【春葉】(3)

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青葉はこの後、年末年始の間は、東京で過ごした。
 
12月31日には福井県小浜市でローズ+リリーのカウントダウンライブが行われ、前座で§§ミュージックの多数の歌手が出場した。また§§プロの桜野みちるが12月31日の関東ドームでラストコンサートを開いて引退したので、§§ミュージックの関係者の多くがそちらにも出席している。
 
青葉はこのイベントにはどちらにも関わっていなかったのだが、ケイ(冬子)に頼まれて、12月30日から1月3日までマンションのお留守番をすることになった。
 
(本当はカウントダウン自体への出演を打診されていたのだが、直前まで青葉自身のスケジュールが不確定だった)
 
それで青葉はこの期間、恵比寿のマンションに泊まり込み、特に31日夜は彪志も泊まりに来て、ふたりで一緒に新年を迎えた。
 
1月2日には今年の震災復興支援イベントも発表になったのだが、ローズ+リリーが出演するというので、ネットでは結構な騒ぎになったようである。夜遅く戻ってきた冬子に尋ねたら、政子の赤ちゃんは2月3日に生まれる、と“フランスにいる千里”(ということは多分千里2)が予言したらしい。2月3日に出産したら3月10日の歌唱は可能だというので予定を入れてしまったという。まあ千里姉がそう言うのであれば、その日程で出てくるのだろう。
 

そして1月3日にはケイのマンションでクロスロードの集まりをしたが、集まったのはこういうメンツであった。
 
冬子と政子、青葉、淳、小夜子と子供たち(あきらは自宅療養中)、あきらの妹・紘さん。若葉と子供たち、紙屋美緒・清紀夫妻と子供。
 
淳はこの所頻繁に東京と仙台を往復しているのだが、この日はたまたま東京に戻っていた。紙屋夫妻は千里や桃香の大学の時の同級生である。2012年1月23-24日に伊豆でおこなったクロスロードの集まりに出席していたらしいが、青葉はこの時は参加していない。
 
ちなみに紙屋清紀さんは女装しているがMTFではなく純粋なゲイ(本人談)らしい。本人は女装の趣味も無いと言っていたが、スカートを穿いて、バストもあるように装い、お化粧もしていて、それが全く不自然さが無い。これで女装趣味は無いというのは信じがたい、と青葉は思った。
 
彼は実際にはバストなど無いものの、男湯に入ろうとすると追い出されるので仕方なく女湯に入ることもある、などと言っていた。彼はゲイで女性には全く興味が無いので、実は男湯より女湯の方が落ち着いて入れるらしい。女湯にはこれまで5回ほど入ったことがあるものの、騒がれたことは1度も無いと言っていた。実際彼を見たら、男っぽさが全く無いので、お股を見ない限り男とはバレないかもという気もした。でもおっぱいはどうしてるんだ??
 
青葉は、丸山アイがこの人のことを知ったら、CBF(女湯に入る会)に勧誘しそう、などと思った。
 

夕方、桃香から冬子に電話があった。冬子はスピーカーモードで受けたので会話が全員に聞こえる。
 
「千里、そちらに居ない?本人の携帯に掛けても全然つながらなくて」
 
「ここには居ないよ。繋がらないって、またバッテリー切れじゃない?あの子の携帯よくバッテリー切れているみたいだよ」
 
「そうなんだよねぇ。困ったもので。でもそこに居ないなら会社かなあ」
「会社?千里、どこか会社に勤めてるの?」
「うん。10月中旬からJソフトに復職したんだよ」
 
へ?と青葉は驚いた。
 
そんな話聞いてないし、だいたい千里1はバスケの練習をしてリハビリをしているほか、ここ2ヶ月ほどは頻繁に仙台に行って、和実の身体のメンテをしているはずだ。千里2も3も多忙なので、結果的には千里1が付いている時間が最も長い。その中で大量に楽曲の編曲作業もしている(まだ作曲には復帰していない)から、会社などに出る時間など無いはずである。
 
「嘘!?全然知らなかった」
と冬子も言っている。
 
「じゃちょっと会社に掛けてみる」
と言って桃香は電話を切った。
 

実際にはその後桃香はJソフトに電話して、“千里”と話し、桃香と一緒に信次のムラーノを使って仙台に移動することになった。
 
ムラーノの後部座席にベビーシートを2つセットし、片方に早月を乗せ、Jソフト近くの二子玉川駅前まで行き、千里を拾った。
 
実際には電話を受けたのは千里の振りをしてJソフトに勤めている《じゃくちゃん》であるが、彼からの連絡で《きーちゃん》は都内のカラオケ屋さんで作曲作業していた千里1を二子玉川駅前に転送し、桃香の車に乗せた。
 
正確には桃香が運転席に居るのを見て千里1は
「私が運転する!」
と宣言し、桃香は助手席に移動した。早月はここまでの数kmの桃香の運転で恐怖を味わっていたようで、千里の顔を見て落ち着いたような表情を見せた。
 
なお、千里1は自分がJソフトに勤めていることになっていることは全く知らない!
 
また、ミラではなくムラーノを使ったのはミラではベビーシートを2つ取り付けることが困難だからである。また桃香は千里がアテンザやオーリスを所有していることを知らない。(アテンザにもオーリスにもブラドにも乗ったことはある)
 

さて、ケイのマンションで、千里が代理母さんに子供を産んでもらっているという話に驚いたのが紙屋夫妻であった。
 
「だって千里、この夏に自分で女の子を産んだばかりなのに」
と言っている。実際、ふたりは千里がその子(緩菜)を連れていて授乳しているところなども見ているらしい。
 
そこから更に、千里と川島さんの結婚は偽装結婚だったのではという話が出る。その証拠に信次と千里が双方署名捺印した離婚届け(2019.2.16付)が存在したと聞き、そんな話は初耳だったので青葉は驚愕する。
 
「そもそも2人は一度も同居してないんだよ」
と若葉は言う。
 
「結婚式をあげた後新婚旅行に行ったけど、新婚旅行先のハワイでは各々別行動していて千里は主としてハイキング、信次さんは主としてショッピングしていたらしい。同じ部屋に泊まっているけどツインの部屋だったらしいから、たぶん別々のベッドで寝ていたんじゃないかなあ」
 
それは急遽上島作品の代替曲が大量に必要になって、千里1も動員されたせいではないかと青葉は想像した。ハイキングしてネタを探すとともに自分をアルファ状態に置いていたのだろう。かなり大量の楽曲を頼まれていたから、たぶん信次さんとHなことをする時間も無く、必死で楽曲を書いていたのではという気がした。
 
「新婚旅行から戻っても信次さんは千葉市内の実家に居て、千里は同じ千葉市内だけど別のマンションに住んでいた」
 
それは千里2が作曲作業用に調達してあげたマンスリーマンションである。
 
「5月に信次さんは名古屋に転勤になって、千里も付いていったけど、信次さんは名駅近くのアパート、千里は熱田区のマンションに住んでいて、一緒には暮らしていないし、信次さんは向こうで知り合った女性と頻繁にデートしていたらしい」
と若葉。
 
嘘!?
 
その話も青葉は初耳だったので驚く。信次さんに恋人が居た!??
 
(青葉が驚いている様子なのを冬子は不思議に思って見ていた。この付近の話が葬儀の場で出た時、そこに青葉も居たのにと思ったのである。しかし実際には青葉は日本代表の合宿でスペインに移動中で、すーちゃんが青葉の代理をしていた)
 

「その恋人だった人ってどうしてるの?」
と美緒が尋ねる。
 
「信次さんが亡くなったショックで会社辞めて関東方面のどこかに引っ越したらしいよ。妊娠していたのではという噂もある」
と若葉。
 
妊娠〜〜〜!? マジ!?
 
信次さんの遺伝子を受け継ぐ子供は、今まさに出産されようとしている子供だけと思ったのに、それが事実ならもうひとりその恋人という人のお腹の中にいる可能性もある訳だ。
 
中絶あるいは流産していない場合であるが。
 
青葉はあまりにも衝撃的な話ばかりで、腕を組んで悩んだ。
 
しかし青葉は少し霊視してみて、その子はその女性の胎内に存在していることを確信した。男の子っぽい気がする。その女性の居場所は若葉が言っていたようにおそらく関東のどこかと思われたが、この時点では正確な場所は分からなかった。
 

青葉はこの時点で川島信次の子供が既に2人(優子との娘・奏音、千里との娘・緩菜)存在していることを想像だにしていなかった。ずっと後に緩菜の父が実は信次だったことを知った千里1は緩菜を泣いて抱きしめたのである。
 
千里1は実際問題としてけっこう信次のことが好きだった。信次と千里が同居していないというのは完全な若葉の誤解で、ふたりは平日は同衾していたし、千里が男役・信次が女役という形でちゃんとセックスもしていた。信次はゲイの女役なのだが、優子と2回、波留と1回、千里と2回、信次が男役になるセックスをしていて、その数少ない男役をした時に各々の女性を妊娠させている。極めて“高打率”の男である。
 

千里1が桃香・早月と一緒に仙台に向かっている時、千里2は同じ仙台で和実が入院している病院に詰めていた。青葉は一応千里2にもその旨メールしておいたが、千里2は「私は和実のそばを離れられないし、そちらは青葉がリモートで頼む」と言っていた。それで青葉は夜通し冬子たちと話しながら、代理母さんが出産のため入院した病院に小紫を向かわせ、彼女を通して様子をチェックしていた。小紫は和実のそばに付いていたのだが、千里2がいるなら大丈夫だろうという所である。サポートのため笹竹を新幹線で仙台に向かわせている。
 
夜12時頃、桃香から青葉に病院に到着したという連絡が入る。青葉は小紫を通じて向こうの様子を見ているのだが、大きな問題は無いようである。安産の雰囲気だが気は緩めない。
 

この日、冬子のマンションで徹夜になったのは、こういうメンツである。
 
冬子、青葉、紙屋美緒、ゴールデンシックスの花野子・梨乃、ローズ+リリーのスタッフの七星・詩津紅・妃美貴、KARIONの美空・小風、XANFUSの光帆・音羽
 
どさくさ紛れに光帆からXANFUSに楽曲をもらえない?と頼まれ、ついOKしてしまったので、松本花子に作らせようなどと青葉は思っている。
 
さすがに明け方は眠くなってうとうととしていたのだが(冬子が毛布を掛けてくれていた)、8時頃千里から電話が掛かってきて、サポートを頼まれたので妊婦さんのヒーリングをした。そして8:58に赤ちゃんは生まれた。女の子で、生前の信次との話し合いで、名前は由美と決まっているということであった。
 
千里1はそのまましばらく仙台にいるということだったので、結果的にはその間は千里1が和実のメンテも主としてすることになりそうである
 

1月6日の午前中、部分日食があった。青葉は和実のメンテと、千里や由美たちの様子見で仙台に来ていたのだが、しっかりこの時間帯は病院の屋上で桃香と一緒に観測した。桃香は子供のようにはしゃいでいた。
 
青葉は日食を見ながら『そうか。“食の季節”(*4)が来ているんだな』と思った。
 
スマホで確認すると、半月後の1月21日には皆既月食があることが分かる。但し起きる時刻はこのようになっている(時刻は日本時間)。
 
12:33 部分食開始
13:41 皆既食開始
14:43 皆既食終了
15:51 部分食終了
 
日本では昼間なので見ることはできない!月食が起きている時間、月は地球の反対側にあるのである。
 
残念!と青葉は思った。
 

(*4)「食の季節(eclipse season)」とは、太陽が黄道と白道の交点(昇交点・降交点:あわせて昇降点という。別名ドラゴンヘッド・ドラゴンテール)の近く(正確には昇降点から15°21′の範囲)にある時期で年に2回程度発生する。太陽と月の黄緯が近いので、この時期の新月(朔)は日食になる。
 
食の季節は約31日間で、1朔望月(29.2-29.8日)より長い。そのためこの間に必ず新月と満月はあるので、日食と月食が1回ずつ起きることが多いが、この期間に新月が2回来た時は2回日食が発生する。なお日食が起きる条件は太陽が昇降点から15°21′の範囲にあることだが、月食はもっと厳しく9°45′-11°40′以下の範囲でなければならない。その期間は最大でも23日である。朔望月より短いので、食の季節の間に月食が2回起きることはなく、1度も起きないこともある。
 
食の季節は約173日ごとに来るので、食の季節が年に3回来ることもある。このため日食は年に最低2回・最大5回発生するが、月食は最大でも3回であり、1度も発生しない年もある。たとえば2002年、2020年は月食が1度も発生しない。月食が3回の年としては最近では1982年。次は2028年である。1982年は皆既月食が3回という月食の当たり年だった。
 
(日食が5回起きた年として最も最近なのは1935年である。次は2206年である)
 
このような事情があるので月食の発生頻度は実は日食の約半分程度である。ただし月食は発生すればその時間帯に月が見える地球上の全ての場所で観測できるが日食が見えるのはごく狭い地域である。そのため一般的な感覚では月食の方が回数が多いような気がしてしまう。
 

Jソフトでは1月4日が金曜日なので、月曜日の7日に仕事始めをした。もっとも大半の社員は年末年始関係無く仕事をしていた。ただし“千里”は1月3日夕方に(代理母さんが)産気づいたという連絡があったので夕方で帰らせてもらい、そのまま4日から6日まで会社を休んだ(桃香たちが仙台に行っているので誰も居ない経堂のアパートでひたすら寝ていた)。
 
7日朝《じゃくちゃん》はいつものように女装して!会社に出て行った。新年の挨拶の後、社長が「川島君」と“千里”を呼んだ。
 
「赤ちゃんはどうなった?」
と社長から訊かれる。
 
「はい。4日に生まれました」
「それはおめでとう!仙台の病院って言ってたけど、もうこちらに戻って来たの?」
「いえ。代理母さんと一緒に一週間くらい入院します。また退院の時は迎えにいきますのでお休みを下さい」
「うん。OKOK」
 
それでデスクに戻り、年末に納品したシステムの資料整理をしていたら、事務の女性社員が
 
「これ来月の慰安旅行の概要ね」
と言ってプリントした紙を配っていた。
 
「へー。日光に行くのか」
「うん。華厳の滝と東照宮を見て、鬼怒川温泉に泊まる」
「ああ、よくあるコースだ」
「忙しい人が多いから1泊が限界なのよね〜。2月9-10日に行って11日は自宅休養」
 
自宅で休養できるとは思えん。たぶん会社に出てきて仕事だな、と《じゃくちゃん》は思った。
 
「ふーん。宿泊は**荘って、これ旅館?」
 
「そそ。ちょっと古い旅館で部屋も狭くて、トイレ・バスは共同だけど、その分料理は豪華だって。大浴場も10年くらい前に大改装してけっこうきれいらしいよ。楊貴妃の湯とか、かぐや姫の湯とか、白雪姫の湯とかあるって」
 
「へー。白雪姫ってお風呂入ったんだっけ?」
「お風呂に入らない白雪姫って想像したくない」
「確かに」
 
と言いつつ《じゃくちゃん》はふと思った。
 
「男湯にも女湯にも、楊貴妃とかかぐや姫とかあるの?」
「まさか。それは女湯だよ。男湯は、司馬遷の湯とか、上杉謙信の湯とか、ナポレオンの湯とかあるらしいよ」
 
なんかそれ微妙に性別の怪しい人ばかりじゃないか?と《じゃくちゃん》は思った。司馬遷は男を廃業させられたし、上杉謙信は女ではないかという疑惑があるし、ナポレオンはセックスが弱かったみたいだし。そこに入ったら男性機能が低下しないか???
 
「私はどっちに入ればいいんだっけ?」
と《じゃくちゃん》は何気なく訊いた。
 
「川島さん、まさか男湯に突撃するつもり?逮捕されるからやめといた方がいいよ」
 
ということは、まさか女湯に入らないといけない!??
 
だったら、俺、逮捕されちゃうよぉ!!!
 

青葉は大学の授業もあるので6日(日)の夕方高岡に戻るつもりだったのだが、日本水連から「話がしたい」という連絡があり、6日の夜中まで和実のそばについていて、7日朝の新幹線で東京に出た。岸記念体育会館の水連事務局まで行く。
 
専務理事さんが出てくるのでびっくりする。
 
「世界選手権25mでの銅メダル、あらためておめでとう」
「ありがとうございます。色々支援して頂いているお陰です」
 
青葉はひょっとして自分の性別のことがまた問題になったのではと不安を覚えていたのだが、そういう話ではないようで安心した。
 
「でも400mメドレーの時も800mの時も、君はビデオ判定の対象になった」
「ええ」
 
「僕もあらためて放送局に頼んで競技のビデオを見せてもらったんだけど、明らかに1つ上の順位の選手より川上さんの方が先にゴールに到達しているんだよね」
「あ、はい」
 
「それなのに川上さんはタッチ板の無い所に手の先を伸ばしていて、そこからタッチ板を探している間に次の選手がゴールしているんだな」
 
「すみませーん」
 
「それで川上さんにはタッチの特訓をしてもらうことにしたから」
「えっと・・・」
 
そういえばそもそもタッチの修行をしてこいと言われて短水路日本選手権に出たのが、一流スイマーの参加する大会に出た最初だったなと青葉は思い起こしていた。
 
「NTCが空いているからそこで特訓してもらおうかとも思ったんだけど、そちらの大学の期末試験も近いんじゃないかという人があって」
 
あ、それは南野里美さんかな?とも思った。お互いの期末試験の時期などを遠征先で話していた。
 
「はい、本来は2月頭が試験なんですが、日本代表の合宿とぶつかるので、全科目レポートに変えてもらいました。でも授業を聞いてないとレポートが書けないんですよ」
 
「それでね。中畑秋菜さん知ってる?」
「はい。もちろん。以前オリンピックにも出られましたね?」
 
「うん。100mと200mの日本記録を持っていた。どちらも今は別の選手に破られたけどね。当時オリンピックで銅メダルを取っている」
「はい」
 
「彼女はもう現役からは引退しているんだけど、今結婚して金沢に住んでいるんだよ」
「そうだったんですか!」
 
「実はこの話を何人かで話していた時、中畑さんが確か北陸に引っ越したはずと言う人がいて、連絡を取ってみたら、コーチ役を引き受けてくれるということで。それで今月、プールが空いている平日に毎日夕方3時間タッチの練習をして欲しい」
 
「はい。でも私のためにそんな大物さんが!?」
と青葉は驚いたが
 
「君はタッチさえ改善したら女子長距離で金メダルも狙える逸材だと思うのだよ」
と専務理事さんは言う。
 
「でも幡山さんもいますし」
 
「うん。彼女にも期待している。ぜひ東京オリンピックの800m女子自由形で日本がメダルを独占出来るように頑張って欲しい」
 
東京五輪〜〜? 私大学出たらもう水泳引退したいのに〜?などと青葉は思いながらも
 
「分かりました。頑張ります。御配慮ありがとうございます」
と笑顔で答えた。
 

それでその日の夕方、金沢市内の市営プールで中畑秋菜さん(現在の苗字は春日)と会ったが、身長が167-8cmくらいで、小柄なのでびっくりした。この身体でオリンピックでメダルを取ったのか。凄いなと思った。先日世界選手権で競った外国の選手たちは女子でも身長が180cmを越えている選手ばかりだった。ジャネはけっこうな身長があるが、青葉は161cmなので、大人の試合に子供が出ているみたいだ、などとジャネは言っていた。南野さんも背が高い。実際中畑さんも
 
「あんたよくその小柄な身体で長距離泳ぐね!」
と驚いていた。
 
まずはプールを往復して来てゴールにタッチしてみてと言われる。手を伸ばした先にタッチ板が無いので探るようにしてタッチする。これを3回やった。
 
「なるほど。君の問題点が分かった」
と中畑さんは言った。
 
「あんたは毎回同じ場所にタッチしている。でもそこにタッチ板が無い」
「あ、そうかも」
 
「下手くそなタッチの仕方が癖になっているから、最初から間違った所に手を伸ばしている。正しいタッチの仕方を覚えて、正しい癖で間違った癖を上書きする必要がある」
 
「なるほど!」
 
「最初は私が補助してあげるから、正しい位置にタッチする練習をしよう。正しい位置を覚えたら、何も考えていなくても正しい場所にタッチできるようになるよ」
 
「分かりました。それを何十回、何百回も練習して身体に覚え込ませるんですね」
「練習は1万回だな。合宿に入るまでの1ヶ月間に」
「ひゃー!」
 

朋子はかなり迷った末、府中優子に電話をした。
 
「こんにちは。私、高園桃香の母ですが」
「あ、どうも、その節はお世話になりました」
 
優子が出産した時、朋子と青葉で彼女を病院に運んだのである。また優子は青葉が大学に入った時、あまりにも服装のセンスが悪い青葉のために、若い子が着るような服を選ぶのに協力してくれている。
 
2015.07 優子がアテンザを雨宮に売却。雨宮は千里の代理で車を探していた。
2016.04 青葉の入学(服選びに協力:千里・星衣良・桃香・朋子が同席)
2016.08 優子の出産(青葉と朋子が協力)
 
「奏音(かなで)ちゃんは元気?」
「ええ。もう走り回るし、最近はよくしゃべるし。もううるさいという感じで」
 
「一度ちょっとお話があるんですけど、お伺いしていいかしら?」
「あ、はい、いつでもどうぞ」
 
それで朋子はその日のお昼前に府中家を訪問することにしたのである。
 

朋子は自分のヴィッツに乗ると、途中イオンに寄りミスドでドーナツを8個買った。それで高岡市南部にある優子の家まで行く。
 
優子のご両親は出かけているということで、優子と奏音ちゃんだけだった。朋子はその方がいいかなと思った。
 
「わあ、ミスド大好きです」
と歓声をあげる。奏音もストロベリー・カスタード・フレンチを取ってほおばっている。その笑顔を見ながら朋子は自分が今から言わなければならないことを思うととても辛い気持ちがした。
 
「あなた信次さんとはいつ最後に会った?」
と朋子は尋ねた。
 
「6月に来たのが最後ですね。あいつも、私には未練は無いけど、奏音には会いたいからと言って。その前は去年の11月だったかな。まあ年に1度くらい来るつもりなのかも知れないなと思ってます。生活費は毎月ちゃんと送ってくれるから、私ものんびりと子育てに専念していられるんですけどね」
 
などと優子は言っている。それで朋子は「ああ、この子、やはり何も聞いていないのね」と思って、悲しくなった。
 
「でもここしばらくメールもくれないんですよ。あいつの性格からして既に結婚は破綻してると思うけど、誰か好きな男でも新しくできたのかなあ」
などと優子は言っている。
 

「あなた、やはり誰からも聞いていなかったのね」
と朋子は言った。
 
「誰からもって・・・何ですか?」
 
朋子は悲しい目をして、信次の会葬御礼のハガキを1枚差し出した。
 
「へ?」
と言って、優子は戸惑うように朋子を見る。
 
「あのぉ、これ何の冗談ですか?」
 
「冗談だったら、いいのだけど、信次さん、7月に亡くなったのよ」
 
優子は最初信じられないという顔で朋子を見た。そしてたっぷり5分くらいすると、涙があふれてきて泣き出してしまった。朋子は立ち上がり優子の傍に行くと彼女をハグした。
 
「嘘でしょ?お願い、嘘と言って」
 
「嘘だと言えたらいいんだけど。工事現場で上から落ちてきた鉄骨の下敷きになってしまって」
 
「そんなぁ・・・・」
 
そのまま優子は恐らく15分以上泣いていた。朋子は彼女をずっと抱きしめていた。奏音はどうしたんだろう?という顔をしている。
 

「でもでも、信次からは毎月奏音の養育費が送られて来ていますよ」
 
「私はよく分からないけど、それひょっとして自動送金が設定されているんじゃない?」
 
「あ・・・・そういえばそんなことを言っていた気がします。でもそれ残高尽きたりしないものなのでしょうか?」
 
「きっと残高が充分あったんでしょうね」
 
朋子は優子に、お墓参りに行かない?と誘った。優子はまだ気持ちの整理はつきそうにないけど、行きたいと言った。それで朋子は翌日、優子・奏音と一緒に千葉まで行くことにしたのである。
 
その日朋子は優子のご両親が帰宅するまで待ち、ご両親にも事情を説明した。ご両親も衝撃を受けたようで、お母さんは泣いていた。お母さんとしては、その内、優子が信次さんと結婚できる日が来るかもと思っていたかも知れないよなあと思った。なお信次が千里と結婚していたことは、さすがにご両親には言えなかった(優子自身は「信次が結婚した」ことは知っているが相手の名前は聞いていない)。
 

その日、優子のことをご両親にお願いしてから朋子は帰宅したが、この件では川島のお母さんにも話をする必要があると思った。しかし自分ひとりで話をする自信が無かった。
 
それでタッチの特別練習から青葉が帰宅すると、相談した。
 
「優子さんの元カレって信次さんだったの!?」
と青葉が驚くので、朋子は
「あんた聞いてなかったっけ?」
と言う。
 
「聞いてない」
と答えてから青葉は言った。
 
「なんか凄く狭い範囲で恋愛やってる気がするんだけど」
「たぶん、同性愛の人たちの世界は狭いんじゃないの?」
と朋子は言った。
 

青葉は千里に今すぐ報せる必要は無いけど、桃香は巻き込んだ方がいいと言った。
 
「桃姉は優子さんの親友だからきっと心の支えになるはずだよ」
「親友ねぇ・・・」
 
親友というより元恋人だよね?とは思ったが、朋子は(仙台に居る)桃香にメールして千里の居ない所からコールバックしてくれと伝えた。それで5分後に桃香から電話があったので朋子はかいつまんで事情を説明するが
「奏音ちゃんの父親が信次さんだったのか!」
と驚いているようだった。
 
明日朋子たちが千葉まで来るのなら自分も行くと言った。
 
それで翌1月13日(日), 大宮で落ち合うことにしたのである。
 
新高岡7:37(はくたか554)10:10大宮 (朋子・青葉・優子・奏音)
仙台_8:20(やまびこ40) 9:58大宮 (桃香)
 
大宮駅で落ち合った時、優子は桃香にハグされて言った。
「桃香、辛いよぉ。今晩抱いてよ」
「いいよ。今晩は一緒に寝よう」
などと言ってキスしているので、朋子たちは見なかったことにした。
 
「ところでどちらが女役?」
「じゃんけん」
 
と言ってふたりはじゃんけんで女役を決めていたが、朋子たちは聞かないふりをした。
 

大宮駅のトヨレンで予約していたエスティマとベビーシートを借り、青葉が運転して首都高経由で(千葉市)大宮ICへ向かう(約1時間)。
 
運転席:青葉、助手席:朋子、2列目:桃香、3列目:優子・奏音
 
ICを降りた後、近くのファミレスで優子と奏音を降ろして取り敢えず待機しておいてもらう。そして朋子・桃香・青葉の3人だけで川島家を訪問した。お土産のお菓子を出してお話しする。
 
話したいことがあるということだけ昨夜の内に桃香が電話しておいたのだが、信次に別の女性に産ませた子供がいたという話に康子は驚愕した。
 
「男の子?女の子?」
「女の子です」
「名前は?」
「“かなで”ちゃんと言うんですよ」
「会いたい!」
 
康子が受け入れてくれる雰囲気なので、優子と奏音を呼び寄せる。青葉がエスティマで迎えに行った。
 
「可愛い!」
と言って、康子はもう“おばあちゃん”モードである。
 
「なんか耳の形が信次に似てない?」
「あ、それは私も思いました」
 

「私、孫が2人も増えて嬉しい」
と康子はニコニコ顔である。それで優子も少しホッとしたようだ。お母さんと揉めたらどうしよう?と不安もあったろう。
 
「今どこに住んでいるの?」
「富山県の高岡市です。実家に居候しています」
「あなた生活費は?」
「信次さんが毎月養育費を送って下さっていたので。実家だから家賃は要らないし、それで何とかやりくりしていました」
 
「だったら、夏以降送金が止まって困っていたでしょう」
 
「それがどうも信次さん、自動送金を設定しておられたようで、7月以降もずっと毎月送られていたらしいです。残高があったんでしょうね」
と桃香が説明する。
 
「毎月送金されていたから、優子さん、信次さんが亡くなったことに気付かなかったんですよ」
「ほんと?ごめんねー」
「2人が付き合っていたこと、誰も知らなかったようですね」
 
「でも残高があって自動送金されていても、いつかは尽きるわよね?」
「と思います」
 
「あなたたちの生活費は私が面倒見るから心配しないで。夫が資産家だったからけっこうゆとりがあるのよ。相場で大失敗してかなり財産を無くしはしたものの、まだ結構残っているから」
と康子は言っている。
 
「済みません!助かります。でもこの子がもう少し大きくなったらパートとかにでも出ようかな」
と優子。
 
「まああまり家に閉じこもっているタイプじゃないもんな」
と桃香は言っている。
 
「もしかして桃香さん、お友達だったの?」
 
「そうなんですよ。千葉で恋人ができて、別れた後実家に戻って赤ちゃん産んだというのは聞いていたのですが、相手が信次さんだったとは、夢にも思いませんでした」
 
「物凄い偶然ね!」
 

「でも翔和に会いに行きづらくなって困ったなあと思っていたら、孫が続けざまに2人できて、私、嬉しい」
などと康子は言っている。
 
「翔和さん、どうかしたんですか?」
と桃香は尋ねた。
 
「太一の馬鹿、浮気3回もして亜矢芽さんに愛想尽かされて、先月離婚したのよ」
 
「え〜〜!?」
 
これには桃香・朋子も仰天した。
 
「浮気3回って、まだ結婚して1年経ってないじゃないですか?」
「私も匙(さじ)投げたわ」
「はあ・・・」
 
「恋人の続かない子ではあったけど、結婚したら落ち着くと思ったんだけどね」
 
と康子は言っているが、桃香は自分が責められているような気がして冷や汗を掻いていた。
 

一息ついたところで、優子は仏檀にお参りをした。青葉が般若心経を唱える。奏音にも合掌させて「南無」と言わせるが、飾られている信次の写真を見て
 
「あ、パパのしゃしん」
と言うので、涙を誘われた。
 
仕出しを取ってお昼を食べ、午後からお墓参りに行くことにする。仕出し屋さんに電話したら、手が足りないので配達までは難しいらしい。それで康子が
「じゃ私が買ってくるよ」
と言って青葉の運転するエスティマに乗って買いに行った。
 
待っている間に優子が尋ねた。
 
「そういえば桃香は、川島家とはどういう関わりがあったの?」
 
優子もあまりの衝撃に聞きそびれていたのだろう。それで桃香は説明した。
 
「その信次さんが結婚したのが千里だったんだよ」
「千里って、桃香の奥さんの千里ちゃん?」
「うん」
 
「うっそー!?」
と優子はマジで驚いた。
 
「じゃ、桃香、千里さんと別れていたの?」
と優子は桃香に尋ねる。
 
「それがさあ。千里としては私ひとすじのはずだったんだけど(桃香的解釈)、信次さんにあまりに熱心に口説かれたのと、仕事上の関わりがあって無碍には断りにくかったのもあって、本人としても流されて結果的に結婚せざるを得なくなってしまったというのが実態みたいで。これお母さんには言うなよ」
 
と桃香は説明した。
 
「なんかややこしそうね」
 
「だから2人は1年間だけ結婚してすぐ別れて千里は私の所に戻ってくる約束だったんだよ。だから2人が署名捺印した離婚届けも存在したんだけど、それを提出する前に信次さん亡くなってしまって」
 
「え〜〜!?だったら契約結婚?」
「だと思う。そもそも2人は一緒に暮らした形跡もない。千葉でも名古屋でも別の所に住んでいた。それどころかデートをした形跡もない」
「デートもしてない!?」
 
「千里、SEの仕事が忙しすぎてデートなんてする時間なかったみたいで」
「ああ。あの業界は大変そうね」
「結婚式の前日まで徹夜で仕事してて。遊ぶ時間とか全くなかったみたいだ」
「式の前日まで徹夜〜?忙しすぎる」
 
「それに千里はレスビアンで信次さんはゲイだからセックスのしようがないだろ?」
「千里さんってネコだっけ?」
「もちろん。何度か男役やらせてみたけど下手くそだったから即男は首にした」
「そうか。だったらセックス不能だね。信次も男役は全くだめだったよ。どうしても逝けないみたいだったからビニール袋かぶせた歯ブラシの柄を入れてあげたらやっと逝ったんだよ」
 
朋子はこの会話にしかめっ面をしている。
 
「でもお母さんが孫を欲しがっていたから、代理母さんに産んでもらうことにしたんだよ。千里は子宮が無いから」
 
「そういうことだったのか。千里さんは今日は来ないの?」
「話がややこしくなりそうだったから今日は連れて来なかった。優子とのこともまだ話してない」
 
「だったら千里さんと私会いたい」
「優子、いつまで千葉に居る?」
「さっきお母さんが今度の日曜の二百ヶ日法要に出てと言ってたから、それまで一週間居るよ。ウィークリー料金のあるホテル取ろうかな」
 
「だったら世田谷区の私のアパートに居ればいい」
「あ、それでもいいかな」
 
「来週中には千里も戻れると思うから、そしたら会わせるよ」
「分かった」
 

この日はお墓参りを終えた後、青葉の運転でいったん経堂のアパートまで行き、そこで桃香に優子と奏音をおろす。それから大宮駅まで行き、レンタカーを返却した。青葉と朋子は北陸新幹線に乗って帰宅する。なお経堂で優子たちと一緒に降りた桃香は翌日朝の新幹線で帰る。この日は経堂で優子たちのお世話をした。
 
「このアパートのスペアキー1本渡しておくね」
「さんきゅ、さんきゅ」
 
その晩は約束通り、桃香は優子と同じ布団で寝た。優子はたくさん涙を流していた。
 

桃香が東京に出てきていた13日(日)に代理母の潘さんが病院から姿を消した。そして病院の医師は月曜日、職権で由美の出生届を出した。父:川島信次、母:空欄、という凄い出生届である。父親欄が空欄の出生届けはわりとあるが母親欄が空欄というのは普通あり得ない。それと同時に千里は由美との養子縁組の届も出した。未成年の養子縁組には親権者の同意が必要だが、自分は由美の父親の妻だから由美の親権者であると主張したのである。
 
むろん窓口ではいったん保留して、戸籍係の人がわざわざ病院まで来て事情を聞いた。それでDNA鑑定書まで見て、由美の父が確かに川島信次であるということに戸籍係の人は納得してくれたものの、由美を産んだ女性についてはかなり強く追及した。女性の住んでいたアパートなども調査したが、解約済みでむろん荷物なども残っていない。つまり行方不明ということである。外務省に照会して13日に仙台空港から上海行きに乗って出国していることまでは判明したものの、その先は追いようが無かった。
 
この出生届を拒否すると、目の前にいる赤ちゃんの法的な状態が宙ぶらりんになってしまうこと、父親の妻が養育の意志を示していることから、仙台市役所では人道的な配慮もした上で、結局、市長決裁で、この出生届を受理してくれた。基本的には“捨て子”(戸籍法57条)に準じた扱いである。市民課の課長さんは医師に今後外国人女性に代理母をしてもらう時は、本人の本国での連絡先まできちんと把握してほしいときつく口頭で注意した。
 
ともかくもそれで由美はいったん由美単独の戸籍が作られた。これで由美は取り敢えず日本国籍を獲得したことになる。養子縁組については裁判所の審判を受けてくれと言われたので速やかに申立書を提出した(実は弁護士と相談の上、もう書いていた)。
 

桃香は月曜日に仙台に戻ると、優子の件を千里に話した。千里は優子の子供の父親が信次だったという話を聞いて驚いたものの、むしろ自分が信次と結婚してしまって、優子さんに申し訳なかったと言い、優子に電話して謝った。優子としては、謝られるのは想定外だったものの、仲良くやっていきましょうと言った。
 
「そういえば名古屋のアパートはガス爆発で滅茶苦茶になったんだけど」
「ガス爆発にあったの!?」
 
「うん。それで爆発跡から回収出来るだけのものは回収したんだけど、その中に信次がよく使っていたバッグがあって。中に女物の衣類とか化粧品が詰まっていたのよ。爆発で化粧品は粉々、衣類も泥だらけにはなってたけど、衣類は洗濯したら割ときれいになった。もしかしてそれ優子さんのかなぁ?」
 
と千里が訊いたのだが
 
「それ信次が使っていたものだと思う」
と優子は答えた。
 
「信次が化粧品や女物の服を・・・・オナニーに使ってた?」
「違う違う。あいつが着てたんだと思うよ」
「信次って女装の趣味があったの!?」
「千里ちゃん、一緒に暮らしていて気付かなかった?」
「全然気付かなかった!」
と千里は言った。
 
実際には千里1がぼんやりすぎて気付かなかっただけなのだが、優子はやはり信次と千里には生活実態が無かったのだろうと解釈した。最後に会った時も信次はタックした上に陰毛が生えそろっていた。つまり長期間男性器は使用していなかった筈である。だから千里ともセックスレスだったのだろうと優子は考えていた。
 
「私にはサイズが合わなくて着られないんだけど、優子さん使う?」
「そうだなあ。記念にもらっておこうかな」
 
それで高岡の優子の家に送ってあげることにした。
 

千里(千里1)は優子には告げないまま、火曜日の朝から新幹線で千葉に出て、川島家で康子に会った。
 
「千里ちゃん!由美ちゃんの方はどう?」
 
「出生届は昨日提出しましたが、いったん保留にされました。明日病院まで事情聴取に来るということだったので今日こちらに来たんですよ。場合によっては出生届けの受理自体について裁判所の審判をやります」
 
「なんか大変そう」
 
「でもこの出生届は受理せざるを得ないんですよ。現実に赤ちゃんがいるのに放置する訳にはいきませんからね。その後で養子縁組の審判になると思います。まあ1年以内には決着がつくと思うんですけどね」
 
「ほんとに大変そうね!」
 

「それでお母さん、ここだけの話なんですけど」
「何だろう?」
 
「優子さんですけど、今毎月10万養育費をもらっているという話でしたけど、多分10万の養育費では足りないんじゃないかと思うんですよ」
「ああ、やはり厳しい?」
 
「桃香から聞いたのですが、優子さんのお父さんが4年前に保証かぶりして多額の債務を抱えておられるんですよ」
「あらぁ」
 
「少しずつ返していっておられるようなんですけど、どうもまだかなり残債があるみたいで。その中で優子さん親子を同居させているのは、結構な負担になっているんじゃないかと思うんですよね」
「うん」
 
「それで単刀直入に。私が資金提供しますから、優子さんへの送金額を倍にしてあげてもらえませんか?」
「でもあんたお金は大丈夫?あんたも由美を育てていかないといけないのに」
「私はお金の使い道がなくて困ってますから大丈夫ですよ」
 
「困ってるの!?じゃ、私が10万、千里ちゃんが10万送る?」
 
「いえ。私が送金するのはさすがに優子さん不愉快だと思うので、あくまでお母さんが送金しているということにしておいてください。資金は毎月私が信次さんの口座に入金しておきますので」
 
「なるほど。分かった。だったら私は信次の通帳と判子と持って銀行に行って送金額の増額をすればいいかな?」
 
「それだと委任状がどうのと面倒な話になりますが、たぶんオンラインから手続きができるんじゃないでしょうか?」
 
「あ、そうかも!じゃ千里ちゃんその手続きしておいてくれない?」
「私は機械音痴、ソフト音痴なので無理です」
 
「あんたシステムエンジニアじゃないんだっけ?」
「こういうのは全然ダメで。関係無い人の所にお金を振り込んだ前科が数回ありますし」
「危ない人ね!」
 
それで結局この作業は太一さんにしてもらうことにした。
 
また増額について優子に電話して話したら、凄く助かるけど大丈夫ですか?と心配していた。
 
「信次の保険金が出ているのよ。そのまま渡してもいいけど、一気に渡すと贈与税取られるし、それにまとめて渡すより毎月送金のほうがいいかなという気もして」
 
「絶対そっちがいいです!私まとめてもらったら多分半年で使い切ります!」
と優子は言っていた。
 

信次が他の女性に子供を産ませていたという話を聞いても太一は驚かなかった。
 
「あんた知ってたの?」
と康子から訊かれる。
 
「千里さんに悪いから言ってなかったけど、子供を作ったみたいな話だけは聞いていた。でもどこの誰かまでは聞いてなかった。養育費とかどうなっているのか心配してたんだけど、自動送金が続いていたのならよかった」
 
と太一は言った。この件は亜矢芽にも伝えておいた方がいいだろうということで、太一から連絡しておくということだった。
 
それでID/PASSはたぶん信次のパソコンに入っているのではというので起動する。起動パスワードを要求されるが太一は
「きっと3286」
と言って入力するとちゃんと起動された。
 
「何か意味のある数字ですか?」
「あいつの生まれた時の体重」
「へー!」
 
それで中を見てみると、My Document内に“P尻”というフォルダがある。
 
「尻はassでpassの意味でしょ」
と太一は言って開く。多数のファイルが並んでいる。縮小アイコンを見ていると可愛い男の子!の写真っぽい物が多数入っている。しかし、太一はその中にqbtt.jpgというプレビューが表示されないファイルがあるのに気付いた。
 
「“pass”の1文字ずらしですね」
 
と言ってダブルクリックしてみるが「このビットマップファイルは無効であるか現在サポートされていない形式です」と表示される。しかし太一は
 
「やはりね」
と言って、メモ帳で開いてみた。
 
アルファベットや数字が並んでいるが、少なくとも読めるようなものではない。
 
太一は少し考えてからスタートメニューからプログラムの一覧を見た。彼は「使えそうなのが見当たらないなあ」とつぶやくと、ネットからsakura editorをダウンロードしてきてインストールした上で、このファイルを開いた。結局UTF-7などというあまり使われない文字コードで書かれたテキストファイルだった。そして多数の銀行・証券会社のid/passが入っていた。
 
「よく開けましたね!」
と千里は感心しているが
 
「このくらいは初歩的なギミックだよ」
と太一は言う。
 
「今時、パスワードを格納したファイルを分かりやすくpassword.txtとかの名前で保存しているような人なんてまさか居ないだろうしね」
と言われたので千里はギクッとした。
 
太一がひとつずつログインしてみると、その中の###銀行の口座に自動送金が設定されているのが分かった。
 

「千里ちゃんこの明細とか見たこと無かった?」
と太一が尋ねた。
「いいえ。私にはログイン自体が無理です」
 
「奏音ちゃんが産まれた翌月の2016年9月から毎月10万ずつフチュウ・カナデ宛てに定期送金されているね」
 
「その金額を増額できます」
「うん。OKOK」
 
それで太一は自動送金を設定してくれた。設定するのに携帯のメールアドレスが必要だったので、太一は千里の携帯に設定した。
 
「でも残高が残り25万円だね」
「だったら、気付かなかったら突然送金が途絶えて優子さん困る所でしたね」
「うん。危ない危ない」
 
千里はこの日の夕方の便で仙台に戻った。そして翌日には区役所の人が病院に来て、千里は色々事情を聴かれたものの、千里の話すことが全然要領を得ないので、結局桃香が大半の回答をしてくれた。
 

「あ、凄い。この宝くじ、100円当たってる」
と宝くじの番号発表を見て気付いた水鳥波留は、夕飯の買物がてら、その券を宝くじ売場に持っていった。スクラッチを1枚買ってから、そのくじ券を出す。
 
「これ100円当たったみたいなんですけど」
 
「はいはい」
と言って、売場のおばちゃんはスキャナを当てる。
 
ギョッとしている。
 
「あのぉ、どうかしました?」
「あんた、これ300万円当たっているけど」
 
「うっそー!?」
 

その日は男装のアクアと女装のアクアが出演する、時計のCFを撮影することになっていて、アクアは葉月および信濃町ガールズの上田雅水とともに都内のプールに来ていた。この日はこの撮影のため夕方以降貸切である。
 
撮影は男子水着のアクアと女子水着の葉月で撮影した上で、女子水着のアクアと男子水着の上田雅水とで撮影して、つなぎ合わせる。事前の打合せではアクアが女子水着になる時は葉月が男子水着と話していたのだが、電通の人が
 
「今井さんに男子水着を着させる訳にはいかないでしょう。アクアさんに身長の近い男性のタレントさんも連れてきてください」
 
と言うので、営業をしていた緑川志穂も「まあいいか」と思い、男子水着になる役として小学6年生の上田雅水を連れてきたのである。彼にとっては電波に乗るのは初めての体験になる。
 
前半、男子水着のアクアと女子水着の葉月で撮影した後、アクアが葉月が着けていたのと同じ柄の女子水着を着けて出てきたのを見て、CFのディレクターは思わず言った。
 
「アクア君、性転換手術してたんだっけ?」
「偽装ですよぉ」
「でも、お股に何も無いように見えるんだけど?」
「隠しているだけです。だいたいさっき男子水着で胸も曝してたじゃないですか」
「いや、胸は大きくせずにとりあえず下だけ取ったとか?」
 
「ボク、女の子になるつもりはありませんよぉ」
とアクアFは言いながらも、やや後ろめたさを感じていた。むろん前半の撮影で胸を曝していたのはアクアMである。
 
その様子を見ながら上田雅水は
「よくあんなにうまく女の子の体型を偽装出来ますね」
と感心したように言っていたが、葉月は
 
『やはりアクアさん、性転換手術しちゃったのでは?』
と内心思いながら、アクアを眺めていた。
 

慈眼芳子本人がちゃんと聞きたいというし、医師は彼女が精神的にかなりタフであるのをこれまでの経過で認識していたので、医師は本人も入れて娘夫婦の前で告げた。
 
「モルヒネを使いましょう」
「分かりました」
と慈眼芳子は静かに言った。
 

桃香と千里は1月18日(金)にムラーノの後部座席に早月と由美を乗せて仙台から東京に戻った。それで金曜日の夜は経堂の桃香のアパート(2DKにひたすら近い1K)で、千里・桃香・優子に、早月・奏音・由美の6人が一緒に過ごすことになった。早月(1歳8月)と奏音(2歳5月)はすぐ仲良くなって・・・うるさかった!でも2人で由美のお世話をしてくれた。
 
早月は桃香と千里の子、
奏音は優子と信次の子、
由美は桃香と信次の子、
 
なので、由美は早月にとっても奏音にとっても妹なのである。しかし早月と奏音の間には血縁関係は無い。
 

1月19日(土)。千葉の川島家で信次の二百ヶ日法要をしたが、これに出たのは下記である。
 
桃香(+早月)、千里1(+由美)、優子(+奏音)、康子、太一、青葉、小林成政(康子の実兄)と妻
 
亜矢芽(+翔和)は一周忌には出たいけど、今回は遠慮するということだった。離婚からあまりほとぼりが冷めてない時期なのであまり顔を見せたくなかったのだろうと桃香たちは判断した。
 
この日は千葉の自宅にお坊さんに来てもらってお経をあげてもらい、その後、予め頼んでいた仕出しでお昼を一緒に食べた。信次が他の女性に子供を産ませていたというのを聞いて、成政夫妻は驚いたものの、
 
「康子、孫がたくさんできてよかったじゃん」
と成政は言っていた。
 
「そうなのよね。子供2人とも結婚には縁が無さそうと思っていたから」
 
「まあ結婚しなくても子供だけ作ればいいのかもね」
などと太一が言うので
 
「あんたまさか、どこかに隠し子がいるとか?」
と訊かれる。
 
「俺の子供は今の所翔和以外には居ないよぉ」
などと言っている。
 
「でもあんた、あちこちでタネ撒いてないの?」
 
「する時はちゃんと着けてるから。亜矢芽の時はやってる内にコンドーム切れちゃってさ。安全日だから生でもいいよと言うからしたら妊娠しちゃって。その晩はもう5回目だったから精液も薄かったと思うんだけど」
 
などと言っている。
 
「薄くても精子が1個でもあれば妊娠の可能性はあるよ」
と成政。
 
「まあ本当は安全日なんてもの自体、無いんだけどね。セックスしたらその刺激で排卵することもあるし」
と康子は言う。
 
「あとあの時、俺二股になってたから、ライバルに勝って俺をゲットするには生でさせてあげてもいいかなと、あの子思った可能性はあると思う」
と太一。
「ああ、実は安全日ではなかったのかも知れないね」
と桃香も言った。
 
「ちなみにあんたが誰か男の人に種を植え付けられるとかは?」
と康子は訊く。
 
「俺は産めないよ!」
「最近は分からないらしいよ」
「それにする時はちゃんと着けてもらったし」
 
「・・・」
 
「あんた男の人ともするんだ?」
「まだ2度しか経験無いよ!」
 
「お母さん、やはり太一さんが赤ちゃん産む可能性もありそうですよ」
 

千里2(選手登録名:キュー)は、19日20:00(日本時間20日4:00)にLFB第13節の試合をして5点差で接戦を制した。先週はキューのブザービーターのスリーで1点差逆転勝ちをしており、2週連続の薄氷の勝利だが、これでチームは4位に浮上した。
 
千里3は19日と20日、旭川で女王サンドベージュとの2連戦をしたが1勝1敗であった。19日にせっかくいい形で勝ったのに20日は奮起したサンドベージュの選手たちに逆に大差をつけられてしまった。湧見絵津子(サンドベージュ)と渡辺純子(レッドインパルス)のライバル同士がゴール近くでの乱戦で激しく接触し、両者エクサイトして2人ともアンスポーツマンライク・ファウルを取られる場面まであった。
 
(2人はふだんは仲良しである)
 
試合が終わった後千里3は
「個人的な用事があるので別行動で帰っていいですか?」
とキャプテンの広川妙子に尋ねた。
 
「ああ、親戚とかに寄っていくの?」
「それもありますが、この後金沢に寄りたいので」
「そういえば新千歳から小松への飛行機があったね」
「はい。でも今回は自分の車を持ってきているから金沢まで走って行きますけどね」
 
「小樽から新潟までフェリー?」
「いえ、海の上を走って行きますよ」
 
妙子は一瞬考えてから
「まあいいや。沈没しないようにね」
と答えた。そして千里が駐車場に駐めた赤いアテンザに乗り込むのを見送った。
 

夏野明宏は1月19-20日、センター試験を受けた。受験会場は金沢大学である。
 
角間の大地に広がる、まだけっこう新しい感じの建物群を眺めて、ああ、ここで勉強できたらいいなあと思った。
 
彼の第1志望は金沢大学人文学類心理学コース、第二志望は富山大学人文学部心理学コースであるが、正直どちらも自分には厳しいかもと思った。
 
届きそうに無い場合は、金沢市内の私立G大学に行くつもりである。ここは北陸の私立大学で唯一、心理学コースを設けているのである。私学で唯一というだけあり、G大の学科の中ではかなりレベルが高いし、県外からの受験者も多い。しかし彼の学力なら落ちることは無い。センター試験の成績で受験できるので願書を出すだけで試験も受ける必要が無い。ただ、ここは(文学部全体で)上位20位以内で合格すれば授業料免除または半免になるのだが、彼はその範囲に入る自信は無かった。
 
彼が心理学を学びたいと思っているのは、自分自身の心の中にずっと矛盾を抱えているからである。心理学コースに来る生徒にはそういう人がわりと多い。
 
試験を終えた後“やや暗い気持ち”でバスで金沢駅前まで行き、駅構内に入ろうとしたところで何かパンフレットのようなものを配っている人がいた。目の前に差し出されるので、なにげなく受け取る。そして歩きながら見たら少しだけ気分がよくなった。
 
《女子学生の皆さんへ。安心出来るオーロック女性専用マンション特集》
 
というパンフレットだった。
 
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【春葉】(3)