【女たちのベビーラッシュ】(上)

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2017年12月1日 1:51AM.
 
浜田小夜子は、あきらとの間の4人目の子供《えりか》を出産した。
 
これがそれから1年半ほどにわたる《ベビーラッシュ》の始まりであった。
 
あきらは、この子の人工授精をおこなった3月10日の時点では、もうおちんちんは立たないものの、頑張ると何とか射精することはできたので、その精液で人工授精して妊娠したものである。
 
現在あきらは既に射精もできない状態になっているので、もうこれがふたりにとっての最後の子供ということになる。
 
友人たちからは
「精子冷凍保存しておかなくていいの?」
と結構言われたものの
「自然に任せたいから」
とふたりは言った。
 
「人工授精は自然の内なのか・・・」
「男から出てきたものを女の中に入れただけだし」
「あきらさんって男なんだっけ?」
「かつて男だったものかな」
「ふむふむ」
 

「この子も無事産まれて私たち4人の子持ちになったし、あきらはもう射精できないし、性転換手術受けていいよ」
と小夜子はあきらに言った。
 
「いや、別に私は性転換するつもりはないし」
とあきらは言う。
 
そもそもあきらはいつもスカートを穿いていて、セミロングの髪でお化粧もしていて、どう見ても女性美容師にしか見えないのに、自分は男だし、女装もしていないと主張している。ただ混乱防止のためトイレは女子トイレに入るようにしているようだ。実はお風呂も男湯に入るのは不可能でここ数年、女湯にしか入っていない。
 
「遠慮することないんだよ。性転換しても離婚したりしないから」
「私は今の身体が気に入っているし」
「だって、役に立たないおちんちんはもう取っちゃえばいいんだよ」
「いや、おちんちん要るから」
「使ってない癖に。そもそもこれ放置しておくと、おちんちん萎縮して、ヴァギナの材料を確保できなくなるよ」
「あれって、ヴァギナの材料なの?」
「もうそれ以外の意味は存在しないね」
 
小夜子に唆されて、あきらはかなり心が揺れていた。
 

12月3日。冬子・政子の大学時代の友人で、最近は冬子の楽譜係もしている北川博美(旧姓南野)が最初の子供を産んだ。博美は2016年10月9日に結婚していた。
 

12月11日。この日は《千里2》は生理予定日だった(前回は11月13日に来ている)が、生理は来なかった。
 
ありゃ〜。まさか妊娠したかな?と思い、生理予定日から使用できる妊娠検査薬を買ってきて試してみると、確かに妊娠反応が出た。自分で予定日を計算してみると、2018年8月20日になる。
 
「もう貴司ったら、節操が無い。なんで奥さんでもない人とセックスする訳〜?私も、愛想尽かしちゃうぞ。でも今妊娠したら、秋に産めないじゃん!」
と千里2は文句を言った。
 
『だけど千里、もしワールドカップの日程にぶつかっていたらやばかったよ』
と《きーちゃん》が言う。
 
ワールドカップは2018年9月22-30日にスペインで行われる。
 
『出産後2ヶ月で世界大会か。京平を産んだ時よりはマシかな。あれは出産の一週間後にユニバーシアードやったから』
『全く千里も超人だね〜』
と《きーちゃん》は呆れるように言った。
 

2018年1月4日朝。
 
都内の病院で、千里や桃香の大学時代の友人・滝沢朱音(旧姓岡原)が男の子を出産した。
 
朱音の出産に立ち会ったのは、夫の爽也、双方の両親、朱音の妹、爽也の祖母、そして朱音の親友の桃香・千里・美緒らであった。実は出産の直前まで紙屋清紀も随分お世話をしてくれたのだが、
 
「爽也君は理解してくれるだろうけど、男の僕が居たら爽也君のご両親が戸惑うだろうから、出産の時は遠慮するよ」
と言って出て来ず、何かあったら呼んでとだけ言っていた。
 

「女装すればいいのに。清紀の女装は全く不自然さが無い」
と千里や美緒は言ったが
「女装で出歩くのはボクのポリシーに反する」
などと言っていた。
 
彼の女装をたくさん見ている千里たちは
「何を今更!」
と言ったのだが。
 
彼は学生時代から「ボクはゲイであって女の子になりたい気持ちはない」と主張している。もっとも美緒によると、彼のタンスの中身は7割が女物らしいし、家の中ではふつうにスカートを穿いているらしい。
 
もっとも清紀は
「スカートを穿くのと女装は違う」
といつも言っている。
 

この時期、桃香は生まれて半年ちょっとになる早月を抱えていて、この日も早月を抱いたままの立ち会いになった。いよいよ産まれそうという時に、分娩室の中で手を握ってあげてと言われ、ひとりは朱音の妹さんが入るが、もうひとり爽也が遠慮して「高園さんお願いします」と言ったので、桃香は早月を千里に預けて中に入った。
 
爽也としては男の自分が居るより、出産を経験している友人が居た方が心強いだろうと思ったからと後で言っていた。
 
朱音は初産でもあり、いよいよという状態になってから時間が掛かっているようで、ふたりが中に入ってから30分ほど経ってもまだ生まれてこない。その間に早月がぐずったので、千里は最初用意していたミルクを哺乳瓶で飲ませていたものの、それでも泣きやまないので、とうとうその場で乳を出して早月に乳首を含ませた。するとぐずらなくなった。
 
「千里、授乳室に行って来る?」
と美緒が言うが
「平気、平気。授乳は別に恥ずかしいことではない。そもそもおっぱい出てないから授乳ではないし。でも乳首を咥えているだけで安心するみたい」
と言って、堂々とその場で授乳?している。
 
「いや、私たちの子供の頃までは、女の人はみんな普通に人前でおっぱいあげていたんですけどね〜。いつから恥ずかしがるようになったんでしょうね」
と爽也の祖母は言っていた。
 

「だけど千里のその授乳の姿が様になっている」
と美緒。
 
「私も子供産んでいるからね。でも、うちの子はおっぱい卒業したからもうお乳は出ないんだよね」
と千里は笑って言った。
 
「そちらはお子さんいくつなんですか?」
と爽也の母が訊く。
 
「今2歳半ですね。2歳の誕生日をすぎて2ヶ月くらいまでおっぱい欲しがっていたんだけど。少しずつ自立心が出てきたみたいで、おっぱい飲むのは恥ずかしいと思い始めたみたい」
 
と《千里2》は答えた。
 
「男の子?女の子?」
「男の子です。何にでも興味を持つから、ヒヤッとすることもありますよ」
「怖いですよね〜」
 

ところでこの日1月4日からは今年の《全日本バスケットボール選手権大会》4次ラウンドが、さいたまスーパーアリーナで開かれていた。
 
今年度からこの大会は次のように4段階で行われている。
 
1次ラウンド:各都道府県で2017年8月末までに実施。各都道府県1チームだけが勝ち上がる。
 
2次ラウンド:9.16-18に全国3ヶ所に集まって行われる。全国で15チームが勝ち上がる。
 
3次ラウンド:11.25-26に全国8ヶ所で行われる。2次ラウンドを勝ち上がったチームとWリーグの12チームが参加する。8チームが次のラウンドに進める。
 
4次ラウンド:2018年1月4-7日にさいたまアリーナで準々決勝・準決勝・決勝を戦う。
 
千里が所属するWリーグのチーム・レッドインパルスは3次ラウンドから参加し、順調に神奈川会場で優勝して本戦出場を決めた。千里がこの大会に出るのは5回目になる。昨年まではこの最終決戦には32チームが参加して、1回戦・2回戦・3回戦・QF・SF・決勝と行われていたのだが、今年からはQF以降だけがお正月に行われることになった。
 
本戦では今年も《千里3》の活躍でレッドインパルスは順調に勝ち上がっていき、千里は個人でも5度目のスリーポイント女王を獲得した。5回出場して、5回ともスリーポイント女王になったことで、特別表彰の話もあったらしいが、千里3は
 
「じゃ10回取れたら頂きます」
 
と言って、今回の表彰は辞退した。
 

ところで“千里”はこの時期、川島信次と婚約中だったのだが、実際にはSEの仕事が忙しすぎて、ほとんどデートができない状態であった。千里は信次の支店の独自システムを作っていて、本来は年内に納品するはずだったのだが、本社のシステムが変わることになり、それに合わせる必要から、12月になってから大きな仕様変更が決まって納品は1月中旬に延期された。それで《千里C》は年末・年始全く寝る暇もない状態で働き続けた。
 
「きつーい。もう今すぐ辞めたい」
と“彼”が言うのを
「ごめんねー。今年中には何とか辞表を受け取ってもらおうね」
と《千里B》はなだめていた。
 
「ところで俺はさすがに信次君と結婚できないから、結婚はちゃんと千里本人がやってくれるよな?」
「大丈夫だよ。千里は、結構彼のこと好きだから、ちゃんと自分で結婚すると思うよ」
と《千里B》は言う。
 
「ここだけの話だけど、千里はもう貴司君のことはいいの?」
と《千里C》は訊く。
 
「京平とのつながりがあるだけで千里としては充分なんじゃないかな。貴司君のことは思い切ることにしたんだと思う」
と《千里B》。
 
「まあいいけどね」
「せいちゃんに性転換してお嫁さんになってとは言わないから」
「それ絶対拒否するからな」
「ふふふ。でも女の子生活も悪くないと思ってるでしょ?」
「女の裸見ても平気になったけど、平気になってしまった自分が怖い」
「もうふつうの男の子には戻れないかもね」
「いやだ。これ以上の女装生活の継続は嫌だ」
 
「バスケの方も復活させたいけど、結婚式が終わってから少し落ち着いてから練習を再開するように勧めてみる」
と《千里B》は言った。
 
「最近あまり練習してないみたいだけど、どうなってるの?」
と《千里C》は心配する。
 
「レッドインパルスでは今、籍としては1軍に入っているけど、事実上2軍選手扱い。4月からは正式に2軍登録になると思う。頑張って日本代表にも復帰させたいけど、年齢的にも厳しいからなあ」
 
と《千里B》は言う。千里は今度の3月で27歳である。どうしても24-25歳の選手が優先されるだろう。
 

山吹若葉は中田政子(ローズ+リリーのマリ)に「冬(ケイ)に内緒の相談がある」と言った。それで2人は月山和実がオーナーをしている仙台のメイド喫茶クレールで会った。ここはいつも音楽が流れているし、通常2階席は一般客には開放していないので密談に便利なのである。
 
「若竹(なおたけ)もそろそろ手が離れ始めたし、そろそろ3人目の子供を作ろうかなと思っているのよね」
と若葉は言った。
「いいんじゃない?でも誰から精子をもらうの?」
と政子は訊く。
 
若葉の長女・冬葉(かずは)は中学時代の陸上部のチームメイトである野村治孝、長男の若竹(なおたけ)は和実の元同級生・紺野吉博という人から精子をもらっている。どちらも人工授精である。
 
「それでさ、3人目の子供の名前は、男であっても女であっても、こういう名前にしようと思うのよ」
と若葉は言い、次のように書いた。
 
《山吹政葉・ゆきは》
 
「政の字を『ゆき』と読むんだ!」
「そういう読み方は存在するんだよね〜。で、その許可を政子からもらおうと思って」
 
「私の名前から1字取る件?」
「それもある」
「ほかには?」
「政子、精子くれない?」
「うーん。。。。残念ながら私は精子は持ち合わせてないなあ」
 
「だったら代わりに冬子の精子を使ってもいい?」
「冬も精子は持ってないけど」
「今は持ってないけど、過去には持っていた時期があるのよね」
「・・・まさか」
 
「政子には言ってなかったのかなあ。冬子が去勢するかどうか悩んでいた時期にあの子を唆して、精子を保存してから去勢しちゃいなよと言ったのよね」
「へー!」
「それで4回、精子の採取をして、それを冷凍保存したのよ。その後で、男性器はおちんちんもたまたまも除去したんだよ。私が秘密に手術してくれる病院を紹介してあげた」
 
「そうだったのか!」
と政子は驚いたように言った。
 
「だからその後は偽物のおちんちんで親には誤魔化していたみたいね」
と若葉は言う。
 
「やはりね〜。あの時期まだ男の子の身体とは思えなかったんだよね〜。おちんちんいくら触っても大きくならないし」
「偽物なんだから大きくなるわけない」
「なるほどなるほど」
 
「それで冷凍保存の時、私が冬子の婚約者を名乗って、一緒に採精したんだよ。あの子自分ではどうやっても立たないとかいうからさ。実際射精させるのにかなり苦労したよ。当時でも」
 
「それいつ?」
 
「高校1年の時。だからまだローズ+リリーもKARIONもできる前だよ」
「じゃ、やはりKARIONでデビューした時は既に女の子になってたのね?」
「もちろん。男の身体で女の子アイドルになれる訳無い」
 
「やはりその段階で性転換していたのか」
「だからその精子は私と冬子の共同所有物なんだよ。それを使って妊娠したいんだけど、それにはやはり冬子のパートナーである政子の許可が必要だと思ったのよね」
 
「私は構わないよ。冬が若葉とセックスして妊娠するのなら抵抗があるけど人工授精なら全然問題無い」
 
「ありがとう」
「冬の許可はもう取ってるの?」
「書類を偽造して、冬には言わずに妊娠しようと思う」
「うん。それも別に構わないと思うよ。何ならその書類、私が書いてあげようか?私、冬そっくりの筆跡でサインできるし、冬が常用している認め印も押してあげるよ」
 
「わあ、それは助かる。頼もうかな」
「悪いことの相談は任せて」
 
「これで子供3人できたら、それで打ち止めにしようと思う」
「だったら、余った精子は?」
「念のためあと10年くらい保存しておこうかな」
 
「だったら、私にも1本くれない?」
と政子は言った。
 
「いいけど、何するの?」
「私も妊娠しようかな」
「契約とかは大丈夫?」
「27歳になるまでは結婚と出産はしないという口約束をしている」
「口約束か!」
「契約書の書類上では制約は無い」
「だったらもう大丈夫だね」
「うん。今制作しているアルバムが落ち着いたら、人工授精しようかな」
「だったらその時は言ってね。精子出してあげるから」
「うん。よろしく〜」
 
実際には若葉は2月になってから人工授精を実行した。また政子は6月になって人工授精を実施した。
 
政子が人工授精をする直前、冬子は長年の恋人であった木原正望との婚約を発表した。政子としては冬子を横取りされた気分だったので半分はそれに対する一種の意趣返しで、半分は自分と冬子との関係を永遠のものとするため、冬子の子供を妊娠することにしたのである。
 

2018年1月21日(日)、貴司は妻の阿倍子と離婚した。
 
昨年秋に知り合った美映が貴司の子供を妊娠してしまい、彼女に結婚を迫られたことから、阿倍子に土下座して離婚してもらった。2013年8月9日に結婚してから4年5ヶ月ほどの結婚生活であったが、ふたりの関係は実際には京平が生まれた2015年6月頃から冷え切っており、寝室も別にしていた。特にここ1年ちょっとの間は度々阿倍子が京平を連れてマンションを出る事態も起きていた。
 
慰謝料は1000万円で京平の親権は阿倍子が取り、貴司は京平が20歳になるか、20歳時点で大学に在学していた場合は22歳になった翌年3月まで、毎月10万円の養育費を払うことで同意した。阿倍子は篠田の苗字に復することにし、京平も篠田京平となった。
 

阿倍子は慰謝料をもらった時点で、これまで所有権をめぐって揉めていた実家の家屋・土地について、その揉めていた相手に慰謝料でもらった1000万円を支払うことで、実家の所有権は阿倍子にあることを認めるという念書を書いてもらう交渉を成立させた(法的にはそもそも阿倍子の母・保子のものとして登記もされていた)。
 
そこで阿倍子は4年5ヶ月過ごした吹田のマンションを京平と一緒に出て、神戸の実家に引っ越すことにしたのである。この時、阿倍子は荷物をまとめるのに困ってしまった。阿倍子には友だちと言っていいほどの友だちがないので、最初は貴司が手伝ってくれていたのだが、途中で喧嘩してしまう。それで貴司は
 
「代わりに人を呼ぶ」
と言って出て行く。代わりにやってきたのは《千里1》であった。
 
阿倍子は不快感を顕わにするが、千里は近い内に結婚することにしたので来たくなかったが、京平の顔見たいでしょ?と言われてやってきたと言った。実際、それまで阿倍子の精神状態がかなり悪化していたことから泣いていた京平が、千里の顔を見た途端泣き止んだ。
 
結局この荷造りは阿倍子と千里1の協力で、何とか仕上がり、引越屋さんが来るのに間に合ったのであった。
 

貴司は離婚の半月後、2月3日(土)夕方16:50、妊娠させてしまった恋人・三善美映との婚姻届を提出した。ちなみに2/3 16:06 - 2/4 6:46はボイド時間帯である。この時間帯になったのは《千里2》の司令を受けた《きーちゃん》による工作活動のせいである。なお、ふたりは結婚式は挙げていないし、指輪も交換していない。婚姻届を出して記念写真を撮っただけである。
 
貴司に遅れること3日、2月6日(火)友引 9:05、千里1は川島信次との婚姻届を区役所に提出した。これは新婚旅行のため、「川島千里」名義のパスポートを取っておきたいので早めに提出したものである。
 
実際の提出は、音楽関係の制作の仕事で東京に出てきていた青葉がやってくれた。ちなみに2/6 3:45 - 12:56 はボイドである。青葉は1年前の“増殖前夜”の千里との約束に基づき、わざとボイド時間帯に提出した。
 
婚姻届は約1週間で戸籍に反映され、すぐにパスポートを取得し、そのパスポート番号を旅行代理店に伝えて、川島信次・川島千里名義のハワイへの往復航空券、現地ホテルの宿泊クーポンが発行された。
 

2018年2月25日(日)、冬子の姉・萌依は、小山内和義との第2子、清代歌(きよか)を出産した。第一子の梨乃香(りのか)は2015年6月18日に生まれている。
 

2018年3月17日(土)友引、千里1は川島信次との結婚式を挙げた。これに出席したのは、信次の側は会社の同僚や親戚20人くらい。千里の側は、Jソフトの山口社長、矢島課長、ほか同僚3人、大学時代の友人である朱音と美緒、桃香と青葉、そして千里の母と妹と美輪子叔母夫妻である。
 
千里1はバスケット関係の友人をこの結婚式に呼ばなかった。千里1としては昨年後半、自分がまともにプレイできない状態が続いていて、そのことで責められそうな気がして、彼女たちを呼ぶ勇気が無かったのである。
 
「アジア選手権の直前に調子落として申し訳無かったよなあ」
と独り言のように言う。
 
それで実際、バスケ関係の友人たちは千里が結婚したことをしばらく知らないままになっていた。この時期の千里1はひじょうに後ろ向きになっていた。
 
なお、翌日の3月18日には、信次の兄・太一も亜矢芽と結婚式を挙げた。
 

3月19日(月)。東京地検特捜部は政府閣僚をも巻き込んだ巨額の不正土地取引疑惑に基づき、東京都議のTを逮捕したが、同時にそれに絡む人物として、作曲家の上島雷太を含む数人も逮捕した。
 
上島雷太は年間1000曲の楽曲を書き、数百人の歌手に歌わせていた。テレビ番組にもいくつか出ており、また様々な音楽イベントの審査委員や監修にも名前を連ねていた。
 
そのため、日本のポピュラー音楽界に強い衝撃が走る。
 
取り敢えず上島が名前を連ねていた楽曲の発売が全て中止になり、既に発売されているCDの回収、オンラインストアでの公開停止の処置が行われた。ちょうど春休みの時期でツアーをしている歌手も多かったが、多くの歌手が急遽セットリストから上島の曲を外した。しかし、ほとんどが上島の曲であるという“上島ファミリー”の歌手は歌う曲が無くなり、ツアー自体を中止せざるを得なくなる。
 
また上島が絡んでいた曲をCMに使用していた各社は急遽そのCMの公開を中止した。その代替曲を用意するまで、CMが流せない事態になる企業もあり、経済界からも悲鳴があがった。
 
また上島が絡んでいたイベントの審査員や監修に他の作曲家を当てざるを得なくなり、その確保に関係者は走り回った。既に収録済みの番組については急遽上島が映っている部分を編集でカットする作業が行われた。
 
これらの損害額はどう見ても数十億円に達するのではないかと言う芸能記者もいた。しかし実際には1桁違っていたのである。
 

この大騒動が起きていた時期、千里1は信次とハワイに行っていたものの、千里2と《きーちゃん》はこの問題の対策で雨宮先生や、紅川さん、浦中さん、鈴木さん、町添さんなどとともに、奔走していた。
 
実際に“醍醐春海”や“鴨乃清見”の名前で、審査員や監修を引き受けたものもかなりあった。突然大量のCM曲が必要になり、ストックしていた楽曲を20曲ほど放出している。過去に出した楽曲を手直しして再利用したものも30曲ほどあった。これらの楽曲の編曲作業は音楽大学の学生を大量動員してやってもらっている。この時期音楽大学の学生には“特需”が発生していたし、優秀な学生は取り合いになっていた。
 
結局上島雷太は月末には証拠不十分で起訴猶予になり釈放された。実際には上島自身はこの取引には全く関わっておらず、T都議が上島の名前を借りておこなっていたものであることが判明した。
 
しかし道義的な責任はあるとして、日本作曲家協会の会長が上島に無期限の音楽活動停止を言い渡し、上島は記者会見を開いて、全て自分の不徳の結果であるとして、その処分を受け入れることを表明した。
 
そして国税当局は上島雷太に数十億円の重加算税を課した。
 

4月に入ってから、◇◇テレビの響原部長が音頭を取って、国内の多数の流行音楽作家が集まり、上島雷太の“代替問題”で会議を開いた。
 
上島が謹慎になった結果、今まで彼に楽曲をもらっていた歌手たちが困っているので、代わりに楽曲を提供して欲しいという趣旨なのだが、上島が書いていた楽曲が年間1000曲という、あまりに非常識なものであるため、とても代替は無理という空気が会場を支配した。
 
多くの作曲家の年間作曲数は10-20曲程度。多い人でも30曲程度である。
 
響原部長はこの機会にあまり売れていない歌手は引退させると発言。その分を除いて500曲程度を何とかしてもらえないかと訴えた。実際、あまり売れていない歌手にも、上島は「いつか売れる時もあるよ」と励まして楽曲を渡してあげていたのである。
 
それで実は上島の作品は楽曲数としては凄まじく多いものの、セールスとしては、ローズ+リリーのケイ、醍醐春海、後藤正俊、田中晶星などのほうが上を行っている。この5人は実は別名義で書いている作品も異様に多い。
 

この会議には新婚旅行から戻ったばかりの千里1が出席した。その他、実は《きーちゃん》も作曲家・琴沢幸穂(ことさわ・さちほ kotosawa sachiho, 実は細川千里のアナグラム)のマネージャー資格で出席していた。実際この日の会議には本人が多忙なので、マネージャーやバンドメンバーが代理出席している作曲家も多かった。
 
結局この会議で千里1は30曲くらい引き受けてもいいと表明することになる。千里はいわゆる「埋め曲」の天才で、歌詞さえ誰かに書いてもらえば、それに“理論”で曲を付けてしまうことができる。歌詞は大学生とかにたくさん書かせると新島さんは言っていた。
 
そして冬子(ケイ)はその場では明言を避けたものの、300曲くらい頑張ってみると町添さんに伝えていた。
 

2018年4月4日。千里1と信次は仙台の産婦人科に行き、体外受精を行った。これは“元男の子であるため子供が産めない”千里に代わって、桃香から卵子を採取し、それに信次の精子を受精させ、代理母を引き受けてくれることになった中国人女性の子宮に投入したものである。
 
この時期、千里1は昨年7月の事故の後遺症で、自分が卵巣や子宮を持っていて、京平を産んだこと自体を忘れていた。
 
5月14日(月)。信次が名古屋支店に転勤になり、千里もJソフトでの最後の仕事を仕上げてから退職。翌日、名古屋に移動した。ふたりは1Kのアパートで慎ましい暮らしを始めた。
 
『やっと、辞めさせてもらえた。疲れたぁ』
と実際にその最後の仕事を仕上げた《千里C》は言った。
 
『1ヶ月くらい湯治しておいでよ』
と《千里B》こと《きーちゃん》は言う。
 
『そうさせてもらおうかな。貴人は休まなくていいの?』
『私は秘密のミッションを実行中だから、まだ休めないのよ』
『大変だな!』
 
昨年7月の事故以降、眷属達は千里(千里1)とコネクションが取れない状態になっていた。千里2・千里3の存在は、《きーちゃん》と《くうちゃん》以外は知らない。ただ《すーちゃん》も口には出さないものの、薄々気付いていたようである。
 

2018年6月3日(日)大安。
 
ローズ+リリーのケイこと冬子は、長年の恋人である木原正望との婚約を発表した。この発表にあたって、ケイは多方面に挨拶をして回り、その了承を得て発表している。しかしファンの間ではふたりの関係は以前から公然のものとなっていたので、多くのファンが祝福してくれた。
 
ただいつ結婚式を挙げるかについては、この日は発表しなかった。それはケイが現在、上島雷太が書いていた作品の代替で大量の楽曲を書いている最中であるため、全く時間が取れないためである。
 
それでケイは仕事が一段落した所で挙式日程は発表しますと言ったのだが、その発表はその年も翌年も無かった。世間では実は破局したのでは?という噂まで飛び交うほどであった。
 

ケイが婚約発表をした翌月曜日。
 
政子は密かに人工授精を実行した。これに立ち会ったのは友人という立場で同席した若葉のみである。
 
ケイがあちこちに挨拶してまわって了承を得てから婚約したのに対して政子は冬子にさえ、そのことを言わずに人工授精をした。順調にいけば来年の2月に子供は生まれるはずである。その子の父親については、この時点では政子は冬子にも言わず、若葉と2人だけの秘密にするつもりでいた。但し若葉は冬子にだけは言った方がいいと言っていた。
 

2018年6月15日、冬子の古くからの友人・礼美が3人目の子供を出産した。彼女は大学生時代、ひたすらバイトに明け暮れていて、大学を卒業した後はすぐにママになってしまった。
 
バイトは学費稼ぎのためにやっていたのだが、結果的には就職もしていないし、そもそも授業にもほとんど出ていないので、何のために高い学費を払って大学に行ったのか、全く分からない人である(むしろ、よく卒業できたものである)。
 

7月3日(火)。ローズクォーツの所属事務所でローズ+リリーとも委託契約を結んでいるUTP(宇都宮プロジェクト)の古くからの事務員・桜川悠子(冬子たちと同学年)が長女・美季を出産した。
 
この時点で悠子は結婚していたのであるが、年末には離婚してしまい、シングルマザーとして美季を育てることになる。
 
悠子は、そのことをずっと後まで伏せていたのだが、実はUTP社長の須藤美智子と、ロック歌手・百道良輔の間の子供である。つまり美季は須藤社長の孫なのである。悠子は2月頃まで産休をもらっていたが、悠子と美季の生活資金は全部美智子が出していた。
 

ところで信次は元々恋愛関係のテンションが長続きしない人である。これまで1年以上恋愛関係を維持できたことがない。なお、彼は男性同性愛者だが、男っぽい女性は許容範囲である。
 
当初千里に惚れ込んでしまったのは、当時Jソフトの“千里”を演じていた、《千里A》《千里B》《千里C》の内、実際には中身は男で女装しているだけの《千里C》の魅力にハマってしまった部分が大きい。むろん実際にデートしていたのは《千里A》=《千里1》であり、千里Aは信次に本気で惹かれていた。
 
ふたりは実際には仕事が物凄く忙しいことから、初期の頃はほとんどデートができていない。ところが1月中旬にシステムが納品された後は結構な頻度でデートするようになる。
 
その中で信次は「これじゃない」感を強めていく。
 
この背景には、千里Aが信次にサービスしてあげようと思い、ことさら女らしく振る舞っていたのに問題がある。千里が元男性と聞いて、信次は千里に男らしさを期待していた。しかし実際にたくさんデートしていると、千里があまりにも女らしいので、熱が冷めてきてしまったのである。
 
信次は実は女性恐怖症なので、あまりに女らしい人の前では萎えてしまう。それで実は当時、デートしていてもセックスがうまくできないことが相次いだ。結合しても射精できないし、どうかするとそもそも立たないこともあった。
 
千里はやはり自分に女らしさが足りないのかなと考え、過剰なまでに女らしさを演出する。すると信次はますます萎えてしまう。信次は破綻の予感を感じ始めていた。
 

しかし千里とは法的に結婚してしまったし、千里の友人の卵子を借りて代理母で子供を作るというのまでしてしまった。今更別れてとも言えないし、友だち感覚でやっていこうかなと思い直した。千里は友人としてやっていく分には、わりとフィーリングも近く良い友人である。
 
信次は多くの男性がするように妻である千里に銀行口座のカードや通帳は預けず現金で「今月の生活費ね」といって毎月渡していたが、実はそれは毎月10万円も自分の子供を産んだ優子に養育費として送金していたからである。これを千里に知られないよう、毎月15万円ほどのお金を現金で千里に渡していた。しかし実は千里はこのお金は全く使わず別口座にそのまま放り込み、自分の収入で食糧や衣服などを買っていた。千里は年収が数億円あるので、夫の収入に頼る必要が全く無いのである。
 
そういう意味でも実は千里は結婚相手として理想的だったのだが、信次はそのことに最後まで気付かなかった。
 

一方、信次は5月に名古屋支店に転勤してから、理想の恋人を見つけてしまった。
 
彼女は水鳥波留といって、生物学的に女性ではあるが、宝塚の元男役であった。彼女は全ての仕草が男らしく、それに信次はハマってしまったのである。波留は最初「奥さんのいる男性と交際できない」と言ったものの、信次は女房とは別れるから付き合って欲しいと口説いた。
 
ふたりは土日の度に逢瀬を重ねた。
 
信次の会社は基本的に土日の出勤は禁止である。しかし信次は千里に「休日出勤する」と偽って家を出ては、波留と会っていた。
 
信次は波留に男役をしてくれるよう頼んだ。彼女は最初は戸惑ったものの、これなら妊娠しないしと思って応じた。波留も男役は初体験ではあったが、これ何だか楽しいと思い始めていた。
 
しかし7月1日(日)仏滅にデートした時、波留は言った。
 
「私、たまには女役もしてみたいな」
 
それで信次もまあそれもいいかと思い、この日は何度か信次が男役をした。女の子とのセックスで男役をするというのは、以前付き合って子供も作った優子とした時以来だなあ、と信次は思っていた。
 
ふたりはふだん、信次が女役なので、避妊具など使っていなかった。それでこの日も避妊具を持っていなかった。しかし波留は「昨日生理が収まったばかりだから、今なら生でやっても妊娠しないと思う」と言って、ふたりは生で結合した。
 
信次はここの所、千里とのセックスが不成立に終わり、もう1ヶ月くらい射精していなかった。それでこの日は物凄く濃いのが出た。ちょっとやばいかなと思ったものの、生理が終わったばかりならさすがに安全だろうと思い直した。
 

そしてその僅か3日後、信次は死亡した。
 
直接の原因は建設現場で巨大な落下物に押しつぶされたことであるが、死後、信次の遺体を司法解剖した医師は、彼が深刻な膵臓癌におかされていて、事故に遭っていなくても、少なくとも1ヶ月以内に死亡していたであろうと語った。
 
信次と結婚したのが《千里2》か、せめて《千里3》であったら、信次の病変に気付いていたのだろうが、あいにく《千里1》は当時霊感を完全喪失していたので、気付くことができなかったのも不幸であった。
 
浮気性の貴司にマジで愛想を尽かし、信次との愛に生きていこうと思っていた千里1は突然の彼の死に茫然自失の状態になってしまった。実際千里1はそれから1ヶ月半くらいのことを全く覚えていない。
 

信次の遺体は千葉に運んで千葉の実家で葬儀を行うことになった。葬儀には高岡から青葉も駆けつけて来て、実際問題として千里が廃人同然の状態になっていたことから、千里は名目上喪主になったものの、実際には青葉・太一の2人が話し合って法事を進行させていた。
 
信次の死の一週間後、太一の妻・亜矢芽が男の子・翔和を産んだ。息子の突然の死にショックを受けていた康子も、初孫・翔和の誕生に救われるような思いであった。
 
なお本当の康子の初孫は実は2016年8月に産まれた信次と優子の子供・奏音(かなで)なのだが、この子の存在を康子たちが知るのは、かなり先のことになる。
 

7月29日(日).
 
ローズ+リリーのマリは多忙なケイに代わって単独キャンペーンで仙台を訪れていたのだが、途中で気分が悪くなり退席する。その時の様子がどうも・・・なのでひとりの記者が質問した。
 
「ひょっとしてマリさん、妊娠なさったということは?」
「あ、はい。予定日は確か3月だったかな」
 
それで大騒動になった。夕方からの2度目のキャンペーンには急遽ケイが仙台に赴いて出席したのだが、マリはケイと入れ替わりに東京に帰ってしまったので、ふたりはこの日は会わずじまいになった。
 
それで
「ケイさん、マリさんのお腹の中の子供の父親はやはり噂のあるNさんですか?」
と訊かれて、それまで政子の妊娠のことを全く知らなかったケイは困ってしまう。その日は曖昧な答えに終始した。
 
ケイがマリから、その子の父親のことを聞くのは1週間後になり、ケイは自分が父親と知って仰天することになる。
 
政子はこの時、冬子が去勢手術を受けた前夜に1度だけセックスした時の精子を冷凍保存しておいて、それを使って妊娠したのだと説明した。
 
その精液の存在は冬子は実は知っていたのを知らないふりをしていた。しかし冬子はその精液は破棄されていたと考えていた。それで政子がそのことに気付かないうちに、高校時代に若葉と一緒に冷凍保存した精液のアンプルを1本転送しておいたのである。
 
だから冬子は、政子が妊娠に使ったのは高校1年の時に冷凍した精液だろうと考えた。
 
その推察は結果的には当たっていたのだが、実際に政子がこの時使用した精液は、冬子が転送した精液ではなく、若葉が政子に提供してあげたアンプルである。
 
冬子の精液は、政子が1個、若葉が4x2個(内1x2個は冬子が転送)、奈緒が1個所有していたのだが、みんな冬子本人には告げないまま勝手に使用している。
 
結果的に冬子は4人の子供の父親、1人の子供の母親となるのだが、それはもう少し先の物語である。
 

2018年8月3日。青島リンナとその夫で後に中田政子(マリ)の恋人にもなる百道大輔との間の子供、夏絵が生まれた。
 
大輔は直前まで
「俺は子供生まれてもロックしかしないから、赤ん坊はお前ひとりで育てろよ」
 
などと言っていたので、リンナもその覚悟でいたのだが、実際に生まれてみると物凄い可愛がりようで、本当は子煩悩であった所を見せた。
 
この人って世間に見せているマメで真面目な気質と、自分を含めてごく親しい人にだけ見せる、少し乱暴でいい加減な気質の、どちらが本当の気質なのか、よく分からないと、リンナはその様子を見ながら思いつつも、幸せな気分であった。
 
なお、百道大輔は桜川悠子の父・百道良輔の実弟である。
 
従って夏絵は悠子の従妹になり、悠子が先日産んだ美季は夏絵の従姪である。
 
無軌道で何度も逮捕歴があり、多くのレコード会社にそっぽを向かれている良輔に対して、大輔は品行方正な歌手として、世間では見られていた。お酒もタバコも吸わず、毎日10kmのジョギングをして粗食という生活で、何度も自然派雑誌に取材されたことがある(リンナもそういうロハスな生活スタイルは大好きである)。
 
良輔はかなりお金に困っていたが大輔は兄の無心を一切拒否して、絶対にお金を貸さないようにしていた。
 

千里1が大変なことになっている時期、実は千里2も千里3も海外に出ていた。8月下旬、まず千里2が帰国する。状況は《きーちゃん》から聞いていたものの、自分の分身が打ちひしがれている様子を《きーちゃん》が撮影してくれていた動画で見て、直接慰めてあげたい気分であった。
 
『あの子と合体してひとつになるのは、今は無理だよね?』
と《きーちゃん》に訊く。
 
『あの子に霊感が戻るまでは無理。どうしてもあの子が霊感を取り戻さなかった場合は、あの子をヨーロッパかどこかにでも旅に出して、千里3が成り代わる手もあるけど、千里3は千里1や2の存在を知らないから、あれこれ矛盾が吹き出す』
と《きーちゃん》。
 
《きーちゃん》は敢えて曖昧な表現をしたが、このままにしておくと、千里1は消滅してしまうのでは?と《千里2》は思った。
 
『千里3じゃなくて私が合体する訳にはいかないの?私なら混乱を避けられるよ』
と千里2は言う。
 
『合体の順序は1+3が先。その後2が合体して元の1人に戻る。2のパワーが凄まじいから、エネルギーレベルが違いすぎて合体できないんだよ。1+3することで、2と合体できるレベルに近くなる』
と《きーちゃん》。
 
『私、3人まで行かなくても2人くらいいる方が仕事が進むんだけど』
と千里2は言う。
 
『千里も完璧にワーカーホリックだね』
と《きーちゃん》は呆れるように言った。
 
『でも千里1と3が合体した場合、記憶はどうなるの?』
『両方の記憶が残るよ。千里はそういう状態を問題無く処理できるはず』
『運動能力は?』
『強い方に合わせ付けられるはず。だからセミプロレベルの千里1ではなく、日本代表レベルの千里3の運動能力が残る』
 
『普通の記憶はプラスで運動能力はorで上書きかぁ』
『大脳と小脳ではシステムが違うから』
 
『私と3が合体した時は運動能力は3優先?』
『ドリブル能力とかレイアップシュートとかは2の方が強い。スリーだけで言えば3の方が圧倒的に強い。だからレイアップとかは2の方が残って、スリーは3の方が残るはず』
『だったら、私スリーの練習は放置して、レイアップとかの練習頑張った方がいい?』
『千里って、わりとクールだよね?』
 

『ところでさ』
と千里2は訊く。
 
『本当に神無(かんな)を妊娠しているのは誰な訳?』
 
『千里1だよ。2や3ではバスケット活動ができないでしょ?3は男の娘だから、そもそも妊娠できないし。それで美映の身体の中に千里1の女性生殖器が入っていて、美映の女性生殖器は一時的に千里2の中に入っていて、千里2の生殖器が千里1の身体の中に置かれている。出産が終わったら元に戻す』
 
『面倒くさいことしてるね!』
『美映を処女のままにしておくためだよ。だから神無が受精した以降、信次さんとセックスしていたのは実は2の女性器』
『それ私、浮気したような気分』
 
信次のことが好きだったのは千里1だけである。
 
『千里は別に処女でもないから構わないだろ?』
 
『日本の伝統的な貞操の概念ってわりとそうだよね。未婚者は男性との性的な接触を避けなければいけないけど、誰かと結婚した後は、夫以外の男性とセックスしてもわりと許容される』
 
『そうそう。ただしバレない範囲でね』
 
『でも私もhCGの値が高いよ』
 
『血液やホルモンは3人共通で流れていて混じり合っているからね。千里1があの状態でも今何とか生きていられるのは、千里2や3が健康な身体と精神で実質1を支えているからだよ』
と《きーちゃん》。
 
『私も彼女の支えになってあげられているのであれば、少し心の負担が減るよ』
と千里2は言った。
 

8月21日(火)が信次の四十九日であったが、実際の四十九日法要は19日(日)に行われた。この時点でも千里1はまだ顔に表情が無く、お人形さんのような状態で喪主を務め、実際には青葉や康子が実質喪主の役目を務めていた。
 
23日(木)。千葉の川島家を(女性の姿の)羽衣が訪れた。
 
昨年7月、千里(千里1)が死んだのは、クロガーとの戦いで危機に陥った羽衣が千里からパワーを借りようとして、うっかり全生命エネルギーを引き出してしまい、エネルギーがゼロになってしまったためである。
 
しかしその時は小春が自分の生命エネルギーを千里に融通したことで千里1は蘇生することができた。但し千里1が死んだ時、千里1が持っていた霊感や眷属たちとのコネクションも全部消えてしまった。
 
羽衣はこの件で千里の師匠である出羽の美鳳からひどく叱られ、千里の霊的な能力を修復することを約束した。ただ完全修復には2年くらいの時間が必要であると羽衣は言った。
 
この日羽衣が千里の所に来たのは、美鳳に頼まれて千里を神無(仮名)の出産に立ち会わせるためであった。美鳳は千里と美映の生殖器を交換して、美映の体内に埋め込んだ千里の生殖器が妊娠していると考えていたので(実際には大神様の手によってもっと複雑なことが起きている)、妊娠している本人をその場に連れていく必要があったのである。
 
美映が入っている病院に着いた時点で、羽衣はこれまで千里に掛けていた“仮の天羽衣(あまのはごろも)”を取り外すと、この1年間彼が頑張って修復していた“本来の天羽衣”を着せてあげた。この結果、千里は並みの霊能者レベルの霊的能力を回復することになった。この後の“天羽衣”の修復は、千里がそれをまとったままの状態で継続する。
 

千里1が羽衣に促されて病院内に入って行くと、貴司が廊下で待っていた。貴司が千里と会ったのは、約1年ぶりであった。阿倍子離婚の時は、電話では話したが直接は会っていない。こんなに長い間ふたりが会わなかったのは高校3年の時以来であった。
 
それまで心ここにあらず状態だった千里(千里1)であるが、貴司と会話している内に調子が出てきて、かなり自分を取り戻すことが出来た。そして赤ちゃんの産声が聞こえ、看護婦さんが廊下に出てきて「女の子が生まれましたよ」と告げた時は思わず喜んで、ふたりはキスしてしまった。
 
美映の状態が安定してきた所で彼女に見られないように、千里は病院を出た。この時、千里は羽衣から、産褥パッドを付けるように言われた。そしてふと考えたら、あの付近が物凄く痛いことを認識する。
 
後産まで終わった所で、美映と千里の生殖器が交換されたのである。この作業は羽衣が大神様の端末となることで実行された。
 
この後、千里1は最低限の精神力を回復させ、地元の体育館に行ってはひとりでバスケの練習をしたりもするようになる。
 

この日の性器交換の結果、美映の身体の中には千里2の生殖器、千里1の身体の中には本来の千里の女性生殖器が格納されることになる。
 
(但し美鳳や羽衣は、美映の体内に本来の彼女の生殖器が収まったと思っている)
 
この結果、当時貴司は『千里以外とはセックスできない』という呪い!が掛けられているため、美映とセックスはできないものの、性的なイチャイチャをしていた時に貴司が触っていたのも、実際には千里2の性器である!
 

ところでこの時生まれた赤ちゃんは最初、お股におちんちんが見当たらなかったので、てっきり女の子と思われ、看護婦さんは廊下で待っていた貴司たちに「女の子ですよ」と告げた。それで千里(千里1)は貴司に
 
「貴司、今度は女の子のパパになったね」
と言ったのだが、その後、この子の性別が問題になった。
 
この子のお股をよくよく観察すると、どうも女の子のお股とは少し違うような気がしたのである。それで医師がその付近を指で触ってみていた所、小さなおちんちんがあって、それが肌の中に埋もれていることが分かった。近くを触っていると、睾丸らしきものも体内に発見された。
 
それでこの子は男の子で、停留睾丸、しかもペニスも小さくて肌の中に埋もれていたことが判明したのである。そのペニスが埋もれて小さな凹みを作っていたのが、陰裂のように見えたのである。
 
これが判明した時には既に千里(千里1)は帰ってしまっていたので、千里1は貴司の2番目の子供はてっきり女の子だと2年後まで思い込んでいた。
 

さて、千里と羽衣がアテンザに乗って千葉に戻っていった後、それと入れ替わるようにミラが病院のそばまで走り寄っていた。
 
助手席に乗っていた人物は降りて行き、病院の中に入っていったが10分ほどで戻って来た。
 
そして
「作業完了」
と言ったので、運転席に座る《きーちゃん》はミラを出発させた。
 
この作業は、2017年正月に、千里が小春と約束したことに基づいて、それを千里2から《きーちゃん》に依頼し、実行されたものである。
 

さて、この時生まれた子供の名前は、女の子なら環菜(かんな)、男の子なら秋緩(あきひろ)という名前にしようと、貴司と美映は話し合っていたのだが、この子の性別問題を考えて、ふたりは悩んだ。
 
「この子、確かに生物学的には男なのかもしれないけど、もしかしたら本人は女の子になりたいと思うかも」
と美映が言った。
 
「だったら、男女どちらでも使える名前にしておいた方が無難かもね」
と貴司も言う。
 
それで秋緩と環菜を合成して緩菜(かんな)という名前にすることにしたのである。性別については悩んだのだが、医者が
「普通に男で届けていいと思いますよ」
と言ったことから、男児として出生届を出すことにした。
 
千里(千里1)は貴司から、子供の名前は「緩菜」にしたと聞いたので、当初女の子が生まれた時の名前として用意していた「環菜」から字を変えたのかなと思い、まさか男の子であったとは思いもよらなかった。
 

ところで、緩菜が生まれてからすぐ、病院では血液型の検査をしたのだが、緩菜はRH(-)AB型であった。
 
ところで貴司はRH(-)B型、美映はRH(+)O型である。
 
つまり2人の子供としてはあり得ない組合せなのである。
 
RH(-)とRH(+)の親からは、RH(+) RH(-)どちらの子供も産まれることがある。しかし、B型の親とO型の親からAB型の子供が産まれることはありえない。
 
これが母親がB型で父親がO型というのであれば、母親が浮気して他の男の種で妊娠した可能性がある。そういう場合、病院側は敢えて触れないでおく。しかしO型の母親がAB型の子供を産んだとなると大問題だ。
 
病院側は他の赤ちゃんの検体と誤った可能性を考え、緩菜の血液型を再調査したが、間違い無く緩菜はRH(-)ABであった。病院は取り違えの可能性を考えたが、普通の男の子・女の子なら、取り違えの可能性もあるが、停留睾丸の男の子なんて、他にはいない。(念のため入院中の全ての赤ちゃんのお股を確認した)
 

病院側は詳細を告げないまま、検査のためと称して貴司と美映の口腔内から粘膜を取らせてもらい、それで病院の費用でDNA鑑定を行った。その結果、貴司と緩菜の父子鑑定は99.99%以上の確率で「親子である」と出て、美映と緩菜の母子鑑定は「親子である可能性は0%。親子ではない」という結果が出た。
 
それで医師は貴司に「お話があります」と言って呼んで尋ねた。
 
「失礼ですが、そちらではお子様を作られる時に体外受精とかなさいましたでしょうか?」
 
すると貴司は京平のことを訊かれたのかと勘違いし
 
「ええ。妻の卵子がどうしても育ってくれなかったので卵子を友人から借りたんですよ」
 
と答えた。
 
それで医師はホッとしたのであった。
 
体外受精なのだったら言っておいて欲しい!と思いはしたものの、自分たちのミスとかではなかったことから病院側は安堵した。
 
ここで医師たちは貴司と前妻の間に、別の子供がいたことを知らなかったのでその「体外受精」で緩菜が生まれたものと勘違いしたのである。
 
それで病院側は何事も無かったかのように、美映と緩菜を退院させた。なお、停留睾丸については、大きな病院を受診した方がいいと言って、紹介状を書いた。
 
 
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