■夏の日の想い出・超多忙年の夏(4)

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更に少し先の話を書いておこう。
 
翌年の2月3日、政子は女の子を出産。あやめと命名した。1ヶ月ほどの早産であったが、私も美智子も、政子本人も「よりによってこういう日付で生まれてくるなんて」と言った。
(あやめは青葉の「お姉ちゃん」である千里の娘・由美と同い年生まれになる。1ヶ月違いである)なお、政子が双子座、私が天秤座で、あやめは水瓶座と、3人とも風の星座で相性が良かった。
 
「私、この子が歌手デビューするまで音楽制作活動頑張るからね」などと美智子は言った。美智子はこの子の父親が私であることまでは知らない。 
この頃、美智子の事務所はメジャーデビューしているアーティストが8組もいて社員も15人、バイトは数十人の業界でも中堅の事務所に発展していた。ただし美智子はローズクォーツとローズ+リリー以外のアーティストに関する作業はほとんど花枝に任せていたし、管理関係は悠子に任せて、本人は私や政子と一緒にいつも全国を飛び回っていた。またインディーズのアーティストや趣味で音源制作をしたいと思っている人たちを支援する子会社を設立しており、そこには全国で200人の登録者があった。美智子はその人達を毎年1度東京に招いて「ミュージシャン・サミット」を開いていた。このサミットでの交流から、また新たなユニットが誕生したりもしていた。
 
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あやめが生まれてから、私は親友を支援するという名目で政子の家に入り浸りになって、赤ちゃんをあやしたりしていた。政子も遠慮無く私をこき使った。青葉が私のホルモンの出方を調整してくれたので、私は母乳が出るようになった。そこで私達はふたりで交替で授乳することができたので、私が東京にいる間は政子は充分な睡眠が取れていた。
「でも、あやめ、私のおっぱいよりマーサのおっぱいが好みみたい」
「そりゃ産みの親ですから当然ですわ。おほほ」
などといって政子は笑う。あやめが少し言葉が出るようになってくると、私達は『予定通り』、政子のことを「おかあさん」又は「おかあちゃん」、私のことを「ママ」と呼ばせた。
 
私は政子があやめを産んだ直後頃から、ずっと政子の家に入り浸り状態になっていたので、自分のマンションはどちらかというと仕事場で政子の家が自分の家という感じになった。政子も育児に疲れると、子供を私に任せて、私の家に来て、のんびりと創作活動をしたりもしていた。
 
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また、私は正望にも許しをもらって、あやめを自分の養子にした。養子に出しても政子は実母として戸籍上の関係は維持されるので、それで政子と私はふたりともあやめの法的な母親になった。
 
私の行動について世間はいろいろ噂した。「ケイさんとマリさんはもしかしてレスビアンなんですか?」とも随分訊かれたが、私達は「親友です」と笑顔で答えた。
「マリが1人で子供を育てるのは大変だし、私は子供が産めないし、お互いの気持ちとニーズが一致したんです」と私は説明した。
「養子にしたのは私が突然死したような場合に、子供の教育費として私の遺産を活用してもらいたいからです」と純粋に法技術的なものであると私は語った。 
私が政子の家に入り浸りなので、正望も仕事の手が空くと政子の家にやってきて、結果的に、あやめのことも可愛がってくれた。正望はあやめに自分のことをパパと呼ばせた。
「だって、フーコが『ママ』なら、僕は『パパ』だろ?」
と正望は言って、あやめを可愛がってくれた。それで、あやめも正望のことを『パパ』といってなついた。正望はそのうち実家にいる時間より、政子の家にいる時間の方が長くなり、この家から朝弁護士事務所に出勤していき、仕事が終わるとこの家に「ただいま」といって帰ってくるようになった。
 
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正望がこの家に入り浸りになったので、そのうち正望のお母さんまでやってきて、あやめを自分の孫のように可愛がってくれた。また私があやめを養子にしたことから結果的にあやめの祖母になった私の母も、政子の家に来ては、あやめをあやしていった。政子の母・私の母・正望の母はしばしば顔を合わせるので、随分仲良くなって、どこかに3人で一緒にお茶を飲みに行ったりもするようになった。 
家に来る人数がやたらと増えたこともあり、政子は敷地内に小さな2階建ての離れを建ててくれた。正望が来ている時、私は正望と一緒にそこの2階で寝たが、この離れは、政子が自分の恋人を連れ込む時にも使用していた。(政子が彼氏と泊まっている日は私が1人で子供の世話をしていた) 
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私は正望が来ていない日はいつも政子と一緒に寝ていたし、たくさんセックスもしていた。正望が来ている日は私は正望と一緒に寝ていた。正望と一緒に寝る時、私は最初の頃、政子の家で他の子と寝るのは・・・と少し後ろめたい気もしていたのだけど、政子が「今夜は頑張ってね」などと煽るので、私も慣れてしまった。逆に政子が彼氏を連れてきて泊める時は私が「おふたりとも頑張ってね」などと笑顔で言ったし、特に嫉妬は感じなかった。
 
「嫉妬ってさ・・・・自分の愛が失われるかもと思うから嫉妬するのかもね。旦那が子供を愛してくれているの見て嫉妬する妻なんていないじゃん」「いや。それ、いるって。でも私とマーサの愛は揺らぎないから、マーサがどんなに他の男の人と愛しあってても、私、嫉妬しないよ」「うんうん。私も正望君に全然嫉妬しないもん」
 
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春になって、上島先生は謹慎が解け、調子も回復してまた精力的に楽曲の制作を再開した。何年も超多作を続けていたので、結果的にはこの1年が良い充電期間になったようであった。私は肩の荷が下りてホッとしたが、今度は私の方が超多作を1年間続けた反動で3ヶ月ほど全く曲が書けなくなってしまった。(結局その1年で私は上島ファミリーの楽曲の8割を書いていた)
 
しかし政子に誘われて宮古島にふたり+あやめの3人で一週間ほど旅に行ったら、作曲がまたできるようになった。
 
「向こうではHした?」と美智子は訊いた。
「はい、毎日たっぷり」と私が答えると美智子は笑っていた。
 
なお、政子と一緒に一週間の旅行に行ったのを「いいな、いいな」と正望が言うので、秋の連休を利用して私は正望とも隠岐に一週間の旅行に行ってきた。私の創作意欲はそれでまた刺激された。
 
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さて、政子はその後、6年間にわたって1年おきに3人の子供を産んだ(あやめを含めて政子が産んだ子供は全部で4人)。お見事というかその父親が全て違う人であった。しかし政子は父親の名前は一切公表しなかった。また相手に認知も求めなかった。あやめを含めて4人の父親の名前を知るのは私だけである。ただ、3人の父親の中で一人だけは自分の子と確信していたようで、養育費を送ると言ってきた。政子は要らないと言ったが律儀に毎月50万送金してくれたので、政子はその子名義の口座を作ってそこに全額入金した。
 
政子が2年に1度子供を産むので、美智子はスケジュールの調整に苦労した。結局「ローズ+リリー」のコンサート活動は、その6年間は、政子の妊娠と育児の合間を縫っておこなわれる感じになった。
 
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私はあやめ以外の3人の子供も生まれる度に養子にした。最初、政子は1人産む度に交互に自分の子供、私の子供と、振り分けるつもりだったようだが、政子のお母さんが、きょうだいで苗字がばらばらになるのは可哀想と言ったので、みんな養子にすることにした。あやめの後から生まれた3人にも私と政子は「おかあさん」「ママ」と呼び分けさせたし、正望も自分のことを「パパ」と呼ばせた。
 
政子の家に、私・政子・正望の3人がほとんど住んでいるような状況が継続していたので、政子はある時
「これって妻妾同居に見えるかもね。実はちょっと組み合わせが違うけど」
などと笑って言った。
 
「えっと・・・政子、正望さんとセックスしたいならしてもいいよ。政子なら許してあげる。彼も自分の子供欲しいかも知れないし」「やめとく。冬の彼氏だもん。他の男の子と恋するのと、冬と愛し合うのは私の中で矛盾しないけど、冬の彼氏とセックスするのは罪悪感を感じる」「微妙なんだね」
「もし正望さんの子供欲しいなら、人工授精でなら産んであげるよ」
「うーん。念のため聞いてみる」
 
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その件、私は正望に言ってみたが「もう子供4人もいるから充分」と言われた。 
私はその数年後にようやく正望と籍を入れ、一応結婚式なるものも挙げた。招待客が200人くらいの豪華な挙式となった。式の時、うちの母と正望の母が「いや、ほんとにここまで長かったですねぇ」と語り合っていた。
「全くもう自分が生きている間に結婚してくれるのか、やきもきしてましたよ」
 
私達は一応新婚旅行にも行き(人並みにハワイに行ってきた)、その間はスイートな生活をした。しかし旅行から戻ると、またお互い多忙な日々が待っていた。結局、籍を入れたからといって同居を開始できたわけではなく、一応政子の家で顔を合わせることが多いものの、実際に会えるのは週に1度程度、などという状態が続いていくことになる。しかし交際開始から14年、婚約してからも7年たっていたので政子から『最も長い交際期間』でギネスに申請しようか?なんてからかわれた。
 
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この入籍の結果、政子は中田姓、私と正望は木原姓、4人の子供は唐本姓という、親が全員子供と違う姓を持つ不思議な家庭?になった(そもそも母2人・父1人というのが変則的すぎるが)。なお、正望は私と籍を入れる時に、財産目当てと思われたくないからと言い、私に万一のことがあっても自分に遺産を残さないよう要求したので、私は笑って『自分が死んだ場合、遺産は全て4人の子供達に残す』旨の遺言書を作成した。
 
あやめは容貌が母親似であったので、私が父親であることには誰も気付かなかった。しかし天性の歌唱力を持っていた。その歌声を聞いて美智子は「ひょっとして、あやめちゃんの父親が冬ってことないよね?」と私達に訊いた。あやめが6歳になった時のことだった。「みっちゃんにはさすがにばれたか」と私達は笑って答えた。
 
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もう1人だけ、あやめの父親が私であることに気付いたのは青葉であった。彼女は「だって、あやめちゃんの波動が、冬さんと凄く似てるんだもん」と言った。それはあやめが生まれてすぐの頃、彼女が東京に出てきた折りにうちに寄ってくれた時であった。(それで、『冬さんも授乳したいでしょ?自分の子供に』といって、母乳が出るようにしてくれたのであった) 
家庭が極めて変則的な上に、2人の母親は個性的過ぎるし父親も多忙でなかなか会えないという状況で、あやめは小学校では最初他の子と話が合わずになかなか友達ができずに悩んだりもしたようだったが、ものすごく芯の強い子だったので、やがて同様に孤立していた変な家庭?の子2人と変な子同士?で仲良くなり、明るい表情を絶やさない子に育った。
 
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また礼美の4人目の子、博美の2人目の子、仁恵の最初の子と、ほぼ同い年であったので(あやめと仁恵の子が同学年で、礼美の子と博美の子がひとつ下)、母親同士で集まる時に、この4人の子も仲良くしていて、普段は会えないものの、お互いよくメールの交換をしていて、それもあやめの心の支えになったようであった。
 
私達が高3から大2の頃に形成されたこの「仲良しグループ」(私・政子・礼美・仁恵・琴絵・博美・小春。これに仁恵の親友の真菜香・綾乃・順子が応援に来てくれることもあった)は、その後の団結力も強く、私と政子が仕事で不在の時に、自分の子を連れて政子の家にやってきては、私達の子供達の面倒を見てくれていた。だから、あやめはよく「うちにはお父さんは1人しかいないけど、お母さんはいっぱいいる」なんて小さい頃、言っていた。
 
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あやめには3歳の時からピアノとヴァイオリンとフルートを習わせていたが、ほんとに良い声を持ち(声質自体は政子に似ていた)、歌のうまい子だった。小学3〜4年生の頃にはもうかなりしっかりした曲作りもしていた。
 
そして、あやめは、中学生になるのと同時にプロ歌手兼ソングライターとしてデビューし、私達を遙かに超えるヒットを連発していくのだが、それはずっとずっと先の物語である。
 
 
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