【春心】(中)

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青葉は目が覚めたが、少し考えた。
 
母に電話する。
「お母ちゃん、ごめん。予定がまた変わっちゃって。明日も学校休む」
「お前、危ないことに関わってないよね?」
「うん。もう大丈夫だよ。後処理だけ」
「やはり危なかったのね?」
「ごめーん」
「じゃ、気をつけてね」
「うん」
 
続けて青葉は直江津駅の近くにあるホテルを楽天トラベルを通して予約した。女子高生がひとりで突然ホテルのフロントに行くとあれこれ詮索されそうだが予約があればあまり問題にされない。最初一瞬直江津駅で夜を過ごせないか、もし追い出されたら近くの公園か何かで野宿できないかと考えたのだが、母の顔が思い浮かんだのでホテルを取ることにした。(実際、直江津駅は夜間閉鎖されるので夜は過ごせない) 
それで青葉は22:16に直江津で《はくたか》を降りると、取り敢えずホテルに入り、シャワーを浴びて寝た。
 
その日の夢の中には呉羽が出てきたので驚いた。
 
『ヒロミ、どうしたの?』
『私・・・生理になっちゃった』
『でもヒロミ、前からナプキン買ってたよね?』
『あれはあの付近に炎症が起きたりした時に当ててたんだけど・・・』
 
『ヒロミは女の子だもん。生理が来るのは普通だよ。高校生になるまで来なかった方が変だったくらい』
『そうかな・・・』
 
『心配なら、婦人科に行って検査受けといでよ』
『行ってこようかな・・・・』
『うんうん。一度見てもらえば安心だよ』
 
『でも婦人科行ったらさ・・・』
『ん?』
『内診台に座らされるのかなぁ』
 
『ああ、あれは恥ずかしいよねぇ』
『青葉も座った?』
『座った、座った。もう羞恥心を棍棒で殴って気絶させといた』
『あはは』
 
青葉は目が覚めてから、今のがいつもの「例の夢」なのか、単純な普通の夢なのか、判断に迷った。呉羽・・・生理になることあるんだっけ????? 

翌朝。2013年5月21日(火)。早朝にホテルをチェックアウトし、6:15の新潟行き快速列車《おはよう信越》に乗る。新潟行きではあるがその手前の長岡で下車して新幹線に新潟まで乗る。そして新潟で《いなほ1号》秋田行きに乗る。《おはよう信越》が新潟まで行くから、そのまま乗っていても良さそうだが、それをやると《いなほ1号》が発車した3分後に新潟に到着するという連絡なのである。青葉はできるだけ早く出羽に入りたかった。
 
鶴岡に到着したのは10:19だった。出羽三山行きのバスに乗り、1時間ほどで羽黒山頂まで来る。
 
降りて、取り敢えず三神合祭殿でお参りしようと思ったら、バッタリと馴染みの美鳳(みお)さんに会う。この人は会う度に色々な服を着ているが、今日は女修験者のような服装だ。
 
「こらぁ、手抜き! ちゃんと随神門から登っておいでよ」
「ごめんなさーい」
「まあ、今日は遠くから来たみたいだから勘弁してあげるよ。その珠の使い方を知りたいんでしょ?」
「はい、お願いできますか?」
 
「取り敢えず歩こうか」
「ははは、やはり」
 
「荷物は預かっておくよ」
と美鳳が言うと、白い衣装を着た童女が寄ってきたので、着替えのバッグとサックスのケースを彼女に渡した。
 

それで、三神合祭殿でお参りした後、美鳳さんに続いて山中に入る。美鳳さんは黙々と歩いて行く。青葉もそれに続いて歩く。
 
それで3時間ほど歩き回って、山中の小さな庵で休憩した。新鮮な湧き水を飲み、美鳳さんからおにぎりを1個もらう。
 
「青葉ちゃん、無茶苦茶パワーアップしてる」
「去年性転換手術を受けてから、自分でも驚くほどパワーアップしました」
「うん。それはあるみたいね。青葉ちゃんの場合、男性器が本来のパワーを出す邪魔をしていたから」
 
「やはり邪魔物だったのか・・・・」
「実際邪魔だと思ってたでしょ?」
「ええ。邪魔でした」
 
「でも青葉ちゃん、まだ本来のパワーじゃないよ。ちゃんと修行すれば今の10倍にはなる」
「え?そんなに?」
「私と一緒に、ここに5-6年籠もらない?」
「済みません。私、俗世間の生活を捨てられない」
 
「あはは。ついでにその肉体も捨てちゃえば100倍になる。今捨てちゃう?」
「ごめんなさい。それは40年後くらいにさせて。私が今日実体のまま帰宅しなかったら母が悲しむし」
 
「うふふ。青葉ちゃんのこと悲しむ人が出来たのね」
「ええ」
「でも40年後でいいの? 孫の顔見たいなとか、未練ができるよ」
 
「うーん。。。。私、何となく自分は50歳くらいまでしか生きられない気がしてたんだけど」
「まあ、私は青葉の寿命知ってるけど、それは寿命が来た時のお楽しみでいいかな」
「はい、そうさせてください」
 

休憩後、裸になって滝行をした。そして、美鳳は青葉をお互い裸のまま、ある洞窟の中に連れて行った。奥に神殿があり、ロウソクが両側で燃えていた。一緒にお参りする。
 
「青葉、試験に合格したから、もうその珠を使えるよ」
「試験だったんですか!?」
 
「青葉、この山にこういう洞窟が幾つあるか見当が付く?」
「53個ですか?」
「ふーん。53個までは分かるんだ?」
 
「ああ、もっと多いですか?」
「1000年くらい修行したらその先が見えるけど?」
「ではその内、お付き合いします」
「うん、楽しみにしてる」
 

ふと気がつくと、青葉は随神門の前に立っていた。服も着ている。着替えのバッグとサックスも手に持っている。青葉は門の奥に向かって
 
「美鳳さん、ありがとうございました」
と御礼を言った。
 
やがて鶴岡行きのバスが来たので乗って駅前まで行った。もう夕方である。高岡までの切符を買い、時刻を確認して母に到着時刻を連絡する。
 
「高岡到着は23:38になるから。遅くなって御免ね」
「・・・・青葉、生きてるよね?」
「生きてなかったら電話できないよぉ」
「いや、青葉なら死んでいても電話くらいして来そうだから」
「多分生きてると思うけどなあ」
「じゃ、気をつけてね」
「うん」
 
18:20のいなほ14号に乗り、また例によって新潟から長岡まで新幹線に乗る。そして長岡から快速《くびき野6号》に乗って直江津まで。そして「いつもの」
列車《はくたか26号》で高岡に帰還した。
 

翌日、2013年5月22日。青葉が学校に行き、放課後、まずは軽音の練習に出ると 
「青葉、何か突然進化した!」
と同じアルトサックス担当の星衣良に言われた。
 
「東京で特訓してきたから」
「それで昨日・一昨日も休んだの?」
「あ、一昨日は別件。例のお仕事。昨日はその後処理」
「ああ、霊のお仕事か。でも高校卒業までは控えると言ってなかった?」
「目の前にある火の粉は振り払わないとね」
「ふむふむ」
 
「あれ?今日、呉羽は?」
「あ、呉羽も一昨日から休んでる」
「ふーん。風邪でも引いたのかな?」
「いや、性転換手術受けてたりして」
「そんなの受けるなら、夏休みとかに受けるでしょ。1ヶ月は出てこられないもん」
 
「だけど青葉は性転換手術の1週間後に部活に出てきたね」
「しかも合唱のソロ歌った」
「あれは、私が歌うしかない状況だったから」
「いや、それで歌える所が、さすが青葉だよ」
 

軽音の練習を1時間してから、合唱の練習をする。最初の30分はウォーミングアップを兼ねて、この時期は、いきものがかりの曲をたくさん歌っていた。 
『Yell』『ブルーバード』『ありがとう』『歩いていこう』『花は桜、君は美し』
『コイスルオトメ』『風が吹いている』『SAKURA』『ふたり』『茜色の約束』
 
「でも何で、いきものがたりなんですか?」
「いきものがたり、じゃなくて、いきものがかり」
「え?」
「まだこういう人がいたのか」
「初期の頃、結構そういう間違いはあった」
「小学校でウサギとかの生き物をお世話する係だったんだよ、メンバーが」
「へー、そうだったのか」
 
「まあ、いきものがかりは部長の趣味だよ」と康江さん。
 
日によっては、やはり和声の美しさを求めてKARIONの曲を歌うこともあった。『雪うさぎたち』『星の海』『水色のラブレター』『Crystal Tunes』『Gold Dreamer』
といった、KARIONの曲の中でもとりわけハーモニーの美しい曲である。 
そういったウォーミングアップの後、大会用の曲を練習する。課題曲の『ここにいる』
と自由曲でKARIONの『海を渡りて君の元へ』。課題曲は女声四部の譜面が指定されているので、それで歌う。自由曲も作曲者の水沢歌月さん自身が女声四部に編曲して青葉に送ってくれた譜面を使用している。
 

部活が終わってから、教室に戻り帰ろうとしていたら、純美礼が声を掛けてくる。
 
「青葉〜、まだこないだの七不思議探訪、終わってないよ」
「こんな時間からやるの〜?」
「夕方くらいが出やすいんじゃない?」
「本当に変なのが出たら、身の安全を保証できないよ」
「青葉がいるから大丈夫」
 
ということで、とりあえず、その辺りに居た、美由紀・日香理・徳代を誘って行ってみようということになる。
 
「あれ?ヒロミは?」
「今日は休み」
「じゃ、誰か男の子を適当に調達しよう」
 
なんて言っていたら、向こうから理数科の吉田君がやってきた。
 
「吉田〜、ちょっと私たちに付き合わない?」
「何?何?」
「吉田、手をつないであげるよ」
「ちょっと待て。何をさせる気だ?」
「男子禁制の所に連れてってあげるよ」
「はぁ?」
 
事態を全然把握していない吉田君を連れて、6人で、この日は「研修館4階の一番奥の女子トイレ」というのを探訪に行った。
 
研修館の入口の所で守衛の人から
「君たちどこ行くの?」
と訊かれるが、徳代が
「こないだ入った時に忘れ物した気がするんで、見に行きます。ひとりじゃ不安だから友だちと来ました」
と言うと
「男子も1人入っているなら大丈夫かな。気をつけてね」
と言って通してくれた。
 
「おお、やはり男子は役に立つ」
「いや、だから何しに行くのさ?」
 
4階まで上がる。4階は本来男子禁制なので、吉田君がためらっていたが美由紀が手をつないで強引に引っ張っていく。
 
ここは宿泊できる和室が左右に10個ずつ並んでいる。青葉たちが上がっていった手前の階段から見ると、階段より手前側に 401,402,420,419があり、階段の向かいがトイレ。そして廊下に沿って、右側に 403〜408, 左側に418〜413 が並び、その向こう側に奥の階段と奥のトイレがあって、その向こう東の端に409,410,411,412 がある。こないだ青葉たちが泊まったのは410である。その時、ふつうに奥のトイレも使用していた。
 

_20_19_ST_18_17_16_15_14_13_ST_12_11
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「4階って普段も男子禁制だよね。何のために男子トイレもあるんだろう」
「さあ、おちんちんの付いてる女の子用じゃないの?」
「それってヒロミのこと?」
「青葉はもう取っちゃったからね〜」
 
「吉田、おちんちんを取るつもりは?」と美由紀。
「やだ。チンコ失うなら死んだ方がマシ」と吉田。
 
「男の子って、おちんちんそんなに大事なの?」と美由紀。
「さあ。私には分からないなあ」と青葉。
 
「でもヒロミ、まだおちんちん付いてるのかなぁ」
「なんで?」
「ひょっとして、あの子もう全部手術してしまってるんじゃないかって気もしてさあ」
「まさか」
「青葉はそんな気しない?」
 
「さあ、私も透視能力は無いから、そこまでは分からないなあ」
「だって、性転換手術なんてしたら、回復に3〜4年掛かるんでしょ?あの子普通に学校に出てきてるよ」
 
「さすがに3〜4年は掛からない。順調な人で3ヶ月、長い人で半年だと思うなあ、ちゃんと節制していたら」
 
「でも青葉は夏休み直前に手術して、2学期からは普通に出てきてた。むしろ前よりパワーアップした感じだった」
と美由紀が言うが
 
「青葉は人間じゃないから別」
と日香理が言う。
 
「私、人間じゃ無かったら何なの〜?」
「超人類だな」
「ああ、そうかも」
「そこ、納得しない!」
 

「で、どう?このトイレ?」
 
「そうだねぇ。なかなか素敵な環境だよね。階段の突き当たりって色々ものが飛び込んで来やすい環境。T字路の正面と同じで風水的に良くない場所。そして隣の部屋が9号室、斜め向かいの部屋は13号室」
「縁起の悪い数字?」
 
「ね、使用禁止の個室って、たしか一番奥だったよね」
「うんうん」
「それって、4番目の個室だったりして」
 
「確認してみよう」
と言って、日香理が女子トイレのドアを開ける。
 
「ほんとに4番目だ!」
「つまり、4と9と13が集まっている所?」
 
ぞろぞろと中に入る。中に入るのをさすがに抵抗した吉田君も美由紀に引っ張られて強引に女子トイレの中に連れ込まれる。
 
「吉田、女子トイレの中なんて、めったに体験できないから」
「誰かに見られたら」
「私たちのガード役だから今日はいいんだよ」
 
「青葉、ここ、霊道とかは通ってないの?」
「その手のは通ってないよ。通ってたら、私こないだ気付いてたよ」
「ああ、そうだろうね」
 
「その使用禁止の個室に何か怪しい雰囲気は?」
「そうだなあ」
 
と言って青葉はつかつかと女子トイレのいちばん奥の個室の前まで行く。 
「これ、開くかな?」
と言って個室のドアを開けてしまう。
 

「わっ!」
と日香理が叫んだ。
 
「どうしたの?」と美由紀。
「今、何かその個室から出て行かなかった?」
と日香理が青葉に訊く。
 
「うん。出て行ったけど、大した奴じゃないよ。まあ、ここが誰にも邪魔されないんで、時々ここに潜んでいたのかもね」
 
「何?やはり霊?」
「そうだなあ。霊というより、妖怪に近いと思う」
「妖怪!? やはりトイレの花子さん?」
 
「そんな怖いものじゃない。怪人赤マントみたいな奴。男だよ」
「痴漢か!?」
「男の癖に女子トイレに入るなんて痴漢だよな」
などと言うので吉田君が居心地悪そうだ。
 
「かもね〜。女の子のおしっこの音を聞いてニヤニヤしてたのかもよ」
「悪い奴っちゃ」
「まあ、でも害は無いよ。何もしないよ」
 
「私たちが合宿してた時もここにいたの?」
「居なかったと思う。居たら私気付いてた。ざわざわした所が苦手なのかも」
「恥ずかしがり屋の痴漢か」
 
「今飛び出して行ったのなら、もうここは七不思議じゃなくなったの?」
「うーん。すぐ戻ってくると思うけどなあ。ここが使用禁止なら」
 
「つまり、このトイレを修理して、ちゃんと使えるようにしたら怪異は消える?」
 
「旧校舎のトイレにでも移動するかもね」
「ああ。場所が移動するだけか」
 

時間も遅いので、最後の図書館の謎については翌日探訪しようということになる。それで帰ろうかと言っていたら
 
「じゃ、みんなで青葉の家へ」
と美由紀が言う。
 
「ん?」
「だって、今日は青葉の誕生日だから、誕生会だよ」
「あ、私も行っていい?」
と純美礼。
「うん。徳代もおいでよ」
 
「吉田もおいでよ」
「青葉の誕生会って女ばかりじゃないのかよ?」
「男がひとりくらい居ても平気」
「何なら女装する?」
「いやだ」
 
ということで、七不思議探訪した6人で青葉の家まで行った。家には既に明日香・奈々美・世梨奈・美津穂が来ている。桃香と千里まで来ている。平日なのに、わざわざ千葉から来てくれたようだ。
 
「出席者は13人か」
「おお、サバトができる」
「生け贄は唯一の男子の吉田だな」
「ちょっと待て」
「やはり男の子の印を切り取って悪魔に捧げるんだよ」
 
「お前ら、えげつないこと平気でしゃべるなぁ」
「女の子同士だし」
「俺男だけど」
 
「でも青葉の彼氏も来てたら14人だったね」
「バイトがどうしても休めなかったみたい」
 
「でも彼氏とは東京で会ったんでしょ?」
「うん、泊まったよ」
と青葉がぬけぬけと言うのでブーイングが入る。
 
「青葉って、私には高校卒業するまでセックスは控えた方がいいとか言っておいて自分ではたくさんしてるからなあ」
と日香理が言う。
「乱れてるね〜」
と奈々美。
 
「でも奈々美も彼氏としてるよね?」
と明日香が言うと
「高校に入ってからはまだしてないよ」
などと奈々美は言っている。
 
「なんか、みんな大人だなあ。私まだ彼氏できたことない」
と徳代が言うが、
 
「暴走している子たちを基準にしない方がいいよ」
などと美由紀。
 
女の子たちが赤裸々なことを言っているので吉田君は身の置き場に困っている感じだった。
 

「彼氏から何かプレゼントもらった?」
「うん」
「何もらったの?」
「えっと・・・ネックレス」
 
「おお。さすが大学生」
「見せて、見せて」
 
と言うので出してくる。
「わぁ、可愛い!」
「それ、もしかしてピンクゴールド?」
「うん」
 
「高そう!」
「そんなでもないと思うけど。多分2万円くらい」
「充分高い!」
 
「付けてみて」
と言われるので装着する。
 
「あ、それ、青葉のサックスとお揃いなんじゃない?」
「うん、そう言われた」
 
「よし、そのネックレス付けて、あのサックスを吹いてみよう」
 
それで青葉はピンクゴールドのサックスを持ってくるとアレクサンドラ・スタンの『Mr. Saxobeat』を吹いてみせる。
 
「何か格好いい〜」
「川上、そんなにサックス吹けたんだ?」
と吉田君が本当に驚いている感じ。
 
「いや、東京に行った主たる目的はこのサックスの練習だから」
「でもそれ何の曲?」
 
「Alexandra Stan っていう、ルーマニアの格好良いお姉様の歌で『Mr. Saxobeat』
って曲だよ。ヨーロッパで2年くらい前に大ヒットした」
「へー」
 
「ルーマニアというと、マイヤフーの国か」
「ああ、おぞうにね」
「オーゾーンでは?」
「私、あの曲はヤフーのCMソングだと友だちから言われて騙されてた」
「ああ、そう思い込んでいる人は当時いた」
 
「O-Zoneは元々はモルドバのグループなんだけど、ルーマニアで売れたんだよね」
「モルドバってどこ?」
「えっと、ルーマニアとウクライナの間にある国かな」
「あのあたりの地理はどうも・・・・」
 
「そのアレクサンドラお姉さんは元々ルーマニア?」
「うん。確かコンスタンツァだった。黒海のそばだよ」
 
「黒海とカスピ海って、どちらが右だっけ?」
「カスピ海が東(右)、黒海が西(左)」
「黒海というと、オリンピックやったソチとかも黒海だよね?」
 
「ソチとは対岸くらいになるよ。ソチは黒海の東岸、コンスタンツァは黒海の西岸」
「ついでに、ソチ五輪は来年の2月」
「あれ?まだ終わってないんだっけ?」
「これから!」
 

その週はみんなの予定が合わなかったので、結局図書館探訪は延期になる。そして、その週はヒロミはずっと休んでいた。週末、青葉はまた東京に出て、鮎川さんにサックスの指導を受けてきた。
 
週明けの5月27日。やっとヒロミは出てきたが、特に病み明けのような感じはない。元気そうだ。青葉たちは隣の理数科の教室に行き、ヒロミに声を掛けた。 
「ヒロミ、先週はどうしたの?」
「あ、ちょっと体調崩して。でも大丈夫」
「ヒロミ細いもんねー」
「青葉ほどじゃないけどねー」
「わりと身長あるから、もう少し体重あってもいいんじゃない? ヒロミ50kg無いでしょ?」
「うん。48kgくらいかな」
「もう少し食べた方がいいよ。ヒロミの身長なら58kgあっても、充分細く見えると思う」
 
そんな話をしていた時、ヒロミの鞄から何かが落ちた。
 
「落ちたよ」
と言って日香理が拾って渡すと、ヒロミは焦ったような顔で
「ありがとう」
と言って慌てて、それを鞄にしまった。
 

「ねぇ、日香理。ヒロミが落としたもの見た?」
と社文科の教室に戻ってから、美由紀が訊いた。
 
「見た」
「何だったの?」
と美由紀が訊くと、日香理は青葉と美由紀に傍に寄るよう手招きしてから 
「レディースクリニックの診察券」
と言った。
「へ?」
「しかもあれ富山市のだよ。TVでCM流してるもん」
 
「レディースクリニックに行く意味が分からんが、それもなぜ富山市に」
「ちょっと考えたけど、地元の病院に行って、知り合いに見られると恥ずかしいからじゃないの」
「ああ、なるほどー」
 
「でも何しに行ったんだろうね?」
「ホルモン注射?」
「それは不要なんだよね?」
と美由紀が青葉に尋ねる。
 
「うん。ヒロミの体内で女性ホルモンが生産されているから、注射とかで補う必要は無い」
 
「じゃなんだろう?」
「妊娠したとか」
「まさか」
「生理不順かも」
「うーん。。。。」
 

5月28日(火)。夕方、田中鈴厨子さんが青葉の家に2度目の訪問をした。夕食を一緒に食べてからお風呂に入ってもらい、その後、下着姿になってベッドに横になってもらってヒーリングをする。
 
その時、唐突に青葉は美鳳の声が聞こえた気がした。
 
あっそうか!こういうのにこそ、あれだよね。
 
そこでまずは「鏡」を起動して左耳の患部をよくよく観察して頭に叩き込んだ上で噴水のお姉様にもらった「珠」を「鏡」の前に置き、珠から出る波動が、田中さんの内耳にだけ当たるようにした。この波動は健康な耳に当たると逆に障害を引き起こしかねないので注意が必要だ。
 
うとうととしていた田中さんが飛び起きる。
 
「今何か?」
と言ったものの、唐突に何か探す感じ。青葉はさっとティッシュの箱を渡した。「ありがとう」
と言って、田中さんは何度も鼻をかんでいる。
 
「何か耳の感覚が全然違う!?」
「田中さん、音域チェックしてみましょう」
 
そう言って、青葉は自分の部屋からポータブルキーボードを持って来た。低い音をまず順番に聴かせて聞こえるかどうかを答えてもらい上下端を確認した上でその後ランダムに聴かせて、何の音に聞こえたかを書いてもらう。田中さんはひとつも音を間違えなかった。さすが絶対音感持ちである。
 
「B0からE3まで正確に分かるみたいですね。18度」
「凄い!2オクターブ半も聞こえるなんて」
 
田中さんは4月に最初のヒーリングをした直後に可聴(というより可感に近い)音域チェックしたらC1-F2の11度であった。ちなみにそのヒーリングをする前はE1-C2の6度だった。
 
「1度だけF3も分かりましたが2度目・3度目は聞こえなかったみたい」
「多分不安定なんだろうね、その付近」
「でも今のが結構効いたみたい」
 
「感激!青葉先生凄い!」
「その先生はやめてください」
 

6月8-9日の土日。青葉は東京に出て鮎川さんから4回目のサックスのレッスンを受けた。
 
「青葉ちゃん、物覚えがいいね。1ヶ月前とは見違えたよ」
「丁寧に教えて頂いたおかげです」
 
「青葉ちゃん、冬子ちゃんのお友だちなんでしょ?」
「ええ。2年半ほど前に知り合いました。あれ?鮎川先生、冬子さんとも知り合いですか?」
「うん。古い知り合いだよ。8年くらい前に、一緒にお仕事してたから」
「へー! じゃLucky Blossom の結成前ですか?」
 
「そうそう。ダンサー仲間だよ。当時、冬子ちゃん凄く目立ってたからね。わあ、この子はすぐソロデビューして人気歌手か何かになるだろうなと思ってたのに、私の方が先にメジャーに行っちゃったからね」
「あぁ」
 
「いや、冬子ちゃんと青葉ちゃんって、何か似た空気というかオーラというか持っているなという気がして」
「そうですか?」
 
「物を覚えるのが物凄く速い。冬子ちゃんって、クラリネット1週間で吹けるようになったとか、ヴァイオリン1週間で弾けるようになったとか、フルート1日で吹けるようになったとか、笙を30分で吹きこなしたとか、色々伝説があるんだよね」
「それは凄いですね」
 
と答えながらも最後の方のはちょっと怪しい話だと思う。しかし冬子さん、笙が吹けたんだっけ??
 
「私と一緒にバックダンサーやってた時も、振り付け師の人が踊ったのを1発で覚えて踊れてたもん」
「それはまた凄いです」
 
「冬子ちゃんって、人が楽器を演奏したり、歌を歌ったり踊ったりすると、それをそのままコピーして演奏したり歌ったり踊ったりできるんだよね。青葉ちゃんも私の演奏を見て結構コピーするなと思ってた」
 
「まずは真似る所から始めて、そのうち自分のものにしていけばいいかなと」
「そうそう。『まねる』は『まなぶ』の第一歩だよね。でも出来る人は少ないんだよ」
 
「でも冬子さんと私のオーラが似てるのは、同じMTFだからかも」
「MTFって何だっけ?」
「えっと・・・・生まれた時は男の子だったけど、女の子になっちゃった人かな」
 
「・・・・青葉ちゃんって男の子なの?」
「えっと。去年の夏までは。でも手術して女の子になっちゃいました」
「うっそー!!」
 

鮎川さんにはまた夏休みに少し指導してもらうことにした。
 
富山に戻った翌々日。6月11日。この日は、また田中鈴厨子さんが耳のヒーリングに夕方来訪することになっていた。
 
この日、青葉は軽音部の楽器のクリーニング用の紙を買いに、学校を出て商店街に行った。本来は楽器店で売っているクリーニングペーパーを使うべきなのだが、100均で売っている、あぶらとり紙で充分と吹奏楽部の人たちが言っていたので、それを大量に買うためである。但し、青葉は自分のサックス用にはやはり楽器店でクリーニングペーパーを自費で買った。さすがに3万円のサックスと140万円のサックスでは、心の持ちようが違ってくる。
 
楽器店の後ダイソーに寄り、あぶらとり紙を大量に買っていた時、青葉はふと近くにあった、色紙に目を留めた。
 
私何でこの色紙に目を留めたんだろう?
 
疑問を感じたが、目を留めたということは、きっと必要になるんだ。そう思うと、青葉はその色紙(2枚で100円)と、一緒にサインペンを取り、あぶら取り紙とは別会計で自費で払った。そして高校に戻るのに、バス停の方に行こうとしていた時。
 
青葉は凄まじく強烈なオーラを携えた若い女性を見てギョッとする。
 
青葉はその人の顔に見覚えがあった。駆け寄る。
 
「済みません。KARIONのいづみさんですか?」
「うん」
 
と言って相手は営業用スマイルになる。そうか!この人に会うから私は色紙を買ったのか。
 
「ファンなんです。サイン頂けませんか?」
「いいよ。何か書くもの持ってる?」
 
「それではこれに」
と言って、青葉はさきほど買った色紙とサインペンを取り出す。向こうがびっくりしている。
 
「これ、いつも持ち歩いてるの?」
「いえ。何となく必要な気がしたんで、さきほど買ったんです。私、勘が強いから」
「へー! 凄いね。あ、君、名前は?」
「川上青葉です。3本川に、うえ、青い葉っぱ」
 
いづみは頷きながら今日の日付と宛名を書き、KARIONのサインを書いてくれた。KARIONのサインはサイン会などでは3人で書くが、このように1人でいる時にファンに会った場合は1人で全部書く。
 
「わあ!ありがとうございます!」
「君、高校生?」
 
「はい。そうです。あ、それで私コーラス部なんですけど、先日『海を渡りて君の元へ』の使用許可を頂いたので一所懸命練習してるんですよ」
 
「へー! あの曲大変でしょう?」
「でも格好いいんですよね〜。そうだ。もしお時間ありましたら、歌っている所を見ていただけませんか?」
「ああ、いいよ」
 
いづみは笑顔で言った。
 

青葉は通りかかったタクシーを停めて、いずみを高校に連れて行った。タクシーの中で青葉はいづみに話しかける。
 
「こちらはお仕事ですか?」
「プライベートな旅行なんだけどね。でもここ数日かなり歩き回ったから足が痛くて痛くて」
「ああ、大変でしたね。足が痛いようでしたら、少しヒーリングしてもいいですか?」
「ん? よく分からないけどいいよ」
 
青葉はいづみの足の様子を見てみた。右膝のあたりの気の流れが悪い。 
「ちょっと失礼します」
と言って青葉はいづみの右膝に手を当てると、直接炎症を起こしている所のほてりを冷ます。その上で血液の流れが滞っていた付近の緊張を緩和して血行を改善し、全体の気の流れの調整も行った。
 
タクシーはすぐ学校に着いたが
「なんか痛みがやわらいだ気がする」
といづみは言う。
 
「良かったですね」
と言って青葉は微笑んだ。
 

音楽室に青葉がいづみを連れて中に入ってくると
「え!?」
「うそ!?」
「きゃー!」
と大騒ぎになる。
 
青葉は「静かに静かに」と部員たちを鎮めて
 
「KARIONのいづみさんが来てくださったんで、みんな『海を渡りて君の元へ』
を披露しよう」
と言う。
 
「よし、しようしよう!」
という声が上がり、全員きれいに整列する。気の利く空帆がさっと椅子を持って行き、いづみに勧めた。
 
今日たまたま練習に顔を出してくれていた紡希が、ピアノの所に座り、伴奏を始める。青葉は今日は紡希が居てくれて良かったと思った。物事に動じない紡希だから、こういう場面でもきちんと演奏することができる。本来のピアニストである康江先輩は、わりとパニックになりやすい性格だ。
 
青葉たちの歌唱に、いづみが「へ?」という感じの顔をしている。しかし時々頷くようにしている。青葉たちは、譜面通り4:30の曲を歌いきった。
 
いづみが立ち上がって、パチパチパチと笑顔で拍手をしてくれた。青葉はソプラノの列から出て、いづみの所に寄ると
 
「聴いてくださいましてありがとうございます。まだまだ練習不足なんですけど、本番までにはもっともっと上手くなりますので」
 
「うん。頑張ってね。でもこんなアレンジ初めて聴いた。君たちが編曲したの?」
 
「あ、それが編曲の御許可を頂こうと思いまして水沢歌月さんに連絡したら、高校の合唱で使えるように、ソプラノ、メゾ1、メゾ2、アルトの女声四部で4:30の版を作ってあげるよと言われまして、歌月さんご自身が編曲してくださったんです」
 
「・・・・君、水沢歌月を知ってるの?」
「はい。以前からの知り合いなので」
「ほんとに?」
 
「あ、その時のメールのやりとりをお見せします」
 
と言って青葉は自分の携帯を開き、電源を入れると受信メール・フォルダの中に《冬子さん》と書いてあるフォルダを開く。いづみが、そのフォルダ名に驚いている感じがした。
 
「なんか凄い数のメールをやりとりしてるね」
「そうですね。月に100通は越えてるかも」
「きゃー。ほんとに知り合いなんだ!」
 
「あ、あった。あった。これがその御許可を頂いた直後のやりとりです」
「おぉ、凄い。北陸の地で水沢歌月を知っている人に会うとは思わなかったよ」
 
「まあ、歌月さんを知る人はたぶん12-13人くらいですよね」
「うん。その程度だと思う」
 
と言っていづみは笑っていた。
 

いづみは、コーラス部の歌がもっと聴きたいと言ったので、紡希の伴奏で他に課題曲の「ここにいる」を歌った後、KARIONの『雪うさぎたち』『星の海』
『水色のラブレター』『Crystal Tunes』『Gold Dreamer』といった曲を連続して演奏したが、『Crystal Tunes』を歌っている最中、いづみは突然何かを思い付いたかのように、荷物の中からパソコンを取り出すと、何か打ち込み始めた。
 
ソプラノ最前面で歌っていた空帆がさっといづみの傍により
「電源使えますから、コード貸してください」
と言い、ノートパソコンの電源コードをコンセントにつないだ。
 
『Gold Dreamer』を歌い終わってもいづみがまだ書いているので、紡希は『Snow Squall in Summer』『星間旅行』『白猫のマンボ』『Shipはすぐ来る』
とKARIONの曲を弾き続ける。このあたりの曲は練習で歌ったことは無かったが、半ばうろ覚えで何とかちゃんと和声になるように歌う。音感の良い生徒が多いし、ソプラノは青葉と美滝、メゾ1は美津穂、メゾ2は公子、アルトは日香理と立花がしっかり音を出すので、音が分からない子はその音を聴きながら歌うことで、割とまとまる。
 
しかし『白猫のマンボ』を歌っていたらいづみは笑顔になり、『Shipはすぐ来る』
になると吹き出してしまった。そしてその歌の途中で、書き上げたようだ。 
紡希の伴奏が停まる。
 
「書けましたか?」
と空帆が声を掛ける。
 
「うん。きれいな詩が書けた。みんな、ありがとう」
といづみは言った。
 

ちょうどそこに顧問の今鏡先生がやってきて、何か普段と雰囲気が違うので戸惑うが、青葉が説明すると
 
「わぁ、KARIONのいづみさん、本物!?」
などと声を上げる。
 
「はい、本物だと思います」
と本人。
 
それで握手したり、良かったらうちの部にサインをなどと言うので、青葉がもう1枚の色紙を出して「T高校コーラス部さんへ」という宛名のサインを書いてくれた。
 
部員の中に他にも握手を求める子、サインが欲しいと言って生徒手帳に書いてもらう子なども続出した。
 
「いづみさん、お時間大丈夫ですか?」
と青葉が心配になって声を掛ける。
 
「あ、そろそろやばいかも。高岡駅前を18:40のバスに乗りたいから」
といづみが言う。時計はそろそろ18時になろうとしている。
 
「飛行機ですか?」
と今鏡先生が訊く。
 
「はい」
「だったら、私が富山空港まで車でお送りしますよ」
「わあ、いいんですか」
「なんかたくさんサイン書いて頂きましたし」
 
ということで、今鏡先生の車にいづみを乗せ、何となく流れで青葉も同乗する。いづみと並んで後部座席に乗り、学校を出た。
 

いづみは青葉に気を許したのか、ここ数日、九州の壱岐から、長崎・博多・出雲・天橋立・福井・金沢と旅してきたことを語った。
 
「出雲大社は工事中でちょっと浮ついた感じだった」
「60年に1度の遷宮をしてますからね。どうしても落ち着くまでは仕方無いです」
「白兎海岸で、目の前に見える島がホントにウサギの形してるんでびっくりした」
「やはり、あれはあの島の形から、あの伝説が生まれたんでしょうね」
 
などと話している内に青葉は、いづみの気の流れが良くないのに気付いた。 
「たくさん旅をなさってきたからでしょうけど、かなりお疲れになってますね」
「そうなんだよね〜。何か疲れが取れる方法あるかなあ」
「少しまたヒーリングしていいですか?」
「うん」
 
すると青葉は、いづみの膝の付近から顔の上まで、ゆっくりと身体の線に沿って手を動かし始めた。身体との距離をだいたい3〜4cmに保ち、ずっと動かす。車が揺れるので時々身体にぶつかってしまうが、いづみもその程度は気にしない。 
そしてそのヒーリングをしながらも青葉はいづみとおしゃべりを続ける。 
「でも、君、凄くおとなっぽい。高校生と思えない」
「すみませーん。私、小学2〜3年生の頃から、あんたと話してるとおとなと話してるみたいだと言われてました」
 
「へー!早熟だったんだね」
「よく言えばそうですね。単に可愛げが無いだけというか」
「いや、君は可愛いよ」
 
などといづみは言う。
 

やがて、18:30頃。富山空港に着く。車を無料駐車場に駐め、一緒に空港ビルに向かった。
 
ビルの中に入ろうとした時、向こうで手を振る40歳前後の女性が居る。 
「あ」
と青葉といづみが同時に声を出した。その女性が寄ってくる。
 
「おはようございます、すずくりこ先生」
といづみが挨拶した。
「おはよう。確かKARIONのいづみちゃんだよね」
と田中鈴厨子さんは、笑顔で口話法で話し掛けてきた。
 
「はい。覚えて頂いていてありがとうございます」
といづみ。いづみは、耳の聞こえない田中さんが自分の言葉を唇の動きで読み取りやすいように、ハッキリと口を開け閉めして発音する。
 
「みすずちゃん(ゆきみすず:間島香野美)が、あんたたちのプロデュースをしてたから、KARIONのCDは、いつも見せてもらってたよ」
と田中さんは言う。
 
「ありがとうございます。先生はこちらはお仕事ですか?」
「ノンノン。ここの可愛いヒーラーさんのヒーリングを受けに来たの」
 
「青葉ちゃんの?」
「そうそう。この子は日本で最高のヒーラーなのよ」
「えー!?」
「青葉さんの部活が終わるまで時間調整と思って空港内でお茶を飲んでて、そろそろ移動しようかなと思ってビルを出たら、本人が来るからびっくりしちゃった」
 

結局今鏡先生も含めて4人でビル内に入り、いづみが飛行機にチェックインした上でお茶を飲んだ。
 
「ああ、いづみちゃんは創作旅行だったんだ?」
「ローズ+リリーが凄いアルバム出したから、負けてられないと思って」
「なんか凄い仕上がりだって、みすずちゃんも騒いでたよ」
 
この時の席は、今鏡先生と田中さんが並んで座り、向かい側に青葉といづみが座る形になって、田中さんがいづみと青葉の言葉を読み取りやすいようにした。
 
「取り敢えずたくさん詩は書きましたけど、まだ校正して言葉を突き詰めたいんですよね」
「だったら、お堂とかに籠もってみる?」
と田中さんは言った。
 
「ああ、そういうの良さそう」
「紹介してあげるわよ。私の親戚が住職してるお寺が千葉にあるのよ。街から離れていて静かだよ」
「わあ、助かります」
 
それで田中さんは自分の名刺の裏に、そのお寺の住所電話番号を書いていづみに渡した。
「住職さんには私からメールしておくから」
「ありがとうございます」
 
「KARIONの曲は美しい。私は歌詞と譜面を見るだけしかできないけど、美しい歌だというのが分かるよ。みすずちゃんは、とにかくハーモニーが美しいし、いづみちゃんの声が透明なのも良いと言ってたな」
 
「あのハーモニーはKARIONの財産だと思っています」
といづみも微笑んで答えた。
 

いづみを見送ってから、結局今鏡先生の車で、青葉の自宅まで、青葉と田中さんを送ってもらった。
 
「先生、ガソリン代は明日払いますから」
と青葉が言ったが、先生は
 
「今日は何だか凄い人に2人もあったから、お代はそれで充分」
と言っていた。
 

母がもう夕食を用意してくれていたので、それを一緒に食べてからヒーリングをすることにする。
 
「聞こえる音の上限はやはり不安定みたい」
「突発性難聴は普通発症してから2週間が勝負といいますから。10年以上経ってますし。私のヒーリングも気休め程度に考えていてください」
 
「いや、気休めじゃないよ! 凄く調子いい。声も若くなったとみんなから言われているし」
「良かったです」
「こないだセールスの電話に出たら、お嬢ちゃん、お母さんいる?と言われた」
「良い傾向です」
 
「でも2週間かぁ。倒れた時、私ただの風邪の症状と思ってたからさ。ただ自宅で寝てるだけで、病院にも行かずにひたすら仕事してたんだよね」
 
「仕事人間だとありがちですね。直接的にはウィルス性のものなんでしょうね。難聴になる直前風邪を引いてたという人は多いですよ。それで糖尿があると、元々末端神経の血行が良くないから」
 
「やはり基本は節制だな」
「カロリーコントロール頑張りましょう」
 

「青葉ちゃんは大丈夫? MTFさんには、カロリーコントロールとホルモンコントロールの狭間で悩んでる人多いみたい」
 
「エストロゲンが血糖値を上げるから、本気で摂取カロリーを抑えないとダメなんですよね。それでホルモン剤を飲まないと今度は精神的に不安定になるから物凄くたいへんみたいです。元々人工的な秩序を作ろうとしてますからね。身体に無理が行くのはやむを得ないですよ。寿命が短くなるのは覚悟と言っている人もいますし。それでもホルモン的に男だった時からすると、凄く精神的に楽になったとおっしゃる方が多いですね」
 
「でもそれ自己管理がきちんとできる人でないと無理だね」
「その自己管理するだけの精神力が、ホルモンをちゃんと飲んでないと得られないんですよ」
「難しい! 青葉ちゃん頑張ってね」
 
「まあ、私も冬子さんも女性ホルモンは体内で生産される分で間に合っているので製剤は飲んでないんですけどね」
「へ?」
 
「私は女性ホルモン一度も飲んだことないですし、冬子さんもここ2年くらい飲んでないはずです」
「体内で生産されるって、どこで? 卵巣は無いよね?」
 
「ああ。お医者さんも首をひねってました」
と青葉は微笑んで答えた。
 
 
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