【娘たちの転換準備】(中)

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海道天津子は年末年始に大量の仕事を片付けた後、下宿している遠縁の叔母に「しばらく山籠もりしてきますね」
と告げた。
 
天津子は神道系新興宗教の教会の旭川教会長の孫娘で、霊感が強いことから、そこの信者さんたちに生き神様のように崇敬されていたのだが、ここにいたら自分は天狗になってしまうと認識し、普通の神社の宮司さんと結婚したこの叔母(正確には祖母の従妹の娘になる)の所に、3年半ほど前から下宿しているのである。在宅中は普通の神社の巫女として奉仕しているが、結構な数の<ファン>ができている。
 
「いつ戻るの?」
「2月22日の期末試験までには帰って来ます」
「あんた、全然学校行ってないね!」
 
天津子は一応中学2年生である。
 
「出席日数不足にはならないようにしてますよー」
「まあ死なないようにね」
「はい。では行ってきます。母ちゃんから電話あったら適当に言っといて下さい」
「あんたのお母ちゃんもなんか諦めてる雰囲気だね〜」
 
それで天津子は最小限の着替えと非常食だけを持ち、JRで某所に移動した後、山に入った。
 
一面の雪景色である。
 
「さて取り敢えず40kmくらいジョギングするか」
と言って天津子は走り出した。チビも一緒に天津子を守るように同じペースで雪原を走った。
 

千里は昨年(2009年)の秋から地場のファミレスで主として夜間のバイトをしていたのだが、千里がこのバイトを始めたのには幾つかの理由があった。 
ひとつは自分が作曲家として活動しているということをあまり他人には言いたくないので「見せかけ」のバイト先が欲しかったこと。そして夜間の作業は学校の授業とぶつからない上に、結構暇な時間帯が発生し、その時間帯に勉強をしたりあるいは作曲の作業ができること。その場合に、むしろアパートに居るより集中して取り組むことができることであった。鴨乃清見ブランドの多数の名曲がこのレストランの厨房の片隅で生まれている。
 
また千里はそもそも料理を作ったり、人と接っするのが大好きで、この仕事は千里にとって「天職」でもあったのである。
 
千里はここに就職する時、戸籍通りでないとまずいかなと思って男性として就職したものの、千里が男子トイレや男子更衣室を使おうとすると、たちまち問題が発生。トイレは女子トイレを使うよう言われ、更衣室も女子更衣室を使ってくれと言われた。
 
ただ、この時期まで千里は男性用の制服を着ていた(ただしズボンは男子用ではサイズが合わないので女子用のズボンを穿いていた)。それでもクリスマスの時にはうまく丸め込まれて、サンタガール仕様の制服を着ていた。
 

千里がファミレスに勤務するのは火木土の夜である。
 
それで千里は1月22日(金)から翌日に掛けて、大阪に行ってくることにした。 
金曜日の授業が14:30に終わるとすぐ大学近くに駐めていたインプの後部座席に乗り、毛布をかぶって目を瞑り
 
『じゃ、こうちゃん、大阪までお願い』
と言って眠ってしまう。
 
『千里は俺をお抱え運転手だと思ってるな』
などと《こうちゃん》は文句を言いながらも、車を出し、ひたすら首都高・東名・名神・大阪中央環状線と走って、豊中市の千里(せんり)ICを降りた。 
《こうちゃん》の運転でも千葉から大阪まではどうしても6時間は掛かる。それでも千里が飛行機や新幹線ではなく車で大阪まで行くのは、その間にぐっすりと寝たいからである。
 
《こうちゃん》は桂川PAで千里を起こしたので、千里はトイレに行ってから化粧水パックをして『顔の調子』を整え、そのあと後部座席で軽くメイクをしておいた。
 
21時頃、貴司のチームの練習場となっている体育館に《こうちゃん》は車を付けた。千里は車を降りて体育館の中に入っていく。貴司たちが練習をしている。その様子を2階席から見ていて、千里は胸のときめきを覚えた。 
やはり私ってバスケしている貴司に惚れているんだろうな、とあらためて思う。貴司が何かの拍子にこちらを見て目が合う。千里が笑顔で手を振ると貴司もにっこりと笑い片手を挙げた。
 

千里がじっと練習を見ていたら、シューティングガードの竹田さんが千里に気づいた。すると竹田さんは大きく振りかぶってこちらにボールを投げて寄越す。ボールはストライクで千里の腕に納まる。
 
竹田さんが「行って行って」みたいな感じの手振りをしている。千里は微笑んでゴール目掛けてボールをシュートする。男子用の7号ボールはちょっと大きいなと感じたが、少しだけ感覚を調整して撃った。
 
きれいにゴールに飛び込む。
 
「おぉ!!」
と歓声があがった。
 

21:15頃、練習が終わる。千里も入口の所に移動する。
 
先に出てきた、監督さんや先輩たちに千里は会釈する。船越監督は千里を認めて 
「さすが世界のスリーポイント女王は精度が凄いね」
と言ってさっきの2階席からのシュートを褒めてくれた。
 
「まあアウトオブバウンズですけど」
と千里は言っておいた。
 
「君が男子ならうちのチームに入ってもらいたいくらいだよ」
「残念ながら性転換するつもりはないので」
「まあ君が性転換すると細川が困るかも知れないね」
「その時は貴司に性転換してもらうということで」
「ああ、それでもいいね」
 
やがて貴司が出てくる。もう大半の選手が出てきた後である。だいたい貴司は着替えが遅い傾向がある。
 
「お疲れさま」
「何(なに)で来たの?」
「車で来たよ。乗っていく?」
「うん」
 
それで駐車場に行き、車に乗ってまずはディープキスをする。
 
「夏だったらこのまま押し倒したい」
「まあ風邪引くから、マンションに帰ってからにしようよ」
「そうだね」
 
「あ、これここに来る途中、見かけて買っておいた」
と言って千里はタコヤキを出す。
 
「なんかいい匂いがすると思った」
と言って貴司はタコヤキをつまむ。
 
「まだ暖かいね」
「毛布掛けておいたからね」
 
「大阪にいると、タコヤキとかお好み焼きとかしょっちゅう食べている気がするけど、やはりこれ美味しいと思うよ」
と 貴司は言っていた。
 
「そうそう。あらためて一部昇格おめでとう。年末年始はずっとN高校の後輩たちと一緒に合宿やってたから、来られなかった」
 
「うん。いいよ。でもこないだの伏見での出来事は今でも夢を見ているようだ」
「夢だと思ってていいと思うよ」
 
「でもなんでだろう?京平の顔を思い出せないんだよ」
「思い出せないかも知れないけど、再度会えば分かると思うよ」
「なるほどー。そういう仕組みか」
「まだこの世には存在しない子だから」
 
「生まれるのは2015年と言った?」
「そうだね。まだ5年先。私も大学院を出てるし」
「千里が産んでくれるんだよね?」
「まさか。私は子宮無いから産める訳ない。だから他の女の人に産んでもらってね」
「それでいいの?」
「どうせたくさん浮気するくせに」
「うっ・・・」
 

タコヤキはふたりであっという間に食べてしまうので、千里はそこで紙袋を出す。
 
「それからこれ今年のバレンタインね」
 
「ありがとう」
と言って貴司も笑顔で受け取る。
 
「なんかゴージャスな包み紙に入っている。高そう」
「生チョコ25個、トリュフ25個、焼きチョコ25個、それにマカロン、クッキー、チョコケーキのセット。まあお値段は想像に任せる」
 
貴司は早速包み紙を開けて中を見る。
 
「美味しそう!!ミルクティーか何か欲しい感じだ」
「じゃ買い物に行く?」
「じゃついでに何か食べようよ」
「そうだね」
 
「その前に千里を食べたい気分なんだけど」
「ふふふ。食べてもいいけど、そんなことしてるとスーパーが閉まるよ」
「くそー。残念だ」
 

それで貴司が運転して千里中央駅そばのセルシーまで行く。
 
地下の駐車場に車を駐め、2階のダイエー食料品売場で、アッサムの茶葉と、若干のおやつや、残っているお総菜などをゲットする。
 
いったん荷物を車に置いてからサイゼリヤに入る。
 
ハンバーグステーキ“3つ”とサラダ、シーフードピザ、フライドチキン、それにドリンクバーを2つに一番絞りをグラスで1杯頼んだ。
 
ビールが来た所でドリンクバーでコーラを注いできた千里と乾杯する。 
「お疲れ様!」
 
貴司が美味しそうにビールを飲む。
 
「車をマンションに置いてから来たほうが良かったかな。そしたら千里もビール飲めたのに」
「私はまだ18歳だからダメ」
「硬いこと言わなくても」
「未成年にお酒飲ませている所見つかったら、貴司が処分食らうかもよ」
「うーん・・・」
 
やがて料理が来る。
 
「でも千里、大学院まで行くわけ?」
と貴司はハンバーグを食べながら訊く。
 
「行くつもりだけど」
と千里も同じくハンバーグを食べながら答える。
 
「大学出たら、大阪に来て一緒に暮らさない?修士取りたいなら、こちらの大学の大学院に行ったっていいじゃん。学費くらい僕が出すよ」
 
「そうだなあ。まあその時になってから考えるよ」
「うん」
 

「今夜は泊まっていくよね?」
「もちろん。明日の夜10時からバイトがあるから、こちらを午後3時くらいに出るよ」
 
千里は土曜日の午後3時に大阪を出て6時間走って千葉に戻り、10時から朝6時までファミレスでバイトした上で、日曜日は9時から夕方5時まで神社の巫女さんをするつもりである。バスケの大会がない時はこれが千里の標準的な週末の過ごし方である。ハッキリ言って往復のガソリン代・高速代で3日分の深夜バイト代が吹き飛んでしまう。
 
「OKOK。じゃさ、帰りの運転大変だろうから、帰りは僕が半分運転するよ。そのあと千葉から新幹線で帰るから」
「まあ。たまにはそれもいいかもね」
 
ひとりの方が眠っていけるんだけどなあとは思う。
 
「だけど、母ちゃんから叱られたよ」
と貴司が言う。
 
「なんて?」
「千里に指輪を贈ったこと、こちらにも言っておけって」
「うふふ」
 
千里はバッグの中から指輪ケースを出すと、アクアマリンの指輪を左手薬指に填めた。
 
「まあこれつけている時は、私は貴司の奥さんだから」
「つけてない時は違うの?」
「貴司のお友達かなあ」
「じゃずっと僕の奥さんで居られるようにいつもつけていられる指輪を贈ろうか?」
「残念。バスケする時はつけられないからね」
「うーん。。。それがあるんだよなあ」
「貴司もでしょ?」
「まあね」
 
「だから普段の私たちの愛の印はこちらだよ」
と言って千里は携帯に取り付けたストラップの金色のリングを見せる。 
「そうだね」
と言って貴司も自分の携帯に付けた同じリングを見せる。
 
「でもこれ少しお互いにリングが傷んできてると思わない?」
「ああ、それ私も気になっていた」
 
と言って千里もそのリングに触る。真鍮製のリングなので、どうしてもくすみが出るし、内側の方は錆び(緑青)も出ている。
 
「また酢に浸けて錆びを落とそうか?」
 
これまで何度か2〜3分酢に浸ける方法で当初の金色の輝きを取り戻させている。
 
「うん。それもした方がいいと思うけど、いっそ、錆びにくい素材のものと交換しようか?」
 
「そういう素材ってある?」
「金(きん)のリングとかは?」
と言って貴司は千里を見るが
 
「金(きん)は携帯じゃなくて指につけたいな」
と千里は言う。
 
「じゃ酸化発色ステンレスにしようか」
「何それ?」
「千里は理系だから、ステンレスってどういうものか知ってるよね」
「鋼(はがね)とクロムの合金でしょ?」
「そうそう。『鉄と』と言わない所がさすが」
「鋼(はがね)は鉄と炭素の合金。でもステンレスの場合炭素の含有率が低い」
「よく分かってる。なぜステンレスが錆びないか分かる?」
「それはクロムが空気に触れて酸化物が形成されて表面を覆うからだよ」
 
「そこまで分かっていれば話は簡単。その酸化物の層の厚さをコントロールすると、光がステンレスの酸化膜表面で反射したものと、膜の底で反射したものが干渉する」
 
「その干渉で色が出る訳か!」
「そうそう。シャボン玉が色付いて見えるのと同じだよ」
「すると、その被膜の厚さを変えることで色が変わるのかな?」
「そういうこと。実はうちの製品でもある」
 
「なんだ!」
 
貴司は営業用のカバンの中からカタログを出してみせる。
 
「会社に行ったら実物のサンプルもあるから明日朝ちょっとオフィスに行って取ってくるよ」
と貴司は言っているが、写真で見る限りは結構きれいである。
 
「きれいな色だね!」
 
「でしょ。こんな感じで赤、青、緑、茶色、そしてゴールドと発色するんだよ」
「これ耐久性は?アルマイトの色つきとかはすぐ色褪せるよね」
「うん。アルマイトの彩色はこういう被膜の厚さで色を付けているんじゃなくて染料を加えているんだよ。だから色褪せる」
「そうだったのか」
「ステンレスの場合は染料ではなくて、被膜の厚さで光の干渉を変えることで発色させている。だから、ものすごく耐久性がある」
 
「でもお高いんでしょ?」
「僕がプレゼントするよ」
「だったら歓迎」
「うちの工場の人に頼んで、時間の空いている時に作ってもらう」
「なんだ」
「ちゃんと伝票は通して代金払うよ」
「まあ払わなかったら業務上横領だよね」
「サイズは僕たちの左手薬指のサイズにしようよ」
「あ、それもいいね。その指輪を付けられないくらい太ったら破談ということで」
「その時は指輪を作り直そうよ!」
 

貴司がハンバーグ2つ、千里が1つ食べ、ピザを半分くらいずつ食べた所で結構満腹してしまったのでチキンはこっそりビニール袋に入れて持ち帰ることにする。
 
会計してから駐車場に行き、3分くらいキスしてから千里が車を出し、マンションに行く。
 
貴司が入口のシャッターをマンションの電子キーでタッチして開ける。来客用の駐車場に駐める。エレベータ室へのドアをまた電子キーで開け、エレベータで33階まであがり、3331号室のドアを鍵で開けて中に入る。
 
部屋の中に入るとまたキスをする。
 
盛り上がってしまい、貴司が千里の服を脱がせようとする。
 
「ベッドに行こうよ」
「ここでしたら寒いよね!」
 
それで寝室に移動する。
 
お互いに服を脱ぐ。
 
「準備万端だね」
と言ってそこを触る。
 
「久しぶりに立った」
「毎日立てて出してるんでしょ?」
「それができないこと知ってるくせに」
「男の子なら毎日するもんだと聞いたよ」
 
「僕は千里が居ないと出ないし、そもそも大きくならない」
「じゃもやもやした時はどうするの?」
「いじるけど大きくならない」
「浮気のしすぎで機能喪失したのでは?」
「千里以外とはしてないよぉ」
「緋那さんとはしてないの?」
「あの日以降会ってない」
 

「これ私のものだから自由にしていいよね?噛みきってあげようか?」
「自由にはしていいけど、無くなるのは困る。まだ男をやめたくない」
 
「ほんとに?実は女の子になりたいってことないの?」
「女の子になるのは嫌だ」
 
「女の子になるのも快適なのに。取り敢えずおっぱいだけでも大きくする?」
「え!?」
 
何だか貴司が一瞬悩んだような気がした。
 
「別に大きくしたくない」
「怪しいなあ。まあいいや。じゃ普通に」
 
それでふたりで愛の確認をした。
 

「気持ちよかったぁ」
と貴司が何だかものすごく感動したように言う。
 
「良かったね」
「1ヶ月ちょっとぶりだから」
 
「でも男の子って、逝けないのは辛くないの?」
「最初の頃は辛かったけど、もう諦めた」
 
「ちんちんで逝けないなら、入れられて気持ち良くなったりして。道具買ってきてあげようか?」
「それは危ない道にハマりそうで怖いから手を出さない」
「ああ。貴司って結構ホモの素質あるよね」
「それは無いつもりだけどなあ」
「まあいいや。男の愛人作られて、僕は男の人と結婚すると言われたら嫌だし」
「うーん・・・・」
 
「とりあえずこれ覚えなよ」
と言って千里は貴司のそれを指3本で押さえると、女の子がするような感じでしてあげた。
 
「あ・・・・」
「気持ちいいでしょ?」
 
「ちょっと・・・・これ・・・・ハマったらどうしよう?」
「後ろの快感を覚えられるよりは私も安心だなあ」
 

普通にやった直後だったからであろうが、貴司は10分ほどでドライで逝った。 
「これはこれで気持ちいい気がする」
「男の子はふつうおちんちん刺激すると大きくなっちゃうからこの快感を得られないんだけど、貴司は大きくならないならこれで気持ち良くなれると思うよ」
 
「単純にいじっているより気持ちいいと思った」
「貴司も性転換して女の子になったら、こんな感じでひとり遊びすることになるから、今のうちから練習しておくといいよ」
「僕は性転換しないよ!」
「ほんとかなぁ」
 
「でも今千里かなり長時間これやってくれたね。腕が疲れない?」
「バスケのための鍛錬だよ」
「うっ。これで腕を鍛えるのか? 千里もそれで鍛錬したの?」
「内緒」
 
「千里のちんちんも大きくならなかったの?」
「私にちんちんがあるわけない。私は小学5年生頃から栗ちゃんでこれしてたよ」
「やはり千里って小学4−5年生の時に女の子になったんだ?」
「まさか。小学生に性転換手術してくれる病院なんて無いよ」
 
「じゃ千里っていつ女の子になったんだっけ?」
「私は今でも男だけど。大学を出るまでには性転換手術して女の子になりたいとは思っているけど」
「また意味不明の嘘をつくし。だっておちんちん付いてないし、さっき結合したし」
と言って貴司は千里のあの付近を触る。ついでに栗ちゃんをいじる。
 
「おちんちんは隠してるんだよ。さっきのはスマタだよ」
「じゃ僕がいじってるこれは何さ?」
「そこはおへそだよ」
「おへそは別にあるじゃん!」
「私、おへそが2つあるから」
「そんな馬鹿な」
 

千里が貴司を言葉責めする感じで2時間くらい、いちゃいちゃしていた。その間結局3回した。最後は貴司も疲れ果てた感しで、そのまま眠ってしまった。 
朝5時頃起きて、お米を研ぎ、ご飯のスイッチを入れる。シャワーを浴びて出てきたら、貴司も起きていた。
 
「お早う」
と言ってキスする。
 
「でもごめーん。さっき御飯のスイッチ入れたから、まだ30分くらい掛かる」
「じゃチョコケーキ食べようよ」
「それもいいね。じゃロイヤルミルクティー入れるよ」
 
まずはホーロー製のミルクパン(昨年千里が銀行から定期預金のお礼にもらってこちらに持ち込んだもの)にミネラルウォーターを3分の1程度入れてIHに掛ける。沸騰して30秒待ってから火を止め、茶葉を入れる。ふたをして3分間蒸らす(蒸らしている間キスしていた)。牛乳を加えたあと再加熱。今度は沸騰する前に火を停める(沸騰させると牛乳が変質して不味くなる)。 
これにグラニュー糖を入れて混ぜ、ハチミツも加え、シナモンを振って出来上がりである。
 
「美味しい!売ってあるのよりずっと美味しい」
「まあ茶葉自体、割といいのを使ったし」
「でもこれ最初から牛乳入れて暖めたほうが楽じゃない?」
「それはチャイの入れ方だよね。でも牛乳と一緒に暖めると、牛乳が茶葉の表面に膜を作って、旨味成分が出てくるのを停めてしまうんだよ。だからロイヤルミルクティーの場合は面倒だけど、お湯で茶葉を開かせて旨味成分を出した後で牛乳を入れて再加熱。今度は沸騰させない」
 
「難しい」
「美味しいものを作るには手間が掛かる」
「だよね〜。このチョコケーキも凄く美味しい」
「まあこれは買ってきたものだけど、お菓子屋さんのスタッフが物凄い手間を掛けて作っている」
「確かに確かに」
 

チョコケーキを食べている間に鮭をロースターで焼く。御飯の炊きあがり時間を見ながらタマネギとワカメのお味噌汁を作る。ダシはグルタミン酸ナトリウムを使用していない天然ダシである。ちなみにこのマンションに置いてある味噌・醤油の類は千里が定期的にここに持ち込んでいるので千葉のメーカーのものである(そもそも千葉は醤油王国)。それで千里はふだん自分のアパートで作るのと同じ感覚で、ここのマンションで料理を作ることができる。
 
炊飯器の炊きあがりのピーピー音が鳴るが少し蒸らしたいのでそのまま放置しておく。茶碗や箸を準備している間に、ロースターで焼き上がりのピーピーという音が鳴る。それでお魚を皿に盛って出してくる。お味噌汁を盛る。お箸を並べる。それから炊飯器のふたを開けて御飯をしゃもじで切り、茶碗に御飯を盛る。
 
「いただきます」
と一緒に言って食べる。
 
「美味しい〜。千里が作ってくれた朝御飯は美味しい」
「炊飯器で炊いた御飯にロースターで焼いたお魚だけど」
「でも千里の愛情が入っているし」
「はいはい」
 
でも千里も褒められて悪い気はしないので、取り敢えずキスをしておいた。 

千里が大阪で貴司に会ってきた次の週末、玲羅が北海道から出てきた。千里が「密談したい」からと言って交通費宿泊費を出してあげて呼んだのである。玲羅は羽田で飛行機を降りると京急で品川に出た。
 
「姉貴どこかな?」
などとつぶやきながら千里を探していたら、長い髪の女性が向こうの方に歩いて行っているのを見る。
 
「お姉ちゃん!」
と大きな声で言って駆け寄る。向こうは反応しない。
 
「お姉ちゃん?」
と言って追いついて肩に手を掛けると、向こうは驚いたように振り向く。そして更に驚いて言った。
 
「玲羅ちゃん?」
「あ、愛子さん!」
 
「東京に出てきたの?」
「ええ。ここで千里姉と落ち合う約束してて。愛子さんも何か用事で東京に?」
「うん。就職先との打ち合わせで出てきたのよ。昨日で話は片付いたから今日は渋谷か新宿でも歩いてから夕方の便で帰ろうと思っていたんだけどね」
 
愛子は東京の大学に出てきたかったのだが、愛子の学力で入れそうな「あまり高くない大学」が無かったため、渋々札幌市内の大学に入った。しかし卒業後は何とか東京に出てこようと画策し、東京の出版関係の会社の内定を取ることができたのである。親は、姉の吉子が東京に出て行き、その後大阪の人と結婚したため、妹の愛子は手元に置いておきたかったようであるが、頑張って親を説得して東京に出てくることに成功した。
 
その愛子が玲羅と少し話していた時、千里がやってきた。
 
「ごめーん、玲羅。遅くなって。って、あれ?愛子さんがいる」
「やっほー。でも千里、ちゃんと女の子してるな。安心した」
 
すると玲羅が言った。
 
「ね、ね、愛子さんと姉貴と並んでよ」
「何何?」
 
「これ人が見たら絶対双子だと思われそう」
 
「ああ、それは昔から私たち言われてたね」
「背丈も同じくらいだし、今ちょうど髪の毛も同じくらい」
 
「千里ちゃんも年齢より下に見られがちだけど、私も童顔だって言われるんだよね〜」
 
それで玲羅は数枚自分の携帯でふたりが並んだ写真を撮っていた。
 

北海道では2月5日(金)から7日(日)に掛けて、札幌市で全道高等学校新人大会が行われた。旭川N高校は地区大会で旭川L女子校との劇戦に勝ち、優勝してこの大会に臨んだ。
 
この大会では1回戦の滝川の高校との試合の後半起用されて自らも12点挙げる活躍をした胡蝶が、そのまま2回戦の岩見沢の高校との試合でも、札幌D学園との準々決勝、更に釧路Z高校との準決勝でも活躍し「正ポイントガード」不在の状況であった旭川N高校のポイントガード争いの一番手に立つことになった。 
決勝の札幌P高校との対戦では1,4ピリオドを胡蝶、2ピリオドを愛実、3ピリオドを紫が司令塔を務めたものの、胡蝶はうまく攻撃を組み立て、みんなに積極的に声を掛け、チーム全体をまとめて頑張った。
 
試合はP高校に僅差で負け、準優勝で終わったものの、胡蝶はアシスト女王を獲得。賞状をもらって笑顔いっぱいだった。旭川N高校としてはひじょうに大きな成果の得られた大会であった。
 
「胡蝶ちゃん、今回はホントに頑張ったね」
と南野コーチが掛け値無しで褒める。
 
「国松君から、男子の正ポイントガードにならない?と誘われて、男の子になるのもいいかなという気もしたんですけど、これなら性転換しなくて済むかも」
と胡蝶。
 
女子のPGが愛実、海音、紫、和花と(人数だけは)いるので、校内で男女の対抗戦をする時に、胡蝶はしばしば男子チームのPGを務めていたのである。今の1−2年生(4月からの2−3年生)は実は男子の方も正ポイントガードが定まらない状態である。胡蝶は男子の正PG候補全員の上を行っていた。 
「うんうん。性転換とかしないでよね」
と南野コーチは笑顔で言った。
 

美幌町の農場で牛の世話をしたり、バターやチーズを作ったりの日々を送りながら、時々東京に出て行って音楽活動をするという生活をしていた桃川春美は、ここしばらく、それらの作業に加えて、自分を母親だと言って慕っている“しずか”という『女の子』の世話もしていた。
 
しずかは現在地元の保育所に朝9時から午後3時まで通っており、4月からは小学校に行く予定である。ランドセルはチェリーツインの他のメンバーがお金を出し合って、可愛いピンクのランドセルを買ってあげた。それを見てしずかは物凄く嬉しそうにしていた。
 
ちなみにしずかは保育所には「女の子」として通っており、そのことを保育所の先生でさえ知らないものの、しずかはその問題で何の破綻も起こさず日中を過ごしていた。桃川は破綻させないようにしているというのは、この子たぶん物凄く頭がいいぞ、と思い始めていた。
 
そんな2月下旬の午前11時頃のことである。
 
牧場に突然思わぬ来客がある。
 
「おばあちゃん! 美鈴さん! すみません、ご無沙汰してて」
と桃川は本当に驚いて声をあげた。
 
それは真枝(弓恵)先生のお母さんで90歳になるミラと、弓恵の兄・太平の娘・美鈴さんであった。ミラは函館で太平夫婦・美鈴夫婦・美鈴の子供の誠子・宗久と4世代同居している。ミラは90歳であるが、見た目はまだ70代の感じで、誠子の娘がお嫁に行くまで頑張ると豪語している。
 
「ひいばあ、私の子供が男の子だったらどうするの?」
「男でもかまわんから、嫁に行かせる」
「まあ最近はそういうのもあるけどね」
 
などと曾孫の誠子とやりとりをしているなどと言っていた。
 
「男に生まれても女になってしまう子もいるんだろ?」
「うん。それは割とふつうに居る。うちの大学の同級生にも男に生まれたけど女の子になっちゃった子いるよ。凄い可愛い子」
「ほほお。そんなに可愛ければ女の子になりたくなるかもね」
「うん。可愛い男の子はどんどん女の子にしちゃっていいと思うよ」
 
誠子にはまだ婚約はしていないものの、双方の親公認の恋人がおり、大学を卒業したら結婚を考えようかという話もしているので、ミラはとりあえず誠子の子供(玄孫)までは見ることができる可能性が充分ある。
 
美智(春美)は真枝先生のことを「おかあさん」と呼んでいたので、ミラさんのことも本人から許されて「あばあさん」と呼んでいた。美鈴は結果的には美智の従姉ということになる。
 

そしてふたりは小さな男の子を連れていた。
 
とりあえず広間に通してお茶とお菓子を出す。男の子にはフルーツヨーグルトを出したら、美味しそうに食べていた。
 
「電話で話そうかとも思ったんだけど、渡したいものもあるし、ちょっと込み入った話だから直接と思って」
と美鈴は言う。
 
「ほんとうはうちのお母ちゃんに来て欲しかったんだけど、母ちゃん成人病の固まりって感じでさ。ぶつぶつ文句ばかり言ってるから私が代わりに来た」
と美鈴。
 
「弓恵が亡くなった後、美智が少し誤解しているんじゃないかと私は心配してね。それで私が来ることにしたんだよ」
とミラは言っている。
 
「でも私がここに居ることよく分かりましたね」
と美智(春美)は言う。
 
「テレビ見てたらさ、チェリーツインって映ってて、そのバンドのピアノ引いてるのが、あれみっちゃんじゃない?と話してさ。それで確認してみたら、ピアノの人は桃川春美って書いてあるから、これみっちゃんが戸籍名を少し変えて芸名として使っているんじゃないかと思って」
 
「ひょんなことで春美にされちゃったんですよ」
と美智(春美)は笑顔で答える。
 
「それで、調べたらこちらの牧場が拠点だと分かって、訪ねてきたんだよ」
「そうだったんですか」
 

「まず、これをあんたに渡しておく」
と言ってミラが何か書類を渡すので、何だろうと思って受け取る。
 
それは複数の証券会社の年間取引報告書、そして各口座の電子取引用ID/PASSのリストである。そして口座の名義人は「桃川春道」、つまり美智(春美)の戸籍名になっている。
 
「これ何ですか?」
「やはり聞いてなかったんだね」
「はい?」
 
「あんた、高校生の時に北海道南西沖地震で、ご両親やお祖父さん・お祖母さんが亡くなったでしょ?」
「はい」
「そのお見舞い金が7人分で2300万円出ている」
「へ!?」
 
「知らなかった?」
「全然知りませんでした!」
「じゃ本当にあの子は何も言ってなかったんだね。あの時、私に相談されたんだよ。高校生がいきなり2000万円なんて大金を手にしたら、絶対に人生を誤るって。だから、これは無かったことにして、自分の給料だけで、あんたを育てたいってね」
 
「お母ちゃんがそんなことを・・・・」
 
美智(春美)は思わぬ話に驚いていた。
 
「それで私は弓恵と相談の上、そのお金を投資のプロに委託した。基本的に安全優先で運用して欲しいということで。そのお金はあんたが結婚するか、あるいは30歳になった時点であんたに渡そうということにした。これが結果的に17年間の運用で8000万円になっている」
 
「きゃっ」
と美智(春美)はその金額に悲鳴を上げる。
 
「これにはあんたが高校時代奨学金をまるごと弓恵に渡していたのをそのままあの子があんたの名前で貯金していた45万円も入っている」
 
「あれ全部貯金してくれていたのか・・・・」
 
「ところがさ」
 
と言ってミラは言葉を句切る。
 
「弓恵の葬式の後あんたと連絡が取れなくなって。電話も通じないし、手紙は宛先不明で戻って来る。亜記宏に聞いたら『生きてはいる』とか言うからさ、なんか亜記宏と喧嘩でもしたのかと思って。でもその内、今度はその亜記宏とも連絡が取れなくなっちゃって」
 
「え!?」
「じゃあんたもやはり亜記宏とは連絡が取れてないんだ?」
 
「それなんですけど実は・・・」
 
と言って、美智(春美)は弓恵の四十九日が終わった後、唐突に亜記宏が自分に、高校大学時代に学資生活費として貸したお金400万円を返せと言ってきたということ。それは少し話がおかしいと思ったので話し合いたいと思って電話したものの、電話には出なかったということ、その督促のメールが2008年の秋頃まで続いたので、結果的に弓恵の一周忌にも出席できなかったことを美智(春美)は話した。
 
「一周忌には亜記宏も出てない」
「え〜!?」
「私たちだけでした。三回忌は保留している。何なら今年あんたが出席して1年遅れの三回忌しない?」
「させてください」
「よし」
 
「私も、高校時代にお母さんに凄く助けてもらったことに恩義を感じていたし、それはいつか恩返しして、お母さんの老後をずっと見ていくつもりでいました。でも具体的にお母さんとお金のことで借用証書とかも交わしていませんし、就職後に何度かお金を渡そうとした時も『結婚資金に取っておきなさい』とか『将来子供の教育費に』とか言って受け取ってくれなかったんです」
 
「そんなの返す必要は無い」
とミラは断言した。
 
「そんなこと言うのなら、亜記宏だって、自分が生まれてから結婚するまでに弓恵が使ったお金を返すべきだよ」
とミラ。
 
「あ、そうかも」
と美智(春美)。
 
「弓恵がいつかグチをこぼしてたけどさ。亜記宏は私立の大学に行ってアパート暮らしだったから学費・生活費が無茶苦茶掛かった。更に就職活動の時、最初東京の企業に入ろうとかしてたからその交通費も出してやったし、結婚式にも300万出してやったって」
 
「大学は仕方無いです。でもあの結婚式そんなに掛かったのか。豪華な結婚式だったし」
 
「それに比べて、美智は大学も国立で自宅通学で、学費は自分で奨学金とバイトでまかなってたし、就職先は自分で見つけてくれたしって。だからあの子の結婚式には400万くらいは出してやれるように貯金するんだとか言ってたよ」
 
「そんな要らないのに」
と言って、美智(春美)は涙ぐむ。
 
「それに私が自宅通学を選択したのは自宅でピアノやヴァイオリンの練習ができるからなんですよ」
 
「弓恵にとっては、亜記宏も美智も等しく自分の子供だったんだよ」
「お母さんはいつも、そう私たちを扱ってくれました」
 
「私は一時期あんたと亜記宏で結婚するのかとも思ってたんだけどね」
「一時は半同棲状態だったんですよ」
「やはりそうだったの。なんで結婚しなかったの?」
「振られちゃったんです。ある日突然、俺結婚するからと言われて」
「それは酷い」
 
「でもそれならあっちゃんの妹であればいいと私は自分を納得させました。でも、何となく結婚式の後は、家に出入りしづらくなっちゃって」
 
「まあそれは仕方無いね」
 
美智(春美)は自分が性別を変更していることをミラたちには言っていない。弓恵は美智自身にも、亜記宏にも「他人には言うな」と釘を刺していた。今話していてもミラや美鈴は、自分をふつうの女性だと思ってくれているようだ。
 

「それから弓恵は亡くなった時に遺言書を残していた」
「え?そうだったんですか?」
「それも聞いてなかったんだね。遺言書では、自宅の不動産と預金は亜記宏に、グランドピアノなどの楽器類、楽譜類、CD/DVDなど、および所有している株式を美智に相続させると書かれていた」
 
「え〜〜〜!?」
「それで楽器や楽譜・CDとかは札幌市内のトランクルームに預けてある」
「わっ」
「そして所有していた株式は、あんたと連絡がつかなかったから、私の判断で相続税として必要な分だけ売却して、それ以外の分をあんたの株式口座に移している。これは300万円分くらいなんだけどね」
 
「ありがとうございます!それでいいです。でも、あのグランドピアノが300万するし、ヴァイオリンも150万円くらいのものだし、それ以外の楽器群も入れたら600-700万になりません? CD類はどのくらいになるか見当も付かない。無茶苦茶たくさんあったから」
 
「相続税の計算のために税務署が評価したのでは、取得価格では2500万円だけど減価償却して300万円という評価だった」
「ああ、減価償却」
「だから結果的に土地建物で取得額は4000万だけど土地だけで評価して800万の不動産を相続した亜記宏と対等くらいになるはず」
 
「もしかしたらそうかも」
「亜記宏が相続した預金は、ちょうど相続税を払う分くらいあった。どうも弓恵がそれをきちんと計算して、株式を一部売却してそのくらいの残高を預金口座に入れてあげていたみたい」
 
「なるほど!」
 

「でも結局、亜記宏はあの自宅を売っちゃったんだよ」
とミラは言う。
 
「そうなんですか!」
 
「あの付近一帯買い占められたみたいで、今、大きなマンションが建設中みたい」
「そうですか・・・」
 
自分が高校大学時代を過ごした家が無くなってしまったのは寂しい気がした。 
「それで結局私たちも1年以上前から、亜記宏たちとは連絡が取れない状態が続いていたんだよ」
 
「実音子さんの実家の方は?」
 
「それがさ」
と言ってミラは顔をしかめた。
 
「どうもそちらが問題だったみたいで」
「はい?」
 
「実音子さんの実家は飲食店を経営していたんだけど、そちらの経営が行き詰まってさ」
「あらら」
「実音子さんのお父さんが自殺して」
「きゃー」
「お母さんは老人ホームに入れられたけど、完全に惚けてしまったみたい」
「そんな惚けるほどの年じゃないですよね?」
「まだ62-63歳だったはず」
 
「うーん・・・実音子さん、お兄さんいませんでしたっけ?」
 
「ああ、それも聞いてないか。実音子さんのお兄さん・駆志男さんは3年くらい前に交通事故で亡くなったらしいのよ。奥さんの有稀子さんも一緒に」
「あらぁ」
 
3年前ならお母さん(真枝先生)が亡くなる前だろう。なぜ葬儀の時、亜記宏はそのことを自分に話さなかったのだろうか。母の死で心に余裕が無かったのか? 
「その件も色々たいへんだったみたいよ」
「子供とかは?」
 
「女の子が1人、理香子たちの従姉になるんだけど、今小学3年生かな。その子は有稀子さんの実家で預かっている」
 
「可哀相・・・」
 
美智は自分が高1の時に孤児になってしまった経緯から、その女の子に同情した。 
「結局お兄さんが亡くなったので、亜記宏に店を継いで欲しいということになって、それはあの子も同意して頑張っていたらしいんだけど、ガス爆発が起きてさ」
 
「ありゃぁ」
「幸いにも誰もいない時だったから死傷者は出なかったけど、設備や食器とか全部壊れて、とても再整備するお金が無いというので廃業。借金だけが残ったんだけど、実音子さんも亜記宏も借金の保証人になっていたみたいでさ」
 
「やむを得ないですね、それ」
 
「大半は地元の銀行や金融公庫からの借金だけど、一部たちの悪いトイチみたいな所から借りていたみたいで」
「なんでそんな所から借りるかなあ」
「すぐ返すつもりだったんだろうね」
「返せるのなら、そういう所から借りる必要無いんですけどね」
 
「私もそう思う。でも、それであの子たち逃げまわっているみたいで」
 
「なんか大変なことになってますね」
 
「おそらく家土地を売却したお金もそちらの返済に使われたんじゃないかね」
「でも全然知りませんでした。済みません」
「いや。私たちも、ついこないだ知ったんだよ」
 
「そうなんですか!?」
 

「全然連絡取れないからどうなってるんだと思ってたのよ。郵便出しても戻ってくるしさ。それが先月ふらりとあの子たちがうちに来たんだよ。子供3人連れて」
 
「あら」
 
「それで、あんたたち今どこに居るのとか訊くけど、何も答えなくて。でもとりあえず御飯食べて、子供たちにおやつでもあげて、とかやってたんだけど、5日目の朝、行くと、この子だけが残っていて、亜記宏も実音子さんも後2人の子供も居なくなっていたんだよ」
 
「なんてことを・・・・」
 
ということは、今ここにいるのは和志なのか、と美智(春美)は納得した。その男の子が誰か分からなかったので、訊きたい気分だったのだが、どうもミラたちは、その子のことをこちらも知っていると思い込んでいる雰囲気で何となく訊きにくかったのである。
 
もしかしたら男の子はひとりでも生きていけるだろうということで、放置して女の子2人を連れて、また知人の家などを頼って彷徨っているのだろうか。 
思えば、四十九日の後に唐突に400万円要求してきたのも、金に困って取れる所からできるだけ取ろうとした結果なのかも知れない。
 

「その後で、亜記宏たちの行方を捜していて、先週、お店の従業員さんだった人と連絡が取れてね。それで私たちもやっと経緯を知った所で」
 
「そうだったんですか・・・」
 
「今日こちらに来たのは、とにかくも私はあんたのことを自分の孫娘だと思っていることを伝えたかったのと、後はあんたが30歳過ぎたから預かっていた資産をちゃんと渡したかったこと、それと亜記宏たちの行方をあんたの方ではつかんでないか確認しておきたかったからなんだよ」
 
「分かりました。こちらにももし連絡とかあったらそちらにも知らせますので」
「うん。この件は私たちで情報を共有しよう」
「はい」
 

その時、美智(春美)は数人の牧場の従業員がこちらの様子を伺っているのに気付いた。
 
「時枝さん、どうしたの?」
「あ、いや入ってもいいものかと思って。なんか深刻そうだったし」
「いや大丈夫ですよ。あ、こちらうちの祖母と、従姉、それに甥なんですよ」
 
と美智(春美)は言った。
 
その美智の言葉を聞いて美鈴が言った。
「ああ、この子は美智ちゃんの甥でいいよね」
「うん。かっちゃんは、元気いっぱいだしね」
とミラも言っている。
 
美智は和志が元気いっぱいであることと、彼を自分の甥と呼んでいいことに何か関係があるのだろうかと一瞬考えたものの、あまり深く考えないことにした。
 
「かっちゃんは木登りも得意だし」
「登るのは得意だよね」
「降りるのに難がある」
「あれおとなが大変」
「でも懲りずにまた登る」
 
ああ、もうすぐ小学校というくらいの男の子だとそんなものかな、と美智は思った。こちらの、しずかも男の子だったら、そのくらい活発なんだろうなと思う。しずかは本を読んだり、お花に水をあげたり、レゴブロックなどをしたりするのが好きなようである。本当に性格が女の子だ。音楽的な才能もあるようでキーボードをよく弾いているので春美も少し教えてあげていた。歌も結構上手い。
 
「学校とかはどうするんですか?」
と美智は尋ねた。
 
和志は、しずかと同様、本来なら4月から小学1年生になるべき年齢である。 
「うん。いつ亜記宏たちと連絡取れるか分からないし。そもそも亜記宏たちは今住所不定状態だからさ。函館の方で地元の小学校と相談して、そちらに通わせてもらうというのをつい先日話がまとまったんだよ」
 
「それはよかった」
「どっちみち今の時期はもう学期の終わりかけだし、4月からそこに入学させることにした」
 
「ああ、そうですよね」
と美智は言ってから、何か微妙な違和感を感じたものの、それが何かその時は分からなかった。
 

時枝をはじめ多数の従業員が広間に入ってくる。ここは朝昼晩には食堂になる。 
「良かったら一緒にお昼いかがですか?」
と時枝さんがミラたちに言う。
 
「わ、でも定数外なのにいいんですか?」
と美鈴。
「大丈夫です。ちゃんとハルちゃんのお給料から引いておきますから」
と時枝。
「時枝さんが、それをノートに付け忘れなかったらね」
と美智も言う。
 
時枝はその手のミスが多い。
 
「うーん。数字が合わないのは私の場合どうしようもないから」
と本人は開き直っていた。
 
ミラたち3人はお昼を食べた後、オーナーの山本と少し話してから函館に帰って行った。山本は遠い所からだし、年寄りと子供連れだし、1泊していったらと勧めたものの、美鈴が「帰らないと旦那の機嫌が悪いんですよ」などと言って、車で帰って行った。
 
函館を昨夜出て半日走ってきたらしかったが、
「かっちゃんは都会育ちだから、夜が明けた後は景色を楽しんでたみたい」
などと言っていた。帰りも半分観光モードで帰るのだろう。
 
函館から美幌まではノンストップで7時間ほど掛かる。
 

天津子はじっとそのヒグマを見ていた。
 
かなり気が立っている。本来ならこの時期、ヒグマは皆冬眠しているはずである。おそらく冬眠に失敗した「穴持たず」であろう。
 
距離は危険距離と言われる12mより遠い。この距離なら、できたら素直にお帰り頂きたいのだが、相手はこちらを襲う気満々のようである。どうも闘わざるを得ない雰囲気だ。
 
ヒグマがこちらに寄ってくる。天津子は相手を睨みつけて気合いで負けないようにし、冷静に相手との距離を測っていた。気合い負けしたら数秒後に自分はこの熊の餌になる。
 
相手は次第に近づいて来た。距離が縮んでいく。
 
『今だ』
 
と直感した天津子はそのヒグマの頭に向けて思いっきり気の塊をぶつけた。 
巨大な砲弾を撃ち込んだようなものである。ヒグマは物凄い声をあげて向こう側に半回転して仰向けに倒れ、ピクピクッとして動かなくなった。
 
チビがそのそばに寄って、確かに絶命していることを確かめてくれた。チビには手を出すなと命じていたのだが、虎と熊が闘ったら、どちらが勝つんだろう?とふと思った。するとチビは天津子の思考を読んだようで
 
『俺がこんな下等生物に負ける訳ねーだろ』
と言った。
 
天津子は微笑んで戦闘態勢を解除し
 
「わーい、ごはんゲット。まずは血抜きしなくちゃ。でもこれ山降りるまでにとても全部は食べきれないなあ」
と楽しそうに言った。
 

千里の大学はこの年、2月2日(火)まで授業が行われ、3日から9日まで期末試験が行われた。千里は全科目AあるいはBで無事単位取得したものの、友人たちの中にはいくつか落として追試あるいはレポートになった子がいる。桃香など、5つも落として悲鳴を上げていた。10日に追試を2つ受けた上で12日までにレポートを3つ出さなければならないというので、焦っていた。
 
その桃香が2月11日(木・祝)の夜、千里が勤めるファミレスにやってきた。何でも線形代数のレポートを明日の13時までに提出しなければならないらしい。 
「他の科目は?」
「フランス語会話は追試用口頭試問の内容を先輩から教えてもらって、それを暗記して行った。図学2も追試は毎年同じ問題だと聞いたから、その答えを丸暗記していって書いた」
 
「お疲れ様!」
「そのあと、今日憲法学のレポートを書いて夕方提出したから、明日の昼までに線形代数Bのレポート出して、13日朝までに漢文Bのレポートを出す」
 
「12日までとか言ってなかった?」
「12日の24時までということなんだけど、実際には教官は13日の朝8時半くらいに来るらしいから、13日の朝7時くらいまでに教官の部屋のポストに投入しておけばセーフ」
 
「その日だけ突然早く来たりしなければいいね」
 

桃香たちがこのファミレスに来たのは、夜通し暖かい所で作業ができること、食事の心配をしなくて済むこと、そして線形代数について千里に色々教えてもらいたかったからのようであった。
 
ところがこの日は来るはずだった女子大生が風邪で急に休み、夜間の時間帯を副店長と千里の2人だけで乗り切らなければならないというので、大忙しでなかなか桃香たちのテーブルに行くことはできなかった。
 
ところで世間はバレンタインが近いので、あちこちでチョコレートのサービスをやっている。このファミレスでも男性客にもれなくチロルチョコを配っていたのだが、1日に10人だけ「当たり」が出た客には500-1000円程度の、やや豪華なチョコを渡すことになっていた。その渡す役は原則として女性従業員がすることになっていたのだが、この日はその唯一の(?)女性スタッフが来ていない。
 
出てしまった当たりマークを見て副店長は悩んだ。
 
「女性が渡すということになっているけど、村山君に渡してもらってもいいよな。あの子、誰がどう見ても女子にしか見えないし」
 
などとつぶやいていた時、その当の千里が近くを通るので呼び止めてチョコを渡す係を頼もうとした。ところが千里は
 
「だったら、私の友人の女子がちょうど来ているので一時徴用しましょうか?」
と言う。
 
そう言われるとダメと言う理由も無いので、じゃ頼むということにした。 

それで千里は桃香と朱音のテーブルに行き、どちらかうちのスタッフの制服を着て、お客様にチョコを渡して欲しいと言った。すると教科書に「このことより即座に次の系が導かれる」と書かれている所のその「即座に」導かれる理由が分からず悩んでいた桃香が
 
「ああ。じゃ私がやってあげるよ」
と言って席を立った。
 
(「系(corollary)」とは大きな定理や命題を証明した結果、それをもとに「ちょっとした考察」で「簡単に」導かれる命題を言う。但し数学の教科書に「簡単に」とか「明らかに」(英語だとtrivial)とか書かれているものは、多くの学習者にはかなり難解である) 
千里は桃香を連れて女子更衣室に入り、棚の上にある箱を降ろして、その中にあった女子用制服の予備を桃香に渡した。
 
「あれ?ここ女子更衣室?」
「そうだけど」
「千里、女子更衣室に平気で入るんだな?」
 
「いや、なんか他の女子スタッフから『ちょっとこっち来い』といってよく呼ばれているから」
などと言って千里は頭を掻きながら出て行った。
 
桃香は実は1年生の間、あまりマジメに学校に出ていなかったので、千里がどんなに学校で「女子大生」をしていたかを知らない。それでこの頃までは千里のことを「普通の男子」と思い込んでいたのだが、今のやりとりをして少し考え直す。
 
それで制服に着替えて出て行くと、外で千里が待っていて
「このチョコを15番テーブルの30歳くらいの男性に渡して欲しいんだけど」
と言うと
「OKOK」
と言って受け取った上で言った。
 
「これ、千里が着てもいいんじゃない?千里って女の子の服を着たら女の子に見えるよ、たぶん」
 
すると千里は
「いや、ちょっと、それは・・」
などと言って照れている。
 
その様子を見て桃香は確信した。
 
この子、普段から結構女装とかしているのでは?
 

ともかくも桃香はそれでチョコを男性客に渡してくれたのだが、けっこうその客に絡まれた。それで長居していると、またちょっかい出されるかもということで場所を移動し、残りは桃香のアパートで書くことにした。
 
実は一緒にファミレスに来ていた朱音の方はもうレポート完成間近で、仕上げたら寝たいというのもあって、だったらそろそろ帰ろうかということにもなったようであった。
 
ところが桃香たちが帰った後、更にもうひとり当たりが出てしまった。 
この時、副店長は客の少ない時間帯なので仮眠していた。この程度のことで起こして相談するのは悪い。千里はどうしよう?と悩んだものの、さっき桃香から
 
「この女子制服、千里が着てもいいんじゃない?」
と言われたことを思い起こす。
 
「しょうがない。他に誰もいないし、私が渡しちゃおうか」
ということで、女子更衣室に行き、さっき桃香が着た服を自分で着た。 
そしてお客様にチョコを渡してきたのだが、この後、早朝だというのにお客様がどんどん入ってくる。それで千里はさっきまで着ていた男子制服に戻ることができないまま、接客・調理・配膳を続ける。あまりに忙しくて途中から《きーちゃん》にも手伝ってもらって何とかこなす。
 
やがて副店長が起きてきたので、慌てて《きーちゃん》を女子更衣室に行かせて、すぐに吸収する。副店長は千里が女子制服を着ていたので驚いていたが、バレンタインのチョコを渡すのに、女子制服を着たというと
 
「全然問題無いよ。ありがとう」
と笑顔で言い、
「そうしてると女の子にしか見えないね」
などとも言っていた。
 
5時半頃、6時からのシフトの女の子がやってくると
 
「あれ?今日は千里ちゃん女子制服着てる」
と言われる。
 
「ちょっとやむにやまれる事情があって」
と千里は言ったのだが副店長は
 
「村山君は、女子制服の方が合っているようなので、今後こちらの制服を着てもらうことにするから」
などと言っていた。
 
そして6時からの子たちも
「可愛いよ」
「どうして今までも男子制服を着てるんだろうと思ってた」
「スカートの方が千里ちゃん似合ってるよ」
 
などとみんな言っていた。
 

12日の午後、千里はこの日は非番だったのだが、店長から呼ばれてファミレスに出かけていった。店長、副店長、それに女性の夜間店長・椎木さん(土日担当)が居た。
 
「村山君、あらためて訊きたい。戸籍とか関係無しに、君自身で認識している自己の性別は男なの?女なの?」
 
そういう話なら答えは決まっている。
 
「私は女です」
 
「じゃ、村山君はここのレストランでは女子制服を着てくれない?」
と椎木さんから言われる。
 
千里は頭を掻いて
「分かりました。女子制服使います。あれこれ悩ませてしまったようで申し訳ありませんでした」
と謝った。
 
それで椎木さんから女子制服の入った紙袋を受け取る。
 
「万一、村山君の性別のことでお客さんからクレームが入った場合は、僕か芳川(副店長)に言って。ちゃんとお客様に説明するから」
と店長。
 
「はい。ありがとうございます」
 
「まあ、そんなクレームが入るはずもないけどね。今までも村山君はお客様からは『お姉ちゃん』とか『ウェイトレスさん』とかしか呼ばれてないし」
と副店長は笑って言っていた。
 
そういう訳で、千里のこのファミレスでの制服問題は、ここに入ってから4ヶ月にしてようやく解決することになったのである。
 
 
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