【女子社員ロッカー物語】(上)
(C)Eriko Kawaguchi 2013-07-27 based on the story 2001-11-05
俺は大学4年間、ひたすらロックをやってた。大学に入って福岡の町に出てきてすぐ、友達に誘われてロックバンドを組んだ。最初ガソリンスタンドでバイトしてお金を貯めてギブソンのフライングVの形の格好良いギター買って、コードもよく分からないまま掻き鳴らして、俺たちはとにかくロックした。
俺は基本的にはリズムギターでボーカルだった。俺の声はハイトーンなので、俺たちの作った自主制作のCD聴いて、何とかレコードの人がてっきり女の子ボーカルのバンドかと思って見に来たものの、野郎4人で演奏してたんで、何だかガッカリした顔して帰っちまって2度と来なかったな。
それで色々なバイトしてはロックして、ロックして、何か勉強したっけ?と思いつつも俺たちは卒業とともにバンドを解散することにした。卒業式の日にライブハウスで演奏した後、西新の居酒屋で解散会を開いた。
「4年間楽しかったな」
「また時々、同窓会みたいにして演奏できるといいな」
なんて、俺たちはビール飲みながら語り合った。
「ところでお前達どこに就職するの?」
「俺は筑紫電力」
「すげー! そんな所によく通ったな」
「俺はフォニーだよ」
「お前もよくそんな所入れたな。俺は名も無い小さなソフトハウスだよ。会社も雑餉隈の駅から歩いて15分は掛かる辺鄙な場所。社員20人くらいかな。俺も大きな所たくさん受けたんだけどなあ。元々3浪して大学に入ってるから、大手はほとんど門前払いでさあ」
「ああ」
「井河はどこ行くの?」
と俺は訊かれたが、俺はむしろみんなの就職先が決まっていることに驚いていた。
「俺、まだ何も決めてない」
「へ? まだ決まってないのか? 大変だな。何社くらい受けたの?」
「いや、みんながもう就職先を決めてるのに驚いてた。就職先探しって大学卒業してから始めるもんじゃなかったの?」
「はぁ〜〜〜!?」
他の3人から呆れられた。
「お前、何馬鹿なこと言ってんの?」
「就職探しは早い奴は大学2年の内から始めるぞ」
「そうなの?」
「遅い奴でも大学4年の春にはあちこち会社訪問に行く」
「知らなかった」
「じゃ、お前これまで何も就活してなかったの?」
「うん」
「有り得ねぇ〜〜〜〜!」
「俺・・・どうしよう。大学の学生課とかで訊けばいいのかな」
「もう大学は卒業しちゃったしな」
「取り敢えず、職安に行ってみろよ」
「あ、職安か」
それで俺は翌日、職安に行ってみた。俺はロッカーだから髪も長くしてた。
この髪のまま行くのはまずいかな?とは思ったものの、まあ取り敢えず行ってみるか。注意されたら切ればいいしと思って出かけて行く。
窓口で相談したら、これまで全然就活をしていなかったというので呆れられた。
「まあ、お嫁さんに行くつもりとかなら就活の必要もないけどね」
「いや、さすがにそれは無理です」
ほんとはここで何か変だと気付くべきだったんだろう。
「君、資格とかは何か持ってる?」
「えっと・・・高校の時に英検の2級取ってます。あと簿記3級と秘書検定の3級も受けさせられたので持ってます。あとは普通自動車免許と、危険物取扱者丙種くらいかな」
「学部は工学部か。コンピュータのプログラムとかは組める?」
「大学でCを習ったけど、自分が組んだプログラム、どうやっても動かなかったです」
「うーん。。。何か営業職でもする?」
「営業って何ですか?」
ここでまた呆れられる。
「物を売り込む商売だよ。物を売るって大変だし、無茶なこと言う客がいてストレスも多いから、長続きする人がいない。だから募集もいつもあるんだよ」
「はあ。じゃ、とりあえずやってみようかな」
それで窓口の人が求人票の出ていた会社のひとつに連絡した。
「ちょうど採用予定だった人が辞めて、緊急に欲しいらしい。ちょっと行ってみる? 今から面接OKと言ってる」
俺はその場でその会社の人と電話で話した。
「はい、ぜひお願いします。あ、でも私、今日面接まで行くとか思ってなかったのでジーパンで出てきてしまって。あと髪も切ってないし」
と言ったのだが、先方は
「ああ、それは仕事に就く時にちゃんとした格好で出てくればいいし、髪もそれまでに切ればいいよ」
などというので、俺はそのままその会社に行ってみることにした。
会社は天神のオフィスビルの3階にあった。昔習ったビジネスマナーとかを思い出しながら、その会社を訪問し、職安から紹介されたことを告げる。
50代の課長の肩書きを持つ三田という男性と、40代の麻取(まとり)さんという女性の係長さんが面接をしてくれた。俺は最初に長髪でジーンズのまま来たことを詫びた上であれこれやりとりをした。面接なんてのは高校入試の時に受けた以来だったので緊張したが、何とか無難に乗り切ったような気がした。
その後でペーパーテストを受けさせられたが、常識問題だったので、だいたい回答できたかなという感じだった。合否の結果は郵便で知らせるということだったので、その日は「ありがとうございました。よろしくお願いします」
と言って、その会社を辞した。
結果は翌朝届いた。「採用」とのことだったので、ホッと胸を撫で降ろす。
「うちは給料安いよ。残業もあるよ」とは課長さん言っていたが、バイトはもう卒業するからというので先週辞めてしまっているし、とにかく何か仕事をしなければならない。明日から出社するようにということだったので、取り敢えず俺はスーツを買いに行くことにした。
そんなに金が無いし、安売りの紳士服店で1万円のスーツを買った。それから500円のワイシャツ4枚に100円のネクタイ3本。それから3足で100円の黒い靴下を2セット。1000円のベルト。そして3000円の革靴。
かなり安く抑えたつもりではあったが、それでもけっこう金を使ったなあ。
給料出るまでメシ代持つかなあ、などと思いながらもとりあえず荷物を持って自宅アパートに戻り、ワイシャツを着て、スーツも着てみる。ネクタイを締めてみる。
何だか違和感がある!
こんな服、着たこと無かったし。あ、そうだ髪も切らなくちゃ。
散髪なんて、実はもう3年くらい行ったこと無かった。伸びるままにしていたので、胸くらいまでの長さがある。さすがにこれじゃやばいよなと思い、近所にあった、1000円のヘアカット店に行った。30歳くらいの女性が担当してくれた。
「どのくらい切りますか?」
「思い切ってバサッと切ってください。就職しないといけないので」
「はい分かりました」
俺はさすがにそれだけ切るのはちょっとだけ悲しい気分だった。それでもう目を瞑って、その女性に任せておいた。
やがて作業が終わる。
「このくらいで良かったでしょうか?」
ああ、すっかり短くなってしまった。肩に掛からないくらいの長さまで切られている。あれ・・・でもこれでもちょっと長めじゃないかなあ、とは思ったものの、まあいっかと思う。注意されたら、もう一度切ればいい。
それで俺は通勤用のバッグとかも買って自宅に戻った。
翌日。朝早くからきちんと髪をブラシで整え、ワイシャツを着てネクタイを締めスーツを着て、採用通知と筆記具を入れた鞄を持ち、革靴を履いて、俺は家を出た。地下鉄が物凄く混んでる。これまでは適当な時間に大学に出て行っていたから、こういうラッシュはあまり経験していなかった。でもこれからは毎日これを体験することになる。頑張らなくちゃ。
それで会社まで行ったのだが・・・・
「あなた、なぁに?その格好」
と一昨日面接してくれた麻取さんに言われる。
俺はやはり1万円スーツはまずかったかな、と思った。そういえば就活のハウツー本とかで、会社訪問する時のスーツは最低でも3〜4万のものを、とか書いてあったような気がした。
「すみません。まずかったでしょうか」
「いや、冗談のきつい子だなあと思って。まあいいわ。社内では制服着てもらうから大きな問題はない。でも明日はもっと普通の格好してきてね」
「はい、済みません」
俺はやはり1万円スーツはまずかったんだろうなと思い、ちょっと昼休みにでも田舎の母ちゃんに電話してちょっとお金を借りてもう少しまともなの買いに行かないといけないかなと思った。
「こちら更衣室ね」
と言って狭い部屋に案内される。
「あなたのロッカー用意しておいたから」
と言われた。ちゃんと「井河」という名札が貼ってある。わあ、俺はちゃんとこの会社に受け入れられたんだなという思いが込み上げてくる。頑張らなくちゃと改めて思った。
「あなたわりと身体が大きめだからLでいいかなあと思って用意しておいたんだけど、合わなかったら言って。あんまり可愛くない制服でごめんね。
スカートにしましょうよという意見もあったんだけど、うちの仕事の性質上ズボンでないと作業できないから」
「はは、スカートはさすがに穿いたことないです」
「ああ。あなたも? そうなのよ。最近ズボン派の子が多いよね」
ズボン派が多いって、スカート穿く男がそんなにいるとは思えんけどと思う。
取り敢えず俺は渡された制服を身につけた。
制服のズボンは問題無く穿けた。Lと言われたわりにはウェストがたぶん73くらいしか無い。が、俺は元々ウェストがけっこう細いので何とかなった感じだ。しかし・・・上着を着るのに戸惑う。なんで、このボタン変な付き方してるの? ボタンが左側にあり、ボタン穴が右側にあるので、すごく留めづらい。
ここの仕事の都合で、こういう留め方なんだろうか?などと思いながら俺はその服を身につけた。
とりあえずそれを着て出て行くと、最初に麻取さんから色々書類を渡される。
給与振込の口座の登録書類とか、誓約書とか。あれこれ記入し、署名捺印などもしてから、仕事の説明がある。
基本的にはいわゆるルート営業とメンテナンスサービスである。決められた会社を定期的に訪問して納入している機械の点検などをするとともに必要なものが無いかどうか、その会社の人に声を掛け注文を取る。機械のことが分かっていなければならないので来週一週間、研修に出てもらうと言われた。
今日は社内での補助的な仕事をしながらシステムのマニュアルを読んでもらうということで、ここで25-26歳くらいの感じの山崎さんという人に代わり、電話の取り方、伝言などの仕方、来客の応対の仕方などを教わる。
「それからお茶出しもやってもらうから、その準備に明日からは8:30までに来てもらえる?」
「はい、分かりました」
やはり、最近は女だけがお茶を汲むというのではないんだろうな。若手社員が男女関係無く担当するのが男女共同参画社会なんだろうななどと思った。
来客を応接室に案内した場合の、席の勧め方や、お茶の出し方などについても教えられた。
そういうことで、俺の社会人としての生活はスタートした。
初日は取り敢えず大量のマニュアルを読みながら、電話のベルを聞いたら、飛びつくようにして電話を取り、応対した。周囲の先輩たちから「うん、ちゃんと応対できてる、優秀優秀」
と言われた。
来客も3回あったのを無難に取り次ぎ、お茶出しも何とかできた。その日は新人がまっさきに帰ってはいけないだろうと思い、7時くらいまで自主的に残ってマニュアルをきりのいい所まで読んでから、更衣室で着て来たスーツに着替え、帰宅した。
初出社日は木曜だった。翌日の金曜日、朝8:30までに来いとは言われたが、それは8:30からお茶の準備を始めるということだろうからというので8:15に来たら一番乗りだった。警備室で鍵をもらい開けて中に入る。更衣室で着替えて他の人が来るのを待つ。その日もひたすらマニュアルを読みながら、山崎さんの手が空いた時に、この会社で扱っている機器について少し教えてもらった。その日は少し遅い時間まで自主的に残ってマニュアルを読み、やはり7時くらいに帰った。
翌週は朝から博多駅近くにあるメーカーの支店に出かけて9時から5時まで研修を受けた。ほこりだらけになっても構わない服装でと言われたので、ポロシャツとジーンズで出席した。直出・直帰だったので、その週は毎日夕方電話連絡を入れただけで、会社には行かなかった。
そして翌週また会社に出て、研修内容に関するレポートを提出することになる。
俺は、山崎さんの下に配属すると言われていた。女性の先輩の下というのは何だかやりにくい気もするが、山崎さん、けっこう面倒見が良さそうな雰囲気だから、まあ何とかなるだろう。
スーツは母に頼み込んでお金を借り、大丸で3万円のスーツを作った。初給料出たら返すからと言っておいた。
さて研修明けの月曜日も朝8:15分くらいに出社して、まだ誰もいなかったので警備室で鍵を受け取って中に入り、更衣室で制服に着替え、やがてやってきた数名の女性と一緒にお茶を入れて、みんなの机に配った。
朝礼の後、山崎さんにレポートを提出し、いくつか質問を受けてそれに答える。
「じゃ、研修の結果確認で、ちょっと実際の機械でやってもらおう」
と言われ、機械室にあった3種類の機械でメンテ作業を手順通りおこなう。
「うん、合格、合格。ちゃんと勉強してきたね」
最初はひとりでは不安な面もあるだろうからということで、午後から山崎さんと一緒にいくつかの会社を訪問することになった。
午前中あらためてマニュアルやメーカー研修でもらった資料などを読みながら、電話応対や来客応対・お茶出しなどをする。それで11時頃、ちょっと作業の切れ目でトイレに行っておこうと思い、オフィスを出たら、ちょうど山崎さんと一緒になった。
「トイレ?」
「はい」
「じゃ一緒に行こう」
と言って、一緒にトイレの方へ廊下を歩いて行く。
「どう、何とかなりそう?」
「はい。頑張ります。一応機械工学科の出だし」
「あ、そんなこと言ってたね。頑張ってね」
などと言いながら、トイレの前まで来た。
「では」
と言って、男子トイレの方へ行こうとしたら、山崎さんに腕をつかまれる。
「待て。どこに行く?」
「え? ですからトイレに・・・」
「そっちは男子トイレだよ。あんた目が悪いの?」
「でも私、男子だから」
「なにーーーー!?」
「私・・・女に見えます?」
「見える。というか、男ならなぜ女子制服を着てるのよ?」
「これ女子制服なんですか?」
「男子制服に見える?」
「あ・・・・そういえば、これボタンの付き方が変だと思った」
「女物の服は左前だもん」
「えー!?」
「ちょっと来て」
と言って山崎さんは俺の腕を引っ張って課長の所に連れて行った。
「ん?どうした?」と三田課長。
「課長、済みません。井河さんって、男らしいんですけど」
「は? 何の冗談?」
「今、男子トイレに入ろうとしてたから、なぜそちらに入る?と言ったら、男なのでということで」
「へ? 君、男なの?」
「そうですけど」
「待って」
と言って、課長は机の中から、履歴書を引っ張り出した。麻取さんも寄ってきた。
「あ・・・性別が男に○してある。君、性同一性障害?」
「いえ。普通の男です」
「じゃ、なんで女子制服を着てる?」
「女子制服だということに全然気付きませんでした」
「むむ!」
「まあ、比呂志って名前は男でも女でもあるもんね」
と麻取さん。
私たちは会議室に入った。
「職安の人から女子だと聞いたから面接した。悪いけど男子の社員は今年は足りている。内定していた女子が急に2人辞めて人手が足りなくなったので募集してたんだよ」
職安から女子と連絡された?? それって俺って、最初に職安で既に性別を誤解されてたってこと???
「えっと・・・・それでは採用取り消しですか?」
三田課長と麻取さんが顔を見合わせている。
「私、この人明るくていい感じだなと思いました」と麻取さん。
「あっちゃんはどう思ってた?」と山崎さんに尋ねる。
「仕事も積極的で、元気で凄くいい印象の子だと思ってたんですけどねえ。
真面目な感じだし」
と山崎さん。
「君の声、女の子みたいだよね」と三田さん。
「そうですね。わりとハイトーンだから。学生時代バンドやってたんですけど、CD作ったら、それ聴いて女の子ボーカルかと思われて、レコード会社の人が見に来たことありました」
「へー、バンドやってたんだ? パートは?」
と山崎さんに訊かれたので「あ、リズムギターです」
と答える。
「ああ、縁の下の力持ちって感じだ」
「そうですね」
「私は高校時代、軽音部でドラムス打ってたんだよ」と山崎さん。
「おお、女子のドラムスは貴重だ」
何となく話し合いは和やかな雰囲気で進行した。
「ちょっと定数外だけど、私この子欲しいなあ」
と麻取さんが言う。
「私もいい後輩が出来たと思ってました」
と山崎さん。
「それにこの子、この声で電話応対させれば、それだけでも戦力になりますよ」
と麻取さん。
「普通に女性が電話取ったと思います」
「あ、それあります。今、女子の数がそもそも少し少ないし」
と山崎さんも言う。
「よし、分かった。君はこのまま採用」と三田さん。
「ありがとうございます!頑張ります」
と俺は言った。
「電話応対、その声でやって」
「はい。えっとお茶とかは?」
「それも女子の人数少ないから頼む」
「はい。えっと来客応対は?」
三田さんと麻取さんが顔を見合わせている。
「人数的には、井河さんにも入って欲しいよね?」
と麻取さんが山崎さんに訊く。
「ええ、欲しいです。女子の平社員、今4人しかいないけど、私もさっちゃんも外に出ていることが多いから、残るよっちゃんとカナちゃんだけでは手が足りないんです」
「んじゃさ、君、今着ている制服を着て来客応対もしてくれない?」
結局、女子制服のままか! と思ったけど、折角採用してくれそうな会社を捨てられない。
「分かりました、やります」
と俺は答えた。
「スカートじゃないから、まだいいよね?」
「はい、そうですね」
と俺はもう悟ったような気分で返事した。
「井河君の髪なんですけど」
と山崎さんが発言する。
「ああ、女子にしては短いなと思ったけど、男子にしては長いよね」
「でも女子制服着てもらうには、これ以上短くできないね」
「君、髪はあまり長いの嫌い?」
「あ、いえ。大学生時代はバンドしてたこともあって、胸くらいの長さでした」
「ああ、じゃ肩に少し掛かるくらいまで伸ばしてよ。女子社員に見える程度に」
「分かりました」
そういう訳で、俺は毎日一応男子用スーツで会社に出てくるものの、女子制服に着替えて、女子社員みたいな勤務をすることになった。
俺が男だったというのは、オフィス内の全同僚に驚かれた。それで男子社員から勤務時間後に飲みに誘われて、居酒屋とかにも行ったが、一方で数少ない女子社員たちからも、お茶に誘われて甘味処とかにも行った。俺は酒も甘いものも行けるなので、どちらともうまく付き合えた。
「私、両刀遣いで左党も甘党も行けますから」
と言ったら「あ、両刀って、やはり男も女も行けるんだ?」
とカナちゃんが言う。
「ちがいまーす。私、ノーマルですよ」
「ノーマルって、ひろちゃんにとってノーマルというのは、男が好きなの?女が好きなの?」
「女の子が好きですよー」
「ああ、やはり女の子でいるのが好きなんだ」
「違いますぅ!」
なお、男子社員と飲みに行く時はスーツを着たが、女子社員と飲みに行く時は会社の女子制服のままにしていた。
「私服の女の子の服持ってきてもいいよ」
「そんなの持ってません」
それから俺はトイレの件で麻取さんから言われた。
「うちの女子社員の制服着た子が男子トイレにいたら、他の会社から苦情が来るからさ。女子制服を着ている間は、女子トイレを使ってくれない?」
「えっと、私男なのにいいんでしょうか?」
「女子制服を着ている間は、女子に準じるということで」
「あはは、分かりました」
最初の内、山崎さんがいつも一緒に行ってくれた。小便器が無くて、個室だけが並んでいる女子トイレの中を見た時、俺は何かすごく不思議なものを見た気がしたが、開き直ることにした。
取り敢えず個室の中に入って用を達する時は別に誰にも何も見られないから、まあ股間に、ふつうの女子には無いようなものが付いていても、誰かに何か言われるようなこともない。女子トイレって少し不思議な空間だなという気がした。
女子はここで秘密を持てる。これが男子トイレの小便器の並びではお互いのものが見えてしまうし、全てを曝け出すことになるので、自分だけの時間と空間を持つことが出来ない。
なお、更衣室に関しては、このオフィスには「男子更衣室」は存在しないので、俺のロッカーはそのまま女子更衣室に置かれたままになった。一応、俺が中に入る時はノックしてと言われた。それで少し待たされてから入ることもあったが、俺が着替えている最中は、他の女子はおしゃべりをしていた。俺はそのおしゃべりに普通に付き合った。
「ひろちゃん、下着は男物着けてるのね」
「男ですから」
「女物の下着は持ってないの?」
「持ってませーん」
「買いに行く勇気無いなら付き合ってあげようか?」
「別に買いたくないです−」
「ひろちゃん、女の子になりたい子とかじゃないの?」
「それは考えたことないです」
でも俺はけっこう彼女たちに「おもちゃ」にされた。
眉毛はもう少し細いほうが女らしいよとか言われて眉毛をカットされたし、マニキュア塗ってあげるとか言われて塗られちゃったし、髪飾りをもらったり、イヤリングまで付けられたりしたこともあった。
そんな生活が1年ほど続いた時のことだった。
全国の支店の若手販売員のサミットがあるので誰か代表を出してくれと言う話があったらしく、社内のコンピュータが弾き出した候補者の中から課長が俺を選び、ちょっとそのサミットに行って来てくれということになった。
俺は社内勤務ではないので、背広で数日過ごせるだろうから、少し《男を取り戻せる》かなと思い、通勤時に着ている背広の良い方のを身につけ、飛行機と新幹線を乗り継いで、会場となっている福島県の温泉町へ出かけた。
会場に着くと何故か女性がいっぱいである。あれ?女子の参加者が多いのかな、などと考えながら、受付で名刺を出す。すると受付の女の子が俺の姿を見て、怪訝な顔をした。
責任者らしい40代の女性が奥から出てきて俺を別室に連れて行った。そして言ったことばに俺は驚愕する。
「あのさ。このサミットは全国の女子販売員の集まりなんだけど」
「えーー!?」
「なぜ男性の社員が来てる?」
「そんな話は全然聞いていませんでした」
「コンピュータが女子社員だけをピックアップしてその中から選んでもらったはずなのになあ」
それで俺はふと思った。俺って最初女子と間違われて採用されたから、その時社員台帳に女子として登録されてしまったのでは??
自分が女子社員の会合とは知らずに来たことを言うと、その女性は困ったわねぇとしばらく悩んでいたが、やがて俺の顔を見て
「あなた男子社員なのに髪長いね。注意されたりしない?」
「えっと、ちょっと特例で認めてもらってます」
「ふーん。でもその髪で、顔つきも優しい感じだし、女でも通るかもね。ちょっと女装してみようか?」
と言い出す。
「えー!?」
「でも命令で来ているんでしょう。ちゃんと仕事は果たさなきゃ」
「それはそうですけど・・・・」
ということで俺は後はされるがままにしていた。
彼女の部屋に連れて行かれ、全部服を脱がされて、足の毛を全部そられた。
「ちょうど新品の下着を買ってきてて良かった」
などと言って、女の下着を付けさせられる。
胸がないのでブラジャーの中にティッシュを詰め、ガードルを履かされ、ブラウスにスカートを履かされる。
「あなた眉は細いね」
「あ、なんか同僚の女子社員に遊ばれて細くされました」
「そういえば、あなたマニキュアもしてるし」
「昨日女子に塗られてしまって。私、リムーバー持ってないもので。ちょっとまずいかなとは思ったんですが」
「ふーん、そんな感じで女子にいたずらされちゃうような子なんだ」
とその女性(若林麗子さん)は楽しそうな顔をする。
しかし普段女子制服は着ているものの、スカートなんて穿くのは初めてだ。
なんかこれ頼りない感じだなあ。まるで下半身裸でいるみたいだ。
服を着終わるとお化粧だ。うちの会社は現場で機械をメンテナンスする仕事だから、女子社員もお化粧などしている子はいない。お化粧しているのは現場に出ない麻取さんだけである。それでこれも初体験になった。
「化粧品、私ので御免ね」
と言って若林さんは俺に化粧を施していく。
化粧水、乳液と付けられた上で、ファンデーションにアイライナー、アイブロウ、マスカラにアイシャドー、そしてチークを入れられ、最後に口紅を塗られる。
鏡の中の自分の顔が変わっていく様はまるで魔法にでもかかっているかのようだった。そして若林さんは
「あら本当に可愛くなったじゃない」
と言う。俺も正直ちょっと驚いていた。
「井河比呂志のままでも女で通せないことないけど、もっと女らしい名前にしといた方がいいわね」
などと若林さんは言い、俺をすぐできる名刺屋さんに連れて行き「井河比呂志」
改め「井河比呂子」の名刺を作った。それであらためてサミット会場に戻った。
参加者名簿も若林さんが「井河比呂子」に訂正してしまった。
サミットは初日はずっと講演が続く。社長の基調講演の後、技術担当役員(CTO)、販売担当役員(CMO)の講演、どこかの大学教授の講演、シンクタンクの人の講演など続いて、かなり眠気と戦いながら話を聞く。
お昼は会場内でお弁当が配られた。隣の席の女性に話しかけられた。名刺を交換する。女性名義の名刺を出すのはちょっと気恥ずかしかった。彼女は高木慶子さんという人で大阪の枚方から来たらしい。というか俺は「枚方」の読み方を知らなくて尋ねてしまった。
「ひらかた、だよ。確かに関西の人でないと読めない人もいるよね〜」
と言っていた。
しかしここで普段、同僚の女子社員とよくお茶など飲みながら、あるいは女子更衣室で会話しているのが役立つ。さりげない話題で話したが、普段のノリでこちらも話すと、向こうも乗ってきて、結構楽しい会話になった。
やがて1日目の講演が終わり、パーティーとなる。ここでは盛んにあちこち歩き回ってたくさん名刺交換している人たちがいた。俺は高木さんと一緒にひとつのテーブルの所に根を生やしていた。しかし、巡回している人たちと名刺交換することになる。それで「比呂子」名義の名刺を大量に渡すことになった。あはは。後で、この人たちと関わりが出来た時、俺、どうしよう?高木さんの方はあまりたくさん名刺を持ってきていなかったのか「済みません。
名刺を切らしてしまって」と言っていた。
途中で若林さんが来て「明日の朝は7時に私の部屋に来て。お化粧してあげるから」
と小声で言った。
「はい」
「念のため、あなた用の化粧品一式買っておいたから」
と言ってポーチを渡される。
「もし時間があったら、自分で顔に塗る練習してみて」
「はい」
結局ホテルの部屋は高木さんと同室だった。
「仲良くなれたからちょうど良かったね」
と彼女は言ったが、それはこちらも同じ気分だった。
「女の子同士」の気安さで、「けいこちゃん」「ひろこちゃん」で呼び合うことにする。
彼女は関西気質なのか、ほんとに開けっぴろげな性格で、会ったばかりの俺の前でもお風呂から上がったら、裸で部屋の中を歩き回り、ベッドに座って売店で買ってきたというポテチを食べていた。俺は目のやり場に困った。そして、俺が風呂に入った後、服を着て出てくると、
「いまどき珍しい古風な子ね」
となどと言っていた。
「でもさっき若林さんから渡されたの何?」
「あ、化粧ポーチを。私がお化粧もせずに来ていたのを見て、あんた化粧くらいしなさいと言われて、取り敢えずあり合わせの化粧品を塗ってくれたんですが、私専用のを準備してくれたみたい」
「ああ。私たちって普段は、ほこりまみれ、油まみれになるから、みんなスッピンだもんね。私も実は久しぶりに化粧したんだよ」
と高木さん。
「でも私、お化粧なんてしたことなくて」と俺。
「新卒だったっけ?」
「大学出てから1年ですが、大学でもほとんどお化粧ってしたことなかったです」
ビジュアルバンドに勧誘されたことがあって、その時化粧させられたけど、あの時だけだなあと思い起こす。
「ふーん。少し教えてあげようか? できないと彼氏ができた時困るよ」
と言って、高木さんはアイシャドウの入れ方、チークの入れ方、口紅の塗り方などを丁寧に教えてくれた。これって、要するに自分の顔をキャンバスにしたお絵描きだよね? うちの会社には無縁だけど、OLさんとかは毎日お絵描きをやっている訳か、などと考えると、ちょっと面白いような気がした。
翌朝、俺が7時に若林さんの部屋に行くと
「凄い。ちゃんとお化粧できてるじゃん」
と言われる。
「同室の女の子に教えてもらいました」
「へー。上出来上出来。教え方がうまいんだね」
ということで、俺はそのまま2日目に参加した。
サミットの2日目は小グループに分かれての色々な討議になった。昨日は女装してるというのが後ろめたい感じでドキドキしていたが、さすがに2日目になると俺も開き直って、男を忘れてすっかり『女子販売員』として、いろいろな意見を出して議論した。
この小グループでは高木さん・若林さんと一緒だった。
男性販売員の会合にも去年一度参加していたが、女子販売員の会合はあれとは全然雰囲気が違って、討論していても何だか柔らかい雰囲気。厳しい意見など出ても破綻だけはしないような感じにお互いセーブしている様子だった。俺はこんな世界もあったんだと、今まで知らなかった女の子の世界を垣間見た気がした。
2日目が終わってから小グループのリーダー格の人が
「せっかく温泉町に来ていますから今夜は温泉にみんなでつかって、遅くまで討論を続けましょう」
と言った。俺は何も考えずに賛成してしまったが、次の瞬間ギクっとする。
温泉につかってということは・・・裸になるということだろうか?しかもやはり女湯に入るのだろうか。。。
俺が焦った顔をしたのに気づいた若林さんが俺の腕を引っ張って外に連れ出してくれた。
「温泉に行くの、あなたも賛成してたけど、どうすんの?」
「どうしましょう?」
「風邪でも引いたといって欠席する?」
しかしそれもなんだかもったいない気がした。場所の問題はさておき、俺はまだ彼女たちと色々話がしたい気がしていた。
「行きたいけど、無理ですよね」
「そうだなあ。それじゃ女湯に入っても問題のないようにしちゃう?」
と若林さんは言う。
「それって・・・・」
「ちょっと手術しちゃうとか」
俺はギクっとしてつい股間に手が行ってしまった。
「温泉でのミーティングは夜9時から。今は4時。ちょっと電話してみよう」
若林さんはどこかに電話をしていたが、やがて
「私の友人が隣町で美容外科を開業しているのよ。今から行って手術してもらいましょう」
と言い出す。
「ほんとに手術するんですか?」
「大した手術じゃないわよ」
大したことあると思うんですけど!
俺は念のためおそるおそる訊いた。
「どこを手術するんですか?」
「本当は下を取っちゃうといいんだろうけどね。時間がないよね。だから、おっぱいを大きくするだけ」
と言った。
私はアソコ取れと言う話ではなかったので、ちょっとホッとした。
「胸にシリコンバッグ入れるだけだからね。手術は部分麻酔ですぐ終わるし、何なら後で外せば元通りだし」
というので、行くことにした。確かにシリコンバッグは抜けば元の通りの胸に戻せるだろう。
「手術代はサミットの雑費として適当に処理しとくよ」
などと言っていたが、いいのか?そんなの??
若林さんの車でサミット会場の温泉町から20分ほど走る。大きな市があって、その市街地に**美容外科クリニックというのがある。病院は閉まっていたがインターフォンで何か言うと、ドアが開いて中に通される。
若林さんの友人らしい女医さんは採血して血液検査をした上で、俺を上半身裸にすると、あちこち体を触っていたが、やがて
「じゃ今からね」
と言って、問答無用でベッドに固定され、麻酔を打たれる。
「全身麻酔でやってもいいのだけど、急ぐと麗子ちゃんがいうから、部分麻酔でいこうね」と言う。
それはかなり痛い手術だった。麻酔が効いているはずなのに、脇を切開され、胸の皮の下を何か広い刃物で押し広げられている時はもう逃げ出したい感じだった。そしてバッグが挿入され、自分の胸が女の人のように膨らむのを見るとなんだかドキドキしてきた。何かこの胸揉みてーという気分になるが、それ自分の胸なんだけどと思うと、何だか変な気分だ。でもそんなことを考えていたら少し痛みがやわらいだような気がした。
けっこう時間がかかったような気がしたのだが実際には30分くらいで手術は終わったようだった。念のためその後2時間ほど安静にしていて、8時くらいになると先生の診察を受ける。
傷口がきれいに処理されているため出血も止まっており、胸の付近の感覚はまだまひしたままだったが、先生は「大丈夫ね」と言った。念のため傷口の所には透明な防水テープを貼ってもらった。若林さんは私を車にのせて、温泉町に戻った。
「下の方はタオルでうまく隠しておきなさいね。女の子同士でも別に股間まで見せ合ったりはしないからね」
と言う。
俺と若林さんが戻るとロビーに高木さんたちがいた。
「どこ行ってたの?」
「あ、ちょっと買物」
「そろそろ温泉行こうよ」
ということで、8人の集団でホテル付属の温泉に行く。外来でこの温泉に入るには2500円もかかるらしいが、宿泊客なのでフロントで出してもらって無料の入浴券を見せて、中に入る。
中が洞窟みたいなワイルド雰囲気にデザインされていて、手前に《男湯》と書かれた青い暖簾、奥の方に《女湯》と書かれた赤い暖簾がある。俺たちはその青い暖簾の前を通過して、奥の赤い暖簾をくぐる。あはは、いいんだろうか。でも男とカムアウトしたら高木さんから痴漢として訴えられるかも知れんという気がする。
服を脱いで行くができるだけ他の人の肌を見ないように視線を泳がせる。
やがて全部脱いでしまうが、俺はお股の付近はしっかりタオルで隠しておいた。
わいわいがやがやとおしゃべりしながら浴室に入る。各自身体を洗ってから浴槽でまた集まる。俺はアレとかアレは足の間にはさんで隠した。
何だか胸を触られるので、こちらもノリで触り返す。しかしそんなことをしていても、全然いやらしい気分にならないのが不思議だ。学生時代随分男同士の裸の付き合いを銭湯でやっていたが、女同士の裸の付き合いも悪くない感じだ。
そういう訳で、豊胸手術をしたおかげで、俺はこの温泉内ミーティングを和気藹々と楽しむことができた。こんな安易に豊胸なんてしちゃっていいのか?と疑問も感じたが、やっぱこういうのはノリだよな。俺って天性のロッカーだと言われたこともあったし。
3日目のお昼すぎ、サミットも閉会式とパーティーで終了した。俺は若林さんにお礼に行った。借りていた服と化粧ポーチを返し、そして預けていた男物の服を返してもらおうと思ったのだが、若林さんは意外なことを言い出す。
「今回は女子販売員サミットで、あなたも女の子としてここに参加したんだから、そのままの格好で支店に戻って報告するべきじゃないの?」
「え?でも。。。」
「資料は全部『セールスレディサミット』になっているからね。黙っているわけにはいかないでしょう」
そう言われればそんな気もする。結局化粧品や服はそのままあげるし、男物の服は宅配便で送ると言われ、気が付いたら俺はブラウスとスカートの格好のままで帰りの新幹線に乗っていた。
東京駅から山手線とモノレールを乗り継ぎ羽田空港に入る。荷物を預けてから保安検査場に行く。チケットを見せ、荷物を係員に渡して金属探知器を通ったのだが、キンコンと鳴ってしまった。
ポケットなど探ってみるが、特に何もひっかかりそうなものは無い。すると係の女性がハンディの探知機で体をさぐっていたが
「ああ、ブラジャーのワイヤーに反応したようですね」
と言われた。
そういえば話に聞いたことはあったが、実際にそういう体験をすることになるとは思いも寄らなかった。
航空券の名義は「ヒロシ」だが、ヒロシという名前は女の人にもある名前であるせいか、手荷物カウンターでも保安検査場でも何も言われなかったのだが、搭乗の所で、チケットを見たGHさんが
「お客様、これはお客様の航空券ですか?」
と訊いた。
性別がMになっていることに気付かれたようであった。
「あ、すみません。私、ニューハーフなんです」
と言ったら「大変失礼しました」
と言って通してくれた。
あはは。本当に今俺って、ニューハーフじゃん! と思う。体毛は全部剃ってるし、下着から上着から全部女物を着ていて、おまけに、おっぱいも大きい!
このおっぱい、自分で揉んでも興奮するものだろうか? その時、男として女のおっぱいを揉んでいる気分になるのだろうか?それとも女として男におっぱいを揉まれている気分になるのだろうか? アパートに戻ったら少し試してみたい気分だ。
飛行機はやがて離陸する。シートベルトサインが消え、ドリンクサービスが始まる。その時突然トイレに行きたくなった。
そこで席をたって飛行機の後ろにあるトイレに行ったのだが、そこはふさがっていた。少し待っていたら、CAさんが声を掛けてきた。
「お客様。機体の真ん中付近に女性専用のパウダールームがございますので、良かったらそちらをどうぞご利用下さい」
そうか私は今女の子だから女性専用のトイレが使えるのか!と、ちょっと意外な発見をしたような気がした。そこにドギドキしながら入ってみると、とてもきれいなトイレだった。しっかり鍵を掛けてから、用を達すると、ほっとする。しかしこんなきれいなトイレを使える女の人っていいなぁと思ったりした。
ふだんの会社ではもうノリで女子トイレを使っているが、外では使ったことが無かった。サミットの最中は、ホテルの女子トイレに入るのが恥ずかしかったので、実はトイレはいったん自室に戻ってしていたのだった。
福岡空港に降り立つと時刻は4時だった。直帰するには早すぎる時間だ。いったん会社に寄らなければいけないが、まぁいいかと俺は開き直り、地下鉄に乗った。
会社に入って行くと、近くに居たカナちゃんが寄ってきて
「いらっしゃいませ」
と言うが「私だよぉ。ひろだよ」
と言うと「えーーー!?」
と言ってびっくりしている。
そのまま課長の机の所まで言った。
「あ、済みません。どちら様でしたでしょうか?」
「課長、私、井河です」
さすがにこの格好では「僕」とか「俺」とかの自称は使えない。
「へ?」
「課長、ひどいですよ。これ女子販売員サミットだったんですよ。おかげで、こういう格好させられちゃいました」
と言うと、課長は最初はまるで鳩が豆鉄砲をくらったような顔をし、次には真っ赤になり、次いで「馬鹿!」と意味もなく怒ったかと思うと、最後には
「いや、それは済まなかった」
と言って、一応私の苦労をねぎらってくれた。
課長は私を会議室に連れて行く。麻取さんや山崎さんも入って来て私の報告を聞く。
講演で社長やCTO,CMOなどが言っていたこと。それから小グループのミーティングや(それとは言わなかったが)温泉の中での討論した内容には、かなり感心していた。もちろん胸を大きくしてしまったことなどは言わない。
「いや、でもご苦労様」
「だけど、ひろちゃん、その格好似合ってる」と山崎さん。
「明日から、そんな服で通勤してきなよ」
「勘弁してよぉ」
セミナーの内容については明日中にまとめてレポートを出すことにして会議室を出る。自分の机に行って、旅費の精算書を書いて麻取さんに出し、出張していた間にたまっていたメモを処理して、何ヶ所か電話して用事を片づけた。
そして帰ろうとしていると同僚の女の子たちが集まって来た。
「ひろちゃん、ほんとにそれ可愛いよ」とカナちゃん。
「明日からもそれで来るんですか?」と今年入ったナミちゃん。
「それは無いよ」
「惜しいなぁ。ひろちゃんって前から女の子になればいいのに思ってたから」
とよっちゃん。
結局その日は女子社員5人に誘われてその格好のまま、パーラーに行って、フルーツパフェを食べた。彼女たちとはいつもこういうことをしているのだけど、完全に女性の格好でスカートも穿き、お化粧もした状態でこういうのをしたのは初めてだったので、そのせいか、みんなとの会話が普段よりはずむような気がした。
若林さんからの荷物はさすがにまだ届いていなかったので私は翌日別の背広を着て会社に出かけた。
「なんで背広なの〜?」
と更衣室で一緒になった、さっちゃんから言われる。
「えー?だって、これが私の普段のスタイルだし」
などと言いながら、私は背広を脱いでいつもの女子制服に着替える。さっちゃんも
「今日からはもう完全に女子社員になるかと思ったのに」
などと言いながら制服に着替えている。最近、彼女たちはみんな私がいる前でも平気で下着姿になって着替えたりするようになっていた。
その日私は午前中サミットのレポートを書き、午後からは得意先回りをしてきた。
予定の所を全部回るともう7時だ。もう直帰させてもらおうと思い電話しようかと思っていたらちょうど会社から電話が掛かってきた。課長だった。
「実は今こちらに高木慶子さんが来ている。知っているか?」
「あ、はい。先日のサミットで一緒でした」
「彼女の素性は知らないのか?」
「素性?」
と私が怪訝な声を出すと課長は信じがたいことを言う。
「会長の孫娘だぞ。それで枚方にある関西総本部長。気づかなかったのか?」
うっそー。もらった名刺に総本部長なんて肩書きは付いてなかったのに!
「枚方って関西総本部があるんでしたっけ? 枚方支店とかじゃなくて」
「枚方には支店は無い。うちの会社で枚方といえば関西総本部だ」
ぎゃー。勉強不足だったか。私がびっくりしていると課長は続けた。
「慶子さんは《井河比呂子》に会いに来ている。サミットの時に会った印象が今時の女性にしては珍しく、ちょうど九州方面で始める予定になっていたプロジェクトを井河比呂子とやりたい、と言っているんだ」
私は絶句した。
「もう今日は直帰しましたと言って取り敢えず誤魔化そうと思ったんだが、それなら、どこかで待ち合わせて食事でもしながら話したいと言っている」
「えーっと・・・・」
「だから、君はどこかで女の服を調達して、女の格好で天神まで出てこい。
こちらはしばらく私が応対しておくから」
私は返す言葉を失っていた。
「あの〜、私は男だと言ったら」
「君も私もクビだろうな」
仕方無いので、私はそのまま近所のスーパーに寄り、女物の服を調達した。
こちらは一応女子制服を着ているので、女物の下着などを買っていても不審には思われない。ショーツ、ガードル、ブラジャー、それにブラウスとスカート、パンプス。結構な出費だけど、これ課長払ってくれるよね?
試着室を借りて着替える。女子制服を脱ぎ、その下に着ているシャツとトランクスを脱ぐ。そしてショーツを穿く。ちょっとドキドキ。ガードルを穿いて、変形しやすい突起を抑え込む。
ブラジャーを付ける。何かノリで大きくしちゃったけど、秋の社員旅行の時はどうしよう? これだと男湯に入れないじゃん!
スカートを穿き、ブラウスを着て、パンプスを履く。ここでお化粧をしていないことに気がつく!
でも化粧品買ってたら高そう・・・
ということで、100円ショップで化粧水、乳液、ファンデを買い、コンビニでアイカラーと口紅を買った。チークはいいことにする。うまく塗れないし!なお、アイカラーは若林さんからもらったのがグリーン系だったので違うのがいいなと思いパープル系を買った。
天神まで戻って駅の女子トイレに入り、化粧台(ここは手洗い場と別に化粧台がたくさんある)でメイクをした。数日前に少しならっただけだから、あまり自信は無かったけど・・・・こんなものでいいかなあ。
それから天神まで出てきたことを連絡し、三越のライオン前で待ち合わせた。
「こんばんは」
「こんばんは」
と私たちは明るく挨拶した。
「会長のお孫さんなんて、全然知らなかった」
「いや、あまり知られると面倒だから。ひろこちゃん、普通に付き合ってくれたからこちらもリラックスできたよ」
「一応、こちらの名刺もあげとくね」
と言って慶子は関西総本部長の肩書きの名刺もくれる。
「ふだんは騒がれたくないから肩書き無しの名刺を使ってOLの振りをしてるんだよ」
「なるほど」
私たちは、西通りを少し散歩して、目に付いた洋食屋さんに入って、軽くワインで乾杯した後、コース料理を食べながら彼女の計画について概要を聞いた。
「それってわりと少人数のプロジェクトですよね?」
「そうなんだよ。お金はどーんとつぎ込むけど少数精鋭。だから、ひろこちゃんが信頼できるスタッフ3〜4人と、後は必要に応じて、アウトソーシングとかを請け負っている所を動かして実質的な仕事をしてもらう」
「なるほど。うちの支店内部で話してもいいですか?」
「うん。でもあまり多人数には話さないで。それとこれ女性のみで」
「分かりました」
女性のみで、と言われたけど、既に私、男なんですけど!?
その晩、仕事の話は1時間ほどで切り上げ、その後は先日のサミットのことに始まって、芸能界やファッションなどの話題も入り、ごくふつうのガールズ・トークになってしまった。
慶子との食事が終わった後、一応課長に電話を入れてから帰宅する。
そして翌日、私は何だか開き直って、女装のまま会社に出て行った。
「おっ、女の子ライフに移行する気になった?」
などとナミちゃんから言われる。
「私、このあと自分がどうなるのか、分からなくなってきたよぉ」
そう言って一応いつものように女子制服に着替えた後、麻取さんと山崎さんにちょっと話したいことがあると言って、会議室に入り、昨日慶子から言われたプロジェクトの話をした。
「ちょっと面白い話だね」
「だいたい3〜4人でいいと思うんですよ。中核スタッフは」
「そうだろうね」
「だから、この3人でやりませんか?」
「私は乗った」と山崎さん。
「私もやろうかな。ここで一花咲かせてみるか」と麻取さん。
「でも条件がある」と山崎さんは言う。
「これ、純然たる営業が主だから私服勤務になるよね?」
「ええ」
「ひろちゃん、ちゃんと女の子の服を着なよ」
「まあそれは開き直ることにしました。だって時々慶子さん来るだろうから、男の服は着てられない」
麻取さんが慶子さん、そしてその後ろで動いている本社のCMOとも連絡を取りつつ、福岡支店の支店長や直属の三田課長などとも交渉をしてくれて、年明けから私と麻取さん・山崎さんの3人が福岡支店から独立する形で、同じビルの2階に戦略的営業センターを開設した。
ちなみに私の社員台帳は元々性別女で登録されていたのだが、名前まで比呂子に変えられてしまった!
一応麻取さんにセンター長になってもらい、山崎さんに技術長ということになってもらったが、私も営業課長の肩書きで、実際には私が業務の中心となって、仕事をしていた。私たちは福岡支店の管轄ではなく、本社直属の部署として活動し、春の取締役会で執行役に選任された慶子さんが統括することになって彼女は福岡に引っ越して来た。
そうして私たちの部署は活動を始めた。
私は毎日女子の下着を着け、女性用ビジネススーツに身を包み、お化粧をしてパンプスを履き「井河比呂子」名義の定期券を持って職場に通勤するようになった。なお、私たち3人のロッカーは同じビル3階の福岡支店内の女子更衣室に置いてある。但し私たちはお茶くみはする必要が無い。むしろ必要な場合は3階の女子社員の誰かが2階に降りてきて手伝う。
でもこれって、もしかしてニューハーフ女子社員状態!?
私は万一親に見られたらどうしよう?などと若干の不安を覚えながらも、仕事に日々全力投入した。そして帰宅すると、一応自分のアイデンティティを見失わないように男物の服を着ていたが、男物の服での外出は厳禁と麻取さんからは言われていた。あはは。
こういう時はロックだぜ!
私は愛用のフライングVのギターを掻き鳴らすと、日々の思いを歌に歌うのであった。