【女子大生たちの路線変更】(2)

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東京に戻る途中、朝9時頃、浜名湖SAで休んでいたら母から電話が掛かってきた。
 
「放送大学の合格証が届いていたよ」
「お父ちゃんにおめでとうと言ってたと伝えておいて」
「うん。それで入学金を振り込まないといけないんだけど」
「こないだ送金したので足りなかった?」
「それが実は」
 
と母はとっても申し訳なさそう。
 
「同じ日に電気とガスと水道の引き落としがあって・・・」
 
千里はつい笑いそうになってしまった。
「いいよ。また送るよ。幾ら送ればいい?」
「30万くらい送ってもらったら何とか」
 
それってこないだ送ったのと同額じゃん!おそらくはローンの返済の引き落としとかもあったのだろう。
 
「40万送るから、滞納してるのとかもそれで払える範囲で払って」
「ありがとう」
 

更に母は何か言いにくそうにしている。
 
「何かあった?」
「実は玲羅のことなんだけど」
「うん?」
「こないだ三者面談に行ってきたんだよ。そしたらさ」
「うん」
 
「今の成績では国公立の大学は無理だと言われた」
「あぁ。あの子、全然勉強しないからねぇ。高校進学の時それでけっこう揉めて本人は勉強しますとは言ってたけど、まあ変わらないだろうね」
 
玲羅は現在留萌市内の私立高校2年生だが、なぜか特進クラスに入っている。
 
「でも私立大学となると入学金とか授業料とかが」
「とっても高いよね」
「どうしよう。いっそのこと、就職クラスに変更しないかと言われたんだけど」
「なんで特進なんかに入ったんだっけ?」
「どうも色々資格試験とか受けるのが面倒と思ったみたい」
「うーん・・・」
 
確かに就職クラスに入ると大量の資格試験を受けさせられるだろう。
 
「でも本人が大学に行きたいというのであれば入れてあげたら? 私立でも、そんなに高くない所もあるし、名前書けば合格させてくれるような大学もあるし」
「そんな所あるんだっけ?」
「Fランクとかいうんだよ」
「Fランク?」
「東大とか京大はSSランクで他の帝大とかそれに準じる所や早慶がSランク。私の大学はAランク。いわゆる駅弁大学やMARCH・関関同立とかがBランク。遥か下がFランク。実際にはFというのはEの下という意味ではなくてランク付けをしている予備校が不合格者を発見できなくて評価不能という意味なんだけどね」
 
「まーち?かんかん?」
「お母ちゃん、少し受験というものの勉強した方がいい。進学関係の雑誌が本屋さんにあるからさ」
「じゃ今度旭川に出た時に本屋さん寄ってみる」
 
「私立でも、お嬢様大学みたいな所は高くつくけど、下位の大学は意外とお金かからないんだよ。その代わり授業の品質も微妙」
「でもあの子、難しい授業には付いていけないのでは?」
「うん。だから玲羅にはちょうどいい」
「少し悩んでみよう」
 
「入学金何千万とかでなかったら、私が出してあげるからさ。さすがに私立の医学部とかはやめてよね」
「それは通る頭がないから大丈夫」
 

そういう訳で、どうも結構お金が必要っぽいしということで、千里はまたバイトを探すことにした。こないだの花火大会の時に香奈がファミレスの夜間勤務が良いと言っていたのを思い出し、コンビニの店頭に置かれているバイト情報のフリーペーパーを取って来て見ていたら、まさに地場ファミレスのスタッフ募集というのが出ていた。
 
千里はそこに連絡した上で履歴書を書き、ポロシャツにジーンズという格好で指定された店舗に出て行った。
 
千里は正直に、授業に差し障りの無い形でバイトをしたいと言い、できるだけ夜間の勤務をしたいと言った。
 
「私中学高校と6年間バスケット部に居て、今もクラブチームでやっているので体力には自信がありますから」
と言う。
 
面接してくれた店長の横川さんは、そういうハキハキとした千里の言動を好感した雰囲気ではあった。ただ困ったような顔で言う。
 
「僕としては村山さん、凄くいいなと思うんですけどね。実は募集出していたフロア係は女子の枠はもういっぱいになってしまったんですよ」
 
「女子枠って、私男ですけど」
「えーーー!?」
「履歴書にも、性別男と書いていますが」
「え?」
と言って、横川店長は履歴書を見直す。
 
「あ、ほんとだ。ごめーん。僕はてっきり、君、女性かと思っちゃった」
「まあ、よく私、性別間違われるんですけどね」
「なるほどねぇ。確かに男子枠は実はまだ応募が無かったんだよ」
「だったら、やらせてもらえませんか?」
 
店長は履歴書の住所の所を見ている。
 
「けっこう住所が遠いね。ここへはどうやって通勤します?」
「スクーター持っていますから、それで通勤します」
「ああ、それなら安心ですね」
 

それで一応検討した上で結果は郵便で通知しますということであったものの、翌々日には仮採用の通知が来ていた。2ヶ月間の試用期間の後、よければ本採用とするということであった。保証人が必要ということだったので母と叔母に頼むことにして、電話で了承をもらった上で、書類を留萌と旭川に送付した。
 
「制服を渡すね。君サイズは何だろう?」
「たぶん男性用ならSで行けるだろうと思います」
 
店長は一瞬千里の《男性用なら》ということばに考えたふうであったが、取り敢えず男性用の制服のSを取り出してくる。
 
「ちょっと着てみて」
と言われたので、男子更衣室に入って着替えて来た。
 
「すみません。上はいいんですが、ウェストがあまりすぎて。でもヒップは少しきついです」
 
「君、ウェスト何cm?」
「59です」
 
「・・・・79?」
「いえ。59です。実はズボンもいつも探すのに苦労してて。レディスサイズでも63くらいからしか、なかなか置いてないんですよね」
 
それを聞いて店長は女性のスタッフをひとり呼ぶ。シニアクルーのリボンを付けている牧野さんという人だった。
 
「女性用のズボンのさ、いちばん小さいのってウェスト何cm?」
「女性用のSは61ですが」
「ちょっとそれ持って来てくれない?」
「はい」
 
それで牧野さんが持って来てくれた女性用Sのズボンを穿くと、何とかなる感じだ。
 
「こちらの方がヒップが楽です。でも歩いていたらずれ落ちそうなので、ベルトしてもいいですか?」
「うん。じゃ、それと同色のベルトなら」
「用意します」
 
「でもなぜ女性クルーに男子用制服を着せるんですか?」
と牧野さんが訊く。
 
「あ、この子、一見女の子に見えるけど、男子だから」
と店長さんが言うと
 
「えーー!?」
と牧野さんは言った上で
「ごめん。驚いたりして」
と言う。
 
「いえ、私、いつも性別間違えられるから」
と千里は言っておいた。
 

それで千里は今月いっぱい昼間のスタッフの多い時間帯にOJTで訓練を受けた上で、10月から夜勤に入ることになった。大手のファミレスなら、きちんとしたマニュアルがあって、システマティックな訓練を受けるのかも知れないがここは千葉県内と一部東京都内・茨城県内に合計15店舗しかない地場中堅のファミレスなので、そのあたりは、かなりアバウトである。まともな指導は基本的な作業の流れ、挨拶のことば、レシピの見方の説明、注文用POTの操作(それも凄く簡単に)など20分で終わってしまい、あとは他の人がしているのを見て分からなかったら誰かに訊いて、ということになった。
 
しかし千里は人当たりが柔らかいので、すぐに上手に接客できるようになる。最初は厨房での補助作業を中心に、手の足りない時は配膳の仕事などをしていたものの、初日も後半になると、むしろお客様のテーブルへのご案内、注文取り、配膳、と接客中心に作業するようになった。
 
注文を取ってから、厨房の方へ戻ろうとしていたら、60代の男性に呼び止められる。
 
「お姉ちゃん」
「はい?」
「済まないけど、自分のテーブルが分からなくなって」
「ご案内します。こちらへどうぞ」
 
と言って千里はその客をちゃんと自分のテーブルまで案内した。
 
「あ、ここだ、ここだ」
「ごゆっくり」
「お姉ちゃん、ありがとね」
「どういたしまして。あ、お冷やが少なくなっていますね。新しいのお持ちします」
 
と言って千里はいったん厨房に戻り、お冷やを並べている所から1個取ってお盆に乗せ、テーブルまで運んで、そのお客様のと交換した。戻る途中、別のテーブルの客から
 
「あ、ウェイトレスさん、マイルドセブン1つ買って来て」
とタバコを頼まれる。
 
千里はお客様のテーブルにある箱を見る。
「そちらにお持ちの、アクアメンソール1mgの100sでよろしいですか?」
「うん、これこれ」
 
と言って五百円玉を渡される。それで入口の所に行って自販機に五百円玉を入れ言われた銘柄を選び、(レジの所に1枚置いてある)タスポをタッチして購入する。お釣りとタバコをテーブルにお持ちする。
 
厨房に戻ってから、副店長の芳川さんから言われる。
 
「いい動きしてるね。こういう仕事したことあった?」
「飲食店は初めてです。中学高校時代はずっと神社でバイトしてたんですけど」
「へー。神社も接客業かも知れないけど、飲食店とは全然違うよね」
「そうですね。頑張って仕事の仕方覚えますので」
 
「うん頑張ってね。でもさっきのは、よくお客様の居たテーブルを覚えていたね!」
「私、人の顔や名前覚えるの得意なんですよ」
「それは凄く接客業向きだよ!」
「スナックのママさんできると言われたことあります」
「うん、できるできる」
 
と言ってから芳川さんは少し考える。
 
「男でもママさんでいいんだっけ?」
「さあ、そのあたりは私も良く分かりません」
「それと、今のお客さん『お姉ちゃん』と言ってたね」
「ああ、だいたい私、女に見られることが多いです」
「ってか、君を見て男と思う人がいるのかどうか疑問を感じるけど」
「ああ、初対面の人で私を男と思った人っていないですよ」
「なるほどねー」
 

トイレで若干のトラブルがある。
 
千里は一応男を主張しているしと思って男子トイレを使っていたのだが・・・。トイレに入って(当然個室を使用するが)、個室から出た所で男性のお客様が千里を見て「あ、ごめん」と言うと、飛び出していくものの、しばらくして、おそるおそる、またトイレのドアを開ける。
 
「お客様、こちらで合ってますよ」と千里。
「あ、あんた従業員さんか。びっくりした!」とお客様。
 
この手のトラブルが初日に2回、2日目にも1回、3日目には3回発生する。それに気付いた芳川副店長が、女性スタッフのリーダー月見里(やまなし)さんと何やら相談していたが、やがて千里を呼ぶ。
 
「あのさ、君、悪いけど、女子トイレを使ってくれない?」
「えっと・・・」
「どうも君が男子トイレに入る度に、男性のお客様を驚かせているみたいで。まあスタッフは掃除や点検のために男女どちらのトイレにも立ち入ることはあるから問題ないと言えばないんだけどね」
と芳川さん。
 
「村山さん、女子トイレに居ても全然違和感がない気がするのよね」
と月見里さん。
 
「でも男の私が女子トイレを使ってもいいんでしょうか?」
「スタッフは男女どちらのトイレに居ても変じゃないから」
「ああ、そうですよね」
 
「それに君、男子トイレでもいつも個室を使っているよね?」
「はい。私、個室しか使ったことないですから」
 
芳川さんは少し考えている。
 
「君、実は女性ってことないよね?」
「え? 私、男ですけど」
 
芳川さんは更に考えていた。
 
が、ともかくも千里はこの後、お店では女子トイレを使うことになる。
 

更に更衣室で大いにトラブる。
 
千里が勤務終了後、男子更衣室で制服を脱ぎ、普段着に着替えようとしていたら、そこに入って来た男性スタッフが「わっごめん!」と言って飛び出していく。そしてすぐに
 
「ちょっと君、こっち男子更衣室なんだけど」
と言われる。
 
「えっと私、男ですけど」
「え?そうだった? ごめーん」
 
ということで入っては来たものの、千里を見て、5秒でドアの方に行く。そして後ろを向いたまま言う。
 
「ね、君、着替え終わったら言って。俺、後ろ向いてるから。むしろ外に出てようか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
 
そんなことが初日・2日目・3日目と続き、4日目には入ってきた男性が後ろを向いてくれている間に別の男性が入って来て、彼もまた後ろを向いていてくれるという異様な状態の中で千里は着替えて
 
「すみませーん。ご面倒かけまーす」
と言って更衣室を出た。
 

それで複数の男性スタッフが店長・副店長に訴える。
 
「今度入った村山って子、あれ絶対女ですよ」
「本人が男だと言っているんだけど」
「それって、最近はやりの男の子になりたい女の子ってやつじゃないんですか?」
 
「俺、あいつの下着姿見て、一瞬でチンコ立っちゃいましたよ」
「そもそも、あいつの着てた下着、あれ男物のシャツじゃなくて、女物のババシャツだと思う」
「パンティも女物穿いてましたよ」
「一瞬見ちゃったけど、あれ絶対女の股間ですよ」
「俺も見た。何も膨らみが無かった。あいつ絶対女だと思う」
 
「ウェストが凄いくびれてて、どう見ても女のボディライン。胸隠してたけど、たぶんおっぱいありますよ」
「足にも毛とか全然生えてなくて、真っ白で雪のような肌って感じ」
「お酒入ってたら、理性ぶっ飛んで押し倒してしまうかも」
「いや、ほんとに誰かがうっかり押し倒したりしない内に何とかしてください」
 

それで店長・芳川さんに、女性のシニアスタッフで千里と一緒に勤務したことのある月見里さん・牧野さんとで話し合ったようである。千里が呼ばれる。
 
「再度訊きたいんだけど、君って女性だっけ?男性だっけ?」
「男ですけど」
「戸籍上も男なの?」
「はい。戸籍抄本が必要でしたら取り寄せて提出しますが」
「いや、そこまではいい。でも君、着替えは女子更衣室を使ってくれない」
 
「それはまずいのでは。男の私が女子更衣室で着替えたら、他の女性スタッフからクレームが出るか、痴漢として通報されるか」
と千里は言うが
 
「いや、絶対クレームは出ない」
と月見里さん。
 
「他の女子スタッフに話を通しておくからさ、村山さん着替える時は誰か他の女子に声を掛けてよ。それで一緒に女子更衣室に入るようにしよう。それならいいかな?」
 
「はい、そういうことでしたら」
 
という訳で、千里は当面、誰か他の女性スタッフと一緒に女子更衣室に入るという形で、女子更衣室で着替えることになった。千里のロッカーは取り敢えず男子更衣室に置いたままになるが、千里が男子更衣室に入る時は、誰か中に居たら声を掛けてOKと言われてから入ってくれと言われた。
 
「ね、村山さん、何なら女子の制服を着てもらってもいいけど」
「いや、男ですから男子制服を着ますよ」
 
とは言ったものの、お客さんで千里を男性従業員と思う人はひとりも居なかったようであった。
 
後から聞いたのでは、この時期、店長や月見里さんたちは千里が「男の子になりたい女の子」なのか「女の子になりたい男の子」なのか判断に迷い、それが判明したところで千里の扱いを考えようということにしていたようである。
 

千里がこのファミレスに勤め始めて、よく頼まれることになったのが車の移動である。ある日、深夜に来た70歳くらいのお客様が
 
「お姉ちゃん、車庫の入れ方が分からないから、取り敢えず店の前に駐めてきたけど、駐車場に入れといてくれない? 黒いクラウンだから」
と言って、千里にオーダーの際に車のキーを渡した。
 
千里は自分で動かしていいものか迷ったので、夜間店長の椎木さん(女性)に相談した。
 
「あら。私、車の免許持ってないのよね。松田君は戻ってくるのにまだ30分くらい掛かるだろうし。村山さん持ってる?」
「はい。一応」
 
松田というのはその晩に入っていた唯一(?)の男性スタッフだが、この時はちょうど緊急に不足する食材が発生して、近隣店に車で借りに行っていたのである。
 
「村山さん、どのくらい運転するんだっけ?」
「私、まだ若葉なんですけどね。一応これまでに2万kmほど運転していますが」
 
この時期は大阪との往復頻度も高かったので走行距離が物凄いことになっていたのである。給油も週に4〜5回は満タンで入れていた。
 
「そんなに運転してるなら、充分ベテランじゃん。それ多分うちのお父ちゃんより走ってるわ。じゃ入れて来てよ。この付近駐車違反の取り締まりが厳しいから、すぐ入れないと見つかるとやばいわ」
「分かりました」
 
それで千里は店の外に出ると、ちょうど駐車違反のチェックをしようとしていた風の取り締まりの人に「すみませーん。今動かしますから」と言って、勘弁してもらい、すぐに運転席に座り、シートベルトをして車のキーを回して発進した。
 
このファミレスの駐車場入口は、困ったことにお店の手前側にある。しかし街中で夜間といえども結構な交通量がありバックするのは危険である。そこで千里はその付近をぐるりと一周してお店の所まで戻って来て、それから中に進入。ボタンを押して駐車券を取り入口のドアを開け中に入ると、いちばん出しやすそうな場所に車をバックで駐車させた。駐車券を持って店内に戻り、お客様にキーと一緒に駐車券をお渡しする。
 
「お車は車庫内の出口のそばに駐めました。この駐車券をお食事のご精算の時に、スタッフにお渡しください。駐車場代が無料になる処理を致しますので」
「ありがと、ありがと。何時間駐めてもいいの?」
 
「時間制限は御座いませんが、無断駐車防止のため、レジで精算してから20分以内に出ないと30分1000円で料金を要求するシステムになっております。もし何かでお時間がかかってしまった場合は、レシートと一緒にレジにお持ち頂ければ再度無料化の手続きを致しますので、ご遠慮無くお申し付けください」
 
「了解、了解」
 
そしてこれを機会に千里は週に2〜3度は車を入れたり、あるいは逆に出したりの作業を頼まれることになる。年配の客や中年の女性客にはしばしば「駐車券無くしちゃった」などと言う人もいて、マスターで出庫口のドアを開けて出したりなどというのもよくやった。
 

 
9月19日(土)。千里はローキューツのメンバーと一緒に柏市の体育館にやってきた。千葉県クラブバスケットボール選手権という大会なのだが、千葉県の女子クラブチームは8つしかないのでこの日は1回戦4試合だけである。準決勝は10月10日に予定されている。
 
今回の相手はブレッドマーガリンという実質企業のチームのようであったが、会社の仕事の余暇にバスケしてます、という雰囲気のチームであった。こちらも楽しくプレイさせてもらう。適宜交代しながら、全員出場するようにして、怪我だけはしない・させないように気をつけてプレイをした。試合は60対18でローキューツが勝った。
 
「ところで最近あまりTOをしてないね」
と夏美が言った。
 
「全然負けてないからね。この春以降、負けたのは決勝戦でだけ。だからする機会が無い」
 
一般にアマチュアスポーツの大会では、負けたチームの選手やスタッフが次の試合の審判やオフィシャルをするというシステムになっているものが多い。このチームでも全員オフィシャルの講習は受けているし、監督は日本公認A級審判、浩子と菜香子が県連公認審判の資格を持っているし、資格は持っていなくても千里・麻依子・夏美の3人は高校時代に練習試合や非公式戦でなら主審もした経験がある。
 
しかし!負けないので、全然審判もオフィシャルもやっていないのである。
 
「まあ第1試合で頼まれることはあるかもね」
「そうだね」
「じゃ次は10月10日頑張ろう」
 

9月24日。朝起きたら身体の感触が違っていた。
 
身体が突然変化するのはもう慣れっこになっているのだが、例によって裸になって眺めてみる。
 
『私、女子大生になった?』
『そうだよ。この身体は5月の連休の続き』
 
と《いんちゃん》が教えてくれた。
 
千里は連休明けから「性転換後3ヶ月ほど経った身体」を使用して、手術後の安静期間に落ちた筋肉を再び付けるためのトレーニングをずっとしてきていたのである。要するに昨日までに作り上げた身体で、自分は高2のインターハイの道予選・本戦に出るということのようである。だから昨日までは女子高生の身体だったのだが、今日からは女子大生なのである。
 
『この後、もう女子高生に戻ることはないの?』
『男子高校生の時間が2ヶ月ほど残ってる』
『やだなあ』
『それがどうしても必要なんだよ』
『うん。それは最初から言われていたけど』
『その後去勢して性転換してその後の療養』
『その療養期間って結構苦しむんだよね? だった連休明けの頃ってまだ少し痛かったもん』
『でも千里、普通の人よりは随分軽く済んだんだぞ。回復に1年くらい掛かる人もいるから』
『気が重くなるけど通らないといけない道だもんね。万一私が性転換手術を受けなかったらどうなるの?』
『どうなんですか?天空さん?』
 
と《いんちゃん》は《くうちゃん》に投げた。
 
『タイムパラドックスを解消できなくなるから、強引に解決するために誰かと取り違えられて手術されちゃうかも知れないし』
『それはお医者さんが責任問われそうで悪い』
『あるいはいっそ千里という人間が居なかったことになっちゃうか』
『それもやだなあ。私まだ消えたくないし』
 
『そうなると周囲の矛盾の解決が結構大変だから、千里が性転換手術で死なないように大神も色々してくれると思うし覚悟して手術受けなさい』
と《くうちゃん》は言った。
 
《くうちゃん》にもこの時点では千里と青葉や菊枝の出会いまでは読めていなかったようであった。
 
『うん。受けたいのは受けたいけどね』
 

10月に入り、千里たちの大学も後期の授業が始まる。
 
千里の父も放送大学に入学した。。。。が最初の内は「チャンネルの合わせ方が分からない!」とか「録画してたのに録画されてない!」などと騒いでいたようである。いづれも玲羅が何とかしてあげたようであった。千里なら多分どうにもできなかった所だ。玲羅は学校の成績は悪いものの、ああいうデジタル機器の扱いはうまい。
 
そして千里は相変わらず大学には男装・短髪で出て行っていた。
 
「千里、髪がなんか短くなってる」
と約2ヶ月ぶりに顔を合わせた美緒に指摘される。
 
「夏休みに塾の先生やったらさ、髪切りなさいって言われたもんで。不本意だったんだけどね」
「髪はどこで切ったの?」
「理髪店」
 
「その髪型変だよ。まるで男子みたいな髪型だもん」
「ボク男だけど」
「そういう嘘はよくない」
「千里、今度髪切る時は美容室に行きなよ」
「うん。そうしようかなと思ってる。髪切りに行くほど伸びるのに時間が掛かるけどね」
 
「もう塾の先生はしなくていいの?」
「うん。夏休みだけで辞めたー」
「へー。バイトはもうしないの?」
「代わりにファミレスの夜間スタッフの仕事をすることにしたんだよ」
「おぉ」
 
「原則週3回、夜10時半から朝5時半まで7時間、時給1200円」
「さすがに単価がいいね」
「でもきつくない?」
「大丈夫だよ」
「でもとうとう千里もウェイトレスさんになったのか」
「いよいよ男の振りする路線からちゃんと女の子する路線に転換だね」
「路線だけじゃなくて実際の性別も転換してたりして」
 
「いや、ウェイトレスさんじゃないよ。男だからウェイターだと思うけど」
と千里が言うと、なんだかみんな顔を見合わせている。
 
「今度千里が勤務している時間帯にそこに行こう」
「千里がウェイターしているかウェイトレスしているかのチェックだよね」
 

「しかし千里のその髪、凄く気になるなあ」
と朱音が言う。
 
「ね、ちょっと切ってもいい?」
「いいけど」
「よし」
 
ということで朱音は千里を多目的トイレに連れて行き(女子トイレに連行しようとしたら千里が抵抗した)、普通の紙などを切るハサミで千里の髪の毛を少し切ってあげた。真帆・友紀も同行している。
 
「なるほどー。これなら一応女の子に見えるね」
「ベリーショートの女の子だよね」
「ボク、別に女の子に見える必要ないと思うんだけど」
「いや千里が男みたいな髪型してたら混乱の元」
「そうそう。これでちゃんと100%女子としてみんなに認識してもらえるよ」
「うーん・・・・」
 

千里は前期に心理学Aという、いわば科学的心理学の講義を取ったのだが、後期では心理学Bという、いわば臨床的心理学の講義を取った。心理学Aでは教官の考え方に納得できないものが多々あった千里だったが、心理学Bの方は大いに共感できるものがあり、教えてくれたT先生を結構好きになった。
 
T先生は理学部数学科の出身ということで、統計学や線形代数の知識が凄まじかった。講義の中には行列の固有値云々とか、因子分析だのF分布だのといった話もチラチラ出てくるので、そのあたりで講義内容が頭の上を飛んで行く学生もいたようである。しかし臨床心理学の分野では意外に昔から数学出身の研究者は多いのである(ユング心理学の大家・河合隼雄などがそう)。
 
さて、この心理学Bの講義の3回目の時間に心理テストを受けさせられた。
 
別に成績評価とは無関係で、心理テストの仕組みや分析内容などを知ってもらうためだったようだが、検査はPC教室を使い全員1人1台のパソコンを使って選択肢を選んでいくものである。結果は終了後すぐに出るのだが、通常の数値と極端に離れた結果が出た場合、警告サインが出る。
 
千里はその警告サインが5つも表示されたので、わっと思った。8つの軸で検査されているものの内、5つも警告値だったのである。
 
千里の隣の席にいた渡辺君が
「なんか凄いね、これ」
と驚いていたので、先生が回って来て覗き込む。
 
「これ何か入力ミスってない?」
と言って千里が入力したシートを再表示させて見ている。
 
「うーん・・・特に間違ってないようだけどなあ。というか、君の選択肢をざっと見た感じ、そんなに変な傾向無いのに、なぜこんな警告が出るんだろう?」
などと言って、T先生自身が悩み始めた。
 
そして1分くらい悩んだ末に、先生はある入力値に気付く。
 
「君、性別を入力し間違ってるじゃん。男を選択してるもん。それじゃ異常値になる訳だよ」
 
と言って先生は千里の入力シートの性別の所を女性に修正してしまう。
 
そして結果表示をさせると、警告は1つも出なかった!
 
「男性と女性では心理的な傾向は全く違うから、性別を間違ったら異常値と判断されるよ」
とT先生は笑って言って教壇の方に戻る。
 
渡辺君が
「つまり村山って、男としては心理傾向が異常だけど、女だったら心理的にとってもノーマルなんだ!」
と半ば感心したように言う。
 
反対側の隣の席に居た佐藤君は「へー」という感じで見ているし、少し離れた席に居た紙屋君が忍び笑いをしていた。
 
そして後ろの席に座っていた友紀は
「そりゃ当然のことだよ。千里は女の子なんだから」
と渡辺君たちに言っていたし、前の席に座っていた朱音も
「まあ千里を少しでも知っている人なら千里の性格がいたって普通の女の子の性格であることを当然知ってるよね」
などと言っていた。
 
「ってか、先生は村山を女子学生だと思ったみたい」
と佐藤君が言うと
 
「実際そうだし」
と朱音・友紀も、そして渡辺君まで言った。
 

千里は前期では体育はソフトボールを選択したのだが、後期ではサッカーを選択した。
 
最初の時間、授業に出ていくと、
「このクラス、男女半々くらいですね。でしたら男子対女子で試合をしましょう」
と先生が言った。
 
「一応男か女かは見た目で分かるとは思うけど、中には紛らわしい人もいるかも知れないから、ビブスをしてもらいます。男子は黄色のビブス、女子は赤のビブスを付けてください」
 
というので、みんなビブスが大量に入っている箱の中から1枚ずつ取る。千里は男子だしと思い黄色のビブスを取って着用した。
 
それで男子の代表に渡辺君、女子の代表に香奈が指名されてジャンケンをし香奈が勝ったので女子がキックオフすることになる。それで試合開始。。。。
 
と思ったら先生が笛を吹く。
 
「そこの黄色の14番付けてるベリーショートの女の子」
 
千里は先生がこちらを見ているような気がしたので左右を見回す。14番って誰だ?と思ったら自分だ!
 
「はい?」
 
「君なんで男子のエンドに入ってるの?キックオフ前には、ちゃんと自分のエンドに居ないと反則だからね。だいたいビブスの色を間違っているし」
 
「えっと・・・」
 
「千里、ちゃんと赤のビブスを付けなよ」
と香奈が言うので、千里はまいっか、ということで
 
「済みませーん。間違いました」
と言って、ビブスを交換してくる。そして女子のエンドに入って、香奈がキックオフし、試合は始まった。
 
ということで、この後期のサッカーの授業では千里は女子チームに参加することになったのであった。
 

 
10月10日(土)。千葉県クラブバスケットボール選手権の準決勝と決勝が行われる。
 
千里たちの準決勝の相手はフドウ・レディースという20代後半のOL主体のチームで昨年の選手権で2位、今年春のクラブ大会では優勝している。フドウは成田不動から来ているようだ。練習を見た感じでは、どうも実業団OGが複数入っている感じであった。
 
こちらの練習を見て一番強そうな人が千里のマークに付いたが、千里は強い人にマークされるのは、もう慣れっこである。どんなに強い人でも常時こちらだけを見ている訳ではなく、ゲーム全体の流れや敵味方の動きを確認するために一瞬集中が切れる瞬間がある。
 
その瞬間千里は相手の前から姿を消す。
 
するとそこに麻依子からパスが飛んでくるので、即スリーを撃つ。
 
パスを受け取ってから撃つまでの時間の短縮。それが千里が中学生の頃から現在に至るまでの7年間に遂げた最も大きな進化であった。
 
一方麻依子自身も本気モードになっているので、相手のディフェンスのわずかなほころびを見つけてはそこから制限区域に進入し、どんどんシュートを撃つ。麻依子が撃った瞬間、夢香は中に飛び込んでリバウンドを狙う。
 
結局千里と麻依子の超本気モードが炸裂して、試合は90対60の大差でローキューツが勝利した。
 

午後からの決勝戦の相手は昨年の覇者・サザン・ウェイブスを激戦の末1点差で破って勝ち上がってきた、フェアリードラコンというチームであった。
 
(そういう訳で昨年の1・2位はいづれも今年は関東選手権への進出を逃した)
 
「フェアリードラゴン」と思わず《空目》してしまいそうだが、元々ゴルフをやっていた人たちで、余技で始めたバスケットの方にハマってしまい、今ではもうゴルフなど全然練習せずにバスケットに打ち込んでいるらしい。
 
キャプテンの人が高校のバスケ部の万年補欠だったという以外は、高校までは体育でしかバスケをやったことがなかったという人たちばかりらしかったが、無茶苦茶強いチームであった。恐らくメンバーの元々の身体能力が凄いのと、指導者も優秀なのだろう。
 
よく動き回るし、積極的にプレスをしてくる。第1ピリオドはこちらが気合い負けしてしまった感じで 24対16とリードを許す。
 
しかしインターバルでキャプテンの浩子が「自分たちのバスケをしよう」とメンバーに呼び掛け、浩子自身も、夢香も夏美も冷静さを取り戻した。
 
声を掛け合って相手がスティールを狙って近づいて来たような場合に注意を促す。攻撃の時はあまり戦略は考えずに、確実にパスが通る子にパスを繋ぐというのを心がける。無理せず着実にゴールできる所から撃つ。
 
それで第2ピリオドの終わりまでに42対48と逆転に成功する。
 
そして後半になると、プレスのやりすぎか疲れが目立ってきた相手チームに対して、麻依子と千里はスタミナ充分だし、浩子も最近毎朝5km走るトレーニングをこなしているおかげで体力が持つ。動きの鈍くなってきた夢香・夏美を下げて元気の残る菜香子・沙也加を入れて頑張ってもらったのもあり、最終的には67対98と結構な差を付けて勝利した。
 
こうしてローキューツはこの千葉クラブ選手権を制して、2月に山梨で開かれる関東クラブ選手権への進出が決まった。
 

「関東選手権は初めてだよ」
「たぶんこないだの関東選抜とはレベルが違う」
「気合い入れて練習頑張ろう」
「でもあまりきついのは嫌」
 
「なんかその練習嫌というセリフをいちばん多く言っているのは千里のような気がする」
と夏美。
 
「ああ、千里は高校の頃も、練習嫌いで知られていたんだよ」
と麻依子が言う。
「えへへ」
 
「でも練習嫌という割りには、かなりハードな自主トレをしているっぽい」
「千里のスタミナって凄いよね」
「40分間の最後の最後でも全力疾走できるんだもん」
 
「まあ私のはバスケの練習じゃないからなあ」
「どんな練習してるんだっけ?」
「雪山を丸一日歩き続けたり」
「今の時期に雪山ってヒマラヤにでも行ってトレーニングしてる?」
 
「ヒマラヤか。。。先週ちょっとマナスルに行ってきた、なんて言っても信じないよね」
と千里。
 
「いや信じれる気がする。千里が実は男だとか言われるより信じたい」
と夢香が言うと、麻依子が苦しそうにしていた。
 
「あ、そうそう。この大会で2位以上になったから12月6日・12日の選抜には出場しないから、予定表に入れていた人は解除しといて」
 
「了解〜」
 

千里がファミレスの夜勤に入るのは、原則として火木土の夜である。月水金はローキューツの練習があるし、日曜日は神社で奉仕しているのでそれを外している。但し火木土でも、実際には麻依子と2人で夕方1〜2時間汗を流している。
 
9月中は玲央美も一緒だったのだが、玲央美は勤めていた会社を辞めて、10月から東京の実業団チームで関東2部に属するJJ信金という所に入団した。I種登録なので、システム上はプロ選手ということになる。
 
「プロとはいっても給料安いからなあ」
と玲央美は苦笑しながら言った。
 
「いくらで契約したの?」
「とりあえず来年の3月まで30万」
 
「月30万だとけっこう生活厳しいね。バスケって結構お金掛かるし」
「あ。違うよ。月30万じゃない」
「ん?」
「3月までの6ヶ月で30万」
 
「うっそー!?」
「じゃ月5万?」
「一応それ以外に出場した試合1つにつき5000円もらえる」
 
「それにしても。どうやって暮らすの?」
「お母ちゃんに泣きついた」
「お母さんも大変ね」
「あとアパート解約して、先輩の家に居候中」
「家賃払えないよね!」
 
「まあ活躍したら給料も上がるだろうし」
 

10月15日。千里が寝ようとしていたら《いんちゃん》が言った。
 
『千里、明日強制排卵起こすから』
『え?ほんと?』
『こないだ生理が10月5日にあったでしょ?』
『うん』
と千里は手帳の赤い丸を確認して答える。
『このままだと次の生理は秋季選手権のさなか11月2日に来る』
『ちょっと辛いね』
『だから2日早く排卵を起こすから、生理は選手権の前日10月31日になる』
『前日ならいいよ。1回戦・2回戦は万全の体調でなくても何とかなるから』
『11月1日はタンポン使った方がいいよ』
『高校時代、生理の直後なのにナプキン付けたまま試合に出たら外れちゃって大変だった。羽根付き使ったのに』
『バスケットは動きが激しいから』
『でも私タンポン使えるかなあ』
『タンポンよりずっと大きなもの入れてるんだから大丈夫でしょ』
『確かに!』
 
『但しタンポンって入れる時は小さいけど出す時は大きくなってるから注意して』
『それっておちんちんと逆だね』
 
《いんちゃん》が思わず吹き出した。
 

『でもさ、強制排卵って以前にもしてくれたよね』
『うん』
『それをやる度に私の生理周期ってずれていくんでしょ?』
『そういうこと』
『そのずれた結果の女子大生の身体を私は高校時代使ってて、その生理周期で生理が来ていたんだよね』
『そうだよ』
『すっごい予定調和!』
『その生理の予定表部分は実は大神様がご自身で千里のプログラムにお書き加えになったんだよ。美鳳さんや安寿さんにもそこまでは分からないから』
 
『私ってプログラムで動いてるのね?』
『うん』
『何だかアンドロイドみたい』
『まあ神様製のアンドロイドだよ』
『むむむ』
 
『だけど排卵って、私、まさか卵巣あるの?』
『まさか』
『うーん・・・』
 
どうもこの件に関しては《いんちゃん》は口を割らないようである。
 

10月中旬の土曜日の夜、朱音・真帆・友紀・美緒の4人が千里の勤めるファミレスにやってきた。
 
「いらっしゃいませ。4名様ですか?」
と千里はにこやかに応対する。
 
「うん。桃香は電話しても出なかった」
「たぶん寝てる」
「あの子、寝過ぎ。前期はそれで単位落としてるし」
「いや、もしかしたら幽霊に取り憑かれて今は半分片足棺桶の中に」
 
「禁煙席でよろしいでしょうか?」
「私、タバコ吸いたい」
「未成年の方ですから、禁煙席でよろしいですよね?」
「千里、そんなこと言ってたらお客様に嫌われるよ」
 
などと言われながらも、お冷やを持って4人を禁煙席の窓際6人掛けテーブルに案内する。
 
「ご注文が決まりましたらお呼び下さい
と言っていったん下がる。
 

近くのテーブルの客から
「ウェイトレスさん、お冷やちょうだい」
という声が掛かるので、
「かしこまりました。ただいまお持ちします」
と答える。
 
お冷やを置いている所に行きかけた所で
「お姉ちゃん、追加オーダー」
と言われて、注文をお伺いし、POTに入力する。こちらもお冷やが少なくなっていたので
「お冷やもお持ちしますね」
と言ってテーブルから離れる。
 
更にその先のテーブルで、テーブルの端に食器が寄せてあるのを見て
「失礼致します。お下げします」
と言ってその皿をトレイに乗せて持ち、やっと厨房に下がる。お冷やを持ってさきほどのテーブル2つに置いて来る。使用済みのコップを下げる。そこで朱音たちのテーブルの呼び鈴が鳴るので行って注文を取る。
 

「何が美味しい?」
「グランドハンバーグの和風ソースのセットなどお勧めです。一瞬ふつうのビーフステーキかと思う食感なんですよね。大根おろしが掛かっていてヘルシーですし、お値段も手頃ですし」
 
「あ、じゃそれにしようかな」と美緒。
「サイズは120g,180g,240gとございますが」
「240gで」
「かしこまりました」
 
「パスタでお勧めは?」と朱音。
「地中海シーフードスパゲティは優しい食べ心地で美味しいかと。オリーブオイルではなく菜種油を使っていて日本人の胃に合うんです」
 
「それのワインセットできるよね?」
「未成年の方にはローズヒップティーセットをお勧めしております」
「うるさいウエイトレスだ」
「じゃ、それ2つ〜」
と友紀。
 
「私は三種のカレーにしようかな」と真帆。
「ライスになさいますか?店焼きナンになさいますか?」
「あ、この店焼きナンって本当に店内で焼いているんだっけ?」
「はい。店内のタンドールで焼いております。焼いてから原則3時間以内のものをお出ししております。ちなみに今ご提供できるのは30分前に私が焼いたナンです」
「お。千里の手製か。じゃ、それとサラダのセットで」
 
「かしこまりました。ご注文を繰り返します。グランドハンバーグの和風ソースのセットがお1つ、地中海シーフードスパゲティのローズヒップティーセットがお2つ、三種のカレーと店焼きナンのセットがお1つ。以上でよろしいでしょうか?」
 
「おっけー」
 
それで注文確定キーを押す。これで厨房側にデータが送られ、できるだけ仕上がり時間が揃うような手順が指示される。この時間帯はリーダーの牧野さんが主として調理をし、千里と広瀬さんという2人の女子大生がお客様の案内や配膳をしていたが、もっと後の時間帯になると、注文を受けた後、自分で厨房に入って調理したりもする。
 

「でも千里、ふつうにウエイトレスしてるじゃん」
「ウェイターだよぉ。ボク、男子の制服着てるもん」
「女子の制服って違うんだっけ?」
「ほら、あそこで今配膳している人が女子制服着てる」
 
と言って反対側の端の方で作業している広瀬さんを指し示す。
 
「へー。あれが女子制服?」
「可愛い!」
「ちょっとここで働きたくなるね」
「ちょっとメイドっぽいよね。アンミラほどではないけど」
 
「この店、入って来たら『お帰りなさいませ、お嬢様』とか言う店とは違うよね」
 
「それは少し趣旨の違う店ではないかと。じゃ、また後で。特に事情もなく3分以上、お客様と会話してはいけないことになってるから」
 
「うん、また後で」
 

ということで千里が朱音たちのテーブルを離れると、隣のテーブルで
 
「お姉ちゃん、コーヒーのお代わり」
と声が掛かる。
 
「はい」
と返事をしてテーブルの伝票を確認する。
 
「キリマンジャロの普通サイズをもう1杯でよろしいですか?」
「うん。この味気に入った。あ、お砂糖とミルク2つずつちょうだいよ」
「かしこまりました」
 
それでPOTに入力して下がる。
 
それを見て真帆が朱音たちに言う。
「千里、本人としてはウェイターを主張していたけど、お客さんみんな千里に『お姉ちゃん』とか『ウェイトレスさん』って呼び掛けてるね」
 
「まあ千里を見て『ボーイさん』とか『お兄ちゃん』とは言わないだろうね」
と美緒も言った。
 
「まあ千里の実態はそんなものだよね」
 

朱音たちは適宜追加オーーダーしながら、のんびりとおしゃべりに興じている。
 
12時前後になると急に客が増える。恐らくは12時で閉まる店が多いのでそこに居た客が流れてくるのではないかと千里は想像した。結果的に12時から1時くらいまでがいちばん忙しい。千里は広瀬さん、牧野さんと3人で、オーダー、調理、配膳、食器の片付けとフル回転で作業をしていた。ちょっと一息ついた1時半頃、作業の隙間で千里はトイレに行った。
 
個室で用を済ませ、流して出たところで、ドアを開けて中に入って来た友紀と遭遇する。
 
「お疲れ〜。さっき議論してた問題は5で正解だよ。ああいう高次元の中で図形を変形させるのって、ほんとに集中しないと分からないけどね」
「やはり5でできるのか。再度考えてみよう。って、千里女子トイレを使ってるんだね」
「うん。最初の頃男子トイレを使ってたら、男性のお客様が驚くから女子トイレ使ってくれと言われた」
 
「なるほどねー。千里、大学でも男子学生を驚かせているような気がするよ。いつも女子トイレを使えばいいのに」
 
千里は友紀とは大学の女子トイレでこれまで数回遭遇している。
 
「でも大学じゃ、みんなボクの性別を知っているし」
 
「そうだね。大学じゃ、みんな千里が女の子だってことを知っているよね」
「うーん・・・」
 
「千里、実際問題として、もう、おちんちん無いんでしょ?」
「まだあるよぉ」
「『まだある』ということは、やはり『その内取る』つもりなんだ?」
「うむむ」
 

友紀たちは2時半頃に帰って行った。
 
お客様が途切れる。牧野さんは3時になると仮眠室に入って休む(牧野さんは仮眠を経て朝10時までのシフト)。千里は厨房の奥に置かれたテーブルと椅子の所で広瀬さんとおしゃべりしながら待機していたが、なかなかお客さんが来ないので、広瀬さんが「ちょっと寝てるね」と言って女子更衣室に行く。千里は椅子に座ったまま
 
『せいちゃん、お客様が来たら起こしてね』
と言って神経を眠らせた。
 
4時20分。
 
『千里、お客様だぞ』
と《せいちゃん》が言うので千里は自分を覚醒させ、念のため顔を洗ってから入口の所に行く。新しいお冷やを4つ作りトレイに乗せる。
 
男性1人・女性2人の客が入ってくる。
 
「いらっしゃいませ。3名様ですか?」
「あ、あと1人遅れてくる」
「かしこまりました。禁煙席、喫煙席、どちらに致しましょう?」
「喫煙席で」
 
「かしこまりました。ご案内致します」
と言って千里は客を案内して窓際の8人掛けテーブルに案内する。客が座るのを待ち、お冷やを4つ置く。この時、千里は男性の前に1つ、向かい側の女性2人が座った前に2個と、彼女たちの隣に1個置いた。
 
(実は半分《受信モード》になって行動しているので千里は自分でもなぜそういう置き方をしたのか分かっていない)
 
「ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」
 
と言って下がる。ハンバーグのパックを冷凍室から4つ取り出し、湯煎に掛ける。パン種を冷蔵庫から6つ取り出しパン焼き用のオーブンに入れ、タイマーをセットする。スープの鍋を温めていたら女性が1人入って来る。「こっちこっち」と呼ぶ声で、勝手にそちらに行き、先に座っていた女性2人の横に座っておしゃべりを始める。
 
やがてオーダーが入る。
「イタリアンハンバーグセット4つ。ライス1つと石窯パン3つで」
「かしこまりました」
 
ハンバーグと温野菜をオーブンに入れてタイマーをセットし、スープを盛る。焼き上がったパンを2つずつ皿に載せ、ライスも皿に盛り、やがてハンバーグもできたので、ワゴンに料理を載せてお客様の所に持って行く。
 
「お待たせしました。イタリアンハンバーグセットです」
と言って配膳する。ライスは真ん中に座っている女性の前に置き、パンの皿を残り3人の前に置く。厨房に下がると奥のテーブルに座り
 
『お客様が来たり呼ばれそうだったら起こしてね』
と言って眠ってしまう。
 
このようにして千里は、後ろの子たちと元々持っている《受信能力》のお陰で、隙間時間に熟睡しながら、きちんと夜間勤務をこなしていたのであった。
 

朝から出て来たクルーと交代して6時で上がる。一緒にあがる広瀬さんと一緒に女子更衣室に入り、おしゃべりしながら着替える。
 
「あ、そういえば村山さんが着替える時には誘ってあげてと牧野さんから言われてたから、いつも声掛けて一緒に着替えているけど、なんでだろ?」
 
広瀬さんも夜間専門でシフトに入っているので、一緒になる確率が結構高い。
 
「うん。私男の子だから、勝手に女子更衣室に入る訳にはいかないから」
「意味が分からん。そういえば村山さんのロッカーって男子更衣室に置いてあるんだよね?スペースが足りなかったからかな?」
 
「いや、だから私男だから」
 
すると広瀬さんは千里の下着姿をじっと見る。
 
「どう見ても女にしか見えないんだけど。胸はこれBカップくらいだよね。おちんちん付いてるようにも見えないし」
 
「さすがにおちんちんは無いかな」
「男の子になりたい女の子?」
「それとは違うと思うなあ。高校時代は、女の子になりたい女の子では?とか友だちに言われてた」
 
「なんか良く分からん」
「うん。実は自分でもよく分からない」
 

日曜日は朝10時から夕方6時まで神社に詰めるので、ファミレスが終わってから少し時間がある。それで千里はスクーターでいったんアパートに戻り、2時間ほど仮眠してから、また神社にスクーターで向かうということをしていた。その日スクーターでアパートに戻ろうとしていたら、知らない道に迷い込む。
 
「あれ?なんで私、こんな所に入り込んだんだろ?」
 
『千里に助けを求めている女の子がいたからだよ』
と滅多に発言しない《げんちゃん》が言った。千里はさっと緊張し、霊鎧をまとった。
 
『感じるだろ?』
『うん。これは鈍感な私にも分かる』
『いや千里は充分敏感なんだけど』
『そう?私、幽霊とかも見たことないしさぁ』
『千里って危ない場所を自動的に避けて通ってるんだもん』
 
スクーターの速度を弱めて近づいて行く。
 
『あれ?知っている子の波動だ・・・って、これ桃香の波動だ』
『お友だちなんでしょ?』
 
千里はスクーターを停めて降りた。千里が見上げたアパートはまるで黒い渦巻きのようなものに包まれていた。
 
『何これ?』
『妖怪の集団かな』
『俗に言う化け物屋敷ってやつ』
『自殺者が出たからこうなったの?』
『逆だよ。こうなってるから前の住人は自殺したのさ』
『桃香よくこんな所に住んでる』
『千里、その子に春に御守りあげたろ?だから持ちこたえているんだよ』
『こないだ車に乗せた時に高速走りながら一度全部剥がしたしね』
 
『処理してもいいよね?』
と後ろの子たちのリーダーの《とうちゃん》が言った。
 
千里は静かに頷いた。
 
『行くぞ』と《とうちゃん》が声を掛けると、《いんちゃん》が千里の守りに付いた他は残り11人でその渦巻きに向かっていった。
 
千里はこの手のものが「見えない」ので、何か激しい戦いが起きている風であることだけを感じた。
 
『終わったよ』
と《とうちゃん》が言う。
 
『みんな無事?』
と千里はみんなを案じて言う。
 
『平気平気。こちらは全員無傷』
と《こうちゃん》。
 
『でも久しぶりに本気出したな』
『やはりたまにはこういう実戦もやらないと』
 
『このままにしてたら、千里のお友だちも多分春までには自殺してたよ』
『もう大丈夫なの?』
『取り敢えず住んでも問題無い』
『霊道も移動させたし』
『まあ、あと5年くらいはもつかな』
『その頃にはさすがに引っ越しているのでは』
『そうかもね』
『あと本人に憑いてるものは、次に学校ででもその子に遭遇した時に剥がす』
『うん、よろしく』
 
前期は遅刻欠席が多く、単位を3つも落とした桃香は後期は、これ以降きちんと出てくるようになり(遅刻は相変わらずしていたが)、ぎりぎりで留年を免れることになる。なお、桃香が遅刻しなくなるのはこの1年3ヶ月後、千里と同棲するようになってからである。
 
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【女子大生たちの路線変更】(2)