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目次]
しばらくふたりとも放心状態だった。
「済まなかった」
と速水は言う。
「いえ。夜のお相手くらいは、速水様がお望みなら、いつでも務めさせてください」
とエイは言ったが、自分で何を言ってるんだ?と思う。
「実は、そなたが本当におなごなのか確かめておきたかった」
「あらあら、私が男に見えますか?」
「実は昔関わった藩の庭園の工事現場で、そなたによく似た男を見たことがあって」
エイはドキっとしたが平静を装って答える。暗闇だから表情が見えないのは幸いである。
「まあ、私の親戚か何かでしょうかねぇ」
「あるいはそうかも知れないし、他人の空似かも知れん。ただ、その男は行方知れずになっていたから、もしやと思って。しかし男が女になる訳が無いから、そなたはやはり別人のようだ」
「そうですね。神様か仏様でもなけりゃ、男を女に変えたりはできないでしょうね」
「全くだな。でも済まなかった。このような無体なこと、二度とはしない」
エイはその速水の真面目そうな言葉に心が緩んだ。
「私、こんなこと今してしまったからかも知れませんけど、速水様のこと少し好きになってしまったかも知れません。妾にしてとかは言いませんから、もし私を抱きたい気分になった時は、いつでも抱いて構いませんよ」
「そ、そうか?」
速水の方が少し焦っている感じだった。
旅の途中、速水はその後特にエイを求めなかったが、エイの本来の生国に入った晩と出た晩、そして豊後の国に着いた晩だけ、ふたりは愛し合った。それは何となく、自然な結びつきだった。
豊後の国での仕事はそんなに難しいことでは無かった。庭園の補修作業だったのだが、エイは大坂の問屋の「女番頭格」という肩書きで、建材の手配や時には実際の工事の助言などもした。ただ細かい技術的なことは速水に頼んで、速水から言ってもらうようにした。そのあたりは速水との間に無言の了解と連携ができていた感じもあった。
速水とエイは、当地でも、夫婦に近い関係なのだろうと見なされ、ひとつ屋根の下で暮らしていた。速水は毎晩ではなかったが、時々特に疲れているような時にエイを求め、エイもそれに快く応じていた。
その庭園は50年くらい前に、当時の名人的な職人が設計施工したものだということであった。エイは、この仕事をしながら、その素晴らしい設計に感嘆した。そうか、こういうやり方もあったのかと思う所がたくさんあった。ただ、実際に工事に当たっている人夫たちや、それを指揮している侍たちも、この庭園の仕組みは理解していない雰囲気だった。
そしてエイは、自分がそういう設計の中身に気付いていることも、全く表情には出さないようにし、むしろ、何だかよく分からないような顔をしていた。
知っているということが知られれば命に関わる。
工事現場では「事故」くらい、いくらでも起きるんだから・・・・
豊後の国での仕事を1年掛けてほぼ終えた頃、大坂から旦那様が亡くなったという報せが届いた。それでエイは、後事を現地の商人に託して、大坂に戻ることにした。
速水と一緒に東へと旅をして、やがてエイの生国に入る。ここはあまり長居したくないので足早に歩いていたのだが、城下町を少し過ぎたところで日がかなり落ちてくる。
「もうこれ以上は行けない。城下まで戻ろう」
と速水が言うので
「はい」
と言ってエイも従う。
それで戻っていた時、向こうから豪華な駕籠がやってきた。装飾が多い。どうも身分の高い女性用の《女乗物》のようである。殿様か家老クラスの姫君か妻妾か。
エイと速水は道の端に寄り、控えて駕籠の通過を待った。
ところがその駕籠が、ふたりの前で停まってしまう。なんだろう?と思っていたら、傍に居た腰元が、エイの所に来て
「ちょっとこちらに」
と言った。
エイはびっくりしたが、来いと言われたら行かねばならない。恐る恐る乗物に寄る。中の人物が細く戸を開けた。
「エイちゃん、久しぶり」
と言って笑顔を見せたのはキク(与吉)であった。エイは驚愕した。
「ちょっと付き合わない?」
そこでエイは速水に旅籠(筑紫に向かう時に泊まった宿にしようと申し合わせた)で待っててくれるように言い、キクに付き従って、大きなお屋敷まで行った。
キクは人払いをした。
「びっくりした? どうしたの?」
エイはもう女言葉が身に染みているので、男言葉では話せない気がして女言葉で尋ねた。
「私ね、殿様の側室になっちゃった」
「嘘。信じられない!」
「城下で最初魚屋の下働きをしていて、その内、お琴の師匠の女中になってね。そんな時、お忍びで来ていた若様に見初められちゃって。当時は若様は部屋住みの身だったんだけど、3年前にお世継ぎが亡くなって突然お世継ぎになって。それで昨年殿様が亡くなって、藩主になっちゃったんだよ」
キクも完全に女言葉になっている。ただお互いにどうしても低い声なのはどうにもならない。
「それはまた凄い出世だね」
エイは懐かしくて、キクとお互いのことをたくさん話した。自分がゆえあって子どもが産めない身体であることは殿様にも打ち明けているが、殿様には由緒正しい家から娶った正室もいるし、他にも数人の側室がいるので、別に子どもができないのは構わないということらしかった。それでも夜の相手としては相性が良いらしく、かなり頻繁にお渡りになるらしい。
今夜は泊まっていかないかと言われたが、先を急ぐし、連れもあるのでということでその晩は帰ることにした。
屋敷を辞して、旅籠に戻る。今日の宿は混んでいるようで、別の侍夫婦と相部屋であった。向こうは四国で浪人していたものの、知人から上州で仕官の口を紹介してもらえることになったということで、東へ行く途中ということだった。
何となく会話を交わしている内にけっこう親しくなる。それで、向こうの夫と速水、エイと向こうの妻で、それぞれ一緒にお風呂に入りに行った。エイは最初の頃は女湯に入るというだけで随分緊張したものだけど、最近はすっかり平気になったなあなどと思いながら、その奥方と一緒にあれこれおしゃべりしながら、湯を楽しみ、そして部屋に戻った。それで少しまた4人で話していた時、速水が
「急用を思い出した。ちょっと失礼」
と言ってエイを連れ出した。
「どうしたの?」
とエイが訊いたが速水は難しい顔をしている。
旅籠の廊下に出たかと思うと、すぐ隣にある布団部屋に連れ込んだ。
「何?こんな所で」
「エイ殿、今から何を見ても聞いても絶対に声を立ててはいけない」
と速水は小さな声で言った。
「はい?」
数人の侍のような足音が聞こえた。
「何者?」
「何をする!?」
「ぎゃっ」
「うっ」
小さな悲鳴が聞こえた後、静寂が訪れる。行灯の灯りも消えてしまったようだ。エイは声を出すなと言われたものの、つい声を出しそうになったのを速水に口を押さえられていた。
その後、女の足音がする。
「仕留めたか?」
という声はキクの声だ!
「はい。宿の者を締め上げて、侍の夫婦が泊まっているのはこの部屋と確認しております」
「でかした。万が一にも妾(わらわ)の秘密が知られてはならんからな。仁庵医師にも、あの世に行ってもらったし。これで妾(わらわ)の秘密を知るものは居なくなった」
とキクは言った。エイは顔が真っ青になった(と思った。多分ほんとに血の気が引いていたであろう)
「それで、菊の方様」とひとりの侍が言う。
「ん?なんじゃ」
「御家老様の命にございます。御免」
と言うと、続いてキクの「うっ」という声が聞こえた。
エイは更にびっくりした。
「何をする・・・・?」
「殿の御側室が、元は男であったなどということは絶対にあってはならないことでございます。申し訳ございませんが、お方様にはここで亡くなっていただきます」
「そんな・・・・」
「御方様の秘密を知る者も全て居なくなった。これで我が藩も安泰」
そう言い残すと、侍たちは静かに去って行った。
やがて全てが静寂になった。
速水は再度小さな声で「何も言うな」と言うと、エイをそっと布団部屋から連れ出し、旅籠の裏口から出て、闇の中を東に向けて歩き出した。エイは半ば呆然としながらも、速水に付き従った。
夜中に国境の手前の宿場まで来る。速水はその中の一軒の家に行った。
小判を10枚、その家の主の老人に渡す。老人は頷いてふたりを伴い関所まで行った。関所は夜なので当然閉まっているが、老人が見張りの者に何か告げると門は開いた。そして速水とエイは静かに関所を通過した。
「あんな通り方があるんですね・・・・」
とようやく明け方近くになって少し気分が落ち着いて来たエイは速水に言った。
「どこの関所にも《通り方》はあるんだよ。自分は実は公儀隠密だ」
「えーー!?」
「だから、どこの関所でも抜け方を知っているのさ」
「そうだったんですか・・・・」
「エイ、君が務めていたお店には悪いけど、もう君はあの店には戻れない」
「・・・・そうでしょうね」
「私と一緒に越の国に行かないか?」
「越ですか! それはまた遠い所に」
「越の加賀国で近々、大きな造園が行われることになっている。君の力をそれに使わないか?」
「・・・・速水様、いったい私のことをどこまで知っているのですか?」
「君が、あの藩で造園の設計に関わったこと。そして元は男だったこと」
エイは脱力したように笑った。
「全てお見通しだったんですね」
「しかし信じられないな。君はどう見ても女だし。どうやって女に変わったのだ?」
「いろいろあって・・・」
「まあよい。普通の女と違うと言えば、声がちょっと低いくらいだが、その程度の声の女も時々居るし。それからあの藩のことはあまり心配することはない。あそこは近い内にお取り潰しになる。色々と問題となることの証拠はつかんでいる」
「・・・・そうですか」
「そして、私の妻になってくれ」
エイは、そんなことをいつか言われるかも知れない気はしていたので微笑んだ。でも・・・
「いいんですか?元は男なのに」
「今、女なのだから問題無い」
「私が子どもを産めないことは承知ですよね?」
「私には子どもは生まれない方がいいのだよ」
「え?」
「私は養子なんだ。旗本をしている父に子どもが生まれなかったので、私は養子にもらわれて来たのだが、私が養子になった途端、子どもができてしまった」
「よくある話です」
「だから、その子を私が養子にしている。それで私に実子ができてしまうと、物凄くややこしいことになるんだよ」
「御武家様もたいへんですね」
「加賀国で作る庭園は、技術の粋を集めたものになる。加賀百万石は外様ではあっても、親藩と同格。前田様は大規模な造作はするものの、他意が無いことを示すために、幕府側の技術者も入れて、工事を行うことで、江戸との話がついている。江戸から何人か他にも技術者が派遣されるが、それにエイも参加してくれ。エイが持っている技術はおそらく、代え難い」
「工事が終わった後、始末されるなんてこと無いよね?」
「前田様は、そんな馬鹿なことはしないよ」
速水はそう言って、朝日の中で微笑んでエイに口付けをした。
金沢での造園の仕事は15年の歳月を要した。工事が完成する頃、速水にもエイにも頭には白髪が混じるようになっていた。速水は結局、加賀藩にそのまま召し抱えられる形になり、旗本の家は、速水の義父の実子が継いだ。そしてエイは加賀藩の普請方の武士の妻として、また珍しい「女職人」として工事に携わった。
そんなことをしている間に、エイの生国では藩主が切腹させられて御家断絶。別の殿様が入った。そしてあの庭園も完全に造り直されることになった。その造園工事には、エイがここ金沢で指導した職人も何人か行ったが、工事の後で始末されたりすることは無論無かった。
速水がツテを通してエイの元妻と娘のことを調べてくれた。娘は働き者の男に嫁ぎ、孫が2人産まれていること。そしてツルも元気であることを聞き、エイは涙を流した。やがてツルの元に毎年10両の為替が「やくも」という名前で届くようになった。ツルは不思議に思って村の寺の住職に尋ねた。
「古い和歌があるのじゃよ。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が妻を娶った時の歌じゃ。《八雲立つ、出雲八重垣妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を》とな。これ以上は言わなくても良いな?」
ツルも涙を流した。やがて20年ほどしてその毎年のお金が届かなくなった年ツルは密かに1枚の位牌を作った。