【女の子たちのバレンタイン】(1)
(c)Eriko Kawaguchi 2011-02-12
千里は1年生の秋からファミレスのバイトをしていた。希望してできるだけ、深夜時間帯に入れてもらっていたが、深夜時間帯は単価が高いこともあるが、それよりけっこう待ち時間があるので、合間に勉強することができるので、それが助かったのであった。
千里は親が地元の大学への進学を勧めていたのを拒否して都会に出て来たこともあり、親からの仕送りは期待していなかった。そこで奨学金の申請をすると共に、理系は忙しいにも関わらず入学当初からアルバイトに精を出していた。
都会に出て来たかったのは、大学のレベルの問題もあるが、なんといっても、ひとり暮らしがしたかったからであった。千里は『女の子の服が着たい』という気持ちがあったので、親元ではそういうことがし辛いことから、独立したかった。そして一人暮らしするには、また女の子の服を買うのにも、お金が必要であった。
最初学校で勧められて家庭教師のバイトをしたが、あまり実入りがよくなかった。やがて父の知人から学習塾の短期集中講座の講師の口を紹介してもらった。これは報酬が良いのは助かるのだが、スケジュールがぶつかると大学の講義を欠席する必要があったし、また授業をする準備にけっこうな時間を取られるため、学業と両立できないと感じ、新しいバイトを探した。
そんな時、たまたま同じクラスの女子から誘われて参加したお茶会(この頃はまだ千里はこの集まりに臨時参加の形だった)で、生物科の女子のひとりが、ファミレスチェーンでウェイトレスのバイトをしていると聞き、深夜の時間帯に入れてもらうと、けっこう待ち時間に勉強ができていいと言っていたので、千里もやってみようと思い立ち、情報誌で見てたまたま求人が出ていたファミレス・チェーンのフロアスタッフ募集に応募した。すると即採用してもらえた。勉強と両立できるように深夜時間帯がいいですというと、向こうも深夜はやってくれる人が手薄なので重宝された。
千里は高校時代は髪を五分刈りにしていた。バスケット部に入っていた関係もあったし、校則自体で男子の髪はかなり短くなければならなかったこともあった。しかし高3の12月に髪を切ったのを最後に伸ばし始めていた。3学期になると学校自体ほとんど自由登校のような感じだったし、少々髪を伸ばしていても先生はうるさく言わなかった。
大学入学当初はまだふつうの長さであったが夏には肩に掛かる長さになっていた。塾の先生をした時に注意されたので少し切ったが、ファミレスでは髪の長さはあまり言われなかった。清潔にしておくことと、髪は伸ばしているならまとめておくことだけを求められた。
髪を切るのに塾の先生をする時は理髪店に行ったが、ファミレスでバイトするようになってからは、女子の友人達にも勧められて美容室でカットしてもらうようにした。どういう髪型にしたいか尋ねられて最初、蛯原友里の写真を見せて「こんな感じで」と言うと、美容師さんは「女性のタレントさんですけど・・・」
と戸惑ったようだったが「女の子っぽくしたいので」というと笑顔で「了解です」
といって、うまくまとめてくれた。その人のカットが気に入ったので、その後、その美容師さんをいつも指名するようにした。
そういう髪型にしてるし、眉毛も細くしているので、ファミレスでバイトしていると、お客さんからは女性スタッフと思われているふしがあるのを千里は認識していた。実際「お姉ちゃん、水ちょうだい」などと呼びかけられたりしていた。むしろ、「お兄ちゃん、水ちょうだい」とかは言われたことがない。その付近については店長さんは特に問題にしていない感じだったし「何なら女子制服のほう着てもいいよ」などとニコニコして言っていた。女子の制服は可愛いメイドさん風の服である。しかし千里はこの頃でもまだスカートを穿いて外を歩いたことが無かったのであった。
一応スカート自体は、大学に入ってからすぐに1着買っていて、ファミレスのバイトを始めた頃には、スカート3着、女性仕様(左前袷せ)のポロシャツ4着、女の子のパンティ10枚、ブラジャー5枚を持っていた。しかし、パンティやブラ、ポロシャツなどは、それを身につけて学校やバイトに行ったこともあったものの、スカートは部屋の中でしか穿いたことがなく外出経験は無かった。
それは1年生の後期もほぼ終わった2月のことであった。世の中はバレンタインということで、千里の勤めるファミレスでも、男性の客にチョコをプレゼントする企画をしていた。基本的にはチロルチョコ1個なのだが、毎日10人「当たり」
が出て、少し高級なチョコ(500〜1000円程度のもの)を渡すことになっていた。
その晩の担当は千里のほか、30代男性で副店長の芳川さん、女子大生の広瀬さんの3人の予定だった。ところが夜10時に出てくるはずの広瀬さんが来ない。芳川さんが電話してみたら、急に風邪を引いて寝ているということだった。「そういう時はできるだけ早く連絡してくれないかな?」と芳川さんが電話口で文句を言っていた。どうも今夜はふたりだけで乗り切らなければならないようだ。
11時頃、千里のクラスメイトの桃香と朱音がやってきた。期末試験を落としてしまい追試代わりのレポートを出さなければならないので今夜、食事に困らないところで徹夜で書き上げるということであった。
「千里〜、線形代数が分からないよ〜、教えて」
「どこが分からないの?」
「固有値とか、固有ベクトルというのが分からない」
「ちょっと待って。それ前期でやった内容じゃん。そもそも固有値分からなかったら線形代数まるごとアウトでは?」
「うん。だから線形代数の講義聞いていても、宇宙人の言葉聞いてるみたいだよ」
「それは深刻だね・・・・」
千里は今日は忙しいからといって、取り敢えずポイントだけいくつかしゃべると悩んでいるふたりを置いて、仕事のほうに戻った。
「ね、桃香」「何?朱音」「千里って恋愛対象はどっちなんだろう?」
「え?何も考えたことなかったけど、男の子が好きとか?」「多分そうだと思う」
「そうか、ホモなのか・・・」「違う違う。ヘテロだよ、千里は」「へ??」
「千里自身が女の子で恋愛対象は男の子だからヘテロ」「なるほど。そうか!」
桃香はそもそも男の子に興味がなかったので、あまり考えたことがなかったがそうか千里は女の子か・・・と考えると、彼?彼女?に少し興味を覚えた。
「で、桃香はバレンタインのチョコとか・・・・贈る訳ないよね」
「好きな女の子には友チョコの振りして渡すけど」「ビアンさんは苦労するね」
「朱音は誰かに贈るの?」「あて無し!」
その日は20時頃までに10人のチョコ当選者が出てしまっていたが、0時にリセットされるので3時半頃に来客した男性に当たりが出た。当たりは調理場のPCで配膳完了ボタンを押した時に表示されるのだが芳川さんが悩んでいる。「どうしました?」
「当たりが出たんだけど、チョコ渡すのはできるだけ女性スタッフがするようにということになっているんだよね」「あ」「うん。夜間でも祥子ちゃんがいるからと思ってたのに休んじゃってるし。5時になったら、真理ちゃんが来てくれるはずなんだけどね」「うーん。あ、そうだ。ちょうど私の友人の女子が来ているので、一時徴用しちゃっていいですか?」「おお、それは助かる」
千里は桃香たちのテーブルに行くと「どちらでもいいから、10分間だけバイトして」と小さな声で頼む。ちょうど考えに詰まっていた桃香が「私が行く」と言って協力してくれた。千里は桃香にバレンタインのチョコの当選を男性客に渡すだけの仕事というのを説明し、桃香を女子更衣室に案内した。
「千里、女子更衣室に平気で入るのね」「いや、なんか他の女子スタッフから『ちょっとこっち来い』といってよく呼ばれているもので」と千里は頭を掻きながら話す。そして勝手知った女子更衣室の中で、予備の制服を置いてある所から1着取り出し「これに着替えてくれる?」といって桃香に渡した。
「OK」「じゃ、外で待ってるね」といって千里が出て行こうとした時、桃香が思いついたように言った。「これ、千里が着てもいいんじゃない?千里って女の子の服を着たら女の子に見えるよ、たぶん」「いや、ちょっと、それは・・」
といって千里は照れながら出て行った。桃香はその様子を見て『あの子、間違いなく、ふだんから女装してるな』と思った。
制服を着た桃香が副店長から当たりのチョコを受け取り、指定されたテーブルに行き「おめでとうございます!バレンタインのチョコ当たりです」と言って客に渡す。「おお。凄い!これ、君からの個人的なプレゼント?」「お客様、お戯れを」客は酔っているようである。「ねえ、チョコを君の愛とともに受け取ったんだから、ここに座って一緒に少しお話しない?」「そうですね。1億円ほど頂けたら考えます」と桃香が答えると同席者が大笑いした。その笑いに乗るように桃香はテーブルを離れて厨房に戻った。
「ありがとう!」「酔っぱらいは嫌い」「ごめんね〜」と千里は謝る。しかし副店長が御礼にといって2000円を財布から渡すと、桃香はご機嫌になった。「客席に戻って面倒な事になりたくないから、私帰るね」「うん」「でも固有値の定義が分かっても意味がいまひとつピンと来ない。千里、バイト終わってからでいいから、うちに来て教えてくれない?朱音といっしょにいるから」「いいよ」
「地図書くね。玄関まで来たら携帯鳴らして。あ、電話番号教えとく」といって桃香は千里と携帯の電話番号とメールアドレスを交換した。
桃香と朱音が帰っていったあと、明け方が近づくにつれ、客足も途絶えはじめていた。さきほどのチョコが当たった酔客はレジの時には千里を口説こうとして、桃香ほどあしらいのうまくない千里は角を立てないように断るのに苦労した。「私男ですと言っちゃえばいいのに」と芳川さんが笑っていた。「え?でも」と戸惑う様子の千里を見て、副店長は「ふーん・・・」と意味ありげな声をあげた。
客が少なくなると千里も勉強の時間が増える。厨房の中の客席からは見えない位置に、いつも千里の勉強道具は置かれていた。しかし客席に何か動きがあればモニタを覗いたり、あるいは席を立って直接確認したりしていた。追加オーダーなどは、基本的には客席の呼び鈴を鳴らしてもらうシステムではあるのだが、分かっていない客もいるので、スタッフを探している雰囲気であったら、水でも持って行き、様子を伺ってくることになっている。
4時をすぎる。5時になれば朝の時間帯の人が来てくれる。千里は6時までいて引き継ぎをしてから上がることになっていた。客が少ないので、千里に任せて副店長は一時仮眠をとっていた。
4時20分。60代くらいの男性のお客様が来店し、スパゲティとホットチキンを注文したので千里は冷凍庫から食材を取り出し、マニュアル通りに調理して客席に運んでいった。そして厨房に戻り、配膳済みのボタンを押したらモニターに「バレンタイン・チョコ当選」の文字が。
「え?・・・・」
困った。5時近くになれば他の女性スタッフが来るので、その人に渡すのを頼めばよいのだが、まだ来ていない。桃香たちは帰ってしまった。副店長に相談しようと思ったが、熟睡しているようで起きてこない。ぐずぐずしていると、お客様は食べ終わってしまうかも知れない。レジでお待たせしたりもできない。
その時、千里の頭の中に先ほどの桃香の「これ、千里が着てもいいんじゃない?」
ということぱが響き渡った。
「よし」千里は決断すると、女子更衣室に入り、さきほど桃香が脱いだばかりの制服を自分で着た。こういう服を着ること自体は慣れてるからぜんぜん問題無い。ただそういう服で人前に出たことがないだけだ。今日はブラジャーもしてきていたので、胸のところにティッシュペーパーを詰めてみた。鏡に映してみる。うん、行ける行ける。笑顔を作ってみる。よし、可愛い。
千里が女子更衣室を出て厨房内から客席を見ると、あのお客様はもうスパゲティをたいらげ、ホットチキンもあと2〜3本になっていた。危ない危ない。しかしなんて速く食べる客なんだ。千里は当たりのチョコを手に持つと、急いで厨房を出て、息を整えながらそのテーブルの所に歩いていった。
「お客様、バレンタインのキャンペーンで男性のお客様にチョコをプレゼントしております。ふつうは小さなチョコなのですが、お客様には当たりが出ましたのでこれをプレゼントさせていただきす」と説明して、チョコを渡した。
「おや、今日は朝から当たりか!さい先いいね。宝籤でも買おうかな」と言って男性客は笑顔でチョコを受け取った。「君、ありがとね」と言うので「こちらこそありがとうございます」といってテーブルを離れる。
厨房に戻ったら、ちょうど副店長が仮眠から起きて出て来たところだった。「あ、5時組の人?おはよう」と千里を見ていう。一瞬千里であることに気づかなかったようだ。「いえ、副店長。私です」と千里が言うと、副店長は目をぱちくりさせていたが「いや。そうしてると女の子にしか見えないね」と感心したように言った。千里が、また当たりが出たのに担当できる女性がいなかったので緊急対応だったことを説明すると「全然問題無いよ。ありがとう」と笑顔で答えた。
お客様がテーブルを立ち、レジの所に向かったので、千里もレジの所に行きお会計をした。男性客は「でも君、美人だし、躾がいい感じだね。うちの孫の嫁さんに欲しいくらいだ」などといって帰って行った。
『ま、女性スタッフ不在の時は仕方ないから男性スタッフが渡していいことになっいるから、あの子が渡すのは全然問題無いのだけど、あの子の場合は、あの制服を着てくれたほうが確実にお客様のうけはいいな・・・・・』などと、副店長は千里の後ろ姿を見ながら考えていた。『今度、店長と相談してみっか』
その日は、その客が帰った直後から5時前というのにお客様がどんどんやってきた。チョコの当たりは出なかったものの、千里は忙しくて元の男子スタッフの制服に戻ることができないままになってしまった。5時組のスタッフが出てくると、千里が女子の制服を着ているのを見て最初は驚いたが、みんな「可愛い」「似合ってる」
という始末であった。
それを見て副店長は「本人、こちらの方が合っているようなので、今後こちらの制服を着てもらうことにするから」などと半ば冗談のように言った。
6時に上がってからやっと普通の服に戻り、スクーターで桃香の家を訪ねた。桃香の地図は家のある町まではよく書いてあるのに肝心の桃香の家の近くが極めてアバウトで困ったが、何とか探し当てることができた。このスクーターは中古屋さんで2万で買ったものだ。携帯を鳴らして中に入れてもらう。朱音はすやすや寝ていた。
「あれ?寝てた。ごめんね」
「朱音は書き終えた。私はまだ。昼までには書き上げないといけないけど」
「わあ、それはたいへんだ」
「すまねえ、千里。この命題がどうしても証明できん。千里、証明書いて。それ書き写すから」「あはは」
千里がその証明を頭の中で構成しながら書いていっている間に、桃香はあくびをしながら、コーヒーを入れてきた。
「ま、コーヒーでも。インスタントだけど」
「うん。ありがとう、桃香」
「あれ?千里さ・・・・」
「なぁに?」
「おっぱいあるね」
「え?あ!」
さっき女子の制服を着た時にブラの中に詰めていたティッシュを外し忘れていた。「きゃー」と言いながら、後ろを向いてティッシュを取り出し、それから先ほどの『事件』の経緯を説明した。桃香は笑いながら聞いていたが、副店長の言葉まで聞くと「じゃ、今度からあそこ行くと、女子制服の千里が見られるんだ」などという。「えー?冗談だと思うよ」と千里は言いながら、不安な気持ちになっていた。
いや、正直にいえば、それは不安な気持ちと淡い期待感の混合であった。そして実際にはその「期待」のほうが当たってしまったのであった。
実際に千里がバイト先のファミレスでスカートタイプの制服を常時着るようになったのは、桃香の「女子教育」を受けた2年生の秋からであった。
バレンタイン事件の翌日、千里は店長に呼ばれ、あらためて「自分で認識している自己の性別はどちらか」と尋ねられた。
千里が少し迷いながらも「私は女です」と答えると、ちゃんと用意してあったようで、すぐに女子制服を貸与され今後はこちらを着るように言われた。ただスカートの他に同じ色のショートパンツが付けられていた。どうしてもスカートが苦手な女性スタッフのために、ショートパンツも存在していたのであった。そういう訳で、千里はその後、ショートパンツ版の女子制服を主として着ていた。
また、女子更衣室のロッカーに自分の名札が入っていて、荷物も男子更衣室側にあったロッカーから移動されていた。千里は女物の下着を着けていることも多かったので、実は他の男性がいる前では着替えができず、これまでも他の女子から呼んでもらう形で女子更衣室に行って着替えていたので、これは助かった。
しかし他の女子といっしょに着替えるとなると配慮もしなきゃと千里は考えた。バイトに行く時はこれまでは「時々」女性下着をつけていたのを「必ず」女性下着をつけるようにした。また、胸が無いのは仕方ないとしても股間に膨らみがあるのはまずいよなと思い、それから千里はタックの練習を始めた。
さて、その事件があった翌々週の2月15日、千里は「アフター・バレンタイン女子会」に出席していた。千里が女子会に常時参加するようになったのも、この頃からであった。それまでは月に1度くらいゲスト的に呼ばれていたのだが。。。。。
冒頭、全員お互いに「友チョコ」を配布した。千里も桃香から友チョコ配りをするよと言われていたので、事前にたくさん可愛い感じのチョコを買っておいた。
「チョコ、みんな何個くらい配った?義理チョコ・友チョコ以外」
「私は本命チョコは1個だよ」と、彼氏のいる子たちは言う。
玲奈だけが「本命チョコ1個と滑り止め1個」と答える。
「私はゼロ」と朱音、香奈、桃香が口をそろえて言った。
「あれ?みんな少ないね。私は本命チョコ5個贈ったのに」と美緒がいうと「それはおかしい」と他の女子から非難されていた。
「千里は誰かに贈った?本命チョコ」と聞かれると千里は真っ赤になった。
「えっとね・・・実は買ったんだけど渡せなかった」
「相手は女の子?男の子?」と美緒が興味津々に訊く。
「え?男の子だよ。なんで?」と千里がキョトンとした様子で答えたので、一瞬他の女子たちが顔を見合わせた。
「千里、この集まりのレギュラーになってもらおうよ」
「うん。千里って充分女子だもんね」と誰からともなく声が上がった。「裁判長!千里が女子である証拠として、この写真を提出します」と桃香。それはショートパンツ版のファミレスのメイドさん風制服を着た千里の写真だった。「あ!それは!」といって千里がまた真っ赤になる。
「え?可愛い!!」と他の女子たちから声が上がっていた。
【女の子たちのバレンタイン】(1)