【服の下】(1)

目次
 
ボクは体育の時間が嫌いだ。
 
走ると、必ずビリになる。ドッヂボールすると最初にアウトになる。プールでは全然水に浮かばない。みんながボクを笑っているみたいで、暗い気分になる。今日も学校が終わった後で、三角ベースボールに誘われたけど、打席に立てば三振だし、自分のところにボールが飛んでくると確実にトンネル。
 
「もっとしっかりしろよ」
と言われるけど、運動神経の悪さはどうにもならない気がする。
 
運動すること自体が嫌いな訳じゃない。ボクはよく昼休みとかに鉄棒で遊んだりしていたし(逆上がりはできないけど前回りは何度もぐるぐるしてた)、朝飼い犬のチビを連れて散歩に出て、河原を一緒に走るのも、とても好きだ。
走るのは気持ちがいい。
 
でも遅いんだよなあ。
 
「お前、女みたいな奴だな」
というのも、よくクラスメイトから言われる。泣き虫だし、性格も内向的なのは自分でも自覚している。色白だし、腕も細いし、髪もわりと長くしていたから、確かに女の子と間違われることもよくあった。
 
「可愛いお嬢さんですね」
などと母に連れられている時に言われることは日常茶飯事だったし、デパートなどでトイレの場所を尋ねると「あ、連れてってあげる」などと言われて、だいたい女子トイレに連れて行かれていた。
 

その日もちょっと疲れて学校から家に帰ってきた。
 
玄関口でチビに「ただいま」と言ってから家に入る。母は出かけているようである。そのまま自分の部屋に入り、取り敢えず宿題をしてからベッドに横になった。少しうとうとしたかも知れない。
 
「どうかしたの?」という声でボクは目を覚ました。
 
「あ、ユミ、お帰り」
「いじめられた?」
「そんなことないよ。ボク大丈夫だよ」
「ふーん」
 
ユミはボクよりひとつ上の小学4年生だ。「お姉ちゃん」と呼ぶべきなんだろうけど、1つ違いの気安さで、「ユミ」「アキ」とお互いに呼び捨てだ。でも1つ違いではあるけど、ユミは凄くしっかりしていて、ボクは姉をいつも頼りにしていた。
 
「そういう時は、可愛い服を着ると、気が晴れるよ」とユミは言う。
「そうかな・・・」
 
「私の服、貸してあげるから、おいでよ」
と言って、ユミはボクを自分の部屋に招き入れた。
 
いつものようにボクは服を全部脱ぐと、ユミから渡された女の子パンティと女の子シャツを着て、それから可愛いツインキャットのTシャツにピンクのプリーツスカートを穿いた。
 
「鏡を見てごらんよ」
「うん。ちょっと可愛いかな」
 
そこには、可愛い服を着た、長い髪の女の子の姿がある。
 
「ボク、こういう服着るの、けっこう好き」
「その服で学校にも出て行く?」
「えー?お母ちゃんに叱られちゃう」
 
「ふふ。幼稚園の頃はけっこうスカート穿いてお友だちと遊んでたのに」
「うん。でも小学校に入ってからはそんなこともできなくなっちゃった」
「あの頃は、ミクちゃんとか、ルナちゃんとかと仲良くしてたね」
「うん」
 
「アキ、女の子だったら良かったのにね」
「ボク、それ小さい頃からよくみんなに言われてた」
「女の子になりたいとは思わないの?」
「なれたらいいなあ・・・・」
 
「ふふ。でも、私の部屋に来たら、いつでも女の子の服を着せてあげるからね」
「うん」
 
ボクは嬉しそうに答えた。
 

「シュレディンガーの猫、ってよく聞きますがどういうことなんですか?」
 
「ここにとっても遠くが見える望遠鏡があったとします。それで遠くを見たら可愛い女の子が見えた」
「うんうん」
「でもこの女の子は服を着ている。すると、この子は本当に女の子かも知れないけど、女の子の服を着ている男の子、いわゆる男の娘かも知れませんよね」
「まあ、それは両方あり得るでしょうね」
 
「こちらが彼女の服を着ている姿を見ている場合、実際の彼女の性別というのは知る方法が無い。でも彼女が服を脱いで裸になったら、女の子か男の子が明確になります」
「結局、覗きなんですか?」
 
「シュレディンガーの猫というのも似た話でして、箱の中に猫を入れ、放射性物質をセットします」
「あら、放射能を当てるんですか?」
「いえ、中にガイガーカウンターをセットしまして、原子核崩壊が起きたら、このカウンターがそれを察知するようにします」
「はい」
「それでカウンターが反応すると、その時の電気で、毒薬の蓋が開くようになっています」
「あらあら」
「蓋が開くと、毒が箱の中に広がり、猫は死にます」
「まあ、なんて可哀想な」
 
「でも原子核崩壊が起きない限り、猫は生きています」
「ふんふん」
 
さて、この箱を外側から観察すると中の様子は分からないから、猫が生きているか死んでいるかは分かりませんね」
「そうですね」
 
「でも不確定性原理というものがありまして、原子核が崩壊するかどうかというのは確率でしか述べることができません」
「ほほお」
「これは原子核が崩壊しているかどうかが分からないという意味ではなく、本質的に確率でしか記述できないということなんです」
 
「そのあたりがよく分かりませんね」
「はい。そのあたりがいちばん誤解されている点です」
 
「それが猫とどう関わるんですか?」
「つまりですね。原子核が崩壊したかどうかを確率でしか記述できない以上、猫が箱の中で生きているか死んでいるかというのも確率でしか記述できないわけです」
「へー」
 
「不確定性原理というものが物理学の世界で出てきた時、最初はこれはミクロの世界でのみ起きる特殊な事象だと思われたのです。ところがシュレディンガーの猫というのを考えると、本質的に確率でしか記述できないものというのが、実はマクロの世界にも存在することが判明したんですね」
「はあ」
 
「凄いでしょ?」
「いや、全然分かりません。それが最初の男の娘の話とどうつながるんです?」
「ですから、服を脱がせることのできない女の子がいた時、その子が本当に女の子なのか、実は男の娘なのかというのが、確率でしか記述できないケースもあるのではないかと」
「いや、やはりさっぱり分かりません」
 

ボクはユミと一緒にお出かけする時もあった。ボクたちはよく近くの河原を一緒に散歩していた。そんな時、ボクはいつも女の子の服を着ていて、ボクたちは姉妹のようにして歩いていた。
 
「ボク、ユミと一緒にいると寂しくないな」
「アキってお友だちいないもんね」
「時々ミクちゃんやルナちゃんが声を掛けてくれて、一緒に折り紙とかしてる時もあるけど、女の子と遊んでると、また男の子たちに馬鹿にされる」
 
「馬鹿にされてもいいじゃん」
「うん、そうだよね。ああ。女の子になれたら、ミクちゃんたちといくらでも遊べるだろうに」
 
「うん。女の子になれたらいいね」
 
とユミは笑顔で言った。
 

ユミはボクに女の子の服も着せてくれたけど、勉強とかも教えてくれたからボクは学校のテストではいつも90点とか100点とか取っていた。いつしか学校では、ボクはクラスメイトから勉強のことで、いろいろ聞かれるようになり、ボクは「いじめられっ子」を卒業した。
 
またクラスの中で、勉強のよくできる子と、あれこれ話すようになり、それは「友だち」というのとは、少し違うのだけど、昔ほどは孤独ではなくなって行った。
 
その年、数年ぶりに町で花火大会が開かれることになった。学校ではあちこちで、一緒に見に行こうなどと話している子たちがいたが、ボクはそういう話を斜め後ろの方で聞くだけで、そのどのグループにもかかわらず、ひとりで学校を出た。
 
花火大会か・・・・浴衣とか着て見に行けたらいいなあ・・・ 
そんなことを思いながら、家に帰ると、その日は先にユミが帰っていた。
 
「ねぇ、アキ、一緒に花火大会見に行こうよ」
ボクは顔がほころんだ。
 
お母さんには「9時までに戻る」というので、見に行く許可を得た。
 
「あんたひとりで行くの?」
「ううん。ユミと一緒に行くよ」
「ふーん。連れがあるのならいいか」
 

ボクはユミの部屋に行くと、いつものように服を全部脱ぎ、女の子の下着を着せてもらってから、その上に可愛い金魚の柄の赤い浴衣を着た。ユミも花柄のピンクの浴衣を着る。ふたりで手をつないで家を出た。
 
ゆっくりと会場の方に向かって歩いて行くが、その途中で花火は打ち上げ始められた。
 
「きれいだねー」
 
ボクたちはそれに見とれながら、更に歩いて行く。やがてかなり人が多く集まっている所まで来たので、ボクたちはそこで座って見ることにした。
 
「そうだ。これあげる」
と言ってユミはボクに可愛い黒猫のストラップをくれた。
「わあ、ありがけとう」
 
「あ、ちょっとトイレに行ってくるね」
と言ってユミは席を立つ。
 
その直後、前の方から歩いてきた女の子ふたり組がボクに声を掛けた。
 
「あれ〜、もしかしてアキちゃん?」とミク。
「うん」
「可愛い浴衣着てる!」とルナ。
 
「えへへ。こういうの好きなんだ」
「いいと思うよ! 学校にも女の子の服着てきたら?」
「それしちゃおうかなと思ってた所」
「あ、やはり女の子の服持ってるんだ」
「よくスカートとかも穿いてるよ」
「やはり、アキってそういう子だったのね」
 
ふたりはボクのそばに座り、3人で花火を見ながら、いろんなお話をした。
ふたりとこんなによく話したのは数年ぶりだった。
 
あ・・・やはり、友だちっていいなあ。
 
ボクはほんとに何年かぶりで「友だち」という言葉を使った気がした。
 

あれからずっとずっと長い時間が経って、私は今大学生になっている。
もちろん「女子大生」として学校には通っている。専攻は看護学で、作業療法士の資格も取るつもりである。別途カウンセラーの資格なども取るつもりで、学外の講習に行っている。
 
高校時代には自分のようなのがそういう資格を取っても働かせてくれる所あるかなと悩んだものだが、不安がっている私を高校の先生が大学まで連れていき、事前面接に近いことをしてもらったのだが、むしろ私のような人にカウンセリングして欲しいと思っている人たちが大勢居ると大学の先生に言われて、この道に進むことを決めた。
 
私は小学4年生の2学期からずっと女の子の服で学校に通い、中学高校も女子制服で押し通した。身体も既にもう男の子ではない。
 
携帯が鳴る。親友のミクからの電話だ。
 
「あ、女子会するの? おっけーおっけー。土曜日の15時ね。うん。
了解、了解。あ、ファミレスの後、カラオケにも行こうよ。うんうん」
 

電話を切って、携帯をたたむと、黒猫のストラップが揺れた。
 
ふとこれをくれたユミのことを思い出す。私は心理学もたくさん勉強したから、ああいうのを「イマジナリー・フレンド」というのだということも知っている。
 
イマジナリーフレンドを持っている人って、感受性の強い子供の中には結構いるらしい。でもだいたい思春期頃までにはその存在を認識できなくなってしまう。ただ希に、解離性同一性障害(いわゆる多重人格)の人の中には20代の頃まで、イマジナリー・フレンドが存在し続ける人もあるらしい。
 
でもユミは自分にとって「イマジナリー」というもの以上の存在だったよなと思う。小学生のあの時期、ユミという存在がなかったら、私は生きていられなかったかも知れない。
目次