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客が少なくなると千里も勉強の時間が増える。厨房の中の客席からは見えない位置に、いつも千里の勉強道具は置かれていた。しかし客席に何か動きがあればモニタを覗いたり、あるいは席を立って直接確認したりしていた。追加オーダーなどは、基本的には客席の呼び鈴を鳴らしてもらうシステムではあるのだが、分かっていない客もいるので、スタッフを探している雰囲気であったら、水でも持って行き、様子を伺ってくることになっている。
4時をすぎる。5時になれば朝の時間帯の人が来てくれる。千里は6時までいて引き継ぎをしてから上がることになっていた。客が少ないので、千里に任せて副店長は一時仮眠をとっていた。
4時20分。60代くらいの男性のお客様が来店し、スパゲティとホットチキンを注文したので千里は冷凍庫から食材を取り出し、マニュアル通りに調理して客席に運んでいった。そして厨房に戻り、配膳済みのボタンを押したらモニターに「バレンタイン・チョコ当選」の文字が。
「え?・・・・」
困った。5時近くになれば他の女性スタッフが来るので、その人に渡すのを頼めばよいのだが、まだ来ていない。桃香たちは帰ってしまった。副店長に相談しようと思ったが、熟睡しているようで起きてこない。ぐずぐずしていると、お客様は食べ終わってしまうかも知れない。レジでお待たせしたりもできない。
その時、千里の頭の中に先ほどの桃香の「これ、千里が着てもいいんじゃない?」
ということぱが響き渡った。
「よし」千里は決断すると、女子更衣室に入り、さきほど桃香が脱いだばかりの制服を自分で着た。こういう服を着ること自体は慣れてるからぜんぜん問題無い。ただそういう服で人前に出たことがないだけだ。今日はブラジャーもしてきていたので、胸のところにティッシュペーパーを詰めてみた。鏡に映してみる。うん、行ける行ける。笑顔を作ってみる。よし、可愛い。
千里が女子更衣室を出て厨房内から客席を見ると、あのお客様はもうスパゲティをたいらげ、ホットチキンもあと2〜3本になっていた。危ない危ない。しかしなんて速く食べる客なんだ。千里は当たりのチョコを手に持つと、急いで厨房を出て、息を整えながらそのテーブルの所に歩いていった。
「お客様、バレンタインのキャンペーンで男性のお客様にチョコをプレゼントしております。ふつうは小さなチョコなのですが、お客様には当たりが出ましたのでこれをプレゼントさせていただきす」と説明して、チョコを渡した。
「おや、今日は朝から当たりか!さい先いいね。宝籤でも買おうかな」と言って男性客は笑顔でチョコを受け取った。「君、ありがとね」と言うので「こちらこそありがとうございます」といってテーブルを離れる。
厨房に戻ったら、ちょうど副店長が仮眠から起きて出て来たところだった。「あ、5時組の人?おはよう」と千里を見ていう。一瞬千里であることに気づかなかったようだ。「いえ、副店長。私です」と千里が言うと、副店長は目をぱちくりさせていたが「いや。そうしてると女の子にしか見えないね」と感心したように言った。千里が、また当たりが出たのに担当できる女性がいなかったので緊急対応だったことを説明すると「全然問題無いよ。ありがとう」と笑顔で答えた。
お客様がテーブルを立ち、レジの所に向かったので、千里もレジの所に行きお会計をした。男性客は「でも君、美人だし、躾がいい感じだね。うちの孫の嫁さんに欲しいくらいだ」などといって帰って行った。
『ま、女性スタッフ不在の時は仕方ないから男性スタッフが渡していいことになっいるから、あの子が渡すのは全然問題無いのだけど、あの子の場合は、あの制服を着てくれたほうが確実にお客様のうけはいいな・・・・・』などと、副店長は千里の後ろ姿を見ながら考えていた。『今度、店長と相談してみっか』
その日は、その客が帰った直後から5時前というのにお客様がどんどんやってきた。チョコの当たりは出なかったものの、千里は忙しくて元の男子スタッフの制服に戻ることができないままになってしまった。5時組のスタッフが出てくると、千里が女子の制服を着ているのを見て最初は驚いたが、みんな「可愛い」「似合ってる」
という始末であった。
それを見て副店長は「本人、こちらの方が合っているようなので、今後こちらの制服を着てもらうことにするから」などと半ば冗談のように言った。
6時に上がってからやっと普通の服に戻り、スクーターで桃香の家を訪ねた。桃香の地図は家のある町まではよく書いてあるのに肝心の桃香の家の近くが極めてアバウトで困ったが、何とか探し当てることができた。このスクーターは中古屋さんで2万で買ったものだ。携帯を鳴らして中に入れてもらう。朱音はすやすや寝ていた。
「あれ?寝てた。ごめんね」
「朱音は書き終えた。私はまだ。昼までには書き上げないといけないけど」
「わあ、それはたいへんだ」
「すまねえ、千里。この命題がどうしても証明できん。千里、証明書いて。それ書き写すから」「あはは」
千里がその証明を頭の中で構成しながら書いていっている間に、桃香はあくびをしながら、コーヒーを入れてきた。
「ま、コーヒーでも。インスタントだけど」
「うん。ありがとう、桃香」
「あれ?千里さ・・・・」
「なぁに?」
「おっぱいあるね」
「え?あ!」
さっき女子の制服を着た時にブラの中に詰めていたティッシュを外し忘れていた。「きゃー」と言いながら、後ろを向いてティッシュを取り出し、それから先ほどの『事件』の経緯を説明した。桃香は笑いながら聞いていたが、副店長の言葉まで聞くと「じゃ、今度からあそこ行くと、女子制服の千里が見られるんだ」などという。「えー?冗談だと思うよ」と千里は言いながら、不安な気持ちになっていた。
いや、正直にいえば、それは不安な気持ちと淡い期待感の混合であった。そして実際にはその「期待」のほうが当たってしまったのであった。
実際に千里がバイト先のファミレスでスカートタイプの制服を常時着るようになったのは、桃香の「女子教育」を受けた2年生の秋からであった。
バレンタイン事件の翌日、千里は店長に呼ばれ、あらためて「自分で認識している自己の性別はどちらか」と尋ねられた。
千里が少し迷いながらも「私は女です」と答えると、ちゃんと用意してあったようで、すぐに女子制服を貸与され今後はこちらを着るように言われた。ただスカートの他に同じ色のショートパンツが付けられていた。どうしてもスカートが苦手な女性スタッフのために、ショートパンツも存在していたのであった。そういう訳で、千里はその後、ショートパンツ版の女子制服を主として着ていた。
また、女子更衣室のロッカーに自分の名札が入っていて、荷物も男子更衣室側にあったロッカーから移動されていた。千里は女物の下着を着けていることも多かったので、実は他の男性がいる前では着替えができず、これまでも他の女子から呼んでもらう形で女子更衣室に行って着替えていたので、これは助かった。
しかし他の女子といっしょに着替えるとなると配慮もしなきゃと千里は考えた。バイトに行く時はこれまでは「時々」女性下着をつけていたのを「必ず」女性下着をつけるようにした。また、胸が無いのは仕方ないとしても股間に膨らみがあるのはまずいよなと思い、それから千里はタックの練習を始めた。
さて、その事件があった翌々週の2月15日、千里は「アフター・バレンタイン女子会」に出席していた。千里が女子会に常時参加するようになったのも、この頃からであった。それまでは月に1度くらいゲスト的に呼ばれていたのだが。。。。。
冒頭、全員お互いに「友チョコ」を配布した。千里も桃香から友チョコ配りをするよと言われていたので、事前にたくさん可愛い感じのチョコを買っておいた。
「チョコ、みんな何個くらい配った?義理チョコ・友チョコ以外」
「私は本命チョコは1個だよ」と、彼氏のいる子たちは言う。
玲奈だけが「本命チョコ1個と滑り止め1個」と答える。
「私はゼロ」と朱音、香奈、桃香が口をそろえて言った。
「あれ?みんな少ないね。私は本命チョコ5個贈ったのに」と美緒がいうと「それはおかしい」と他の女子から非難されていた。
「千里は誰かに贈った?本命チョコ」と聞かれると千里は真っ赤になった。
「えっとね・・・実は買ったんだけど渡せなかった」
「相手は女の子?男の子?」と美緒が興味津々に訊く。
「え?男の子だよ。なんで?」と千里がキョトンとした様子で答えたので、一瞬他の女子たちが顔を見合わせた。
「千里、この集まりのレギュラーになってもらおうよ」
「うん。千里って充分女子だもんね」と誰からともなく声が上がった。「裁判長!千里が女子である証拠として、この写真を提出します」と桃香。それはショートパンツ版のファミレスのメイドさん風制服を着た千里の写真だった。「あ!それは!」といって千里がまた真っ赤になる。
「え?可愛い!!」と他の女子たちから声が上がっていた。
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■女の子たちのバレンタイン(2)