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目次]
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■野暮な解説
(*1) いわゆる浦島太郎の物語は、日本書紀巻14雄略天皇22年、丹後国風土記、万葉集1740番の3つが最も古く、中でも丹後国風土記が最も詳しい。今回の物語はこの丹後国風土記のバージョンを下敷きにしつつ、一部御伽草子版も参考にしてまとめあげた。一部の異説も取り入れている。
「浦島太郎」という名前は江戸時代にまとめられた「御伽草子」(渋川清右衛門)が恐らく初出である。ここではまだ乙姫という名前は出てこないし、亀をいじめるエピソードも存在しない。
亀をいじめるエピソードは明治時代の巌谷小波(いわやさざなみ)が子供向けにリライトしたもので登場し、乙姫の名前もここで出てきたらしい(現在資料確認中)。巌谷版では、本来の主筋であった恋愛要素が排除され、亀=姫であることと、浦嶋子と姫の結婚も描かれていないので、鯛や平目の舞い踊りを楽しむだけのストイックな浦島になり、結果的に最後の悲劇があまりにも割に合わない。この巌谷版が更に簡略化されて尋常小学校教科書に収録され、それが今日、多くの人が認識している浦島太郎の物語である。
浦島太郎の名前:水江浦嶼子(日本書紀=瑞江浦嶋子/万葉集=水江之浦嶋兒/丹後国風土記=水江浦嶼子)の読み方については「水の江の浦の嶼子」、「水の江の浦嶼の子」という2種類の説がある。前者では水江浦に住む嶼子という者、後者では水江に住む浦嶼という者の子となる。御伽草子は「浦島という者の子供の太郎」と書いているが、今回の物語では嶼子を名前と考える。「太郎」の名前は御伽草子で出てきたもので古代の3文書では「浦嶋子」である。
子の付く名前は古くは小野妹子・中臣鎌子など、男性に使用されているが、江戸時代頃はむしろ女性名と考えられるようになっていたため、太郎と改変したものか?
(*2)風土記は「海中博大之嶋」と書く。
これは海の只中(ただなか)の広く大きな島という意味にも取れるし、海面下の水中にある島とも解釈できる。明治以降は海中の宮というイメージが定着しているし、この物語のルーツのひとつと考えられる、山幸彦と豊玉姫の物語だと、完全密閉された船で訪れており、海底に海神の宮があるイメージである。
しかし、風土記版にしても御伽草子版にしてもふつうに空気があり太陽が照る地上の描写であり、やはり「海のただ中の島」と考えるのが自然と思われる。
10日あまりという航海日数は御伽草子版に従った。風土記版では太郎に目を瞑らせて、一瞬で到達している。
手漕ぎ船の速度を時速5km/hとし1日8時間漕いだとして、12日で480kmになるが、丹後国から漕ぎ出すと、海流と逆向きになる対馬が590km, 隠岐180km, 竹島350km, 鬱陵(ウルルン)島430km, 済州(チェジュ)島850km, 更に南に航路を採ると、奄美大島1200km, 与論島1400km, 宮古島1800km。台湾2200km。逆に丹後から海流に沿って行く場合は佐渡島が360km, 奥尻島800km, 礼文島1200kmである。
なお亀の場合、大きな亀になると10-20km/hほどのスピードを出すものもあるという。20km/h出るなら手漕ぎ船の4倍の速度である。ワニも20km/h、イルカは50km/h、マグロは80km/h、カジキは100km/hくらい出るらしい。
(*3)竜宮城の主というと、現代では乙姫というイメージが強いが、少なくとも江戸時代の御伽草子の時点でも浦島太郎の物語に「乙姫」という名前は出てこない。浦島太郎のお相手は亀である。
「おとひめ」というのは「弟姫=妹」ということだろうと言われる。この名前は一般に次女以下の娘の名前として使用されることが多い。その場合、対語は「兄姫(えひめ)」かも知れない。京都言葉で言うと「いとさん」「こいさん」という感じ。乙が甲乙丙丁の2番目である所から乙という説もあるが、甲姫という名前はあまり一般的ではない。
・源頼朝の次女が乙姫だが、長女は大姫と呼ばれている。
・崇神天皇・垂仁天皇の御代に政治の実権を持った丹波道主命(たんばのみちのうし)という人がある。景行天皇の外祖父である。この人の娘に弟比売(おとひめ)という人がおり、次女である。長女は日葉酢比売(ひばすひめ)。なお道主は四道将軍の1人だが、その四道将軍のひとり吉備津彦は桃太郎のモデルのひとりと言われる。
・日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃(皇后という記述も)に弟橘媛(おとたちばなひめ)という人がいるが、この人に姉が居たかどうかは不明。姉妹に弟財郎女(おとたからのいらつめ)という人がおり成務天皇の妃となるが、弟橘媛との長幼の順序は不明。成務天皇は日本武尊の異母弟である。つまり有力な2人の皇子に姉妹を嫁がせたのだろう。
弟橘媛は日本武尊が関東征伐をする時に同行し、海が荒れた時に、自分が夫の身代わりとなり、嵐を鎮めるため海神への生け贄になると言って海に飛び込んでいる。ここから、乙姫(弟姫)=海神の花嫁というイメージが生まれたという説が割と昔からある。日本武尊の船が無事向こうに着いた後で亡き妻を嘆いて「吾妻(あつま)はや」と言ったことから東国のことを「あつま(あずま)」と呼ぶようになったとされる。
・成務天皇の娘に弟比売命(おとひめのみこと)という人がいる。成務天皇にはたくさん妾(みめ)がおり子女も多いが、この人の同母姉妹に限っても四女である。同母姉は沼名木郎女、香余理比売命、高木比売命。
(*4)ツーワ(絲瓜)とは日本語で言えばヘチマ。インド原産で中国や日本には15世紀頃に入って来た。
(*5)フェイザ肥{白/七}(肥皂)は石鹸のこと。BC2800年頃から存在したが、日本に入ってきたのは安土桃山時代。
(*6)現代では足を通す部分が左右に別れているキュロット式のものを馬乗袴、別れておらずスカート式のものを行灯袴(あんどんばかま)という。江戸時代に主流だったのは馬乗袴で、武士が着用したが、庶民は馬に乗らないので略式の行灯袴を穿くこともあった。当時は行灯袴はあくまで略式であった。
明治時代に行灯袴(あんどんばかま)は女学生の制服として普及し、現代では男性の結婚式の礼装でも行灯袴を使用することがある。なお弓道では足裁きが必要なので男女とも馬乗袴をつける。
(*7)漆塗りの技術は縄文時代から存在し、日本では世界最古の漆器(9000年前)が出土している。漆塗りの技術は日本発祥とも言われ、英語では磁器をchinaというのに対して漆器をjapanという。
なお「玉手箱」という言葉は、御伽草子の段階でも見られない。明治以降の造語ではないかと思われる。
(*8) 四季の庭の記述は風土記や万葉集には無く、御伽草子で出てくる。ここでは東に春の庭、南に夏の庭、西に秋の庭、北に冬の庭とされているが実際に描写されている風景は広大であり、庭と言うには違和感がある。むしろ四季の町ともいうべきなので、ここでは「町」とした。
四季の町というと、源氏物語で光源氏が後半生で建築した六条院のものが有名である。六条院の場合は、南東に春の町、北東に夏の町、南西に秋の町、北西に冬の町が作られている。
春の町:源氏・紫の上・明石の姫君が住んだ。
夏の町:花散里・夕霧・玉鬘
秋の町:秋好中宮
冬の町:明石の御方
むろん御伽草子は源氏物語より遙かに新しい時代の作品である。
(*9)干飯は古代の旅行食。糒とも書く。乾燥させた御飯で、水に浸すと食べられる。或いはお湯で戻したりもする。現代のアルファ化米に似ているがさすがに現代のものほど美事には戻らない。
(*10)瑠璃(るり)はラピスラズリ。アフガニスタン原産で、準宝石と考えられていた。「瑠璃も玻璃も照らせば光る」とは瑠璃(ラピスラズリ)も玻璃(はり:水晶)も暗い中で灯りを当てると光ってその存在が目立つということ。
(*11)口紅や頬紅として使用される紅は、古くは辰砂(水銀)を使用していて、伊勢の丹生(にゅう)などはその名産地だった。概して「にゅう」と読む地名は水銀関連であるといわれる。奈良県の丹生(にゅう)や、福井県の遠敷(おにゅう)なども。しかし水銀を使用した紅は当然有害であり、長期間使用すると肌が黒ずみ、命も縮めることになる。
これに対して日本にも3世紀頃入ってきたと言われる艶紅(つやべに)は、紅花から採ったもので、無害でかつ色合いが美しいのが特徴である。ただ大量の紅花から僅かしか取れないため、極めて高価なものであった。本文中にも書いたように、同じ重さの金(きん)と等価交換されていた。後の江戸時代頃になると京都が名産地となり「京紅」と呼ばれた。艶紅は、むろん浦嶋子が以前生きていた雄略天皇の御代にも存在したが、極めて貴重なものであったため、特に男の浦嶋子は見たこともなかったであろう。
■日本書紀(720年)・巻14雄略天皇22年
(全文)丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乗舟而釣、遂得大亀、便化為女。於是、浦嶋子感以為婦、相遂入海、到蓬莱山、歴観仙衆。語在別巻。
(読み下し文)丹波の国、与社郡管川(後の与謝郡筒川)の人で瑞江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)、舟に乗りて釣りし、ついに大亀を得(う)。たちまちに女になる。ここにおいて浦嶋子、感(たけ)りて婦(つま)となす。相遂に海に入り、蓬莱山に到りて、仙衆を歴(めぐ)り観(み)る。
語は別巻にあり。
(この「別巻」に相当するものは現存しないが恐らくは後述の丹後国風土記と似た内容なのではないかと想像される)
■万葉集(760年頃)1740番
主人公 水江之浦嶋兒(みずのえのうらしまのこ)
出会い 7日間家に帰らず漁をしていたら遭遇
相手 海神の処女(わだつみのかみのおとめ)
行った場所 常世の海神の宮の内辺の美妙な殿
滞在期間 3年
渡された物 櫛笥(くしげ)
開けた理由 これを開けると住んでいた家が現れるかもと思ったから
結果 年老いて死亡
■丹後国風土記(750年頃)
この内容が最も濃い。全ての原型と思われる。
主人公 筒川の嶼子/俗に言う水の江の浦の嶋子(みずのえのうらのしまこ)
筒川嶼子。斯、所謂水江浦嶼子者也。
亀との出会い 釣りをして3日3晩獲物なし。五色の亀を釣って船中に置いていた
出会い 嶼子が寝ている内に亀が女性になった
相手 天上の仙家の人。亀比売
行った場所 蓬莱山(とこよのくに)。目を瞑っている内に大きな島に
滞在期間 3年
渡された物 玉匣(たまくしげ)
村の様子 知らない人ばかりになっている。
経過時間 300年
開けた理由 亀比売のことを懐かしく思い撫でている内に、忠告を忘れて開けてしまった
結果 年老いたが、亀比売と歌を交換する。やりとりした歌から、亀比売との間に子供がいることが示唆される。
■山幸彦と豊玉姫の話(720年)
この話は浦島伝説のルーツのひとつと言われている。
(日本書紀神代下.概略)海幸彦の釣り針を無くした山幸彦は塩土老翁が造った無目堅間の小舟で海神の宮に着く。豊玉姫と結婚して3年経つ。針を探しに来たことを思い出し、赤鯛の口から発見。帰る時、妊娠しているので産屋を作って待っていてといい、大鰐に乗せて返した。ところがその産屋が仕上がる前に豊玉姫は大亀に乗ってやって来た。そしてお産に入る。決して中を見てはいけないというのを見てしまうと、大鰐の姿になって苦しんでいた。豊玉姫はそれを恥ずかしがって海の宮に帰ってしまう。代わりに豊玉姫の妹・玉依姫がこの子供を育てた。この子供は産屋の屋根が葺き終わらない内に産まれてしまったので、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と言う。
■御伽草子(1730年頃)
主人公 浦島という者の息子の太郎24-25歳
亀との出会い たくさん漁をしていてゑしまが磯で亀を釣り上げたが、放してやる
出会い 翌日釣りをしていた時、舟に乗ってやってきた
相手 天上の仙家の人。別れの時に竜宮城の亀だと名乗る
行った場所 竜宮城。10日ほど航海する
滞在期間 3年
渡された物 いつくしき箱
村の様子 荒れ果てて何も無くなっている。
経過時間 700年
開けた理由 仕方ないから開けてみよう
結果 年老いて更に鶴となり、空を飛んで蓬莱山に行く(亀と再会)。後に夫婦の明神となる。
■異説
・神奈川県に伝わる話。舞台は相模国三浦。浦島は約束を守って、箱を開けない。両親の墓が武蔵国白幡にあると聞き、子安の浜に行く。比売がその場所を教えてくれる。浦島はそこに庵を結んで住んだ。
・香川県に伝わる説では鶴となった太郎の元に比売が亀の姿でやってくる
・長野県上松町の景勝地《寝覚の床》には、龍宮から戻った浦嶋がここに住み、霊薬を売って暮らしていたという伝説がある。ある時、龍宮の様子を村人たちに語っていた時、うっかり玉手箱を開けてしまい、齢300歳の老人になってしまった。この地には薬を使って3度若返った《三返りの翁》の伝説があり、後にこの翁と浦島太郎が混同されたのではないかとも言われる。