバムを作るのに曲が6つほど足りないので、それを政子と冬子に代わりに書いて欲しいと頼まれたのだそうだ。
「それで11月いっぱいまででいいから、この詩6篇に青葉が曲を付けてくれないかと」
「私が書いていいんですか? だって人には頼めないのが作曲だと言っておられたのに」
「『下手な人には頼めない』けど青葉には頼めるよ。それに他の人でできることはどんどん投げた方がいいと青葉は言ったよね」
「あはは、確かに」
姫様が言った。
『青葉、あそこで作曲家の泉の水を飲んだだろ?だから青葉も作曲ができるはず』
なるほどー。
冬子が東京行きの便に乗るのを福岡空港で見送る。そして広島に移動するのに博多駅に行こうと思ったのだが、ふと考え直してANAのカウンターに行った。
「仙台行き、次は何時ですかね?」
「11時ちょうどでございます」
「それ1枚ください。それから・・・仙台から伊丹に夕方くらいに着く便はありますか?」
「仙台発16:25・伊丹到着17:55の便ではいかがでしょうか?」
「それでいいです。お願いします」
それで青葉は仙台行きANA 797便B737-800機に乗った。仙台空港で降りて空港鉄道に乗り、仙台駅まで来たのが13:39である。仙台空港発16:25に乗るためには仙台駅を14:48にできたら乗りたい。時間は1時間ほどだ。
青葉は仙台駅そばの**デパートに行った。ところが入口の所に「店休日・特別お得意様招待会」などという看板が出ている。あぁ、休みだったか。まあいいや。もしかしたら、その方がすんなり行くかも、と思って入口の所に進む。
青葉はこの時何か自分でもよく分からない力に動かされていた。竹田さんは私の霊媒的な才能が高いとか言ってたけど、確かに私って霊媒的な部分が結構あるかも知れないなと思った。
「招待状をお持ちですか?」
と入口のスタッフに訊かれる。
「持ってませんけど、これで入れません?」
と言って、青葉は1枚のカードを見せた。
「はい、もちろん! 少々お待ちください。今案内係を呼びます」
これは北海道の越智さんの顔で発行してもらっている、このデパートチェーンの上客カードである。発行店は札幌店だが、どこの店でも利くはずだ。
すぐに50代くらいの男性がやってきて、青葉に「ご案内します」と言って、店内に入れてくれる。外商の課長の名刺をもらった。ついでに招待会の客用のプレゼントの紙袋ももらう。
「今日は何かお目当てのものはありますか?」
「そうですね。お皿でも見ようかな」
「食卓用のお皿でございますか?」
「うん。27-28cmくらいのがいいかな。数人で囲んで、焼きそばやスパゲティを盛れるようなもの」
「かなり大きなものでございますね」
という感じで、陶磁器売場に連れて行かれる。
「これなどは如何でしょう?」
と見せられたのはマイセンのブルーオニオンの大皿。価格は3万円である。恐らく若い人には洋皿の方が好まれるかなというので勧められたのかも知れない。
「そうだなあ。日本の皿の方がいいかな」
「では、こちらは如何でしょう?」
「うーん。源右衛門か。もう少し伝統的な柄のものありますかね」
「なるほど、ではこちらなどは?」
どうも青葉が割と目が良さそうだと感じたのだろうか。いきなり柿右衛門を見せられる。9寸(27.27cm)で29万8000円の価格が付いている。青葉はちょっと心の中で焦りながら数字の桁を数えた。
「ああ、素敵ですね。この牡丹と鳥の絵が割と可愛いかな」
と取り敢えず言ってみる。
「この赤い色の素朴な出方が、柿右衛門の特長ですね」
その時、青葉に付いてきている《姫様》が『その皿程度で手を打っても良いぞ』
と言った。あははは。ま、いっか。
「じゃ、これにします」
と青葉は笑顔で言う。
「はい。ありがとうございます。お支払いは?」
「このカードで」
と入口で見せたこのデパートの上客カードを出す。
「かしこまりました。お持ち帰りでしょうか?」
「私この後ちょっと広島に行くから、配送お願いできます?」
「はい。どちらでしょうか?北海道でしょうか?」
青葉の持っているカードが札幌店のものであるので、北海道に配送かと考えたのだろう。
「いえ。友人の住んでいる千葉へ」
「かしこまりました。配送料はサービスさせて頂きます。今配送伝票をお持ちします」
「ありがとうございます。あ、そうそう。中田店長は今日は御在店ですか?」
「はい。おりましたはずです」
「ちょっと挨拶してから帰ろうかな」
「ではご案内します。伝票もそちらにお持ちします」
ということで、青葉は店長室に連れて行かれた。実際には店長は店内に出ていたようで放送で呼び戻されてくる。
青葉が少し待っていた所に中田店長が配送伝票と青葉のカードを持って入ってくる。
「この度はお買い上げ頂きありがとうございます。店長の中田です」
「こんにちは。私、政子さんの友人で川上青葉と申します」
「おお、娘のお友だちでしたか」
とにこやかに応じてくれるが、全然信用していないのが分かる。芸能人の娘を持つと、しばしば知り合いと称した変な人も来ているだろう。
青葉は素早く配送伝票に千葉の彪志のアパートの住所を書く。そしておもむろにバッグから、今朝冬子から渡された政子が書いた詩の束を取り出す。
「ちょっと政子さんの書かれた詩を預かってきたんですけどね。政子さん本当に絶好調ですね。とても可愛い詩を書いておられる」
「おお、これは政子の字ですね」
これで半分くらい信じた感じだ。
「私、時々政子さんの詩に曲を付けているのですが、2年前より1年前より半年前よりパワーが上昇して来ていますね」
「おや、作曲をなさるんですか」
「ええ。以前書いた『聖少女』は思わず大きなヒットになりましたが、あの時期はまだ色々悩んでおられた感じでしたね」
と青葉は言うが、こういう具体的な曲名を出しても、中田店長は分かってないようだ。しかし80%くらいまでこちらのことを信用したかなという感じ。
「今年出した『花園の君』は凄い曲です。あれは冬子さんの曲ですが、たぶん今年の年末年始の大きな賞のどれか取るんじゃないでしょうか」
「そんなに!?」
「レコード会社もセールスには力を入れてますよね。何しろ今年に入ってからシングルだけでも『夜間飛行』『言葉は要らない』『100%ピュアガール』
『花の女王』と4作連続ミリオン。これだけでも売上額は50億円。アルバムの売上まで入れると200億円になりますからね」
「200億!? 娘たちって、そんなに売れてるんでしたっけ? うちの店の半年間の売上より多いですよ、それ」
青葉が思った通り、この人の周囲にはこういう情報をきちんと流してくれる人がいないようだ。おそらく政子さんのお母さんも、お父さんが娘の芸能活動にあまり賛成していないことから、敢えて情報を流していないのだろう。
「ローズ+リリーはあまりライブをしないから、総売上では国内のアーティストの中で10位くらいになるかと思いますが、CDとダウンロードの純粋な売上でいえば事実上のトップでしょうね。某アイドルグループのCD売上はもっとありますけど、あれは1人で何枚も買っているだけですから」
「そうか・・・・ライブあまりしてないですよね」
「どっちみち、今は卒論を頑張って書いておられるから、11月まではライブをする時間は無いでしょうけどね」
「娘は・・・まじめに卒論書いてますかね」
「冬子さんがいれば大丈夫みたいですよ。でもいない日はサボったりもしているみたいですね。昨夜も電話したら映画に夢中になって忘れていたみたいで、私が卒論進んでますか?と聞いたら慌ててました」
「あはは」
「でも着実に進行はしているみたいだから、きっと予定通りのスケジュールで書きあげられますよ」
「それは良かった」
「政子さん、集中力があるから、気合い入っているとふつうの人の10倍くらいのスピードで書きますからね」
「確かに集中していると、周囲の音とかも聞こえないみたいですね」
「ええ。だから冬子さんがそばに付いていないと危ないんですけどね」
「確かに確かに」
「娘は・・・・冬子さんとずっと共同生活するつもりでしょうかね」
と中田店長は少し悩むように言った。
青葉は少し考えてみた。
「たぶん男の人と結婚しますけど、生活は今のままですね」
「ありゃ」
「冬子さんも同様で、たぶんどちらも通い婚ですよ。だってあのふたり離れていては仕事できないですから」
「なるほどー」
「それに冬子さんがいないと、政子さん御飯食べられないし、政子さんの旦那さんも困りますよ」
「なるほど!!!」
「今、政子さん2人彼氏がいるみたいですけど、その片方と結婚すると思います」
「へー!」
中田店長と結構長く話し込んでしまったので、青葉は予定の仙台空港アクセス線に乗ることができず、搭乗する飛行機も1時間遅いのに変更することにした。17:35発 ANA 738便(B767-300)に乗って、伊丹には19時すぎに到着する。連絡バスに乗り新大阪に19:50頃到着、新幹線に乗って21:32に広島駅に到着した。
冬子たちは18:10東京発の新幹線に乗ったという連絡が入っていた。広島には22:05に到着するはずだ。青葉はそのまま駅のホームで待った。
やがて新幹線が到着する。列車から降りてきた2人に手を振る。政子は驚いていたようだが、冬子の方はふつうに笑顔だ。
「青葉のこういう勘に私もだいぶ驚かなくなったな」
と冬子。
「勘なの?」
と政子。
「だよね?」
「そうです」
「冬も昔私が電車からおりたら出口の前に居て手を振ってくれたことがあった」
「あれは推測」
「推測と勘って何が違うんだっけ?」
「推測は左脳・勘は右脳」
『蘇る灯』と『星の海』を書いた時のホテルがもう無くなっていたので、代りに政子の希望で市内の高級ホテルに宿泊する。53平米の広いエグゼクティブツインにエクストラベッドを入れて3人で泊まれるようにしてもらっていた。
いったん部屋に入って荷物を置いた後、政子の希望でお好み焼きを食べに出かける。中心街の近くのホテルなので、歩いて商店街に出て、一緒にお好み焼き屋さんに入った。
「青葉もうお肉食べられる?」
「食べられますけど、冬子さん、お好み焼き半分こにしません?」
「ああ。私も青葉もそんなものだよね」
と言って、冬子は「お好み焼き4つ」と注文した。
むろん政子が3つ食べるのである。
ホテルに戻ってから、交替でお風呂に入るが、冬子は青葉に最初に入るよう言った。青葉が浴室で潔斎しておけば、その後入った政子・冬子が順番にヒーリングしてもらえる。
「確かに合理的ですね。それでは失礼して最初にお風呂頂きます」
とは言っても青葉は実際にはお湯ではなく水を出して身体中に当てる。冷たい。がこの冷たさが感覚を研ぎ澄ますのである。水垢離は物心付いたころからずっとしていたが、子供の頃は自分の股間に変なものがあるのが凄く不快だったし、それで集中が乱れる感覚があった。タックを覚えてからそれはかなり軽減されたし、手術して取ってしまった後は、すこぶる快適である。
やはり女の子の身体っていいよな、などと思いながら気を引き締めていく。
青葉が浴室から出ると冬子が身体に触る。
「凄く冷えてる」
「水をかぶりましたから」
「えー?そんな冷たくないの?」
と政子が訊くが
「小さい頃からやってて慣れてますから」
と答える。
政子がお風呂に入っている間に青葉は冬子と少し話をした。彼女とは話すこと自体がセッションである。話しながら、やがて冬子は泣き出した。こんな冬子は珍しい。彼女はいつも明るい笑顔で頑張っているから、泣いているのなんて、初めて見た。しかしこういう人はやはり心にかなりの無理をさせているものなのである。
彼女の話は自分の性別に関する悩み、将来への不安、政子とのこと、彼氏とのこと、など多岐に及んだ。作曲の仕事に関する悩みがいちばん大きいハズだが、こういう細かい問題があるから、なかなか悩み本体まで処理できない部分もあるのだろう。しかし青葉と話すことで少しずつ気持ちが整理されていくようだった。
「私、こんなに泣いたの久しぶり」
と言って冬子は笑顔を見せた。
「泣きたい時には泣いていいと思いますよ。政子さんがいるんだから」
「そうだよねー」
「和泉さんたち3人にも色々相談すればいいんです」
「うん。結構政子に話せないようなことを和泉や小風に話しているかも」
「それですけど、冬子さんがKARIONのメンバーだってこと。もう世間にバラしちゃいましょうよ」
「それ前にも言われたね」
「もう隠す必要は無くなったでしょ?」
と言って青葉は微笑む。
「うん。でも今度は公表するタイミングが見つからなくて」
「それ和泉さんとよく話し合うといいと思います。春にはKARIONのツアーやるんでしょ?そのステージにちゃっかり昔から居たみたいな顔して立てばいいんです」
「うん。ローズ+リリーもツアーやりたいけど、政子のお父さんの説得が難しい」
「・・・お父さんは多分政子さんの活動を認めてくれると思います」
「へー!」
「だから、冬子さん、両方掛け持ちでやって、両方ともステージの前面に立てばいいんです」
「やっぱり青葉も私を酷使しようとする!」
「あははは」
政子は2時間ほどお風呂に入っていた。それで冬子とお風呂を交代し、その間に政子のヒーリングをする。政子の場合は心のヒーリングが有効だったので、彼女の手を握り、主として雑談をした。政子はどこどこのおやつが美味しいとかいう話をしていて、突然クェーサーがどうのとか、巨大天体ヒミコがどうのという話をしたかと思うと、東野圭吾がどうのとか、AKBのどの子が可愛いとか、いろんな分野に飛んで行く。明日香の教育のおかげで、だいぶ世間的な話題にも強くなった青葉だが、さすがにAKBの子の名前を言われても全然分からないので、半ば聞き流しになった。しかし政子は話をしているだけで気分が良くなっていくようだった。
冬子は20分ほどでお風呂から上がったが、政子とのセッションは1時間ほど続け、その後、政子は眠くなったようなので寝せて、冬子とのセッションに戻った。
そもそも広島駅で落ち合ったのが夜の10時で、お好み焼き屋さんに2時間居て、政子がお風呂に2時間入って、その後1時間ヒーリングしたから、結局時刻は午前4時である。
青葉は冬子を半覚醒・半睡眠の状態に導いた。夢とも現実ともつかない世界で青葉は冬子の意識を誘導する。
『星がきれいな夜ですね』
『ほんとだ。オリオンが見えている』
(10月2日の午前4時には南から少し東よりの空にオリオンが輝いている)
『シリウスとプロキオンも見えてますね』
『うんうん』
『冬の大三角形ですよね』
『なんだか私の名前みたい』
『確かに《冬》の大三角《けい》ですね』
『私、子供の頃から、季節の話をしているのに自分が呼ばれているみたいな気がすること多かった』
『私の子供の頃からの友人にサクラ(咲良)って子がいますが、春になるとあちこちで自分の名前を呼ばれている気がしていたそうです』
『あはは大変だね』
『こんな美しい星空を見て、ほら政子さんが詩を書きましたよ』
『わあ、きれいな詩』
『曲を付けてみましょうよ。創作の泉が復活したから、きっといい曲ができますよ』
『よし、やってみよう』
そんな感じで、冬子はこの《半覚醒》状態の中で、2時間ほどのセッションの中で5曲も曲を書いたのであった。
セッションが終了してから、冬子を完全な睡眠に導き、青葉はいったん起きてシャワーを浴びてから寝た。
青葉はこの日まで学校を休むことにしていたし、冬子たちも今日は仕事は無いと言っていたので、チェックアウト時刻ぎりぎりまで寝ておくつもりだったのだが、7時に政子に起こされる。
「冬〜、青葉〜、朝御飯に行くよ」
「ごめん。せめてあと1時間寝せて」
と冬子。
「そんなに遅くまで寝てたらダメだよ。さ、行こう行こう」
ということで、結局身支度を調えて7:15頃、ラウンジに行き朝食を取る。バイキングだが、高級ホテルなので内容が充実している。美味しそうなウィンナーが出ているし、コックさんが目の前でオムレツを作っている。
昨夜お好み焼きをたくさん食べて満足した政子は今朝は牡蠣フライをたくさん取って食べていた。
「そういえば、3年前はこのシチュエーションから富山に行ったね」
と政子が言い出す。
「行くの?」
と凄く眠たそうな顔の冬子が訊く。
「行こう、行こう。そして能登の岩牡蠣を食べよう」
「残念。もう岩牡蠣のシーズンは終わっている」
「でもふつうの牡蠣ならありますよ」
「あ、じゃそれでいいや。広島と能登と牡蠣のハシゴだね」
それで3人は朝御飯を食べた後、広島駅に行き、8:24の新幹線に乗る。そして新大阪でサンダーバードに乗り換え、七尾に14:03に着いた。新大阪の乗り換え時間は20分ほどあったので、その間にしっかり駅構内でタコ焼きを買った。
冬子も青葉も新大阪までは寝ていたが、サンダーバードの中では起きていて、冬子は、政子から渡された『女神の丘』という詩、そして和泉から青葉がもらっておいた『エーゲ海の夕日』という詩にも曲を付けた。どちらもとても素敵な曲である。
レンタカーの送迎を申し込んでいたので、駅前で借り受ける。そして冬子の運転で中島の牡蠣料理店まで行く。14:40頃に到着した。本当は昼食と夕食の間の狭間で、店をいったん閉めている時間帯だったようだが、特別に店を開けてくれて牡蠣のコース料理を出してくれた。
「あれー。牡蠣が小さい」
「仕方無いよ。岩牡蠣は夏だけ」
「そっかー。また夏に来たいね」
「時間が取れたらね」
「岩牡蠣はいつからですか?」
と政子はお店の人に訊いている。
「5月の上旬か中旬くらいからですね。その年の天候にも左右されるのですが」
「じゃさ、冬、5月下旬くらいに金沢か富山でライブやろうよ」
「あはは。いいけど。マーサ、お父さんを説得してよ」
「そうだなあ。お父ちゃんと何とか話をしないとフル稼働できないよね」
「うん。頑張って」
「ところで今日は誰かのライブにゲスト出演なんてことはないよね?」
「予定は無いけど。そもそも私たちは卒論準備のため休業中」
「むむむ。そうか。卒論を書かないといけなかった」
「それちゃんと12月頭に提出できなかったら、お父さん怒るだろうね」
「やっばー。ちょっと頑張るか」
その後、ふたりは青葉を高岡まで送ってくれた。その後富山空港まで行き、レンタカーを返して羽田行き最終便で東京に戻ったようである。鱒寿司が美味しい!というメールが政子から青葉の携帯に入っていた。ほんとによく食べる! 冬子が何度か心配して健康診断とかも受けさせたようであるが血糖値なども極めて正常値だったようで「政子の身体は分からん」
と冬子は言っていた。
もっとも政子に言わせると、女性ホルモンが体内で生産されていて製剤での補充が不要な冬子についても「冬の身体は分からん」ということのようである。
「冬子さん、妊娠可能ってことはないですよね?」
と青葉はふと《姫様》に訊いてみた。
「妊娠できるようにしてあげようか?」
「あ、いや。それは余計な親切かも」
「子宮と卵巣はあるんだよ。この世にじゃないけどね」
「へー」
「だからこそ生理がある。青葉もだけどね」
「・・・・」
青葉は今はその問題について深くは考えないことにした。
半年後。2014年の春。青葉は彪志と一緒に千葉市のとある丘の上に来ていた。
真新しい祠が建っている。その祠の中に彪志に預かってもらっていた柿右衛門の大皿を収める。彪志は今日になってこの皿が30万円と聞き、驚愕していた。
「高そうな皿だなあとは思ってたけど、3〜4万かと思った。落として割ったりしなくて良かったぁ」
ここの土地(30坪で元は民家が建っていたが20年以上放置されていた)を買うのに、1200万円、その古家を解体して整地し、この祠を建てるのに1200万円、鳥居を建てるのに150万円、そのほか玉砂利を敷いたり排水溝を整備したりなどで200万円ほど掛かった。冬子からもらった3000万円の内、柿右衛門の皿まで入れて、2800万円近くをここにつぎ込んだことになる。祠は一応檜材で屋根も檜皮葺きである。
ここの通常の祭祀に関しては千葉市内のある神社(美鳳さんのツテで頼んだ)が定期的に巡回して祝詞を上げてくれることになっている。そこの境外末社扱いにしてもらった。
「ここも恋人たちの聖地になったりしてね」
と彪志が言うと
『ああ、カップルでお参りに来たら、運気くらいあげてやるぞ』
と姫様は言っている。姫様の声は彪志には聞こえない。
「ほんとに聖地になったりしてね」
と青葉も答える。
少し待っていると、車で神社の神職さんが来てくれた。そして祠を見るなり言った。
「これ、神様、入っているじゃないですか!」
「ええ。入ってますよ」
と青葉はにこやかに言う。
「どなたが入れたんですか?」
「本人が勝手に入っていきました」
「へー! 神様の名義は分かりますか?」
「えっとですね・・・・《玉依姫神》にしてくれ、と今本人が」
「ほほぉ!」
それで神職さんは白木の板に《玉依姫神》と墨で書いてくれた。これを取り付ける。
「なんか凄く大物の神様のような気がするんですが」
と神職さん。
「かなり神格は高いようです」
と青葉も真面目に答える。
「個人で祭るべきものではないですね」
「ええ、それでツテを頼ってお願いして、神社さんで管理してもらえるように話を持って行ったんです」
「分かりました」
神職は再度祝詞をあげて帰って行った。
『姫様、これで少し落ち着けますか?』
と青葉は尋ねる。
『ここは元神社のあった場所を見下ろすことができてなかなか快適じゃ』
『それは良かった』
『私もこれで三帰の家ができたなあ』
『三帰??』
『なんだ、三帰を知らんのか?漢文の授業で習わなかったか?』
『帰る家が3つあるということですか?』
『元神社のあった所の泉、この祠、そして青葉のそばだ』
『あははははは』
そうか、やはりまだ私のそばに居座るのか。
自分の守護霊が微笑んでいるのを青葉は感じた。
そしてその年の夏のテレビ番組で取り上げられて、ここは本当に恋人たちの聖地になってしまったのであった。姫様は若い人がたくさん来てくれるというので、ご機嫌であった。
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【春慶】(2)